打越氏(内越氏)は、清和天皇及び物部氏族熊野国造系和田氏を源流とし、南北朝の動乱を契機として、河内(甲斐)源氏流小笠原氏(本姓源氏)と楠木正成の弟又は従弟・楠木正家(本姓橘氏)とが姻戚関係を結んで発祥した氏族であり、戦国時代、小田原征伐、関ケ原の戦いなどを契機として出羽国由利郡で勢力を伸ばし、1系統17流(本家3流、分家14流)の系流に分かれながら日本全国へ進出して行った同祖同根の氏族です。現代に残る限られた古文書等から、その歴史的な事跡を明らかにします。

第4部第1巻 甲斐源氏にゆかりの場所(前史)

清和天皇陵(京都府京都市右京区嵯峨水尾北垣内町11
清和天皇社(京都府京都市右京区嵯峨水尾宮ノ脇町58
六孫王神社京都府京都市南区八条町509
清和天皇第56代・清和天皇の第6皇子の子が臣籍降下して源氏を称します。 清和天皇清和天皇を祭神として祀る清和天皇社。その横には清和天皇崩御された円覚寺があり、また、清和天皇の第6皇子・貞純親王の供養塔(宝篋印塔)も安置されています。 六孫王神社清和源氏発祥の地)/清和天皇の第6皇子・貞純親王の子、経基王(六孫王)が臣籍降下して源経基を名乗ったことが清和源氏の発祥となります。 六孫王神社清和源氏発祥の地)源経基六孫王神社がある場所に館を構えています。 六孫王神社清和源氏発祥の地)源経基の遺骸は、その子・源満仲六孫王神社の本殿の裏手にある石積の神廟に埋葬されています。
多田神社兵庫県川西市多田院多田所町1-1
多田神社源経基の子で多田源氏の祖・源満仲を祀っています。 多田神社平忠常の乱を平定した源満仲の子・源頼信の孫・源義家及び源義光甲斐源氏の祖)は前九年・後三年の役で奥羽を平定し、1092年(寛治6年)に凱旋して源満仲の祠を建立。 徳川光圀公手植銀杏/徳川氏は多田源氏河内源氏の棟梁・新田氏の庶流・得川氏(得川→徳川)の末裔を称しています。 三ツ矢サイダー発祥の地/三ツ矢伝説(源満仲が三つ矢羽根の矢が落ちた多田に館を構えた)の地から炭酸ガスを含む良質の鉱泉が湧くので炭酸飲料が製造されるようになり、「三ツ矢タンサン」と命名  
①壷井八幡宮大阪府羽曳野市壷井605
②通法寺跡(大阪府羽曳野市通法寺御廟谷38
新羅善神堂(滋賀県大津市山上町11-34
壺井八幡宮河内源氏発祥の地)/1020年(寛仁4年)、源満仲の子・源頼信が館を構え、1031年(長元4年)に平忠常の乱を平定して源氏による東国支配の基盤を作ります。 壺井八幡宮河内源氏発祥の地)/境内には樹齢1000年になる楠があります。なお、河内源氏と楠木氏との間には歴史的な地縁関係があり、それが打越氏の発祥に大きく作用しています。【河内国石川郡】:河内源氏の発祥地と楠木氏の支配地⇒【常陸国那珂郡】:河内(甲斐)源氏の発祥地と楠木正家(常陸楠木氏)の支配地⇒【出羽国由利郡】:河内(甲斐)源氏小笠原(大井)氏の支配地と打越氏(楠木正家後裔)の発祥地 壺井の井戸/1057年(天喜5年)、源頼義前九年の役旱魃に苦しめられますが、岸壁に弓矢を放ったところ清水が沸いて難を逃れました。その清水を壺に入れて持ち帰り館内に井戸を掘って埋め壺井水と名付けました。 源頼信の墓源満仲の三男で、河内源氏の祖。1031年(長元4年)、平忠常の乱を平定し、河内源氏の東国進出を果たす。 源頼義の墓源頼義の子で、鎌倉を本拠として鶴岡八幡宮を建立しています。その後、鎮守府将軍として多賀城へ入り、前9年の役を戦っています。
源義家の墓源頼義の長男で、陸奥守として後三年の役を戦い、出羽国の金沢柵で清原武衡清原家衡を破っています。この際、馬の背に藁に包んだ大豆を乗せていたところ馬の体温で発酵したのが納豆の発祥になっています。
新羅善神堂源頼義の三男・源義光甲斐源氏の祖)が円城寺(三井寺)の新羅大明神の前で元服したことから「新羅三郎義光」と呼ばれました(清和源氏河内源氏甲斐源氏)。1339年(暦応3年)に足利尊氏が再建。 源義光の墓源義光後三年の役の軍功で常陸介に任じられ、その嫡男・源義業常陸国の平清幹の娘との間で婚姻関係を結んで常陸国久慈郡佐竹郷を支配し、佐竹氏を名乗ります(佐竹氏の祖)。    
湫尾神社(茨城県ひたちなか市武田584
湫尾神社(甲斐源氏武田氏発祥の地)源義光は平清幹から常陸国那珂郡武田郷を譲り受け、その三男・源義清に与え、源義清は武田冠者を名乗ります(武田氏の祖、その庶流が小笠原氏、南部氏、於曾氏に分派)。 武田氏館那珂川を見下ろす武田台地の突端部に武田氏館が構えられました 武田氏館源義清とその子・源清光は勢力拡大のために在地勢力と張り合っていましたが、土地の境界争いから暴行沙汰に発展し(「長秋記」より)、吉田清幹から朝廷に告発され、1131年(天承元年)に甲斐国市河荘へ配流になっています。 武田氏館/武田菱のある鞍。主屋内には甲冑や刀等の出土遺跡が展示されています。  
①義清館跡(山梨県市川三郷町市川大門5154
②義清神社(山梨県甲府市中巨摩郡昭和町四条4265
③義清塚(山梨県甲府市中巨摩郡昭和町四条4256
①義清館跡甲斐国市河荘へ配流になった源義清は平塩寺・源行房(市川別当)を頼って館を構えました(甲斐源氏発祥の地)。敷地内には三条実美の揮毫である甲斐源氏旧跡碑が建っています。 歌舞伎文化公園(市川團十郎発祥の地)/この地に領地を持ち武田信玄の能の師匠・堀越十郎家宣は武田氏滅亡後に下総国成田(市川團十郎先祖居住の碑千葉県成田市幡谷1045)へ移住。その孫・堀越重蔵が江戸に出て蝦蔵と名乗り初舞台を踏み、荒事が好評を博して市川團十郎に改めるが、江島生島事件の生島新五郎の弟子・生島新六に刺殺される。 山村座跡/1714年(正徳4年)、江島生島事件の舞台となった山村座跡(銀座東武ホテル/東京都中央区銀座6-14-10)。遠島となった生島新五郎は初代・市川團十郎を刺殺した生島半六と二代目・市川團十郎の師匠。大奥御年寄・江島は信濃高遠へ流罪。この時期は打越光高が御留守居番として江戸城(大奥等)の警護の任務にあたっています。 義清神社源義清が隠居後1145年(久安元年)に没するまで暮らした館跡。 義清塚源義清の墳墓。
谷戸城跡(山梨県北杜市大泉町谷戸2605
②清光寺(山梨県北杜市長坂町大八田6600
谷戸城跡源清光甲斐国巨摩郡逸見荘へ進出して逸見氏を名乗り、谷戸城を築城します。 谷戸城跡/本丸跡。 清光寺/1151年(仁平元年)、源清光が開基しました。 源清光の墓源清光の墓で、長男・源光長は逸見氏、次男・源信義は武田氏、三男・源遠光は加賀美氏(小笠原氏、南部氏、於曾氏の祖)を名乗ります。  
①法善護国寺山梨県南アルプス市加賀美3509
②加賀美次郎遠光公廟所(山梨県南アルプス市加賀美793
③遠光寺(山梨県甲府市伊勢2-2-3
法善護国寺/源遠光が開国巨摩郡加賀美荘へ進出して加賀美氏を名乗り、法善護国寺がある場所に加賀美屋敷を築きます。 法善良護国寺/加賀美(源)遠光の長男・源朝光は秋山氏の祖、次男・源長清は小笠原氏の祖(打越氏の祖)、三男・源光行は南部氏の祖、五男・源光俊(経光)は於曾氏の祖(打越氏の祖)となり、四男・源光経は加賀美氏を継ぎます。なお、娘の大弐局は源頼朝の子・頼家、実朝の養育係を勤め、その恩賞として出羽国由利郡を下賜され、小笠原長清の七男で養子の大井朝光に相続させます。 加賀美次郎遠光公廟所/加賀美遠光の供養塔(通称、遠光大明神)。 遠光寺/1214年(建暦元年)、加賀美遠光が自らの菩提寺として建立し、1854年(安政元年)盛岡藩主・南部氏により再建。 加賀美遠光の墓/遠光寺にある加賀美遠光の墓。平和通沿いの壁際にあり、ラーメン屋の看板が目印。
小笠原長清館跡(山梨県南アルプス市小笠原441
小笠原長清公祠堂(山梨県南アルプス市下宮地484-2
③長清寺(山梨県北杜市明野町小笠原1205
小笠原長清館跡/源長清は加賀美遠光から甲斐国巨摩郡小笠原郷を相続し、小笠原氏を名乗ります(小笠原氏発祥の地)。 小笠原長清公祠堂小笠原長清の墳墓と伝承され、その後の発掘調査で石棺が出土したことから祠を建立。 長清寺/1221年(承久3年)、承久の乱の軍功により阿波国守護に任じられ(三好氏の祖)、その末裔に三菱財閥の創業者・岩崎弥太郎がいます。 小笠原長清の供養塔/小笠原氏発祥の地として、山梨県南アルプス市小笠原山梨県北杜市明野町小笠原の2説が存在しています。  
大井城跡(長野県佐久市岩村田496
大井城跡(王城公園)/1221年(承久3年)、小笠原長清の七男・大井朝光は承久の乱の軍功により信濃国佐久郡大井郷を下賜り、大井城を構築して大井氏を名乗ります(大井氏発祥の地)。大井朝光は叔母・大弐局の養子となり、出羽国由利郡を相続しています。 大井城跡(王城公園)/大井城は、石並城、王城、黒岩城の3城から構成されています。  大井城跡(王城公園)/大ケヤキ(長野県天然記念物)    
①安養寺(長野県佐久市安原1687
②玄江院(長野県小諸市耳取1922
安養寺(信州味噌発祥の地)/大井氏の菩提寺鎌倉時代に中国から味噌や醤油の製法を持ち帰った僧・覚心の遺志で建立された寺で、信州味噌(安養寺味噌)の発祥の地と言われています。 安養寺ラーメン/安養寺は信州味噌発祥の地としても知られていますが、本場の信州味噌で作った安養寺ラーメン(麺匠文蔵臼田店)が名物で、全国からラーメンファンが後を絶ちません。 玄江院/1466年(文政元年)、大井朝光-大井光長-大井時光(二男)の嫡流にあたる大井貞隆及び大井貞親が開基(仁賀保氏は大井時光の庶流の系流)。 玄江院経蔵内宮殿/松皮菱の格子。 大井氏累代の墓/大井時光(二男)の系流の大井氏累代の墓。
①龍雲寺(長野県佐久市岩村田住吉町415
②城光院(長野県佐久市望月1432
③打越城(真田古城)(長野県上田市真田町長8100
④打越城(滋賀県甲賀市甲賀町隠岐36
大井氏の菩提寺/1312年(正和元年)、大井玄慶が開基。 城光寺/1475年(文明7年)、望月城主・望月光恒が開基し、望月氏菩提寺。望月氏は根津氏及び海野氏と共に滋野三家に数えられ、望月三郎兼家が940年(天慶3年)に平将門の乱の軍功により甲賀十六ケ村を下賜されて甲賀・望月氏を発祥。なお、1331年(元徳3年)に出羽国由利郡の鳥海山元宮に奉納された銅棟札には小笠原(大井)正光と共に滋野行家の名前が記されています。 城光寺望月氏の墓と共に、真田氏の墓が安置されています。望月氏は、南北朝の動乱南朝に与し、戦国時代には真田幸隆の仲介で望月幸忠が武田氏へ臣従。真田十勇士の1人である望月六郎は望月幸忠の子で真田幸村の小姓、また、由利鎌之助出羽国由利郡出身の由利基幸(1573年~1615年)のことで真田昌幸真田幸村に仕えています。なお、真田幸村の娘・お田の方は出羽国由利郡に妙慶寺を建立し、真田幸村家を再興しています。 打越城跡(真田古城)砥石城の戦い村上義清を破った真田幸隆(武田氏の重臣)が居城とした打越城は、信綱寺となり長篠の戦いで討死した真田昌幸の兄・真田信綱、真田昌輝の墓が安置されています。 甲賀・打越城跡甲賀・望月氏の本家旧邸(甲賀流忍術屋敷)滋賀県甲賀市甲南町竜法師2331)の近くに打越城跡があります。
於曾屋敷(山梨県甲州市塩山下於曾539-2
於曾屋敷/於曾光経の屋敷で、その後、於曾光経は同族の加賀美氏を継いでいます。 於曾光俊の墓/於曾屋敷内にある於曾光俊の墓(打越氏の祖)。墓石に刻まれている「経光」とは光俊の別称です(山梨県史 資料編6」より)。 於曾氏社/於曽屋敷内にある於曽氏を祀る社。 板垣権兵衛切腹/武田家滅亡の際に於曽氏家臣・板垣権兵衛が切腹する際に腰掛けた石。於曾信安は板垣信方武田信玄の養育係)の娘婿で、武田信玄の命により板垣氏を再興し、その末裔に板垣退助がいます。 於曾光俊の屋敷跡(塩山駅)塩山駅にある武田信玄像