打越氏(内越氏)は、清和天皇及び物部氏族熊野国造系和田氏を源流とし、南北朝の動乱を契機として、河内(甲斐)源氏流小笠原氏(本姓源氏)と楠木正成の弟又は従弟・楠木正家(本姓橘氏)とが姻戚関係を結んで発祥した氏族であり、戦国時代、小田原征伐、関ケ原の戦いなどを契機として出羽国由利郡で勢力を伸ばし、1系統17流(本家3流、分家14流)の系流に分かれながら日本全国へ進出して行った同祖同根の氏族です。現代に残る限られた古文書等から、その歴史的な事跡を明らかにします。

第4部第3巻 打越(内越)氏にゆかりの場所(第2段)

第2段 打越氏(本家Ⅱ・Ⅲ、分家Ⅻ・XⅢ)ゆかりの場所
 
第1節 打越氏(本家Ⅱ)にゆかりの場所
①真光寺(和歌山県和歌山市打越町1−38
②千光寺(和歌山県田辺市上秋津4514
真光寺浄土真宗本願寺派楠木正成の子、楠木正行と共に四条畷の戦いで討死した和田賢秀が開山した寺です。打越氏の菩提寺となっています。 真光寺/真光寺は打越氏(本家Ⅱ)の発祥の地である紀伊国海部郡宇須邑字打越の地にあり、打越氏の菩提寺となっています。 真光寺/河内和田氏の家紋である丸に木瓜紋(「苗字から引く家紋の事典」より)を使用しています。 千光寺臨済宗妙心寺派紀州藩士の打越十左衛門の弟とその子が出家した寺で、打越氏の末裔の墓と共に常陸源氏佐竹氏流の佐武氏の墓紀州武田氏流の愛洲家の墓橘氏の墓等もあります。 千光寺/佐武氏の家紋である丸に五本骨扇紋を使用しています。
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①雑賀城(和歌山県和歌山市和歌浦中3-1-31
根来寺和歌山県岩出市根来2286
③本庄城(大阪府大阪市北区本庄東3-10-6
本願寺鷺森別院(雑賀御坊)(和歌山県和歌山市鷺ノ森1
雑賀城石山本願寺合戦で顕如上人は雑賀衆に援軍を要請するために本願寺鷺森別院(雑賀御坊)に入りますが、これを受けて織田信長は第一次紀州征伐を行います。このとき雑賀衆の党首である雑賀孫一雑賀城に立て籠もって応戦し、その出城である弥勒寺山城顕如上人を匿います。因みに、打越氏(本家Ⅱ)の発祥地である紀伊国海部郡宇須邑字打越にある東禅寺山城も雑賀城の出城として築城されています。(この3つの城は約2k圏内に密集しています。) 根来寺真言宗浄土真宗本願寺)の雑賀衆真言宗根来寺)の根来衆は共に鉄砲の専門集団で相互に交流があり、佐武義昌は根来寺で鉄砲を調練 本庄城跡/打越藤左衛門(本家Ⅱ)は第一次木津川合戦で石山本願寺の支城である本庄城を守備しており、敵味方を問わず「鳴世」(名声を博する)と評せられています。本庄城は木津川(現、淀川)から上陸する敵を措置する役割を担っていましたが、写真前方が淀川、写真後方が石山本願寺(大阪城がある場所)となります。 本庄城跡織田信長は第一次木津川合戦では雑賀衆の鉄砲と毛利水軍焙烙火矢に大敗を喫しています。 本願寺鷺森別院(雑賀御坊)顕如上人から打越正義(分家Ⅰ)に援軍要請がありその名代として弟・打越三郎左衛門が派遣されて本願寺鷺森別院(雑賀御坊)を守備しています。このとき楠木正意も本願寺鷺森別院(雑賀御坊)を守備しており、その後、楠木正意が出羽国由利郡打越郷へ遁れたという記録が残されています(「西摂大観上巻」より) 
和歌山城和歌山県和歌山市1-3
②安養寺(和歌山県和歌山市祢宜198
和歌山城浅野長政の子・浅野幸長が連立式天守。浅野氏の時代は黒板張の天守でしたが、その後、徳川氏の時代に白壁の天守となりました。 和歌山城(御橋廊下)/藩主の趣味の部屋(西の丸)と生活の部屋(二の丸大奥)をつなぐ廊下橋。西の丸には庭園や茶室、能舞台等があります。 安養寺/浄土宗。 安養寺/打越安左衛門が紀州徳川家に提出した家系図には、源姓打越氏として丸に橘紋を家紋とすると記されており、打越氏(本家Ⅱ)の末裔の墓所と思われます。なお、和歌山県に分布している打越氏の家紋は、丸に日の丸扇紋又は丸に五本骨扇紋が圧倒的に多く、雑賀衆佐武氏(甲斐源氏佐竹氏流)との姻戚関係が考えられます。  
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熊野本宮大社和歌山県田辺市本宮町本宮1110
熊野本宮牟婁郡大領・橘広方の曾孫・橘良冬が和田良冬に改称として和田庄司(庄司とは貴族や寺社の領地を管理する職)を称し、代々、熊野本宮の禰宜神職)を努めています。また、その子孫は土豪化して紀伊国河内国等に勢力を持ち、河内和田氏の祖となります(「姓氏家系大辞典第2巻」より)。熊野本宮から小辺路高野山)や峯奥駈道’(吉野山)に至ると楠木氏の領地である千早赤阪へ通じていますので、蟻の熊野詣と言われるように人々の往来が盛んであったと思われます。 熊野本宮/プロサッカー選手の元祖・藤原成道は蹴鞠上達祈願のために50回以上も熊野詣をし、熊野本宮でうしろ鞠の名技を奉納しています(「古今著聞集」より)。サッカー日本代表のエンブレムは熊野本宮の寺紋である八咫烏です。 熊野本宮(本殿)熊野古道小辺路高野山から熊野本宮)、中辺路(田辺から熊野本宮)及び大辺路(田辺から那智大社、速水大社)の3つの参詣道が世界遺産に登録されています。これ以外にも峯奥駈道(金峯山寺~熊野本宮)や伊勢路伊勢神宮~速水大社、那智大社)があります。そして、川の参詣道として熊野川舟下り(熊野本宮~速水神社)があり、打越保さん(90)が最高齢の船頭として活躍されています。 八咫烏ポスト/ハガキの元祖・多羅葉のご神木の下に八咫烏ポストがあり(戦国時代には多羅葉に枝で文字を書き込んで密書にしていました)、2018年12月31日までに投函すると八咫烏の消印が押印されます。ハガキ(葉書)の名前は多羅葉に書くから由来。 大斎原の大鳥居/熊野本宮は熊野川、音無川及び岩田川の合流点にある中洲「大斎原」にありましたが、1889年(明治22年)の大水害で社殿が流され、現在の場所に遷座されています。
熊野速玉大社(和歌山県新宮市新宮1
熊野速玉大社/熊野本宮は熊野川、熊野速玉大社はことびき岩、熊野那智大社那智の滝御神体(神の依り代)としています。新宮市には、武蔵坊弁慶産家楠跡、源義盛(新宮十郎行家)屋敷跡(源頼朝源義経の叔父)、平忠度生誕地(平清盛の異母兄弟)が残されており、中世武家社会のダイナミズムが感じられる歴史の深い土地。 熊野速玉大社/熊野速玉大社の禰宜を努めていた穂積氏流鈴木氏は穂積国興の子・鈴木基行が鈴木を名乗ったことが始まりと言われています。本紋は穂積姓に由来する「抱き稲」(イネのホ→ススキ(イネのホに酷似)→スズキ)、替紋は熊野別当藤原氏に由来する「下り藤」です(熊野に分布している打越氏にも「下り藤」を使用している家があり同様の由緒ではないかと推測されます)。その子孫が熊野から藤白に移住して藤白神社和歌山県海南市藤白448)の神職も努め、境内には鈴木屋敷が現存しています(鈴木屋敷復元プロジェクトクラウドファンディングに挑戦中)。その子・鈴木良氏と河内和田氏の祖・橘博方の娘の間で生まれた鈴木重氏は源義経に従って武蔵坊弁慶らと共に衣川館で討死しています。また、その次男・鈴木重次雑賀衆鈴木氏の祖となります。 熊野川熊野川は「熊野川 瀬切に渡す 杉舟の 辺波に袖の 濡れにけるかな」(後嵯峨上皇)と和歌に詠まれているとおり川の参詣道と言われ、現代に川舟下りの文化が受け継がれてており、世界遺産にも登録されています。最高齢の船頭として打越保さん(90)が川舟下りの文化を次世代に受け継ぐために頑張っておられ、同じ一門として非常に誇らしく感じています。 熊野牛王符/熊野牛王符に認めたことは熊野権現に対して誓ったということ(神様との約束)になり、これを破ると神罰が下る(血を吐いて地獄に落ちる)と信じられていましたので、戦国時代には国主が家臣に忠誠を誓わせるために提出させる起請文や合戦時の和睦などに使用されていました。熊雄牛王符には熊野大社で88羽、那智大社で72羽、速玉大社で48羽の烏がデザインされています。契約書は国家がその実現を保証するというものですが、熊野牛王符は神様がその実現を保証するというものなので、当事者の心理的強制力は相当に強いものでした。  御神木「梛」(ナギ)/境内にある梛(ナギ)の大樹は樹齢千年を超え、昔からの葉を懐中に納めてお参りすると道中の案園が守られると言われTきました。「千早ふる 熊野の宮の なぎの葉を 変わらぬ千代の ためしにぞ折る」(藤原定家)  
神倉神社(和歌山県新宮市神倉1-13−8
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神倉神社/熊野速玉大社の摂社である神倉神社の山麓の鳥居。拝殿に続く石段は、源頼朝が寄進したと伝えられる急勾配の鎌倉積み石段で538段あります。雨上りの日は滑り易いので避けることをお勧めします。 神倉神社御神体であることびき岩。ことびきとは新宮の方言で、ヒキガエルのこと。熊野三山に祀られる熊野権現が初めて地上に降臨した伝承をもつ古社で、その創建は神話時代の128年頃と言われています。 高倉神社/高倉神社は天ノ磐盾(あまのいわだて)という険しい崖の上にありますが、黄昏色に染まる新宮市街と熊野灘、黄昏月を一望できる眺望です。    
熊野那智大社和歌山県東牟婁郡那智勝浦町那智山1
熊野那智大社の二の鳥居/社殿は、317年に仁徳天皇が創建し、平重盛が改装し、織田信長による焼討にあった後に豊臣秀吉が再興しています。 熊野那智大社/2107年に創建1700年を迎えた記念事業として社殿の修補等が進められており、既に拝殿(写真)の修補を終え、年内には全ての施設の修補等が完了する予定です。現在、熊野那智大社では創建1700年事業の奉賛を受け付けられています。 御懸彦社と八咫烏八咫烏(ヤタガラス)のヤタとは「大きい」という意味を持っており、古から神の使いとされてきました。 那智の大滝/高さ133mで一段の滝として日本一の長さです。 クスノキ胎内くぐり平重盛が手植えした樹齢約850年の大楠。神社は生者のための場所、寺社は死者のための場所ですが、神社は鳥居(女性器)を潜って、参道(産道)を通り、本宮(子宮)に至って、心の穢れを払い、もう一度生まれ直して鳥居(女性器)から出てくる神聖な場所(命を育めるのは神様のみ)です。お宮参り、七五三、結婚式など人生の節目に神社を参詣するのは、もう一度生まれ直して新たな気持ちで人生を歩むための大変に有難い儀式です。
①竹之坊墓地(光明寺跡、井泉寺跡)(和歌山県田辺市本宮町本宮624
②平野墓地(和歌山県田辺市本宮町本宮630
竹之坊墓地/熊野連正全の墓。物部氏の始祖・饒速日命ニギハヤヒ)の後裔が成務天皇から熊野国造を任命され、熊野連の姓を下賜っており、代々、紀伊国牟婁郡の大領(郡司)や熊野本宮大社禰宜神職)を務めています。 竹之坊墓地熊野本宮大社の社家を務めた熊野国造の後裔・楠木氏の館があった場所(光明寺跡、井泉寺跡)にある楠木氏の墓。なお、墓地内には嶋(島)津氏の墓もありますが、その由緒は不明です。 志摩国を支配した島津国造の末裔の可能性もありますが、家紋が薩摩藩島津氏のものです。 平野墓地熊野別当・和田(内膳)良賢の墓。 平野墓地/楠(嘉兵衛)良清の墓もあるそうですが、どの墓なのか特定ができません。  
熊野川川舟センター(和歌山県新宮市熊野川町田長47
新宮十郎行家(源義盛)屋敷跡(和歌山県新宮市熊野地2-1−11
平忠度生誕の地(和歌山県新宮市熊野川町宮井
南方熊楠の生家跡(和歌山県田辺市中屋敷町36
熊野川川舟センター川の参詣道として熊野川舟下り(熊野本宮~速水神社)があり、打越保さん(90)が最高齢の船頭として活躍されています。「熊野川 瀬切に渡す 杉舟の 辺波に袖の 濡れにけるかな」(後嵯峨上皇)と歌に詠まれていますが、遥か千年以上の昔から熊野川の悠久の流れに乗せて人々の祈りを運び続ける川舟下りの文化を担っておられる方の中に、同じ一門の方が携わっておられることを大変に誇りに感じます。 熊野川熊野本宮大社と熊野速玉大社の間を結ぶ川の参詣道で、十津川から熊野灘に注ぐ川。 新宮十郎家行(源義盛)屋敷跡源為義と熊野速玉大社の禰宜・鈴木重忠の娘との間に生まれ、源義経と行動を共にして1186年(文治2年)に源頼朝に捉えられます。 平忠度生誕の地熊野別当湛増の妹(武蔵坊弁慶の兄妹)を妻に娶り、湛増平治の乱で平家方に味方しますが、源平合戦では熊野水軍を率いて源氏方に味方しています。因みに、打越光種は熊野別当の湛慶(弁慶の父)の兄で熊野別当・長範の末裔・鵜殿長種の四男を娘の婿養子として迎えて打越光業と名乗らせ、打越氏(本家Ⅰ)の家督を相続させています。 南方熊楠の生家跡/南方家は、鈴木氏が神職を勤めた藤白神社を信仰し、藤白の「藤」、熊野の「熊」、引作の大楠の「楠」の3文字から名前をとると健康で長寿を授かるという家伝があり、南方熊楠は「熊」と「楠」の2文字を名前を授かったと言われています。なお、近くには南方熊楠珍種の藻発見の池跡(和歌山県田辺市神子浜2丁目16−9)があります。
弁慶産家楠跡石碑(三重県南牟婁郡紀宝町鮒田1183
②弁慶生誕地の碑(和歌山県田辺市湊27−1054
③弁慶松・弁慶産湯の井戸(和歌山県田辺市新屋敷町1-6
熊野水軍出陣之地(和歌山県田辺市扇ケ浜3
弁慶産屋楠跡石碑武蔵坊弁慶の父と言われている熊野別当湛増は、母が源為義の娘であり、妹が平忠度の妻となっており、平治の乱では平氏源平合戦では熊野水軍を率いて源氏に味方しています。 弁慶産屋楠跡石碑武蔵坊弁慶熊野別当湛増の子として生まれ(義経記)、鮒田村で生まれたと言われています(紀伊風土記)。因みに、湛慶の兄で熊野別当・長範の末裔・鵜殿長種の四男を娘の婿養子として迎えて打越光業と名乗らせ、打越氏(本家Ⅰ)の家督を相続させています。 弁慶生誕地の碑武蔵坊弁慶の父である熊野別当湛増の子孫と名乗る大福院。鮒田で生まれた武蔵坊弁慶は(紀伊風土記)、その後、田辺で成長したものと思われます。なお、大福院の隣には鶏合壇浦合戦(平家物語)の舞台となった世界遺産闘鶏神社があり、源義経が奉納した横笛や弁慶産湯の釜等が展示されています。 弁慶松・弁慶産湯の井戸/弁慶産湯の井戸は田辺第一小学校にあった弁慶の産湯の水を汲んだと言われている井戸と、弁慶の死を悼んだ人々が産湯の井戸の傍らに植えた松(現在は6代目)を田辺市役所の敷地内に復元しています。 熊野水軍出陣之地/1185年(元暦2年)、源義経によって平氏追討使に任命された熊野別当湛増熊野水軍200余艘(2000人)を率いて三浦水軍・河野水軍らと共に壇ノ浦の戦い平氏と戦って勝利しています。
長谷寺和歌山県新宮市熊野地2-1−11

仁王堂重要文化財。河内~伊賀を結ぶ初瀬街道を見下ろす初瀬山にある長谷寺で、大額の文字は後陽成天皇の宸筆と言われています。 登廊(下登廊)重要文化財。仁王門から本堂まで続く登廊は399段の石段が並び、長谷式と呼ばれる丸燈籠がつるされています。長谷寺は花の御寺という異名を持っているように登廊の両側には四季折々の花々が咲き、その風興に心を遊ばせながら本堂へと心を整えていきます。 本堂(礼堂)/国宝。1650年(慶安3年)、徳川光家によって建て替えられています。1585年(天正13年)、豊臣秀吉による焼き討ちで焼失した根来寺の住職が長谷寺に入山しており、それ以後、根来寺の法灯を受け継ぐ真言宗の地委員となりました。 二本(ふたもと)の杉源氏物語の玉鬘の巻に登場する二本(ふたもと)の杉です。また、境内には藤原俊成(父)・藤原定家(子)の塚があり、藤原定家は「年も経ぬ 祈る契は 初瀬山 尾上の鐘の よその夕暮れ」(新古今和歌集)と詠んでいます。 玉鬘の大銀杏長谷寺と初瀬川を挟んだ素盞雄神社には玉鬘が滞在した宿坊があったと言われる場所で、晩年、玉鬘が隠棲した玉鬘庵があったところです。
 
第2節 打越氏(本家Ⅲ)にゆかりの場所
打越城(和歌山県田辺市下川下826-1
打越城/打越氏(本家Ⅲ)の発祥の地(紀伊国西牟婁郡和田邑字打越)にある打越城跡です。梵光寺と打越屋敷を背後に控えて日置川とその支流の安川に挟まれた天然の要害に建てられた城です。 打越城/打越城の北西を流れる日置川。日置川沿いを北上すると熊野古道・中辺路(花王院がカヤの枝を折って箸にし、有名な牛馬童子像がある場所)に通じています。 打越城/打越城の南東を流れて日置川に合流する安川。安川沿いを北上すると熊野本宮に通じています。 打越城/打越城の西側を走る切通。打越城のある紀伊国西牟婁郡和田邑は河内和田氏の祖で熊野本宮禰宜・和田氏(家紋:丸に橘紋)の領地であった場所です。 打越城/打越氏(本家Ⅲ)の発祥の地(紀伊国西牟婁郡和田邑字打越)です。和歌山県西牟婁郡大塔村護良親王(大塔宮)が都から落ちのびる際に立ち寄ったことに由来して命名されましたが、このとき和田村ほか数村が併合して大塔村となっています。
梵光寺(和歌山県田辺市和田148
梵光寺(曹洞宗紀州武田氏の末裔である湯川直春の四男が河内和田氏の祖・熊野本宮禰宜・和田氏(家紋:丸に橘紋)の領地に身を寄せて出家し「打越」を名乗ります(本家Ⅲ)。なお、打越氏(本家Ⅱ)の発祥地である紀伊国海部郡宇須邑字打越には楠木正成の甥・和田賢秀が開山した浄土真宗本願寺派真光寺があり、和田氏と同じく丸に橘紋や丸に木瓜紋を使用しています。 梵光寺(曹洞宗/打越氏の累代の墓。 打越屋敷/梵光寺の墓地を見下ろす台地上に打越忠蔵が居を構えた打越屋敷の跡地が見えます。    
①泊城(和歌山県田辺市芳養町848
②小松原館(湯川子安神社)(和歌山県御坊市湯川町小松原50
亀山城和歌山県御坊市湯川町丸山599
④法林寺(和歌山県御坊市湯川町小松原176
⑤龍松山城和歌山県西牟婁郡上富田町市ノ瀬1957
泊城/武田忠長が甲斐から熊野へ移住し、湯川庄司の娘養子となって湯川氏の家督を承継して湯川忠長と称し泊城へ入りました。紀州武田氏流湯川氏発祥の地。 小松原館(湯川子安神社)/湯川氏は本拠地を泊城から亀山城へ移し、小松原館を中心として勢力を拡大します。 亀山城/1585年、豊臣秀吉の第二次紀州征伐で第12代・湯川直春は亀山城に籠城しますが、小松原館を焼いて叔父・湯川教春が守備する泊城に逃れます。 法林寺/写真の右側の石碑が湯川直光の宝篋印塔となります。境内には湯川氏(割菱紋)玉置氏(洲浜紋)湯川直春の娘と姻戚関係を結んだ玉置直和(花菱紋)の末裔の墓碑が安置されています。なお、玉置氏の花菱紋は湯川氏と姻戚関係を結ぶにあたって湯川氏から玉置氏へ譲与されたものと思われます(家名を残し、家紋を譲与するパターン)。なお、打越氏は湯川氏及び玉置氏と軍事同盟の関係にありました。 松山城/湯川直春は泊城から龍松山城まで退却して神出鬼没のゲリラ戦を展開して豊臣軍を籠絡します。豊臣秀吉は湯川直春に手を焼いて和睦することにしますが、1586年に羽柴秀長大和郡山城主になり、挨拶に行った帰りに藤堂高虎の屋敷で毒殺されます。これを受けて湯川直春の四男・忠蔵は紀伊国西室郡和田邑字打越で入道し、打越忠蔵と名前を改めます。龍松山城から国道219号線(下川上牟婁線)を東へ進むと打越城及び打越屋敷があり、国道216号線(温川田辺線)を西へ進むと打越氏(本家Ⅱ、本家Ⅲ又は分家Ⅺ)が集中的に分布する集落があります。
 
第3節 打越氏(分家Ⅻ・XⅢ)にゆかりの場所
①肝付氏歴代の墓(盛光寺跡)(鹿児島県肝属郡肝付町前田743-7
②肝付(野崎)氏歴代の墓(宝泉庵跡)(鹿児島県肝属郡肝付町野崎2300
③肝付兼弘の供養塔(鹿児島県肝属郡肝付町野崎2300
④恒吉城(鹿児島県曽於市大隅町恒吉599
③末吉城(鹿児島県曽於市末吉町諏訪方8653−7
肝付氏歴代の墓(盛光寺跡)/肝付氏は大伴氏(後に伴氏)を祖とし、伴兼俊が薩摩掾に任命されて下向し、その曽孫・伴兼俊大隅国肝属郡の弁済使となって肝付氏を名乗るようになっています。1341年(暦応4年)、南朝方の肝付兼重が籠城する東福寺城が島津貞久によって攻め落とされますが、1343年(興国3年)、征西大将軍懐良親王熊野水軍らに守られて薩摩国の谷山城に入城し、島津貞久は一時苦戦を強いられています(「新宮市誌」より)。紀伊国熊野水軍(打越氏の源流は物部氏流熊野国造)が南朝方を支援するために薩摩国大隅国へ遠征していました。
肝付(野崎)氏歴代の墓(宝泉庵跡)/肝付兼弘が大隅国肝属郡野崎郷を支配し、野崎氏を名乗ります。南九州では田を守る神として田の神(たのかんさぁ)が祀られていますが、肝付(野崎)氏歴代の墓(宝泉庵跡)にも塚崎の田の神が祀られています。 肝付兼弘の供養塔/肝付兼弘の供養塔。この近くに樹齢1300年を超える塚崎の大楠があります。 恒吉城/1599年(慶長4年)、庄内の乱(関ケ原の戦いで島津氏が数百の軍勢しか派兵できない原因となった御家騒動)を起こした伊集院忠眞(禰寝(根占)家の家臣・打越(用右衛門)房勝の娘が嫁いだ伊集院忠真は同姓同名の別人)の弟・伊集院小次郎が籠城していた末吉城を攻略するために、島津氏の重臣・肝付(肝属)家の家臣である打越十兵衛が大隅国恒吉郷(現、鹿児島県曽於市大隅町)から(末吉城落城後に)島津氏の直轄地に組み込まれる大隅国末吉郷(現、鹿児島県曽於市末吉町)への移動(衆中召移し)を命じられています。(「藩社会の研究」より)。 末吉城/伊集院小次郎が籠城していた末吉城空堀の遺構などが残されています。
①禰寝氏歴代の墓(極楽寺跡)(鹿児島県肝属郡南大隅町佐多郡1591
②禰寝氏歴代の墓(園林寺跡(根占))(鹿児島県肝属郡南大隅町根占川南4877
③富田城(鹿児島県肝属郡南大隅町根占川南5463
④禰寝氏歴代の墓(園林寺跡(日置))(鹿児島県日置市日吉町吉利4998
小松帯刀仮屋跡(鹿児島県日置市日吉町吉利3067−1
禰寝氏歴代の墓(極楽寺跡)大宰府の在庁官人であった建部氏を始祖とし、建部清重が大隅国禰寝院の地頭職に任命され、禰寝氏を称するようになりました。子孫には小松帯刀(維新十傑)のほか、加山雄三(俳優)、武豊(騎手)やねじめ正一(作家)などがいます。 禰寝氏歴代の墓(園林寺跡(根占))/禰寝氏は太閤検地により豊臣秀吉から領地替えを命じられていますが、園林寺鬼丸神社は、禰寝氏の旧領である根占と禰寝氏の新領である日置の双方に創建されています。 富田城/当初、禰寝氏は佐多の高木城を居城としていましたが、第5代・禰寝清治が根占に富田城を築城して居城としました。現在は私有地(畑)になっていますが、写真正面が本丸跡と言われています。 禰寝氏歴代の墓(園林寺跡(日置))/明治時代の廃仏毀釈で廃寺となっていますが、禰寝氏(小松氏)歴代の墓が安置され、肝付氏から禰寝氏に婿養子に入った小松帯刀の墓もあります。建部氏を祖とする禰寝氏平重盛と姻戚関係を結んでいることから、平重盛の愛称である小松氏も名乗っています。 小松帯刀仮屋跡小松帯刀仮屋跡は、現在、吉利小学校になっていますが、敷地内のあちらこちらに卒業記念碑が建立されており、打越氏の子孫と共に、打越氏とも姻戚関係を結んでいる伊集院氏の子孫や禰寝氏の流れを汲む武氏の子孫と思しき名前が発見できます。打越(用右衛門)房勝の娘が伊集院忠眞(薩摩藩第二代藩主・島津忠時の血流で、庄内の乱を起こした伊集院忠真とは別人)に嫁いで長女を出産しています(「鹿児島県史料旧記雑錄拾遺 諸氏系譜 第1巻」より)。また、禰寝清雄が農業の方法を定めた「農業方之条書」を基に郡奉行・汾陽盛常が編纂した「農業法」を写本したものに、吉利奉行所の打越八右衛門及び禰寝越右衛門が連署したものが残されています。(「日本農業全書第34巻」より)
①小松寺(茨城県東茨城郡城里町大字上入野3912
大宰府跡(福岡県太宰府市観世音寺4-6-1
大宰府天満宮福岡県太宰府市宰府4-7-1
④祝吉御所跡(島津氏発祥の地)(宮崎県都城市郡元町3420
小松寺平清盛の嫡男・平重盛の家臣・平貞能平氏滅亡後に高野山から平重盛の遺骨を持ち出して常陸平氏大掾氏を頼って落ち延び、小松寺に平重盛を埋葬して菩提を弔います。因みに、薩摩藩島津氏の重臣・禰寝(根占)家は平重盛の血を引いており、平重盛京都六波羅の小松谷へ抜ける場所に館(小松第)を構えて小松殿、小松内大臣と呼ばれていたことから小松姓を別称としていました。維新の十傑の一人である薩摩藩島津氏の家老・小松帯刀(旧名・肝付兼戈、兄は肝付兼両で、薩摩藩島津氏の重臣・肝付家から禰寝(根占)家の婿養子に入っています。)は小松姓を名乗っています。 小松寺3基の墓碑のうち、一番高い場所にある宝篋印塔が平重盛の墓、その一段低い左にある宝篋印塔が平貞能の墓、その横にある無縫塔が平重盛夫人得律禅尼の墓です。 大宰府大宰府の在庁官人(役人)を養成するために、日本で初めて設立された学校大宰府学校院跡です。 大宰府天満宮/「東風吹かば、匂ひおこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ」の和歌で有名な菅原道真は、大宰府に左遷されると京都の旧邸に植えてあった愛梅が飛んできたという飛梅伝説が知られています。実際は伊勢神宮の神官が京都の旧邸にあった紅梅を根分けして移植したようです。その飛梅の原木(福岡県太宰府市通古賀5-7−20)が残されており、すぐ近くには菅原道真が晩年を過ごした館跡福岡県太宰府市朱雀6-18−1))があります。また、更に、その飛梅の原木から根分けして移植されたのが大宰府天満宮の境内にある飛梅です。大宰府境内には黒田如水が使用した如水の井戸があり、安倍晴明がひらいた晴明の井福岡県太宰府市朱雀4-18−55)もあります。人々の想いが募る梅や井戸には不思議な妖力が宿ると考えられていたのかもしれません。 祝吉御所跡(島津氏発祥の地)大江広元と共に源頼朝重臣であった惟宗忠久は、源頼朝から日向国島津荘(宮崎県都城市)に領地を与えられて島津氏を名乗ります。近くには宮城島津邸(宮崎県都城市早鈴町18街区5号)があり、歴史史料館になっています。なお、源頼朝の墓神奈川県鎌倉市西御門2-5)の近くにある法華堂跡には、江戸後期に薩摩藩及び長州藩によって整備された大江広元毛利氏の祖・大江(毛利)季光島津氏の祖・惟宗(島津)忠久の墓が安置されています。

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