打越氏(内越氏)は、清和天皇及び物部氏族熊野国造系和田氏を源流とし、南北朝の動乱を契機として、河内(甲斐)源氏流小笠原氏(本姓源氏)と楠木正成の弟又は従弟・楠木正家(本姓橘氏)とが姻戚関係を結んで発祥した氏族であり、戦国時代、小田原征伐、関ケ原の戦いなどを契機として出羽国由利郡で勢力を伸ばし、1系統17流(本家3流、分家14流)の系流に分かれながら日本全国へ進出して行った同祖同根の氏族です。現代に残る限られた古文書等から、その歴史的な事跡を明らかにします。

歴史絵巻 打越家伝 ~目次~

f:id:bravi:20180211152747j:plain
 
第1部 打越(内越)氏の出自について
  第1巻 打越(内越)氏の発祥
    第1段 総論
  第2巻 打越(内越)氏の系流
    第1段 総論
  第3巻 打越(内越)氏の家紋
    第1段 総論
第2部 打越(内越)氏の歴史について
  第2巻 打越(内越)氏の合戦
    第1段 総論
第3部 打越(内越)氏の日記について
第4部 打越(内越)氏にゆかりの場所について
  第2巻 楠木氏にゆかりの場所(前史)
  第3巻 打越(内越)氏にゆかりの場所
巻末
  家系図
 
【注意】
☞ 文中で「(注〇)」と記載している部分は、その直前に記載されている内容に関する補足説明を後述していることを示し、各段又は各節の末尾に記載している注釈番号に対応しています。
☞ 文中で「(参〇)」と記載している部分は、その直前に記載されている内容に関する出典根拠があることを示し、このWEBの巻末に表記している参考文献番号に対応しています。
☞ 打越氏と内越氏とは同族ですが、豊臣秀吉から下賜された本領安堵御朱印状には「打越」と記載されています。また、打越氏(内越氏)の惣領家が、江戸幕府に提出した家系図には「打越」と記載されていますので、便宜上、このWEBでは内越氏を含む意味で打越氏と表記しています。
☞ 巻末の家系図は、紙片の都合から袖書きを記載しておりません。詳しい家系図を調べたい方は、巻末の参考文献などをご参照下さい。
☞ 第4部第3巻第3段等では、電子書籍には含まれていない写真等も掲載しています。なお、プライバシーの配慮に欠ける点がございましたら、何卒、ご容赦下さい。ご一報を頂ければ、写真等を削除します。

はじめに

 古から「人は氏より育ち」と言いますが、そうは言っても、自分の出自(氏族の歴史)に関心を抱かない人は少ないと思います。日本では平安時代遣唐使が下火になると中国から渡来した「漢字」(真名)とは別に、より平易な「仮名」が誕生して日本独自の文化(物語や和歌等)が華開いて、公家や武家ばかりではなく庶民にも広く浸透しました。これによって寺社等における庶民への「仮名」教育が活発になり、来日したキリスト教宣教師も驚いたと言われるとおり、世界でも有数の高い識字率を誇る国になりました。このような歴史的な背景のもと、様々なことが公式の記録に留まらず、手紙、日記や落書等の文字で記録され、それが大量の古文書等として後世に残されることになりました。しかし、紙媒体は保管が困難で、公家や大名家でもなければ完全な形で家系図等が残されている例は少なく、また、古文書等は矛盾や誤謬等に彩られ、又は諸説に分かれて判然としない部分も少なくありませんが、そのような問題ばかりに拘泥し、歴史の闇に心を奪われていては、永遠に歴史を語ることはできません。そこで、現存する古文書等のうち、図書館、郷土史料館やインターネット等を利用して閲覧が可能な古文書とそれに基づく学術書や市販書等を調査し、ある程度の裏付けがとれた情報に加え、それだけでは足りない部分については歴史ロマンを膨らませながら、大凡、このとおりであろうというレベルで打越氏(内越氏)の家譜をまとめました。
 小職は歴史学を専門的に学んだ経験がない素人であり、歴史事実を見極める詰めの甘さから、軽率な物言いなどが目立ち、諸兄姉の失笑を買う可能性を否めませんが、それでもなお、打越氏(内越氏)の末裔が自分の出自を調べたいと思ったときに、多少の手掛りや慰めとしてお役立て頂ければという想いから公開に踏み切る決意をしました。あくまでも、そのような趣旨で公開するものであり、学術的に価値のある研究等に資することを目的とするものではなく、また、生業の傍ら調査に割くことができる時間も限られており、いい加減に始末(断念)せざるを得なかった問題も少なくありません。当然に確認しておくべき古文書等も十分に調べ尽くせていないのが現状ですが、天から与えられている時間には限りがありますので、このWEBに含まれている誤謬等は、打越氏(内越氏)の末裔や好事家の皆様による歴史事実に迫る真摯で批判的な検証に期待し、それら有志の皆様のご厚意に甘えたいと考えております。今後も、可能な限り、新しく判明した事実に基づいてこのWEBの更新を試みたいと考えておりますが、何か誤謬等がございましたら、小職までご一報を頂ければ幸甚に存じます。
 最後に、小職の未熟な調査にお付き合い頂き、不躾なお願いにも快く応じて下さった各地の図書館司書、郷土史家、寺院・霊園関係者や打越氏(内越氏)の末裔の皆様に対し、この場を借りて心から感謝を申し上げます。なお、このWEBは、電子書籍BOOK☆WALKERGoogle Play ブックス)でも頒布しております。
 

2018年10月2日

後醍醐天皇即位700年、北畠顕家生誕700年、明治維新150年、そして小職生誕50年を記念して

打越 武志(楠木同族会会員

 
【補遺】
このWEBは、小職が個人的な歴史認識に基づいて執筆したものであり、その全部又は一部が楠木同族会としての見解を示すものではなく、楠木同族会とは一切の関係がないことをお断りさせて頂きます。 
 
 
第5版の公開にあたって
 
 2018年10月2日にこのWEBサイトの初版を公開してから3年が経過しましたが、折しも、テレビ番組や雑誌等において名字の由来に関する特集が目立つようになり、空前の名字ブームと呼ぶべきような社会現象が続くなか、当初の予想に反して、打越氏(内越氏)の末裔のみならず数多くの方にこのWEBサイトをご愛読頂く機会に恵まれました。また、国立国会図書館、各地の県立図書館や地方図書館、大学図書館等に本書が蔵書され、このWEBサイトを公開した当初の目的を概ね達成できたことは、一重に読者及び関係者の皆様のご理解及びご尽力による賜物であり、この場をお借りして心から感謝を申し上げます。
 この3年間、数多くの方のご協力により、打越氏(内越氏)の家譜に関する調査が進捗し、どこまでが分かり、どこからが分からないのか、その輪郭が明確となってきたところで、今一度、全体を俯瞰しながら、新しく判明した系流や事実等を加筆し、かつ、旧版に含まれていた誤謬等を訂正して、今般、このWEBサイトの第5版を公開する運びになりました。
 一般に、祖先供養とは、祖先の墓や位牌を拝んで祖先の冥福を祈ることを言いますが、いつまでも祖先のことを忘れずに感謝の気持ちを持ち続けることが、祖先から受け継がれ、子孫へと受け継いで行く「命」を愛しみ、祖先の生き様を縁として自らを律し、人生を無為にしない生き方を心掛けるうえで、精神的な支えになり得るものと考えます。「命」という漢字は「跪いて神意を聞く人」を意味していますが、病気、事故や災害等で祖先の命が奪われる悲しみや子孫の誕生で新しい命を授かる喜びなど、人間の意志ではどうにもならない「命」の始まりや終わりについて神様や祖先に祈る人間の姿を表し、神聖な右掌(命の源である食物を運ぶ掌)と不浄な左掌(命の源となった食物の残骸を拭う掌)を合せて神様や祖先を拝むこと(合掌)で、自らの全てを神様や祖先の前に曝け出し、その意向に委ねることを意味しています。その意味で、家譜は、祖先の生き様に触れながら、果たして自分が自らの全てを祖先の前に曝け出すことができる恥じない生き方ができているのかを、常に自らに問い掛ける契機となるものであり、それが単なる好奇心に留まらず、家譜に関心を持つ重要な意義の1つであると考えます。
 今後も、このWEBサイトが一人でも多くの方に自らの祖先に関心を持ち、自らの家譜を調査してみようと思い立つ契機になれば、著者にとって望外の喜びです。
 

2021年10月2日

 

新型コロナウィルス感染症パンデミック禍にて

打越 武志(楠木同族会会員

 
 
★出版のご案内
BOOK☆WALKER<第5版/373ページ/カラー/無料
Google Play ブックス<第5版/373ページ/カラー/無料
PDF<第5版/373ページ/カラー/無料
 
f:id:bravi:20210723174043j:plain
 
※新コンテンツへの更新方法(旧コンテンツ購入者)
BOOK☆WALKERの更新方法
❶旧コンテンツを開く ➡ ❷更新案内が表示 ➡ ❸新コンテンツ更新
❶旧コンテンツを削除 ➡ ❷新コンテンツ更新
 
③所蔵図書館(2021/09/15現在)※北から順に
国立国会図書館(東京本館・関西館)、東北大学附属図書館、弘前市立図書館、秋田県立図書館、由利本荘市立図書館、石川県立図書館茨城県立図書館、茨城県立歴史館、長野県立図書館、浜松市立図書館岐阜県立図書館、大阪府立図書館、河内長野市立図書館、富田林市立図書館、四条畷市立図書館、奈良県立図書館、大和郡山市立図書館、和歌山県立図書館、和歌山市民図書館、新宮市立図書館、田辺市立図書館、神戸市立中央図書館、淡路市立津名図書館、鹿児島県立図書館 等

第1部第1巻 打越(内越)氏の発祥(第1段)

第1段 総論

①打越氏(内越氏)の発祥地

 打越氏(内越氏)は、いくつかの参考文献(注2-1)から、1系統17流(本家3流、分家14流)の存在を確認できます(注1)。その源流を紐解けば、清和天皇及び物部氏族熊野国造系和田氏を祖とし(参2)、主に、南北朝の動乱を契機として、河内(甲斐)源氏流小笠原(大井)氏(本姓源氏)と楠木正成の弟又は従弟・楠木正家(本姓橘氏)とが姻戚関係を結んで発祥した氏族であり、出羽国由利郡で勢力を伸ばしながら、日本全国へ分布していった同祖同根の系流であると考えられます。その主な発祥地又は根拠地を紐解けば、以下の3ケ所(発祥年代順)に集約することができます(注2-1)。なお、このWEBでは、美濃源氏流打越氏の系流は対象とせず、その概要のみに触れています(注2-2)。

出羽国由利郡内越村(楠木正家後裔/河内(甲斐)源氏小笠原氏流)

紀伊国海部郡宇須村字打越(雑賀衆/源姓)

紀伊国牟婁郡下川下村字打越(河内(甲斐)源氏武田氏流)

f:id:bravi:20170505094723j:plain 【名称】内越城(平岡館)跡
【旧住所】出羽国由利郡内越村
【新住所】秋田県由利本荘市内越(字)家ノ前326
【備考】打越氏(内越氏)の公式上の発祥地で、この近隣に楠木正宣が開基した打越氏(内越氏)の菩提寺恵林寺があります。
f:id:bravi:20170505094625j:plain 【名称】打越城(白坂館)跡
【旧住所】出羽国仙北郡打越郷(参10)
【新住所】秋田県大仙市大沢郷寺(字)白坂館39
【備考】打越氏(内越氏)の事実上の発祥地で、瓜連城の戦いに敗れた楠木正家は奥州へ落ち延び、打越城へ入ります。
f:id:bravi:20180716095139j:plain 【名称】真光寺
【旧住所】紀伊国海部郡宇須村字打越
【新住所】和歌山県和歌山市打越町1−38
【備考】楠木正成の甥・和田賢秀が開基した後醍醐天皇勅願寺で、後年、顕如上人が寺号を「真光寺」に改めます。
f:id:bravi:20180716093551j:plain 【名称】打越城跡
【旧住所】紀伊国牟婁郡下川下村字打越
【新住所】和歌山県田辺市下川下826-1
【備考】熊野水軍の本拠地と熊野本宮大社を結ぶ間道にあり、赤坂城の戦い護良親王(大塔宮)がこの地に落ち延びます。
f:id:bravi:20181112203225j:plain 【名称】打越屋敷跡
【旧住所】紀伊国牟婁郡和田村
【新住所】和歌山県田辺市和田148
【備考】熊野国造系和田氏の元領地で、安川を挟んだ対岸に同族の紀州武田氏流愛洲(来栖)氏の屋敷跡があります。

 

②打越氏(内越氏)の発祥と時代背景

 打越氏(内越氏)が発祥した南北朝時代は、鎌倉幕府の成立により実権を失った朝廷政権下の旧勢力(国司)が武家政権下の新勢力(守護、地頭)からその実権を取り戻すための戦いという側面があり(権力の二重構造から生じた相克)、両統迭立大覚寺統持明院統に分かれて争われていた皇位継承問題)を背景として、朝廷政権下の旧勢力(国司)の多くが大覚寺統を中心とする南朝勢力(王政復古)に加勢したのに対し、武家政権下の新勢力(守護、地頭)の多くが持明院統を中心とする北朝勢力(武家政権への回帰)に加勢して戦います。しかし、新田氏、南部(八戸)氏や大江(寒河江)氏など武家政権下の新勢力(守護、地頭)に属しながら、南朝勢力(王政復古)に加勢した武家も少なからず存在します。

 このような時代背景のなか、打越氏(内越氏)は、南北朝の動乱を契機として、①政権下の新勢力である小笠原(大井)氏の庶流、②朝廷政権下の旧勢力である楠木氏及び③在地勢力である由利氏が勢力基盤の安定を図るために姻戚関係を重ねる過程で発祥した氏族であると考えられます(次ページの図表1を参照)。このためか、現在、打越氏(内越氏)の末裔は、茨城県兵庫県大阪府和歌山県、鹿児島県、福岡県、熊本県等の南朝勢力にゆかりの地に数多く分布しており、楠木氏との関係を示す史料や歴史的な痕跡等が数多く残されています(注3)。

f:id:bravi:20210515164130j:plain

 

(注1)氏族と名字

 氏族とは、共通の祖先を持つ血族集団のことで、父系又は母系のいずれかの系流で把握され、名字で識別されます。例えば、徳川家康の正式な名前は、徳川右大臣(次郎三郎)源朝臣家康で、「名字」(徳川)+「官位」(右大臣)(「仮名」(次郎三郎))+「」(源)+「」(朝臣)+「」(家康)から構成されています(参1)。

【名字】全ての血族集団(氏)のうち、直系の血族集団(家)を区別するもので、自らの所領の支配権を示すために地名(田の(あざ)=名字)を名乗ったもの(例、甲斐源氏の祖・源義光の玄孫の源長清が甲斐国巨摩郡小笠原郷を支配して「小笠原」を名乗るなど)

【官位】家の序列を示すもの。家長は官位を与えられると「仮名」(家族の序列)に代えて「官位」(家の序列)を名乗るのが通例

【仮名】家族の序列を示すもの(例、長男:太郎、次男:次郎など)

【氏】天皇が臣下に与えた血縁関係を示す称号(例、源・平・藤・橘)

【姓】天皇が臣下に与えた組織地位を示す称号(例、臣・連・伴造・国造)

【諱】親(実父又は烏帽子親)が元服した男子に対し、家督承継権があることを示すために与える実名で、代々その家に受け継がれ、親の諱に含まれている通字(例、光・正・蔵など)を与える例が多い。但し、武家家督争いを避けるために家督承継順位の低い男子には家督承継権がないことを示すために通字を含まない諱とする例もある。(例、武田信玄は、四男・武田勝頼に信の通字をつけず、その孫・武田信勝に信の通字をつけて家督を承継させているなど)

 上記の定義に従えば、本来、打越氏(内越氏)ではなく打越家(内越家)と表記するのが正確ですが、打越家(内越家)は複数の系流(本家、分家)に分派しており、これらが同祖同根の血族であるとしても、必ずしも、その全てを直系の血族関係として扱うことが適切でない場合もあります。そこで、このWEBでは、便宜上、原則として打越氏(内越氏)と表記しますが、特定の系流のみを限定して示す必要がある場合に限り打越家(内越家)と使い分けています。
 なお、打越氏(内越氏)の本姓(姓ではなく氏の意味)は源氏ですが、楠木正家墓碑銘(秋田県由利本荘市岩谷町)に刻まれているとおり、打越氏(内越氏)のうち後述の分家Ⅰの系流は本姓として橘氏も使用しています(参11)。

f:id:bravi:20210515163802p:plain

 

(注2-1)打越氏(内越氏)の発祥に関する参考文献

 姓氏家系大辞典(太田亮著/国民社)を手掛りとして、下表の参考資料等から打越氏(内越氏)の発祥を洗い出しました。知る限り、古文書等で確認できる打越氏(内越氏)に関する記録は出羽国が最古で(但し、注2-2を参照)、紀伊国の記録はその約150年後ですが、出羽国発祥の打越氏(内越氏)と紀伊国発祥の打越氏は、同じ清和天皇及び物部氏族熊野国造系和田氏を源流とする同祖同根の氏族と考えられます(参2)。この点、両者がどのような関係にあったのかを明確に示す記録は残されていませんが、遠隔地であったにも拘らず、後述のとおり両者には何らかの人脈があったことを示す事績も残されています(参3、52)(注25)。

①各藩が編纂した家系図

寛永諸家系図伝(四十一)譜牒餘録(後編巻十九)諸家系譜寛政重修諸家譜(巻二百五)干城録(百二十三)蕗原拾葉 高遠進徳本(打越家系)久保田藩元禄家伝文書紀州家中系譜並に親類書書上げ ほか

②各藩が編纂した分限帳

③各家に伝わる家系図

打越氏御先祖様代代記覚書控親川楠家系図由利家及打越家系図 ほか

④各地方公共団体が編纂した郷土史資料

本荘市史(通史編1)(史料編1上)(史料編1下)、由利本荘市誌鶴舞由利郡中世史考水戸市史 上巻勝田市史 中世編・近世編那珂湊市史料(第1集)(第14集)、和歌山県史 近世編大塔村史 通史・民族編鹿児島県史料旧記雑錄拾遺 諸氏系譜 第1巻 ほか

⑤各地に分布する家紋

都道府県別姓氏家紋大辞典(東日本編)(西日本編) ほか

⑥市販書

物部氏-剣神奉斎の軍事大族(古代氏族の研究)打越内越一族(日本家系家紋研究所、1984年)北羽南朝の残照(無明舎出版、2002年)家系研究(65号)、家系研究(66号)(家系研究協議会、2018年) ほか 

⑦インターネット上の情報

 なお、熊野本宮大社の裏山には熊野本宮大社社家・楠(木)氏の屋敷跡があり、その跡地の竹之坊墓地(光明寺跡、井泉寺跡)及び平野墓地には熊野国造の熊野連、楠(木)氏及び和田氏の墓が安置されており、この場所に打越氏の源流の1つがあるものと考えられます。また、そのことを示すように現在でも熊野本宮大社の周辺には打越氏(内越氏)の末裔が数多く分布しています。

f:id:bravi:20191230233729j:plain 【名称】熊野連正全の墓
【住所】和歌山県田辺市本宮町本宮624 竹之坊墓地(光明寺跡、井泉寺跡)
【備考】熊野連正全の墓。物部氏の始祖・饒速日命ニギハヤヒ)の後裔が成務天皇から熊野国造を任命され、熊野連の姓を下賜されており、代々、紀伊国牟婁郡の大領(郡司)や熊野本宮大社禰宜神職)を務めています。
f:id:bravi:20191230233620j:plain 【名称】熊野本宮大社社家・楠氏の墓
【住所】和歌山県田辺市本宮町本宮624 竹之坊墓地(光明寺跡、井泉寺跡)
【備考】熊野国造の後裔・楠氏の屋敷があった場所(光明寺跡、井泉寺跡)に熊野本宮大社社家・楠氏の墓があります。
f:id:bravi:20191230233742j:plain 【名称】熊野別当・和田内膳良賢の墓
【住所】和歌山県田辺市本宮町本宮630
【備考】熊野広方が橘良殖の猶子となって本姓を橘姓に改め、その曾孫の橘良冬が名字を「和田」に改めます。(注1)
f:id:bravi:20190120100350j:plain 【名称】熊野本宮大社
【住所】和歌山県田辺市本宮町本宮1110
【備考】生命の水の霊が宿る熊野川の中州・大斎原に社地がありましたが、明治22年の大洪水で流され、現在の場所に社地が移されています。

 

(注2-2)もう1つの系流、美濃源氏流打越氏

 このWEBは、美濃源氏流打越氏を対象としていませんが、その概要について簡単に触れておきます。美濃国諸家系譜(江戸時代に編纂された系譜で、作者は不詳)には、美濃源氏八島氏流木田氏の庶流として打越氏の家系図(巻末家系図:図表12)が記載されています。その由緒を紐解けば、清和源氏の祖・源経基の次男・源(八島大夫)満政が美濃国方県郡八島郷を支配し、その玄孫・源重長美濃国方県郡木田郷を支配して木田氏を名乗ります。1221年(承久3年)、木田(源)重長の孫・木田重知は承久の乱後鳥羽上皇に味方して敗れますが(参239)、これに伴って木田重知の弟・木田政氏(但し、木田氏が同族の美濃源氏八島氏流彦坂氏から迎えた婿養子)が美濃国方県郡木田郷打越村、土井村、石谷村の地頭職に就任します(減封)。その後、木田政氏の孫・木田(左近大夫)頼氏が弘長・文永年間(1261年~1275年頃)に美濃国方県郡木田郷打越村の地頭職に就任し(減封)、打越氏を名乗ります。これによれば、出羽国由利郡内越村で発祥した打越氏(内越氏)より約100年も早く打越氏を発祥していたことになりますが、この家系図(巻末家系図:図表12)の江戸時代以降の部分は打越左近(徳川家に禄高500石で仕える)-打越治右衛門-打越治右衛門(鵜殿新三郎の子を婿養子に迎える)と記載され、出羽国由利郡内越村で発祥した打越氏(内越氏)の家系図寛政重修諸家譜巻二百五)とほぼ同一であり(打越光久-打越光種-打越光業)、その家系図を引用したものではないかと推測されます。この点、出羽国由利郡内越村で発祥した打越氏(内越氏)と美濃国方県郡打越村で発祥した打越氏の間にどのような関係があったのかを示す史料等が見当たらず明確なことは分かっていません。なお、石川県小松市には木田氏(丸に桔梗紋)の末裔と共に打越氏の末裔の分布(丸に蔦紋)も見られますが、丸に蔦紋は木田氏の替紋なので(参25)、石川県に分布する打越氏の一部は美濃源氏流打越氏の末裔である可能性も考えられます。

f:id:bravi:20210325122508j:plain 【名称】城ケ峰(打越本郷交差点)
【旧住所】美濃国方県郡木田郷打越村
【新住所】岐阜県岐阜市打越391-2
【備考】長良川河口に「羽(八)島郷」があり、長良川支流の伊自良川沿いに上流から「彦坂村」「打越村」「則武村」「木田村」「改(開)田村」があります。なお、「打越」という地名は「打ち越す」という動詞が語源となっており、山、峠や川の周辺に多い地名です(注34)。

 

(注3)打越氏(内越氏)末裔の全国分布

 現在、打越氏(内越氏)の末裔が集中的に分布している「茨城県(1位)」は東国における南朝勢力の拠点で陸奥鎮守府北畠顕家)の前線基地である瓜連城(楠木正家が楠木正成の代官として守備)があった場所、「兵庫県(2位)・大阪府(4位)・和歌山県(7位)」は中央における南朝勢力の拠点で楠木氏の勢力基盤があった場所及び「鹿児島県(6位)・福岡県(9位)・熊本県(13位)」は西国における南朝勢力の拠点で南朝の鎮西府(懐良親王)や菊池氏の勢力基盤があった場所です。「北海道(5位)」は明治維新により紀州藩に仕官していた打越氏(内越氏)の一部が屯田兵として疎開しています(参12)。また、秋田藩江戸幕府からシャクシャインの戦い(アイヌ民族の蜂起)で苦戦する松前藩の援軍を命じられ、打越氏(内越氏)も北海道松前町へ出兵しています。さらに、秋田藩江戸幕府から外国船来航を契機として蝦夷地の海岸警備を命じられ、1859年(安政6年)に秋田藩士・打越角左衛門が秋田藩徒目付・日野喜右衛門と共に秋田藩の陣屋がある北海道増毛町に赴任しますが、1861年(万延2年)4月12日に打越角左衛門が同地で殉死し、北海道増毛町暑寒沢に墓があります(参13)。また、打越氏(内越氏)が仕官していた津軽藩江戸幕府から蝦夷地の警備を命じらていますので、これらの経緯から打越氏(内越氏)の一部が北海道へ入植した可能性も考えられます。なお、日高地方(沙流川流域)には、陸奥国津軽郡宇鉄の浦(青森県東津軽郡外ヶ浜町三厩上宇鉄)の人々が入植し、その子孫の分布が見られることから(参14)、江戸時代初期には青森県と北海道(松前、日高や増毛等)との間で人々の往来、貿易や移住等が本格化していたと思われます。その他で上位にランクされている「東京都(3位)・神奈川県(8位)・千葉県(11位)・埼玉県(12位)」は徳川将軍家や柳沢氏に仕官した打越氏(内越氏)の知行地があった場所であることに加えて、都心への通勤圏として人工が集中しているという現代的な要因により打越氏(内越氏)の分布が多いものと考えられます(第1部第3巻第1段を参照)。

 

f:id:bravi:20190826083854j:plain

多聞丸(楠木正成の幼名)は毛利氏の祖・大江時親(当時、河内国加賀田郷の地頭職)に兵法を学ぶために観心寺から大江時親邸まで約8kmの道程を通ったと言われています。因みに、打越氏(内越氏)の家紋は、本紋:三階菱紋、菊水紋又は橘紋、替紋:一文字三ツ星紋になります。(第1部第3巻を参照)

 

トップに戻る

第1部第1巻 打越(内越)氏の発祥(第2段)

第2段 出羽国由利郡内越村発祥

第1節 小笠原氏・於曾氏の出羽国由利郡への下向

①小笠原氏の下向(1回目)

 1213年(建暦3年)、鎌倉幕府執権の北条義時は、源頼家(第2代将軍)及び源実朝(第3代将軍)の養育係を務めた小笠原長清の妹・大弐局に対し、和田合戦で由利惟久から没収した領地・出羽国由利郡を恩賞として与えます(鎌倉幕府による土地支配の正当性)(参4)。しかし、大弐局には子供がいなかったことから小笠原長清の七男で甥の小笠原(大井)朝光を養子に迎えて出羽国由利郡を相続させます。その後、1285年(弘安8年)、安達泰盛(外様御家人の勢力が味方)と平頼綱(北条得宗家の勢力が味方)との間の権力闘争に端を発する霜月騒動が勃発し、小笠原(大井)氏、大江(寒河江)氏や足利氏等の外様御家人が味方した安達泰盛が敗れると、小笠原(大井)氏の領地であった出羽国由利郡は北条得宗家に没収されます。因みに、このとき安達泰盛の領地であった観心寺荘も北条得宗家に没収され、その被官として楠木氏が入部したのではないかと考えられています(参251)。1331年(元徳3年)、鎌倉幕府(北条得宗家)の討幕を企図して元弘の乱が勃発しますが、同年、小笠原(大井)正光及び滋野(根井)行家が鳥海山元宮に銅棟札を奉納しており(その銅棟札には「奉鋳 於羽州由利郡津雲出郷 十二神将」「大旦那 源正光 並 滋野行家」等と記されていますが、源正光は小笠原(大井)朝光の曾孫・小笠原(大井)正光、滋野行家は根井行家のこと(参5))、また、根井家由来書には「信州義仲滅亡ノ後、行親末子則式部太夫ト云、信州ヲ立退、羽州油利ノ郡矢嶋ノ庄二年久ク蟄居シテ、民ヲシタカイ、土地ヲ開カセ、子孫繁栄ス」と記されていること(参6)などから、遅くとも鎌倉時代後期には小笠原(大井)氏の庶流やその家臣・滋野(根井)氏が出羽国由利郡へ下向し(参7、参8)、霜月騒動で北条得宗家に没収されていた出羽国由利郡の旧領支配を回復する機会を伺っていたのではないかと考えられます。この点、1335年(建武2年)、小笠原(大井)行光が鎮守府将軍北畠顕家の要請に応じて上洛軍に参加したという記録がありますが(参9)、小笠原(大井)行光は信濃国佐久郡岩村田を本拠とし、北朝勢力として活動していたことから、元弘の乱により鎌倉幕府(北条得宗家)が滅亡したことで、事実上、出羽国由利郡の旧領支配を回復していた小笠原(大井)氏の庶流が地政学的な理由等から上洛軍に参加したのではないかと推測されます。その後、小笠原(大井)氏の庶流と楠木正家との間でも姻戚関係が結ばれて打越氏(内越氏)が誕生しています。

 

②小笠原氏の下向(2回目)

 1324年(正中元年)、由利(仲八郎)政春が鳥海氏に滅ぼされた後、一時、その子・由利維貴は信濃国の小笠原氏へ身を寄せていましたが、1339年(延元4年)、小笠原(甲斐守)朝保、小笠原(大井五郎)光泰及び小笠原(伯者守)光貞らの援軍と共に出羽国由利郡へ下向して鳥海氏から旧領を奪還し、小笠原(甲斐守)朝保は岩谷館(後の岩谷氏)、小笠原(大井五郎)光泰は八森古城(後の矢島氏)、小笠原(伯耆守)光貞は大野館(後の赤尾津(小介川)氏)、由利維貴は岩倉館へ入ります(参10)。なお、「打越旧記」には、南北朝合一後の1428年(応永末年)の状況として小笠原(大井)氏の庶流が由利氏、楠木氏及び新田氏(後の羽川氏)等と共に出羽国由利郡を分割支配していた様子が記載されています(参11)(注4-1)。この点、1449年(宝徳元年)、小笠原(大井)氏流・小介川(伯耆守)立貞が支配していた出羽国赤宇曽郡について、醍醐寺三宝院から同院の寺領であるにも拘らず、同院への年貢が未納である旨を室町幕府へ訴えられ、これに対して小介川(伯耆守)立貞は鎌倉時代から何代にも亘って支配してきた土地であり、過去に一度も醍醐寺三宝院へ年貢を納めたことはないことを理由に年貢の納入を拒んだという記録が残されていますが(その後、後南朝の対立、応仁の乱等の勃発で沙汰止?)(参6、8)、この頃には小笠原(大井)氏の庶流等が地頭代から国人領主し(由利十二頭)、出羽国由利郡の実効支配(鎌倉幕府による土地支配の正当性を失った後も武力で土地を実効支配)を確立していたと考えられ、室町幕府から醍醐寺三宝院へ寺領として新たに与えられた出羽国赤宇曽郡の支配を巡る争いが表面化したものと思われます。 

f:id:bravi:20190523002407p:plain

小笠原氏の出羽国由利郡への下向と分布

③於曾氏の下向

 1394年(応永元年)、於曾光俊(小笠原(大井)朝光の叔父)の末裔・於曾光栄が室町幕府鎌倉公方)に対して出羽国由利郡への下向を願い出て認められ(室町幕府による土地支配の正当性)、その弟・於曾光広が出羽国由利郡へ下向して小笠原(大井)氏及び於曾氏が出羽国由利郡内越村及びその周辺を分割支配したと考えられます(注5)(参11)。時代は下って、1590年(天正18年)、小田原征伐に参陣した小笠原(大井)氏流・打越(宮内少輔)光重に対し、豊臣秀吉から本領安堵の御朱印状が下賜されたことから(豊臣秀吉による土地支配の正当性)(参15)、打越(宮内少輔)光重の系流が打越氏(内越氏)の惣領家に定まり、於曾氏が支配していた土地(≒於曾氏の家督)を統合、承継することになったのではないかと考えられます(第1部第2巻第2段①を参照)。この点、「打越氏御先祖様代代記覚書控」(参10)(この家系図には加賀美遠光の四男・光俊の子・光晴が小笠原氏を名乗り始めたと記載されていますが、光俊は加賀美遠光の五男であり、また、その名字は「小笠原」ではなく「於曾」なので、この部分は誤りか)には、打越(宮内少輔)光重の代から打越氏(内越氏)を名乗り始めたと記載されていますが、これは打越(宮内少輔)光重が於曾氏の支配していた土地(≒於曾氏の家督)を統合、承継したことにより於曾氏の系流も打越氏(内越氏)を名乗り始めたからではないかと考えられます(注20-2)。

 なお、豊臣秀吉から下賜された本領安堵御朱印状には、本領の地名として「内越村」と表記している一方で、名字(注1)は本領の地名とは異なる「打越」という表記を使用していることから、豊臣秀吉本領安堵御朱印状を下賜する前から打越氏を発祥し、その表記を使用していたと考えられます。また、1465年頃(内越(宮内少輔)氏光の代)、打越伊賀守が出羽国由利郡から常陸国那珂郡へ移って常陸江戸氏へ仕官していること(注7)(参16、65)や打越氏の菩提寺である恵林寺過去帳に1450年(宝徳2年)時点の楠木正賢の俗名として内越小笠原左衛門太夫正賢と記されていること(参11)などを考え併せると、後述のとおり1350年頃に楠木正家の子・楠木正安が「打越将監」(楠木正家が打越城(白坂館)を構えた出羽国仙北郡打越郷(現、大沢郷寺)の地名である「打越」と楠木正安の官位である「将監」から構成)という通称を名乗り、また、小笠原大和守の三男・義知が楠木正家の娘の婿養子に入り(これにより小笠原義和と楠木正安とは義兄弟)、出羽国由利郡内越村に築いた内越城(平岡館)に移って「内越」と名字を改めたことに打越氏(内越氏)の発祥を求めるのが適当ではないかと考えます(後述する打越氏(内越氏)分家Ⅰ)(参10、11)。よって、打越氏(内越氏)の事実上の発祥地は、打越城(白坂館)を構えた出羽国仙北郡打越郷(現、大沢郷寺)であり(参10、11)(注4-2)、また、豊臣秀吉から下賜された御朱印状を根拠とする打越氏(内越氏)の公式上の発祥地は、出羽国由利郡内越であると整理するのが合理的で、このような経緯から打越氏と内越氏の2つの表記が混在することになったのではないかと考えられます(注20-2)。

 なお、打越氏(内越氏)の惣領家となった系流(後述の打越氏(内越氏)本家Ⅰ)は、1400年代後半、内越(宮内少輔)氏光の代から打越氏(内越氏)を名乗り始めていますが(参6、9)、内越(宮内少輔)氏光と同世代の楠木正清(後述の打越氏(内越氏)分家Ⅰ)が小笠原(大井)氏から妻を迎えて姻戚関係を重ねていますので、この頃には楠木氏だけではなく小笠原(大井)氏も本格的に打越氏(内越氏)を名乗り始めて「一家」の結び付きを強めたものと考えられます。(巻末家系図:図表7-②、図表9-②)(注20-2)

▼打越氏(内越氏)の発祥と定着

年代 名乗り 系流
1350年頃 楠木正安 打越将監 分家Ⅰ
小笠原義和 内越(小笠原)義和
1450年頃 楠木正賢 内越(小笠原)正賢
1465年頃 打越伊賀守 分家Ⅱ
1400年後半 小笠原氏光 内越(小笠原)氏光 本家Ⅰ

 

小笠原氏の下向(3回目)

 1467年(応仁元年)、出羽国由利郡の領民が地頭不在による治安悪化を室町幕府鎌倉公方)へ訴えたことを受けて、室町幕府が小笠原(大井)氏の庶流を出羽国由利郡へ派遣し(室町幕府による土地支配の正当性)、それが由利十二頭の由来であるという記録が残されています(参18)。しかし、この時期に鎌倉公方は存在せず、古河公方堀越公方に分かれて争われていたことや、上述のとおり1331年以降に小笠原(大井)氏の庶流が相次いで出羽国由利郡へ下向していたことなどから、鎌倉幕府による土地支配の正当性しか有していなかった小笠原(大井)氏の庶流(由利十二頭)が室町幕府による土地支配の正当性を偽装するために考えた創作話ではないかと推測されます。この点、仁賀保氏の家系図には、仁賀保氏の祖・小笠原(大井)友挙が1467年(応仁元年)に出羽国由利郡へ下向したとあり、そのことを裏付けるように「打越旧記」には1428年(応永末年)時点の出羽国由利郡の領主として仁賀保氏の名前は記録されていませんが(参11)、その一方で、既に由利十二頭の矢島氏、赤尾津氏、子吉氏、玉米氏、石沢氏、滝沢氏等の名前は記録されており、また、醍醐寺三法院から年貢未納の訴えがあったのが1449年(宝徳元年)であることを考え併せると、1467年(応仁元年)に室町幕府が小笠原(大井)氏の庶流を地頭代として出羽国由利郡へ派遣したことで由利十二頭が誕生したとする説明では辻褄が合わず、鎌倉幕府の滅亡により小笠原(大井)氏の庶流等が国人領主化し(由利十二頭の誕生)、出羽国由利郡を実効支配していたと考えられます。

f:id:bravi:20191021075352j:plain 【名称】稲荷神社
【住所】秋田県にかほ市芹田高磯63
【備考】1467年(応仁元年)、仁賀保氏の祖・小笠原(大井)友挙が越後国から船で出羽国由利郡へ下向した際に着船した芹田岬に建立されている神社です。

 

⑤ まとめ

 出羽国由利郡の地頭代であった小笠原(大井)氏や、於曾氏の庶流が元弘の乱南北朝の動乱応仁の乱等を契機として相次いで出羽国由利郡へ下向し(注8)、在地勢力(大江(寒河江、長井、芹田)氏や由利氏)や新興勢力(楠木氏や新田氏)と姻戚関係を結びながら、その勢力基盤を確立する過程で、打越氏(内越氏)を含む由利十二頭が形成されていったのではないかと考えられます。なお、各家の家系図や古伝等に矛盾や混乱を生じているのは、豊臣秀吉が奥州仕置で由利十二頭から由利五人衆に整理、統合して御朱印状を下賜するまでの間(とりわけ鎌倉幕府が滅亡して鎌倉幕府による土地支配の正当性が失われ、その後、小笠原(大井)氏の庶流等が国人領主化して由利十二頭が形成されていったと思われる応仁の乱までの間)は出羽国由利郡における土地支配の正当性の根拠が曖昧な状態が続き、その支配状況も流動的であったと考えられます。また、各家が土地支配の正当性を主張するために出羽国由利郡へ下向した経緯やその系流等を自らに都合良く誇張又は脚色して伝えたものが虚実入り乱れ、玉石混交とした状況を生んだのではないかと推測されます。よって、これらの家系図や古伝等は、歴史事実をありのままに記録した写真のようなもの(記録物)ではなく、歴史を語る媒介者(利害関係人)の目を通して映し出され、断片的に切り取られ又は装飾された絵画のようなもの(表現物)として、その表現意図等にも十分に注意して取り扱う必要があります。

 

▼小笠原氏及び楠木氏の出羽国由利郡への下向年

年代 主な出来事 主な下向者【末裔】
1331年(元弘元年) 元弘の乱 小笠原(大井)正光【打越氏】
1336年(建武3年) 瓜連城の戦い
湊川の戦い
楠木正家【打越氏】
1339年(延元3年) 後醍醐天皇崩御 小笠原(大井)朝保【岩屋氏】
小笠原(大井)光貞
【赤尾津氏(小介川氏)】※1
小笠原(大井)光泰【矢島氏】
由利維貴【滝沢氏(由利氏)】※2
1394年(応永元年) 足利義満の将軍職退位 於曾光広【打越氏】
1467年(応仁元年) 応仁の乱 小笠原(大井)友挙【仁賀保氏】
小笠原(大井)重泰【矢島氏】
1592年(天正20年) 顕如の入滅 楠木正意【打越氏?】※3
※1:小笠原(大井)光貞【赤尾津氏】の曾孫・延富(次男)が分家して打越丹波守を名乗ったという記録がありますが(参6)、打越氏(内越氏)のいずれの系流に属するのかは不明です。
※2:1580年(天正8年)、石山本願寺合戦で織田信長と和睦した顕如上人は石山本願寺を退去し、紀伊国雑賀荘の鷺森別院(雑賀御坊)に本拠を移します。その後、1592年(文禄元年)、顕如上人が入滅すると、鷺森別院(雑賀御坊)を守備していた楠木正意は出羽国由利郡打越郷へ遁れたという記録が残されています(参3、52)。なお、このとき、顕如上人からの出陣要請に応じて出羽国の打越正義(後述の分家Ⅰ)がその弟・打越三郎左衛門を名代として鷺森別院(雑賀御坊)へ派遣しており、楠木正意と同陣しています(参11)。その後、1600年(慶長5年)、打越三郎左衛門は、慶長出羽合戦(北の関ケ原の戦い)に参加し、上杉氏の酒田城を攻め落しています(参19)。

 

(注4-1)小笠原氏と大江氏の関係

 1428年(応永末年)の時点で、小笠原(大井五郎)光泰の後裔・小笠原(大井又次郎)光重は八森古城から滝沢へ移り(打越旧記/参11)、これに代って大江(大膳大夫)義久が築館(秋田県由利本荘市矢島町城内築館)へ入り八森城を築城します(参90、116)。その後、大江義久は「大江」を改めて「小笠原」を名乗っていることから(参24、25)、大江義久が小笠原光重の娘の婿養子になって家督を承継し、これに伴って小笠原光重が滝沢へ移住(隠居)した可能性や1467年(応仁元年)、出羽由利郡へ下向した小笠原(大井)重泰が矢島を支配するにあたり在地勢力の大江義久と姻戚関係を結んだ可能性等が考えられます。このため、その後裔・矢島(大井五郎)満安が「小笠原(大井)」及び「大江」の双方を名乗り、一文字三ツ星紋(寒河江(大江)氏と同紋)を使用したのではないかと推測されます(注6)。また、奥羽慶長軍記(参6)では、源頼朝から出羽国秋田郡太平村を下賜された大江(長井)氏流・太平広治と矢島満安を「一家」と記載していることからも、大江氏と小笠原(大井)氏との間には何らかの姻戚関係があった可能性が考えられます(参11)。なお、矢島満安が「大江」と「小笠原(大井)」の双方を名乗っていたことについては、「大江」は本姓、「小笠原(大井)」は名字であることから双方を併用することは何ら不自然ではなく(例えば、「源」が本姓、「小笠原」が名字であるのと同じ)、また、両者は姻戚関係(大江氏が父系、小笠原(大井)氏が母系?)にあった可能性がありますので、状況に応じて都合の良い方を名乗っていたのではないかと考えられます。因みに、1467年(応仁元年)、小笠原重泰と共に出羽国由利郡へ下向した小笠原(大井)友挙の後裔・仁賀保兵庫頭の弟・挙実は、出羽国由利郡芹田村を支配していた長井(大江)氏流・芹田氏の家督を相続していますが、同じように小笠原友挙が仁賀保(芹田村を含む)を支配するにあたり芹田氏との間で姻戚関係を結んだ可能性があり、これにより箱一文字三ツ星紋(長井(大江)氏も同紋)を使用することになったのではないかと考えられます(注6)。これらのことから、出羽国由利郡へ下向した小笠原(大井)氏の庶流は、在地勢力の大江(寒河江、長井、芹田)氏、由利氏らや、新興勢力の楠木氏らと姻戚関係を結びながら、その支配基盤を確立して行ったと考えられ、その過程で打越氏(内越氏)が誕生したと考えられます(第1部第1巻第2段①②を参照)。

 

(注4-2)打越氏(内越氏)の発祥地に関するもう1つの可能性

 親川楠家系図(参11)には、楠木正家が南朝勢力を支援するために川内打越に居城を構えて籠城し、北朝勢力と争ったという記載があります。この点、出羽国由利郡矢島郷川内村に「打越」という地名や字名はなく(但し、その近傍に秋田県由利本荘市鳥海町下直根字打越という地名が残されており、現在も新田氏の末裔が分布)、また、親川楠家系図には「川内打越は大沢打越とあり」と記載されていることから(参11)、この地を打越氏(内越氏)の発祥地とする根拠は薄弱と考えられます。但し、後醍醐天皇から下賜された論旨を所持していた楠木(打越)小次郎は、楠木正家が南朝勢力の関係者を供養するために建立した元弘寺(秋田県由利本荘市鳥海町下川内矢ノ本)を拠点として活動し、その後、楠木正家が築城した小次郎館(牛越館)(秋田県由利本荘市鳥海町栗沢字牛ケ首)に移ったと言われており(参235、236、237、238)、また、傑堂能勝禅師(楠木正能)が小次郎館(牛越館)の近くに高健寺(秋田県由利本荘市鳥海町伏見)を開基し(参11)、その後、現在の場所へ移されていますので(参241)、打越氏(内越氏)の勢力拠点であったと考えられます。なお、東信濃を支配した滋野三氏(海野氏(真田氏の祖)、望月氏甲賀忍者・望月氏の祖)、根津氏)のうち、望月氏の庶流は信濃国佐久郡矢島村及び根々井村を支配し、それぞれ矢島(八島)氏及び根井氏を名乗りますが、1184年(寿永3年)の木曾義仲の挙兵に従い、木曾義仲が滅亡してその所領を没収されると小笠原(大井)氏に臣従します(参206)。しかし、南北朝の動乱では、矢島(八島)氏及び根井氏は南朝勢力に与し、主家である小笠原(大井)氏(北朝勢力)と争います。この点、根井家由来書には「信州義仲滅亡ノ後、行親末子則式部太夫ト云、信州ヲ立退、羽州油利ノ郡矢嶋ノ庄二年久ク蟄居シテ、民ヲシタカイ、土地ヲ開カセ、子孫繁栄ス」と記されており(参6)、木曾義仲の滅亡や南北朝の動乱を契機として根井氏が南朝勢力である寒河江(大江)氏を頼って出羽国由利郡津雲出郷(後の矢島郷)へ下向した可能性が考えられ(因みに、海野氏の末裔は寒河江(大江)氏へ仕官しています。)、これを裏付けるように木曽義仲の愛妾・巴御前の末裔である巴太郎頼勝が隠棲していたと伝わる巴館跡(秋田県由利本荘市西沢上屋敷17-1)も残されています。その後、応永年間、大江(大膳大夫)義久が出羽国由利郡津雲出郷(後の矢島郷)を支配しますが(参24)、これに伴って小笠原(大井)光泰の後裔である小笠原(大井又次郎)光重が矢島から滝沢へ移り(打越旧記/参11)、大江(大膳大夫)義久は小笠原(大井)義久と改名していますので、小笠原(大井又次郎)光重が大江義久を婿養子を迎えた可能性(名字を「小笠原」へ改める代りに、家紋は元の一文字三ツ星のままとするパターン)等が考えられます(参25)(巻十八由利十二頭の事/参207)(注4-1)。時代は下って、1593年(文禄2年)、小笠原(大井)義久の後裔で矢島城の戦いで敗れた矢島(大井五郎)満安(滋野氏流望月氏の庶流・矢島(八)氏と同じ名字ですが、滋野氏流の後裔ではありません。)は楠木正家が南朝勢力の関係者を供養するために建立した元弘寺に葬られますが(親川楠家系図/参11)、矢島(大井五郎)満安の息女・鶴姫が元弘寺の隣に庵を結んで菩提を弔ったと言われており、その庵跡に鶴姫の墓が安置されています。その後、元弘寺が廃寺になり、矢島満安の墓は高建寺(傑堂能勝禅師(楠木正能)の開基)へと移されています。

武家の台頭と終焉

院政の開始 白河天皇藤原氏による摂関政治から実権を取り戻すために武家平氏、源氏)の軍事力を頼って院政を開始。(武家平氏、源氏)の台頭)
保元の乱 後白河天皇崇徳上皇院政の主導権を巡って争い、後白河天皇武家平氏、源氏)の軍事力を借りて勝利。(武家平氏、源氏)の台頭)
平治の乱 後白河法皇二条天皇院政の主導権を巡って争い、後白河法皇武家平氏)の軍事力を借りて勝利。(武家平氏)のみ台頭、貴族(藤原氏)及び武家(源氏)の没落)
木曾義仲の挙兵 以仁王平氏打倒を命じる令旨を発し、紀伊国牟婁郡新宮村(熊野速玉大社、弁慶の生誕地及び楠木氏の発祥地の1つと考えられている楠藪もあり。)に居住する源(新宮十郎)行家が諸国の源氏に挙兵を呼び掛け、叔父・木曾義仲が挙兵し、都から平氏を一掃。(武家(源氏)のみ台頭)
鎌倉幕府の樹立 後白河法皇源頼朝皇位継承問題に口を挟む木曾義仲を討伐させ、源頼朝平氏源義経及び奥州藤原氏を滅亡して源頼朝に抵抗できる軍事力を一掃し、武家政権鎌倉幕府)の樹立を朝廷に容認させる。(武家(源氏)の支配)
承久の乱 後鳥羽上皇が朝廷政権の樹立を目指しますが失敗。(武家(源氏)の支配)
南北朝の動乱 後醍醐天皇が朝廷政権の樹立を目指しますが失敗。(武家(源氏)の支配)
明治維新 明治天皇が王政復古を実現して武家政権が終焉。

 

(注5)於曾氏の歴史

 於曾氏は、1200年頃に加賀美遠光の四男・光経及び五男・光俊(経光)が甲斐国山梨郡於曾郷を支配して「於曾」を名乗り、信濃守護職・小笠原氏に仕えます。信濃国国人領主北朝勢力と南朝勢力、足利尊氏党と足利直義党に二分して各所で合戦を繰り返し、混乱状態に陥っていたこともあり、あまり於曾氏に関する史料は残されておらず、僅かに1400年から1547年にかけて大塔物語や信陽雑志にその名が確認できる程度で、1445年頃からは於曾氏に代わって板垣氏が甲斐国山梨郡於曾郷を支配しています(参32)。1339年(暦応2年)、備後国得良郷(足利尊氏南北朝の動乱で九州へ落ち延びる途中に立ち寄り、尾道浄土寺に同地の地頭職を寄進)で於曾六郎兵衛尉らが濫妨(地頭以外の者が税を徴収する行為)を働いたことから、備後国守護・源兼継に抑止されています(参33、34)。また、1400年(応永7年)、大塔合戦信濃守護職・小笠原長秀とその圧政に不満を抱く信濃国国人領主・滋野氏、仁科氏、高科氏、村上氏等との合戦)では於曾七郎が信濃守護職・小笠原長秀に従って戦いますが、大井氏をはじめとした小笠原氏一門の半数以上が小笠原長秀に従わずに小笠原長秀は大敗します(参35)。さらに、1541年(天文10年)、武田信玄信濃侵攻を開始しますが(その結果、1550年、小笠原氏は信濃国の支配を失います。)、1548年(天文17年)、武田信玄の命により板垣信方の娘の婿養子・於曾(左京亮)信安が板垣氏の名跡を継いでいます(参36)。時代は下って、1841年(天保12年)、加賀美亮は盛岡藩南部氏に召し抱えられ、その子・啓之丞が於曾氏に復姓したという記録が残されており(参37)、於曾氏の庶流が信濃国から奥州各地へ流れていたものと考えられます。

 

(注6)家紋の由来

 仁賀保氏の「諸家系譜 先祖書」(参6)には、南北朝の動乱北畠顕家から武功第一として下賜された「一品」の字形を象って「箱一文字三ツ星紋」を家紋として使用するようになったという家紋の由来が記載されていますが、これは大江氏の祖である阿保親王が一品親王と称され(平城天皇の第一皇子として一品の位にあるという称号)、この「一品」を図案化して「一文字三ツ星紋」を使用し始めたという家紋の由来と酷似しており、これを借用したものではないかと推測されます。これは徳川家康征夷大将軍に就任するために清和源氏新田氏流・得川氏を祖にすると称したこと(系図買いの可能性)が背景にあり、南朝勢力を祖とする徳川家康の関心を引くための創作話である可能性も考えられます。この点、上記の由来が大江氏の家紋の由緒に取材して創作されたものであるとすれば、やはり仁賀保氏の箱一文字三ツ星紋の由来は大江氏との関係性に見出だすのが自然ではないかと思われます(注4-1)。即ち、1467年に出羽国由利郡へ下向した小笠原(大井)氏が大江氏又はその庶流の芹田氏と姻戚関係を結び、これに伴って大江氏又はその庶流の芹田氏から譲与された譲与紋である可能性が考えられます(注4-1)。なお、打越氏(内越氏)は三階菱紋を本紋とし、一文字三ツ星紋を替紋としていますが、既に1465年頃に常陸江戸氏へ仕官した打越伊賀守が丸に一文字三ツ星紋を使用していることから(参16、65)、1600年(慶長5年)に慶長出羽合戦(北の関ケ原の戦い)で毛利(大江)氏流・越後北条氏から旗指物を奪ったことによる略奪紋であるという家紋の由来(参6、39)や、1584年(天正12年)に最上義光寒河江(大江)高基を滅ぼした際に最上氏に味方した打越氏及び仁賀保氏が戦勝を記念して大江氏の家紋を使用し始めたという家紋の由来(参9)は創作話である可能性があります。この点、打越氏(内越氏)と姻戚関係を結んだ由利氏がそれよりも前から大江氏と姻戚関係を結んで一文字三ツ星紋を使用しており(由利楠家紀伝/参11)(注4-1、37)、楠木(内越)正宣と由利惟貴の曾孫・満姫の婚姻を契機として由利氏から楠木(内越)氏へ一文字三ツ星紋が譲与されたのが実際ではないかと思われます。しかし、このような家紋の由来では打越氏(内越氏)の武勇をアピールすることにならず、仁賀保氏と同様に打越氏(内越氏)も家紋の由来を創作したのではないかと考えられます。現代でも面接で実績を誇張又は創作してアピールするのと似ており、多少のハッタリを効かる機転と度量も重要な処世術として評価の対象になるのは昔も今も同様かもしれません。

 

(注7)南朝勢力・那珂氏の末裔、常陸江戸氏との関係

 常陸江戸氏は、瓜連城の戦いで楠木正家と共に南朝勢力として戦って敗れた那珂道辰の孫・那珂通泰が南北朝合一後に佐竹氏と和睦して佐竹義篤の娘を娶り常陸国那珂郡江戸郷を下賜され、名字を「江戸」と改めて誕生します。常陸江戸氏が独自の家臣団を形成するにあたり、楠木正家の末裔である打越氏(内越氏)の庶流を出羽国から常陸国へ呼び寄せて召し抱えたのではないかと推測されます。

 

(注8)文化に残る信濃国出羽国陸奥国の往還

 律令時代に五畿七道が整備され、征夷の道として設けられた北陸道東山道等を経由し、又は海路を伝って、人、物や情報が信濃国出羽国及び陸奥国との間で盛んに流通するようになります。その後、江戸時代に入り五街道及び脇街道に宿場町や飛脚制度等が設けられたことで、人、物や情報の流通が一層と盛んになりますが(江戸時代の流通革命)、江戸時代の運送業者が峠を超える際に荷を引く馬を追いながら歌う馬追い唄(馬子唄)が誕生します。その代表的な例として、碓氷峠を越える際に歌われた小諸馬子唄が打越氏(内越氏)の祖・小笠原(大井)氏の発祥地である信濃国佐久郡(越後国へ通じる北国街道と武蔵国へ通じる中仙道に分岐する追分宿)に伝わって「信濃追分節」に発展し、それを越後瞽女(高田瞽女、長岡瞽女)や座頭が門付をしながら北陸道、羽後浜街道日本海沿岸)を北上したことで広まり、やがて「津軽三味線」へと発展します。その後、信濃追分北前船の船頭により北海道の江差地方へ伝わって「江差追分節」が誕生し、逆に、それが北前船の船頭により出羽国由利郡へ伝わって「本荘追分節」が誕生します。

f:id:bravi:20190603224247j:plain 【名称】碓氷関所跡
【住所】群馬県安中市松井田町横川573
【備考】碓氷峠の入り口にある安中藩の碓氷関所跡で、日本で最初のマラソン大会である安中藩の遠足を題材とした映画「サムライマラソン」の舞台にもなった場所
f:id:bravi:20190603232039j:plain 【名称】碓氷峠
【住所】群馬県安中市松井田町坂本
【備考】1159年(天正18年)、小田原征伐で、打越光重は北国軍の信濃衆に編成され、初陣の真田幸村らと共に、碓氷峠の北条勢を撃退します。
f:id:bravi:20190603230146j:plain 【名称】信濃追分発祥の地碑
【住所】長野県佐久市軽井沢町追分1155-8
【備考】打越氏(内越氏)の祖・大井氏の発祥地へと続く碓氷峠を越える際に唄われた馬子唄が信濃追分節となり、そこから津軽三味線へと発展します。
f:id:bravi:20190505113319j:plain 【名称】分去れ
【住所】長野県北佐久郡軽井沢町追分558
【備考】左方:中山道近江国)、右方:北國街道(越後国)、後方:中山道武蔵国)で、次の岩村田宿(左方)が打越氏の祖・小笠原氏流大井家の発祥地。
f:id:bravi:20190505121634j:plain 【名称】追分宿
【住所】長野県北佐久郡軽井沢町追分570
【備考】左側に通称、枡形の茶屋と呼ばれる「つがるや」の歴史的建造物があり(ほぼ原型のまま保存)、更に追分宿の奥には油屋旅籠等も営業を継続中。
f:id:bravi:20190505120559j:plain 【名称】高田瞽女・杉本シズさんの墓
【住所】新潟県上越市東本町3-2-51
【備考】善念寺。高田瞽女は弟子を養子に入れて相伝されたので、杉本シズさんの師匠・杉本キクイさん(無形文化財)さんを含む高田瞽女の先代3名の名前も刻まれています。
f:id:bravi:20190505122032j:plain 【名称】瞽女ミュージアム高田
【住所】 新潟県上越市東本町1-2-33
【備考】善念寺の近くにある高田瞽女の文化を保存し、現代に伝えています。2020年に映画「瞽女-GOZE-」の公開も予定されています。
f:id:bravi:20190505123030j:plain 【名称】長岡瞽女小林ハルさん(無形文化財)の墓
【住所】新潟県胎内市熱田坂631の先
【備考】胎内やすらぎの家を背にして胎内フィッシングセンターを右手に見ながら道沿いに進むと左手に墓が見えてきます。
f:id:bravi:20190505123055j:plain 【名称】瞽女顕彰碑
【住所】新潟県胎内市熱田坂881-86
【備考】小林ハルさんが入居されていた胎内やすらぎの家の敷地内。瞽女唄ネットワークが長岡瞽女唄を所存し、その伝承を支援するための取組みを行っています。
f:id:bravi:20181008100859j:plain 【名称】仁太坊の里碑
【住所】青森県五所川原市金木町神原桜元30-3
【備考】はぐれ瞽女から信濃追分節(三味線)を学び、その後、太棹による力強い叩き奏法を生み出して津軽三味線を創始した仁太坊の出生地です。

 

f:id:bravi:20210516095808j:plain

 

 

第2節 楠木氏の出羽国由利郡への下向

 1336年1月(建武3年)、足利尊氏は、建武の乱で南朝勢力に敗れて九州へ落ち延びますが、1336年(延元元年)年5月、西国勢を従えて再上洛し、湊川の戦い楠木正成及び新田義貞を破って京都を制圧します(参20)。これにより後醍醐天皇比叡山へ遁れますが、名和長年や於曾貞光(打越氏(内越氏)の祖先)が内野の合戦(京の一条院跡付近)で討死し(注12)(参253)、さらに、比叡山の中腹で千種忠顕が討死します。1336年(延元元年)12月、足利尊氏は、東国の北朝勢力を支援するために高師冬が率いる大軍を常陸国へ派遣しますが、これにより東国の南朝勢力は劣勢となり、楠木正家が守備する瓜連城も落城します。楠木正家は、再起を図るために陸奥国へ落ち延び(参21、208)、金沢城出羽国平鹿郡横手郷)を経由して打越城(出羽国仙北郡打越郷(現、大沢郷寺)へと移り南朝勢力の支援に尽します(参10、11、64)。1337年(延元2年)3月、新田義貞後醍醐天皇の皇子・尊良親王と共に越前国金ヶ崎城に籠城して北朝勢力に対抗しますが、これに加っていた於曾時高(於曾貞光の子又は孫で打越氏(内越氏)の祖先)が討死します(参10、11)。1337年(延元2年)8月、北畠顕家は、後醍醐天皇及び北畠親房の援軍要請に応えて再上洛しますが、この再上洛軍に楠木正家が加わったと考えられます(参208)(但し、親川楠家系図(参11)では、楠木正家は出羽国で没したと記しています)。一方、出羽国に留まった楠木正家の子・楠木正安は「打越将監」という通称を名乗り(打越氏の祖)、また、楠木正家の娘の婿養子になった小笠原(三郎左衛門)義知は内越城(平岡館)(出羽国由利郡内越村)を築城して「内越」を名乗ります(内越氏の祖)(注10、13-1、13-2、20-2)。さらに、内越義知の子・楠木(内越)正宣は由利維貴の曾孫・満姫を娶って内越城(平岡館)から岩倉館(出羽国由利郡川口村)へ移り、出羽国由利郡における勢力基盤を固めます(参6、11、22、23)(注11、14)。1338年(延元3年)5月、北畠顕家は、度重なる戦闘による損耗と疲労で次第に劣勢となり、石津の戦いに敗れて南部師行や名和義高らと共に討死します(参253)。その後、1348年(正平3年)1月、四条畷の戦いで楠木正行、楠木正時、和田賢秀らと共に楠木正家が討死します(注9)(第2部第2巻第2段①を参照)。

▼楠木正家、楠木(打越)正安が自らの心境を詠った和歌(参11)

いにしへを のべはくるし 玉の緒の 絶ゆるばかりに とくるともなし(正家)

【現代語訳】昔を振り返っても、苦しいいことの連続であり、束の間の幸せも、いつ終わるか分からない。

かしこしな めくみの露の 置添へし 昔のあきを 今おもふにも(正安)

【現代語訳】色鮮やかな紅葉に付いている露のように、昔の秋を思い返しても美しいものに感じられる。

 

(注9)四条畷の戦いと金峰山寺四条畷神社

 1347年(正平2年)6月、楠木正行北朝勢力との決戦を決意し、吉野行宮で後村上天皇に拝謁した後、後醍醐天皇陵を参拝して、如意輪堂の扉に「かへらじと かねて思へば梓弓 なき数に入る 名をぞとどむる」という辞世の句を鏃で刻みます。その後、楠木正行は、紀伊国橋本で挙兵し、八尾城の戦い、藤井寺教興寺の戦い、住吉・天王寺の戦いと連勝します。1348年(正平3年)1月、楠木正行を大将とする南朝勢力と高師直を大将とする北朝勢力が大阪府大東市北条周辺(四条畷神社と小楠公墓地の間を通る東高野街道沿い)で激戦となり、約20倍近い兵力差があったにも拘らず、南朝勢力が北朝勢力を約3kmも押し戻す奮戦を見せますが、衆寡敵せず、楠木正行らは自刃します。その後、吉野行宮は陥落し、後村上天皇は賀名生へ行宮を移します。時代は下って、明治政府は、明治維新の根源は建武中興と吉野朝にあるとして、1889年(明治22年)、四条畷神社を建立して楠木正行、楠木正家や和田賢秀らを祀ります。

f:id:bravi:20181231102722j:plain 【名称】楠木正行 辞世の句
【住所】奈良県吉野郡吉野山(如意輪堂宝物殿)
【備考】楠木正行四条畷の戦いに向かうにあたり如意輪寺の扉に鏃で刻んだ辞世の句が残されています。
f:id:bravi:20181231093732j:plain 【名称】如意輪寺 芳名録
【住所】奈良県吉野郡吉野山(如意輪堂宝物殿)
【備考】楠木正行に従って四条畷の戦いに参陣した芳名録に楠木正家の名前があります。
f:id:bravi:20181231094020j:plain 【名称】和田賢秀の鎧(胴巻き)
【住所】奈良県吉野郡吉野山(如意輪堂宝物殿)
【備考】楠木正季の嫡子・和田賢秀(歯神様)が身に着けていた鎧(胴巻き)です。
f:id:bravi:20170527085832j:plain 【名称】四条畷神社
【住所】大阪府四条畷市南野2-18-1
【備考】四条畷神社の古戦場跡に建立され、楠木正行主祭神とし、楠木正家、和田賢秀らを配祀しています。
f:id:bravi:20170527085830j:plain 【名称】楠木正行の墓
【住所】大阪府四條畷市雁屋南町27-5
【備考】四条畷神社の向かいには楠木正行(小楠公)の墓が建立され、その隣に楠の大樹(大楠公)が植樹されています。
f:id:bravi:20180704204632j:plain 【名称】和田賢秀の墓
【住所】大阪府四條畷市南野4-15-6
【備考】楠木正行の従弟で四条畷の戦いで討死します。なお、打越氏(内越氏)の発祥地の1つに和田賢秀が開基した真光寺があります。

 

(注10)打越氏(内越氏)の6種類の家系図

 打越氏(内越氏)の家系図は、代表的なものだけを挙げても以下の①乃至⑥の6種類が確認でき(但し、注2-2を参照)、これらの家系図が相互に有機的に絡み合って打越氏(内越氏)の家系図を構成しています(参26、27)。

寛政重修諸家譜(巻二百五 打越):小笠原(大井)朝光を祖とする系流

②蕗原拾葉高遠進徳本(打越家系):小笠原(大井)朝光を祖とする系流

③打越氏御先祖様代代覚書控(矢島町史続上巻):於曾光俊を祖とする系流

④由利家及打越家系図本荘市蔵):楠木正家を祖とする系流

久保田藩諸士系図(源姓打越氏):打越(三郎兵衛)光重を祖とする系流

紀州家中系譜並に親類書書上げ(源姓打越氏):打越藤左衛門を祖とする系流

 それぞれの家系図又は正史と比較して整合性がとれない部分も散見されますが、現代人が作成する書類でも日時や人名等の誤りがあることは珍しいことではなく、寧ろ、多少の記憶違いや誤記等の不備があるのは自然なことです。そのうえで、それぞれの家系図又は正史との比較で整合性がとれる説明を試みるとすれば、大要、以下のとおりになるのではないかと考えます。なお、上記①乃至④の家系図の相関関係は、後掲の図表3をご参照下さい。

 上記①乃至③の家系図は、河内(甲斐)源氏流・加賀美遠光から分家した系流(秋山氏、小笠原氏、南部氏、於曾氏)を祖としてまとめられているものです。上記①の家系図は、小笠原(大井)朝光を祖とする系流のうち、打越(宮内少輔)光重以後の世代について詳細に記録し、上記③の家系図は、於曾光俊を祖とする系流のうち、打越(宮内少輔)光重以前の世代(於曾氏)について詳細に記録しており、上記①及び③の家系図は系流を異にしながらも相互補完関係にあります。これは豊臣秀吉が奥州仕置で由利十二頭を由利五人衆に再編成し、出羽国由利郡内越村及びその周辺(芋川及び赤川の流域の1250石)の本領安堵御朱印状を小笠原(大井)氏流・打越(宮内少輔)光重に下賜したことで(豊臣秀吉による土地支配の正当性)(参15)、打越(宮内少輔)光重(上記①の家系図)が惣領家に定まり、それまでは不完全な惣領制の下で独立していた於曾氏(上記③の家系図)が支配していた土地(≒於曾氏の家督)を統合、承継した為ではないかと推測されます。なお、一部の文献(参10、11)には「光俊」を小笠原長清の弟としながら、於曾光俊ではなく小笠原光俊と記載しているものがあり、また、上記③の家系図には「光俊」の子・光晴から小笠原氏を名乗ったと記されていますが、これらは誤りと思われます。よって、このWEBでは、小笠原(大井)氏流・打越(宮内少輔)光重が豊臣秀吉から本領安堵御朱印状を下賜され、於曾氏が支配していた土地(≒於曾氏の家督)を統合、承継するまでの間は、両者を明確に分けて記載しています。

 上記②の家系図は、小笠原(大井)朝光を祖とする系流のうち、打越(宮内少輔)光重以前の世代(小笠原(大井)氏)について詳細に記録し、上記①及び②の家系図は系流が同一で相互補完関係にあります。なお、蕗原拾葉高遠進徳本(正編150巻、続編338巻、巻外20巻)は、信濃国の高遠藩が高遠藩及び信濃国郷土史を編纂したものであり、このうち打越家系は諏訪家譜、真田内伝、滋野姓氏権与と共に巻外第4巻に収められています。但し、巻外は、蕗原拾葉高遠進徳本を編纂するにあたって収集した資料のうち、正編又は続編で採り上げなかった資料をまとめたもので、それらの内容は十分な検証が加えられていない可能性があり、その取扱いには慎重を要します。

 上記④の家系図は、打越氏(内越氏)から楠(木)氏へ復姓した系流の家に伝えられる親川楠家系図(参11)をベースにし、これに含まれている誤謬等を由利楠家紀伝、恵林寺過去帳、由利十二頭記、打越旧記等を参考にしながら補正したものですが(参6、11)、これによれば楠木正家の子・楠木正安が「打越将監」という通称を名乗ると共に、楠木正家が娘の婿養子として迎え入れた小笠原大和守の三男・小笠原義知が内越城(平岡館)(羽国由利郡内越村)に本拠を構え、「内越」を名乗っています。さらに、内越義知の子・楠木(内越)正宣は、在地勢力の由利惟貴の曾孫・満姫と婚姻関係を結んで内越城(平岡館)(出羽国由利郡内内越村)から由利氏の居城である岩倉城(出羽国由利郡川口村)へと本拠を移し、勢力基盤を固めています。これにより楠木(打越)正安と楠木(内越)正宣は叔父と甥の関係となりますが、打越氏と内越氏の2つの表記が混在しているのは上述のような経緯を経ているからだと思われます。

 上記⑤の家系図は、久保田藩士・打越(三郎兵衛)光政が久保田藩へ提出したもので、打越(三郎兵衛)光重を祖としていますが、上述の打越(宮内少輔)光重や小笠原(又次郎)光重(打越旧記/参11)とは別人と考えられます。この点、佐竹義宣常陸国を支配していたのは1586年(天正14年)から1602年(慶長7年)までの間ですが、豊臣秀吉から打越(宮内少輔)光重へ本領安堵御朱印状が下賜されて惣領家に定まった時点又は打越(飛騨守)光隆が打越氏(本家Ⅰ)の家督を相続した時点で、打越氏(本家Ⅰ、分家Ⅰ)の庶流が浪人して常陸国の佐竹氏に仕官を求めたのではないかと推測されます。なお、この時代には一門内に同名の者がいる例は珍しくなく、例えば、小笠原(大井)朝光の叔父・於曾光俊と小笠原(大井)朝光から数えて第7代目・小笠原(大井)光俊とは同名別人です。

 最後に、上記⑥の家系図は、紀州藩士・打越氏が紀州藩に提出したもので、雑賀衆・打越藤左衛門を祖としていますが、紀ノ川の大氾濫で大垣内堤防が決壊したことにより、少なくとも4種類の家系図が流失し、詳しい由緒が分からなくなっています。この点、紀伊国発祥の打越氏(内越氏)が出羽国発祥の打越氏(内越氏)から派生したことを示す直接的な証拠は発見できていませんが、①出羽国発祥の打越氏(内越氏)は清和源氏及び物部氏族熊野国造系和田氏を源流としており(参2)、両者は同じ源流であること、②由利十二頭は熊野詣する修験道を利用して諸国の情勢偵察を行わせており(参28、29)(注25)、紀伊国との間で活発な交流があったと考えられること、③出羽国の打越正義は石山本願寺合戦で顕如上人から援軍を要請され、その名代として弟・打越三郎左衛門を紀伊国雑賀荘の鷺森別院(雑賀御坊)へ派遣していますが(参11)、同じく鷺森別院(雑賀御坊)を守備していた物部氏族熊野国造系和田氏を祖とする楠木正意が出羽国由利郡打越郷(内越村)へ遁れたという記録があること(参3、52)、④雑賀衆・打越藤左衛門は顕如上人に味方して本庄城を守備しており(参31)、石山本願寺合戦では出羽国の打越三郎左衛門と協力して織田信長に抵抗したと考えられること、⑤俗に「最上家の三兵庫」と呼ばれる最上義光の傘下の1人に雑賀兵庫がおり(参219)、紀伊国出羽国との間で人流があったと考えられること、⑥出羽国発祥の打越氏(内越氏)が古文書の記録に登場してから約150年後に紀伊国発祥の打越氏が土豪として古文書の記録に登場しますが、1450年頃から1590年頃までの間に出羽国由利郡発祥の打越氏(内越氏)の庶流が仕官先を求めて諸国へ移っている例があることなどから、出羽国由利郡から打越氏(内越氏)の庶流が紀伊国へ移って土豪化した可能性も十分に考えられ、上記③及び④などから両者には何らかの人脈があった可能性が考えられます。

f:id:bravi:20200209163804j:plain

 

(注11)楠木氏の下向経緯

 親川楠家系図(参11)には、1391年(元中8年)に楠木正家や小笠原信濃守が成良親王を奉じて奥州へ下向したと記載されていますが、成良親王は1334年(師守記)又は1336年(太平記)に薨去したと記されていることから、おそらく土地支配の正当性の根拠とし又は奥州の南朝勢力の士気を高めるために成良親王の奥州下向を喧伝したものがそのまま家系図に記載され、又は古伝として残されているのではないかと推測します。この点、楠木正家の孫・楠木正宣の没年1419年(応永26年)から逆算すると、1336年に瓜連城が落城して陸奥国へ落ち延びた楠木正家が出羽国由利郡へ入部したとしても不自然ではありません。その後、楠木正家の娘の婿養子として小笠原大和守の三男・小笠原(内越)義知を迎えたことを始め、楠木(内越)正国の妻として小笠原義光の娘、楠木(打越)正春の妻として小笠原(仁賀保)兵庫頭の娘、楠木(内越)正兼の妻として小笠原(岩谷)行義の娘など、楠木氏と小笠原氏(仁賀保氏、岩谷(屋)氏)等との間で姻戚関係が重ねられています。(参11)(第1部第2巻第2段①を参照)

 

(注12)南北朝の動乱と於曾氏の戦い

 打越氏御先祖様代代覚書控(参10)には、1335年(建武2年)5月、打越氏の祖先である第10代・於曾貞光が後醍醐天皇に味方して京で討死したという記録が残されています。この点、1335年12月に足利尊氏後醍醐天皇に謀反し、1336年1月、陸奥鎮守府将軍北畠顕家が京を包囲していた足利尊氏を一掃しますが(参20)、再び、1336年5月に足利尊氏が西国勢を従えて京を占領しており、名和長年らと共に於曾貞光が内野の合戦(京都市上京区梨木町192の一条院跡周辺)で討死したものと思われます。よって、於曾貞光の没年は1335年5月ではなく1336年5月が正しいのではないか(誤記)と思われます。さらに、1337年1月、後醍醐天皇の皇子・尊良親王新田義貞新田義顕らが籠城する越前国金ヶ崎城で第12代・於曾時高も討死します。なお、1336年5月から1337年1月までの短い期間のうちに第11代・於曾光時が代替りしていますが(参10)、その詳しい経緯等については記録が残されていません。

f:id:bravi:20200518063443j:plain 【名称】名和長年戦没遺蹟
【住所】京都府京都市上京区梨木町192
【備考】1336年(元弘元年)6月、名和長年らは一条院跡周辺で行われた内野の合戦で討死。後醍醐天応は比叡山へ遁れ、新田義貞日吉大社へ布陣。
f:id:bravi:20190923133821j:plain 【名称】金ヶ崎城跡(金崎宮)
【住所】福井県敦賀市金ヶ崎町1
【備考】1337年(元弘2年)3月、金ヶ崎城の戦いに敗れた尊良親王及び新田義顕と共に、於曾時高ら兵約100名が討死又は自害しています。
 

(注13-1)打越(内越)の読み方

 秋田県由利本荘市及びその周辺には「打越」(訓読み:うつこし、うちこし、うちごし)又は「内越」(音読み:うてつ)という地名が計4ケ所ありますが、一般に、武家は土地の支配権を示すためにその地名を名字(田の)として名乗っており、また、逆に土地を支配した武家の名字がその土地の字(あざ)となるケースもあります。なお、日本海側の地域では「越」を「えつ」と音読みし(例えば、越後国越中国越前国など)、それ以外の地域では「越」を「こし」と訓読みする傾向があります(注13-2、34)。因みに、Weblioの英文文例では「うちこし」が使用されています。

①「恵林寺資料」(参10)には、楠木正家は出羽国仙北郡打越郷(現、大沢郷寺)に打越城(うつこし)を築き、その地名から打越氏を名乗ったと記載しています。

②「寛永諸家系図伝」「寛政重修諸家譜」「干城録」には打越(うていち)と音読みで記していますが、打越光輪の代に打越(うちこし)と訓読みに統一されています。

秋田県湯沢市松岡字打越(うちごし)には、江戸時代の国学者菅江真澄が訪れ、南北朝時代に楠木正家が籠城したと言われる金沢柵跡に近い出羽国雄勝郡松岡郷打越村に、軍記物に名前が登場する打越式部太夫や打越孫四郎が住んでいたことや現在はその子孫の打越孫治郎及び内越民部少輔が住んでいるが詳しい住所は分からないことなどを記しています(参39)。因みに、久保田藩佐竹氏に仕官していた打越平角、打越安之助はこの近隣の秋田県横手市上境に知行地がありました。

秋田県由利本荘市下直根字打越(うちこし)には、新田氏の末裔が多数分布していますが(第4部第3段①を参照)、親川楠家系図(参10)には打越氏(内越氏)が新田氏とも姻戚関係を結んだという記録が残されています。なお、この近くにある秋田県由利本荘市鳥海町栗沢字牛ケ首には、楠木正家が築城し、楠木(打越)小次郎が守備した小次郎館跡があります(参235、236、237、238)(注4−2)。また、正重寺(秋田県由利本荘市鳥海町中直根前ノ沢108−1)及び慈音寺(秋田県由利本荘市鳥海町上笹子石神4−2)は、打越氏(内越氏)の菩提寺・龍源寺の末寺ですが、このうち正重寺は木曽義仲重臣・根井正重が開基した根井氏の菩提寺です。

 

(注13-2)全国の主要な打越(内越)の地名又は呼称

 居住地の近くに名字と同じ地名等があると、そこが発祥地のような錯覚を受けますが(注13-1)、地名等の発生時代や地史等を調べると(角川日本地名大辞典、日本歴史地名体系等)、そこが発祥地か否かの凡その見当が付きます。この点、打越氏(内越氏)の発祥地となり得るのは、鎌倉時代までに使用している地名と考えられます。なお、古文書等に記録がない地名の発生年代を推測することは困難ですが、下表では可能な範囲で最も古い記録の年代を記載しています。 
地名 時代 備考 読み
秋田県由利本荘市内越 律令 内越氏の発祥地
内越城(平岡館)
うてつ
秋田県大仙市大沢郷寺 鎌倉 打越氏の発祥地
打越城(白坂館)
うつこし
秋田県由利本荘市鳥海町下直根打越 元弘寺、小次郎館、高健寺など南朝遺構 うちこし
秋田県湯沢市松岡打越 江戸 打越孫治郎、内越民部少輔の屋敷 うちこし
うちごし
福島県耶麻郡猪苗代町千代田打越 江戸 新潟県小千谷市吉谷の打越集落から移住 うちこし
福島県栗山村西川打越 江戸 現在はなし うちこし
栃木県芳賀町打越新田 戦国 打越光行が新田開発 うちこし
茨城県那珂湊町打越前 現在はなし
打越幹嗣の拝領屋敷
うちこし
埼玉県所沢市山口打越 戦国 現在はなし うちこし
埼玉県富士見市みずほ台 打越遺跡
打越館
うちこし
おっこし
東京都中野区中野打越 江戸 打越天神北野神社 うちこし
東京都八王子市打越町 鎌倉 打越八幡社
打越弁財天
うちこし
東京都千代田区新橋1丁目 江戸 打越屋敷(龍造寺氏分家・村田氏の館) うちこし
千葉県袖ケ浦市打越 戦国 打越城 うちこし
神奈川県横浜市中区打越 うちこし
神奈川県藤沢市遠藤打越 おっこし
神奈川県厚木市飯山 打越熊野神社 うちこし
長野県上田市真田町 戦国 打越城 おっこし
愛知県みよし市打越町 江戸 うちこし
愛知県長久手市打越 うちこし
岐阜県岐阜市打越 鎌倉 打越氏の発祥地 うちこし
新潟県新潟市西蒲区打越 室町 打越屋敷(武田氏旧臣・澤将監の館) うちこし
石川県小松市打越町 室町 うちこし
石川県加賀市打越町 戦国 打越城(勝光寺)
打越菅原神社
うちこし
石川県輪島市打越町 江戸 うちこし
富山県南砺市西赤尾町打越 江戸 うちこし
うちごえ
福井県丹生郡越前町打越 うちこし
京都府京都市下京区打越町 うちこし
京都府京都市山科区栗栖野打越町 うちこし
京都府福知山市多保市 戦国 打越城(武田氏旧臣・大槻氏の居城) うちこし
京都府舞鶴市下東 戦国 打越城 うちこし
滋賀県甲賀市甲賀町隠岐 戦国 打越城 うちこし
三重県鈴鹿市岸岡町字打越 うちこし
三重県度会郡南伊勢町伊勢路 戦国 打越城(愛洲久忠が陰流を創始した地) うちこし
大阪府門真市打越町 江戸 うちこし
兵庫県姫路市打越 江戸 うちこし
兵庫県神戸市東灘区本山町田中 打越山 うちこし
和歌山県和歌山市打越町 鎌倉 打越氏の発祥地 うちこし
和歌山県田辺市下川下打越 鎌倉 打越氏の発祥地 うちこし
広島県広島市西区打越町 江戸 隣は楠木町 うちこし
徳島県海部郡美波町山河内打越 戦国 打越寺 うちこし
香川県坂出市府中町打越 打越窯跡 うちこし
福岡県北九州市戸畑地区打越町 現在はなし うちこし
福岡県田川郡糸田町打越 うちこし
大分県国東町打越 江戸 現在はなし うちこし
長崎県諫早市小長井町打越 江戸 現在はなし うちごし
熊本県熊本市北区打越町 鎌倉 打越城(南朝勢力・菊池氏の居城)
打越菅原神社
打越駅
うちこし
うちごし
熊本県宇土市栗崎町打越 室町 宇土古城(南朝勢力・名和氏の居城) うちごし
熊本県熊本市北区清水町打越 江戸 うちごし
熊本県阿蘇市三久保 江戸 打越菅原神社 うちこし
鹿児島県日置市吹上町湯之浦 戦国 打越城(南朝勢力・伊作(島津)忠親の居城) うちこし

 

(注14)秋田県由利地方に残る楠木氏の痕跡

 秋田県由利地方には、楠木氏に関する数多くの古伝に加えて、歴史的な痕跡が残されていますので、以下に代表的なものを挙げます。なお、南朝勢力の楠木氏は「悪党」(室町幕府に反抗する者)と評され、水戸藩主・徳川光圀や彰考館総裁・打越直正らが大日本史編纂において「南朝正当論」を唱えるまでは歴史的に正当な評価を受けていませんでした。そのためか楠木氏に関する記録は非常に少なく、その家系図や事績等の詳細を知ることはできませんが、秋田県由利地方やその他の地域に楠木氏と打越氏の関係を示す歴史的な痕跡が残されています。この点、このWEBは、学術的に価値のある研究等に資することを目的としていませんので、学説の争いがある楠木氏の出自や家系図等には深入りせず、主に、秋田県由利地方に残る楠木氏に関する古伝や痕跡等を挙げるに留めます。

 

①打越旧記(参22)。

打越旧記は、1428年(応永35年)時点の出羽国由利郡の支配条状況を記したもので、由利十二頭として楠(木)氏の名前を記しています。

由利十二頭

楠氏の一族、仲太郎。

又次郎光重、滝沢住(小笠原氏族)

子三郎光宗、子吉住。(同上)

四郎左衛門光貞、赤宇津住。(池田氏

式部光安、玉米住。(小笠原氏族)

鳥海三郎、西岡住。

新田義貞一族、長浜住。羽根川修理太夫長浜、新田氏同住。

佐兵衛、岩倉住。(小笠原氏族)

木曽左馬介、矢島住。

彌八郎、石沢住。(小笠原氏族)

応永末年の事也 

※「仲太郎」とは由利太郎のこと

②由利家及打越家系図(参6)。なお、本荘郷土資料館には打越氏(分家Ⅰ)から復姓した親川楠家に代々伝わる菊水紋の甲冑が展示されています。

楠木正家の墓秋田県由利本荘市岩谷町)。

④1390年~1394年(明徳年間、本荘市史年表索引編には1395年)、楠木(内越)正宣は楠木一族の菩提を弔うために出羽国由利郡内黒瀬村に恵林寺(寺紋:菊水紋)を開基し、境内に楠木(内越)正宣の墓があります。

⑤1394年~1427年(応永年間)、楠木(内越)正宣は内黒瀬に神明社を建立し、その後、内越(楠木)正淑によって再建されています(参220)。

⑥1623年(元和9年)、打越光久が打越光隆の菩提を弔うために開基した龍源寺(その後、生駒氏の菩提寺)の寺紋は、現在、生駒氏の家紋である半車紋が使用されていますが、打越氏(内越氏)が矢島領主であった時代は菊水紋が使用されています(参27、205)。

⑦高建寺の由緒書き(参26)には、1427年(応永34年)、傑堂能勝禅師(楠木正儀の子・楠木正能)が楠木一族の菩提を弔うために出羽国由利郡に開基したとあります(寺紋:菊水紋)。なお、傑堂能勝禅師は、1394年(応永元年)に越後国蒲原郡に耕雲寺(寺紋:菊水紋)及び1447年(文政4年)に陸奥国会津郡に天寧寺(現、秋田県仙北市)を開基しています。

楠木正成の嫡男・楠木正行、楠木正時、楠木正家、和田賢秀らが祀られている四条畷神社には、打越氏の末裔が奉納した楠木氏の遺品である「鉢割」(志津三郎兼氏作、九寸八分)と「藍金蘭の袋」が保管されています(参11)。

☞ 志津三郎兼氏政宗に師事し政宗十哲の一人に数えられる日本刀の名匠で、鎌倉時代後期から南北朝時代前期に活躍しています。なお、楠木正成の所蔵と伝わる志津三郎兼氏作「兜割」(在銘「五郎入道政宗造之 元弘元年二月日 楠多門兵衛正成志津三郎源兼氏新模之」)なども存在します。

⑨楠木正家やその一族が拠点とした打越城(白坂館)岩倉館内越城(平岡館)黒瀬館、小次郎館(牛越館)、元弘寺等の遺構が残されています。

⑩1334年(建武元年)、後醍醐天皇は、楠木正成に対し、出羽国の内陸を縦断する羽州街道(国道13号線)の入り口にあたる出羽国屋代松の地頭職を下賜しており(参40)、陸奥国を縦断する奥州街道(国道4号線)の入り口にあたる多賀城(太平洋側)に北畠顕家出羽国の沿岸を縦断する羽州浜街道(国道7号線)の入り口にあたる大井田城日本海側)に新田義貞を配置し、楠木正家が守備する常陸国久慈郡(後に那珂郡)の瓜連城を前線基地として東国の守備を固めています。その後、楠木正家は瓜連城が落城すると鎮守府将軍北畠顕家を頼って陸奥国へ落ち延び(参21、208)、その後、出羽国へ移って南朝勢力を支援しながら再起を図りますが、由利地方(国道7号線沿い)や横手地方(国道4号線沿い)に楠木氏の末裔の分布があるのはこのような歴史的な経緯があることも関係していると思われます。なお、1347年(正平2年)、北畠顕家の弟・北畠顕信は霊山城が落城すると出羽国へ遁れ、また、1351年(正平8年)、再び宇津峰城等が落城すると出羽国由利郡へ潜伏して再起を図っており(参41)、北畠顕信出羽国由利郡へ潜伏していた時期に鳥海山大物忌神社に納めた南朝復興と出羽国静謐を祈願する寄進状が残されています(参8)。この点、最上川以北の出羽国飽海郡及び由利郡は南朝勢力が強く、最上川以南の出羽国田川郡は北朝勢力が強かったと言われています(参41)。

⑪1335年(建武2年)12月、後醍醐天皇から綸旨を下賜された鎮守府将軍北畠顕家は「伊達、信夫、金沢、大沢、赤宇津、由利、鳥海、大山、最上の者共、結城、宇都宮が勢馳せ着いて三万余騎也」(参20)の軍勢を従えて出陣し、鎮守府将軍北畠顕家の要請に応じて打越氏(内越氏)の祖先である小笠原(大井)行光が参陣したという記録が残されていることから(参9)、小笠原(大井)行光の地頭代として出羽国由利郡を支配していた小笠原(大井)氏の庶流が従軍したものと考えられます。この点、地政学的な理由から、南部氏や結城氏などと同様に、信濃国の小笠原(大井)氏は北朝勢力、出羽国の小笠原(大井)氏の庶流は南朝勢力に分かれて動いていたのではないかと推測されます。なお、1343年(康永2年)9月、南朝勢力であった結城親朝北朝勢力へ寝返り、その注進状に由利兵庫介の名前が含まれていることから(参42)、由利氏は結城氏の誘いに応じて南朝勢力から北朝勢力へ寝返り生き残りを図ったものと思われます。最上川以北の出羽国飽海郡及び由利郡は南朝勢力が強かったと言われていますが(参41)、北朝勢力が優勢になるにつれ、南朝勢力にも相当な動揺が広がっていたことが窺がわれます。

f:id:bravi:20170505094628j:plain 【名称】楠木正家の墓(大内公民館)
【住所】秋田県由利本荘市岩谷町日渡100
【備考】楠木正家、打越勝光、打越勝正、打越正朝、岩谷朝繁の名前が刻まれていますが、楠木正家に正四位が追贈された際に再建されています(注1)。
f:id:bravi:20170505094624j:plain 【名称】楠木正宣の墓(恵林寺
【住所秋田県由利本荘市内黒瀬程岡37
【備考】恵林寺(寺紋:菊水紋)を開基した楠木(内越)正宣の墓が安置されています。楠木正成が千早赤坂村に建立した味方塚と同じ形状の墓です。
f:id:bravi:20180429061402j:plain 【名称】神明社
【住所】秋田県由利本荘市内黒瀬坂ノ下1-1
【備考】楠木(内越)正宣が内黒瀬に建立し、その後、内越(楠木)正淑が社殿を再建しています。
f:id:bravi:20170505094631j:plain 【名称】龍源寺(打越光隆の像)
【住所】秋田県由利本荘市矢嶋町城内田屋の下26
【備考】打越光久が打越光隆の菩提を弔うために建立(参205)。打越氏(内越氏)が出羽国由利郡矢島郷を支配していた時代の寺紋は菊水紋です。
f:id:bravi:20180918205938j:plain 【名称】高健寺(寺紋:菊水紋)
【住所】秋田県由利本荘市矢島町立石上野120
【備考】楠木正儀の子・楠木正能が出家して傑堂能勝禅師を名乗り、楠木一族の菩提を弔うために耕雲寺、天寧寺、高健寺を開基しています。
f:id:bravi:20180825154004j:plain 【名称】岩倉館跡
【住所】秋田県由利本荘市福山岩倉81
【備考】楠木(内越)正宣が由利惟貴の曾孫・満姫と婚姻し、内越城(平岡館)から岩倉館へ移ります。現在、岩倉館跡には日本海東北自動車道が開通しています。
f:id:bravi:20190608085828j:plain 【名称】黒瀬館跡
【住所】 秋田県由利本荘市内黒瀬坂の下
【備考】小笠原義知が楠木正家の娘の婿養子として内越城(平岡館)に入り、楠木正安は打越城(白坂館)から黒瀬館へ移っています。
f:id:bravi:20190908211456j:plain 【名称】北畠顕信寄進状(本荘郷土資料館蔵)
【住所】秋田県由利本荘市石脇弁慶川5
【備考】出羽国由利郡へ潜伏していた北畠顕信は、南朝復興等を祈願する寄進状を鳥海山大物忌神社に納めています。

 

f:id:bravi:20210516155901j:plain

 

トップに戻る

第1部第1巻 打越(内越)氏の発祥(第3段)

第3段 紀伊国海部郡宇須村字打越発祥

 

 打越氏(内越氏)は、物部氏族熊野国造系和田氏を源流の1つとしますが(参2)、和田氏は、代々、熊野本宮大社神職を務め、その後裔は紀伊国及び河内国へ分布して河内和田氏(楠木氏の同族)の祖であると言われています(参50)。知る限り、紀伊国河内国及びその他畿内周辺地域で打越氏が登場する最も古い記録は、1531年(享禄4年)、熊野八庄司の1つ玉置氏が河内(甲斐)源氏小笠原氏流・安宅氏の家督争い(安宅一乱)に乗じて阿州侵攻を計画し、近郷の地侍に出陣を要請した際、その中に湯川氏、湯浅氏及び津田氏(楠木正儀の後裔)等と並んで打越氏の名前が記録されているものです(参43)。また、1535年(天文4年)、紀伊国五荘郷(雑賀荘、社家郷、中郷、南郷、十ケ郷)を支配していた地侍で構成される集団(伊賀国(注19-1)や加賀国と同様に主家を持たずに共和自治を行う惣国的な集団)として「雑賀衆」という言葉が初めて歴史上に登場し(参44)、1543年に大隅国種子島に伝来した鉄砲をいち早く合戦に導入するなど鉄砲隊と水軍を備える戦闘能力が高い傭兵集団として全国から注目されるようになります。そのなかに鈴木氏、佐武氏及び津田氏等と並んで打越氏の名前が登場します(参45、46)(注15、16、17、27、20-2)。これらの記録は出羽国由利郡内越村発祥の打越氏(内越氏)の最も古い記録から約150年後のものです(注10)。

 雑賀衆は、諸国からの浪人(主家を去って封禄を失った武士)が多く、それらの者が相互に姻戚関係を重ねながら団結を強めていますが(参45)、例えば、1450年頃に打越伊賀守が常陸江戸氏へ仕官している事例(参16、65)や1590年頃に打越(三郎兵衛)光重が浪人して佐竹氏へ仕官を求めている事例(上記⑤の家系図)など打越氏(内越氏)の庶流が浪人して出羽国由利郡から他国へ仕官先を求めた事例は少なくありません。この点、由利十二頭は熊野詣する修験道を利用して諸国の情勢偵察を行わせていたという記録が残されており(参28、29)(注25)、出羽国紀伊国との間で頻繁な往来があったと考えられること(注18)などから、出羽国由利郡内越村発祥の打越氏(内越氏)の庶流が浪人して紀伊国へ土着し、土豪化した可能性も考えられます(注10)。

 因みに、打越氏の発祥地である紀伊国海部郡宇須村字打越には、打越氏の菩提寺である浄土真宗本願寺派「真光寺」が建立されていますが、その由緒を紐解けば、楠木正行や楠木正家らと共に四条畷の戦いで討死した楠木正季の子(楠木正成の甥)・和田賢秀が1336年(延元元年)に和泉国日野郡に開基し、後醍醐天皇の勅願所となった真言宗「嘉祥寺」を、この地で再興して浄土真宗に改宗し、1464年(寛正5年)、蓮如上人が寺号を「真光寺」へと改めています(参201)。

 

(注15)雑賀衆の構成員

 雑賀衆を構成する地侍は、湯川直春が雑賀衆との間で取り交わした「起請文」(東京湯川家文書)や「紀伊国旧家地士覚書」及び「南紀士姓旧事記」等から、凡そ、下表のとおりであったと考えられています(参45)。なお、雑賀衆は、火縄銃の欠点を克服するために「弾込」→「点火」→「狙撃」を3人1組で分担して行うことで連射を可能にする戦法を考案しますが、織田信長はこれを盗用して長篠の戦い武田勝頼に勝利します。但し、織田信長は、3人1組のうち狙撃手を撃たれてしまうと機能しなくなり敵に1点突破を許してしまう弱点を見抜き、「弾込」→「点火」→「狙撃」を1人で行わせてそれを3段に並べて順番に発射して連射する方法に改め、ゲリラ戦だけではなく組織戦闘にも通用する戦法に改良しています。織田信長は独裁的な中央集権国家を志向しているという意味では中近世的な思考ですが、雑賀衆は民主的な共和制国家を志向しているという意味では近現代的な思考と言え、民主的な価値観を持つ雑賀衆は独裁的な価値観を体現しようとする織田信長に激しく抵抗しています。

【雑賀荘】

粟(栗)村、植松、打越、岡、幸仏(物)、佐武(佐竹)、慈幸、嶋本(狐島)、鈴木、巽、土橋、中嶋、中村、林、藤木、穂出、松田、的場、宮本(湊)など

【十ケ郷】

鈴木(平井)、弾塚、中村、毘舎利、松江、向井、横庄司など

【中 郷】

岩橋(湯橋)、江川、岡崎、神谷、栗栖津田、土井、鳥居、林、佐和など

【宮 郷】

秋月、家永、太田、木村、黒田、神前、坂、嶋村、戸田、堀内、吉田など

【南 郷】

井口、石倉、石黒、稲井、宇野辺、大河内、岡本、奥、尾崎、坂本、田嶋、田所、土屋、角田、土井、中山、藤田、三尾、三上、森、矢野など

 (「紀州雑賀衆 鈴木一族」(鈴木真哉著/新人物往来社)より引用)


(注16)雑賀衆の誕生

 雑賀衆紀伊国五荘郷の地侍で構成される共和自治を行う惣国的な集団)は、応仁の乱以後、紀伊国及び河内国守護大名・畠山氏の要請に応じて近畿地方を転戦する傭兵集団として成長しますが、1542年(天文11年)、その後、畠山氏が没落すると、1543年(天文12年)、種子島に伝来した鉄砲をいち早く導入して鉄砲隊及び水軍を備えた傭兵集団として全国から注目を集めるようになります。なお、雑賀衆石山本願寺に帰依する一向宗を中心とする地根来衆根来寺に帰依する真言宗を中心とする兵という違いがあります。

 

(注17)鉄砲伝来と薩摩商い

 1185年(元暦元年)、熊野別当・湛慶(弁慶の父)は、平氏追討使に任命され、熊野水軍を組織して壇ノ浦の戦いに参陣します。時代は下って、1341年(暦応4年)、南朝勢力の肝付兼重が守備する東福寺城(鹿児島県清水町)が島津貞久によって攻め落とされると、1343年(興国3年)、征西大将軍懐良親王南朝勢力を挽回するために熊野水軍を従えて南朝勢力・指宿氏が支配する薩州津(山川湊)へ上陸した後(参248)、南朝勢力・谷山氏が守備する谷山城(鹿児島県鹿児島市)へ入城しており(参232)、一時、島津貞久は苦戦を強いられています(参48)(注27)。その後、雑賀衆の祖で熊野八庄司の1家である鈴木重恒は熊野水軍を率いて南朝勢力として活躍し、度々、九州地方へ遠征します。この点、雑賀衆には熊野水軍の流れを汲む者が多く、新たに雑賀水軍を組織して紀伊国から淡路国阿波国へ傭兵を派遣すると共に、紀伊水道を南下して九州地方や東南アジア諸国と交易を行い(薩摩商い)、最新式の鉄砲等を入手しています(参49)。現在でも薩摩半島には紀伊国から薩摩国大隅国へ入部した末裔が数多く分布しており(例えば、薩摩藩島津氏の分家・伊集院忠眞の客将で根来寺の僧・白石永仙が有名)、雑賀衆・打越氏の末裔の分布も確認できます。因みに、打越光種は熊野別当・湛慶(弁慶の父)の後裔・鵜殿長種の四男を娘の婿養子に迎え、打越氏(内越氏)の家督を相続させて打越光業と改名させていますので、打越氏(内越氏)には弁慶と同じ血が流れています(注24-2)。

 

(注18)楠木氏の出自と打越氏(内越氏)との関係

 打越氏は、物部氏族熊野国造系和田氏を源流の1つとしますが(参2)、熊野本宮大社神職を務めた熊野国造・熊野広方が橘良植の娘の婿養子に入って本姓を「橘」に改め、その後裔が名字を「和田」に改めて和田氏が発祥します(河内和田氏の祖)(参50、212)。最近の研究では、北条得宗家の被官であった楠木氏は、駿河国入江荘長崎郷楠村で発祥し、1285年(弘安8年)、霜月騒動を契機として河内国観心寺荘(又は玉櫛荘?)へ入部したという説が有力で、その後、楠木氏と在地勢力の河内和田氏との間で姻戚関係が結ばれたと考えられています(注24-1)。但し、駿河国入江荘長崎郷楠村が楠木氏の発祥地であると結論付けることは早計で、熊野櫲樟日命を祖とする家系図(昔、楠藪と呼ばれていた和歌山県新宮市の徐福公園周辺を発祥地と推定)(参48、55)(注24-1)や敏達天皇を祖とする家系図(但し、楠木氏の発祥の根拠となった地名が不定)(参57)等が存在することから、その後裔が駿河国入江荘有渡郡楠村を支配し(土地を支配した武家の名字に地名(村名や字)が変更になる例もあり)、その後、河内国観心寺荘(又は玉櫛荘?)に入部した可能性も考えられます。この点、楠木氏の出自は新たな証拠でも発見されない限り歴史の闇に埋もれて結論を得ることは困難であり、また、この問題を掘り下げることはこのWEBの目的とするところではありませんので、ここでは打越氏(内越氏)の発祥に関係がある範囲で簡単に触れるに留めます。楠木正成の弟又は従弟である楠木正家が瓜連城の戦いで敗れて陸奥国へ落ち延び(参21、208)、その後、再起を図るために出羽国仙北郡打越郷(現、大沢郷寺)へ移って南朝勢力の支援に尽力し(参11、64)、その子・楠木正安が「打越将監」という通称を名乗り、また、小笠原大和守の三男・小笠原(三郎左衛門)義知が楠木正家の娘の婿養子に入り出羽国由利郡内越村に内越城(平岡館)を築城して「内越」と名字を改めたことにより打越氏(内越氏)が発祥します。更に、内越義知の子・楠木(内越)正宣が在地勢力の由利惟房の娘・満姫と婚姻関係を結んで出羽国由利郡における勢力基盤を確立します(参6、11)。時代は下って、石山本願寺合戦では楠木氏の後裔の多くが石山本願寺に味方して織田信長に対抗しますが、第一次木津川合戦では石山本願寺の支城で淀川(旧木津川)水運の支配を巡る本庄城の戦いで石山本願寺に味方した雑賀衆・打越藤左衛門が有名を馳せる働き(「鳴世の武士」)を見せます(参31、陰徳太平記下巻第53/参190)。その後、本願寺法主顕如上人は織田信長と和睦すると(但し、以後も顕如上人の子・教如織田信長への抵抗を続けます)、石山本願寺を退去して紀伊国雑賀荘の鷺森別院(雑賀御坊)へ移りますが、顕如上人の要請に応じて出羽国由利郡から打越正義(巻末家系図:図表9-③)の名代として打越三郎左衛門が鷺森別院(雑賀御坊)の守備にあたります(参11)。また、同じく鷺森別院(雑賀御坊)の守備にあたった熊野国造系和田氏を祖とする楠木正意は、顕如上人が入滅すると、出羽国由利郡打越郷へ遁れます(参3、52)。これらのことから楠木氏、出羽国由利郡内越村発祥の打越氏(内越氏)及び紀伊国海部郡宇須村字打越発祥の打越氏の間には、何らかの人的なつながりがあったことが伺えます。

 

(注19-1)楠木氏、服部氏、観世氏と打越氏の関係性

 楠木正遠の娘(楠木正成の妹)は、伊賀国阿蘇田を支配していた服部元就に嫁ぎますが(伊賀忍者の棟梁・服部半蔵の先祖。伊賀忍者南北朝の動乱では南朝皇統奉公衆「八咫烏」として南朝勢力に味方します。一方、甲賀忍者北朝皇統奉公衆「山窩」として北朝勢力に味方します。)、1333年(元弘3年)、その子として服部三郎清次(その後、能楽を大成した観阿弥で、世阿弥の父)が生まれます。楠木氏は、能楽師大道芸人等の芸能集団(忍者を含む身体機能に優れた者等)を抱え、その芸能集団を興業という名目で全国各地へ派遣して諜報活動を行わせています。また、世阿弥が晩年に佐渡へ配流された大きな理由は、足利義教との不仲ではなく、長男・観世(十郎)元雅が南朝勢力と通じていたことから、その連帯責任を取らされた可能性があるのではないかと指摘されています。因みに、楠木正成の本領である河内国及び雑賀衆の本領である紀伊国楠木正成の妹を嫁がせた服部氏が支配する伊賀国を結ぶ初瀬街道の中間地点には打越氏の菩提寺西方寺があり(因みに、河内国伊賀国を結ぶもう1つの街道・大和街道沿いには観世発祥の地があり)、また、この地域一帯は楠木氏と軍事行動を共にしていた南朝勢力・宇多三将(そのうち秋山氏は甲斐源氏)が支配していたことからも、南朝勢力の歴史が深く刻まれた土地柄と言えます。なお、大河ドラマ太平記」では、服部元就、楠木正成の妹・卯木、三郎清次(後の観阿弥)が登場します(第48作)。また、楠木正成と楠木正行が今生の別れを告げる親子の情愛溢れる名場面(桜井の別れ)(第36作)や、北畠親房と北畠顕家の親子の機微が肌理細やかに描かれている名場面(第39話)など見所に欠きません。また、現在、楠木正成の所縁の地である大阪府河内長野市が中心となって「「楠公さん」を主人公としたNHK大河ドラマの実現を求める署名」活動が行われており、河内長野市役所のホームページでも署名が可能です。

f:id:bravi:20190824090816j:plain 【名称】観阿弥ふるさと公園(観阿弥創座の地)
【住所】三重県名張市上小波田181
【備考】観阿弥伊賀上野楠木正成の妹と服部元就(服部半蔵の先祖)の間に生まれ、妻の出身地である伊賀小波田で創座したと言われています。
f:id:bravi:20190824074621j:plain 【名称】観阿弥
【住所】三重県名張市平尾3225−10
【備考】名張駅西口に翁面を手に持つた観阿弥像が設置され、観阿弥の業績が憲章されています。
f:id:bravi:20190824090724j:plain 【名称】観阿弥
【住所】三重県名張市鴻之台1番町1
【備考】名張市役所の前庭に翁面を被った観阿弥像が設置されています。
f:id:bravi:20190624200930j:plain 【名称】杉谷神社
【住所】三重県名張市大屋戸62
【備考】観阿弥は、大江貞基が伊賀国名賀郡に建立した杉谷神社に北野天神縁起絵巻(重文)を寄進しています。
f:id:bravi:20190624214207j:plain 【名称】観世発祥の地
【住所】奈良県磯城郡川西町結崎1890-2
【備考】伊賀小波田で創座した観阿弥は、金剛山と指呼の距離にある大和街道沿いの大和結城に移り結城座を構えます。
f:id:bravi:20190603230456j:plain 【名称】観阿弥供養塔(大和郡山城内)
【住所】奈良県大和郡山市城内町2−255
【備考】大和郡山城に観阿弥供養塔があります。なお、観阿弥世阿弥の墓は一休宗純が開基した大徳寺真珠庵に安置されています(非公開)。

 

(注19-2)楠木正成南北朝時代を題材とした能楽

 1333年(元弘3年)、後に能楽を大成する観阿弥世阿弥の父、本名は服部三郎清次)は、楠木正成の妹と服部元就(伊賀国阿蘇田を支配した伊賀忍者の棟梁・服部半蔵の先祖。伊賀忍者南北朝の動乱では南朝皇統奉公衆「八咫烏」として南朝勢力に味方。)の間に誕生します(注19-1)。この点、1432年(永享4年)、世阿弥の嫡男・観世(十郎)元雅は巡業先の伊勢国安濃津で急死しますが、南朝勢力と関係があることを理由として斯波兵衛三郎に暗殺され、その連帯責任を取らされて世阿弥佐渡へ配流されたのではないかと言われています。時代は下って、水戸藩主・徳川光圀や彰考館総裁・打越(樸齋)直正らが礎を築いた水戸学(南朝正当論を含む)の影響から幕末志士の間で尊王思想が広まり、やがて大政奉還を迎えると、南朝の忠臣を顕彰する能楽の新曲が次々に創作されます。その代表的な作品を挙げると下表のとおりとなります(参222)。但し、観阿弥世阿弥、観世元雅や金春禅竹らが創作した曲と比べると名作に恵まれなかったこともあり、現在では、これらの曲が上演される機会が乏しいことは残念でなりません。それでもなお、能「桜井駅」や能「楠露」等の曲は人気が高く上演される機会もあり、広く親しまれています。 

【曲目】能「菊水」(単式夢幻能)
【主演】シテ:楠木正成の霊、ワキ:男 作者:通仙子(富士谷土岐三郎)
【作年】1870年(明治3年)
【内容】楠木正成の霊が湊川合戦を述懐する。(独吟用謡曲
【曲目】能「船上山」(現在能)
【主演】シテ:名和長年、ワキ:千種忠顕、アイ:名和湊の者、ツレ:名和長重、ツレ:隠岐判官義清
【作者】双鶴軒
【作年】1871年(明治4年)
【内容】隠岐から還幸した後醍醐天皇を船上山に奉じた名和長年の忠烈を描く。
【曲目】能「桜井駅」(金剛流・現在能)
【主演】シテ:楠木正成、ツレ:恩地満一、子方:多聞丸(楠木正行
【作者】根津守真
【作年】1872年(明治5年)
【内容】桜井駅での楠公父子が訣別する場面で、楠木正成が男舞を舞う。
【曲目】能「正行」(金剛流・現在能)
【主演】シテ:楠木正行、ツレ:楠木正行の家臣、ワキ:僧兵、ワキツレ:僧兵、アイ:楠木正行の従者
【作者】石井一斎
【作年】1882年(明治15年)
【内容】楠木正行が吉野に陣を構えて行宮を守護する場面を描く。
【曲目】能「太刀まつり」(現在能)
【主演】シテ:新田義貞、ワキ:脇屋義助、ツレ:郎党
【作者】高木半
【作年】1883年(明治16年)
【内容】新田義貞が鎌倉合戦で稲村ケ崎に黄金の太刀を沈める場面を描く。
【曲目】能「楠露」(観世流・現在能)
【主演】シテ:恩地満一、ツレ:楠木正成、子方:楠木正行、トモ:太刀持ち
【作者】根津真五郎?
【作年】1887年(明治20年)
【内容】金剛流・能「桜井駅」の改作。松尾芭蕉が桜井の別の絵を見て読んだ画賛句「なでし子に かゝるなみだや 楠の露」に因んで「楠露」と改名。観世流はシテの恩地満一が男舞を舞うが、金剛流喜多流はシテの楠木正成がツレの恩地満一に勧められ男舞を舞う。
【曲目】能「桜井」(喜多流・現在能)
【主演】シテ:楠木正成、ワキ:恩地満一、子方:多聞丸(楠木正行
【作者】清水昌作、下田守
【作年】1895年(明治28年)
【内容】桜井駅での楠公父子が訣別する場面で、楠木正成は恩地満一に勧められて男舞を舞う。
【曲目】能「桜井」(現在能)
【主演】シテ:楠木正行、ツレ:楠木正成、ワキ:恩地満一
【作者】高木半
【作年】1898年(明治31年)
【内容】桜井の別れの場面で、楠木正行及び恩地満一が楠木正成を見送る。
【曲目】能「湊川」(現在能)
【主演】シテ:楠木正成、子方:楠木正行、ワキ:高師直、トモ:従者
【作者】田中可然
【作年】1902年(明治35年)
【内容】桜井の別れから湊川合戦までを描く。

 なお、南北朝時代には、社会秩序を否定して派手な振る舞いや粋で華麗な服装を好む「婆娑羅(ばさら)」と呼ばれる美意識が生まれ、そのような美意識を持つ守護大名を「ばさら大名」と呼びましたが、これが戦国時代に入り「かぶき(傾奇、歌舞伎)者」へと変化します。江戸時代に入ると、これらの美意識を反映した歌舞伎、浄瑠璃や講談等が発展し、南北朝時代を舞台にした軍記物語「太平記」に題材を求めた太平記物と言われる作品が人気を博します。例えば、「吉野都女楠」(1710年)、「相模入道千匹犬」(1714年)、「大塔宮曦鎧」(1723年)、「楠昔噺」(1746年)、「仮名手本忠臣蔵」(1748年)(吉良氏は足利一族であることから、忠臣・大石内蔵助楠木正成に準えた作品)、「蘭奢待新田系図」(1765年)、「神霊矢口渡」(1770年)等の作品は、現代でも人気の演目であり、また、明治時代に入って、歌舞伎「北条九代名家功~高時」(1884年)、常磐津・義太夫舞踊「大森彦七」(1897年)(大森彦七楠木正成を自害に追い込んだ人物)、講談「水戸黄門漫遊記湊川建碑〜」、日本舞踊「楠公長唄囃子連中」等の作品も誕生します。さらに、映画「大楠公」、映画「楠公二代誠忠録」や映画「史劇 楠公訣別」など楠木正成を主人公にした映画も制作され、最近では、歌劇「楠木正成」、歌劇「紅天女」、宝塚歌劇「桜嵐記」、ミュージカル「龍起伝」、マンガ「君がために~楠木正成絵巻~」など様々なジャンルの作品も創作されるなど、時代を超えて、様々な形で人々に愛され続けています。なお、現在、楠木正成の所縁の地である大阪府河内長野市が中心となって「「楠公さん」を主人公としたNHK大河ドラマの実現を求める署名」活動を行っています(注19-1)。

f:id:bravi:20200922114813j:plain 【名称】能「楠露」と桜井の駅
【住所】大阪府三島郡島本町桜井1-3
【備考】桜井の別れを題材とした能「楠露」(曲名は松尾芭蕉の俳句からの引用)の説明書き。
f:id:bravi:20200922114919j:plain 【名称】旗立松
【住所】大阪府三島郡島本町桜井1-3
【備考】楠木父子が桜井の別れを行った場所にあった軍旗を立て掛けた松の木端。
f:id:bravi:20170527085835j:plain 【名称】明治天皇御製碑
【住所】大阪府三島郡島本町桜井1-3
【備考】明治天皇の御詠歌「子わかれの 松のしづくに 袖ぬれて 昔をしのぶ さくらゐのさと」の文字は、東郷平八郎による揮毫です。
f:id:bravi:20210516203129j:plain 【名称】楠公父子訣児之處碑
【住所】大阪府三島郡島本町桜井1-3
【備考】英国公使パリー・S・パークスが外国人として忠臣・楠木正成の忠義を讃えています。 “A Tribute by foreigner to the loyality of the faithfull retainer KUSUNOKI MASASHIGE.”
f:id:bravi:20210516202520j:plain 【名称】楠公父子子別れの石像
【住所】大阪府三島郡島本町桜井1-3
【備考】台座に刻まれている「滅私奉公」の文字は、近衛文麿の揮毫です。
f:id:bravi:20210516203003j:plain 【名称】楠公父子訣別之所碑
【住所】大阪府三島郡島本町桜井1-3
【備考】碑文の「楠公父子訣別之所」の文字は、乃木希典の揮毫です。

 

トップに戻る

第1部第1巻 打越(内越)氏の発祥(第4段)

第4段 紀伊国牟婁郡下川下村字打越発祥

 1585年(天正13年)、豊臣秀吉は、第二次紀州征伐で紀州武田氏流・湯川直春によるゲリラ戦に苦戦を強いられ、本領安堵を条件として湯川直春と和睦します。しかし、湯川直春は、大和郡山城主・豊臣秀長と面会した直後に急死しており、豊臣秀吉によって毒殺された可能性が指摘されています。このような不穏な状況を察してか、湯川直春の第四子・忠蔵は紀伊国牟婁郡下川下村字打越(打越城)及び紀伊国牟婁郡和田村(打越屋敷)に隠棲して仏門に入り打越氏を名乗ります(参53)(注20-1、20-2)。また、湯川氏の庶流・愛洲憲俊の弟・久留栖(愛洲)忠俊の末裔が打越屋敷と和田川を挟んだ対岸に久留栖屋敷を構え、その末裔が打越氏を名乗ったとも言われています(参59)。その後、紀州藩が編纂した紀州各郡地士姓目名には牟婁郡の地士として道湯川村・湯川太兵衛、大内川村・愛洲七郎兵衛と共に和田村・打越忠蔵が記されており(参62)、また、紀伊風土記には打越忠蔵が天杯(天皇から下賜された滅金に銀の半月の模様がある大杯)及び1343年(興国4年)に愛洲左衛門尉に下賜された南朝綸旨を所持していると記されています(参58、59)(注13-2)。

 

(注20-1)打越氏の発祥地と大塔村の由来

 1332年(元弘2年)、南北朝の動乱後醍醐天皇が立て籠もった笠置山の陥落後も、楠木正成、愛洲憲俊及びその子・能俊らは後醍醐天皇の皇子・護良親王(大塔宮)と共に河内国の赤坂城に籠城して鎌倉幕府に抵抗を続けますが、やがて赤坂城が落城すると、楠木正成伊賀国へ(注19-1)、また、護良親王(大塔宮)及び愛洲父子は紀伊国へそれぞれ落ち延びます。その際、護良親王(大塔宮)が立ち寄った村(和歌山県牟婁郡下川下村及びその周辺)を「大塔村」と呼ぶようになりますが、そこが湯川直春の第四子・忠蔵が仏門に入り打越氏を名乗った場所です。なお、湯川氏は南北朝の動乱では北朝勢力に味方しましたが、その後、雑賀衆と誼を通じ、本願寺合戦や紀州征伐等では共闘しています。

 

(注20-2)打越氏(内越氏)を名乗る者が確認できた年代

 打越氏(内越氏)を名乗る者が確認できた年代を下表にまとめました(第1部第1巻第2段第1節の③を参照)。現在、確認できる最も古いものは、1260年代、木田頼氏(美濃源氏流)が打越氏を名乗ったものです。また、河内(甲斐)源氏流打越氏では、1350年代頃、楠木正安と小笠原義和(分家Ⅰ)がそれぞれ打越氏及び内越氏を名乗ったのが事実上の発祥であり、1400年後半、小笠原氏光(本家Ⅰ)も内越氏を名乗っています。また、1590年、豊臣秀吉から下賜された本領安堵御朱印状により打越光重(本家Ⅰ)が公式に打越氏(内越氏及び於曾氏を含む)の惣領家として認められます。

年代 系流 名前 表記
1260年代 美濃源氏 木田頼氏 打越 美濃国
1350年代 分家Ⅰ 楠木正安 打越 出羽国
小笠原義和 内越 出羽国
1400年代後半 本家Ⅰ 小笠原氏光 内越 出羽国
1400年代後半 分家Ⅱ 打越伊賀守 打越 常陸国
1531年 本家Ⅱ 雑賀衆 打越 紀伊国
1585年 本家Ⅲ 湯川忠蔵 打越 紀伊国
1590年 本家Ⅰ 打越光重 打越/内越 出羽国
1599年 分家ⅩⅢ 打越十兵衛 打越 薩摩・大隅国

 

トップに戻る

第1部第2巻 打越(内越)氏の系流(第1段)

第1段 総論 

①楠木正家後裔/甲斐源氏小笠原氏流

 打越氏(内越氏)は、由利十二頭として出羽国由利郡内越村等(芋川及び赤川の流域等)を支配しますが、1450年頃から家督を相続できない庶流が浪人して他家へ仕官したことに加え、家督争いによる御家断絶や津軽藩御家騒動等により、下表のとおり細かく系流が分化することになりました。

主家 系流 分類
由利十二頭(本家Ⅰ、分家Ⅰ)
徳川将軍家 本家Ⅰ
水戸徳川家 分家Ⅰ→常陸江戸氏水戸徳川家水戸藩 分家Ⅱ
佐竹氏 本家Ⅰ→佐竹氏(久保田藩秋田藩
佐竹氏は関ケ原の戦いで中立的な立場をとったことから常陸国から出羽国(羽後)へ減封国替え
分家Ⅲ
津軽 本家Ⅰ→津軽氏(津軽藩弘前藩 分家Ⅳ
柳沢氏 本家Ⅰ➟分家Ⅳ→柳沢氏(上総佐貫藩→川越藩甲府藩→大和郡山藩) 分家Ⅴ
秋田氏 本家Ⅰ、分家Ⅱ又は分家Ⅲ→秋田氏(出羽国秋田郡常陸宍戸藩→磐城三春藩 分家Ⅵ
内藤氏 本家Ⅰ、分家Ⅱ又は分家Ⅲ→内藤氏(磐城平藩
映画「超高速!参勤交代」で参勤交代の行列を分家の湯長谷藩内藤氏へ貸す場面で登場、後に磐城平藩から延岡藩へ国替え
分家Ⅶ
秋田氏(南部氏の家臣) 本家Ⅰ→分家Ⅳ→秋田氏(南部藩
南部氏の家臣・秋田氏の養子
分家Ⅷ
長氏(前田氏の重臣 本家Ⅰ又は分家Ⅰ→長家(加賀藩
長氏は能登畠山氏の重臣からその滅亡後に前田氏の重臣へ仕官替え
分家Ⅸ
水野氏(徳川氏の重臣 系流不詳→水野氏(岡崎藩唐津藩 分家ⅩⅣ
 

雑賀衆/源姓

 打越氏は、雑賀衆として紀伊国海部郡宇須村字打越を支配しましたが、1585年(天正13年)の第二次紀州征伐後は、一旦、紀伊国牟婁郡で帰農(土豪化)します。その後、1619年(元和5年)に紀州徳川家が旧家や地侍のうち、熊野八庄司の末裔、畠山氏や湯川氏の遺臣等の中から武功に秀で家柄の由緒正しい者を選んで召し抱えることになり、打越氏も紀州徳川家へ召し抱えられます(参60、61、62)。また、雑賀衆熊野水軍を母体とする雑賀水軍を擁し、南北朝の動乱や薩摩商いで紀伊国薩摩国及び大隅国の間を頻繁に往来していましたが、打越氏の一部が紀伊国から薩摩国へ移住したと考えられます(参63)。 
主家 系流 分類
雑賀衆(本家Ⅱ)
紀州徳川家 本家Ⅱ→紀州徳川家紀州藩西条藩×× 本家Ⅱ
雑賀氏✖打越氏 本家Ⅱ→雑賀氏との姻戚関係 分家Ⅹ
佐武氏✖打越氏×××× 本家Ⅱ→佐武氏との姻戚関係 分家Ⅺ
禰寝氏(島津氏重臣 本家Ⅱ→禰寝(根占)氏(薩摩藩
禰寝氏は肝付氏及び伊知地氏らと共に島津氏に対抗しますが、後に島津氏に臣従。薩摩商いで薩摩国及び大隅国へ移住した本家Ⅱの庶流と推測。なお、戦国時代や明治維新等を契機として薩摩国及び大隅国へ移住した本家Ⅰ又は分家Ⅱの庶流の可能性もあり。
分家Ⅻ
肝付氏(島津氏家臣) 本家Ⅱ→肝付(肝属)氏→島津氏(薩摩藩
肝付氏(大伴氏の後裔)は菊池氏や阿蘇氏らと共に南朝勢力として活躍しますが、後に島津氏に臣従。薩摩商いで薩摩国及び大隅国へ移住した本家Ⅱの庶流と推測。なお、戦国時代や明治維新等を契機として薩摩国及び大隅国へ移住した本家Ⅰ又は分家Ⅱの庶流の可能性もあり。
分家XⅢ
 

甲斐源氏武田氏流

 1585年(天正13年)、第二次紀州征伐で紀州武田氏流・湯川直春が豊臣秀吉と和睦し、その弟の大和郡山城主・豊臣秀長と面会した直後に急死します(豊臣秀吉による毒殺説)。このような状況を受けて、湯川直春の第四子・忠蔵は紀伊国牟婁郡下川下村字打越に隠棲して仏門に入り打越氏を名乗ります(参53)。その後、1619年(元和5年)、紀州徳川家は、旧家や地侍のうち、熊野八庄司の末裔、畠山氏や湯川氏の遺臣等の中から武功に秀で家柄の由緒正しい者を選んで召し抱えることになり、打越氏も紀州徳川家へ召し抱えられます(紀州各郡地士姓目名/参62)。 

主家 系流 分類
湯川氏(本家Ⅲ)
紀州徳川家×××××× 本家Ⅲ→紀州徳川家紀州藩
熊野八庄司・湯川氏の庶流が熊野国造系和田氏の元領地で隠棲して打越氏を名乗る。雑賀衆・打越氏(本家Ⅱ)と姻戚関係を結んだ可能性もあり。
本家Ⅲ

 

④まとめ

 打越氏(内越氏)の各系流の相関関係をイメージとして捉え易いように、次ページに俯瞰図をまとめました(但し、注2-2を参照)。但し、分かり易く全体を俯瞰するために、極めて不正確な表記に留まっているところがあることを予めご了承下さい。また、打越氏(分家ⅩⅣ)は系流不詳であることから、次ページの俯瞰図には含めていません。なお、図中の点線は古文書等の裏付けが確認できておらずフィールドワーク等から得られた歴史的な痕跡等から推測される1つの可能性を示したものです。

 このような俯瞰図は見る者を分かったような気分にさせるだけで歴史事実を曇らせてしまう毒性がありますが、その一方で、分かり易く全体を俯瞰することで、各々の断片的な情報が持つ有機的な関係性を探り、情報を整理するツールとしては有用ではないかと考えます。 

 

【図表6】各系流の相関図 

 

トップに戻る

第1部第2巻 打越(内越)氏の系流(第2段)

第2段 楠木正家後裔/甲斐源氏小笠原氏流

①由利十二頭(本家Ⅰ、分家Ⅰ)

 打越氏(内越氏)の事実上の発祥は、楠木正家(注24-1)が出羽国仙北郡打越郷(現、大沢郷寺)に打越城(白坂館)を築いて(参10、11、64)、1350年頃に楠木正家の子・楠木正安が「打越将監」(地名+官職)という通称を名乗り(注4-2、18、22)、また、楠木正家の娘の婿養子として小笠原大和守の三男・義知を迎え、出羽国由利郡内越村に内越城(平岡館)を築いて「内越」と名字を改めたことにあると考えられます(楠木氏+小笠原(大井)氏=分家Ⅰ:楠木氏の家督)(親川楠家系図/参11)。楠木正家は、出羽国仙北郡から出羽国由利郡へ勢力範囲を拡げるために、その家督を実子・楠木正安ではなく娘の婿養子・小笠原義知に承継させ、その後、1400年前後、その子・楠木(内越)正宣が在地勢力の由利惟貴の曾孫・満姫と婚姻関係を結んで内越城(平岡館)から岩倉館へ移り出羽国由利郡における勢力基盤を固めます。

 但し、「打越旧記」には、1428年(応永末年)時点の出羽国由利郡の支配状況として「楠木一族」「小笠原氏族」「仲太郎」(=由利氏)が記されており、未だ打越氏(内越氏)とは記されていないことから、この時点では打越氏(内越氏)が正式な名字として定着していなかったものと思われます。この点、楠木(内越)正宣が開基した恵林寺過去帳には1450年(宝徳2年)の楠木正賢の俗名として「内越小笠原左衛門太夫正賢」と記されていますが、それ以降の代になっても、楠木氏、打越氏又は内越氏の名字が混在しており統一されていません。(恵林寺過去帳/参11)(注21)。

▼親川楠家系図にみる由利五人衆との血縁関係 (注11)

 楠木氏小笠原(大井)氏=打越氏(内越氏)

   (姻戚関係)           +(姻戚関係)

              由利(滝沢)氏(楠木正宣の妻=由利惟貴の孫)

              赤尾津氏(打越正国の母=赤尾津宗重の娘)

              岩谷氏(打越正方=岩谷内道の養子)

              仁賀保氏(打越正義の母=仁賀保兵庫頭の娘)

 なお、諸家系譜によれば、1400年代後半頃、打越(宮内少輔)光重の祖父・内越(宮内少輔)氏光の代から打越氏(内越氏)が正式な名字として定着したと思われますが(参6、9)、内越(宮内少輔)氏光と同世代の楠木正清が小笠原氏から妻を迎えていますので(親川楠家系図/参11)、この頃、小笠原(大井)氏と楠木氏との間で姻戚関係が重ねられて小笠原(内越氏)氏も本格的に打越氏(内越氏)を名乗り始めたものと考えられます(楠木氏+小笠原(大井)氏=本家Ⅰ:小笠原(大井)氏の家督)。

 その後、豊臣秀吉が由利十二頭を由利五人衆に整理、統合して本領安堵の御朱印状を打越(宮内少輔)光重に下賜しますが(豊臣秀吉による土地支配の正当性)、これにより打越(宮内少輔)光重が出羽国由利郡内越村及びその他周辺(芋川及び赤川の流域一帯)の領地(1250石)を支配する惣領家(本家Ⅰ)に定まり、於曾氏が支配していた土地(≒於曾氏の家督)を含む全ての土地が打越(宮内少輔)光重に統合、承継されたものと思われます。この御朱印状には、地名として「内越」、名字として「打越」と記載されており、それ以前から打越氏を名乗っていたと考えられますので、、楠木正安が「打越将監」という通称を名乗ったことが打越氏(内越氏)の事実上の発祥であると考えるのが合理的です。なお、打越氏(内越氏)を名乗り始めた時期は、打越氏(内越氏)(本家Ⅰ)よりも打越氏(内越氏)(分家Ⅰ)の方が早かったと考えられますが、このWEBでは豊臣秀吉から本領安堵御朱印状を下賜された打越(宮内少輔)光重を打越氏(内越氏)の惣領家(本家Ⅰ)として扱っています。

 

常陸国への進出(本家Ⅰ、分家Ⅱ、分家Ⅲ)

 1465年頃(正確な年代は不詳)、打越氏(内越氏)(分家Ⅰ)の庶流・打越伊賀守(諱は不詳、家紋は丸に一文字三ツ星紋)が常陸国那珂郡(かつて楠木正成の代官として楠木正家が瓜連城を築城した常陸国久慈郡の隣地で、甲斐源氏発祥の地である武田郷がある場所)を支配している常陸江戸氏へ仕官し(分家Ⅱ)、江戸(但馬守)道勝(=道房)から常陸国那珂郡三反田郷に200貫(約2000石)を与えられて立(館)山城を守備します(参16、65)(注23)。しかし、常陸江戸氏は、小田原征伐で北条氏に味方したことから佐竹氏により滅ぼされ、その後、打越氏(内越氏)(分家Ⅱ)は郷侍として土豪化します。やがてその後裔・打越弘親が水戸徳川家へ召し抱えられ(参117、129)、幕末まで水戸藩徳川家へ仕えます。

 また、1590年頃(正確な年代は不詳)、打越(三郎兵衛)光重が出羽国由利郡から常陸国へ移り、佐竹(右京大夫)義宣の直臣として大番組30石で召し抱えられます(分家Ⅲ)。その後、佐竹義宣関ヶ原の戦いで中立的な立場をとったことから(関ケ原の戦い徳川家康が暫く江戸城から身動きできなかった理由として、上杉景勝佐竹義宣が呼応して江戸に攻め込む機会を伺っていたという噂があった為と言われています。)、1602年(慶長7年)、常陸国から出羽国羽後国)へ減封国替えになります。これに伴って、打越氏(分家Ⅲ)も一緒に出羽国羽後国)へ移り、幕末まで久保田藩秋田藩)佐竹氏へ仕えます。この際、打越氏(内越家)(本家Ⅰ)は、佐竹氏の国替えと入れ替えに出羽国由利郡内越村から常陸国行方郡新宮郷へ加増国替えになり(約1250石→約2000石)、大身旗本として新宮城主になります。なお、1605年(慶長10年)、徳川秀忠征夷大将軍宣下を受けるために宮中へ参内する行列の六番(井伊、大久保、榊原、水野、土井、阿部、青山、真田、鍋島等の譜代家臣)の中に打越内膳正(内膳正とは、宮中の官職で宮内省長官のことですが、この日のために特別に付与された官職と思われます。)(本家Ⅰ)の名前が見られますが、打越(飛騨守)光隆と思われます。因みに、この行列の八番には上杉景勝毛利秀元京極高次伊達政宗福島正則島津家久佐竹義宣最上義光など錚々たる名前が並んでおり、この行列に名前を連ねる名誉がどれほどのものであったのかが伺われます(東大寺雑集録/参204)。その後、1622年(元和8年)、江戸幕府は、最上氏の御家騒動に伴う改易により旧最上領であった出羽国を細分化して管理する方針に改め、再び、六郷氏が出羽国由利郡本荘、仁賀保氏が仁賀保、岩城氏が亀田、打越氏(内越氏)が矢島に国替えになります。これにより打越氏(内越氏)(本家Ⅰ)は常陸国行方郡新宮郷から出羽国由利郡矢島郷へ加増国替えになり(約2000石→約3000石)、交代寄合旗本(大名格遇格※)として八森城主になります(参68)。

※大名格待遇とは、一般の旗本とは異なり江戸城の控室として個室が与えられるなど大名と同等の身分的な特権が与えられる一方で、大名と同様に参勤交代を義務付けられること。

 

③御家断絶と再興(本家Ⅰ、分家Ⅳ、分家Ⅴ、分家Ⅷ)

 1634年(寛永11年)、打越光久が高田馬場で頓死し、未だ嗣子がなかったことから、打越光久の末弟・打越光豊に家督を承継させるべく江戸幕府へ働き掛けが行われましたが、その願いは認められず御家は断絶します。この背景として、打越光久には婚外子(愛人の子)がおり、この婚外子と親戚関係にあった小笠原美濃がこの婚外子を打越氏(内越氏)(本家Ⅰ)の後嗣に推したことから家中を二分するお家騒動に発展し、御家断絶に至ったと考えられています(参27)。なお、これに先立ち、1629年(寛永6年)、打越光隆の次男・打越光種は将軍・徳川秀忠に拝謁して慶長出羽合戦(北の関ケ原の戦い)の軍功を高く評価され、徳川家光の近侍として上洛に供奉します(寛政重修諸家譜(巻二百五)/参6)。その後、打越光種は徳川将軍家へ仕官を許されて御家を再興し(本家Ⅰ)、幕末に至るまで将軍直属の親衛隊である御所院番や大奥等の警備にあたる御留守居番を歴任します(寛政重修諸家譜(巻二百五)/参6)。また、1631年(寛永8年)、打越佐吉(系流不明)が津軽藩津軽氏へ仕官しています(分家Ⅳ)(参69)。このように相次いで打越氏(内越氏)の庶流が他家へ仕官していますが、世は太平に定まり、家督を相続できない庶流は軍功で身を立てることができず、また、合戦で領地を広げること(即ち、分家に分け与えるための領地を確保すること)も不可能になったので、他家へ仕官するしか身を立てる術がなかったのではないかと考えられます。そのような状況のなか婚外子家督を継がせることに対する家中の反発がお家騒動にまで発展したのではないかと推測されます。

 その後、打越光隆の長女・打越センが初代津軽藩主・津軽(右京太夫)為信の養女になっていたことから(その後、打越センは津軽藩家老・津軽伊豆の妻、その娘は津軽藩家老・津軽美作の妻)、その縁故を頼って、打越光隆の三男・打越(金右衛門)光清、同四男・打越(半四郎主殿)光春及び同五男・打越(伝七郎)光豊が第2代津軽藩主・津軽越中守)信枚へ仕官し(分家Ⅳ)、打越氏(分家Ⅳ)は津軽氏の親戚ということで津軽氏の家紋「卍紋」の使用を許されます(打越氏御先祖様代代覚書控/参10)。同四男・打越(半四郎主殿)光春は津軽藩大目付など重臣として重用されますが(参70)、江戸幕府から津軽藩のお家騒動(舟橋騒動)の責任を問われて失脚し、その後、打越(半四郎主殿)光春は行方知れず、打越(金右衛門)光清は盛岡藩南部氏の家臣・秋田氏の養子となり(分家Ⅷ)、打越光豊とその子・打越光忠出羽国へ戻って浪人し、その他の一族は幕末まで弘前藩津軽氏に仕えます。その後、出羽国で浪人していた打越光忠は、第2代津軽藩主・津軽越中守)信枚の叔父・津軽十郎左衛門の取り計らいにより陸奥国津軽郡小湊郷に屋敷を与えられます(昔は、打越屋敷があった場所に石碑が建っていたそうですが、現在、その場所は不明)。1688年(元禄元年)、打越光忠の次男・打越光長が第5代将軍・徳川綱吉側用人柳沢吉保に拝謁し、同じ源(新羅三郎)義光の血を引く甲斐源氏の系流であるという理由(柳沢氏は武田氏旧臣)から柳沢氏(当時は上総国佐貫藩主)に召し抱えられます(分家Ⅴ)。1690年(元禄3年)、柳沢吉保上総国佐貫藩で2万石加増されたことに伴い、打越光忠の三男・打越光登が柳沢氏に召し抱えられ、また、1692年(元禄5年)、柳沢吉保上総国佐貫藩で更に3万石加増されたことに伴い、長男・打越光永及び四男・打越光棟が相次いで柳沢氏に召し抱えられます(参27)。その後、柳沢氏の加増国替えに伴って、打越氏(分家Ⅴ)も武蔵国川越藩甲斐国甲府藩、大和国郡山藩へ移り、幕末まで大和郡山藩柳沢氏に仕えます。

 

④その他(分家Ⅵ、分家Ⅶ、分家Ⅸ、分家ⅩⅣ)

 1602年(慶長7年)、出羽国秋田郡秋田実季は、関ケ原の戦いで中立的な立場をとった佐竹氏が出羽(羽後)国へ減封国替えになると、これと入れ替えに出羽国から常陸国(宍戸藩)へ国替えになります。その後、1645年(寛永21年)、その子・秋田俊季の代に常陸国(宍戸藩)から陸奥国三春藩)へ国替えになり、1659年(万治2年)、その子・秋田盛季の代に陸奥国三春藩の破損手代(建造物の営繕、材木の管理を掌った役職)として打越六兵衛の名前があります(分家Ⅳ)(万治二年家中給人知行高扶持切米高覚/参71)。但し、どのような経緯で三春藩秋田氏へ仕官し、また、その末裔がどうなったのかなどの仔細は分かっていません。

 1670年(寛文10年)、陸奥国磐城平藩第3代藩主・内藤義概は、その弟・内藤政亮に1万石を分与して陸奥国湯長谷藩映画「超高速!参勤交代」に登場)を立藩させますが、1676年(延宝4年)、磐城平藩の大納戸衆として打越新兵衛の名前があります(分家Ⅶ)(参73)。但し、どのような経緯で磐城平藩内藤氏へ仕官し、また、その末裔がどうなったのかなどの仔細は分かっていません。なお、内藤義概は教養人としても知られ、近代筝曲の開祖・八橋検校は1663年(寛文3年)まで磐城平藩の専属音楽家として召し抱えられており、打越新兵衛も八橋検校の演奏を拝聴する機会に恵まれたかもしれません。その後、1747年(延享4年)に磐城平藩内藤氏は陸奥国から日向国延岡藩)へ国替えになります。

 1582年(天正10)年、能登畠山氏の重臣(畠山七人衆の1人)であった長氏は、能登畠山氏の滅亡後、七尾城主となった加賀藩前田氏に仕官替えし、その重臣(加賀八家の1人)として半大名的な立場で独自の領地経営(能登国鹿島郡の半分:3万3千石)を認められます。1666年(寛文6年)、長連頼は、領地の隠田検知(年貢の徴収を免れるために密かに耕作して隠し持っている水田の検知)を実施しますが、この検知に検地大奉行・三宅善丞、検地奉行・小川三郎左衛門、河嶋治兵衛、横目・堀部新助、帳付・打越半右衛門、宮崎兵三、竿取・高橋八右衛門と、これに郡奉行・代官らが参加したという記録が残されています(分家Ⅸ)(参72、245)。その翌年、この隠田検知に端を発して長氏の譜代家臣・浦野(孫右衛門)信秀とこれに同調する百姓が中世の土豪的な土地支配による既得権益を守るために加賀藩前田氏へ検地反対越訴を企てる事件(浦野事件)が勃発しますが、加賀藩前田氏はこれを奇貨として、長氏の責任を追及する形でその領地を没収し、以後、長氏は加賀藩前田氏の家臣(但し、禄高は3万3千石)として加賀国金沢郡への移住を命じられます。因みに、長氏中興の祖・長信連は、源頼朝から能登国大屋荘を下賜され、その後、由利小藤太の後家を娶っていますので、出羽国由利郡との関係は深かったと推測されます。

 1491年(延徳2年)、京都上賀茂神社の荘園であった加賀国金津荘の与知村(現、石川県かほく市余地)の土地(童子丸名)を支配していた土豪として打越新兵衛の名前があります(金津荘村名別公事銭等納帳/参74)。その出自は定かではありませんが、経済的又は人的関係を梃子にして金津荘以外の土地から入部し、金津荘の荘園経営には直接関与せず、専ら軍事的な面で一向宗徒(本願寺)と深い結び付きを持っていたようなので、打越氏(内越氏)(分家Ⅰ)(石山本願寺合戦で、顕如上人からの要請に応じて打越三郎左衛門が紀伊国雑賀荘・鷺森城を守備し、また、同じく鷺森城を守備していた楠木正意が本願寺合戦後に出羽国由利郡打越郷へ遁れていますので、一向宗徒とは深い関係にあったと考えられます。)の系流である可能性や美濃源氏流打越氏の系流である可能性(注2-2)などが考えられます。また、この時期は、打越氏(内越氏)(分家Ⅰ)の庶流が常陸国へ移住した時期とほぼ同時期であり、打越氏(本家Ⅱ)が初めて記録に登場するのが1531年(享禄4年)であることを考え併せると、打越氏(内越氏)(本家Ⅰ)の庶流が加賀国へ移住した可能性も考えられます(注45)。なお、打越氏(分家Ⅸ)は一向宗徒の拠点である加賀国江沼郡打越(現、石川県加賀市打越町)が発祥であるとする説もありますが、加賀国江沼郡打越の地名は1491年(延徳2年)より50年以上も経過した天文日記の1548年(天文17年)4月7日の条に初めて記録が登場しますので(石川県加賀市打越町の菅原神社の由来書きより)、同地が発祥である可能性は低いと考えられます。

 1730年(享保15年)頃、藩主・水野忠輝の代に岡崎藩水野氏の藩医(外科)として打越(宗三)世衡が仕官します(分家ⅩⅣ)(参250)。水野忠輝は、徳川家康の生母・於大の方(伝通院)の実父(徳川家康の外祖父)・水野忠政の末裔にあたり、後世、天保の改革を行った老中・水野(越前守)忠邦を輩出しています。打越(宗三)世衡の俸禄は20口及び薬品料として金一枚で、これは律令制度下の縦四位又は正五位の官位に与えられる俸禄ですが(他の藩医と比べると高い俸禄)、藩医は藩主等の診療にもあたることから、形式上、高い身分が与えられて厚遇されました。その後、1764年(明和元年)に薬品料として金二枚に昇給し、また、1768年(明和5年)に俸禄25口に昇給していることから、医師としての技量は高く評価されていたものと思われます。1762年(宝暦12年)、水野氏は岡崎藩三河国)から唐津藩肥前国)へ国替えを命じられ、打越(宗三)世衡も従っています。1771年(明和8年)、打越(宗三)世衡は他界しますが、どのような経緯で岡崎藩水野氏へ仕官し、また、その末裔がどうなったのかなどの仔細は分かっていません。

 

(注21)親川楠家系図の世代数

 親川楠家系図によれば、非常に短い期間で頻繁に家督相続が行われていることから、直系卑属(子)だけではなく傍系血族(兄弟)にも家督が相続されていた可能性が考えられます。なお、現在では「楠木」と表記するのが一般的ですが、これは明治時代になって大政官修史館でそのように表記することを決定した時代以降のことであり、太平記の諸本や徳川光國が編纂を指示した大日本史等の古文書では「楠木」ではなく「楠」と表記しているものが多いです。(但し、このWEBでは、便宜上、「楠木」に表記を統一しています。)

 

(注22)打越氏(内越氏)(本家Ⅰ、分家Ⅰ)の通称

 打越左近(但し、打越光隆のことかは不明)は「金沢少尉正家」の子孫であると公称していたようですが(参75、76、岩倉館/参113)、これは楠木正家が出羽国仙北郡打越郷(現、大沢郷寺)(参10、11)に打越城を構える前に守備していた出羽国平鹿郡横手郷の金沢柵(城)に由来する楠木正家の通称で、「金沢」は金沢柵(城)、「少尉」は楠木正成楠木正行も拝命していた武官職名、「正家」は諱になります。

 

(注23)出羽国由利郡から常陸国久慈郡(後に那珂郡)への進出

 打越伊賀守が江戸(但馬守)道勝(=道房)に仕官した詳しい経緯等については古文書等に記録が残されておらずその詳細を知ることはできませんが、常陸江戸氏(旧、那珂氏)が独自の家臣団を形成するにあたり楠木正家の後裔である打越伊賀守を召し抱えた可能性が考えられます。その後、打越伊賀守は、嫡男・打越豊後守に家督を譲り、かつて南朝勢力であった肥後国・菊池氏の庶流で常陸江戸氏に召し抱えられていた菊池内膳の姉妹と婚姻関係を結ぶと共に(参21)、二男を大戸村庄屋、三男を中根村庄屋として分家(帰農)させます(参16、65)。この点、中根村庄屋の打越家は1594年(文禄三年)に三反田村の打越家から三男・勘解由が分家して誕生したと解説しているものもありますが、もっと古い時代から分家(帰農)として存在していたと考えられます。時代は下って、徳川斉昭が戦国時代以来の旧家として打越家を訪れたという記録が残されています(参78)。また、打越光久の頓死に伴う御家断絶にあたり内越孫四郎(分家Ⅰ)が出羽国由利郷から江戸へ上って徳川光圀に御家再興を願い出たところ、徳川光圀から旗本として召し抱えるので兄・内越孫二郎正朝の子息も連れて出仕するように申し渡されていることから(親川楠家系図/参11)、打越伊賀守の子孫(分家Ⅱ)以外にも水戸徳川家へ召し抱えられた家があると考えられます。なお、水戸藩久保田藩及び津軽藩等には、打越氏(内越氏)のうちどの系流に属するのか分からない複数の家が仕官していた可能性がありますが、打越氏(内越氏)の惣領家である打越氏(内越氏)(本家Ⅰ)に関する記録は比較的に詳しく残されていますので、あまり詳しい記録等が残されていない打越氏(内越氏)(分家Ⅰ)の系流から複数の者がそれらの藩に仕官していた可能性が考えられます。

  

(注24-1)楠木氏の出自と系図

 楠木氏の出自には諸説あり確かなことは分かりませんが(参215)、駿河国入江荘長崎郷楠村(鎌倉幕府内管領・長崎氏の領地)を支配して楠(楠木)氏を名乗ったという説(但し、紀伊国牟婁郡新宮村字楠藪とする説も有力(参48))があります(参79、80、81)(注18)。上述のとおり、武家の名字は天皇(又は天皇が土地の分配権を委嘱した幕府)から下賜された土地の支配権を示すためにその地名(田の)を名乗るのが通例で、その発祥地には武家の名字の由来となった同一の地名が存在します(これとは逆にその土地を支配する武家の名字と同一の地名に変更された例もあります)。1285年(弘安8年)、霜月騒動を契機として楠木氏が河内国観心寺荘へ入部し、河内和田氏から娘婿を迎えて楠木氏の家督を承継させ、その子孫に楠木正成が誕生したという説(但し、楠木正定がその娘を橘盛仲へ嫁がせ、その孫に楠木正成が生まれたとする説も有力(参48))があります(参50)。楠木正成(22歳)が楠木氏の家督を承継した翌年1316年(正和5年)、北条得宗家に所領を没収された大和国・越智(四郎)邦永が謀反を起こし、六波羅探題がその鎮圧に失敗したことから、楠木正成が執権・北条高時の命で越智邦永を討伐しています(大和国越智家系図/参209)。その後、1322年(元亨2年)、楠木正成(29歳)は、執権・北条高時の命で鎌倉幕府に反抗する摂津国・渡辺右衛門尉(鎌倉将軍家譜/参211)及び紀伊国・湯浅氏(安(保)田庄司)(高野春秋編年輯録/参82)を討伐し、湯浅氏の領地を恩賞として与えられていることから(参210、223)、楠木氏は、鎌倉幕府と主従関係を結ばない悪党(非御家人)ではなく、北条得宗家の被官として北条得宗家の命で鎌倉幕府に反抗する勢力の鎮圧にあたりながら、大和川の水運を支配し、河内国紀伊国及び摂津国等に勢力を伸ばしていった御家人であったと考えられます。なお、楠木氏の家督を承継した嫡流楠木正成以外の一族はそのまま和田氏を名乗り又は復姓している者も多く(注18)、楠木正成の弟・楠木正季の墓(寶國寺)には和田と刻まれ(「楠木正成弟和田次郎正季、嫡子和田和泉守重次 墓碑」)、また、楠木正季の子(楠木正成の甥)は和田賢秀を名乗っています(参83、84)。さらに、公家・二条道平の日記「後光明照院関白記」に「楠の木の 根は鎌倉に 成ものを 枝を切りにと 何の出るらん」という落首が記録されていることや「吾妻鑑」の1190年(建久元年)11月7日の日記に源頼朝に従って上京した兵のうち殿隊42番として楠木四郎の名前が記録されていることなどからも、楠木氏は鎌倉幕府御家人であった可能性が高く(注18)、上述のとおり1285年頃に楠木氏が河内国観心寺荘へ入部して在地勢力の河内和田氏と姻戚関係を結び、その人的ネットワークをフルに活用したのではないかと推測されます(参212)。なお、上記の殿隊第42番(3人1組)には楠木四郎のほかに武蔵七党の忍三郎及び忍五郎の名前が記録されていますが、映画「のぼうの城」佐藤浩二さんが演じた忍城城代家老・正木丹波守利英(忍氏は成田氏に滅ぼされ、その末裔が正木氏を名乗って成田氏に仕えたと言われています。)は楠木氏の末裔と言われていることから(高源寺にある忍城戦死者慰霊碑には菊水紋が刻まれています。)、楠木氏と忍氏との間で姻戚関係が結ばれた可能性が考えられます。なお、時代は下って、忍藩御使番・楠五郎兵衛という人がいますが、摂津国から下向した人で楠木四郎との関係は確認できていません(参213、214、215)。因みに、小田原征伐で北国軍(大将:前田利家、副将:上杉景勝真田昌幸)の信濃衆に編成された打越(宮内少輔)光重は、八王子城を陥落した後に忍城責めにも参加していた可能性があり、同じ楠木氏後裔の正木氏と打越氏が敵味方に別れて戦ったのではないかと考えられます。楠木氏の家系図は複数の異なる家系図が存在して錯綜しており、そのいずれが正確なものなのか(いずれも正確ではない可能性を含む)は歴史の闇に埋もれていますが、1つの可能性として、①橘諸兄の孫・橘島田麻呂の第四子・橘眞主が熊野連多賀志麿の娘の婿養子に入り、その玄孫に熊野廣方が生まれたこと、②熊野廣方が橘良植の娘の婿養子に入り、その曾孫に橘良冬が生まれて和田氏を名乗ったこと(本姓は橘氏、名字は和田氏で、熊野国造系和田氏、河内和田氏の祖)、③和田(橘)良冬の後裔(和田(橘)正俊か?)又は橘成仲の祖父が楠木氏へ婿養子に入ったこと、④その後裔(楠木(橘)正遠か?又は楠木(橘)正玄か?)が橘成仲の娘を娶り又はその後裔(楠木正定か?)の娘が橘成仲に嫁いで楠木(橘)正成又は楠木(橘)正遠が生まれたこと、⑤楠木(橘)正遠の叔父(和田(橘)正光か?)の子として和田(橘)正家が生まれ又は和田(橘)正家が楠木(橘)正遠の娘の婿養子に入り、楠木氏の家督承継権がある者として楠木氏を名乗ったことなどの仮定(図表5を参照)を前提として、いつの時点におけるどの系流を基軸とした家系図を作成したのかによって複数の異なる家系図が作成されるに至ったのではないかと推測されます。なお、親川楠家系図にも共通しますが(注21)、惣領家の当主の逝去(戦死や病死等)に伴ってその子に代わりその兄弟(叔父)が惣領家の家督を承継することは珍しくなかったようで(例えば、大河ドラマ麒麟が来る」で明智氏家督が嫡男の明智光秀ではなく叔父の明智光安に承継されている例など)、当主の子はその兄弟(叔父)が養父となって育てることも珍しくなかったのではないかと思われます。この点、現代のように家(世帯)の捉え方が細分化されておらず、惣領制を前提として惣領家(本家)及び庶子家(分家)を一体のもの(一門)として捉える考え方が強かったと考えられ、それが一層と家系図を読み解き難いものにしています。 
 

 

(注24-2)打越氏(内越氏)の姻戚関係と血脈

 狩猟採取を中心とする先史時代の日本は、母系社会であったと言われていますが、やがて農耕牧畜による定住生活が普及するにつれて社会が形成され、その富の分配を巡って争いが頻発するようになると、力の強い男が富を独占して徐々に父系社会へと移り変わります。その後、大和朝廷が中国の国家制度に倣って父系社会を本格的に導入したことにより、日本は母系社会から父系社会へと変遷しました。やがて武家社会の到来により、その富の分配を巡って争いが激化すると、それを避けるために嫡流による富の単独承継(土地の単独相続)が一般化し、これに伴って家系図は父系嫡流のみで作成されるようになり、父系庶流や女系の記録は殆ど残されなくなります。なお、現代では、平等社会と貨幣経済の浸透により富の分割承継(金銭の分割相続)が一般化し、(現行制度の中にも多少は父系社会の名残がありますが)基本的に嫡流又は庶流や父系又は母系に関係なく戸籍という形で家系図が記録されるようになりました。そこで、下表には、限られた記録の中から打越氏(内越氏)の父系庶流や女系の血脈をまとめています。小笠原氏、酒井氏(松平氏同族)や朝比奈氏(武田氏旧臣)等と姻戚関係が結ばれた例が多いですが、少し変わったところで、大名家の津軽(南部)氏や伊集院(島津)氏、弁慶の父・湛増の末裔である鵜殿氏や斎藤道三の末裔である松波氏等との姻戚関係が結ばれているのが注目されます。なお、由利十二頭及び雑賀衆の中で行われた姻戚関係については、その詳細が不明であり、その数も相当に多いと考えられることから下表に含めていません(注11)。

血流 系流 打越氏 他氏
家主 続柄 名前 続柄 家主
分家Ⅰ 楠木正家 婿養子 内越義和 実父 小笠原大和守
分家Ⅱ 打越政徳 婿養子 打越直正 実父 米川彦右衛門
本家Ⅰ 打越光種 婿養子 打越光業 実父 鵜殿長直
本家Ⅰ 打越光高 実父 朝比奈泰周
本家Ⅰ 打越光保 実父 美濃部茂済
本家Ⅰ 打越光保 婿養子 打越光輪 実父 松波正春
本家Ⅰ 打越光輪 婿養子 打越光中 実父 朝比奈泰輝
本家Ⅰ 打越光中 実父 酒井忠利
本家Ⅰ 打越光広 実父 拓殖兄典
本家Ⅰ 打越金之助 実父 小笠原大隅
本家Ⅰ 打越光隆 三男 打越光清 婿養子 秋田金左衛門
本家Ⅰ 打越光隆 長女 打越セン 津軽伊豆
本家Ⅰ 打越光種 長女 内藤彰政
本家Ⅰ 打越光種 次男 打越政英 婿養子 酒井重政
本家Ⅰ 打越光高 長女 小笠原頼貴
本家Ⅰ 打越光高 次男 打越政栄 婿養子 酒井政英
本家Ⅰ 打越光輪 長女 小笠原義武
分家Ⅻ 打越房勝 長女 伊集院忠眞
本家Ⅲ 打越義方 長女 下川五郎右衛門

※ 打越センの娘は津軽美作の妻。

※ 打越光輪(本家Ⅰ)の三女は、徳川家斉将軍の長女・淑姫の侍女として仕え、1799年(寛政11年)の尾張藩主・徳川斉朝への輿入に御供。

添田貞俊の子・盈章及び添田貞盈の子・貞順はいずれも津軽藩家老。

 

トップに戻る

第1部第2巻 打越(内越)氏の系流(第3段)

第3段 雑賀衆

雑賀衆(本家Ⅱ、分家Ⅴ、分家Ⅵ)

 1535年(天文4年)、紀伊国五荘郷(雑賀荘、中郷、南郷、十ケ郷、社家郷の約7万石)を支配した地侍で構成される集団(伊賀国加賀国と同様に主家を持たずに共和自治を行う惣国的な集団)として「雑賀衆」という言葉が初めて歴史上に登場し(参44)、大隅国種子島に伝来した鉄砲をいち早く合戦に導入して鉄砲隊及び水軍を擁する傭兵集団として全国から注目されるようになりますが(注17、27)、その構成員として鈴木氏、佐武氏及び津田氏と並んで打越氏の名前が見られます(本家Ⅱ)(参45、46)(注15、16、26)。この点、陰徳太平記における1576年(天正4年)の石山本願寺合戦(第一次木津川口合戦)に関する記述の中で「総じて大坂に籠る所、諸国の僧多しと雖も、其功を建つる事、雑賀の者第一たり。其中にも総軍の駈引の謀主は、鈴木源左衛門也。先陣の武将は、山内三郎大夫、高柳監物、西ノ口平内大夫、原平馬、天井浜主計。遊兵として弱きを扶け、敵の横合を打つ者の武将には、高松三充、打越藤左衛門、津屋十郎左衛門、高仏十郎次郎、土橋平次郎、和歌藤左衛門等、何れも鳴世の武士にて、毎時戦功出群せしとかや。」とあり、雑賀衆・打越藤左衛門はその軍功によって敵味方に有名(鳴世)を馳せていたという記録が残されています。しかし、雑賀衆に関する史料は非常に少なく、これ以外のことはよく分かりません(参31、陰徳太平記下巻第53/参190)。

 現在、和歌山県に分布している打越氏は、熊野本宮大社周辺、熊野水軍の本拠があった田辺市周辺及び雑賀荘があった和歌山市周辺に集中していますが、楠木氏や和田氏と同じく橘紋を使用している家や雑賀氏(鈴木氏)と姻戚関係を結んでいる家(分家Ⅹ)(参45)があります。また、河内(甲斐)源氏佐竹氏流・佐武氏と同じく丸に日の丸紋や丸に五本骨扇紋を使用している家(分家Ⅺ)が多く、打越(安左衛門)繁高の叔父及び従弟が住職を務めた千光寺(和歌山県田辺市)には打越氏の墓と共に佐武氏の墓が安置されており、佐武氏との間で姻戚関係が結ばれている可能性が考えられます。

 

紀州徳川家への仕官

 1621年(元和7年)、紀州藩主・徳川頼宣紀州藩の家臣団を増強するために雑賀衆等から由緒正しい有力者60人を選んで紀州藩士として登用し(六十人者与力)、海士郡の雑賀衆・打越五郎右衛門が大番頭与力として召し抱えられます(参60、61、62)(注28)。なお、 1869年(明治2年)、紀州藩士・打越(安左衛門)繁高が紀州徳川家に提出した家系図によれば、紀伊国海部郡宇須村字打越の発祥で、本姓を源氏とし、雑賀衆・打越藤左衛門を祖とすると記載されていますが、この家系図には上述の打越五郎右衛門の名前が記されていません。この点、1865年(慶応元年)、紀ノ川の氾濫で大垣内堤防が決壊して4つの家系図が流失し、詳しい由緒(打越藤左衛門以前の家系図やその他の系流の家系図)が分からないとも記載しており(参47)(注25、29)、この中に打越五郎右衛門の系図が含まれていた可能性もあることから、紀州徳川家へ召し抱えられた打越氏は複数家が存在していたと思われます。

 

(注25)出羽国紀伊国の往還

 矢島(大井五郎)満安の家来で修験者の普賢坊が熊野を参詣する傍ら京の状勢を探索していたという記録があります(奥羽永慶軍記/参163)。また、1580年(天正8年)、打越正義(分家Ⅰ)は、本願寺法主顕如上人からの援軍要請により、その名代として弟・打越三郎左衛門を鷺森城(雑賀御坊)へ派遣しています。さらに、1593年(文禄元年)、同じく鷺森城を守備していた楠木正意は、顕如上人が入滅したことから、出羽国由利郡打越郷へ遁れたという記録が残されており(参3)、出羽国紀伊国との間で何らかの人的なつながりがあったことを伺わせます。因みに、最上義光の傘下にあった仁賀保兵庫(挙誠)、六郷兵庫(政乗)、雑賀兵庫のことを俗に「最上家の三兵庫」と言いますが(参219)、紀伊国から出羽国へ雑賀氏が下向していた模様です。

 

(注26)雑賀衆打越氏

 1562年(永禄5年)、紀伊国日高郡を支配していた甲斐源氏武田氏流・湯川直春と雑賀衆の間で取り交わされた「起請文」(東京湯川家文書)や「紀伊国旧家地士覚書」及び「南紀士姓旧事記」等に記録されている雑賀衆の名字は、上記の注15の表に記載したとおりです(参45、54)。この中には雑賀衆の棟梁・鈴木氏(雑賀氏)や雑賀衆に鉄砲を伝えた楠木正儀後裔・津田氏に加えて、常陸源氏佐竹氏流・佐武氏や甲斐源氏武田氏流・栗栖氏の名前も見られ、いずれも打越氏(本家Ⅱ、本家Ⅲ)と姻戚関係を結ぶなど密接な関係にありました。

 

(注27)和歌山(紀伊)と鹿児島(薩摩)及び北海道(蝦夷)の関係

 1185年(元暦元年)、熊野別当・湛慶(弁慶の父)は、平氏追討使に任命され、熊野水軍を組織して壇ノ浦の戦いに参陣します。時代は下って、1341年(暦応4年)、南朝勢力・肝付兼重及び矢上高純が籠城する東福寺城(鹿児島県清水町)が島津貞久により攻め落とされると、1343年(興国3年)、征西大将軍懐良親王は、南朝勢力の挽回のために熊野水軍を率いて南朝勢力・指宿氏が支配する薩州津(山川湊)に上陸し(参248)、その後、南朝勢力・谷山氏が守備する谷山城(鹿児島県鹿児島市)へ入城しており(参232)、一時、島津貞久は苦戦を強いられます(参48)。この点、雑賀衆には熊野水軍の流れを汲む者が多く、それらの者を中心として雑賀水軍を組織して紀伊国から淡路国阿波国等へ傭兵を派遣すると共に、紀伊水道を南下して九州や東南アジア諸国と交易を行い(薩摩商い)、最新式の鉄砲等を入手しました(参49)。昔から、紀伊半島(熊野等)と九州半島(薩摩等)の間では人や物の往来が活発で、現在でも九州半島(薩摩等)には紀州半島(熊野等)から移住した末裔と思われる家の分布が多く、丸に橘紋を使用している雑賀衆・打越氏の後裔の分布も確認できます。このほか、打越安左衛門が紀州藩からその支藩である伊予国西条藩の御付人(準士)として仕え、1862年(明治2年)に紀州藩へ帰任したという記録が残されています(西条御付人御戻しの項/参62)。また、1889年(明治22年)7月、篠路屯田兵(北海道の警備と開拓にあたった元武士)として元紀州藩士(士族)・打越留吉が北海道へ入植し(参12)、兵村配置図から割り出すと屯田4番通り沿い(北海道札幌市北区屯田8条10丁目9)を開拓しており、紀伊半島のみならず、九州半島(薩摩等)、四国半島(伊予)や北海道(蝦夷)での事績が確認できます。因みに、映画「北の零年」は北海道開拓使が開拓を成し遂げる実話を元にした映画ですが、その陰で、明治政府の同化政策により虐げられたアイヌ民族の存在を忘れることはできません。2020年に「ウポポイ(民族共生象徴空間)」がオープンし、アイヌ民族ウィルタ民族やニヴフ民族等が育んだ独自の文化は非常に重要な文化的資産として、その価値が再認識されています。

f:id:bravi:20210326121549j:plain 【名称】東福寺城(肝付兼重奮戦の地碑)
【住所】鹿児島県鹿児島市清水町28-25
【備考】肝付兼重は1340(興国元年)8月から8ケ月間に亘り籠城し、北朝勢力・島津氏と奮戦します。
f:id:bravi:20210525175604j:plain 【名称】松尾城(指宿城)
【住所】鹿児島県指宿市西方6830
【備考】東福寺城の落城後、征西大将軍懐良親王熊野水軍(雑賀水軍)を従えて南朝勢力の松尾城主・指宿氏が支配する薩州津(山川湊)へ上陸します。後年、雑賀衆は山川湊を薩摩商いの拠点としますが、この地域には雑賀衆の後裔の分布が見られます。
f:id:bravi:20210325123718j:plain 【名称】谷山城(千々岩城)
【住所】鹿児島県鹿児島市下福元町1485
【備考】征西大将軍懐良親王は、南朝勢力の挽回のために南朝勢力・谷山氏が守備する谷山城(鹿児島県鹿児島市)へ入城します。
f:id:bravi:20210325123306j:plain 【名称】高山城
【住所】鹿児島県肝属郡肝属町新富5595
【備考】南朝勢力・肝付氏の居城で、北朝勢力・島津氏に二度攻められていますが、いずれも島津氏を防いでいます。
f:id:bravi:20210325123425j:plain 【名称】自(示)顕流発祥の地
【住所】鹿児島県肝属郡肝属町新富5595
【備考】肝付氏の祖・大伴氏は野太刀流(勤皇の剣)を使い近衛軍(物部氏は遠征軍)として八咫烏賀茂氏)と共に神武東征を先導したと言われていますが、肝付兼重も南朝勢力へ味方。その後、関ヶ原の戦い島津義弘と共に敵中突破した薬丸(肝付)兼成が野太刀流を基にして東郷重位示現流を融合し、野太刀自(示)現流を創始。勤皇の剣として明治維新にも活躍した野太刀自(示)現流の技は警視庁に採用されています。
f:id:bravi:20210325123227j:plain 【名称】弓張城
【住所】鹿児島県肝属郡肝属町新富5595
【備考】肝付兼重と共に南朝勢力として活躍した楡井頼仲(楡井氏は清和(信濃)源氏で信濃国高井郡楡井村の発祥)の居城。
  

(注28)紀州徳川家への仕官

 1619年(元和5年)、徳川頼宣は、雑賀衆根来衆等が戦国時代に紀伊国で共和自治を確立し、非常に独立性が強く第三勢力に統治されることを嫌う気質(ボヘミアニズム)があることに配慮し、紀伊国の旧家や地侍のうち、熊野八庄司の末裔や畠山氏(本家Ⅱの系流)、湯川氏(本家Ⅲの系流)、宮崎氏(奥州探題職に仕え、一時期、秋田県仙北郡へ潜伏)及び貴志氏の遺臣の中から武功に秀で家柄の由緒正しい60人を選んで土着のまま(即ち、現代風に言えば、本社の中間管理職ではなく、裁量権が多い地方の支店長)で紀州藩士として召し抱えて「六十人者与力」(六十人地士)を組織します(1654年(承応3年)に「六十人者」と改名)。「六十人者与力」(六十人地士)は、紀州藩士として有事の軍役に加え、警察機能を持って村々を統治すると共に、訴状を取り扱うなど各村の奉行代官的な役割を果たすために広範な権限を与えられます。また、藩主の直轄軍として馬上が許され(与力=寄り騎)、大番頭が侍大将であるとすると、その与力(六十人者与力)は足軽大将にあたり、大番頭の下で同心(足軽)の部隊を指揮管理しています。因みに、根来衆100人が同心(足軽)として召し抱えられています(根来同心)。1620年(元和6年)、海士郡の打越五郎右衛門は、「六十人者与力」(六十人地士)として組頭・戸田(金左衛門)清隆(徳川家康譜代の家臣で大阪の陣で徳川頼宣の軍勢に加わった際の実績で紀州藩重臣に抜擢)の配下となり、知行50石で紀州徳川家に仕え(元和八年被召出地士六十人者姓名/参62)、その後、1625年(寛永2年)、組頭・渋谷伯耆守の配下に組替えとなります(大番頭六人預与力地士六拾人姓名/参56)。また、1624年(寛永元年)、海士郡・打越藤右衛門も六十人者与力になりますが(参233)、同時期に2人が六十人与力を構成していたことになり、複数の家が紀州徳川家に仕官していた可能性が考えられます。その後、1645年(正保2年)、大番頭・戸田十郎左衛門の配下として打越藤右衛門の名前が記録されています(六十人者地士組分け/参62)。また、紀伊風土記(参58)に由緒書がある旧家として牟婁郡(口粟野)道湯川郷・湯川興兵衛や牟婁郡(口熊野)大内川郷・愛洲七郎兵衛と共に牟婁(口熊野)郡和田郷・打越忠蔵(本家Ⅲ)の名前が記録されています(紀州各郡地士姓名/参62)。

 

(注29)紀州藩士・打越氏の家系図

 紀州藩士・打越安左衛門が紀州藩へ提出した家系図(巻末家系図:図表11)には、打越藤左衛門を祖として打越伊左衛門-打越十左衛門-打越円蔵-打越十左衛門繁門-打越安左衛門繁高(分家Ⅰと同じ「◯左衛門」「◯蔵」を通字とする系流)及び打越円蔵の次男として千光寺に出家した叔父及び従弟(いずれも名前不詳)が記載されています。しかし、上述の六十人地士・打越五郎右衛門や打越藤右衛門及び1716年(享保元年)に紀伊国名草郡の郡奉行代官を務めた打越猶右衛門(参85)(本家Ⅰと同じ「◯右衛門」を通字とする系流)は記載されていませんので、大垣内堤防の決壊で流失した4種類の家系図の系流ではないかと考えられ、紀州藩士・打越氏の系流を全て把握することは困難になっています。なお、この記録から紀州藩士・打越氏(本家Ⅱ)は和歌山県和歌山市大垣内に館を構えていたと推測されますが、ここには打越氏(本家Ⅲ)の祖である湯川氏の菩提寺の光恩寺があり、その墓地には湯川氏の墓に加えて紀州武田氏の墓や根来衆及び雑賀衆に鉄砲を伝えたと言われている津田監物楠木正儀の末裔)の墓などがあります。なお、以下に時系列で示すとおり石山本願寺合戦では楠木氏、打越氏(本家Ⅱ)及び打越氏(分家Ⅰ)が相互に連携しながら対応していたと考えられます。

①1575年(天正3年):楠木正意が顕如上人の命で石山本願寺を守備

②1576年(天正4年):打越藤左衛門(本家Ⅱ)が天王寺合戦及び第一次木津川口海戦で本庄城を守備

③1577年(天正5年):第一回紀州征伐、第二次木津川口海戦

④1580年(天正8年):楠木正意及び打越三郎左衛門(分家Ⅰ)が顕如上人の命で鷺森別院(雑賀御坊)を守備

⑤1592年(天正20年):顕如上人の入滅に伴って楠木正意が出羽国由利郡打越郷へ隠遁

 

③その他(分家Ⅻ、XⅢ)

 薩摩藩島津氏の重臣・禰寝(根占)氏の家臣である打越(用右衛門)房勝の娘が島津氏の分家・伊集院忠眞(注30)に嫁いで長女を出産しており(参63)、打越氏(分家Ⅻ)は島津氏の分家・伊集院氏と姻戚関係にありました。また、薩摩国日置郡吉利村の検地竿次帳には「1726年(享保11年)4月18日、郡見廻打越用右衛門、役人弥寝五郎左衛門、竿取谷山猪俣覚之助」によって検地が実施されたという記録が残されています(参86)。さらに、禰寝(根占)氏の当主・禰寝(根占)清雄が農業の方法を定めた「農業方之条書」を基にして薩摩藩郡奉行・汾陽(四郎兵衛)盛常が編纂した「農業法」を薩摩国吉利郷役所(奉行所)が紛失したので、1755年(宝暦5年)、有馬源五右衛門が所持していた写本を借りて書き写し、これに打越八右衛門及び禰寝越右衛門が連署したものが残されている(参87)など、打越氏(分家Ⅶ)は禰寝(根占)氏から重用されていたことが伺えます。

 なお、打越氏(分家Ⅻ)については詳しい資料が残されておらず正確なことは分かりませんが、この地域に分布している打越氏の家紋や「都道府県別姓氏家紋大事典 西日本編」(千鹿野茂/柏書房)等から、打越氏(本家Ⅰ)又は打越氏(本家Ⅱ)の系流である可能性が考えられます。この点、禰寝(根占)氏は大隅国大泊を母港とする禰寝水軍を擁して大陸貿易を行っていたことから薩摩商いを行っていた雑賀水軍との関係も深く(薩摩国山川湊は雑賀水軍の寄港地。なお、1343年(興国3年)、征西大将軍懐良親王熊野水軍を従えて南朝勢力・指宿氏が支配する薩摩津(山川湊)へ上陸。)、雑賀衆・打越氏(本家Ⅱ)の庶流が禰寝(根占)氏へ仕官した可能性も考えられます。

 因みに、薩摩藩島津氏の重臣・禰寝(根占)氏は、富田城(鹿児島県肝属郡南大隅町根占川南5463)を本拠とし、大隅国禰寝(根占)院(現在の鹿児島県肝属郡錦江町及び南大隅町)を支配していましたが、1596年(文禄5年)の太閤検地に伴って大隅国禰寝(根占)院から薩摩国吉利郷へ知行地替えになり、1627年(寛永4年)、初代薩摩藩主・島津家久の子・島津久雄を婿養子に迎えて島津氏の分家となります(島津禰寝氏)。なお、後に禰寝(根占)氏は「小松」(注31)と名字を改め、維新十傑の1人、薩摩藩島津氏の家老・小松帯刀を輩出した島津藩屈指の名家で、その末裔には俳優・上原謙加山雄三、作家・ねじめ正一、騎手・武豊など著名人がいます。

 1599年(慶長4年)、庄内の乱を起こした伊集院忠眞(打越房勝の娘が嫁いだ伊集院忠真は同姓同名の別人)(注30)の弟・伊集院小次郎が籠城した末吉城(鹿児島県曽於市末吉町諏訪方8651-5)を攻略するために、肝付(肝属)氏の家臣(薩摩藩島津氏の陪臣)である打越十兵衛(御弓箭=武士)が大隅国恒吉郷(現、鹿児島県曽於市大隅町)から、末吉城落城後に薩摩藩島津氏の直轄地に組み込まれる大隅国末吉郷(現、鹿児島県曽於市末吉町)への移動(衆中召移し:島津氏の有力家臣の家臣(陪臣)を島津氏の家臣(直臣)として召し抱えて有力家臣の力を削ぐ領地政策)を命じられます(分家XⅢ)(参88)。

 なお、打越氏(分家Ⅻ)と打越氏(分家XⅢ)は、その地理的及び時代的な分布が重なっていることから、同じ血族ではないかと推測されます。

 因みに、肝付氏(朝廷を守護する親衛隊である大伴氏の後裔)は肥後国の菊池氏や阿蘇氏らと共に南朝勢力として活躍しますが、上述のとおり維新十傑の1人・薩摩藩家老・小松帯刀は肝付氏から禰寝(根占)氏へ婿養子に入っており、また、西郷隆盛は菊池氏の末裔と言われていますので、南朝勢力であった肝付氏や菊池氏の後裔が祖先の志を継いで明治維新の立役者になり、後醍醐天皇の悲願であった王政復古を約500年後に実現したことになります。

 

(注30)2人の伊集院忠真

打越(用右衛門)房勝の娘が嫁いだ島津氏の分家・伊集院氏は、第2代島津氏の当主・島津忠時の孫・島津俊忠が薩摩国日置郡伊集院を支配して伊集院を名乗り、その庶流である伊集院助左衛門尉秀久家・伊集院久國の三男として伊集院忠真が生まれています。この点、1599年(慶長4年)、庄内の乱(関ケ原の戦いで島津氏が数百の軍勢しか派兵できなかった原因となった御家騒動)を起こした伊集院忠眞とは同じ伊集院氏内の同姓同名の別人です。

 

(注31)禰寝(根占)氏=小松氏

薩摩藩重臣・禰寝(根占)氏は、大宰府在庁官人の建部姓を祖としますが、平清盛の嫡男・平重盛の血も引いていることから、維新十傑の1人、小松帯刀薩摩藩家臣・肝付氏からの婿養子で、旧名は肝付兼戈、その兄は肝付兼両)は、平重盛が京都六波羅の小松谷へ抜ける場所に館(小松第)を構えて小松殿と呼ばれていたことに因んで「小松」に名字を改名します。

 

トップに戻る

第1部第2巻 打越(内越)氏の系流(第4段)

第4段 甲斐源氏武田氏流

 

甲斐源氏武田氏流湯川氏の庶流

 1585年(天正13年)、第二次紀州征伐で湯川直春本領安堵を条件として豊臣秀吉と和睦し、大和郡山城主・豊臣秀長と面会した直後に急死します(豊臣秀吉による毒殺説)。このような状況を受けて、湯川直春の第四子・忠蔵は紀伊国牟婁郡下川下村字打越(打越城)及び紀伊国牟婁郡和田村(打越屋敷)に隠棲して仏門に入り「打越」を名乗ります(本家Ⅲ)(参53、58)(注32)。また、打越屋敷と和田川を挟んだ対岸に久留栖屋敷を構えた久留栖(愛洲)忠俊(湯川氏の分家・愛洲憲俊の弟)の末裔が「打越」を名乗ったとも言われています(参89)。いずれにしても紀州武田氏流・湯川氏の系流が打越氏を名乗ったことは確かなようで、出羽国由利郡内越村を発祥とする打越氏(内越氏)(本家Ⅰ)と同じく河内(甲斐)源氏流であることから同祖同根の間柄となります。

 因みに、打越屋敷がある紀伊国牟婁郡和田村は楠木氏と同族である河内和田氏の祖・物部氏族熊野国造系和田氏(参50)が支配していた土地と言われており、打越忠蔵が同地に開基した梵光寺には打越氏の墓と共に和田家の墓があります。また、熊野国造系和田氏橘氏と姻戚関係を結んで「橘紋」を使用していますが、紀州徳川家に仕官した打越氏(本家Ⅱ)も同じく「丸に橘紋」を使用しています。さらに、打越氏(本家Ⅱ)の発祥の地である紀伊国海部郡宇須村字打越にある浄土真宗真光寺」は楠木正成の甥・和田賢秀が開基した寺ですが、打越氏の菩提寺となっており、和田氏との密接な関係性を示す事績が数多く残されています。

 

紀州徳川家への仕官

 紀州藩が編纂した「紀州各郡地士姓名」には、紀伊風土記に由緒書がある旧家として紀伊国牟婁郡(口熊野)和田村・打越忠蔵の名前が記されています(本家Ⅲ)。この点、地士とは、紀州藩紀伊国(熊野)の地侍(農村に居住して広大な土地を支配し、家来、鉄砲や馬等の独自の軍事力を保持していた武士)を把握するために設けられた制度で、近世的な兵農分離は行わず、紀州藩の統制の下に置きながら中世的な半農半兵として存続させ、有事の際には紀州藩の軍事力として利用し、名字帯刀や藩主への御目見が許されるなど士分の待遇が与えられています(参61)。なお、打越忠蔵の孫・打越義方の娘が下川五郎右衛門に嫁いで和田村に居住していたという記録が残されています(参53)。

 

(注32)紀州武田氏流(湯川氏・愛洲氏)の系譜

 1332年(元弘2年)、南北朝の動乱では、後醍醐天皇が立て籠もる笠置寺が陥落した後も、楠木正成、愛洲憲俊及びその子・能俊らは後醍醐天皇の皇子・護良親王(大塔宮)と共に河内国の赤坂城に籠城して鎌倉幕府に抵抗します。しかし、その後、赤坂城が落城すると、楠木正成伊賀国へ(注19)、また、護良親王(大塔宮)及び愛洲父子は紀伊国へそれぞれ落延びます。その際、護良親王(大塔宮)が立ち寄った村を「大塔村」と呼ぶようになり、この大塔村があったところが湯川直春の第四子・忠蔵が仏門に入り「打越」を名乗った場所です。打越忠蔵は天杯(天皇から下賜された杯)と伝わる滅金に銀の牛月の模様がある大杯を所持し、1343年(興国4年)に後村上天皇より久留栖(栗栖)氏(愛洲氏の分家)に下賜された綸旨を愛洲氏(湯川氏の分家)から譲り受けたという記録が残されています(和田村、旧家打越忠蔵氏の項/参58)。因みに、愛洲氏は応仁の乱畠山義就(西軍=後南朝)に味方して畠山政長(東軍)に敗れますが、その後、打越氏(内越氏)の祖先である於曾尚光(本家Ⅰ)が畠山義就の子・義豊(西軍=後南朝)に加勢して討死していますので(打越氏御先祖様代代覚書控/参10)、打越氏(内越氏)及び愛洲氏は後南朝の時代も南朝勢力として活躍しています。因みに、室町時代愛洲久忠愛洲移香斎)は日向国鵜戸村(宮崎県日南市鵜戸村)で三大剣術の1つ「陰流」を創始し、この流派を基に上泉信綱が新陰流を考案して、それが柳生氏(南朝勢力)に伝授され「柳生新陰流」を大成します。愛洲久忠は、北畠氏(南朝勢力)が国司を務める伊勢国の五ヶ所城跡(三重県度会郡南伊勢町五ヶ所浦)で生まれますが、そこから北西約1里の場所に伊勢国司・北畠氏に仕えた南部修理大夫の居城・打越城跡(三重県度会郡南伊勢町伊勢路)があります。
 

トップに戻る

第1部第3巻 打越(内越)氏の家紋(第1段)

第1段 総論

 家紋は、鎌倉時代から武家が戦場で敵味方を識別し、武勇をアピールする目的で使用し始めた旗標のこと(即ち、現代風に言えば、登録商標のようなもの)で、他家の家紋を勝手に使用することは許されず、それが原因で争いになった例もあります。また、応仁の乱から戦国時代に入ると同族同士で敵味方に分かれて争うようになったことから家紋の種類が増え、分家や姻戚関係等を契機として本紋とは別に替紋や譲与紋など複数の家紋を併用するようになります(参25)(注33-2)。

 この点、家紋の全国分布を調べることは古文書等に記録されていない祖先の事績を探るための重要な手掛りの1つとなるものですが、近世以前の「土地(家督)の単独相続」から、近代以後の「金銭(財産)の分割相続」へと移行するに伴って土地に裏打ちされた家制度が崩壊し、家を識別するための家紋に頓着しない風潮が生まれたことで家紋が不分明になってしまう家も少なくないようです(注34)。このような状況に加えて、近年の個人情報シンドロームと揶揄される過剰な法規制も手伝って家紋の全国分布を調べることは益々困難を極めていますが、取り敢えず、現時点で調べ得る限りで打越氏(内越氏)が使用している主要な家紋(但し、近代以降の替紋も多いので使用家数が少ない家紋を除きます。)について、その全国分布を調査して次ページ以降にまとめています。

 

①全国分布

 下表の備考欄に記載している打越氏(内越氏)の住民数は、電話帳に登録されたデータを参考にしています。また、下表の主要な家紋欄に記載している打越氏(内越氏)の家紋分布(注33-1)は、都道府県別姓氏家紋大事典(参91)をベースに、フィールドワーク等から得られた情報を追加しています。高度経済成長以降は広域な人の移動が活発になり、あまり都市部の情報は参考になりませんが、地方の情報は土地の歴史の痕跡が残されている例が多いので参考になります。
 
分布地域 主要な家紋 系流 備考
北海道 丸に橘紋
丸に木瓜紋
丸に蔦紋
三つ柏紋
丸に揚羽蝶
紀州雑賀衆
清和源氏武田氏流
清和源氏小笠原氏流
全国5位(約380名)
屯田兵として北海道へ疎開した紀州藩に仕官していた打越氏の末裔も分布。
青森県 丸に三階菱紋
卍紋
丸に隅建て四ツ目結紋
清和源氏小笠原氏流 全国21位(約60人)
「うてつ」と読み、津軽藩に仕官していた打越氏の末裔が分布。
秋田県 三階菱紋
松皮菱紋
王字紋
丸に一文字三ツ星紋
菊水紋
清和源氏小笠原氏流 全国-位(約-人)
現在、秋田県に打越氏の末裔の分布なし。
岩手県 丸に蔦紋 清和源氏小笠原氏流(藤原氏秀郷流?) 全国18位(約60人)
南朝方の根城南部氏が支配していた岩手県遠野市等に分布。
茨城県 丸に三階菱紋
丸に松皮菱紋
丸に一文字三ツ星紋
丸に隅建て四ツ目結紋
丸に梅鉢紋
清和源氏小笠原氏流 全国1位(約1100人)
打越氏(内越氏)の祖・楠木正家が守備した瓜連城があった場所。
栃木県 三階菱紋
松皮菱紋
王字紋
丸に一文字三ツ星紋
清和源氏小笠原氏族 全国17位(約70人)
徳川将軍家に仕えていた打越氏の知行地とその近隣の地域に打越氏が分布。
埼玉県 三階菱紋
松皮菱紋
王字紋
丸に一文字三ツ星紋
清和源氏小笠原氏族 全国11位(約180人)
徳川将軍家及び柳沢氏に仕えていた打越氏の知行地あり。また、都心へ通うベットタウンとして打越氏が分布。
千葉県 三階菱紋
丸に一文字三ツ星紋
清和源氏小笠原氏族 全国11位(約180人)
徳川将軍家及び柳沢氏に仕えていた打越氏の知行地あり。また、都心へ通うベットタウンとして打越氏が分布。
東京都 三階菱紋
松皮菱紋
王字紋
丸に一文字三ツ星紋
清和源氏小笠原氏流 全国3位(約460人)
神奈川県 丸に一文字三ツ星紋 清和源氏小笠原氏流 全国8位(約290人)
静岡県 一文字三ツ星紋 清和源氏小笠原氏流 全国38位(約10人)
渡辺星紋(嵯峨源氏流)とする資料があるが、一文字三ツ星紋(清和源氏小笠原氏流)の誤認の可能性。
愛知県 一文字三ツ星紋 清和源氏小笠原氏流 全国20位(約60人)
渡辺星紋(嵯峨源氏流)とする資料があるが、一文字三ツ星紋(清和源氏小笠原氏流)の誤認の可能性。
岐阜県 丸に五七桐紋
丸に片喰紋
丸に右三つ巴紋
片(三)連銭紋
丸に桔梗紋
雑賀衆
美濃源氏打越氏?
全国39位(約10人)

石川県 丸に揚羽蝶
丸に蔦紋
清和源氏 全国10位(約260人)
揚羽蝶紋は平氏の家紋だが、能登畠山氏(桓武平氏流と清和源氏流の2流が婚姻関係を結んで誕生)の重臣・長氏家臣のためか? 又は由利五人衆・滝沢(由利)氏が丸に揚羽蝶紋を使用しており、その関係か?
奈良県 三階菱紋
剣花菱紋
一文字三ツ星紋
丸に左違い鷹の羽紋
清和源氏小笠原氏流 全国16位(約80人)
御家断絶後に甲斐源氏の誼から佐貫藩の柳沢氏に召し抱えられ、その後、川越藩甲府藩、大和郡山藩へと加増国替え。
和歌山県 丸に橘紋
丸に木瓜紋
丸に日の丸扇紋
丸に五本骨扇紋
丸に左違い鷹の羽紋
丸に三つ柏紋
丸に中陰蔦紋
丸に五七桐紋
紀州雑賀衆
清和源氏武田氏流
全国7位(約290人)
楠木氏和田氏と同じ丸に橘紋
佐武氏と同じ丸に日の丸扇紋(又は丸に五本骨扇紋)
雑賀氏と同じ丸に蔦紋
大阪府 一文字三ツ星紋 清和源氏小笠原氏流 全国4位(約410人)
兵庫県 丸に梅鉢紋 清和源氏小笠原氏流 全国2位(約480人)
広島県 丸に一文字三ツ星紋
丸に梅鉢紋
丸に橘紋
清和源氏小笠原氏流
紀州雑賀衆
全国14位(約100人)
福岡県 丸に三階菱紋 清和源氏小笠原氏流 全国9位(約270人)
佐賀県 丸に一文字三ツ星紋
丸に剣片喰紋
清和源氏小笠原氏族 全国6位(約340人)
熊本県 丸に一文字三ツ星紋 清和源氏小笠原氏流 全国13位(約100人)
鹿児島県 丸に三階菱紋
丸に松皮菱紋
丸に四方花菱紋
丸に橘紋
丸に左違い鷹の羽紋
清和源氏小笠原氏流
雑賀衆
全国6位(約340人)
 
②発祥地別

f:id:bravi:20200727221734p:plain

出羽国由利郡内越村】
 ● 左欄一段目(本紋)
 【三階菱紋】【松皮菱紋】【王字紋】【菊水紋】
 ● 左欄二段目(替紋/星紋)
 【一文字三ツ星紋】(譲与紋又は略奪紋)【丸に一文字三ツ星紋】【丸に梅鉢紋】【丸に剣梅鉢紋】 
 ● 左欄三段目(替紋/菱紋)
 【剣花菱紋】【丸に四方花菱紋】【丸に四方剣花菱紋】【丸に四方木瓜紋
 ● 左欄四段目(替紋/他氏の家紋(譲与紋))
 【卍(まんじ)紋】(津軽家)【丸に隅立て四ツ目結紋】【丸に蔦紋】
紀伊国海部郡宇須村字打越/紀伊国牟婁郡下川下村字打越】【丸に剣片喰】
 ● 右欄一段目(本紋) 
 【割菱紋】【丸に橘紋】
 ● 右欄二段目(替紋/鷹の羽紋、星紋) 
 【丸に梅鉢紋】【丸に左違い鷹の羽紋】【上り藤に左違い鷹の羽紋】【下り藤紋】
 ● 右欄三段目(替紋/菱紋) 
 【丸に木瓜紋
 ● 右欄四段目(替紋/他氏からの譲与紋) 
 【丸に日の丸扇紋】(佐武氏)【丸に五本骨扇紋】(佐武氏)【丸に三つ柏紋】(根来氏)【丸に中陰蔦紋】(雑賀氏)【丸に揚羽蝶紋】
 
(注33-1)都道府県別に多い家紋
 都道府県別では、茨城県:一文字三ツ星紋、和歌山県:五本骨扇紋、兵庫県:梅鉢紋、石川県:蔦紋、青森県及び奈良県:三階菱紋、その他(和歌山県広島県、鹿児島県):橘紋が集中的に分布しており、それぞれの系流を考えるうえで1つの手掛りとなります。
 
(注33-2)替紋の事例

 三菱財閥の創業者である岩崎弥太郎は、河内(甲斐)源氏小笠原氏(阿波国を本拠とした三好氏)の末裔で、 三菱財閥のスリーダイヤは岩崎氏の家紋である「三階菱紋」と主家の山内氏の家紋である「三ツ柏紋」を組み合わせて作られています。

 

(注34)打越(内越)という地名の由来

 全国に打越(内越)という地名が散見されますが、これは峠や川、国境などを「打ち越え」て行かなければならないならない場所の地名として使用されている例(古文書等でも「〇〇を打越し」と動詞として使用されている例)が多く(参92)、打越氏(内越氏)の由来となった出羽国由利郡内越村も芋川を「打ち越え」た内(陸)側という意味の地名ではないかと推測されます。また、全国には天神様(菅原道真)を祀る神社(東京都中野区:打越天神、石川県加賀市:打越菅原神社、熊本県阿蘇市:打越菅原神社、熊本県熊本市:打越菅原神社)、打越八幡社(東京都八王子市)や打越熊野神社(神奈川県厚木市)等が点在していますが、打越(内越)という地名に因んで付けられた神社名は、打越氏(内越氏)との関係を示すものではありません。さらに、紀伊国海部郡宇須村字打越の地名の由来については「昔は波の打越たるを云う」という伝承があるようですが(参62)、古代~中世の頃の古地図を見ると古紀ノ川(後に雑賀川→和歌川)の内陸河岸に位置しており(紀伊湊と吹上浜(日下雅義)/参93)、河川津波でもない限り波が打ち越えるような場所ではないことから真偽定かではありません。なお、「打越(内越)」という地名又は名字は各地方の方言も手伝って「うてつ」「うていち」「うてえつ」「うちごし」「うつこし」「おっこし」など読み方は様々ですが(例えば、菊池十八外城の打越城(城名)は「うちこし」と読むのに対し、熊本城近くの熊本市北区清水町打越(地名)は「うちごし」と濁って読みます。また、滋賀県甲賀市甲賀町隠岐字打越にある打越城(城名)は「うちごし」と濁って読みます。同様の例として秋田県由利本荘市下直根字打越(地名)は「うちこし」と読むのに対し、秋田県湯沢市松岡字打越(地名)も「うちごし」と濁って読むものなどがあります。)、一般に、①東北北部は「うてつ」「うていち」「うてえつ」(北陸地方では越前、越中、越後に見られるとおり「越」を「えつ」と音読みする傾向があり、それが訛ったもの(えつ→てつ、いち)ではないかと推測されます。)、②関東北部は「おっこし」、③九州南部は「うちごし」、④その他の地域は「うちこし」と訓読みする傾向が顕著ではないかと思われます(注13-1、13-2)。江戸時代、打越光輪が「うちこし」という訓読みに統一したことを受けて、現在では「うちこし」という読み方が最も多くなっています(参94、95)。因みに、常陸江戸氏に仕官していた打越(刑部少輔)幹嗣の拝領屋敷(上屋敷)があった那珂湊には茨城県那珂湊町打越前という旧住所があり「うちこし」と訓読みします。

 

トップに戻る

第1部第3巻 打越(内越)氏の家紋(第2段)

第2段 主要な家紋の由緒(楠木正家後裔/甲斐源氏小笠原氏流)

 ①本紋(三階菱紋、松皮菱紋、王子紋、菊水紋):本家Ⅰ、分家Ⅰ

 甲斐源氏は伝統的に「菱紋」を家紋として使用し、甲斐源氏小笠原氏流・打越氏(内越氏)は「松皮菱紋」「三階菱紋」「王子紋」を本紋として使用しています(寛政重修諸家譜(巻二百五)/参6)。その由来については諸説に分かれますが、甲斐源氏の祖・源(新羅三郎)義光が前九年の役に出陣する際に後冷泉天皇から「松皮菱紋」を下賜され、第6代・小笠原貞宗まで小笠原氏の家紋(本紋)として使用します(参96、97)。その後、小笠原貞宗後醍醐天皇から信濃国守護職に任じられて「王字紋」を下賜されますが、そのまま使用するのは恐れ多いとして「王字紋」と「松皮菱紋」を組み合わせて作った松皮菱の下太と言われる「三階菱紋」(王の字の横棒は三階建て、王の字の縦棒は菱の隅立て)を小笠原氏の家紋(本紋)として使用し始めます(寛政重修諸家譜(巻二百五)/参6)。なお、徳川将軍家に仕官していた打越光広(本家Ⅰ)は、江戸幕府に対し、「三階菱紋」「松皮菱紋」ではなく「王字紋」を本紋として届け出ています(参98)(注35)。

 また、打越氏(内越氏)は、小笠原(大井)氏と楠木氏が姻戚関係を結んで生まれた氏族で、打越氏(内越氏)(分家Ⅰ)の一部が楠木氏に復姓して「菊水紋」を本紋として使用しています(由利楠家紀伝/参11)。その由来については諸説に分かれますが、楠木正成後醍醐天皇から「菊紋」を下賜されますが、そのまま使用するのは恐れ多いとして自ら信奉する水分神社に祀られている水分神に因んで下半分を水に流して「菊水紋」にしたという伝承があります。しかし、それ以前から河内和田氏が「橘水紋」を使用しており、これをヒントにして「橘」と「菊」を入れ替えて「菊水紋」にしたというのが実際のところではないかと推測されます(注36)。因みに、楠木正成の縁戚である観世氏は観世水を定紋としていましたが、観阿弥の拝領屋敷跡(京都の観世稲荷神社)に現在も残る井戸(観世井)に龍が降りて出来た水の波紋に由来するという逸話が残されており、観世水を象った京銘菓「観世井」が有名です。

 

②替紋(星紋):本家Ⅰ、分家Ⅰ及び分家Ⅱ

 打越氏(内越氏)が「丸に一文字三ツ星紋」を使用し始めたのは、1600年(慶長5年)、慶長奥羽合戦(北の関ケ原の戦い)において上杉氏の家臣であった大江氏流・越後北条氏の旗指物を奪ったこと(略奪紋)(寛政重修諸家譜(巻二百五)、譜牒餘録(後編巻十九)/参6)(注37)又は1584年(天正12年)、最上義光寒河江(大江)高基を滅ぼした際に最上方であった打越氏及び仁賀保氏が戦勝を記念して寒河江(大江)氏の家紋を使用し始めたこと(略奪紋)(参9)(注37)に由来すると言われていますが、実際には、打越伊賀守が江戸道房(道勝)に仕官した1465年頃までには「丸に一文字三ツ星紋」を使用し始めており(由利楠家紀伝/参11、参16、65)、おそらく慶長奥羽合戦(北の関ケ原の戦い)の軍功によって徳川将軍家に召し抱えられた打越氏(内越氏)(本家Ⅰ)がその武勇を喧伝するために家紋の由来を改作した武勇伝又は最上氏への忠誠を示すために家紋の由来(寒河江(大江)氏からの譲与紋→寒河江(大江)氏からの略奪紋)を脚色したもの(注37)ではないかと推測されます。現代でも就職活動等で自己PRを誇張又は創作するのと同じようなことが行われていたと考えられます。この点、仁賀保氏も「丸に箱一文字三ツ星紋」(寒河江(大江)氏は一文字三ツ星紋、長井(大江)氏は箱一文字三ツ星紋)を使用していますが、その由来は全く異なるもので、南北朝の動乱鎮守府将軍北畠顕家から武功第一として下賜された「一品」の文字を象った家紋であると言われています(仁賀保氏諸家系譜先祖書/参6)。しかし、これは大江氏の祖・阿保親王が一品親王と称され(平城天皇の第一皇子として一品の位にあるという称号)、この「一品」の文字を象って「一文字三ツ星紋」を使用し始めたという由来と酷似しており、仁賀保氏が大江氏の家紋の由緒に取材してこれを借用したとすれば、仁賀保氏が「丸に箱一文字三ツ星紋」を使用し始めた由来は大江氏との関係性に見出すのが自然ではないかと思われます。また、仁賀保氏と同族の矢島氏も「一文字三ツ星紋」を使用していますが、1428年(応永末年)頃、八森古城を居城としていた小笠原(大井五郎)光泰の後裔である小笠原(大井又次郎)光重が矢島から滝沢へ移っていますが(打越旧記/参11)、これに代って大江義久が築館(秋田県由利本荘市矢島町城内築館)へ移り、大江義久を改めて小笠原義久を名乗っていることから(参24、25)、小笠原(大井又次郎)光重の娘の婿養子に入った可能性や、1467年(応仁元年)に出羽国由利郡へ下向した小笠原(大井)重泰が矢島を支配するにあたり在地勢力の大江義久と姻戚関係を結んだ可能性等が考えられ(婿養子等の姻戚関係を結ぶにあたり一方の家名を使用する代わりに、他方の家紋を使用する例)、これによって生まれた矢島氏が小笠原(大井)氏(名字)及び大江氏(本姓)の双方を名乗り(羽黒祭文/参10)、「丸に一文字三ツ星紋」(出羽国置賜郡寒河江荘を支配した寒河江(大江)氏も同じ家紋)を使用し始めたのではないかと推測されます。このことは、奥羽慶長軍記(参6)において、源頼朝から出羽国秋田郡太平村を下賜された大江氏庶流・太平(左近将監)広治と矢島(大井五郎)満安を「一家」と記載していることや、大江広元の養父・中原広忠は滋野氏とも姻戚関係にあること(矢島氏の重臣・根井氏も滋野氏の庶流)などからも推測されます(参11)(注38)。この点、打越氏(内越氏)が「丸に一文字三ツ星紋」を使用し始めた経緯として楠木氏(打越氏(内越氏))と由利氏が婚姻関係を結んだ際に由利氏の家紋である「丸に一文字三ツ星紋」を譲与されたという記録が残されていますがのk(参11)、打越氏(内越氏)が「丸に一文字三ツ星紋」を使用し始めた時期は仁賀保氏の祖・小笠原(大井)友挙が出羽国由利郡へ下向してくる前からであることや、大江(後に小笠原に改称)義久の孫・義満と由利刑部少輔が「一門」であるという記録があることから(由利氏は摂津源氏多田氏流と称していますが、摂津源氏多田氏流・多田仁綱は大江広元の義父で出羽国置賜郡寒河江荘の地頭代)(御尋に付乍恐奉申上口上覚/参11)(注39)(参116)、大江氏との間で姻戚関係を結んだことにより由利氏の家紋になっていた「丸に一文字三ツ星紋」(参116)を由利氏から譲与され、それを打越氏(内越氏)が替紋として使用し始めたのではないかと推測されます(参90)(注38)。因みに、1467年(応仁元年)、小笠原(大井)重泰と共に出羽国由利郡へ下向した小笠原(大井)友挙の後裔・仁賀保兵庫頭の弟、仁賀保挙実は出羽国由利郡芹田村を支配していた長井(大江)氏流・芹田(大江)氏(参6)の家督代襲相続しており、また、仁賀保氏の通字である「挙」は芹田(大江)氏の通字でもありますので、上記と同様に小笠原(大井)友挙が仁賀保荘(芹田村を含む)を支配するにあたり芹田(大江)氏と姻戚関係を結んだ可能性が考えられ、これにより「丸に箱一文字三ツ星紋」を使用することになったのではないかと推測されます(参99、100)。

 

③替紋(菱紋):分家Ⅴ

 津軽藩御家騒動(舟橋騒動)は、江戸幕府津軽藩大目付・打越(半四郎主殿)光春など重臣に責任をとらせる形で幕引きが図られますが(一般に御家騒動は減封や改易等になる例が多いですが、江戸幕府津軽藩蝦夷警備の賦役を担っていたことから重臣の処分のみという軽い仕置きで幕引きしたと言われています)(注39、40)、1688年(元禄元年)、これに伴って浪人していたその甥で打越光忠の二男・打越光長は、第5代将軍徳川綱吉側用人になった柳沢吉保に拝謁し、同じ源(新羅三郎)義光の血を引く甲斐源氏の系流であるという理由(柳沢氏は武田氏旧臣)から上総国佐貫藩柳沢氏に召し抱えられます(参27)。その後、1690年(元禄3年)、柳沢吉保は、2万石を加増されると三男・打越光登を召し抱え、更に、1692年(元禄5年)、3万石を加増されると長男・打越光永及び四男・打越光棟を召し抱えます(注41)。なお、打越氏(分家Ⅴ)は、本紋として「三階菱紋」を柳沢氏へ届け出ており(参101)、これとは別に「剣花菱紋」及び「一文字三ツ星紋」を替紋として使用しています(参27)。

 

④その他(譲与紋):分家Ⅳ 

 1631年(寛永8年)、出羽国由利郡の打越佐吉が第2代津軽藩主・津軽信枚に召し抱えられます(参69)(注38)。その後、1634年(寛永11年)、打越光久が頓死して嗣子がなく御家断絶しますが、打越光隆の長女・打越センが初代津軽藩主・津軽(右京太夫)為信の養女となっていたことから(その後、打越センは津軽藩家老・津軽伊豆の妻となり、その娘は津軽藩家老・津軽美作の妻となります。)、その縁故を頼って、三男・打越(金右衛門)光清、四男・打越(半四郎主殿)光春及び五男・打越(伝七郎)光豊が第2代津軽藩主・津軽越中守)信枚へ仕官します(分家Ⅳ)。これにより津軽家の親戚であるという理由から津軽家の家紋「卍紋」の使用を許されており(「兄左近死後、後式願出づるも相立たず、打越譜代の捨て難き者を相連れ津軽越中守に奉仕。津軽と親戚となりし故、当時津軽の紋を用ひ候」(打越氏御先祖様代代覚書控/参10))、打越(伝七郎)光豊が実際に使用していた旗標にも「卍紋」が使用されています(「卍 うてゑち伝七」)(参27)。その後、津軽藩御家騒動船橋騒動)の責任をとらされて打越光豊の子・光忠出羽国由利郡へ戻って浪人しますが、第3代津軽藩主・津軽信義の叔父・津軽十郎左衛門の取り計らいにより陸奥国津軽郡小湊郷に屋敷を与えられます(③へ続く)(打越氏御先祖様代代覚書控/参10)(注39、40)。

 なお、寛政重修諸家譜では、家名を「打越」(うていち)、家紋を「三階菱紋」、「丸に箱一文字三ツ星紋」及び「左藤巴紋」と記載していますが、「丸に箱一文字三ツ星紋」は「丸に一文字三ツ星紋」の替紋、「左藤巴紋」は打越光輪が朝比奈泰輝の次男を娘の婿養子に迎えていることから朝比奈氏(武田氏旧臣で、武田氏滅亡後に徳川氏の家臣)からの譲与紋ではないかと思われます(参6、102)。

 

(注35)民謡「長柄節」に残る家紋の云われ

 福井県勝山市に伝わる民謡「長柄節」は、越前国勝山藩主・小笠原氏が将軍から領地加増のお墨付きを与えられましたが、これを老中に言上しなかった無欲さを評価されて2万3千石の勝山藩が参勤交代等で10万石の格式ある長柄の槍を使用することを許されたという故事を民衆が讃えたものですが、この歌詞の中で「三階菱の王子紋」と家紋の云われが歌い込まれています。

1)長柄は空につかえます ひくい御門の 槍のさや

  トウロやトウロ オシカケトウロ ササヨイヨイヨイ ヨイヤーサー

2)鶴が御門に巣をかけた 年の暮れには五万石

  トウロやトウロ オシカケトウロ ササヨイヨイヨイ ヨイヤーサー

3)二万三千石 勝山藩は 三階菱の王子紋

  トウロやトウロ オシカケトウロ ササヨイヨイヨイ ヨイヤーサー

 

(注36)打越氏(内越氏)と菊水紋

 打越左近は「金沢少尉正家」(当初、楠木正家が出羽国平鹿郡横手郷の金沢柵(城)に入っていたことによる楠木正家の通称で、楠木正成楠木正行も「少尉」という武官職を拝命しています。)の末裔と公称しており(参75、76、岩倉館/参113)、出羽国由利郡とその周辺にはそのことを裏付ける家系図、寺社や古伝等の痕跡が数多く残され、打越氏の一部が楠木氏に復姓して「菊水紋」を使用しています。また、打越氏(内越氏)の菩提寺である恵林寺や高健寺の寺紋は現在も菊水紋ですし、同じく打越氏(内越氏)の菩提寺である龍源寺の寺紋も菊水紋でしたが(参11)、その後、生駒氏が出羽国由利郡矢島村に国替えとなり龍源寺が生駒氏の菩提寺になると、その寺紋が生駒車紋に変更されています。

 

(注37)打越氏(内越氏)の替紋「一文字三ツ星紋」の由来

 「萬世家譜」「干城録」「寛政重修諸家譜(巻二百五)」「譜牒餘録(後編巻十九)」(参6)には、打越氏(内越氏)が略奪紋(合戦によって敵の旗指物を奪って自らの家紋とするもので、龍造寺氏が大友氏の軍勢を破った際に大友氏から奪った杏葉の幕紋を使用した例などがあります)として「一文字三ツ星紋」を使用し始めたと記載しています。これによると、打越氏(内越氏)は慶長出羽合戦(北の関ケ原の戦い)で上杉氏が支配する庄内地方に侵攻して上杉氏の北方の要衝である東禅寺城や菅野城を落城させていますが、その際に打越治右衛門が上杉氏に従軍していた大江氏流・越後北条氏鎌倉時代源頼朝から相模国愛甲郡毛利荘(神奈川県厚木市下古沢659)を知行地として与えられた大江季光は毛利を名乗るようになりますが(安芸毛利氏の祖)、その庶流が「北条」を名乗ったことが越後北条氏の始まりと言われています。上杉氏の家督相続争いである御舘の乱で上杉景虎北条氏康の子)に味方して敗れた後に、武田勝頼の仲介によって越後北条氏の一部が上杉景勝に臣従します。)から「一文字三ツ星紋」の旗指物を奪う武功を挙げたことを吉祥に思い、打越氏(内越氏)の家紋(本紋)である「三階菱紋」「松皮菱紋」とは別に替紋して「一文字三ツ星紋」を使用するようになったと言われています。しかし、実際には、打越伊賀守が江戸道房(道勝)に仕官した1465年頃までには「丸に一文字三ツ星紋」を使用し始めており(参16、65)、上記の由来は慶長出羽合戦の軍功によって徳川将軍家に召し抱えられた打越氏(内越氏)(本家Ⅰ)がその武勇を喧伝するために創作した武勇伝である可能性が高いと推測されます。また、「蕗原拾葉 高遠進徳本」(参9)には、1584年(天正12年)に最上義光寒河江(大江)高基を滅ぼした際に最上方であった打越氏及び仁賀保氏が戦勝を記念して使用し始めた略奪紋であると記載されています。しかし、同じく一文字三ツ星紋を使用していた矢島氏が参陣していないことから、この説明では整合性がつかず、最上氏が寒河江(大江)氏を攻略するにあたって寒河江(大江)氏の出羽国由利郡への影響力を削ぐために大江氏から譲与紋を下賜されていた矢島氏と仁賀保氏及び打越氏との分断を図り、仁賀保氏及び打越氏は最上氏への忠節を示すために大江氏からの譲与紋ではなく略奪紋であるという別の由来を創作したものではないかとも推測されます。この点、出羽国置賜郡寒河江荘の地頭代として多田氏が派遣されていますが、由利氏は摂津源氏多田氏流を祖としていること、大江(後に小笠原に改称)義久の孫・義満と由利刑部少輔が「一門」であるという記録があること(参116)及び由利氏は楠木氏(打越氏(内越氏))と姻戚関係を結ぶ前から一文字三ツ星紋を使用していた可能性があること(由利楠家紀伝/参11)などから、由利氏は多田氏(摂津源氏)との間で姻戚関係を結び、寒河江(大江)氏の家紋である一文字三ツ星紋を譲与された可能性があり、そのため、由利氏には大中巨氏を祖とする家系図摂津源氏多田氏を祖とする家系図の2種類が存在することになったのではないかと推測されます(注38)。その後、由利氏と楠木氏(打越氏(内越氏))との間で姻戚関係が結ばれ、由利氏から楠木氏(打越氏(内越氏))へ一文字三ツ星紋が譲与されたのではないかと考えられます(滝沢館/参113)。

 

(注38)出羽国の大江氏と由利氏、楠木氏及び北畠氏との関係

 1189年(文治5年)、大江広元奥州合戦の論功行賞で東山道出羽国の入り口にあたる出羽国置賜郡長井荘及び寒河江荘の地頭職を下賜され、1190年(文治6年)、摂津源氏多田氏流・多田仁網(大江広元は多田仁綱の娘を娶っており、多田仁綱は大江広元の義父)を寒河江荘の地頭代として派遣します(注37)。1192年(建久3年)、大江広元は、嫡男・大江親広に寒河江荘の地頭職(寒河江氏の祖)、二男・大江時広に長井荘の地頭職(長井氏の祖)を分割相続させます。因みに、大江広元は、鎌倉幕府の開府に伴って源頼朝から相模国愛甲郡毛利荘(神奈川県厚木市下古沢659)を下賜され、その地頭職を四男・大江季経(楠木正成に兵法を教えた大江時親の祖父で毛利氏の祖)に相続させます。1221年(承久3年)、嫡男・寒河江(大江)親広は、承久の乱後鳥羽上皇に味方して敗れ、出羽国置賜郡寒河江荘の地頭代で祖父の多田仁網に匿われますが、これにより鎌倉幕府に味方した長井(大江)時広が大江氏の惣領家を承継します。なお、当時、未だ大江広元が健在だったので、寒河江(大江)親広の子・広時及びその孫・政広は鎌倉幕府に許されて要職に就いています。1247年(宝治元年)、宝治合戦(執権北条氏と御家人三浦氏が対立した鎌倉幕府の内乱)で、長井(大江)時広の長男・泰秀は鎌倉幕府(北条氏)に、毛利(大江)季光は三浦氏(妻の実家)にそれぞれ分かれて戦い執権北条氏が勝利しますが、長井(大江)泰秀は毛利(大江)季光の四男・経光の赦免を鎌倉幕府に願い出たことにより、毛利(大江)経光は安芸国吉田荘及び越後国佐橋荘の地頭職に任じられます。それを毛利(大江)経光の四男・時親が相続し、そのうち安芸国吉田荘を曾孫・毛利(大江)元春へ譲渡して、その末裔に毛利元就が誕生します。その後、毛利(大江)時親は、河内国加賀田郷の地頭職を務めることになりますが、多聞丸(楠木正成の幼名)は観心寺で僧・龍覚に学問を教わる傍ら約8キロ離れた河内国加賀田郷にある毛利(大江)時親の邸宅まで通って闘戦経や孫子等の兵法を学んだと言われています。因みに、大江氏は、代々学者の家柄で、源(八幡太郎)義家は、大江匡房に兵法を学んだと言われています。このように楠木氏及び大江氏(寒河江氏、毛利氏)は共に南北朝の動乱では南朝勢力(但し、毛利(大江)元春は御家存続のために北朝勢力)、石山本願寺合戦では本願寺勢力に味方して戦っており、打越氏(内越氏)の祖である楠木氏と大江氏はもともと深い縁で結ばれています。1285年(弘安8年)、霜月騒動安達泰盛に味方して敗れたた寒河江(大江)親広の曾孫・元顕(寒河江(大江)政広と毛利(大江)経光の娘の間の子)は、鎌倉幕府の圧力を避けるために出羽国置賜郡寒河江荘へと遁れています。その後、大江(寒河江)元顕の子・元政は、鎮守府将軍北畠顕家に従って南朝勢力として活躍します。なお、北畠親房の嫡男・北畠顕家及び次男・北畠顕信は奥州へ下向し、三男・北畠顕能伊勢国司を承継しますが、北畠顕家の死後に鎮守府将軍に就任した北畠顕信は1347年(正平2年)に霊山城が落城すると出羽国へ遁れ、また、1351年(正平8年)に一度は奪還した多賀城等が再び落城すると出羽国由利郡へ潜伏して再起を図ります。この間、鳥海山大物忌神社に南朝復興と出羽国静謐を祈願する寄進状を奉納し、北朝勢力・小早川定平(後に毛利元就の三男・隆景が小早川家の婿養子に入って家督を承継し、毛利両川と言われた家)に与えられていた出羽国由利郡乙友村を寄進します。なお、1358年(正平13年)、北畠顕信は、その子・北畠守親に後事を託して天野行宮がある河内国金剛寺に向かった(参104)とも、陸奥国津軽郡浪岡へ落ち延びたとも言われていますが、その消息は定かではありません。因みに、寒河江(大江)親広は、一時、北畠氏の祖・源通親の猶子となり源親広を名乗っていますので、北畠氏と寒河江(大江)氏は祖先の代から奇しき因縁で結ばれています。1368年(応安元年)、漆川の戦いで、寒河江(大江)元顕の孫・茂信が北朝勢力に大敗して滅亡すると(このとき、その弟・寒河江(大江)時氏が北朝勢力に降り、寒河江(大江)氏の家督を継いで御家の存続を図っています。)、出羽国置賜郡寒河江荘に隣接する天童城に籠城して籠もり北朝勢力に抵抗を続けていた北畠顕家の弟又は子孫・北畠天童丸は劣勢となり、1373年前後(文中年間)、天童城を捨て南朝勢力・根城南部氏を頼って陸奥国津軽郡浪岡郷へ落ち延びます。その後、浪岡北畠氏は安東(秋田)実季の娘を娶って勢力基盤を固めますが、やがて大浦(津軽)氏に滅ぼされ、その子孫は秋田(安東)氏、南部氏及び津軽氏に仕えます。なお、南北朝の動乱では、寒河江(大江)氏が南朝勢力、長井(大江)氏が北朝勢力に分かれて戦いましたが、1385年(元中2年)、旧北朝勢力・長井(大江)氏は旧南朝勢力・伊達氏に攻め滅ぼされます。時代は下って、1584年(天正12年)、伊達氏と姻戚関係を結んだ旧北朝勢力・最上氏に旧南朝勢力・寒河江(大江)氏が攻め滅ぼされます。この点、最上氏が寒河江(大江)氏への攻撃を開始した時期と仁賀保氏が矢島氏(注4-2)への攻撃を開始した時期が一致していますので、最上氏は寒河江(大江)氏の出羽国由利郡への影響力を削ぐために矢島氏と仁賀保氏及び打越氏の分断を図り、仁賀保氏及び打越氏と気脈を通じて寒河江(大江)氏及び矢島氏の攻略に乗り出した可能性も考えられます。


出羽国由利郡地頭職由利維平について-源頼朝政権と出羽国-」(野口実)より抜粋

 

(注39)津軽藩で勃発した御家騒動船橋騒動)

 1634年(寛永11年)、第3代将軍・徳川家光は将軍代替りの挨拶のために約30万の軍勢を率いて上洛しますが(打越光種は徳川家光の近侍として上洛)(寛政重修諸家譜(巻第二百五)/参6)、この上洛軍に供奉していた第3代津軽藩主・津軽信義(津軽信義の御側衆として打越半四郎及び打越嘉平次が御供)(参108、109)が京から江戸屋敷へ戻ると津軽藩御家騒動船橋騒動)が勃発します。1631年(寛永8年)、津軽信義は若年で津軽藩主になりますが、それを奇貨として権勢を私物化する近従と、これを快く思わない譜代の家臣との間で対立が深刻化し、津軽美作・津軽伊豆など津軽藩重臣を含む譜代の家臣は、津軽藩の家老・舟橋半左衛門及び乾四郎兵衛の不行状を江戸幕府に訴え、これに津軽藩士の岩橋氏、三村氏、打越氏(孫九郎、半四郎)、坂本氏、増川氏、七戸氏、郡氏、湊氏、秋田氏らが同調します。1636年(寛永13年)、幕府評定所の裁定が下り、喧嘩両成敗により津軽藩の家老・舟橋半左衛門及び乾四郎兵衛は松山藩松平家へお預け、また、津軽藩重臣津軽美作及び津軽伊豆は長府藩毛利家へお預けとなり、津軽藩の要職にあった沼田八郎左衛門と打越(半四郎主殿)光春、打越甚七は津軽藩追放になって御家騒動船橋騒動)は収束します(参108、110)。なお、その後、打越(半四郎主殿)光春の消息は不明となっていますが、津軽美作及び津軽伊豆派であった津軽藩士の多くは江戸及び国元で暇をとっています。

  

(注40)津軽家へ仕官した打越氏

 打越光豊の兄・打越(半四郎主殿)光春は、第3代津軽藩主・津軽信義により津軽藩大目付に登用され(参70)、また、打越(半四郎主殿)光春は400石、打越孫九郎が700石及び打越城左衛門が400石という高禄を下賜される(信牧公御代元和年中御家臣姓名大概/参105)など、船橋騒動が発生するまでは津軽家の親戚として破格の待遇を受けていたことが分かります。なお、船橋騒動の後、打越氏(分家Ⅳ)の一部は将軍徳川綱吉側用人柳沢吉保へ仕官替えしますが、その他は津軽藩へ仕官を続けており、1669年(寛文9年)10月18日に開催された第4代津軽藩主・津軽信政の御前試合に新当流の達人・高田儀兵衛と共に打越源五郎が出場する栄誉を与えられます(弘前藩庁日記/参106)。また、石高不明として打越市十郎(弘前藩庁日記/参106)や御留守居番として打越清之丞(信政公御代元禄八乙亥年十一月廿一日改候弘前御家中分限帳覚/参105)の名前等も記録されています。

 

(注41)柳沢氏へ仕官した打越氏

 大和郡山藩の分限帳、家督分限帳及び定紋覚(参107)の記録を見ると、打越氏(分家Ⅴ)は大和郡山藩で要職を歴任しており、以下の上段全図の郡山城之城下町絵図(郡山城及城下町/奈良県立図書情報館まほろばデジタルライブラリー)には、打越織次郎(植槻町/以下の下段左図)及び打越丈蔵(小川町/以下の下段右図)の拝領屋敷が記録されています。1874年(明治7年)、打越織次郎(植槻町)及び打越初(打越丈蔵の子)から家禄返還と引き換えに資本金下賜願が出されていますので、幕末まで大和郡山藩へ仕えていたことが分かります。なお、家督分限帳(参107)に打越熊之助、打越広助の名前がありますが、いずれの係流に属するのかは不明です。

f:id:bravi:20180623002609j:plain
f:id:bravi:20180623005918j:plain f:id:bravi:20210520162752j:plain

 

トップに戻る

第1部第3巻 打越(内越)氏の家紋(第3段)

第3段 主要な家紋の由緒(雑賀衆

①本紋(橘紋):本家Ⅱ

 打越氏(内越氏)の源流の1つである物部氏族熊野国造系和田氏は橘氏と姻戚関係を重ね、「橘紋」を本紋としますが、紀州藩士・打越安左衛門(本家Ⅱ)が紀州藩へ提出した家系図にも、雑賀衆・打越藤左衛門を祖とし、「丸に橘紋」を本紋としています(注42)。

 なお、紀州藩士・打越円蔵(本家Ⅱ)の次男及び孫(諱不明)が出家して千光寺(和歌山県田辺市上秋津4514)の住職を勤めますが、その寺紋は「丸に左違い鷹羽紋」です(参47)。また、千光寺には「丸に橘紋」の愛洲家の墓もあります(以下の第4段を参照)(注42)。

 

(注42)鹿児島に分布する打越氏

 鹿児島県に分布する打越氏(内越氏)のうち、鹿児島県日置市及び姶良市に分布している打越氏は、薩摩藩島津氏の重臣・禰寝(根占)氏(後に小松氏と名字を改め、薩摩藩家老・小松帯刀を輩出)に仕官していた打越氏(分家Ⅻ)の末裔が「丸に橘紋」を使用しています。なお、薩摩藩島津氏の重臣・禰寝(根占)氏は太閤検地で鹿児島県南大隅町から鹿児島県日置市薩摩国吉利郷)へ領地替えになっていますが、禰寝(根占)氏の旧領があった富田城(鹿児島県肝属郡南大隅町)の近隣にも打越氏が分布しています。また、薩摩商い(注17、27)の拠点となった山川港(1343年(興国3年)、征西大将軍懐良親王熊野水軍を率いて山川港へ上陸)のある鹿児島県指宿市に分布する打越氏は「丸に左違い鷹羽紋」を使用しており、この地域には根来氏の末裔も分布していること(例えば、薩摩藩島津氏の分家・伊集院忠眞の客将で根来寺の僧・白石永仙)などから、雑賀衆・打越氏(本家Ⅱ)の庶流が最新式の鉄砲を調達するために薩摩商いで薩摩国大隅国へ入部して土着した可能性が考えられます。

 

②替紋(譲与紋):分家Ⅹ、分家

 雑賀衆は、紀伊国五荘郷(雑賀荘、社家郷、中郷、南郷、十ケ郷)を支配していた地侍で構成される集団(伊賀国加賀国と同様に主家を持たずに共和自治を行う惣国的な集団)で、相互に婚姻関係を結んで組織的な結束を図っています。

 雑賀衆・打越氏は、雑賀氏(鈴木氏)と婚姻関係を結び、雑賀氏の家紋(譲与紋)である「丸に中陰蔦紋」や「丸に三つ柏紋」等を使用しています(分家Ⅹ)。また、上述の千光寺には「丸に五本骨扇紋」の佐武氏の墓と共に「丸に五本骨扇紋」の打越氏の墓があり、さらに、和歌山県田辺市和歌山県和歌山市等には「丸に日の丸扇紋」や「丸に五本骨扇紋」の打越氏の墓が数多くあります。この点、古文書等が残されていないので詳しいことは分かりませんが、紀伊国で丸に日の丸扇紋や丸に五本骨扇紋を定紋として使用していたのは佐武氏のほか宇多源氏流の氏族や清原流の氏族などごく一部に限られていることを踏まえると(参91)、打越氏と佐武氏との間で姻戚関係が結ばれてその家紋を譲与された可能性が考えられます。なお、佐竹氏の第8代当主・佐竹貞義の庶子・佐竹師義が足利将軍家に仕えて京都佐竹氏が誕生しますが、その末裔である佐竹(伊賀守)義昌は1570年(元亀元年)に足利義昭から恩賞として「佐武」の名字を賜り「佐竹」から「佐武」へ改名します。豊臣秀吉紀州征伐後に佐武義昌及び嫡男・佐武(源太郎)義章は浅野氏(広島藩)へ仕官し、関ケ原の戦いの後に次男・佐武(源大夫)義和は紀州徳川家へ仕官します(参111)(注43)。

 また、打越氏発祥の地である紀伊国海部郡宇須村字打越にある浄土真宗「真光寺」は楠木正成の甥・和田賢秀が開基した寺ですが、河内和田氏の替紋である「丸に木瓜紋」の打越氏の墓があります(参25)。

 

(注43)広島県兵庫県(淡路島を含む)、徳島県等に分布する打越氏

 広島県には「丸に一文字三ツ星」「丸に橘紋」「丸に梅鉢紋」を使用する打越氏(内越氏)の分布が確認できます(参91)。この点、丸に橘紋は和歌山県に分布している雑賀衆・打越氏の末裔の家紋と共通しています。また、兵庫県(淡路島を含む。)に分布している打越氏(丸に梅鉢紋)が氏子になっている賀茂神社兵庫県淡路市生穂)は熊野本宮大社の御祭神の神使である八咫烏を神紋の1つとしていますが、第二次紀州征伐で豊臣秀吉に敗れた雑賀衆は船で淡路国、山陰地方や長曾我部氏等を頼って土佐国等へ遁れたと言われていることを踏まえると、雑賀衆・打越氏の末裔がこれらの地域に分布している可能性が考えられます。なお、1619年(元和5年)、浅野長政の子・浅野幸長紀伊国から安芸国広島藩)へ国替えとなり、その後、1645年(寛永21年)に浅野長政の孫・浅野長直が常陸国から播磨国赤穂藩)へ国替えになっており、それらの過程で紀伊国又は常陸国に分布する打越氏(内越氏)が浅野氏に仕官した可能性も考えられますが、広島藩士の記録である「藝藩輯要」等には打越氏(内越氏)の名前は見当たりません。因みに、1830年(文政13年)に日本全国の一宮巡りをしていた水戸藩士・打越平が安芸国で死亡したという記録が残されており(参112)、宿場町が整備された江戸時代には常陸国安芸国の間の往来も活発であったと思われます。また、打越氏(分家Ⅱ)の庶流・越藤氏(三階菱紋)は、現在、茨城県及び広島県のみに分布しています(注39)。
 

トップに戻る

第1部第3巻 打越(内越)氏の家紋(第4段)

第4段 主要な家紋の由緒(甲斐源氏武田氏流)

 

①本紋(割菱紋):本家Ⅲ

 紀州藩が編纂した「紀州各郡地士姓名」(参61)には、紀伊国牟婁郡和田村の地士として打越忠蔵の名前が記されていますが、打越忠蔵は清和源氏武田氏流・湯川直春の第四子で第二次紀州征伐の後に入道して打越氏を名乗ります(参53)。なお、湯川氏の本紋は「割菱紋」になります(本家Ⅲ)。紀伊国牟婁郡和田村は楠木氏と同族の河内和田氏の祖・物部氏族熊野国造系和田氏の領地であった場所で、打越忠蔵が開基した梵光寺には打越氏の墓と共に和田氏の墓もあります。

なお、1562年(永禄5年)、湯川直春は、教興寺の戦い雑賀衆及び根来衆と協力して三好長慶と戦いますが、湯川直春から雑賀衆及び根来衆の有力者に対して軍事同盟の起請文が提出されており、第二次紀州征伐でも湯川氏と雑賀衆及び根来衆の間は強力な軍事同盟関係にありました。
 

トップに戻る

第2部第1巻 打越(内越)氏の歴史(略年表)

第1段 総論

 打越氏(内越氏)は、マイナーな氏族なので古文書等が断片的にしか残されておらず、打越氏(内越氏)の歴史を大河ドラマのような一筆書きの物語にまとめることは困難です。また、無理に物語仕立てにまとめようとすれば大幅な推測を交えて作成しなければならなくなり、歴史事実と大きく乖離してしまう虞もあることから、打越氏(内越氏)の歴史を物語仕立てにまとめることは断念し、以下では断片的に残されている古文書等から確認できる打越氏(内越氏)の祖先の事績を時系列順に並べています。また、打越氏(内越氏)の年表を各系流別に分けて作成するのではなく、全ての系流を1つにまとて作成することで、ジグソーパズルの1つのピースだけではなく、いくつかの断片的に残るピースを繋ぎ合わせることが可能となり、各々のピースが持つ意味もよく見え、時代の全体像を把握し易くなるのではないかと考えます(注44)。現代に生きる打越氏(内越氏)の末裔が様々な人生の困難に直面したときに、約700年間に亘って営々と受け継がれてきた打越氏(内越氏)の歴史に思いを馳せることで精神的な支えとなるものが感じられるのではないかと思いますし、それが歴史を学び、家譜を語り継ぐ意義の1つではないかと思います。打越氏(内越氏)の各系流の大まかな相関関係(俯瞰図)は図表6(第1部第2巻第1段④)をご参照下さい。

 

(注44)年表を貫く時代の横櫛(日本の歴史を動かした力学)

f:id:bravi:20200728074607j:plain

明治維新までは、天皇上皇、皇族、公家及び武家が土地の支配権(主権)又はそのうちの土地の分配権(政権)を巡って争ってきた歴史。

②上記①の力学に加えて、外圧(蒙古襲来、黒船来航及び世界大戦)を契機として土地の支配権(主権)又はそのうちの土地の分配権(政権)が動揺。

天皇が蒙古襲来を契機として武家鎌倉幕府)から政権を取り戻すために承久の乱後鳥羽上皇)及び元弘の乱後醍醐天皇)を起こして失敗。時代は下って、天皇が黒船来航を契機として武家江戸幕府)から政権を取り戻すために明治維新明治天皇)を起こして成功(王政復古=政権返上)。

織田信長武家の最高官職である征夷大将軍に就任して幕府を開くことは天皇の臣下として土地の分配権(政権)を移行されるだけなので拒否し、自ら天皇に代わる国王になり土地の支配権(主権)を得ようとろうとしたが失敗。豊臣秀吉は農民出身で武家の最高官職である征夷大将軍に就任して幕府を開くことができないので、朝廷の権威を借りてその最高官職である太政大臣に就任して土地の分配権(政権)を掌握。(朝鮮出兵は、農民出身の豊臣秀吉が日本の国王になることを断念し、外国の国王になることを目指したものか。)

 

第2段 主要な事績(略年表)

暦年 祖先 場所 出来事(【略号】)
皇族vs公家の「土地の支配権」(主権)を巡る内乱
645年(皇極天皇4年)、中大兄皇子(後の天智天皇)と蘇我入鹿(公家)が争った「乙巳の変」勃発
大化の改新で公地公民制が導入、天皇が全国の土地と人民を支配(各地の土地と人民を管理するために国司を配置)
皇族vs皇族の「土地の支配権」(主権)を巡る内乱
672年(天智天皇元年)、皇太子・大友皇子と吉野・大海人皇子が争った「壬申の乱」の勃発
天皇vs地方豪族の「土地の支配権」(主権)を巡る内乱
794年(延暦13年)、桓武天皇坂上田村麻呂征夷大将軍(蝦伐する軍の指揮官)に任命して蝦夷征伐を開始

858年

(天安2年)

清和天皇 京都府 第56代天皇に即位
天皇vs公家&武家の「土地の支配権」を巡る内乱
935年(承平5年)「平将門の乱」の勃発
939年(天慶2年)「藤原純友の乱」の勃発

961年

(応和元年)

源経基 京都府

清和源氏の祖】

清和天皇の第六皇子・貞純親王の子で、平将門の乱藤原純友の乱を鎮撫して源姓を下賜されます。

1004年

(寛弘元年)

源満政 岐阜県羽島市

美濃源氏の祖】

源経基の次男で、武蔵守や陸奥守を就任します。

1047年(永承2年) 源頼信 兵庫県川西市

河内源氏の祖】

源経基の嫡男・源満仲の三男で、平忠常の乱を鎮撫して河内守に就任します。

天皇vs地方豪族の「土地の支配権」(主権)を巡る内乱
1051年(永承6年)「前九年の役」の勃発
1083年(永保3年)「後三年の役」の勃発
1087年(寛治元年) 源義光 兵庫県川西市

常陸源氏(佐竹氏)の祖】

甲斐源氏(武田氏)の祖】

源頼信の子・頼義の三男(新羅三郎)で、後三年の役で苦戦する兄・源義家を支援するために陸奥国へ下向し、その功績で常陸介に就任します。これに伴って長男・義業を常陸国久慈郡佐竹郷(茨城県常陸太田市)、三男・義清を常陸国那珂郡武田郷(茨城県ひたちなか市)へ派遣します。

1126年(大治元年) 源重長 岐阜県岐阜市

【木田氏の祖】

(源(陸奥守)満政-源(遠江守)忠重-源(駿河守)定宗-源(左衛門尉)重定までの年表は割愛します)。源(左衛門尉)重定の次男。美濃国方県郡木田村、開田村、打越村及び彦坂村の地頭職に就任します。

1127年(天承元年) 源義清 茨城県ひたちなか市山梨県巨摩郡(配流)

甲斐源氏(武田氏、小笠原氏、南部氏、於曾氏)の祖】

源義光の三男で、常陸国那珂郡武田郷を支配し、武田(武田冠者)を名乗ります。その後、領地争いが原因で勅勘を蒙り甲斐国巨摩郡へ配流され、甲斐国巨摩郡平塩岡に館を構えます(その近隣の山梨県西八代郡市川三郷町市川大門は歌舞伎の名跡市川団十郎発祥の地です)。
 歌舞伎「江戸の夕映え」(大佛次郎作)には旗本・打越郁之助が登場し、これまで初代市村鶴蔵三代目市川右之助初代澤村大蔵六代目中村山左衛門などに演じられています。
法皇天皇vs上皇天皇の「土地の支配権」(主権)を巡る内乱
1156年(保元元年)、後白河天皇崇徳上皇が争った「保元の乱」勃発
1159年(平治元年)、後白河法皇の近臣と二条天皇の近臣が争った「平治の乱」勃発
後白河天皇武家(源氏、平氏)を味方につけて「保元の乱」に勝利し、武家(源氏、平氏)が台頭
後白河法皇の近臣・平氏が「平治の乱」に勝利し、二条天皇の近臣・藤原氏及び源氏は没落して平氏のみが台頭
1168年(仁安3年) 木田(判官代)重固(美濃源氏 岐阜県岐阜市

近衛院判官代に就任します。

1178年(治承2年) 木田(判官代)重國(美濃源氏 岐阜県岐阜市

高松院判官代に就任します。

天皇武家へ「土地の支配権」のうち「土地の分配権」(政権)が移行

1180年(治承4年)、後白河法皇の皇子・以仁王及び源氏と平氏が争った「治承・寿永の乱」勃発(源平合戦

1185年(文治元年)、天皇から源頼朝に全国の土地と人民を管理するために守護・地頭を任命する権限を与える文治の勅許

武家の武力を背景としなければ政権を維持できなくなった天皇武家に政権を移行し、国司天皇)と守護・地頭(武家)による二重統治

1189年(文治5年)、奥州藤原氏と源氏が争った「奥州合戦」勃発

1192年(建久3年)、源頼朝征夷大将軍に任命されて鎌倉幕府を樹立
平清盛天皇の権威に立脚した傀儡政権を指向したのに対し、源頼朝は武力を背景に天皇から独立した政権を指向しており、本格的な武家政権源頼朝から開始。
1185年(文治元年) 加賀美遠光 山梨県南アルプス市

甲斐源氏(小笠原氏、南部氏、於曾氏)の祖】

小笠原流煎茶道の祖

源頼朝から信濃守を拝命。源義清の四男で、甲斐国巨摩郡加賀美郷を支配し、加賀美氏を名乗ります。

1195年(建久6年) 小笠原長清 山梨県南アルプス市

【小笠原氏の祖】

小笠原流弓馬術礼法の祖

【打越氏(内越氏)の祖】

加賀美遠光の二男で、甲斐国巨摩郡小笠原郷を支配し、小笠原氏を名乗ります。
?年 於曾光俊 山梨県塩山市

【於曾氏の祖】

【打越氏(内越氏)の祖】

加賀美遠光の五男で、甲斐国山梨郡於曾郷を支配し、於曾氏を名乗ります。
1219年(承久元年) 小笠原(大井)朝光 長野県佐久市

【大井氏の祖】

【打越氏(内越氏)の祖】

小笠原長清の七男で、小笠原朝光が承久の乱の戦功により信濃国佐久郡大井郷を下賜され、大井氏を名乗ります。吾妻鑑によれば、1213年(建暦年)、小笠原長清の妹・大弐局は自分が養育係を務めた源実朝から和田合戦で没収した出羽国由利郡の所領を恩賞として与えられますが、大弐局には子がおらず、甥・大井朝光を養子に迎えて出羽国由利郡の所領を相続させます。1331年(元弘元年)頃までには、大井朝光の後裔が出羽国由利郡へ下向し、その後、楠木氏と姻戚関係を結んで打越氏(内越氏)を名乗ります。

天皇vs武家の「土地の分配権」(政権)を巡る争い
1221年(承久2年)、後鳥羽上皇による「承久の乱」勃発(後鳥羽上皇隠岐へ配流)/span>
日本(武家)vs外国の「日本の土地の支配権」(主権)を巡る争い
1274年(文永11年)「文永の役」の勃発
1281年(弘安4年)「弘安の役」の勃発
※文永・弘安の役で幕府から武家への恩賞がなく、武家による幕府への不満が元弘の乱(討幕)へと発展
天皇武家へ「土地の分配権」(政権)が移行
1331年(元弘元年)後醍醐天皇による「元弘の乱」の勃発
元弘の乱天皇から武家への恩賞が少なく、武家による天皇への不満が南北朝の動乱へと発展
1221年(承久3年) 木田(判官代)重知(美濃源氏

岐阜県岐阜市

後鳥羽院北面の武士。従弟・木田(判官代)重季、甥・木田重泰らと共に、承久の乱後鳥羽上皇に味方して討死します。
1270年(弘長・文永年間) 木田(左近大夫)頼氏(美濃源氏

岐阜県岐阜市

美濃源氏流打越氏の祖】
美濃源氏八島氏流・木田重知は承久の乱後鳥羽上皇に味方して討死し、同じく美濃源氏八島氏流・彦田政氏を婿養子に迎えて家督を相続させますが、美濃国方県郡打越村、土井村、石谷村に減封され、その地頭職に就任します。更に、その孫・木田頼氏が美濃国方県郡打越村に減封され、その地頭職に就任して打越氏を名乗ります(注2-2)。 ※このWEBでは、美濃源氏流打越氏を対象としていませんので、これ以後の美濃源氏流打越氏の家系図は巻末家系図:図表12に譲り、年表は割愛します。
1336年(建武2年) 於曾(左衛門尉)貞光

山梨県塩山市

京都府

【本家Ⅰ】
(於曾光俊-於曾(兵衛尉)光清-於曾(左衛門尉)光忠-於曾(刑部少輔)長忠ー於曾(治部少輔)長宗までの年表は割愛します)。於曾光俊の後裔・於曾長宗の子。1336年1月、鎮守府将軍北畠顕家は上洛し、後醍醐天皇に謀反して京都を包囲していた足利軍を一掃しますが、1336年5月、西国で勢力を盛り返して再上洛した足利軍は湊川の戦いで新田氏及び楠木氏を破り、京を制圧します。この際、内野の合戦で名和長年らと共に於曾(左衛門尉)貞光が討死します。
天皇武家へ「土地の分配権」(政権)が移行
1336年(延元元年)後醍醐天皇南朝)と足利尊氏光明天皇北朝))が争った「南北朝の動乱」の勃発
1336年(延元元年)足利尊氏が征夷代将軍に任命されて室町幕府を樹立
※1回目の外圧(蒙古襲来)では天皇への政権移行は頓挫、2回目の外圧(黒船襲来)で天皇への政権移行が成就
1336年(延元元年) 楠木正家

大阪府南河内郡茨城県那珂市秋田県由利本荘市

【分家Ⅰ】

1335年(建武2年)、楠木正成は、後醍醐天皇から下賜された常陸国久慈郡(後に那珂郡)の地頭職の代官として弟又は従弟の楠木正家を派遣します。楠木正家は、鎮守府将軍北畠顕家後醍醐天皇に謀反した足利尊氏北朝勢力)を討伐するために奥州勢を従えて上洛している間、東国を守備するために瓜連城(茨城県那珂市)を築城して北朝勢力・佐竹氏を撃退します。しかし、1336年(延元元年)12月、足利尊氏北朝勢力を支援するために常陸国へ大軍を派遣すると瓜連城は落城し、楠木正家は鎮守府将軍北畠顕家を頼り奥州へ落ち延びます。その後、後三年の役源義家及び源義光が攻めた金沢柵を守備し(その痕跡が横手市金沢本町字菊水という字名に残されています。)、やがて打越城(白坂館出羽国仙北郡打越郷(現、大沢郷寺))(参10、11)へ移動して南朝勢力の支援に尽力します。1337年(延元2年)8月、楠木正家は、鎮守府将軍北畠顕家の再上洛に加わりますが(参21、66、75、84、113)、石津の戦いで敗北し(参253)、その後、1348年(正平3年)、楠木正家は、楠木正行らと共に四條畷の戦いで自害又は討死します。なお、楠木正家の子・楠木正安は出羽国由利郡に残って小笠原(大井)氏と姻戚関係を結んで打越氏(内越氏)を名乗り、その孫・楠木(内越)正宣は在地勢力の由利氏と姻戚関係を結んで勢力基盤を固めます(参6、11、115)。

【異説】

1391年(元中8年)、楠木正儀の孫・楠木正家は成良親王を奉じて出羽国へ下向し、打越城(白坂館/秋田県大仙市打越郷(現、大沢郷寺))(参10、11)へ入って奥州地方の南朝勢力を支援しますが、1392年(元中9年)、南北朝合一の勅使が訪れ、楠木正家は出羽国由利郡及び河辺郡の二郡を下賜されたので内越城(平岡館)(秋田県由利本荘市内越)へ移り、その鎮撫平定に尽力します。

☞ 成良親王は「太平記」に兄・恒良親王と共に花山院第に幽閉されて毒殺されたとあり、また、「師守記」には1344年死亡という記録がありますので、上記の異説はこれらの古文書等の記録と相違します。また、南北朝合一により楠木正家が由利郡(約7.7万石)及び河辺郡(約2.7万石)を下賜されたとすると2郡で合計約10万石という広大な領地(伊賀国に相当)を与えられたことになりますが、そのような公式の記録は残されておらず(豊臣秀吉から奥州仕置で打越氏に下賜された領地は1250石であり大きな乖離があります。)、後世の創作話である可能性が高いと思われます。この点、楠木正家の後裔が出羽国由利郡における土地支配の正当性を主張するための方便として語られたものが、そのまま記録として残されたのではないかと推測します。

1337年(延元2年) 於曾(伊予守)時高 長野県佐久市京都府

【本家Ⅰ】

第10代・於曾貞光又は第11代・於曾(右馬助)光時の子。於曾貞光及びその次男又は孫の於曾時高は南朝勢力として後醍醐天皇に従いますが、於曾光時が於曾貞光から家督を相続して僅か3年後に於曾時高へ家督が承継され、1337年3月、越前国金ヶ崎城で足利軍に抵抗を続けていた後醍醐天皇の皇子・尊良親王及び新田義顕らと共に於曾時高が討死します(打越氏御先祖様代代覚書控/参10)。

1394年(応永元年) 於曾(左衛門尉)光栄 長野県佐久市秋田県由利本荘市

【本家Ⅰ】

(於曾(伊予守)時高-於曾(伊豆守)時晴-於曾時長までの年表は割愛します)。於曾(兵部丞)時長の子。1392年(元中9年)、南北朝合一がなり、1394年(応永元年)、足利義満から足利義持へ将軍職が譲られて室町幕府の政権基盤が固められると、於曾光栄は1391年(元中8年)から出羽国及び陸奥国を管轄していた鎌倉公方出羽国由利郡への下向を願い出て、その弟・於曾(又二郎)光広が出羽国由利郡へ下向します(打越氏御先祖様代代覚書控/参10)。時代は下り、豊臣秀吉から出羽国由利郡内越郷の本領安堵御朱印状が小笠原(大井)氏流・打越(宮内少輔)光重へ下賜されて惣領家と定まり、於曾氏が支配していた土地(≒於曾氏の家督)も統合、承継されて打越氏(内越氏)を名乗ります。

☞ 於曾光栄と於曾尚光の間には約100年のブランクがあり、打越氏御先祖様代代覚書控(参10)に約2世代抜けがある可能性がありますが、その弟・於曾(左衛門尉)光広が出羽国由利郡へ下向した年を応仁の乱が勃発した1467年(応仁元年)とする資料もあり、これによれば於曾光栄と於曾尚光との間に世代抜けはなくなりますので、年代の誤記の可能性も考えられます。因みに、1467年には仁賀保氏の祖である小笠原(大井)友挙や矢島氏の祖である小笠原(大井)重泰が出羽国由利郡へ下向し、由利十二頭による支配体制が確立します(参19)。

1465年頃 打越(伊賀守) 茨城県

【分家Ⅱ】

打越伊賀守は、常陸国那珂郡(かつて楠木正成が御醍醐天皇から地頭職を下賜され、その弟又は従弟・楠木正家を代官として派遣した常陸国久慈郡の隣地)へ移り、その地を支配していた江戸(但馬守)道勝(江戸道房が晩年に出家して江戸道勝と改名)(参116)から常陸国那珂郡三反田郷(ひたちなか市)に永楽200貫(豊臣秀吉による太閤検知よりも前の時代は貫高制で、その後に石高制に変更されますが、目安としては1貫≒10石なので200貫≒2000石)を与えられ、立(館)山城主茨城県ひたちなか市館山)となります。なお、その子・打越豊後守が家督を相続し、次男が大戸村の庄屋、三男が中根村の庄屋として帰農させます(参16、117)。

☞ 「村々旧家諸姓落着書上簿」(参16)には、打越氏(内越氏)(分家Ⅱ)の元祖として打越伊賀守の名前が記載されており、その家紋は打越氏(内越氏)(本家Ⅰ、分家Ⅰ)と同じく丸に一文字三ツ星紋を使用していることから、1465年頃までには打越伊賀守が出羽国由利郡から常陸国那珂郡へ移住し、江戸道勝(道房)へ仕官したものと思われます。なお、出羽国由利郡で打越氏(内越氏)を名乗り始めたのは打越(宮内少輔)光重の代からであるという記録もありますが(打越氏御先祖様代代覚書控/参10)、上記のとおり打越(宮内少輔)光重が生まれる前の時代に常陸江戸氏に仕官した打越伊賀守とその子孫が打越氏を名乗り、丸に一文字三ツ星紋を使用していた記録が残されていることから、打越(宮内少輔)光重よりも前の世代から打越氏(内越氏)を名乗っていたと考えられます。この点、打越氏御先祖様代代覚書控(参10)は、楠木氏又は小笠原(大井)氏の系流を起点として作成したものではなく於曾氏の系流を起点して作成されたもので、豊臣秀吉から打越(宮内少輔)光重に本領安堵御朱印状が下賜されたことを契機として於曾氏が支配していた土地(≒於曾氏の家督)が打越(宮内少輔)光重に統合、承継され、そのために於曾氏は打越(宮内少輔)光重の代から打越氏を名乗り始めたと記載されているのではないかと考えられます(第1部第1巻第2段第1節③を参照)。

☞ 熊野三山を結ぶ熊野川沿いに打越氏(本家Ⅱ、本家Ⅲ)の末裔が数多く分布していますが、そこに隣接する和歌山県新宮市熊野川町相須紀州武田氏流愛洲氏の発祥の地となった場所とも言われており、その庶流である相須氏は和歌山県以外に茨城県ひたちなか市(打越伊賀守が守備した立(館)山城の周辺)に集中的に分布しています。この点、愛洲(曾)六郎左衞門尉は南朝勢力として北畠親房に従っていたという記録がありますが、1338年(延元3年)、北畠親房南朝勢力の拡大を図るために東国へ下向した愛洲一族の末裔の可能性も考えられます。

1400年代後半 内越(宮内少輔)氏光 秋田県由利本荘市

【本家Ⅰ】

(小笠原(大井七郎)朝光-小笠原(大井又太郎)光長ー小笠原(大井彦太郎)時光-小笠原(大井孫太郎)光家-小笠原(大井弥二郎)光長-小笠原(大井又三郎)行光-小笠原(大井弥三郎)光俊-小笠原(大井又一郎)光治-小笠原(大井弥二郎)光忠-小笠原(大井八郎左衛門尉)光政までの年表は割愛します)。小笠原(大井八郎左衛門尉)光政(正光?)の子。内越(宮内少輔)氏光(本家Ⅰ)と同世代の楠木正清(分家Ⅰ)が小笠原氏から妻を迎えていますので(親川楠家系図/参11)、この頃、小笠原(大井)氏と楠木氏との間で姻戚関係が重ねられて小笠原(大井)氏も本格的に打越氏(内越氏)を名乗り始めたものと考えられます。

☞ 寛政重修諸家譜(巻二百五)(参6)には内越(宮内少輔)氏光が出羽国由利郡発祥の打越氏(内越氏)の祖であるかのような記載が行われていますが、内越(宮内少輔)氏光よりも前の世代から打越氏(内越氏)を名乗っていたと考えられます(親川楠家系図/参10、参16、65)。

1491年(延徳3年) 打越新兵衛 石川県かほく市

【分家Ⅸ?】

京都上賀茂神社の荘園・加賀国金津荘のうち与知村(現、石川県かほく市余地)の土地(童子丸名)を支配していた土豪・打越新兵衛の名前が金津荘村名別公事銭等納帳(延徳3年)に記されています。経済的又は人的関係を利用して金津荘以外の土地から入部し、金津荘の荘園経営には直接関与することなく、専ら軍事的な面で一向宗徒(本願寺)と関係を持っていたと考えられます(参74)(第1部第2巻第2段④を参照)。

☞ 打越氏(本家Ⅱ又はⅢ)の系流にしては年代が古いので、打越氏(本家Ⅰ又は分家Ⅰ)(注45)、或いは、美濃源氏流打越氏の系流である可能性が考えられます。

1493年(明応2年) 於曾(宮内少輔)尚光 秋田県由利本荘市京都府 【本家Ⅰ】
於曾光栄の子。足利義尚足利義政日野富子との間の子)の近臣として仕え(当時、勢力を持っていた鎌倉公方を牽制するために室町幕府将軍が直接に主従関係を持った関東や東北の武士のことを京都扶持衆と言います。)、その一字を賜り於曾光寛から於曾尚光に名前を改めます。足利義尚の死後は河内国守護職畠山義豊に仕えますが、1523年(大永3年)1493年(明応2年)、畠山氏の家督争いに端を発して足利義材及び畠山政長畠山義豊の征伐を企てた戦いで於曾尚光が討死します。この機に乗じて畠山義豊と気脈を通じていた細川政元及び日野富子足利義澄足利義尚の甥で、日野富子の姪が妻)を将軍に擁立するクーデター(明応の政変)を起こします。
1500年前後 打越(豊後守) 茨城県

【分家Ⅱ】

打越伊賀守の子。菊池内膳(南朝勢力として活躍した肥後国の菊池氏の庶流で、江戸但馬守から常陸国那珂郡三反田に700石を与えられて新平館を構えた常陸菊池氏)の姉妹と婚姻関係を結びます。水戸藩郡奉行代官(武茂組)打越瀬左衛門、打越宇衛門の祖先(参21、118)。因みに、肥後菊池氏後醍醐天皇の皇子に従って全国各地に分布しており、青森県八戸市に上陸した菊池氏は南朝勢力・根城南部氏を頼り、主に岩手県遠野市に分布します(陸奥菊池氏)。

1521年(永正18年)頃 於曾(伊豆守)光季 秋田県由利本荘市京都府

【本家Ⅰ】

於曾尚光の子。足利義晴足利義尚日野富子の姪との間の子)の近臣として仕え(当時、勢力を持っていた鎌倉公方を牽制するために室町幕府将軍が直接に主従関係を持った関東や東北の武士のことを京都扶持衆と言います。)、1539年(天文8年)に死去。

1560年頃(天正18年) 打越(宮内少輔)光重 秋田県由利本荘市

【本家Ⅰ】

(内越(宮内少輔)氏光-内越(孫四郎)光勝までの年表は割愛します)。内越(宮内少輔)氏光の孫。1580年(天正8)年の大宝寺(武藤)義氏から内越宮内少輔宛の感状や、1561年(天正19年)の最上(出羽守)義光の書状等が残されています(参217)。大宝寺(武藤)義氏は、上杉謙信の死後、織田信長の勢力を頼んで、大浦(津軽)氏や小野寺氏と同盟を結び出羽国由利郡へ勢力範囲を拡大しますが、織田信長の死後、最上氏、秋田(安東)氏及び由利十二頭により出羽国由利郡から退けられます。その後、由利十二頭は豊臣秀吉から最上義光傘下として小田原征伐へ参陣するように要請がありましたが、最上義光が父の葬儀のために遅参することになったので、北国軍(総大将:前田利家、副将:上杉景勝真田昌幸)の信濃衆(真田昌幸麾下)へ加わることになり、北条方の松井田城、鉢形城八王子城を落城させます。これにより豊臣秀吉は由利十二頭を由利五人衆(打越、仁賀保、赤尾津、滝沢、岩屋)へ再編成し直し、出羽国由利郡1250石の本領安堵の朱印状(天正18年(1590年)12月24日付打越宮内少輔宛)を打越(宮内少輔)光重に下賜します。1591年(天正19年)5月4日没。

豊臣秀吉本領安堵御朱印状】

f:id:bravi:20190520213044j:plain

f:id:bravi:20210521075801j:plain

☞ 打越氏御先祖様代代覚書控(参11)では於曾光氏のことを由緒知れずと記載していますが(参119)、豊臣秀吉による本領安堵御朱印状が小笠原(大井)氏流・打越(宮内少輔)光重に下賜されたことで於曾氏が支配していた土地(≒於曾氏の家督)が打越(宮内少輔)光重に統合、承継され、於曾光氏が家督を失った為ではないかと考えられます(注5)。

☞ 打越(宮内少輔)光重ほか由利衆は小笠原(大井)氏流ということもあり小田原征伐信濃衆(真田昌幸麾下)に編成されますが、真田昌幸忍城攻めに苦戦していた石田三成の援軍に赴いていますので、打越(宮内少輔)光重ほか由利衆も忍城攻めに加わっていた可能性があります。

☞ 九戸政実の乱で打越(宮内少輔)光重は第7陣(傘下:滝沢氏、岩谷氏、平澤氏、西目氏、鮎川氏)を率いる侍大将として出陣し(参246)、先鋒の小野寺勢が劣勢に陥っていたところを助けて九戸勢を敗退させるなどの軍功をあげます。同年、文禄・慶長の役で出陣していた肥前国松浦郡名護屋(現、佐賀県唐津市)で没とありますが、この年には未だ肥前名護屋城は築城されていないので年代に誤りがある可能性もあります。また、当時の史料には複数の打越氏(内越氏)の名前が見られることから、打越(宮内少輔)光重の名代として打越氏(内越氏)の別の者が出陣していた可能性も考えられます(真偽不明)。なお、文禄の役では由利五人衆は渡海せずに肥前名護屋城の在陣衆として軍役を課せられています。1593年(文禄2年)、上杉景勝及び由利五人衆は苦戦する日本軍を支援するために大谷吉継麾下として晋州城へ出陣を命じられますが、渡海前に晋州城が落城したので由利五人衆の渡海は見送られます。その後、慶長の役では遠国の武士は出陣を免除され、由利五人衆は肥前国へ出陣していません(参8)。

1576年頃(天正4年) 打越藤左衛門 和歌山県和歌山市

【本家Ⅱ】

1576年(天正4年)3月、石山本願寺の51出城の1つで、木津川の水運支配の拠点となっていた本庄城(大阪府東大阪市本庄)の戦い(第一次木津川口合戦)に雑賀衆として打越藤左衛門が参加します。総大将の鈴木源左衛門、先陣の山内三郎大夫、高柳監物、西ノ口平内大夫、原平馬、天井浜主計、遊軍の高松三充、打越藤左衛門、津屋十郎左衛門、高仏十郎次郎、土橋平次郎、和歌藤左衛門などが武功に秀で敵味方に有名を馳せていたという記録があります(参31、陰徳太平記/参190)。

1580年頃(天正8年)

楠木正意(=打越正意?)
打越三郎左衛門

和歌山県和歌山市

【分家Ⅰ】

楠木正意は、石山本願寺合戦で顕如上人に味方して石山本願寺及び鷺森別院(雑賀御坊)(雑賀衆・打越氏(本家Ⅱ)の発祥の地)を守備し、その後、1593(文禄2年)、出羽国由利郡打越郷へ遁れたという記録が残されています(熊野国造系楠木氏系譜/参3、52)。また、石山本願寺顕如上人から出羽国の打越(民部太夫)正義(分家Ⅱ)へ加勢を求める書状があり、その名代として弟・打越三郎左衛門を派遣して鷺森別院(雑賀御坊)を守備します(親川楠家系図/参11)。その後、打越三郎左衛門は、出羽国由利郡へ戻り、慶長出羽合戦(北の関ケ原の戦い)で上杉方の酒田城攻めに参陣します(参19)。なお、石山本願寺合戦で顕如上人に味方した楠木正具の子孫が金沢柵跡のある秋田県横手市に落ち延び、その後裔である元アラビア石油社長・山下太郎さん(故人)が楠木同族会の初代会長になっています。上述の肥後菊池氏も然りですが、楠木氏や新田氏など南朝勢力の多くが出羽国陸奥国に落ち延びており、現在もその末裔が分布しています。

1589年(天正17年) 打越(刑部少輔)幹嗣 茨城県

【分家Ⅱ】

打越豊後守の子孫。1589年(天正17年)、常陸江戸氏重臣・神生右衛門大夫が起こした謀反(神生の乱)で、打越刑部少輔は、神生右衛門大夫を匿った小野崎照通が守備する額田城(常陸国那珂郡額田郷)を攻め落とし(小野崎照通は結城へ敗走)、江戸重道から打越刑部少輔に対して「額田において討敵の動比類なく候」という感状が発給されています(参21)。なお、打越瀬左衛門の日記(第3部第1巻)には、打越越刑部少輔は幼少期に北条氏へ人質として送られ、額田城攻めが初陣であり、江戸重道の姪を妻に娶ったことが記されています。

☞ 神生の乱の後に、打越(三郎兵衛)光重(分家Ⅲ)が出羽国由利郡から常陸国へ移って佐竹氏の直臣として召し抱えられます。因みに、一時期、常陸江戸氏(その後、水戸徳川家)に仕えた打越氏(分家Ⅱ)と佐竹氏に仕えた打越氏(分家Ⅲ)、徳川将軍家に仕えた打越氏(本家Ⅰ)が同じ常陸国の隣接する場所に住んでいたことになります。

1589年(天正17年)

打越彦三郎

茨城県

【分家Ⅱ】

打越豊後守の子孫(打越(刑部少輔)幹嗣の弟?)。1589年(天正17年)、常陸江戸氏重臣である神生右衛門大夫が起こした謀反(神生の乱)で、神生右衛門大夫を匿った小野崎照通が守備する額田城(常陸国那珂郡額田郷)を攻めた際(小野崎照通は結城へ敗走)、敵に取り囲まれて討死しています。菊池内膳の子・菊池隼人の娘を娶っており、打越又右衛門、打越源吉、打越次左衛門の祖先(参21、118)。なお、常陸菊池(地)氏は肥後国の菊池氏の庶流で、江戸但馬守から常陸国那珂郡三反田に700石を与えられて新平館を構えます。菊池隼人の父・菊池内膳は、その姉妹を打越豊後守(水戸藩郡奉行代官(武茂組)打越瀬左衛門の祖先)に嫁がせ、また、菊池隼人はその娘を打越彦三郎(額田城の戦いで討死)に嫁がせるなど打越氏(分家Ⅱ)と親密な姻戚関係を結んでいます(参21、118)。

?年

打越(三郎兵衛)光重

秋田県由利本荘市茨城県

【分家ⅩⅢ】

出羽国由利郡から浪人して常陸国へ入部し、大番組・禄高30石で佐竹(右京大夫)義宣へ仕官します(参230)。この打越(三郎兵衛)光重は打越(官職:宮内少輔、幼名:孫太郎)光重(本家Ⅰ)とは同名別人です(「光重」の諱を名乗る人物は打越(宮内少輔)光重、打越(三郎兵衛)光重、大井(又次郎)光重の3人が確認できます。また、「宮内少輔」の官職を名乗る人物は打越(宮内少輔)光重、打越(宮内少輔)頼尹、打越(宮内少輔)長治などが確認できます。)(戸澤家譜/参19)。この点、1591年、打越(飛騨守)光隆が本家Ⅰの家督を相続したことを受け、打越氏(内越氏)の庶流の一部が他国へ仕官を求めて移住した可能性が考えられ(現代でも次男以下は実家を出て独立するのと一緒)、打越(三郎兵衛)光重もその一人であった可能性があります。

1599年(慶長4年)

打越十兵衛

鹿児島県

【分家ⅩⅢ】

1599年(慶長4年)、庄内の乱(関ケ原の戦いで島津氏が数百の軍勢しか派兵できない原因となった御家騒動)を起こした伊集院忠眞(打越房勝の娘が嫁いだ伊集院忠真は同姓同名の別人)の弟・伊集院小次郎が籠城した末吉城を攻略するために、肝付(肝属)氏の家臣(島津氏の陪臣)である打越十兵衛(御弓箭=武士のこと)が大隅国恒吉郷(現、鹿児島県曽於市大隅町)から末吉城落城後に島津氏の領地へ組み込まれる予定の大隅国末吉郷(現、鹿児島県曽於市末吉町)への移動(衆中召移し)を命じられています(参88)。なお、衆中召移しとは、島津氏の有力家臣の家臣(陪臣)を島津氏の家臣(直臣)として召し抱え、有力家臣の力を削ぐ領地政策のことです。

☞ 伴氏(大伴氏の後裔)が薩摩国国司(掾)として下向しますが、その後、大隅国肝属郡の弁財使(郡奉行と同格)に任命されて肝付(肝属)氏を名乗ります。その後、鎌倉幕府が開府して朝廷による政治から武家政権へ移行すると、清和源氏流・惟宗氏が日向国島津荘の地頭職として下向して島津氏を名乗ります。肝付(肝属)氏は天皇の臣下(南朝勢力)、島津氏は武家の家臣(北朝勢力)の関係で、当初、肝付(肝属)氏が大隅国、島津氏は日向国を支配していましたが、その後、島津氏は鎌倉幕府から大隅国薩摩国及び日向国の守護に任命され、肝付(肝属)氏と勢力争いを行うようになります。やがて南北朝の動乱を経て肝付(肝属)氏は衰え、島津氏へ臣従することになります(注27)。

1600年(慶長5年) 打越(飛騨守)光隆 秋田県由利本荘市茨城県行方市

【本家Ⅰ】

慶長出羽合戦(北の関ケ原の戦い)で最上義光麾下として上杉氏を撃退した軍功により、1601年4月、最上義光、打越光隆らが徳川家康に拝謁し、最上義光は褒美として名刀「正宗」を与えられ、打越光隆は徳川氏の直臣に取り立てられます。また、徳川家康から打越氏、仁賀保氏、滝沢氏及び赤尾津氏に対して庄内地方に留まって上杉景勝の減封国替えの警備にあたるように命じられます。なお、徳川家康最上義光に宛てた1601年8月24日付の朱印状には最上義光を総大将として先陣:南部利光、第2陣:戸沢政盛ら仙北衆、第3陣:打越源太郎(光隆)ら由利衆、第4陣:最上義光の子・最上義康、第5陣:越後衆から構成される約2万5千名の陣立てを記しています(新庄古老覚書巻之一/参120)。さらに、最上義光が戸澤政盛に宛てた書状の中で慶長出羽合戦(北の関ケ原の戦い)に参陣した者として打越(宮内少輔)頼尹の名前がありますが(参19)、どの系流に属するのかは分かっていません(因みに、「頼」は美濃源氏流打越氏の通字です)。その後、1602年(慶長7年)、打越光隆は、佐竹氏の減封国替えに伴って常陸国行方郡新宮郷(新宮、天掛、龍田)2000石に加増国替えになり、大身旗本として新宮城に入ります。因みに、このとき仁賀保氏は常陸国行方郡武田郷5000石に国替えになっていますが、この地は常陸国那珂郡武田郷(甲斐武田氏発祥の地)から甲斐国へ流布となった源義清の末裔で甲斐国守護・武田信満の弟・武田信久が常陸国行方郡に移り(常陸武田氏の祖)、その地名を武田郷と改めた場所です(参221)。1605年(慶長10年)、徳川秀忠征夷大将軍宣下を受けるための宮中参内の行列の六番(井伊、大久保、榊原、水野、土井、阿部、青山、真田、鍋島等の譜代家臣)の中に打越内膳正(内膳正とは、宮中の官職で宮内省長官のことですが、このときのために特別に付与された官職と思われます。)の名前が見られますが、大身旗本・打越(飛騨守)光隆と思われます。因みに、この行列の八番には上杉景勝毛利秀元京極高次伊達政宗福島正則島津家久佐竹義宣最上義光など錚々たる名前が並んでおり、この行列に名前を連ねる名誉がどれほどのものであったのか分かります。(東大寺雑集録/参204)。1609年(慶長14年)5月18日没。

1614年(慶長19年) 打越当左衛門 青森県

【分家Ⅳ】

1614年(慶長19年)、第3代津軽藩主・津軽信枚は大阪冬の陣で徳川方として3000名の軍勢を率いて出兵していますが(但し、このときは大阪へ向かわずに江戸勤番を命じられています。)、その軍勢の中に鉄砲足軽組を指揮する組頭として打越当左衛門の名前があります(参121)。打越光久が常陸国から出羽国へ加増国替えになったのが1923年、また、打越光久に嗣子がなく御家断絶になったのが1634年(寛永11年)のことなので、それ以前から津軽氏に仕官していたことになりますが、1602年(慶長7年)、打越光隆が出羽国から常陸国へ加増国替えになった際に出羽国へ留まった打越氏(内越氏)(分家Ⅰ)の一部が津軽氏へ仕官した可能性や、「最上家の三兵庫」の1人として雑賀兵庫が最上義光へ仕官している例もありますので(参219)、場合によると、雑賀衆・打越氏(本家Ⅱ、本家Ⅲ)が津軽氏へ仕官した可能性も考えられます。なお、1678年(延宝6年)の記録に同じく鉄砲足軽組を指揮する組頭として打越常右衛門の名前がありますので、代々、津軽氏の鉄砲隊を指揮していた家があったものと考えられます。

?年 打越(定左衛門)光信 秋田県由利本荘市茨城県

【分家Ⅲ】

打越(三郎兵衛)光重の子で、徒歩目付・禄高30石。佐竹氏は関ケ原の戦いで中立的な立場をとったので常陸国から出羽国へ減封国替えになり、これに伴って打越光信も出羽国へ移ります(参148)。佐竹氏は出羽国羽後国)へ国替えの後に佐竹氏の家臣団の家系図を編纂して「諸士系図」(参148)にまとめていますが、その中に佐竹氏に仕えた打越氏(分家Ⅲ)の家系図(1698年(元禄11年)、打越光信の子・打越(三郎兵衛)光政が作成)が収録されています。

佐竹義宣宛朱印状/慶長7年(1602年)7月7日】

f:id:bravi:20210521044758j:plain

☞ 1678年(延宝6年)、打越定右衛門が自宅謹慎中(原因は不明)に家督相続の申出を行う前に病死したという久保田藩の記録が残されていますが(山方清兵衛利直日記/参122)、打越(定左衛門)光信と同年代の人物なので兄弟の可能性もあります。但し、上記の家系図には打越定右衛門は記載されておらず、久保田藩には複数の家が仕えていた可能性があります。

1622年(元和8年) 打越五郎右衛門 和歌山県和歌山市

【本家Ⅱ】

戦国時代に紀伊国を支配していた有力な地侍として鈴木孫一津田監物、佐武伊賀守らと共に、打越五郎右衛門の名前が記録されています(参198)。海士郡雑賀党・打越五郎右衛門が組頭・戸田金左衛門の配下の六十人地士として知行50石で紀州徳川家に召し抱えられ(元和八年被召出地士六十人者姓名/参62)、その後、1625年(寛永2年)に組頭・渋谷伯耆守の配下に組替えになっています(大番頭六人預与力地士六拾人姓名/参62)。

☞ 1619年(元和5年)に徳川頼宣紀州国へ入部後直ちに、紀州の旧家や地侍のうち、熊野八庄司の末裔や畠山氏、湯川氏、宮崎氏(奥州探題職に仕え、一時期、秋田県仙北郡へ潜伏)及び貴志氏の遺臣の中から武功に秀で、家柄の由緒正しい60人を選んで土着のままで紀州藩士として取り立て「六十人者与力」(六十人地士)を組織し、その後、1654年(承応3年)に「六十人者」に改名します。「六十人者与力」(六十人地士)は、紀州藩士として有事の軍役に加え、警察機能を持ち村々を統治すると共に、訴状を取り扱うなど各村々の奉行代官的な役割を果たすために広範な権限を与えられています。

☞ 現在確認できているだけで紀州徳川家に仕官した打越氏(本家Ⅱ)には2つの系流があり、紀州藩士(扶持人)で「◯左衛門」「◯蔵」を通名(分家Ⅰ、Ⅱと同じ)とする系流と、紀州藩士(六十人地士)で「◯右衛門」を通名(本家Ⅰと同じ)とする系流が確認できます。なお、六十人衆として打越五郎左衛門の名前も記されていますが(参123)、打越五郎右衛門との関係は不明です。

?年 打越忠蔵 和歌山県田辺市

【本家Ⅲ】

紀伊風土記には由緒正しい旧家として、紀伊国牟婁郡(口粟野)道湯川村の湯川興兵衛や紀伊国牟婁郡(口熊野)大内川村の愛洲七郎兵衛等と共に、紀伊国牟婁郡(口熊野)和田村の打越忠蔵の名前が記録されています(紀州各郡地士姓目名/参62)。

☞ 打越忠蔵は、紀州武田氏流・湯川直春の第四子・忠蔵が紀伊国牟婁郡下川下村字打越(打越城)及び紀伊国牟婁郡和田村(打越屋敷)で仏門に入り打越氏を名乗りますが(参53)、この際、雑賀衆・打越氏との間で姻戚関係が結ばれた可能性があります。また、同じく紀州武田氏流・湯川氏の諸流・愛洲憲俊(武田家弘から嫡流の湯川氏と庶流の愛洲氏に分家)の弟・久留栖(愛洲)忠俊の末裔が打越屋敷と和田川を挟んだ対岸に久留栖屋敷を構え、その末裔が打越氏を名乗ったとも言われています(参59)。

1623年(元和9年) 打越光久 茨城県行方市秋田県由利本荘市

【本家Ⅰ】

打越光隆の嫡子・打越光久が家督を相続して徳川秀忠に仕えます。1623年(元和9年)、最上氏の国替えに伴い常陸国行方郡新宮郷2000石から出羽国由利郡矢島郷3000石に加増され、交代寄合旗本(大名待遇格)として八森城へ入ります。その後、1634年(寛永11年)8月7日、高田馬場で頓死しますが、嗣子なく御家断絶となります。

☞ 1623年(元和9年)、打越光隆が八森城(出羽国由利郡矢嶋郷)へ入ったとする説がありますが、打越光隆は1609年(慶長14年)に没しています(寛政重修諸家譜(巻二百五)/参6)。この点、1602年(慶長7年)、出羽国由利郡内越村から常陸国行方郡新宮郷へ加増国替えになった当時は打越光隆が当主であり、出羽国由利郡の人々の間に打越光隆が出羽国由利郡矢島郷へ戻ってきたという風聞が流布されたことによるものではないかと推測されます。また、打越氏御先祖代々記覚書控(参10)には、打越光隆が出羽国由利郡小砂川に隠居したという記録が残されており、また、諸家系譜(参6)には同じく津軽に隠居したという記録も残されていますが、上述のとおり打越光隆は常陸国常陸国行方郡新宮郷から出羽国由利郡矢島郷へ加増国替えになる前に没していますので、これは打越光隆と打越光豊又は打越光忠津軽藩船橋騒動により出羽国へ戻って浪人し、その後、津軽十郎左衛門の取り計らいで陸奥国津軽郡小湊村へ屋敷を与えられています。)を取り違えているのではないかと思われます。なお、打越光久は常陸国行方郡新宮郷にいた時代に親交があった長国寺(常陸国行方郡八代による曹洞宗総持寺系の寺院)の八世即殿分廣和尚の弟子・白峰廣椿和尚を招いて、1623年(元和9年)に打越光隆の菩提を弔うために龍源寺を開基します。この点、打越光隆が龍源寺を開基したと解説しているものを見かけますが、一級資料である天下僧録牒(参205)には打越光久が龍源寺を開基したという記録が残されています。

☞ 打越氏(本家Ⅰ)の家臣として菅原景本、菅原景長、工藤次郎三郎、今泉光家などの名前が残されていますが(参124)、打越光久が城主であった八森城内には古くから菅原道真公を主祭神とする天満宮が祀られており(菅原景本、菅原景長は菅原道真公の末裔とも言われています。)、天神信仰が盛んであったことが伺われます。また、出羽国由利郡矢島郷には山田与左衛門及び金子久左衛門という大肝煎がいて、このうち金子久左衛門(本国常陸・生国出羽)は、矢島満安及び打越光久に仕え、20人の足軽を預けられています(参229)。

1631年(寛永8年) 打越佐吉 秋田県由利本荘市青森県

【分家Ⅴ】

打越氏(内越氏)(本家Ⅰ)が御家断絶となる前に、出羽国由利郡から打越佐吉が第2代津軽藩主・津軽信枚へ仕官しています(参69)。

 

1631年(寛永8年) 打越刑部 茨城県

【分家Ⅱ】

常陸国那珂郡三反田郷の郷侍。常陸江戸氏の滅亡及び常陸佐竹氏の減封国替えの後、常陸江戸氏の旧臣は水戸徳川家から郷侍として領地を与えられています。

1634年(寛永11年) 打越光種 浦和市

【本家Ⅰ】

1629年(寛永6年)、打越光久の弟・打越光種が徳川秀忠に拝謁し、慶長出羽合戦(北の関ケ原の戦い)での軍功を評価され、1634年(寛永11年)、徳川家光の近侍として上洛軍に供奉します(参125)。その後、御書院番(将軍直属の親衛隊)に取り立てられて御家を再興し、食禄300俵の蔵米取りを経て、武蔵国北足立郡大久保村神田村に500石を知行されます(参126)。1670年(寛文10年)2月15日没。

【旧大久保村/埼玉県さいたま市桜区大久保領家】

f:id:bravi:20210622213118j:plain

【旧神田村/埼玉県さいたま市桜区神田】

f:id:bravi:20210622213132j:plain

1634年(寛永11年) 打越弘親 茨城県

【分家Ⅱ】

寛永年間半ばに郷侍の子弟を水戸徳川家の家臣として召し抱える政策がとられ、1634年(寛永11年)、打越刑部の子・打越弘親が郷士として水戸徳川家郷士として召し抱えられます(参117、129)。なお、水戸金工打越派の打越弘親とは同名別人です。

?年 打越(金右衛門)光清
打越(半四郎主殿)光春
打越(伝七郎)光豊
秋田県由利本荘市岩手県

【分家Ⅴ】

打越光隆の長男・打越光久の急死により嗣子なく御家断絶になりますが、長女・打越センが初代津軽藩主・津軽(右京太夫)為信の養女になっていたことから(その後、打越センは津軽藩家老・津軽伊豆の妻、その娘は津軽藩家老・津軽美作の妻)、その縁故を頼って、三男・打越(金右衛門)光清、四男・打越(半四郎主殿)光春、五男・打越(伝七郎)光豊は第2代津軽藩主・津軽越中守)信枚へ仕官します。なお、打越(半四郎主殿)光春は400石、打越孫九郎は700石及び打越城左衛門(なお、打越城左衛門、打越常左衛門、打越丈左衛門(御家断絶前の打越氏(本家Ⅰ)の家老)は、それらが活躍した年代やその経緯からいずれも別人と考えられます。)は400石という高禄を与えられ(信枚公御代元和年中御家臣姓名大概/参128)、また、打越(半四郎主殿)光春は第3代津軽藩主・津軽信義により大目付に登用されます(参128)。1634年(寛永11年)、第3代将軍徳川家光は将軍代替りの挨拶のために約30万の軍勢を率いて上洛しますが(本家Ⅰの打越光種が徳川家光の近侍、分家Ⅳの打越半四郎及び打越嘉平次が津軽信義の近侍として上洛)、この上洛軍に供奉していた津軽信義が京都から戻ると津軽藩御家騒動船橋騒動)が勃発します。1631年(寛永8年)、津軽信義は若年で津軽藩主になりましたが、これを奇貨として権勢を私物化する近従と譜代の家臣との間の対立が深刻化し、津軽伊豆・津軽美作など津軽藩重臣と、これに同調した譜代の家臣・岩橋、三村、打越(孫九郎、半四郎)、坂本、増川、七戸、郡、湊、秋田、郡らが津軽藩家老・舟橋半左衛門及び乾四郎兵衛の不行状を江戸幕府に訴えます。その後、1636年(寛永13年)、幕府評定所の裁定が下り、喧嘩両成敗により津軽藩家老・舟橋半左衛門及び乾四郎兵衛と津軽藩重臣津軽伊豆及び津軽美作は他藩へお預け、また、津軽藩要職にあった沼田八郎左衛門と打越(半四郎主殿)光春は津軽藩追放になり(その後、行方知れず)、御家騒動船橋騒動)は終息します(参110)。なお、津軽藩御家騒動船橋騒動)の後、打越(金右衛門)光清は南部氏の家臣・秋田金左衛門の養子となりますが、打越(伝七郎)光豊は出羽国へ戻って浪人し、その子・打越光忠津軽越中守)信枚の叔父・津軽十郎左衛門の取り計らいにより陸奥国東津軽郡小湊郷へ屋敷を与えられます。(打越氏御先祖様代代覚書控/参11)。

?年 打越孫四郎 秋田県由利本荘市茨城県

【分家Ⅰ】

(楠木(河内守)正家-楠木(出羽守・打越将監)正宣-楠木(七郎左衛門)正光-小笠原(左衛門)正賢-楠木(摂津守)正時-楠木(大炊介)正常-楠木(左馬介允)正清-打越(左衛門)正国-打越(左衛門大夫)正淑-打越(左衛門大夫)正諸-打越(左衛門大夫)正依-打越(式部大夫)正春-打越(民部大輔)正義までの年表は割愛します)。打越(民部大輔)正義の子。打越光久(本家Ⅰ)の急死により嗣子なく御家断絶となりますが、兄・打越(孫次郎)正朝(分家Ⅰ)は落馬の怪我で動けないので弟・打越孫四郎を養子に入れて御家再興を江戸幕府へ訴えたところ、徳川光圀から旗本として召し抱えるので出仕するように指示がありました。なお、打越孫四郎は上京するまでの間、佐竹義隆に身を寄せています(親川楠家系図/参10)。

☞ 打越(宮内少輔)正兼(分家Ⅰ)が打越(宮内少輔)光重(本家Ⅰ)のことを示している可能性がある旨の記述もありますが(参119)、その後の家系図は全く一致していませんので、その可能性は低いと思われます。その一方で、於曾氏の系流(打越氏御先祖様代代覚書控/参11)については打越光重の代から家系図の一致が見られますので、豊臣秀吉が由利十二頭を由利五人衆に整理して打越光重に本領安堵の朱印状を下賜したことにより於曾氏が支配していた土地(≒於曾氏の家督)が惣領家に定まった打越光重に統合、承継されたのではないかと考えられます。

1645年(正保2年) 打越序左衛門 青森県

【分家Ⅳ】

玉林寺(秋田県大館市大館24)へ潜伏していた罪人・佐久間喜左衛門が発見され、打越序左衛門が身柄引請けに出向いたという記録があります(参121)。

1645年(正保2年) 打越藤右衛門 和歌山県和歌山市

【本家Ⅱ】

紀州藩の大番頭・戸田十郎左衛門の配下として打越藤右衛門の名前が記録れています(六十人者地士組分け/参62)。1667年(寛文7年)、打越藤右衛門及びその子・打越清右衛門が紀州藩付家老三浦家を訪れ、打越清右衛門が江戸勤番のために上京するにあたり挨拶を行ったという記録が残されています(参247)。

1659年(万治2年) 打越(治右衛門)光業 栃木県小山市鹿沼市

【本家Ⅰ】

打越光種が鵜殿長種(弁慶の父・熊野別当湛増の末裔)の四男を娘の婿養子に迎えて家督を相続させます。1659年(万治2年)、徳川家綱に拝謁し、御書院番松前伊豆守組)に就任します。1697年(元禄10年)、下野国都賀郡上殿村口粟野村横倉村下古山村に合計500石の知行地を与えられます(参130)。1713年(正徳2年)10月24日没。

拝領屋敷:(1682年~)東京千代田区隼町4国立劇場、(1710年~)東京都千代田区九段北2-4-1シャルトル聖パウロ修道女会(参131)

【旧上殿村/栃木県鹿沼市上殿町】

f:id:bravi:20210622213211j:plain

【旧口粟野村/栃木県鹿沼市口粟野】

f:id:bravi:20210622213105j:plain

【【旧横倉村/栃木県小山市横倉】

f:id:bravi:20210622213146j:plain

【旧下古山村/栃木県下野市下古山】

f:id:bravi:20210622213158j:plain

【東京都千代田区隼町(1682年~)】

f:id:bravi:20190629224949j:plain

【東京都千代田区九段北(1710年~)】

f:id:bravi:20181013090334j:plain

☞ 旗本は江戸城から離れた遠国に知行地がありましたので、その領地を管理するために代官を置き、日頃は江戸城近くに与えられた拝領屋敷で生活していました。打越氏(本家Ⅰ)は、約500石の知行取りでしたが、一般にこのクラスの旗本には約500坪程度の拝領屋敷(時代劇に登場する門番が居る屋敷)が与えられた模様です。

1659年(万治2年) 打越六兵衛 福島県三春町

【分家Ⅶ】

陸奥三春藩(秋田氏)の破損手代(建造物の営繕、材木の管理を掌った役職)として二両二人扶持(万治二年家中給人知行高扶持切米高覚/参132)。なお、1602年(慶長7年)、秋田実季は佐竹氏が出羽国羽後国)へ減封国替えになったことに伴って打越光隆らと共に出羽国から常陸国(宍戸藩)へ国替えになっており、さらに、1645年(寛永21年)、常陸国(宍戸藩)から陸奥国三春藩)へと国替えになっています。

1665年(寛文5年) 打越甚五左衛門 青森県

【分家Ⅳ】

1663年(寛文3年)に津軽藩の御旗大将、1665年(寛文5年)に御物番頭(御書院番頭)になります(参136)。1664年(寛文2年)に第3代津軽藩主・津軽信義の側室・長泉院に騎馬で御供します(参136)。また、1665年(寛文5年)に長峰村の狼狩の陣備え(約5千人弱)の左脇備の侍大将として打越甚五左衛門の名前があります(津軽信政公事蹟/参137)。1665年に打越甚五左衛門の娘が添田儀左衛門貞俊(子・盈章は津軽藩家老)に嫁いでいます(参242)。

1666年(寛文6年) 打越半右衛門 石川県鹿島郡

【分家Ⅵ】

加賀藩前田氏の重臣・長氏は半大名的な立場で独自に領地経営を行っていた能登国鹿島郡で隠田検地を実施し、検地大奉行・三宅善丞、検地奉行・小川三郎左衛門、河嶋治兵衛、横目・堀部新助、帳付・打越半右衛門、宮崎兵三、竿取・高橋八右衛門と郡奉行・代官らが参加します。1667年(寛文7年)、長氏の譜代家臣・浦野信秀と百姓が前近代的土豪的土地支配の既得権益を守るために加賀藩前田氏に対して検地反対越訴を企てる事件(浦野事件)が発生し、長氏はその責任を問われて領地を没収され、以後、半大名的な立場ではなく加賀藩前田氏の1家臣(重臣)として仕えます(参72、245)。

☞ 石川県に分布する打越氏は丸に揚羽蝶紋を使用していますが(但し、現在、石川県に分布している打越氏は美濃源氏氏流木田氏の替紋と同じ蔦紋が多い)、これは打越氏(分家Ⅵ)の主家・長氏が室町時代能登国の守護であった能登畠山氏の家臣(長氏は畠山七人衆に数えられる有力家臣)として仕えていましたが、能登畠山氏は桓武平氏流と清和源氏流の2流(この2流は婚姻関係があり1家を構成)があったので主家から揚羽蝶紋を譲与された可能性や、由利十二頭・矢島氏が替紋として揚羽蝶紋を使用していたこと(参25)に由来する可能性が考えられます。1582年(天正10)年、長氏は七尾城主となった前田利家に臣従し、前田八家の1家として前田氏の重臣になりますが、上述の浦野事件の責任を取らされて長氏の領地(能登国鹿島郡の半分3万3000石)が没収され、加賀国金沢郡への移住が命じられて前田氏の1家臣(重臣、禄高3万3000石)として仕えます。

☞ 長氏中興の祖・長信連は、源頼朝から能登国大屋荘を下賜され、由利小藤太の後家を娶っています。また、於曾(打越)尚光(本家Ⅰ)は河内国守護職であった畠山義豊に仕えましたが、能登国守護職・畠山義統は応仁の乱畠山義豊の父・畠山義就に味方していますので、長氏と打越氏(本家Ⅰ)との間に何らかの関係があった可能性も考えられます。

1667年(寛文7年) 打越城左衛門 青森県

【分家Ⅳ】

津軽藩津軽氏に400石で召し抱えられます(信枚公御代元和年中御家臣姓名大概/参105)。なお、打越城左衛門が越後高田で津軽為信に召し抱えられたという記録もありますが(八木橋文庫「奥富士物語 三」より)、打越氏(内越氏)(分家Ⅰ)の一部が越後高田で浪人していたところを召し抱えられた可能性が考えられます(その子・打越(常左衛門)勝由の「勝」の通字は分家Ⅰのもの)。その後、打越城左衛門は隠居し、1667年(寛文7年)8月18日朝に弘前城御書院で馳走され、御祝儀を下賜されています(参136)。なお、打越城左衛門、打越常左衛門、打越丈左衛門(御家断絶前の打越氏(本家Ⅰ)の家老)は、それらが活躍した年代やその経緯からいずれも別人と考えられます。

1669年(寛文9年) 打越勘左衛門
打越甚左衛門
打越伊左衛門
秋田県

【分家Ⅲ】

1669年(寛文9年)、佐竹義隆は江戸幕府の命によりシャクシャインの戦い(アイヌ民族の蜂起)で松前藩に援軍を送ることになりますが、御使番大将(25名の部隊を指揮)として打越勘左衛門(参109)、御使番として打越甚左衛門が出陣し、打越甚左衛門は先陣を命じられています(参133)。また、その軍勢の大鼓役(陣太鼓を打ち鳴らして軍勢に本陣からの指示を伝える役目)として打越伊左衛門が出陣を命じられます(参134)。なお、1698年(元禄11年)、打越光政が久保田藩に提出した家系図にはその名前が見当たらず、佐竹氏には複数の家が仕官していた可能性があります。

1669年(寛文9年) 打越源五郎 青森県

【分家Ⅳ】

打越城左衛門の子。1669年(寛文9年)10月に開催された第4代津軽藩主・津軽信政の御前試合に当流の達人・高田儀兵衛と共に打越源五郎が出場しています(参135)。なお、石高不明ですが、打越城左衛門の子で津軽藩士・打越市十郎の名前があります(参135)。

☞ 後述の打越(常左衛門)勝由と同一人物である可能性がありますが(幼名:源五郎、通称:常左衛門)、代々、同じ幼名になる例は多く、はっきりしたことは分かりません。

1674年(延宝2年) 打越(常左衛門)勝由 青森県

【分家Ⅳ】

1685(貞享2年)の津軽藩分限帳に寄合400石として名前が記録されており(参136)、打越城左衛門の子・源五郎と同一人物である可能性がありますが(幼名:源五郎、通称:常左衛門)、はっきりしたことは分かりません。1674年(延宝2年)、楠木正家を始祖に持つことから津軽藩に上方への参詣願いを出し、許されています(参243)(上方への参詣願いの理由として石田三成との関係性を推測する書籍もありますが、石田三成と打越氏(内越氏)との関係性を示す事績はなく、始祖・楠木正家の出身地を参詣する目的と考えられます。)。1678年(延宝6年)、第4代津軽藩主・津軽信政の生母・久昌(祥)院が浅虫温泉青森県青森市浅虫)へ湯治に向かいますが、その御供の先頭に打越常左衛門、続いて御駕籠廻り8名、その他の供回り8名が随行しています(参139)。1680年(延宝8年)、打越常左衛門が病死し、その子・源五郎が幼少であることから親類の添田儀左衛門が代わって打越源五郎への家督相続を申し出て認められています(参244)。なお、1696年(元禄9年)、御留守居役でしたが、大凶作で津軽藩から暇を貰い、出羽で浪人していたところ、久保田藩佐竹氏からの仕官の話がありましたが、これを断り津軽に戻ったという記録がありますが(参243)、その真偽は不明です。なお、打越(常左衛門)勝由は、陸奥国津軽郡五林平村(青森県北津軽郡板柳町五林平)に知行地があり、五林平八幡宮青森県北津軽郡板柳町五林平細田)を建立(又は再建)し、「延宝六年七月大日祥 奥州津軽中郡五林台村鎮守(知行のみぎり建立なり)打越常左衛門尉源氏小笠原朝臣勝由 子源五郎勝村」と自筆した棟札を奉納しています(参243)。また、1765年(明和2年)、打越(源五郎)勝村の子・打越〇〇(大組足軽)の婿養子・打越軍八が足軽目付として津軽藩に仕えるという記録が残されています(参243)。

1676年(延宝4年) 打越新兵衛 福島県

【分家Ⅷ】

磐城平藩の大納戸衆(参73)。

☞ 映画「超高速!参勤交代」磐城平藩(内藤氏)は分家の湯長谷藩(内藤氏)に参勤交代の行列を貸すシーンで登場しますが、1747年(延享4年)に日向国(現、宮崎県)の延岡藩へ国替えになっています。なお、近代筝曲の開祖・八橋検校は1663年(寛文3年)まで磐城平藩(内藤氏)に専属音楽家として召し抱えられており、打越新兵衛と同時代を磐城で過ごしています。その後、八橋検校は京都へ移住しますが、筝の形を模した京都名菓「八ッ橋」は八橋検校の名前の由来になっています。

1678年(延宝6年) 打越角右衛門 秋田県

【分家Ⅲ】

佐竹氏の分家である佐竹西家・佐竹義房が久保田藩大館城代を務めていた時代の延宝六年改大館城代家中分限に禄高30石として打越角右衛門の名前があります(参138)。なお、1698年(元禄11年)に打越光政が久保田藩に提出した家系図には名前が見当たらないので、佐竹氏には複数の家が仕官していた可能性があります。

1678年(延宝6年) 打越常右衛門 青森県

【分家Ⅳ】

鉄砲足軽組を指揮する組頭として打越常右衛門の名前があります(参140)。

1683年(天和3年) 打越与兵衛 石川県輪島市

【分家Ⅵ?】

打越宗五郎の子で、才許人として記録があります(参141)。才許(裁許)人とは、新田開発や土地売買等の事務を統制する役職のこと。また、打越宗五郎の子・打越太郎兵衛の名前もあります。

1685年(貞享2年) 打越(左大夫)光高 栃木県小山市鹿沼市

【本家Ⅰ】

1685年(貞享2年)、徳川綱吉に拝謁し、御小姓組(大岡土佐守組)、御留守居番(大奥の警護等)等に就任。1744年(延享元年)8月24日没。下野国都賀郡口粟野村(現、栃木県上都賀郡)約238石、下野国都賀郡上殿村(現、栃木県鹿沼市)約87石、下野国都賀郡下古山村(現、栃木県下都賀郡)約204石、下野国都賀郡横倉村(現、栃木県小山市)約143石を知行されていますが、これらの合計(実高)は約700石となります(旧高旧領地取調帳データベース、参142、143)。なお、1968年(元禄10年)に下野国都賀郡横倉村の代官(当主に代って領地の事務を司る者)として打越浪右衛門が置かれています(参144)。拝領屋敷:(1724年~)東京都千代田区三番町3-9番町千鳥ヶ淵アビダシオン(参131)

【東京都千代田区三番町(1724年~)】

f:id:bravi:20181013090418j:plain

1688年(元禄元年) 打越(市之進)光長 青森県~千葉県

【分家Ⅴ】

打越光忠の二男・打越光長は津軽藩御家騒動船橋騒動)に巻き込まれて祖父・打越光豊及び父・打越光忠の代から出羽国及び陸奥国(小湊)で浪人生活を送っていましたが、1688年(元禄元年)、第5代将軍徳川綱吉側用人上総国佐貫城主・柳沢吉保に拝謁し(その後、武蔵国川越藩主、甲斐国甲府藩主となり、その子・柳沢吉里の代に大和国郡山藩主)、源(新羅三郎)義光を祖先とする甲斐源氏の誼で柳沢氏に召し抱えられます(打越氏御先祖様代代覚書控/参11)。

1690年(元禄3年) 打越(権八郎)光登 青森県~千葉県

【分家Ⅴ】

打越光忠の三男・打越光登は1690年(元禄3年)に2万石加増された上総国佐貫城主・柳沢吉保に拝謁し、柳沢氏に召し抱えられます(打越氏御先祖様代代覚書控/参11)。

1692年(元禄5年) 打越(藤右衛門)光永
打越(幸四郎)光棟
青森県~千葉県

【分家Ⅴ】

打越光忠の長男・打越光永及び四男・打越光棟は1692年(元禄5年)に3万石加増された上総国佐貫城主・柳沢吉保に拝謁し、柳沢氏に召し抱えられます。なお、打越光永柳沢吉保馬廻りを仰せつかりますが、打越光棟は未だ幼年のため部屋住料を下賜されます(打越氏御先祖様代代覚書控/参11)。1694年(元禄7年)、柳沢吉保武蔵国川越藩に加増国替えになり、これに伴って打越幸四郎を大小姓に登用します。また、1696年(元禄9年)、打越(幸四郎改め、幸右衛門)光棟は柳沢吉保の江戸における御側衆を仰せつけられます(元禄7年柳沢保明(柳沢吉保)家中分限帳/参145)。

1692年(元禄5年) 打越勘太郎 和歌山県

【本家Ⅱ】

高野山には「行人」(雑事)-「学侶」(修行)-「聖」(布教)という3つの階層(高野三方)が存在しましたが、行人と学侶との間で僧侶の資格や儀式の実施権限等に関する論争(騒動)が勃発します(元禄高野騒動)。江戸幕府は騒動鎮圧のために軍勢を差し向けますが、「高野騒動之時出張之地士」として「元禄五申七月高野之儀に付橋本へ罷越候地侍六十人者須田組大庄屋の分」のなかに海士郡の六十人組・打越甚太郎が息子1人及び下人1人を従えて出陣した記録が残されています。なお、「地士所持鉄砲調之事」の「在々所持鉄砲之書付」の中に海士郡宇須村の打越甚太郎が鉄砲一挺、玉目三匁五分を所持していたことが記録されています。この調書には、猪や鹿を駆除するために使用される「おどし鉄砲」や禁猟地区で密猟して取り上げられた「取上鉄砲」、鉄砲の調練に使用される「稽古鉄砲」など鉄砲の用途も記録されていますが、打越甚太郎については「鉄砲」とのみ記録されていることから実戦に使用するための鉄砲であったと考えられます(参62)。

1694年(元禄7年) 打越藤吉 和歌山県

【本家Ⅱ】

1694年(元禄7年)、紀州藩徳川家の地士六十人者(須田組)・紀伊国海士郡宇須村の打越藤吉が記録されています(紀州勢州三領六拾人者等在々名前覚/参146)。

1695年(元禄8年) 打越(瀬左衛門)政徳 茨城県

【分家Ⅱ】

打越氏(分家Ⅱ)は那珂湊に屋敷を構えて常陸江戸氏に仕えていましたが、常陸江戸氏が滅亡して郷侍となり、その後、父の打越弘親が水戸藩郷士として召し抱えられて水戸城下へ移ります(参129)。その子・打越(瀬左衛門)政徳は水戸藩士に取り立てられて吟味役、鳥見役、郡奉行代官等を歴任します。1695年(元禄8年)、徳川光圀の命令で郡奉行の林(十左衛門)正興と共に鹿嶋神社から分祀した氷之沢鹿嶋神社茨城県常陸大宮市氷之沢266)を再建。常陸国久慈郡水府村に住み、徳川頼房(威公)、徳川光圀(義公)、徳川綱条(粛公)の3代に仕えて1719年(亨保4年)没(享年80歳)。打越(瀬左衛門)政徳の長男・打越(七郎次)直は彰考館の史館編集、また、次男・打越(円次郎)政孝は彰考館の史館物書(書記役)に就任しますが(注46)、二人の息子に先立たれたことから、1715年(正徳5年)に那珂湊船手方・米川彦右衛門の子・米川弥八の才能を見込んで打越(瀬左衛門)正徳の長女の婿養子に迎えて打越直正と改名し、やがて彰考館総裁になります(参67、147)。

1695年(元禄8年) 打越清之丞 青森県

【分家Ⅳ】

留守居番に就任します(信政公御代元禄八乙亥年十一月廿一日改候弘前御家中分限帳覚/参105、149)。

1696年(元禄9年) 打越理右衛門 青森県

【分家Ⅳ】

長内杢右衛門と上屋敷替えがあった記録が残されています。なお、打越清之丞との関係は不明ですが、家督相続があった可能性があります(参136)。

1698年(元禄11年) 打越(三郎兵衛)光政 秋田県

【分家Ⅲ】

佐竹氏へ仕官した打越光信の子・打越光政は久保田藩による「諸士系図」の編纂にあたり、佐竹氏へ打越氏(分家Ⅲ)の家系図を提出します(巻末家系図:図表10を参照)。嫡子・打越宇吉(参148)。なお、1711年(寛政11年)、田中清左衛門は不始末により梅津藤十郎へ身柄御預けとなりますが、田中清左衛門が腰痛の悪化を理由としてお役御免を願い出ている旨を、田中清左衛門の親類・打越光政が久保田藩家老へ内々に申し出て認められたという記録が残されています(参231)。

?年 打越形左衛門 青森県弘前市

【分家Ⅲ】

第2代津軽藩主・津軽信枚の時代、岩木山山岳信仰霊場として藩士及び領民の厚い信仰の対象になっていました。津軽藩士・打越形左衛門は仲間2人と岩木山へ参詣登山する途中で行方不明となり、数日後、打越形左衛門が魂を抜かれたような状態で弘前城下へ姿を現します。その翌未明に、打越形左衛門は、大筒鉄砲を持って岩木山へ登り、何度も火口へ発砲する事件(その発砲音が弘前城下まで響いたことで発覚)が発生します(奥富士物語/参108、参151)。打越形左衛門は火山ガスで意識が混濁して幻覚に襲われ、火口に潜む魔物を退治しようとしたのかもしれません。津軽藩はこの事件を奇貨として藩士による岩木山への登山を全面禁止し、藩主家のみが入山を許されるとすることで岩木山霊性を高めると共に、藩主家を岩木山に祀って神格化することで藩士及び領民の人心を掌握する領国統治策の1つとして利用します。なお、打越形左衛門の娘が添田儀左衛門貞盈(子・貞順は津軽藩家老)に嫁いでいます(参243)。また、打越形左衛門は、津軽信政の使者として赴いた久保田藩で接待を受けますが、食膳をひっくり返す不調法を犯した際の対応が泰然として卒がなく、佐竹義格から褒められたという記録があります。その後、打越形左衛門が津軽藩から暇を貰い、久保田藩佐竹氏に2百石で召し抱えられますが、その後、久保田藩佐竹氏からも暇を貰い、二本松藩丹羽氏へ仕官替えしたという記録が残されていますが(参243)、真偽不明です。

1701年(元禄14年) 打越(頼母)光保 栃木県小山市鹿沼市

【本家Ⅰ】

1701年(元禄14年)に徳川綱吉に拝謁し、御書院番(酒井因幡守組)に就任します。父の打越光高に先立って1742年(寛保2年)2月29日没。

1705年(宝永2年) 打越(左太夫)光富 栃木県小山市鹿沼市

【本家Ⅰ】

打越(治右衛門)光業の子で御小姓(皆川山城守組)に就任します(参127)。

1711年(宝永8年) 打越新五兵衛 青森県弘前市

【分家Ⅳ】

足軽目付・横山嘉左衛門及び打越新五兵衛が1711年(宝永8年)1月4日に江戸から到着し、津軽(土佐守)信寿から自宅謹慎(配下の足軽が問題を起こし、その監督責任を問われたものだと思います。30日~50日程度の昼間の外出が禁じられますが、夜間外出は認められていますので、閉門よりは軽い処分です。)を命じられています(巻55本紀54津軽信寿代/参203)

1716年(享保元年) 打越猶右衛門 和歌山県和歌山市

【本家Ⅱ】

紀伊国名草郡の郡奉行代官(参85)。

1717年(享保2年) 打越伊左衛門 和歌山県和歌山市

【本家Ⅱ】

仔細不明。1730年(享保2年)没。(参47)

☞ 1865年(慶応元年)の大垣内の堤防決壊により打越氏(本家Ⅱ)の系譜4種類を流失していますが、現在確認できているだけで本家Ⅱには2つの系流があり、紀州藩士(扶持人)で「◯左衛門」「◯蔵」を通名(分家Ⅰ、Ⅱと同じ)とする系流と、紀州藩士(六十人地士)で「◯右衛門」を通名(本家Ⅰと同じ)とする系流があります。

1724年(享保9年) 打越丈右衛門 奈良県

【分家Ⅴ】

大和郡山藩の御奏者番享保9年分限帳より)、御使番(松之間詰)(安永2年席帳より)を歴任します。また、打越蔵五郎(打越丈右衛門の子?)の家紋として三階菱(安永3年定紋覚より)が記録されています。なお、1724年(享保9年)に柳沢吉保の嫡男で甲府藩主・柳沢吉里は大和郡山藩へ加増国替えになり、大和郡山藩へ向かう行列(約1km)の八番隊の隊長として打越丈右衛門の名前があります(甲陽遺聞録/参152)。

1726年(享保11年) 打越(用右衛門)房勝 鹿児島県

【分家Ⅻ】

薩摩藩島津氏の重臣・禰寝(根占)氏の家臣・打越(用右衛門)房勝の娘が島津氏の分家・伊集院忠眞に嫁いで長女を出産しており(参153)、島津氏の分家・伊集院氏と打越氏(分家Ⅻ)は姻戚関係となります。また、薩摩国日置郡吉利村の検地竿次帳には、「1726年(享保11年)4月18日、郡見廻打越用右衛門、役人弥寝五郎左衛門、竿取谷山猪俣覚之助」らによって検地が実施された記録が残されています(参154)。

1727年(享保12年) 打越(樸齋)直正 茨城県

【本家Ⅱ】

1700年(元禄13年)、徳川光圀水戸藩士船手方の下級武士であった米川氏の子・弥八(14歳)の才能を認めて格留付列史館見習に抜擢し、楠木正成楠木正行新田義貞名和長年、藤原藤房、日野俊基南朝の忠臣を研究していた三宅観瀾(1710年(宝永7年)に彰考館総裁に就任)に師事します(参155、156、216)。1715年(正徳5年)、打越瀬左衛門が弥八の才能に惚れ込んで長女の婿養子に迎えて家督を承継して打越直正と改名させます(参67)。その後、僅か25年で留付→徒→右筆→馬廻→小納戸(総裁)へ出世しますが、「このような昇進振りは当時として全く例のないことであった」ようです(参157、158)。やがて打越直正は徳川光圀が見込んだとおりの才覚を現し、1727年(享保12年)、彰考館総裁に就任して大日本史編纂に従事し、1740年(元文5年)まで彰考館総裁を務めます。最初に出版された「大日本史」(元文検閲本)の完成は打越(樸齋)直正が彰考館総裁を務めていたときのことです。北畠親房の「神皇正統記」を高く評価した徳川光圀及び打越(樸齋)直正は南朝正当論を唱えて楠木氏の復権に尽くし、水戸学の礎を築くなどの功績を残します。徳川光圀(義公)、徳川綱条(粛公)、徳川宗堯(成公)の3代に仕えます。1740年(元文5年)8月5日没(享年55歳)(官位:贈縦五位)。なお、水戸藩儒学者・藤田幽谷(藤田東湖の父)が先生の敬称をもって尊敬していたのは安積澹泊、栗山潜鋒、打越樸齋、立原翠軒の4人であったと言われていますが(参258)、とりわけ打越直正が先輩格の安積澹泊に宛てた「樸齋正議」は、藤田幽谷から高い評価を得ています(参67、155、159)

【彰考館総裁・打越樸齋直正の墓/酒門共有墓地】

f:id:bravi:20170505094715j:plain

☞ 現在の天皇北朝の系流ですが、1911年(明治44年)、明治天皇は、水戸藩主・徳川光圀や彰考館総裁・打越直正らが「大日本史」で唱えた「南朝正当論」を根拠とし、当時、三種の神器を所持していた南朝が正統であるという勅裁を下し(但し、南朝の正統性は南北朝合一(明徳の和約)により南朝後亀山天皇北朝後小松天皇三種の神器を渡すまでの南北朝時代の間のことで、その後の北朝の正統性を否定するものではありません。)、これが現在に至るまでの皇室の公式見解になっています。この点、打越(樸齋)直正が大日本史の編纂方針について徳川光圀の遺志を示すために著した「僕斎正義」で南朝正当論を唱えながら現在の皇室が北朝の系統であることを重く踏まえて北朝五帝も正統な歴史的取扱いが適当であると反対論を退けた理性的な態度が(参155)、明治天皇による勅裁にあたり大日本史の記載を根拠の1つとされた理由の1つではないかと思われます。なお、打越このWEBの冒頭に掲載している楠木正成像はこのような時代背景のもと住友財閥から東京美術学校(現、東京藝術大学)に制作を依頼し、皇室に献上されたものです。

☞ 北畠親房は関東の南朝勢力を支援するために常陸国へ下向して南朝勢力・小田治久の居城である小田城に入りますが、そこで南朝の正統性を述べた歴史書である神皇正統記を執筆します。時代は下って、水戸藩主・徳川光圀大日本史編纂で神皇正統記を高く評価し、彰考館総裁・打越(樸斎)直正らと共に南朝正当論を唱えて水戸学の礎(前期水戸学は徳川光圀が中心となって尊王思想を唱えますが、後期水戸学は徳川斉昭が中心となって尊王思想に加えて攘夷思想を唱え、原理主義的な傾向を色濃くします。但し、会沢正志斎は晩年に開国論を前提とする富国強兵論に転じており現実主義的な路線に軌道修正を試みています。)(参255、256)を築くと共に、その後の日本の歴史観(1つの王朝(万世一系天皇)によって途切れることなく受け継がれてきた日本の国の治め方を含む歴史的な伝統を尊ぶ考え方)に大きな影響を与えます。この途切れることなく受け継がれてきた日本の歴史的な伝統を守ることが日本人の精神的な支柱となり日本の歴史を形成してきました。

1730年(享保15年) 打越(宗三)世衡 静岡県佐賀県

【本家ⅩⅣ】

1730年(享保15年)頃、岡崎藩主・水野忠輝の代に岡崎藩藩医(外科)として打越(宗三)世衡が仕官します(参250)。1762年(宝暦12年)、水野氏は三河国岡崎藩から肥前国唐津藩へ国替えを命じられており、これに伴って打越(宗三)世衡も肥前国唐津藩へ移ります。1771年(明和8年)に死亡。

1735年(享保20年) 打越助右衛門 和歌山県和歌山市

【本家Ⅱ】

奥熊野2郷村の薬園へ移植した朝鮮人参の栽培状況について郡奉行から郡奉行代官に報告するように指示があり、奥熊野代官所三重県熊野市木本町)・打越助右衛門から報告があった旨が和田興三右衛門から美濃部善一及び茂野八郎兵衛宛の書簡に記されています。(参161)

1742年(寛保2年) 打越(左大夫)光輪 栃木県小山市鹿沼市

【本家Ⅰ】

打越光高は松波筑後守正春(戦国大名斎藤道三の末裔)の五男を娘の婿養子として迎えて家督を相続させます。1742年(寛保2年)、徳川吉宗に拝謁し、御書院番(将軍直属の親衛隊)に就任します。1756年(宝暦6年)11月6日没。打越光輪は、それまで「打越」が「うてつ」「うていち」「うてえち」「うてゑつ」「うてぢ」「うちごえ」「うちごし」「おっこし」など様々な読み方で統一されていなかったので、これを「うちこし」に統一します(注13-2、34)。なお、その娘が小笠原(大隅守)義武に嫁いでいます。

1755年(宝暦5年) 打越八右衛門 鹿児島県

【分家Ⅻ】

禰寝(根占)氏の当主・禰寝(根占)清雄が農業の方法を定めた「農業方之条書」を基にして、薩摩藩郡奉行・汾陽(四郎兵衛)盛常が編纂した「農業法」を薩摩国吉利郷役所(奉行所)が紛失し、1755年(宝暦5年)に有馬源五右衛門が所持していた写本を書き写して打越八右衛門及び禰寝越右衛門が連署したものが残されています。(参162)

1756年(宝暦6年) 打越(治右衛門)光中(仲) 栃木県小山市鹿沼市

【本家Ⅰ】

打越光輪は朝比奈泰輝(武田氏旧臣で、武田氏滅亡後に徳川氏に臣従)の次男を娘の婿養子として迎えます。1756年(宝暦6年)に家督を相続し、小普請組組頭(お目見以下の旗本・御家人の管理等)に就任します。1798年(寛政10年)7月23日没。

拝領屋敷:市ヶ谷新本村四丁目(現在の防衛省正門前近辺)(参98)。

【東京都千代田区市ヶ谷新本村四丁目(1756年~)】

f:id:bravi:20180609091200j:plain

1757年(宝暦7年) 打越十左衛門 和歌山県和歌山市

【本家Ⅱ】

紀州藩士・打越伊左衛門の嫡子。1757年(宝暦7年)没。(参47)

1764年(明和元年) 打越熊次郎 奈良県

【分家Ⅴ】

大和郡山藩の御長槍頭、支配方御槍奉行を歴任します(明和分限帳より)。嫡子:打越熊之助(家督分限帳より)。

1773年(安永2年) 打越力蔵 奈良県

【分家Ⅴ】

大和郡山藩の御近習組、御納戸役を歴任します(安永2年席帳より)。本紋:三階菱(安永3年定紋覚より)。

?年 打越直道 茨城県

【本家Ⅱ】

打越直正の子。打越直道(幼名:介七を改め弥八)は、徳川宗堯(成公)、徳川宗翰(良公)、徳川治保(文公)の3代に仕え、御留守居役同心頭を務めます(参160)。1775年(安永4年)5月15日没(享年60歳)。徳川光圀水戸藩士のために作った酒門共有墓地にある打越直正の墓の横に打越直道の墓が並び建っています。

1784年(天明4年) 打越(治右衛門)光広 栃木県小山市鹿沼市

【本家Ⅰ】

1781年(天明元年)、小普請組組頭(お目見以下の旗本・御家人の管理等)に就任。1784年(天明4年)に徳川家治に拝謁し、1786年(天明7年)に家督を相続。拝領屋敷:市ヶ谷新本村四丁目(防衛省正門前)(参98)。

【東京都千代田区市ヶ谷新本村四丁目(1756年~)】

f:id:bravi:20180609091200j:plain

?年 打越光之 栃木県小山市鹿沼市

【本家Ⅰ】

記録なし(1798年(寛政10年)以降、江戸幕府は大名や旗本(御目見以上)の家系図を作成していません。)

?年 打越金之助 栃木県小山市鹿沼市

【本家Ⅰ】

書院番(将軍直属の親衛隊)に就任します(参98)。

拝領屋敷:(1792年~)東京都千代田区三番町3-9番町千鳥ヶ淵アビダシオン(参131)

【東京都千代田区三番町(1792年~)】

f:id:bravi:20181013090418j:plain

☞ 1798年(寛政10年)以降は現存する古文書に記録されている限りで家譜を辿るしかありません。打越光広から打越金之助が家督を継いだという記録がありますが(参164)、これが打越光之と同一人物なのか不明です。

1796年(寛政8年) 打越金次郎 栃木県小山市鹿沼市

【本家Ⅰ】

留守居番(大奥等の警備)に就任します。1796年(寛政8年)から1811年(文化8年)まで大久保四丁町小屋敷辺(東京都新宿区余丁町12周辺)の御留守居番組屋敷に居住しています(参165)。

【東京都新宿区余丁町(1796年~)】

f:id:bravi:20201108153527j:plain

 

出世稲荷神社(東京都新宿区余丁町)】

f:id:bravi:20201108153448j:plain

1806年(文化3年) 打越橘右衛門 奈良県大和郡山市

【分家Ⅴ】

大和郡山藩の御広式御用役に就任(享保分限帳より)。

江戸後期(文化年間) 打越(一乗斎)弘寿 茨城県水戸市~東京都千代田区神田

【本家Ⅱ】

別名:打越円蔵。水戸金工打越派の祖で古今彫四十四名工の一人に数えられ、江戸金工番付でも前頭に列せられる名工です。水戸生まれで、江戸神田に移り住み、玉川承寿の弟子・玉川吉長に師事しますが、精緻な彫刻表現を得意とし、その作品は根津美術館等に所蔵されるなど現代でも美術品として高く評価されています。水戸金工は慶長年間に佐竹氏が京都から彫工を招致したことに始まり、江戸時代後期に隆盛を迎えますが、打越派は玉川派、泰山派、一柳派、萩谷派と並んで一大派閥を形成し、水戸金工・打越派として弘義、弘親、弘信、弘直、弘泰などの有能な門人を多数輩出します。(参166、167)。

 

☞ 1889年(明治22年)、岡倉天心東京美術学校(現、東京藝術大学)を開校するにあたり、金工や漆工など美術工芸を絵画や彫刻と同等に新しい造形を生み出す芸術として捉え、水戸金工の流れを汲む海野勝珉を招聘して美術工芸科を設置し、それがこのWEBの冒頭に掲載している楠木正成公像の制作にも活かされています。

1816年(文化13年) 打越千之丞 秋田県横山市

【本家Ⅲ】

打越千之丞が秋田県横山市上境に禄高29石5斗9升7号の知行地(文化13年久保田藩分限帳より)を与えられます。

【文化13年久保田藩分限帳】

f:id:bravi:20181020154548j:plain

1820年(文政3年) 打越孫治郎、打越民部少輔 秋田県横山市

【分家Ⅰ】

江戸時代の国学者菅江真澄は、1811年から1829年(没)まで久保田藩に身を寄せ、佐竹義和から久保田藩の地誌を作成するように依頼されます。菅江真澄は、楠木正家が籠城した金沢柵跡の近く出羽国雄勝郡松岡郷打越村(現、秋田県湯沢市)を訪れ、出羽国平鹿郡や由利郡で行われた合戦の軍記物に打越式部太夫、打越孫四郎の名前が見られ、その子孫が住んでいると記しています。また、現在、打越孫治郎及び内越民部少輔が住んでいるそうだが、詳しい住所は分からないとも記しています(参39)。武家は土地の領有権を主張するためにその地名(田の)を名字にしましたが、その逆の例(屋号のように武家の名字から地名がつけられた例)の1つと思われます。なお、式部太夫や民部大輔等の官職名は打越氏(分家Ⅰ)で代々自称し、世襲されていたものであり(本家Ⅰでは見られない官職名)、また、佐竹氏に仕官する打越氏(分家Ⅲ)の知行地とも異なっていますので(但し、後掲の打越平角の知行地である秋田県横手市上境とは隣接地)、打越氏(分家Ⅰ)の系流であると考えられます。

1824年(文政7年) 打越平右衛門 新潟県佐渡市

【分家Ⅵ?】

1824年(文政7年)6月28日に宝生流能楽師・本間左京由春へ打越平右衛門が入門しています(本間左京由春入門姓名綴/参168)。本間左京由春は佐渡の地頭職であった本間秀高(上杉謙信により滅亡)の後裔です。佐渡世阿弥が晩年に配流されてから能楽が盛んとなり、その中でも本間左京由春は「最堪能と称せらる」(参169)ほどの名人で、佐渡宝生流の隆盛を極めた人物です。なお、江戸時代に佐渡は幕府領になっていますが、佐渡の鉱山奉行を務めた大久保長安の祖父は金春流能楽師、その父・大久保信安は大蔵流狂言を創始しており、佐渡能楽との所縁が深い土地柄です。

1825年(文政8年) 打越権右衛門 東京都

【本家Ⅰ?】

妙典寺(東京都大田区蒲田2-3-10)の44世住職(妙好院日進上人)で、1825年(文政8年)に示寂しています(参170)。

1832年(天保3年) 打越団蔵 和歌山県和歌山市

【本家Ⅱ】

紀州藩士・打越十左衛門の嫡子。1832年(天保3年)没。(参47)

1848年(嘉永元年) 打越彦十郎 茨城県

【本家Ⅱ】

水戸藩町同心。1844年(弘化元年)、徳川斉昭(烈公)は藩政改革に反対する水戸藩保守派の工作により幕府から謹慎蟄居及びその子・徳川慶篤(順公)への家督相続を命じられます。これを受けて水戸藩改革派が徳川斉昭復権に向けた活動を活発化されるなか、徳川斉昭が家臣に宛てた密書が盗難される事件が発生し、打越彦十郎らが盗品の密書を取り戻して難を逃れ、1849年(嘉永2年)に徳川斉昭復権を果たします(参171)。

1850年(嘉永3年) 打越左大夫 栃木県小山市鹿沼市

【本家Ⅰ】

打越金之助は小笠原大隅守(江戸幕府のフランス式陸軍精鋭部隊・伝習隊頭取)の孫を娘の婿養子として迎え、1843年(天保4年)に家督を相続させます。1850年(嘉永3年)12月23日付で御書院番(将軍直属の親衛隊)に就任します(参177)。なお、この年は江戸湾浦賀沖に黒船が来航しています。

拝領屋敷:東京都新宿区若葉1-13-32西念寺徳川家康の家臣で伊賀忍者の頭領・服部(半蔵)正成が開基、服部(半蔵)正成の墓所)の前(490坪余)(参131、164)

【東京都新宿区若葉1丁目(1843年~)】

f:id:bravi:20181013104104j:plain

【服部(半蔵)正成の墓】

f:id:bravi:20181013104031j:plain

日本(天皇武家)vs外国の「日本の土地の支配権」を巡る争い
1853年(嘉永6年)黒船来航
1855年(安政2年) 打越(十左衛門)繁門 和歌山県和歌山市

【本家Ⅱ】

紀州藩士・打越団蔵の嫡子。1855年(安政2年)没。打越団蔵の次男及びその子は和歌山県田辺市の千光寺へ出家します(参47)。

1855年(安政2年) 打越儀右衛門 奈良県大和郡山市

【分家Ⅴ】

大和郡山藩の御用達並となります(御分限帳上より)。

1861年(万延2年) 打越角左衛門 北海道増毛町

【分家Ⅲ】

黒船来航を契機として秋田藩佐竹氏は蝦夷地の海岸警備を命じられ、1859年(安政6年)に秋田藩佐竹氏の家臣で徒目付の日野喜右衛門と共に秋田藩の陣屋がある増毛に着任します。それに先立つ、1856年(安政3年)には厳しい寒さとビタミン不足による病気等から秋田藩士76名が死亡していますが(松浦記(安政6年)より)、そのような厳しい環境のなか1861年(万延2年)4月12日に打越角左衛門も死亡し、暑寒沢に墓があると言われています(参172)。

1863年(文久3年) 打越専三郎 茨城県

【本家Ⅱ】

水戸藩士。詳細は不明ですが、尊王攘夷の立場から時代を痛烈に風刺する私日記を残しています(第3部第2巻を参照)。

1864年(元治元年) 打越(佐次郎)正只 茨城県

【本家Ⅱ】

水戸藩目付方同心。水戸藩主・徳川慶篤(順公)の名代として宍戸藩主(水戸藩支藩)・松平頼徳が水戸藩の内乱(天狗党(改革激派)と諸生党(保守派)の争い)を鎮圧するために率いた軍勢(大発勢(改革慎派))に参陣します。1864年(元治元年)9月9日、常陸国久慈郡島村における幕府軍との戦闘で戦死し(享年43歳)、明治政府により明治維新の功労者として靖国神社へ合祀されます(参173、174)。

☞ 大発勢には徳川斉昭(烈公)が唱えた尊王攘夷思想の影響を受けた尊王攘夷派が数多く参加しますが、江戸幕府戊午の密勅の返納に反対する天狗党(改革激派)の討伐を決定すると、大発勢(改革慎派)は天狗党(改革激派)と共に諸生党及び幕府軍と戦い(元治甲子之変)、その後の明治維新への流れを作ります。この報に接した大久保利通は「実に聞くに堪えざる次第なり、是を以って幕府滅亡のしるしと察せられ候」と述べていますが、彰考館総裁・打越直正らが礎を築いた水戸学の思想(前期水戸学は徳川光圀が中心となって尊王思想を唱えますが、後期水戸学は徳川斉昭が中心となって尊王思想に加えて攘夷思想を唱え、原理主義的な傾向を色濃くします。但し、会沢正志斎は晩年に開国論を前提とする富国強兵論に転じており現実主義的な路線への軌道修正を試みています。)(参255、256)は吉田松陰西郷隆盛ら幕末勤王の志士達に多大な影響を与えて明治維新の原動力となります。

1864年(元治元年) 打越貞助 茨城県

【本家Ⅱ】

打越貞助(定介)水戸藩主・徳川慶篤(順公)の名代として水戸藩の内乱(天狗党(改革激派)と諸生党(保守派)の争い)を鎮圧するために水戸藩支藩である宍戸藩主・松平頼徳が率いる軍勢(大発勢(改革慎派))に参陣し、神勢館(茨城県水戸市若宮2-6-17)に入ります(参175)。その後、徳川慶篤は弟・将軍徳川慶喜の説得により幕府に恭順の意を示したことから大発勢(改革慎派)も幕府に投降し、佐倉藩堀田氏の佐原陣屋にお預けとなります。その後、約200名が放免されており、このとき打越貞助も放免された可能性があります。

☞ 水戸藩主に付されている諡号(〇公)は、各藩主の特色(例えば、徳川斉昭は将軍継嗣問題や日米通商条約の締結等を巡って幕府と激しく対立したので「烈公」、徳川慶篤は幕府に恭順の態度を示したので「順公」等)を表しています。因みに、徳川斉昭偕楽園(晋の武帝が学問に親しむと梅の花が開き、学問をやめると梅の花が開かなかったという中国の故事に肖って保存食にも優れている梅を植樹し、庶民の皆と一緒に楽しむという意味で偕楽園と名付けて庶民にも園を開放しました。)や藩校弘道館を設置して時代の変革期に必要とされる人材育成に注力すると共に、幕末期に西洋列強に先駆けて近代式戦車潜水艦を設計又は製造し、また、世界初の近代式エレベータ好文亭)を開発するなど時代の変革期に求められる規格外の人物であったので「賢公」とも名付けられています。

1865年(慶応元年) 打越平角
打越安之助
秋田県横手市

【分家Ⅲ】

秋田藩士・打越平角は秋田県横手市上境に29石5斗9升7号の知行を与えられ、その嫡子・打越安之助は扶持局住に任ぜられます(慶応元年秋田藩分限帳より)。なお、局住とは、藩士の嫡子・嫡孫で家督を継ぐべき者が御番入して奉公し、そこから御小姓に抜擢されると局住扶持を受けます(秋田藩職官略纂 編制及び勤務/参176)。

☞ 外様大名の家臣なので禄高は高くありませんが、幕末まで佐竹氏の家臣(直臣)として仕えています(打越千之丞と打越平角の禄高が一緒なので、少なくとも打越千之丞の代から楠木正家が守備した金沢柵の近く秋田県横手市上境に知行地を与えられていものと考えられます)。

【慶応元年秋田藩分限帳】

f:id:bravi:20181020154505j:plain

【慶応元年秋田藩分限帳】

f:id:bravi:20210521075426j:plain

【慶応元年秋田藩分限帳】

f:id:bravi:20181020154529j:plain

1866年(慶応2年) 打越丈蔵 奈良県大和郡山市

【分家Ⅴ】

大和郡山藩の御使番。明治7年に打越丈蔵の子・打越初から家禄返還と資本金下賜願が出されています。

拝領屋敷:奈良県大和郡山市小川町郡山城之城下町絵図/注41)。

奈良県大和郡山市小川町】

f:id:bravi:20180716092251j:plain

1866年(慶応2年) 打越織次郎 奈良県大和郡山市

【分家Ⅴ】

大和郡山藩の御近習取次役。明治7年に打越織次郎から家禄返還と資本金下賜願が出されています。

拝領屋敷:奈良県大和郡山市植槻町郡山城之城下町絵図/注41)。

奈良県大和郡山市植槻町】

f:id:bravi:20180716092412j:plain

1868年(慶応4年) 打越左大夫 栃木県小山市鹿沼市

【本家Ⅰ】

留守居番(大奥の警護等)に就任します(江戸城多聞櫓文書書付より)。なお、この年は江戸無血開城が行われています。また、この頃、打越氏(本家Ⅰ)の知行地である口粟野村では近隣で発生した打ち毀しが波及し、打越氏(本家Ⅰ)の用人格代官・横尾氏等が襲われています(参227)。

☞ 先述の打越左大夫と同一人物かは不明です。1864年(元治元年)に打越長三郎に家督が承継され、打越氏(本家Ⅰ)の菩提寺・長泉寺(東京都文京区本郷)に墓があります。

☞ 森鴎外の小説「伊沢欄軒」では、主人公の伊沢欄軒(御殿医)が長泉寺を度々訪れ、その友人として打越古琴という人物が登場しますが、森鴎外がこの打越氏(本家Ⅰ)の墓を取材していた可能性があります。

【長泉寺にある打越氏(本家Ⅰ)の墓】

f:id:bravi:20180316191204j:plain

1869年(明治2年) 打越(安左衛門)繁高 愛媛県西条市和歌山県和歌山市

【本家Ⅱ】

打越(十左衛門)繁門の嫡子。打越安左衛門は紀州藩支藩である西条藩伊予国)の御付人(準士)として仕え、1862年(明治2年)に紀州藩へ帰任します。(西条御付人御戻しの項/参62)。

1871年(明治4年) 打越城右衛門 青森県

【本家Ⅳ】

陸奥国中津軽郡相馬村(現、青森県弘前市相馬地区)の郡奉行となります(参178)。

1871年(明治4年) 打越新六 青森県

【分家Ⅳ】

廃藩置県の直前に、弘前藩士・打越新六が弘前藩に由緒書を提出しています(由緒書第10(TK288-22)/参150)。

天皇武家へ「土地の分配権」(政権)が移行
1867年(慶応3年)幕府から天皇へ政権を返上(王政復古)
1871年(明治4年)廃藩置県で幕府から分配された土地を天皇へ返上
1873年(明治6年)地租改正により私人による土地所有権が確立
?年

曾祖父

祖父

茨城県~鹿児島

【分家Ⅱ】

水戸藩を脱藩して薩摩へ移住(家伝)。薩摩で姻戚関係を結んだ家は薩摩藩島津氏の家臣で鉄山師として種子島で鉄砲製造を指導した氏族です(参180)(注42)。なお、元治甲子之変で天狗党(改革激派)に与することになった大発勢(改革慎派)に参加していた打越佐次郎が戦死し(靖国神社に合祀)、打越貞助が捕らえられますが、その後、明治維新までは諸生党(保守派)が水戸藩の実権を握ることになり、赤ん坊を含む一家全員が処刑されるなど水戸藩の改革派(改革慎派を含む)に対する粛清が凄惨を極めています(参224)。

☞ 1870年(明治3年)に戸籍法が施行されて「名字」及び「名前」を戸籍に登録することになります。武士は「仮名」(通称)や「諱」など複数の名前を持っていましたが、そのうち好きなものを1つ選んで名前を登録することになりす。この点、「個人」ではなく「家」が重んじられていた時代には、その者の身分を表すために「名字」で家を、「仮名」(通称)で家中の序列を記すのが通例であり、また、一般に「諱」(=忌み名)は親しい間柄だけに許される呼び名で、他人から「諱」で呼ばれることは無礼なこととして忌み嫌われていましたので(古文書等でも「名字」及び「仮名」(通称)のみを記して「諱」を記さないのが通例)、その名残で戸籍にも「名字」及び「仮名」(通称)が登録される例が多かったと言われています。小職の系流の閉鎖戸籍謄本(原戸籍)を見ても、やはり「諱」ではなく「仮名」(打越源次郎、打越仲次郎など)が登録されています。因みに、現代では家制度が形骸化し、個人を識別するための「諱」のみが使用されています。

日本(天皇・国民)vs外国の「外国の土地の支配権」を巡る争い
1894年(明治24年)日清戦争
1904年(明治37年)日露戦争
1914年(大正3年)第一次世界大戦
1937年(昭和12年)日中戦争
1941年(昭和16年)第二次世界大戦
2000年(平成12年) 叔父 鹿児島~埼玉県

【分家Ⅱ】

会社を経営していた叔父は日本経済の発展に尽力した功績を讃えられ、平成12年4月に叙勲の栄誉に預かります(「叙勲に輝く人々東日本編」に掲載)。

☞ 叔父が叙勲された黄綬褒章は「業務に精励し衆民の模範となるべき者」(「日本の勲章」より)に与えられるもので、文化勲章と同じく単一級で等級はありません。

f:id:bravi:20180611090720j:plain

2018年(平成30年) 小職 関八州

【分家Ⅱ】

趣味・道楽に溺れ、家名を汚す。及ばずとも、心掛けたいものですが、なかなか侭ならないのが人生でもあります。 

 

(注45)打越氏(内越氏)の通字、通名、官位

 武家は、名前を付けるにあたって、その家に代々に亘って受け継がれている「通字」(代々受け継がれる諱に使用される漢字)、「通名」(代々受け継がれる仮名に使用される通称)や「官位」(領地支配の権威的な裏付けとして、代々受け継がれる武家が任官又は自称(僭称)する官職又は位階)を使用する例が多く、これらを手掛りとしてどの係流に属しているのかを推測することも可能です。なお、武家家督争いを避けるために家督承継順位の低い男子には「通字」を含まない諱とすることで家督承継権がないことを示す例があります。例えば、武田信玄は四男の武田勝頼に「信」の通字を与えておらず、その孫の武田信勝に「信」の通字を与えて家督を承継させています。 

打越氏(内越氏)の主な使用例 主な使用家
通字 「光」 分家Ⅰ、分家Ⅱ
「正」「勝」 分家Ⅰ、分家Ⅱ  
通名 「治右衛門」「左大夫」 本家Ⅰ  
「〇左衛門」「〇次郎」
「〇右衛門」「〇兵衛」
本家Ⅰ、本家Ⅱ、分家Ⅰ、分家Ⅱ
「〇蔵」 分家Ⅱ、分家Ⅴ、本家Ⅱ、本家Ⅲ  
官位 「宮内少輔」 本家Ⅰ
「左近将監」 分家Ⅰ、分家Ⅱ  

 

(注46)打越瀬左衛門の2人の息子の事績

 打越(樸齋)直正の事績の影に隠れ、打越(瀬左衛門)政徳の実子で長男・打越(七郎次)直(彰考館史館編集)及び次男・打越(円次郎)政孝(彰考館史館物書(書記役))の事績が取り沙汰されることはありませんが、水戸史館雑事記(元禄11年~宝永5年)に若干の記録(主に褒美=臨時手当の記録)が残されていますので、以下に原文を引用します(参181)。

 

【1699年(元禄12年)】

 〇正月廿四日

  佐野助十郎、打越七郎次、中沢平次郎、伊藤兵七、竹田伊平多太、森田左源太

  右六人史館書写御用ニ御雇被遊候由今日被 仰出候二月三日より右之面々致出勤候

 〇五月十七日

  佐野助十郎、打越七郎次、森田左源太、中沢平次郎、伊藤兵七、竹田伊平多太

  右六人史館書写御御用相務申候付為御褒美晒壱疋ツ丶被下置候由今日御城へ被為召被仰渡候

  但介十七郎次源太平次郎は御老中被仰渡兵七へは奉行衆伊平太へは御用人衆被仰渡候惣裁大井彦介列座に罷出候

 〇九月二日

  中絹壱疋ツ丶御褒美被下

  佐野助十郎、打越七郎次、中沢平次郎、森田左源太、竹田伊平多太

 〇十二月十六日

  金壱両壱分ツ丶為御褒美被下

  佐野助十郎、打越七郎次、中沢平次郎、竹田伊平多太、森田左源太

 

【1700年(元禄13年)】

 〇四月三日

  打越円次郎

  右は当遡日江戸史館物書被仰付候由江戸より申来

 〇五月廿一日

  晒壱疋ツ丶為御褒美被下置候旨御老中被 仰渡此節安積覚兵衛出座

  打越七郎次、中沢平次郎、竹田伊平多太、森田左源太、服部次郎四郎、前野八郎次

 〇十二月遡日

  中沢平二郎、前野八郎次、打越七郎次、竹田伊平多太、森田左源太、川又所衛門

  絹壱疋ツ丶被下置候旨於御城御老中被仰渡候此節出座大井彦介

 〇十二月十五日

  五百疋ツ丶

  前野八郎次、打越七郎次、竹田伊平多太、森田左源太、川又所衛門、中沢平二郎

  右六人史館書写御やとい相務申候付為御褒美前書之通被下置候旨於御城御老中被仰渡候(中略)列座大井彦介也

 

(注47)打越氏と世界大戦の記録
 NHK特集「歴史への招待-兵士たちの日露戦争-」(1978年11月16日NHK総合テレビ)において海軍一等機関兵・打越信太郎氏が著した「従軍之友撲の日記」(「勝田市史 近代・現代編」より)が紹介されています。また、ジャーナリスト・打越(旧姓・田中)和子氏が「靖國のこえに耳を澄ませて 戦歿学徒十七人の肖像」を出版されています。

 

トップに戻る