打越氏(内越氏)は、清和天皇及び物部氏族熊野国造系和田氏を源流とし、南北朝の動乱を契機として、河内(甲斐)源氏流小笠原氏(本姓源氏)と楠木正成の弟又は従弟・楠木正家(本姓橘氏)とが姻戚関係を結んで発祥した氏族であり、戦国時代、小田原征伐、関ケ原の戦いなどを契機として出羽国由利郡で勢力を伸ばし、1系統17流(本家3流、分家14流)の系流に分かれながら日本全国へ進出して行った同祖同根の氏族です。現代に残る限られた古文書等から、その歴史的な事跡を明らかにします。

第2部第2巻 打越(内越)氏の合戦(第3段)

第3段 打越氏(分家Ⅱ)の合戦 

①神生の乱

 江戸重道の重臣・江戸道澄と神生右衛門は徳政令の実施を巡って対立し、江戸道澄が江戸重道を頼ってきたので、その子・江戸道升を援軍に差し向けたところ神生右衛門の返り討ちに合います。しかし、神生右衛門も常陸江戸氏の攻撃に耐え切れず、額田城の小野崎輝道を頼って落ち延びます。常陸江戸氏は小野崎氏に対して神生氏の引き渡しを要求しますが、小野崎氏がこれを拒否したので、1589年(天正17年)、常陸江戸氏は額田城を攻撃して落城させ、小野崎氏は結城氏を頼って落ち延びます。これにより江戸重道から額田城攻めに軍功があった家臣・打越刑部少輔に対して「額田において討敵の動比類なく候」という感状が送られますが(参21)、この乱で打越彦三郎は討死します(参188)。なお、神生の乱では、伊達政宗佐竹義重の家臣・小野崎氏に対して佐竹氏と離反して敵対すれば、その恩賞として常陸江戸氏の領地を与えるという条件で内応を促しており、これに対し、佐竹氏は、小野崎氏が敵対関係にある伊達氏へ内応する虞があったので、伊達政宗による常陸国への勢力拡大を阻止する意図もあって、常陸江戸氏へ援軍を送っています。

f:id:bravi:20180429100304j:plain 【名称】額田城跡(阿弥陀寺
【住所】茨城県那珂市額田南郷258
【備考】阿弥陀寺の境内を抜けると、額田城二の丸へと通じています。
f:id:bravi:20210522065252j:plain 【名称】額田城跡(本丸の堀)
【住所】茨城県那珂市額田南郷258
【備考】当時は1km四方に亘る巨大城郭でしたが、現在は堀や土塁の跡が僅かに残るのみです。

 

水戸城の戦い

 佐竹義宣は、江戸重通が小田原征伐に参陣しなかったことから水戸城の明け渡しを要求しますが、常陸江戸氏はこれを拒否したので、1590年(天正18年)12月、佐竹氏は常陸江戸氏征伐のために水戸城を攻撃します(注71)。江戸重通は手勢を率いて那珂川を渡河し佐竹氏を迎え討つ姿勢を示しますが、佐竹氏が水戸城を攻撃するために軍勢を二手に分けて進軍していることを察知し、水戸城へ籠城します。佐竹義宣(但し、佐竹義宣は上洛中であったのでその名代ではないかと思われます)が率いる本隊は太田→久慈川→後台→青柳→神生平と進軍し、また、佐竹義重が率いる別動隊は太田→村松→市毛原→勝倉→枝川と進軍して領内にある常陸江戸氏の支城(館)を次々に落としたうえで、水戸城の天王曲輪に突入して落城させ、江戸重通は結城氏を頼って落ち延びます。このとき水戸城を守備していた打越左京亮が討死します(参189)。

 

(注71)江戸氏に仕えた打越氏(分家Ⅱ)と佐竹氏に仕えた打越氏(分家Ⅲ)

打越(三郎兵衛)光重が出羽国由利郡から甲斐源氏発祥の地である常陸国へ移住し、佐竹義宣に直臣として召し抱えられていますが、打越氏(分家Ⅲ)は小田原征伐後に佐竹氏に仕官していますので、幸い常陸江戸氏に仕官していた打越氏(分家Ⅱ)とは敵味方に分かれて争うことはなかったものと思われます。 

f:id:bravi:20180430062237j:plain 【名称】水戸城跡(二の丸)
【住所】茨城県水戸市三の丸3-10-1
【備考】当初は本丸と二の丸の一部しかありませんでしたが、その後、二の丸と三の丸が拡充されています。
f:id:bravi:20180430062044j:plain 【名称】水戸城跡(大手門、二の丸)
【住所】茨城県水戸市三の丸9
【備考】三の丸から大手橋の向こうが二の丸です。江戸時代になり、二の丸の一部及び三の丸が拡張され、大手門が設けられました。
f:id:bravi:20210522070557j:plain 【名称】水戸城跡(大手門)
【住所】茨城県水戸市三の丸9
【備考】2020年、水戸城大手門が復元されました。
 

③元治甲子之変

 1864年(元治元年)3月、水戸藩尊攘派の藤田小四郎(藤田東湖の四男)は、江戸幕府が横浜港の鎖港(攘夷)を実施しないことに憤り天狗党(改革激派)を結成して筑波山で挙兵しますが、水戸藩左幕派の市川弘美は水戸城下で諸生党(保守派)を結成して対抗します。同年4月、将軍・徳川家茂は、朝廷から水戸藩主・徳川慶篤を責任者として横浜港の鎖港(攘夷)を実行するように命じられます。しかし、天狗党(改革激派)の一部が攘夷を口実に村々を恫喝して金品を徴収し、これに応じない村を放火して殺害するなど暴徒化したことから(金品の強要、放火など乱暴を働いた田中愿蔵らは7月に天狗党から除名処分)、同年6月、江戸幕府天狗党(改革激派)の追討令を出しますが、幕府軍天狗党(改革激派)に敗退します。同年7月、天狗党(改革激派)の決起に触発された長州藩尊攘派禁門の変を起こし、一気に尊王攘夷の機運が高まります。諸生党(保守派)は水戸城を掌握して江戸在府の水戸藩主・徳川慶篤の意向と関係なく藩政を動かすようになり、水戸藩主・徳川慶篤は内乱鎮圧のために水戸藩支藩の宍戸藩主・松平頼徳を名代として大発勢(改革慎派)を差し向けます。しかし、同年8月10日、失脚することを恐れた諸生党(保守派)は、大発勢(改革慎派)の水戸城入城を拒絶し、やむなく大発勢(改革慎派)は那珂湊へ布陣します。8月20日、大発勢(改革慎派)は水戸城下にある神勢館に進軍しますが、諸生党(保守派)は頑なに水戸城入城を拒否したので、8月22日に交戦状態に陥ります(参257)。8月25日、田沼意尊が率いる幕府軍が笠間に到着すると、一旦、大発勢(改革慎派)は那珂湊に退却します。当初、大発勢(改革慎派)は暴徒化した天狗党(改革激派)と行動を共にすることには消極的でしたが、諸生党(保守派)の工作により大発勢(改革慎派)と天狗党(改革激派)が同一視されるようになり、大発勢(改革慎派)も江戸幕府による追討令の対象に加えられ、同年9月1日、那珂湊に布陣する大発勢(改革慎派)は幕府軍及び諸生党(保守派)に包囲されます。このような経緯を経て、幕府軍と交戦状態に入った大発勢(改革慎派)に参加していた水戸藩目付方同心・打越(佐次郎)正只は、同年9月9日、梵天山麓久慈川畔(常陸国久慈郡島村郷/茨城県常陸太田市島町)で幕府軍と交戦中に討死します(享年43歳/靖国神社合祀)(参193)。再び、幕府軍那珂湊に布陣していた大発勢(改革慎派)を包囲しますが、大発勢(改革慎派)を率いていた宍戸藩主・松平頼徳は幕府の誤解を解くために苦慮し、同年9月26日、幕府軍から弁明の機会を与えるという名目で誘い出されますが、同年10月5日、事態の発覚を恐れた諸生党(保守派)により弁明の機会を与えられることなく騒動の責任をとる形で切腹させられます。同年10月23日、松平頼徳の自刃を知った大発勢(改革慎派)は幕府軍に投降し、それぞれ佐倉藩や古河藩等にお預けとなります。このとき大発勢(改革慎派)に加わっていた打越貞助は、佐倉藩佐原陣屋(藩主・堀田(相模守)正倫)にお預けとなりますが(参194)、その後の打越貞助の記録が残されていませんので、若年であったため斬首にならず放免された可能性があります。幕府軍に投降しなかった天狗党(改革激派)の一部は、京にいる徳川慶喜を頼って上洛を試みますが、徳川慶喜が自ら軍勢を率いて天狗党(改革激派)の鎮圧に乗り出すと恭順の姿勢を示して武装解除し降伏します。これにより諸生党(保守派)が水戸藩を実効支配することになり、天狗党(改革激派)や大発勢(改革慎派)の家族らをことごとく処刑します。その後、戊辰戦争が勃発すると、立場が逆転した諸生党(保守派)は劣勢となり、1868年(明治元年)10月、弘道館戦争で諸生党(保守派)の内越(打越)所一郎が水戸城三の丸で討死します(参195)。明治維新後に諸生党(保守派)の水戸藩士は謀反首謀により家名断絶となりますが、1892年(明治25年)に家名再興と士族編入を願い出て許可され、そのなかに打越惣衛門(目見格)の名前もあります(参196)(注72)。 

 

(注72)元治甲子之変の打越氏(内越氏)

元治甲子之変では、水戸藩士・打越氏(分家Ⅱ)は大発勢と諸生党に分かれて争ったようです。また、水戸藩内の各村に対して天狗党及び諸生党の双方から人数を出すように要請があり、村の安全を守るために双方に協力せざるを得なかった事情があったようで、帰農していた打越家(分家Ⅱ)の庶流は天狗党及び諸生党のそれぞれに人を出しています。当時、大戸村庄屋であった打越惣衛門は水戸藩士(目見格)として諸生党に参加しています。  

f:id:bravi:20210522105703j:plain 【名称】筑波山
【住所】茨城県つくば市筑波1
【備考】1864年(元治元年)、藤田小四郎は攘夷断行・横浜鎖港を主張して天狗党(改革激派)を結成し、筑波山で挙兵して幕府軍及び諸生党(保守派)と交戦状態になります。
f:id:bravi:20200618081324j:plain 【名称】薬王院
【住所】茨城県水戸市元吉田町665
【備考】水戸藩主・徳川義篤は水戸の内乱を鎮撫するために名代の宍戸藩主・徳川頼徳を向かわせますが、諸生党(保守派)が水戸城入場を拒否したので薬王院へ移ります。
f:id:bravi:20210522080427j:plain 【名称】郷校・敬業館
【住所】茨城県ひたちなか市山ノ上町1−1
【備考】徳川頼徳は、願入寺の戦いで諸生党(保守派)に勝利すると、那珂湊の郷校・敬業館に本陣を移します。
f:id:bravi:20210522075307j:plain 【名称】神勢館
【住所】茨城県水戸市若宮2-6-22
【備考】大発勢(改革慎派)は神勢館へ本陣を移し、水戸城入場を交渉しますが、諸生党(保守派)はこれを拒否。幕府軍が笠間に到着したので、一旦、徳川頼徳は那珂湊へ退却。
f:id:bravi:20190630090012j:plain 【名称】梵天山と島古戦場
【住所】茨城県常陸太田市島町
【備考】久慈川河畔で幕府軍と戦闘になり、大発勢(改革慎派)・打越(佐次郎)只正が討死し、明治維新の功労者として靖国神社に合祀されます。
f:id:bravi:20210522080716j:plain 【名称】部田野原の戦い
【住所】茨城県ひたちなか市部田野2792
【備考】大発勢(改革慎派)と天狗党(改革激派)は、激戦の末、幕府軍と諸生党に勝利します。
f:id:bravi:20210522080004j:plain 【名称】磯浜海防陣屋跡
【住所】茨城県東茨城郡大洗町
【備考】大発勢は徳川斉昭が異国船に対する警備強化のために設けた磯浜海防陣屋を占拠して、そこを本営とします。
f:id:bravi:20210623150807j:plain 【名称】日和山
【住所】茨城県ひたちなか市湊中央1-1
【備考】大発勢(改革慎派)は徳川頼徳が切腹させられたと知り日和山幕府軍に投降。大発勢・打越貞助が佐倉藩にお預けになります(その後放免された可能性あり)。
f:id:bravi:20210522080442j:plain 【名称】武田耕雲斎の墓(妙雲寺)
【住所】茨城県水戸市見川2-103
【備考】天狗党(改革激派)の代表者で、京都へ向けて進軍中に敦賀幕府軍に捕えられ、藤田小四郎と共に斬首されます。
f:id:bravi:20210522074827j:plain 【名称】藤田小四郎の墓(常盤共有墓地)
【住所】茨城県水戸市松本町13−34
【備考】天狗党(改革激派)を主導した藤田小四郎(藤田東湖の子)の墓。
f:id:bravi:20210522110318j:plain 【名称】水戸殉難志士の墓(回天神社)
【住所】茨城県水戸市松本町13−33
【備考】天狗党(改革激派)を含む水戸殉難志士が葬られています。
f:id:bravi:20210522081718j:plain 【名称】市川弘美の墓(祇園寺)
【住所】茨城県水戸市八幡町11−69
【備考】諸生党(保守派)の代表者で、明治維新で処刑されています。
f:id:bravi:20210522081615j:plain 【名称】門閥勢の慰霊碑(祇園寺)
【住所】茨城県水戸市八幡町11−69
【備考】門閥派の代表・市川弘美の墓と共に、門閥派の慰霊碑が安置されています。
f:id:bravi:20210522080730j:plain 【名称】幕府追討軍隊士の墓(長福寺)
【住所】茨城県水戸市塩崎町1135
【備考】大発勢は、長福寺に布陣していた幕府軍本陣に投降しています。
f:id:bravi:20200323190359j:plain 【名称】福島藩士の墓
【住所】茨城県ひたちなか市中根堂山1439
【備考】幕府軍の援軍として出陣した福島藩士の墓です。
f:id:bravi:20210522080702j:plain 【名称】宇都宮藩士の墓
【住所】茨城県ひたちなか市田彦540−8
【備考】幕府軍の援軍として出陣した宇都宮藩士の墓です。
f:id:bravi:20210522081316j:plain 【名称】弘道館
【住所】茨城県水戸市三の丸1丁目6−29
【備考】弘道館戦争で、諸生党(保守派)の内越(打越)所一郎が討死します。
f:id:bravi:20210522074735j:plain 【名称】関鉄之助の墓(常盤共有墓地)
【住所】茨城県水戸市松本町13−34
【備考】明治維新の契機となる桜田門外の変を主導した関鉄之助の墓。映画「桜田門外ノ変」では俳優の大沢たかおさんが主演しています。
f:id:bravi:20210620204909j:plain 【名称】彦根藩井伊家上屋敷跡(桜田門
【住所】東京都千代田区永田町1丁目1
【備考】彦根藩井伊家上屋敷から眺める桜田門大老井伊直弼内堀通り沿いを桜田門に向かう途中で桜田門外の変が発生します。桜田門の向こう側に次の時代を夢見ていたのかもしれません。

 

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