打越氏(内越氏)は、清和天皇及び物部氏族熊野国造系和田氏を源流とし、南北朝の動乱を契機として、河内(甲斐)源氏流小笠原氏(本姓源氏)と楠木正成の弟又は従弟・楠木正家(本姓橘氏)とが姻戚関係を結んで発祥した氏族であり、戦国時代、小田原征伐、関ケ原の戦いなどを契機として出羽国由利郡で勢力を伸ばし、1系統17流(本家3流、分家14流)の系流に分かれながら日本全国へ進出して行った同祖同根の氏族です。現代に残る限られた古文書等から、その歴史的な事跡を明らかにします。

第2部第2巻 打越(内越)氏の合戦(第1段)

第1段 総論

 打越氏(内越氏)の各系流は、「南北朝の動乱」「石山本願寺合戦」「小田原攻め」「関ケ原の戦い(慶長出羽合戦)」「大阪の陣」「元治甲子の変」など時代のターニングポイントとなる大きな合戦に参加していますが、その代表的な合戦の概要を簡単にまとめます。

 例えば、奥羽永慶軍記(大沢合戦の段)には「敵の引くをよしと思ひ、勝ちに乗じて追て行かるる処に、敵は岩屋・赤尾津・打越聞ゆる古兵なれば、馬の足立よかりける所にて取り返し、手痛くこそは戦ひける。」とあり(参163)、打越氏(内越氏)らが退くと見せかけて敵を有利な地形に誘き寄せて撃退した様子が戯曲風に物語られています。これによれば、打越氏(内越氏)を含む由利十二頭は、寡勢でも老練巧みな駆け引きによって合戦を有利に展開する戦上手であったことが伺えます。

 現代は、貨幣経済の浸透と経済の高度化及び国際化によって、武士による武力を使った「土地」の奪い合いから(その先鋭的な形である戦争)、サラリーマンによる知力を使った「金銭」の奪い合い(その先鋭的な形である経済制裁)へと合戦のスタイルが様変わりしていますが、他人よりも多くの物を独り占めするために血道をあげる人間の本性(業)に変りはなく、打越氏(内越氏)の祖先がどのように賢く振る舞いながら生き抜いてきたのかを知ることは、現代人にとっても大変に興味深く参考になります。
 
 

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