【現代語訳(意訳)】
元禄2年(1689年己巳)1月27日 一日中、小雨が降っている。丸山重平から助三郎という者が書き写した江戸但馬守重通の書状を出版する予定だが、その所持者として水戸藩士、打越瀬左衛門の名前を併記したいと考えているが可能かという照会があったので、その返事を書いた。
貴殿へ与えられる約束であった恩賞が未だに与えられていないが、以前から申し上げているとおり恩賞が与えられる約束に変更はない。但し、私の考えでは、新たに恩賞として与えられる谷原(地名)について、いまそのことを公表してしまうと(佐竹氏から)お咎を受けるかもしれないので、これまでとおり対応するのが良いであろう。天正17年(1589年己丑)6月21日
通長判
打越豊後守殿
このような書状が残っているが、この書状は助三郎が原本を見ていると記憶している。
この豊後守は打越刑部少輔の父である。徒士を統率していたとのことである。佐竹氏の家臣に河合甲斐守という侍大将がいて、上筋の放火で消火に出動するまでは三多田村赤坂という所に留まっていたと伝え聞く。
このような証文も残っているが日付もないため、本物であるか分からない。
この度、額田城攻めに参陣し、大いに活躍されたので、いずれ(佐竹氏から)恩賞が与えられるであろう。天正17年(1589年己丑)5月11日
重通判
打越刑部少輔殿
この書状は助三郎が原本を見て書き写したものであり、その大意を書き写したものと聞いている。なお、打越刑部少輔は助七郎と言って12歳から北条氏へ(人質として)送られ、額田城攻めが初陣であった。打越刑部少輔の妻は江戸重通の姪であり、江戸宮内大輔の娘である。
今般、江戸重通の書状を出版するにあたって、他に江戸重通の書状等を所持していないかという照会を受けたが、最初は協力するつもりがなかったので捨て置いた。しかし、将軍徳川綱吉様が天保の改革で江戸氏を再評価され、江戸氏及びその旧臣の名声が後世まで伝えられることになったので、このうえない喜びである。これらの書状を書き写した助三郎及び関係者のお蔭でもあると思うので、やはり協力することにして、その旨を丸山重平へ返事する。
(注73)打越瀬左衛門日記の意義
これらの書状は、常陸江戸氏が佐竹氏から一家同位の扱いを受けていたにも拘わらず、その一方で、佐竹氏の顔色を窺って自らの家臣への恩賞も侭ならない微妙な立場に置かれていた状況が垣間見られるもので興味深いです。常陸江戸氏は、このような微妙な立場に置かれていたことから、主家である佐竹氏と対立していた北条氏とも接近してマルチ外交を展開せざるを得なかったのではないかと思われます。将軍綱吉から天保の改革で常陸江戸氏がどのように再評価されたのか仔細は不明ですし、助三郎なる者が書き写した書状が常陸江戸氏の再評価につながったとも考え難いですが、この日記からは常陸江戸氏の旧臣を祖先に持つ打越瀬左衛門の興奮振りが伝わってくるようで、誠に愛すべき御仁です。