打越氏(内越氏)は、清和天皇及び物部氏族熊野国造系和田氏を源流とし、南北朝の動乱を契機として、河内(甲斐)源氏流小笠原氏(本姓源氏)と楠木正成の弟又は従弟・楠木正家(本姓橘氏)とが姻戚関係を結んで発祥した氏族であり、戦国時代、小田原征伐、関ケ原の戦いなどを契機として出羽国由利郡で勢力を伸ばし、1系統17流(本家3流、分家14流)の系流に分かれながら日本全国へ進出して行った同祖同根の氏族です。現代に残る限られた古文書等から、その歴史的な事跡を明らかにします。

第2部第2巻 打越(内越)氏の合戦(第2段)

第2段 打越氏(本家Ⅰ・分家Ⅰ)の合戦

元弘の乱

 1331年(元弘元年)6月、後醍醐天皇鎌倉幕府に倒幕計画が発覚したことを契機として、山城国笠置山で挙兵し、これに呼応して後醍醐天皇の皇子・護良親王大和国吉野山楠木正成河内国の下赤坂城で挙兵します。しかし、同年9月に笠置山及び吉野山が相次いで陥落すると、同年10月に楠木正成は下赤坂城に火を掛けて伊賀へ落ち延びます。1332年(元弘2年)、首謀者として捕えられていた日野俊基は鎌倉に移送されて化粧坂上の葛原ケ岡で斬首され、後醍醐天皇隠岐へ配流となります。

 1332年(元弘2年)、再び、楠木正成河内国千早城で挙兵し、長期間に亘って鎌倉幕府軍と籠城戦を展開します。1333年(元弘3年)1月、赤松円心播磨国で挙兵し、同年2月、後醍醐天皇名和長年の働きで隠岐を脱出して伯耆国の船上山で討幕の綸旨を発して再挙します。同年5月、鎌倉幕府に反旗を翻した足利高氏六波羅探題を攻め落とし、京都を制圧します。また、同年5月8日、新田義貞上野国生品神社で挙兵し、鎌倉幕府に不満を抱く東国の御家人を味方につけますが、小笠原貞宗新田義貞に加勢したことから、これに於曾貞光及び於曾時高(打越氏(内越氏)の祖)も従ったものと思われます。同年5月11日、新田義貞入間川を渡って小手指原に達したところで鎌倉幕府軍と遭遇戦に突入し、その勢いに押された鎌倉幕府軍は態勢を立て直すために久米川まで撤退します。同年5月12日、新田義貞が久米川に布陣する鎌倉幕府軍に奇襲を仕掛けて撃破し、鎌倉幕府軍は分倍河原まで撤退します。同年5月15~16日、鎌倉幕府軍は援軍を得て巻き返しを図りますが、新田義貞は忍者を使って更に援軍が来るという嘘の噂を流して鎌倉幕府軍を油断させたうえで、再び、奇襲を仕掛けて鎌倉幕府軍を破ります。その後、新田軍は鎌倉街道沿いを南進し、極楽寺坂、巨福呂坂化粧坂の三方面から鎌倉を攻撃しますが、膠着状態に陥ります。そこで、新田義貞は干潮を利用して稲村ヶ崎から鎌倉へ突入し、同年5月22日、北条高時は北条氏の菩提寺東慶寺切腹して鎌倉幕府は終焉を迎えます。同年6月、楠木正成及び赤松円心らが隠岐から還御する途中の後醍醐天皇摂津国の福厳寺で出迎えます。

f:id:bravi:20210521101327j:plain 【名称】生品神社
【住所】群馬県太田市新田市野井町645
【備考】新田義貞が挙兵した場所で、境内には新田義貞が軍旗を掲げた櫟の切り株、旗挙塚や床机塚が祀られています。
f:id:bravi:20200929083333j:plain 【名称】小手指ヶ原古戦場碑
【住所】埼玉県所沢市北野2-12
【備考】この近隣には新田義貞が源氏旗を掲げた白幡塚、新田軍が集合した勢揃橋や、鎌倉幕府の討幕を誓った誓詞橋が残されています。
f:id:bravi:20200929083642j:plain 【名称】久米川古戦場跡記念碑
【住所】東京都東村山市諏訪町2-20-1
【備考】新田義貞は背後に見える山(将軍塚)に本陣を構えます。なお、久米川は1335年(建武2年)の中先代の乱でも戦場になっています。
f:id:bravi:20200929083836j:plain 【名称】分倍河原古戦場碑
【住所】東京都府中市分梅町2丁目36−5
【備考】三浦義勝など相模国の豪族が加って、新田軍は約20万の大軍勢に膨らんだといわれています。
f:id:bravi:20200929083150j:plain 【名称】新田義貞銅像
【住所】東京都府中市片町3丁目26−29
【備考】京王線分倍河原駅前には新田義貞公の銅像が建立されており、その事績が顕彰されています。
f:id:bravi:20200127074255j:plain 【名称】化粧坂切通し(鎌倉)
【住所】神奈川県鎌倉市扇ガ谷4-14-7
【備考】新田義貞は鎌倉攻めで化粧坂切通しを攻撃しますが、5月18日から4日間経っても突破できなかったと言われています。
f:id:bravi:20200929083452j:plain 【名称】稲村ケ崎(川崎)
【住所】神奈川県鎌倉市稲村ガ崎1-16-13
【備考】新田義貞化粧坂切通しの攻撃を断念し、干潮を利用して稲村ケ崎の海岸線から鎌倉へ侵攻しています。
f:id:bravi:20200925192316j:plain 【名称】北条高時腹切りやぐら
【住所】神奈川県鎌倉市小町3丁目11−38
【備考】北条高時鎌倉幕府軍約800名は、北条得宗家の氏寺・東勝寺に立て籠り、自害したと言われています。

 

②延元の乱

 1335年(建武2年)、足利尊氏は、北条時行鎌倉幕府の再興を企図して起こした中先代の乱を鎮圧しますが(この際、足利直義は、鎌倉に幽閉されている後醍醐天皇の第三皇子・護良親王(大塔宮、鎌倉宮)を北条時行が担ぎ出すことを恐れ、淵野辺城主・淵辺義博に命じて護良親王を斬首します。)、建武の新政に不満を抱いていたことから後醍醐天皇の帰京命令を拒んで鎌倉に留ります。そこで、後醍醐天皇は、足利尊氏の討伐を新田義貞に命じ、矢作川の戦い(三河)、手越河原の戦い駿河)と足利直義らに連勝しますが、同年12月、足利尊氏が参加した箱根・竹之下の戦いでは、新田義貞が箱根峠で足利直義に圧勝したものの、その弟・脇屋義助が味方の裏切りにより足柄峠の麓にある竹之下で足利尊氏に敗れます。新田義貞は、足利尊氏に背後へ回り込まれ、足利直義と挟撃されることを恐れて伊豆三島まで退却したことで劣勢となり、1336年(建武3年)1月、足利尊氏は一気に京へ進軍して京を包囲します。これに対し、1335年(建武2年)年12月、鎮守府将軍北畠顕家は、足利尊氏を討伐するために奥州勢を従えて京へ進発し、北畠顕家からの出陣要請を受けた小笠原(大井)行光(打越氏(内越氏)の祖先)は出羽国由利郡へ派遣していた地頭代・小笠原(大井)氏の庶流を参陣させたものと思われます(参9)。1336年(建武3年)1月2日、北畠顕家は、鎌倉で足利義詮及び桃井直常らを破り、同年1月6日に遠江、同年1月12日に近江へ進軍(注48-1)。同年1月13日には近江坂本で新田義貞及び楠木正成の軍勢と合流すると、園城寺の戦いで細川定禅、関山の戦いで高師直を破り、三条河原の合戦で京を包囲する足利尊氏を一掃します。同年2月11日、足利尊氏が態勢を立て直した豊島河原の戦いでは膠着状態に陥りますが、楠木正成が西宮から足利尊氏の背後を衝いた打出浜の戦いで足利尊氏は敗れます。その後、新田義貞足利尊氏を追撃しますが、赤松円心が立て籠もる白旗城の戦いで膠着状態に陥っている間に、足利尊氏は九州へと落ち延びます。

 1336年(建武3年)年3月、南朝勢力・菊池武敏らが北朝勢力・少弐貞経が守備する大宰府を責め落としますが、その後、足利尊氏多々良浜の戦い建武の新政に不満を持つ複数の武家を調略して菊池武敏らを破ると勢力を盛り返します。1336年(建武3年)5月、足利尊氏は、西国勢(水軍を含む)を従えて鞆の浦へ上陸し、光厳上皇より新田義貞追討の院宣を受けると、足利尊氏は海路を、足利直義は陸路を進軍します。同年5月13日、この報に接した新田義貞は白旗城から撤退し、同年5月24日、湊川(昔の湊川の流域は神戸電鉄湊川駅の辺り)を背にして新田義貞和田岬兵庫区和田宮通6丁目周辺)、脇屋義助は経島(兵庫区本町1丁目周辺)、大館氏明は灯炉堂の南岸(兵庫区高松町1丁目周辺)、楠木正成は絵下山(兵庫区会下山町3丁目周辺)に布陣します。同年5月25日、少弐頼尚新田義貞を攻撃しますが、新田義貞は海路を生田方面へ進軍する細川定善に背後から挟み撃ちされないように生田方面へ軍勢を移動したことで、足利尊氏和田岬に上陸することに成功し、これによって新田軍と楠木軍は分断されます。楠木正成は、足利軍に包囲されて孤立すると、楠木軍(約700人)は足利直義の軍勢(約1万人)に対して約6時間に亘り突撃を繰り返し足利直義の軍勢を約4kmも押し戻して須磨まで退却させる奮戦をみせますが、衆寡敵せず、湊川の民家(現、湊川神社)で自刃します。一方、新田義貞は、生田の森(現、生田神社)で態勢を立て直して足利尊氏及び足利直義と決戦に及びますが劣勢を挽回できず、丹波路から京へ撤退します。足利尊氏湊川の戦い楠木正成新田義貞を破って京を占領すると、後醍醐天皇比叡山へと遁れ、名和長年や於曾貞光(打越氏(内越氏)の祖先)は内野の合戦(京の一条院跡付近)で討死します(打越氏御先祖様代代覚書控/参11、参253)。その後、足利尊氏は東寺に布陣し、足利直義比叡山を攻めさせますが、比叡山の中腹で千種忠顕が討死します。なお、湊川の戦いでは、南朝勢力・熊野水軍が田辺沖で北朝勢力の水軍と交戦しこれを撃破していますが、そのために播磨沖への到着が遅れたことが新田軍及び楠木軍の大きな敗因の1つになっています。

 1336年(建武3年)12月、京を制圧した足利尊氏は、東国の北朝勢力を支援するために常陸国へ大軍を派遣し、楠木正家が守備する瓜連城(常陸国久慈郡)を攻め落とします。楠木正家は、再起を図るために北畠顕家を頼って陸奥へ落ち延び(参21、208)、南朝勢力を支援するために出羽国へ移りますが、その後、小笠原(大井)氏や由利氏と姻戚関係を結んで打越氏(内越氏)が発祥します。同じ頃、後醍醐天皇比叡山から吉野山へ移りますが、1337年3月、北朝勢力に対抗するために越前国金ヶ崎城に籠城していた後醍醐天皇の皇子・恒良親王尊良親王及び新田義顕らと共に於曾時高(打越氏(内越氏)の祖先)が討死します(打越氏御先祖様代代覚書控/参11)(注12)。

 同年8月、東国の北朝勢力を掃討するために陸奥へ帰国していた北畠顕家は、多賀城(平城)から霊山城(山城)へ国府を移した後、後醍醐天皇北畠親房からの上洛要請に応じて南部師行、伊達行朝及び楠木正家ほか奥州勢を従えて京へ進発し、同年12月、杉本城(杉本寺)の戦いで斯波家長を破ると足利義詮らは安房へ撤退して鎌倉は陥落します。1338年(延元元年)1月2日に北畠顕家は鎌倉を出発し、同年1月16日に遠江、同年1月21日に尾張へ進軍します。その後、京を目指して東海道から美濃路を経由して東山道へ転進し、同年1月28日に青野原の戦い岐阜県大垣市青野町)で土岐頼遠を破ります。しかし、北畠顕家は自軍の損害が甚だしいことから京への進軍を断念し、一旦、北畠氏の本拠地である伊勢で態勢を整えてから再び上洛を目指します。その後、北畠顕家は、北朝勢力と一進一退の攻防を繰り広げますが、同年3月16日に阿倍野の戦いに敗れて戦局は膠着状態となり、同年5月22日に石津の戦いで敗れて北畠顕家、南部師行らが討死したことで(参253)、以後、南朝勢力は劣勢となります(注48-2)。

 

(注48-1)風林火山の軍旗を最初に使用した鎮守府将軍北畠顕家

 後醍醐天皇は、建武の新政にあたり日本各地に自らの皇子(親王)を派遣して各地の鎮撫平定に尽くします。1333年(元弘3年)、幼少の第7皇子・義良親王とその後見人である陸奥守・北畠顕家陸奥国へ下向させ、1334年、北畠顕家陸奥国の北条氏の反乱をほぼ鎮圧します。1336年(建武3年)、足利尊氏は謀反し、楠木正成らが守備する京都を包囲しますが、北畠顕家は奥州勢を従えて1日40kmの行軍(豊臣秀吉による中国大返しを上回る速さ)で京を包囲する足利軍を急襲し、足利尊氏は九州へと落延びます。このとき北畠顕家武田信玄よりも前に風林火山の軍旗を使用しています。

f:id:bravi:20210521130902j:plain 【名称】矢作神社(うなり石)
【住所】愛知県岡崎市矢作町宝玉庵1
【備考】新田義貞矢作川の戦いの戦勝を祈願して矢作神社を参詣した際、石がうなりだしたという伝説があります。
f:id:bravi:20210521130929j:plain 【名称】手越河原古戦場碑
【住所】静岡県静岡市駿河区みずほ5-9-15
【備考】新田義貞足利直義らと17回の激戦を繰り広げ、これを撃退し、佐々木道誉新田義貞に寝返ります。
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20200929084309j:plain 【名称】竹之下古戦場碑
【住所】静岡県小山町竹之下227
【備考】足柄峠に布陣した足利尊氏足柄峠の麓に布陣する脇屋義助を攻め、脇屋軍が味方の裏切りもあって総崩れになります。
f:id:bravi:20200929082746j:plain 【名称】足柄峠(足柄城跡)
【住所】静岡県小山町竹之下1462
【備考】足利尊氏が布陣した足柄峠(足柄城跡)から見下ろす、脇屋義助が布陣した麓の街と富士山。この戦いに勝利した足利尊氏は京を包囲します。
f:id:bravi:20200929083729j:plain 【名称】竹之下合戦供養塔(興雲寺)
【住所】静岡県小山町竹之下1171
【備考】脇屋義助が本陣を置いた興雲寺には、竹之下合戦の戦死者を弔うための供養塔が建立されています。
f:id:bravi:20200929082640j:plain 【名称】二条中将・藤原為冬の墓(白旗神社
【住所】静岡県小山町竹之下3222
【備考】脇屋軍は興雲寺から鮎沢川沿いを敗走。藤原為冬は尊良親王が落ち延びたことを確認した後、この場で討死します。
f:id:bravi:20200929083104j:plain 【名称】箱根峠
【住所】静岡県函南町桑原1364-50
【備考】新田義貞は箱根峠に布陣する足利直義に大勝しますが、脇屋軍の敗北により背後を足利尊氏に攻められることを恐れて伊豆三島まで撤退し、足利尊氏に京まで攻め込まれます。
f:id:bravi:20200922115126j:plain 【名称】豊島河原の戦い箕面川)
【住所】大阪府箕面市瀬川2丁目
【備考】京を包囲する足利尊氏を三条河原の合戦で破った北畠顕家新田義貞と共に豊島河原で足利尊氏と再び交戦し(右岸:北畠・新田軍、左岸:足利軍)、膠着状態となります。
f:id:bravi:20200922115151j:plain 【名称】大楠公戦跡(打出浜古戦場)
【住所】兵庫県芦屋市楠町14-23
【備考】楠木正成が足利軍の背後に回り込み、これを破ると、足利尊氏は九州へ落ち延びますが、その3ケ月後に西国勢を従えて再上洛します。
f:id:bravi:20210521131326j:plain 【名称】白旗城の戦い
【住所】兵庫県赤穂市上小郡町細野556
【備考】赤松則村は白旗城に籠城して新田軍を50日間も防ぎ止めています。「落ちない城」から合格祈願所になっています。
f:id:bravi:20210521131429j:plain 【名称】多々良浜の戦い
【住所】福岡県福岡市東区多の津1-20
【備考】足利尊氏は数百の兵で陣の越多々良浜を一望)に本陣を構えます。これに対し、菊池氏や阿蘇氏を中心とする南朝勢力は10倍の兵力でしたが、南朝勢力に裏切りが出たために北朝勢力に敗れます。
f:id:bravi:20210521131402j:plain 【名称】鞆城跡(鞆の浦
【住所】広島県福山市鞆町843
【備考】足利尊氏鞆の浦に上陸し、光厳上皇から新田義貞追討の院宣を受けます。時代は下り、京を追放された足利義昭は毛利氏を頼り鞆城に身を寄せますが、足利氏にとっては栄枯盛衰に係る因縁の場所です。なお、筝曲「春の海」宮城道雄が父親の郷里である鞆の浦を思って作曲したものです。
f:id:bravi:20210521131508j:plain 【名称】遠矢の碑(和田岬
【住所】兵庫県神戸市兵庫区和田宮通6-1-18
【備考】新田義貞和田岬に陣を敷くと、本間孫四郎重氏が足利尊氏率いる水軍に向かって遠矢を射た場所です。
f:id:bravi:20170505094633j:plain 【名称】会下山公園
【住所】兵庫県神戸市兵庫区荒田町1-20
【備考】楠木正成湊川の戦いで本陣を置いた場所です。「大楠公湊川陣之遺跡」の碑(東郷平八郎揮毫)が建立されています。
f:id:bravi:20180924133541j:plain 【名称】楠木正成公殉節地(湊川神社
【住所】兵庫県神戸市中央区多聞通
【備考】湊川の戦いに敗れた楠木正成ら主従が湊川の集落で自刃しますが、その場所と伝わるところに湊川神社が建立されています。
f:id:bravi:20210521131301j:plain 【名称】生田神社(生田の森)
【住所】兵庫県神戸市中央区下山手通1-2―1
【備考】生田の森で態勢を立て直した新田義貞は、足利尊氏に決戦を挑みますが、劣勢を挽回できずに丹波路を敗走します。
f:id:bravi:20200518063443j:plain 【名称】名和長年戦没遺跡(一条院跡)
【住所】京都府京都市上京区梨木町192
【備考】足利尊氏の再上洛軍に対し、内野の合戦で名和長年及び於曾貞光(打越氏(内越氏)の祖)が討死します。
f:id:bravi:20200611080142j:plain 【名称】比叡山八瀬口(八瀬天満宮
【住所】京都府京都市左京区八瀬秋元町639
【備考】後醍醐天皇は、足利尊氏の再上洛にあたり八瀬口から比叡山へ遁れます。
f:id:bravi:20200611080104j:plain 【名称】千種忠顕卿戦死之地碑
【住所】京都府京都市左京区修学院丸子青良ケ谷
【備考】足利尊氏は東寺に本陣を置き、足利直義比叡山を攻めさせますが、比叡山の中腹で千種忠顕が討死します。
f:id:bravi:
20180924134635j:plain 【名称】尊良親王御陵墓見込地碑
【住所】福井県敦賀市金ヶ崎町
【備考】越前国金ヶ崎城に籠城していた尊良親王新田義顕らと共に自害します。この際、於曾時高(打越氏(内越氏)の祖先)も亡くなっています。
f:id:bravi:20190825102707j:plain 【名称】霊山神社(霊山城跡)
【住所】福島県伊達市霊山町
【備考】1度目の上洛後、足利尊氏湊川の戦いに勝利すると、東国の北朝勢力による攻勢が強まり、北畠顕家多賀城から霊山城へ国府を移します。
f:id:bravi:20210521131117j:plain 【名称】青野ヶ原一里塚(中仙道)
【住所】岐阜県大垣市青野町239
【備考】北畠顕家は、利根川の戦い、杉本城の戦い、青野ヶ原の戦いと連勝しますが、自軍の損害が激しかったことから伊勢で態勢を立て直します。
f:id:bravi:20210521131137j:plain 【名称】相川
【住所】岐阜県不破郡垂井町垂井1856-1
【備考】美濃路東山道が交わる相川橋から関ケ原~琵琶湖~京方面。正面の奥に頭が見えるのが伊吹山です。
f:id:bravi:20210521131156j:plain 【名称】長屋氏屋敷跡
【住所】岐阜県不破郡垂井町垂井1259-1
【備考】青野ヶ原には1352年(正平7年)、南朝勢力により京を追われた後光厳天皇が仮御所を置いた場所です。
f:id:bravi:20180924134119j:plain 【名称】北畠顕家の墓
【住所】大阪府大阪市阿倍野区王子町3-8
【備考】北畠顕家阿倍野の戦いで敗れ、その場所に墓が建立されています。実際はその後の石津の戦いで討死しています(参253)。
f:id:bravi:20180924133922j:plain 【名称】北畠顕家・南部師行の供養塔
【住所】大阪府堺市西区浜寺石津町中5-3-31
【備考】北畠顕家は、南部師行らと共に石津の戦いで討死しており(参253)、その場所に供養塔が建立されています。

 

(注48-2)常陸合戦とその後

 1338年(延元3年)5月、鎮守府将軍北畠顕家及び南部師行らが石津の戦いに敗れて討死すると、弟の北畠顕信鎮守府将軍に就任し、同年9月、北畠親房及び北畠顕信は、義良親王を奉じて、居城・田丸城に(参253)に近い伊勢国大湊(三重県伊勢市)から結城宗広、伊達行朝らと共に大船団で海路を陸奥国へ向かいます。しかし、途中で暴風に遭い、義良親王や結城宗広らは伊勢国へ漂着しますが、北畠親房らは常陸国東条ケ浦(茨城県稲敷市)へ到着し、東条氏の居城・神宮寺城に入ります。その後、北朝勢力・佐竹氏の攻撃によって神宮寺城が落城すると、北畠親房は神宮寺城の近くに自ら築城した阿波崎城へ移って抵抗を続けますが、やがて阿波崎城も落城します。北畠親房は、小田氏の居城・小田城へ落ち延びますが、これに協力した近隣の村々の名主13名が佐竹義篤に斬首され、その13人の名主の供養塚(十三塚)が残されています。また、北畠親房に協力した名主の1名は斬首を逃れましたが、自ら「ホーイ、ホーイ」と叫んで佐竹勢を呼び戻して潔く斬首されたことから、ホイホイ地蔵として祀られています。北畠親房は、小田城から関東各地の南朝勢力に結集を呼び掛けると共に、、南朝の正統性を唱えた「神皇正統記」の執筆を開始します。因みに、水戸藩主・徳川光圀は「神皇正統記」を高く評価し、大日本史編纂にあたり彰考館総裁・打越(樸斎)直正らと共に南朝正当論を唱えて、明治維新の原動力となる水戸学の礎(前期水戸学は徳川光圀が中心となり尊王思想を唱えますが、後期水戸学は徳川斉昭が中心となって尊王思想に加えて攘夷思想を唱え、原理主義的な傾向を色濃くします。但し、会沢正志斎は晩年に開国論を前提とする富国強兵論に転じており現実主義的な路線への軌道修正を試みています。)(参255、256)を築いています。1339年(延元4年)、関東執事職に就いた高師冬が南朝勢力へ攻撃を開始して一進一退の攻防が続いた後、1341年(興国2年)11月に小田城は落城し、城主・小田治久は北朝勢力に降伏します。北畠親房は小田城を脱出して関宗祐の居城・関城(茨城県筑西市)へ移り、下妻政泰の居城・大宝城(茨城県下妻市)や伊佐氏(伊達氏の祖)の居城・伊佐城(茨城県筑西市)等と連携し、北朝勢力への抗戦を続けます。しかし、1343年(興国4年)、北畠親房が頼りにしていた陸奥国白河(福島県白河市)の結城親朝北朝勢力に降伏すると、同年11月、関城・大宝城は陥落し、関宗祐・下妻政泰は討死します。これにより北畠親房常陸国及び陸奥国での南朝勢力の挽回を断念し、吉野へ帰還します。その後、常陸国及び陸奥国で、北畠顕家の弟・北畠顕信北畠顕家の家臣・北畠顕国、北畠顕家の子孫・北畠天童丸らが北朝勢力への抵抗を続けますが、1344年(興国5年)、北畠顕国は北朝勢力の結城直光に捕らえられて斬首されます。また、1353年(正平8年)、北畠顕信多賀城及び宇津峰城が落城すると出羽国由利郡へ潜伏し、鳥海山大物忌神社南朝復興と出羽国静謐を祈願する寄進状を奉納しますが、その後の消息が不明になっています。1368年(応安元年)、漆川の戦いで南朝勢力・寒河江氏が北朝勢力・斯波氏に大敗すると、文中年間(1372~1374年)、斯波氏の攻撃により北畠天童丸の居城・天童城(福島県天童市)も落城し、北畠天童丸は南朝勢力・南部(八戸)氏を頼って陸奥国津軽郡鰺ケ沢村へ落ち延びます(浪岡北畠氏の祖)。

f:id:bravi:20200922114227j:plain 【名称】伊勢国大湊
【住所】三重県伊勢市大湊町
【備考】1333年(延元3年)北畠顕信鎮守府将軍に任命されたことから、義良親王を奉じて伊勢国大湊から大船53艘で陸奥国へ向けて出港します。
f:id:bravi:20200922114329j:plain 【名称】田丸城
【住所】三重県度会郡玉城町114−1
【備考】北畠親房及び北畠顕信は、伊勢神宮と隣接し、大湊を一望できる場所に後醍醐天皇を迎えるための南朝の拠点として築城します(参253)。
f:id:bravi:
20200628131918j:plain 【名称】東条ケ浦
【住所】茨城県稲城市飯出1706周辺
【備考】遠州灘の暴風で船団は四散しますが、北畠親房の舟は1338年(延元2年)9月に常陸国東条ケ浦へ漂着します。
f:id:bravi:20200628132001j:plain 【名称】神宮寺城
【住所】茨城県稲敷市神宮寺829
【備考】北畠親房は、地頭職・東条氏の居城・神宮寺城へ迎えられますが、1338年(延元2年)10月に北朝勢力・佐竹義篤らに攻められて落城。
f:id:bravi:20200628132328j:plain 【名称】阿波崎城
【住所】茨城県稲敷市阿波崎58
【備考】北畠親房は、神宮寺城の近くに自ら築城した阿波崎城へ移って北朝勢力に抵抗しますが、やがて阿波崎城も落城して小田城へと落ち延びます。
f:id:bravi:20200628132128j:plain 【名称】十三塚
【住所】茨城県稲敷市神宮寺2261
【備考】北畠親房が小田城へ落ち延びるのを手助けした近隣村々の名主13名は佐竹義篤に斬首されますが、その13人の名主の供養塚があります。
f:id:bravi:20200628132149j:plain 【名称】ホイホイ地蔵
【住所】茨城県稲敷市信太古渡172
【備考】斬首を逃れた名主の1名は「ホーイ、ホーイ」と叫んで佐竹勢を呼び戻して潔く斬首されたことから、ホイホイ地蔵として祀られています。
f:id:bravi:20190812191347j:plain 【名称】小田城
【住所】茨城県つくば市小田2377−1
【備考】北畠親房は、阿波崎城が落城すると南朝勢力・小田治久の居城である小田城へ入ります。
f:id:bravi:20190812191324j:plain 【名称】神皇正統記起稿之碑
【住所】茨城県つくば市小田2575
【備考】北畠親房南朝の正統性を唱える神皇正統記を執筆し、その後、徳川光圀や彰考館総裁・打越(樸斎)直正が南朝正当論として受け継ぎ、水戸学の礎を築きます。
f:id:bravi:20191104202904j:plain 【名称】関城
【住所】茨城県筑西市関舘57
【備考】小田城の落城後、北畠親房は結城一族の関宗祐に迎えられますが、1334年(興国4年)、関城も落城すると、東国における南朝勢力の挽回を断念し、吉野へ帰還します。
f:id:bravi:20200618071326j:plain 【名称】大宝城
【住所】茨城県下妻市大宝667
【備考】1341年(興国2年)、北畠(春日中将)顕国が興良親王を奉じて下妻政泰が守備する大宝城に入りますが、関城と共に落城します。
f:id:bravi:20191014142743j:plain 【名称】宇津峰城
【住所】福島県須賀川市塩田金山
【備考】北畠顕信は、霊山城、多賀城が落城すると、宇津峰城を築城して南朝勢力・伊達氏や田村氏(坂上田村麻呂の子孫)と共に抵抗します。
f:id:bravi:20191014143006j:plain 【名称】鳥海山大物忌神社
【住所】山形県飽海郡遊佐町吹浦布倉10
【備考】北畠顕信は宇津峰城が落城すると再起を図るために出羽国由利郡へ潜伏し、鳥海山大物忌神社南朝復興と出羽国静謐を祈願する寄進状を奉納。
f:id:bravi:20191014150711j:plain 【名称】天童城跡(北畠神社)
【住所】山形県天童市荒谷421
【備考】1368年(応安元年)に漆川の戦いで南朝勢力の寒河江(大江)氏が敗れると、文中年間(1372~1374年)に北畠顕家の子孫・北畠天童丸が守備する天童城も落城します。
f:id:bravi:20191014151935j:plain 【名称】天童山館
【住所】青森県西津軽郡鰺ヶ沢町舞戸町小夜670-14
【備考】天童丸は、天童城の落城によって陸奥国津軽郡鰺ケ沢村へ落ち延び、天童山館を築きます。
f:id:bravi:20191014152237j:plain 【名称】浪岡城
【住所】青森県青森市浪岡岡田10-15
【備考】南朝勢力・根城南部氏の庇護のもと北畠顕家の子孫・北畠顕成が陸奥国津軽郡浪岡村へ移住(浪岡北畠氏の祖)。

 

③瓜連城の戦い

 1331年(元徳3年)、小田治久(藤原氏流八田氏の後裔で、元常陸国守護職)は、鎌倉幕府の命により元弘の乱で配流となった後醍醐天皇の側近・万里小路(藤原)藤房卿の身柄を預かっていましたが、1333年(元弘3年)、建武の新政万里小路(藤原)藤房が復権すると、小田治久は万里小路(藤原)藤房を助けて上洛し、後醍醐天皇に臣従します。1336年(建武3年)、楠木正成後醍醐天皇から下賜された常陸国久慈郡(後に那珂郡)の地頭代として楠木正家を派遣しますが、これに小田治久らが加勢して、金砂城を守備する常陸国守護職・佐竹貞義及びその嫡男・佐竹義篤に対抗します。同年2月6日、楠木正家は常陸国久慈郡で佐竹氏と交戦し、佐竹貞義の六男・佐竹義冬らを討ち取ります。同年2月25日、佐竹貞義及び佐竹義篤は瓜連城を守備する楠木正家を攻撃しますが、那珂通辰が楠木正家に加勢したことで劣勢となり、佐竹貞義は金砂山城、佐竹義篤は武生城に籠城してゲリラ戦を展開します。同年5月、湊川の戦い南朝勢力が敗れると、同年12月2日、鎌倉の足利義詮から援軍を差し向けられた佐竹義篤は武生城を出陣し、久慈川を渡河して瓜連城を総攻撃すると、同年12月11日に瓜連城は大軍を支えきれずに落城し、楠木正家は陸奥へ落ち延び(参21、208)、また、小田治久は小田城へと遁れます。このとき那珂道辰は金砂城に籠城する佐竹貞義を攻撃していましたが、瓜連城の落城によって退路を断たれ、那珂道辰ら一族34人は勝楽寺の裏山で自刃します。なお、那珂道辰の子・那珂通泰が生き残り、その子・那珂道高が佐竹氏に仕官して常陸国那珂郡江戸郷を与えられ、江戸氏を名乗ります。後年、打越伊賀守(分家Ⅱ)が江戸氏に仕官します(参21、182)。 

f:id:bravi:20170505094733j:plain 【名称】瓜連城跡(常福寺
【住所】茨城県那珂市瓜連
【備考】楠木正成後醍醐天皇から下賜された常陸国久慈郡の地頭職の代官として弟又は従弟の楠木正家を派遣し、北朝勢力の佐竹氏に対抗します。
f:id:bravi:20190623180852j:plain 【名称】那珂道辰の墓
【住所】茨城県常陸太田市増井町1591
【備考】那珂道辰は金砂城の佐竹義貞を攻撃していましたが、瓜連城の落城により退路を断たれて那珂道辰ら一族34人は勝楽寺の裏山で自刃します。
f:id:bravi:20210521154358j:plain 【名称】武生城跡(竜神大吊橋)
【住所】茨城県常陸太田市下高倉町
【備考】佐竹義篤が籠城していた武生城跡です。現在は竜神大吊橋が架けられ、日本一の高さのバンジージャンプで有名です。
 

四条畷の戦い

 1347年(正平2年)6月、楠木正行は、北朝勢力との決戦を決意して吉野行宮の後村上天皇に拝謁した後、後醍醐天皇陵を参拝し、如意輪堂の扉に「かへらじと かねて思へば梓弓 なき数に入る 名をぞとどむる」という辞世の句を鏃で刻みます。楠木正行は、紀伊国橋本で挙兵し、八尾城の戦い、藤井寺教興寺の戦い、住吉・天王寺の戦いと連勝します。1348年(正平3年)1月、楠木正行を大将とする南朝勢力と高師直を大将とする北朝勢力が東高野街道四条畷神社と小楠公墓地を挟む旧170号線沿い)で激戦となり、約20倍近い兵力差があったにも拘らず、南朝勢力が北朝勢力を約3kmも押し戻す奮戦を見せますが、衆寡敵せず、楠木正行、楠木正家、和田賢秀らは自刃又は討死します。これにより吉野行宮は陥落し、後村上天皇は賀名生へ行宮を移します。(参252)

f:id:bravi:20210516201452j:plain
f:id:bravi:20180924132711j:plain 【名称】吉野朝宮跡
【住所】奈良県吉野郡吉野町吉野山2498
【備考】四条畷の戦いに向かう楠木正行後村上天皇に拝謁し、後村上天皇から「正行よ、汝がたよりである。若し戦不利ならば、必ず戻るよう」と御言葉を掛けられています。
f:id:bravi:20181231102722j:plain 【名称】楠木正行辞世の句
【住所】奈良県吉野郡吉野山1024
【備考】楠木正行は、如意輪堂の扉に辞世の句(かえらじと かねておもへば梓弓 なき数に入る 名をぞとどむる)を鏃で刻んでいます。
f:id:bravi:20201101190721j:plain 【名称】往生院六萬寺
【住所】大阪府東大阪市六万寺町12-2-36
【備考】楠木正行南朝軍が最初に本陣を置いていた場所で、ここから東高野街道沿いを京都へ向かって北上します。
f:id:bravi:20201101191206j:plain 【名称】南朝軍進軍路
【住所】大阪府大東市中垣内3-2-28
【備考】北朝軍本陣から数キロに位置する南朝軍進軍路。当時は生駒連山と深野池に挟まわれた縄手(畷)道で、行軍には不利な地形でした(参253)。
f:id:bravi:20201101091858j:plain 【名称】北朝軍本陣跡
【住所】大阪府大東市野崎2-6-8
【備考】慈眼寺(野崎観音)の麓に北朝軍本陣跡があり、北朝軍の別動隊が飯盛山の中腹に陣取って有利な布陣であったと考えられます。
f:id:bravi:20201101092020j:plain 【名称】激戦地
【住所】大阪府大東市北条6-5-1
【備考】四条畷の戦いで激戦となった北条交番前交差点付近です。
f:id:bravi:20210326115403j:plain 【名称】古戦田
【住所】大阪府大東市北条12-19
【備考】南朝軍は北朝軍を3kmも押し戻す奮戦を見せますが、この字(あざ)「古戦田」で乱戦状態になり、やがて数で圧倒する北朝軍に包囲されて苦戦となります。
f:id:bravi:20210326115344j:plain 【名称】ハラキリ
【住所】大阪府大東市錦町17-58
【備考】楠木正行は、敵の手に掛ることを潔くないとして、この字(あざ)「ハラキリ」(古戦田と小楠公墓所との中間時点)で自刃したと伝えられています。
f:id:bravi:20201101091718j:plain 【名称】飯盛山城跡
【住所】大阪府大東市北條2377
【備考】飯森山城跡から眺める大阪市の全景で、右上に淡路島が見えます。後年、三好長慶が居城とした場所でもあります。
f:id:bravi:20201101091736j:plain 【名称】楠木正行
【住所】大阪府大東市北條2377
【備考】四条畷神社の裏手にある飯盛山登山口から入ると飯盛山城跡があり、その山頂に京の方角を向いた楠木正行像が建立されています。
f:id:bravi:20201101091838j:plain 【名称】楠公
【住所】大阪府大東市北條2377−1
【備考】楠木正行をはじめ、四条畷の戦いで戦死した南朝軍及び北朝軍の菩提を弔うために、飯盛山城跡に建立された寺です。
f:id:bravi:20170527085832j:plain 【名称】四条畷神社
【住所】大阪府四条畷市南野2-18-1
【備考】1348年(正平3年)、四条畷の戦いで自刀した楠木正行主祭神とし、楠木正家、和田賢秀らを配祀する神社です。
f:id:bravi:20170527085830j:plain 【名称】小楠公墓所
【住所】京都府京都市右京区嵯峨釈迦堂門前南中院町9-1
【備考】四条畷の戦いで自刃した楠木正行の墓碑に寄り添うように建つ樹齢600年のクスノキの巨木(大楠公)。
f:id:bravi:20180704204632j:plain 【名称】和田賢秀の墓
【住所】大阪府四条畷市南野4-15-6
【備考】楠木正行の従兄弟・和田賢秀は敵の首に噛み付いたまま死んだと言われており歯噛(神)様として祀られています。
f:id:bravi:20190824084714j:plain 【名称】賀名生行宮
【住所】奈良県五條市西吉野町賀名生5
【備考】吉野行宮を脱出した後村上天皇は楠木氏の傘下にあった紀伊国阿弖川荘(和歌山県有田郡有田川町)へ潜伏しますが、その後、賀名生へ行宮を移します(参252)。

  

⑤大曲城の戦い

 1582年(天正10年)、出羽国山北郡の一帯を支配していた小野寺(遠江守)景通及び戸沢盛重の名代で大曲城主・前田(薩摩守)利信は織田信長に拝謁するために上洛します(注49)。由利十二党の赤尾津氏は、前田氏に不満を抱く家臣から内応があったので、大曲城の攻略に取り掛かり、これに打越孫次郎、岩谷小三郎、石沢右衛門尉、小介川与市、潟保治部大夫等が加勢して約500余騎(1騎に3~5名の歩兵が従っていたとすると総勢約2000名の軍勢と推定)で大曲城を攻めます。大曲城の守兵は約600名を三手に分けて、大手門を神宮寺掃部が率いる200名強、搦手門を前田又四郎が率いる150名強、持口門を前田五郎が率いる100名強で守備します。打越孫次郎が率いる60騎、歩兵300名が持口門を攻めますが、前田五郎ほか城方の激しい抵抗にあって一旦は兵を引き膠着状態に陥ります。しかし、持口門を守備する前田五郎が討ち取られると戦局は一転し、打越孫次郎等が城内に乱入して火をかけたことで、前田又四郎らは大曲城を捨て神宮寺城へ落延びます。

 

(注49)有力な戦国武将との関係

奥羽永慶軍記(参163)によれば、奥州地方には京の情勢が風聞として伝わってきていましたが、意図的に流される嘘も多く疑心暗鬼の状態に置かれていた様子が記されています。また、当時、奥州地方には上杉氏、武田氏、北条氏、佐竹氏等の有力な戦国大名から配下になるように頻繁に誘いの手が伸びてきていましたが、これらの戦国大名は武威盛んでも将軍ではないのでこれに従う理由はないと考えていたようです。これらの戦国大名と比べると武威は劣るものの、足利義昭に代わって新しい将軍になったと伝え聞く織田信長の配下になりたいと考えて上洛する者が多かったと記されており、小野寺氏及び前田氏もその例と思われます。奥州地方では武威よりも権威を重んじて情勢を判断する遠国の力学(即ち、有力な戦国大名の傘下に入って武威を頼んでも遠国に援軍を派遣して貰える見込みは手薄で自らの領地を守ることは難しいので、正当な権力者に自らの領地支配を権威付けて貰ったうえで近隣の諸氏と友好な軍事同盟を結んで協力しながら自らの領地を死守しなければならない地理的な事情)が作用していたことが伺われます。なお、小野寺氏及び前田氏が上洛した1582年(天正10年)は、丁度、織田信長による甲州征伐が終わり、同年6月に本能寺の変が起こるまでの織田氏の絶頂期にあたります。 

f:id:bravi:20180427185351j:plain 【名称】大曲城跡(八幡神社
【住所】秋田県大仙市大曲丸の内町4-6
【備考】仙北平野の丸子川を背にした平城で、戸沢盛重の有力な与力である前田利信が守備していた居城です。
f:id:bravi:20180427185749j:plain 【名称】八幡土塁(大曲城跡)
【住所】秋田県大仙市大曲丸の内町4-6
【備考】大曲城の土塁跡が残されていますが、周囲は住宅街として整備されており、城の遺構は殆ど残されていません。
f:id:bravi:20180427185436j:plain 【名称】八幡神社(大曲城跡)
【住所】秋田県大仙市大曲丸の内町4-6
【備考】大曲城に面して丸子川が流れており、天然の要害となっています。

 

⑥大沢山の戦い

 1582年(天正10年)、出羽国山北郡を支配していた小野寺(遠江守)景通は上洛するにあたり、石沢氏から母を、打越氏、赤尾津氏、岩屋氏、仁賀保氏及び滝沢氏から各1人の男児を、矢島氏、下村氏及び玉前氏から各1人の女児を人質にとります。由利十二頭は小野寺景通と対立していた秋田氏と誼を通じていましたが、小野寺氏に人質をとられていたので不本意ながら小野寺氏に味方せざるを得ない状況にありました。しかし、小野寺氏の人質になった石沢氏の母と打越氏、赤尾津氏、岩屋氏、仁賀保氏及び滝沢氏の5人の男児は足手纏いとならないように自害して果て、この悲報に接した打越孫次郎、内越民部少輔、赤尾津左衛門尉、赤尾津孫四郎、仁賀保宮内大輔治重、仁賀保八郎、岩屋小三郎、石沢左衛門尉、滝沢刑部介らは、同年8月28日、その弔い合戦に総勢5000名の軍勢を率いて大沢山に出陣し、小野寺義通が率いる総勢8000名の軍勢と対峙します。小野寺義通は血気盛んな大将で自ら敵陣深く斬り込む猪武者振りでしたが、その気性を見抜いた打越氏、赤尾津氏、岩屋氏は、負け戦さを装い、引くと見せ掛けて山間地に敵勢を誘き寄せ、左右の山間から一斉に矢を射かけて敵が総崩れになったところを攻め掛かり、再び引いて見せるなど散々に籠絡して小野寺氏の重臣の多くを討ち取り、小野寺氏は大敗を喫します(由利十二頭の死者51名、小野寺氏の死者480名)。(参183) 

f:id:bravi:20180428070446j:plain 【名称】大沢山
【住所】秋田県横手市雄物川町大沢
【備考】由利十二頭は本荘街道(秋田県由利本荘市岩手県北上市)から雄物川を挟んで高地へ布陣。
f:id:bravi:20180428070556j:plain 【名称】雄物川
【住所】秋田県横手市雄物川町柏木
【備考】小野寺氏は横手城から出陣して雄物川を挟んで低地で防戦しますが、小野寺氏は大敗を喫します。

 

⑦戸崎湊の戦い

 1588年(天正16年)、湊城を守備する安東高季は、従弟・秋田実季が僅か12歳で家督を承継したことが不満で謀反します。これに対し、1589年(天正17年)、秋田実季は安東高季が守備する湊城を攻めますが、安東氏の備えが固く却って自軍の損耗が目立ったので、由利十二頭に加勢を要請します。これを受けて打越孫四郎、赤尾津孫次郎、岩屋内匠助、仁賀保兵庫頭勝俊等の約2000名が小舟200艘に乗って土崎の港(秋田県秋田市雄物川河口)に上陸し、秋田実季の約2000名の軍勢と合わせた総勢4000名の軍勢で湊城を囲みます。安東氏は城から打って出て夜襲を仕掛けるなど寄手を翻弄し、湊城攻めは膠着状態に陥ります。そこへ矢島(五郎)満安が加勢して湊城に火をかけたので、安東氏は城を捨て落延びようとしましたが、打越孫四郎、赤尾津孫次郎及び赤尾津九郎が追撃して安東氏を討ち取ります(参183)。 

f:id:bravi:20180425232620j:plain 【名称】土崎港
【住所】秋田県秋田市土崎港西
【備考】打越氏(内越氏)ほか総勢2000名の兵が200艘の船で上陸した土崎港です。写真左側が由利本荘市方面です。
f:id:bravi:20180425232034j:plain 【名称】湊城跡(土崎神明社
【住所】秋田県秋田市土崎港中央
【備考】安東高季が守備していた湊城跡です。
f:id:bravi:20180425232715j:plain 【名称】安東(安倍)氏の顕彰碑
【住所】秋田県秋田市土崎港中央
【備考】土崎神明社の境内には、湊安東(安倍)氏の顕彰碑があります。

 

⑧唐松野の戦い

 秋田(城之介)実季の家臣である太平(大江)広治(矢島氏とは「一家」(参6))は、小野寺義道と通じて謀反を起こし、1589年(天正16年)5月3日、秋田(城之介)実季とこれに加勢した岩屋重二郎、赤尾津左衛門、打越二郎、羽川小太郎の100騎(歩兵を入れると300~500名)の総勢2000名が唐松野に布陣し、小野寺義道の総勢3000名と対峙しました。小野寺氏の先手が総崩れになり小野寺氏は多数の死傷者を出しながら敗走すると、秋田氏は追撃戦に移りますが、太平(大江)広治が兵400名を率いて秋田氏の背後を急襲したので秋田氏は退却します。しかし、そこへ岩屋氏、打越氏、羽川氏が兵300名を率いて秋田氏の援護に回り、太平(大江)広治の軍勢を撃退します。翌日、小野寺氏の家臣・六郷正乗が打越氏、岩屋氏、赤尾津氏に和睦を申し入れ、小野寺義道の甥を秋田実季の養子とし、また、大平(大江)広治の次男を人質として秋田氏の元に送ることで和睦が成立します。 

f:id:bravi:20180426203737j:plain 【名称】唐松城跡
【住所】秋田県大仙市協和境唐松岳84
【備考】後三年の役源義家が攻めた唐松城跡です。
f:id:bravi:20180426203650j:plain 【名称】唐松野(唐松城跡本丸)
【住所】秋田県大仙市協和境唐松岳84
【備考】淀川流域に広がる唐松野が戦場となりました。
f:id:bravi:20180426203812j:plain 【名称】唐松神社
【住所】秋田県大仙市協和境下台84
【備考】物部氏の祖・饒速日尊を祀る神社で、物部氏の末裔の方が宮司を務めています。後三年の役源義家により修復されています。
f:id:bravi:20180426203520j:plain 【名称】喜多流謡曲
【住所】秋田県大仙市協和境下台84
【備考】唐松神社には京都西本願寺・北能舞台を模した秋田県唯一の能舞台があり、年に一度、能楽公演が開催されます。

 

小田原征伐(北国軍)

 小田原征伐(注50)では、豊臣秀吉が率いる本軍(先鋒:徳川家康)と前田利家が率いる北国軍(大将:前田利家、副将:上杉景勝真田昌幸)の二手に分かれて北条領へ侵攻します。打越氏(内越氏)を含む由利衆は、当初、最上義光の指揮下に入る予定でしたが、最上義光が父親の葬儀を理由に小田原征伐に遅参することになったので、北国軍の信濃衆(真田軍)に編成されます。前田利家上杉景勝真田昌幸、由利衆らは信濃国松代城松代城の近くに打越氏の祖先・小笠原(大井)氏の発祥の地である大井城があります。)に集まり、地の利がある信濃衆(真田軍)を先鋒として総勢35000名の北国軍が碓氷峠から北条領(上野国)へ侵攻します。1590年(天正18年)年3月15日に信濃衆(打越(宮内少輔)光重は信濃衆に編成)は碓氷峠(磐根石)で北条氏の伏兵と遭遇戦になりますが、この戦さが初陣の真田信繁(幸村)が北条氏の伏兵を見抜いてこれを撃退する軍功を挙げます。同3月19日、大道寺政繁が2000名の兵で籠城する松井田城を攻撃しますが、前田利家により松井田城の水の手を絶たれて4月22日に開城降伏すると、その近隣にある箕輪城厩橋城、河越城等の支城も次々に開城降伏します。前田利家は大道寺政繁の助命を約束し(但し、大道寺政繁は小田原城落城後に豊臣秀吉の命令で切腹)、北国軍の道案内役として八王子城攻めでは大道寺政繁に先鋒を務めさせます。次に、北国軍は徳川家康からの援軍を加えて北条氏邦が3000名の兵で籠城する鉢形城を攻めますが、6月14日、北条氏邦前田利家からの降伏勧告を受け入れて城兵の命を助けることを条件に降伏します(但し、北条氏邦前田利家の取り成しによって切腹を免れます)。豊臣秀吉が北条方の開城降伏を次々と受け入れて和睦に応じる前田利家の手緩い対応に不快感を示したことから、6月23日、前田利家北条氏照(但し、北条氏照小田原城に詰めており不在)の居城である八王子城を力攻めにすることにし、約2000名で籠城する八王子城は即日落城します。八王子城内にいた子女は城内の滝に身を投げ又は自害して果て、その血で滝の水が真っ赤に染まったと言われています。八王子城落城の報を受けた北条氏政及び北条氏直は落胆し、7月5日、相模国及び武蔵国の2か国を安堵するという条件で開城降伏します(但し、北条氏政豊臣秀吉の命令で切腹、北条氏は取り潰し)。このとき、石田三成は、成田長親が約300名の兵で籠城する忍城を23000名の兵で取り囲み、荒川を堰き止めて水攻めにしますが(その後、忍城攻めに苦戦する石田軍を支援するために真田軍が差し向けられていますので、打越(宮内少輔)光重も忍城攻めに参加していた可能性があります。)、小田原城が開城降伏した後も暫く持ち堪え、7月16日に開城降伏します。

 

(注50)名胡桃城の戦い

 1587年(天正15年)、豊臣秀吉が惣無事令(注60)を発布して大名の私闘を禁じるなか、北条氏の家臣・猪股(能登守)範直が真田氏の居城・名胡桃城を奪う事件が発生し、これが小田原征伐の直接的な原因となりました。上記のとおり由利十二頭の打越氏(内越氏)(本家Ⅰ及び分家Ⅰ)は、小田原征伐豊臣氏に味方し、常陸江戸氏に仕官していた打越氏(内越氏)(分家Ⅱ)は北条氏に味方していますが(第2部第2巻第3段の②を参照)、眞書太閤記十一編巻之九(参17)には、猪俣範直が名胡桃城を奪うにあたり打越治右衛門ら親交のあった武家60余人に相談を持ち掛けたと記載されています。但し、眞書太閤記は、江戸時代に出版された歴史読物で史料的な価値は低く信頼性を疑われていますので、その記載を鵜呑みにすることは危険です。この点、「治右衛門」の通名は、由利十二頭の打越氏(内越氏)(本家Ⅰ)に伝わるもので、豊臣氏に味方した由利十二頭の打越氏(内越氏)(本家Ⅰ)と北条氏に味方した常陸江戸氏に仕官していた打越氏(内越氏)(分家Ⅱ)とを取り違えて記載している可能性も考えられます。

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f:id:bravi:20180429090849j:plain 【名称】松井田城跡
【住所】群馬県安中市松井田町高梨子
【備考】松井田城を守備する北条氏の重臣・大道寺正繁は開城降伏しますが、後日、豊臣秀吉の命により切腹します。
f:id:bravi:20180429090922j:plain 【名称】妙義山碓氷峠方面)
【住所】群馬県安中市松井田町高梨子
【備考】北国軍は碓氷峠に潜む北条氏の伏兵を撃退し、碓氷峠を越えて松井田城を包囲します。
f:id:bravi:20180429090954j:plain 【名称】鉢形城
【住所】埼玉県大里郡寄居町鉢形2496−2
【備考】北条氏政の弟・北条氏邦は開場降伏し、前田利家の助命嘆願により切腹を免れます。
f:id:bravi:20180429091055j:plain 【名称】鉢形城
【住所】埼玉県大里郡寄居町鉢形2496−2
【備考】鉢形城本丸から真田昌幸が攻めた北側方面。打越(宮内少輔)光重は信濃衆として真田昌幸傘下で戦っています。
f:id:bravi:20180429091321j:plain 【名称】八王子城
【住所】東京都八王子市元八王子町3-2664-2
【備考】豊臣秀吉が開城降伏を許さず、小田原征伐で最も激しい戦闘が行われました。
f:id:bravi:20180429091358j:plain 【名称】八王子城
【住所】東京都八王子市元八王子町3-2664-2
【備考】八王子城落城時に子女が自害して血で赤く染まった御主殿の滝。
f:id:bravi:20180429091520j:plain 【名称】北条氏照の墓
【住所】東京都八王子市元八王子町3-2653
【備考】兄の北条氏政と共に、豊臣秀吉から切腹を命じられています。
f:id:bravi:20180430222930j:plain 【名称】石田三成本陣跡(忍城
【住所】埼玉県行田市埼玉4834
【備考】石田三成上杉謙信も陣を敷いたことがある丸墓山古墳に忍城攻めの本陣を置きます。豊臣秀吉の命により真田軍(打越光重も同陣か?)が参陣しています。
f:id:bravi:20190818105841j:plain 【名称】忍城戦死者慰霊碑(高源寺)
【住所】埼玉県行田市佐間1-2-9
【備考】楠木氏の末裔・正木(丹波守)利英(映画「のぼうの城」)が出家して開基した高源寺にある忍城戦死者慰霊碑です。菊水紋が刻まれています。
f:id:bravi:20210419164150j:plain 【名称】沼田城(石垣跡)
【住所】群馬県沼田市西倉内町594
【備考】天正壬午の乱の和睦条件を不服とする真田氏は第一次上田合戦で徳川氏を撃退し、北条氏とも膠着状態に陥り、豊臣秀吉の仲裁で沼田城は北条氏、名胡桃城は真田氏で落着。
f:id:bravi:20210419163356j:plain 【名称】名胡桃城
【住所】群馬県利根郡みなかみ町下津3462-2
【備考】沼田城代・猪俣邦憲が豊臣秀吉の総事無令に反して真田氏の名胡桃城を奪取したことが小田原征伐の直接の原因となっています。

 

九戸政実の乱(奥州仕置)

 1591年(天正19年)、豊臣秀吉は、小田原征伐の後、主家の南部信直に背いて奥州仕置(検地、刀狩、人質、廃城、領地替え等)に抵抗する九戸氏を征伐するため、豊臣秀次及び徳川家康を総大将とする総勢15万の軍勢を九戸へ差し向け(このとき豊臣秀吉会津まで軍を進め、豊臣秀次及び徳川家康岩手山山麓に本陣を置きます)、出羽国からは打越宮内少輔、仁賀保兵庫頭勝俊、小野寺義道、秋田実季らが参陣し、その陣立は一陣:戸澤氏、二陣:六郷氏、三陣:梅澤氏、四陣:山田氏、五陣:小野寺氏、六陣:仁賀保氏(傘下:潟保氏、茂田氏、下村氏、根井氏)、七陣:打越氏(傘下:滝沢氏、岩谷氏、平澤氏、西目氏、鮎川氏)となっています(参246)。先陣の小野寺義道(約3500騎の5段備え)は浄法寺口(二戸市を南北に縦断する奥州街道(陸羽街道)沿いに馬淵川を挟んで布陣)から九戸城方面へ攻め入りますが、その対岸に布陣する九戸氏(約1500騎の5段備え)に3段まで崩されて敗戦が濃厚となります。これを見ていた由利十二頭の打越宮内少輔、仁賀保兵庫頭勝俊、赤尾津左衛門らが小野寺氏の援軍に駆け付けたことで九戸氏は総崩れとなり(参184)、総大将の九戸政実を初めとする九戸勢は九戸城に立て籠もります。これにより野戦から攻城戦へと移り、井伊直政は搦手に布陣し、打越氏ほか由利十二頭は仁賀保氏の指揮下で九戸城三の丸に面した馬淵川の対岸に布陣します(奥羽永慶軍記は、打越宮内少輔、仁賀保兵庫頭勝俊など由利十二頭は搦手に陣取ったとありますが、これは誤記と思われます。)。浅野長政は九戸城を力攻めすると死傷者が多く出ると考え、九戸政実に命を助けるという条件で降伏を勧告したところ、この条件を受け入れた九戸政実ほか重臣は(小田原征伐の際の伊達政宗に倣って)白装束で降伏しますが、騙し討ちに合って斬首されます。 

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f:id:bravi:20180425225009j:plain 【名称】九戸城跡
【住所】岩手県二戸市福岡城ノ内
【備考】九戸城三の丸から眺める本丸。
f:id:bravi:20180425225939j:plain 【名称】九戸城跡
【住所】岩手県二戸市福岡城ノ内
【備考】九戸城二の丸大手門から眺める本丸。
f:id:bravi:20180425225630j:plain 【名称】九戸城跡
【住所】岩手県二戸市福岡城ノ内
【備考】九戸城本丸から打越氏(内越氏)が布陣した場所の方向(針葉樹林の向こう側)。
f:id:bravi:20180425224614j:plain 【名称】九戸城跡
【住所】岩手県二戸市石切所荷渡6−3
【備考】仁賀保氏の陣に加わった打越氏(内越氏)が布陣した場所から九戸城の方向(針葉樹林の向こう側)。
f:id:bravi:20180425230425j:plain 【名称】岩手山岩手山SA)
【住所】岩手県八幡平市平笠第2地割1−36
【備考】豊臣秀次及び徳川家康が本陣を敷いた岩手山山麓

 

⑪矢島城の戦い

 1558年(永禄元年)、矢島(大善太夫)義満は滝沢刑部少輔に謀反の疑いがあるとして侵攻を開始し(本当の理由は領地争いが原因か)、これを受けて滝沢刑部少輔が仁賀保(大和守)明重に援軍を求めたことから矢島氏と仁賀保氏との間で本格的な争いに発展します。その後、矢島氏及び仁賀保氏は1592年(天正20年)までに十数回に亘る合戦に及びますが、その子・矢島(大井五郎)満安が矢島氏の家督を相続すると打越左近、岩屋内記、鮎川筑前守及び潟保双記斎らの仲裁により矢島氏と仁賀保氏との間で和睦が成立します。この間、由利十二頭は豊臣秀吉の命により1590年(天正18年)の小田原征伐、1591年(天正19年)の九戸政実の乱(奥州仕置)に参加しています。やがて矢島氏は小野寺氏と接近して再び仁賀保氏と対立するなど由利衆の結束を乱し始めたので、他の由利十二頭は仁賀保氏に味方します。打越左近、滝沢刑部少輔、赤尾津左衛門尉及び岩屋右兵衛尉は、矢島氏の力を削ぐために矢島(大井五郎)満安の留守を狙って弟の矢島与兵衛尉に謀反を起こさせますが、矢島(大井五郎)満安の機敏な対応により鎮圧されます。1592年(天正20年)、豊臣秀吉から朝鮮出兵文禄・慶長の役)の要請がありますが、出羽国は遠境の地なので各氏から総勢の1割の人数の参陣で構わないことになり、出羽国に残った仁賀兵庫頭、打越孫四郎、岩屋重次郎、赤尾津左衛門尉、滝沢刑部少輔等はこの機に乗じて総勢5000名で矢島へ侵攻します。矢島(大井五郎)満安は八森城や新荘館では防ぎ切れないと判断し、八森城及び新荘館を捨て、その支城・荒倉館に籠城します。仁賀保氏、打越氏、赤尾津氏、岩谷氏及び滝沢氏らは大手口の西側、子吉氏、潟保氏及び鮎川氏らは大手口の東側から攻め、3日後に荒倉館は落城します。その後、矢島(大井五郎)満安は義父・小野寺(肥前守)茂道を頼って西馬音内城へ落ち延びますが、再起を図ることは困難であると判断して自刃し、矢島氏は滅亡します(注60)。

 

(注60)惣無事令

矢島城の戦いは豊臣秀吉による惣無事令に違反するものですが、奥州仕置の時点で矢島氏の名前がないことなどから、奥羽慶長軍記に記されている年代に誤りがある可能性もあります。 

f:id:bravi:20170505094729j:plain 【名称】八森城跡(矢島小学校)
【住所】秋田県由利本荘市矢島町矢島町5
【備考】矢島(大井五郎)満安の居城です。
f:id:bravi:20170506091241j:plain 【名称】八森城跡(矢島小学校)
【住所】秋田県由利本荘市矢島町矢島町5
【備考】後年、打越光久が常陸国から加増国替えにより3000石の交代寄合旗本(大名格待遇)で入部します。
f:id:bravi:20210419164247j:plain 【名称】新荘館跡
【住所】秋田県由利本荘市矢島町新荘三川尻
【備考】矢島(大井五郎)満安の居城。子吉川を上流に辿ると荒倉館跡、元弘寺跡、小次郎館跡があります。
f:id:bravi:20210521230500j:plain 【名称】荒倉館跡
【住所】秋田県由利本荘市矢島町新荘
【備考】子吉川を挟んだ彼岸の山に矢島(大井五郎)満安が敗れた荒倉館跡があり、此岸には矢島(大井五郎)満安の息女・鶴姫が庵を結んだ場所があります。

 

文禄・慶長の役(大谷吉続麾下)

 1592年(文禄元年)、豊臣秀吉は約16万の軍勢で朝鮮半島の侵攻を開始します。内越宮内少輔(奥羽慶長軍記の文禄・慶長の役の段では打越ではなく内越と表記)、仁賀保兵庫頭、滝沢又五郎、岩屋能登守及び小助川治部少輔の由利五人衆は朝鮮半島に渡海せずに在陣衆として名護屋城で軍役にあたります。1593年(文禄2年)、朝鮮半島の戦況悪化に伴って、豊臣秀吉上杉景勝及び由利五人衆に対して大谷吉継の配下として高麗へ渡海し、前田利家及び蒲生氏郷の指揮のもとで晋州城(朝鮮国第一の名城)を攻撃するように命じます。しかし、やがて晋州城が落城したことから高麗への渡海が見送られ、その後、明国との和解交渉が開始されて休戦となり、1593年(文禄2年)末に由利五人衆は本国への帰国を許されますが、名護屋城の在陣中に内越宮内少輔が病没します(注70)。その後、慶長の役では、由利五人衆は遠国という理由から出兵を免除されています。

 

(注70)打越氏(内越氏)の陣屋

 打越氏(内越氏)の陣屋がどこに設けられていたのか定かではありませんが、文禄・慶長の役の陣立ては基本的に小田原征伐の陣立てに倣って編成されたと言われています。この点、小田原征伐では信濃衆(真田軍)に編成されていましたので、真田昌行の陣屋やこれに隣接する秋田実季の陣屋の近くにあった可能性が考えられます。なお、真田昌行の陣屋には真田幸村の供養塔のほかに誰のものか分からない墓がありますが、その形状から当時のものと思われる五輪塔が数基安置されていますので、そのうち1基が名護屋城の在陣中に病没した内越(宮内少輔)光重の墓である可能性も考えられます。因みに、どの系流の方なのか定かではありませんが、打越氏(内越氏)の末裔の方が肥前名護屋城の近くで肥前唐津焼の工房&ギャラリー「炎向窯」(ひなたがま)を営まれていますので、お土産に唐津焼の陶磁器をお勧めします。 

f:id:bravi:20180606152256j:plain 【名称】名護屋城
【住所】佐賀県唐津市鎮西町名護屋1931−3
【備考】文禄の役では打越(宮内少輔)光重も名護屋城へ布陣しますが、朝鮮半島へ渡海していません。慶長の役の出陣は免除。
f:id:bravi:20180606152614j:plain 【名称】名護屋城
【住所】佐賀県唐津市鎮西町名護屋1931−3
【備考】夜、松明を掲げた16万の軍勢が名護屋城を取り囲んで鬨の声を上げたそうなので、豊臣秀吉の絶頂期と言えます。
f:id:bravi:20180606152219j:plain 【名称】名護屋城
【住所】佐賀県唐津市鎮西町名護屋1931−3
【備考】小田原征伐と同編成と言われていますので、打越氏(内越氏)の陣屋は真田昌幸又は秋田実季の陣屋の近隣と推測。
f:id:bravi:20180606152532j:plain 【名称】秋田実季の陣屋跡
【住所】佐賀県唐津市鎮西町名護屋
【備考】この周辺に誰の陣屋か特定できない場所がいくつかありますので、その1つが打越氏(内越氏)ほか由利衆の陣屋跡ではないかと思われます。
f:id:bravi:20191231000937j:plain 【名称】真田昌幸の陣屋跡
【住所】秋佐賀県唐津市鎮西町名護屋
【備考】秋田実季の陣屋跡と隣接する場所に真田昌幸の陣屋跡があり、次男・真田幸村の供養塔が安置されています。
f:id:bravi:20191231001026j:plain 【名称】真田昌幸の陣屋跡
【住所】佐賀県唐津市鎮西町名護屋
【備考】打越光重は名護屋城在陣中に他界しますが、真田昌幸の陣屋跡に誰のものか分からない墓があり、その1基が打越光重の墓かもしれません。

 

⑬慶長出羽合戦(北の関ケ原の戦い

 1600年(慶長5年)、徳川家康は上杉征伐のために約22万の軍勢を率いて出陣しますが、石田三成による挙兵の知らせを受けて途中で軍勢を引き返します。これに伴って上杉景勝直江兼続を大将として最上領へ侵攻し、最上義光の本拠・山形城と指呼の距離にある長谷堂城を包囲します。これに対し、最上義光は由利衆を従えて米沢口に布陣しますが、徳川家康が軍勢を引き返したことで、伊達政宗の軍勢と合わせても上杉氏の約7万の軍勢を抑え切れないことから、上杉氏に従属するように装いながら時間を稼ぎます。この間、石田三成直江兼続の軍師として100万の軍勢で攻めてくるという噂が広まるなか、南部信直百姓一揆を鎮圧するために南部へ引き返したことで動揺が広がり、秋田、小野寺、六郷等も本国へ引き返します(参185)。また、同年9月8日、矢島(大井五郎)満安の遺臣が蜂起し、仁賀保氏の居城である矢島城を乗っ取ったことから、これに対処するために最上氏に従軍していた仁賀保氏及び打越氏も本国へ一時帰還します。なお、これらの一連の動きは最上氏の勢力を削ぐための上杉方の調略であった可能性も考えられます。同年9月25日、会津から直江兼続のもとに関ケ原の戦いで西軍が敗北したとの知らせが届いたことから退却を開始し、敵の追撃を防ぐことが難しいと判断して直江兼続が殿(しんがり)を務めます。その後、最上義光徳川家康から関ケ原の戦いで東軍が勝利したとの知らせを受けたので攻勢に転じますが、直江兼続の巧みな撤退戦により最上氏の追撃は阻まれます。この機に乗じて最上義光は上杉氏に奪われた庄内地方を奪還するために最上義安を総大将として8千の軍勢で庄内地方へ侵攻します。これに対して上杉氏は菅野大膳が守備する菅野城の備えとして女鹿から吹浦の間に2000名を配置します。上杉氏が吹浦で最上氏と交戦中に、背後から別動隊の志村(伊豆守)光安及び鮭延(越前守)秀綱が率いる最上勢2500名及び秋田実季が率いる打越氏及び仁賀保氏ら由利衆1000名の総勢3500名の軍勢に急襲されて菅野城は落城し、東禅寺(亀ヶ崎)城へ落ち延びる途中で相当数が討ち取られます。最上氏は、上杉氏の家臣の志駄義秀が守備する東禅寺(亀ヶ崎)城を攻撃するために、最上川の対岸に本陣6000名、新井田川の対岸に2000名を布陣し、北側から別動隊の3500名が攻城戦に加わります。東禅寺城は城内から鉄砲で応戦しますが、玉と火薬が尽きたことから大手門を破られ、 東禅寺(亀ヶ崎)城の城兵800名は全滅します。戦後、最上義光は秋田氏が出羽で勢力を持つことを恐れて、秋田氏、赤尾津氏、仁賀保氏及び打越氏が西軍に内通した疑があると徳川氏に讒言し、榊原康政から呼び出されて取り調べを受けることになります。しかし、その嫌疑は直ぐに晴れ、慶長羽合戦(北の関ケ原の戦い)の軍功として仁賀保挙誠及び打越光隆は徳川家康に召し出されて徳川氏の直臣旗本に取り立てられ、上杉氏の抑えを命じられます(干城録第8/参6)。その後、最上氏が出羽国由利郡を支配することになり、打越氏(内越氏)は出羽国由利郡内越郷1250石から常陸国行方郡新宮郷2000石(大身旗本)へ加増国替えとなり、新宮城へ入ります。やがて、最上氏は御家騒動によって改易となり、再び、仁賀保氏及び打越氏が出羽国由利郡矢島郷3000石(交替寄合旗本(大名格待遇))へ加増国替えとなり、八森城へ入ります。なお、「前田慶次郎」(近衛龍春著/PHP文庫)や「翔竜 政宗戦記 3竜虎の鬥」(坂上天陽著/歴史群像新書)では、慶長出羽合戦の画面で打越氏(内越氏)が登場します。

f:id:bravi:20200808091459j:plain 【名称】山形城(東大手門)
【住所】山形県山形市霞城町1−7
【備考】最上義光の居城・山形城。直江兼続は、徳川家康石田三成の挙兵の報を受けて軍勢を引き返したことから、最上領への侵攻を開始します。
f:id:bravi:20200808091614j:plain 【名称】長谷堂城
【住所】山形県山形市長谷堂994−2
【備考】直江兼続は、山形城と指呼の距離にある長谷堂城を包囲しますが、関ケ原の戦いで西軍が敗れると撤退します。
f:id:bravi:20180427201008j:plain 【名称】吹浦(芭蕉句碑)
【住所】山形県飽海郡遊佐町吹浦
【備考】関ケ原の戦いで東軍勝利が伝わると、上杉氏は撤退を開始し、女鹿から吹浦の間に2000名を配置して最上氏に備えます。
f:id:bravi:20180427201118j:plain 【名称】菅野城跡
【住所】山形県飽海郡遊佐町北目菅野谷地
【備考】上杉氏の家臣・菅野大膳が守備した菅野城は吹浦川と洗沢川の中洲にあったと言われています。
f:id:bravi:20180427191434j:plain 【名称】東禅寺城跡(亀ヶ崎八幡神社
【住所】山形県酒田市亀ケ崎1-3
【備考】上杉氏の家臣・志駄義秀が守備した東禅寺城跡には亀ヶ崎八幡神社が建立されています。
f:id:bravi:20180427192130j:plain 【名称】圓通寺
【住所】山形県酒田市吉田伊勢塚101
【備考】東禅寺城の搦手門は、現在、圓通寺に移築されています。
f:id:bravi:20180427200020j:plain 【名称】象潟(三崎峠からの景観)
【住所】秋田県にかほ市象潟町小砂川三崎
【備考】松尾芭蕉が訪れて俳句を詠んだ景勝地・三崎峠からの景観。打越光隆の隠居地という偽説も生まれるほどの絶景です。

 

⑭大森城の戦い

 小野寺氏は、最上氏に奪われていた雄勝郡を取り戻すために、関ケ原の戦いで西軍に味方します。しかし、関ケ原の戦いが東軍の勝利に終わったので、1600年(慶長5年)10月17日、最上氏は秋田氏のほか打越宮内少輔、仁賀保兵庫頭、赤尾津、滝沢又五郎など由利衆の援軍を加えた総勢約1万の軍勢で小野寺康道が守備する大森城を取り囲みます。大森城の城兵は約800名でしたが、天然の要害であることに加えて横手城主・小野寺義道から約300名の援軍が送られたことなどから、大森城兵の士気が高まり戦線が膠着状態に陥ります。その後、最上氏は積雪の季節を迎えて年内に大森城を落城させることは困難であると考え、一旦、小野寺氏と和議を結んで兵を引きます。その後、関ケ原の戦いの論功行賞で、横手城主・小野寺義道及び大森城主・小野寺康道は改易になります。 

f:id:bravi:20180429095124j:plain 【名称】大森城跡
【住所】秋田県横手市大森町高口下水戸堤
【備考】出羽国の情勢は、最上氏-仁賀保氏-秋田氏の勢力(北朝色)と、大江(寒河江)氏-矢島氏-小野寺氏(南朝色)の勢力の対立が背後にあったのではないかと推測します。

 

⑮大阪の陣

 打越氏(内越氏)は慶長出羽合戦(北の関ケ原の戦い)の軍功により馬廻衆徳川家康の直属部隊である旗本衆は積極的に戦闘に参加する先手衆と徳川家康の身辺を警護する馬廻衆に分かれ、馬廻衆は信頼厚く剣術や弓矢に秀でた上級旗本から選任されており、戦時は馬廻衆、平時は御書院番として将軍の身辺を警護。)に取り立てられます。1614年(慶長19年)、大坂冬の陣では、徳川家康大坂城の守りが比較的に薄く堺を守るのに適した茶臼山に本陣を構え、大身旗本・打越光久(本家Ⅰ)は本多正純、本多忠純、立花宗茂及び前田利孝らと共に本陣の後備えとして出陣しますが(番手組合之次第(8月16日付、秋元摂津守)/参186)、真田丸の奮戦など大坂城の守りが固く苦戦を強いられたことから豊臣氏に和議を申し入れます。その後、1615年(元和元年)5月1日、大坂夏の陣では、徳川家康は二条城を進発して南下を開始しますが、豊臣方からの内通者の情報で京へ火を放つ計画があることが判明し、その善処策を講じるために大坂城への進発を遅らせます(参187)。その後、徳川家康大坂城の総堀を埋め立て攻撃が容易になったことから生駒山麓に本陣を構え、大身旗本・打越光久(本家Ⅰ)は本多正純、本多忠純、立花宗茂及び前田利孝らと共に本陣の前備えとして出陣していますので、徳川家康の本陣へ突撃する真田幸村の軍勢と交戦している可能性があります。

f:id:bravi:20180716100032j:plain 【名称】真田丸三光神社
【住所】大阪府大阪市天王寺区玉造本町14−90
【備考】大坂冬の陣真田幸村が本陣を構えた真田丸。東郭にある地下道は、大坂城とつながっていると言われています。
f:id:bravi:20180716092703j:plain 【名称】茶臼山
【住所】大阪府大阪市天王寺区茶臼山町1−1
【備考】大坂冬の陣徳川家康大坂夏の陣真田幸村が本陣を構えた茶臼山大坂冬の陣で打越氏(内越氏)(本家Ⅰ)は徳川家康本陣後備え。
f:id:bravi:20180716092445j:plain 【名称】徳川家康本陣跡(大坂夏の陣
【住所】大阪府東大阪市豊浦町5
【備考】大坂夏の陣では、生駒山を背にして真田幸村の本陣である茶臼山とは対角線上に布陣。打越氏(内越氏)(本家Ⅰ)は本陣前備え。
f:id:bravi:20180716092550j:plain 【名称】真田幸村終焉の地(安居神社
【住所】大阪府大阪市天王寺区逢阪1丁目3−24
【備考】疲労困憊した真田幸村は、この境内にある松の下で腰かけていたところを敵に討たれます。
f:id:bravi:20190826052922j:plain 【名称】真田の抜け穴
【住所】和歌山県伊都郡九度山町九度山1378
【備考】真田幸村はこの抜け穴を使って幽閉されていた九度山から脱出し、大阪冬の陣へ向かったと言われています。
f:id:bravi:20190824084130j:plain 【名称】真田幸村の槍先(善名称院
【住所】和歌山県伊都郡九度山町九度山1413
【備考】真田幸村大阪夏の陣で実際に使用していた槍先です。
f:id:bravi:20190824080536j:plain 【名称】大阪城
【住所】大阪府大阪市中央区大阪城
【備考】正しくは大坂城と表記するようですが、その後、大阪城と表記が改められています。
f:id:bravi:20190824080311j:plain 【名称】大阪城跡(千貫櫓)
【住所】大阪府大阪市中央区大阪城
【備考】大阪城は日本一の高さを誇る石垣で有名ですが、伊賀上野城や二条城を手掛けた築城の名手・藤堂高虎によるものです。

 

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