打越氏(内越氏)は、清和天皇及び物部氏族熊野国造系和田氏を源流とし、南北朝の動乱を契機として、河内(甲斐)源氏流小笠原氏(本姓源氏)と楠木正成の弟又は従弟・楠木正家(本姓橘氏)とが姻戚関係を結んで発祥した氏族であり、戦国時代、小田原征伐、関ケ原の戦いなどを契機として出羽国由利郡で勢力を伸ばし、1系統17流(本家3流、分家14流)の系流に分かれながら日本全国へ進出して行った同祖同根の氏族です。現代に残る限られた古文書等から、その歴史的な事跡を明らかにします。

第4部第2巻 行宮・南朝忠臣にゆかりの場所(第2段)

第2段 行宮・南朝忠臣・楠木八臣にゆかりの場所
 打越氏のようなマイナーの氏族に関する古文書等の記録(ジグソーパズルのピース)は僅かしか残されておらず、打越氏の事績を紐解くにあたっては時代全体の相関関係(ジグソーパズルの全体図)を俯瞰しながら多少の推理を交えて歴史の闇に埋もれている行間(欠けているピース)を補って行く作業が重要になります。この点、南朝忠臣の歴史を紐解くと不思議と打越氏の事績と結び付く点が多く、その土地、人物や史実を手掛りとして打越氏の事績を紐解くうえでの有用な素材を得られると思います。
 
第1節 行宮にゆかりの地
笠置行宮/1331(元弘元年)に討幕計画が北条方に露見して日野俊基藤原師賢らが捕らえられ、後醍醐天皇笠置寺に遁れました。笠置寺に籠城する後醍醐天皇方2,500名は、北条方75,000名に責められて落城し、後醍醐天皇隠岐流罪になりました。 船上山行宮/1333年(元弘3年)に隠岐を脱出した後醍醐天応が名和の湊(御来屋港)に辿り着き、名和長年後醍醐天皇を奉じて挙兵し、船上山の戦いで北条方を撃退して船上山に行宮を設置します。 八瀬天満宮比叡山八瀬口)楠木正成湊川の戦い足利尊氏に敗れると、後醍醐天皇比叡山に逃れますが、八瀬天満宮の裏にある比叡山八瀬口から比叡山に入ったと言われています。この際、後醍醐天皇を遁すために、京都を守備していた名和長年や於曾貞光(打越氏(内越氏)の祖)が討死しています。 吉野行宮(金峰山寺南朝(吉野朝)が置かれた金峰山寺です。王朝文化の雅(菊と刀のうち菊=文雅の要素)を象徴する歌碑が建っています。 賀名生行宮楠木正行、楠木正家、和田賢秀らが四条畷の戦いで北朝勢力の高師直らに敗れ、その後、北朝勢力によって吉野行宮が攻撃されると、後村上天皇北畠親房らは賀名生へ行宮を移します。
 
第2節 北畠氏(浪岡北畠氏、多気北畠氏)にゆかりの場所
多賀城跡(宮城県多賀城市市川大畑13
北畠顕家の墓(大阪府大阪市阿倍野区王子町3-8
北畠顕家・南部師行の供養塔(大阪府堺市西区浜寺石津町中5-3-30
阿部野神社大阪府大阪市阿倍野区北畠3-7−20
多賀城陸奥鎮守府が置かれた多賀城跡。陸奥守(後に陸奥鎮守府大将軍)の北畠顕家後醍醐天皇の子・義良親王(後の後村上天皇)を奉じて下向。なお、1337年(延元2年)に北畠顕家南朝方の伊達氏及び結城氏らと連携して多賀城(平城)から霊山城(山城)に陸奥鎮守府を移していますが、その跡地にある霊山神社福島県伊達市霊山町大石古屋舘1)には北畠親房及び北畠顕家が祀られています。 多賀神社多賀城跡にある後村上天皇の御霊を祀る神社。北畠顕家の死後、その弟・北畠顕信鎮守府将軍に任命され、1351年(正平6年)に観応の擾乱室町幕府の内乱)を奇貨として北朝方に奪われていた多賀城及び宇津峰城の奪回に成功しますが、1353年(正平8年)までに多賀城及び宇津峰城が次々と落城し、北畠顕信出羽国由利郡へ潜伏して再起を図ります(このとき北畠顕信が鳥海山大物忌神社に納めた南朝復興と出羽国静謐を祈願する寄進状が残されています)。なお、宇津峰城の石垣護良親王を祀る鎌倉宮神奈川県鎌倉市二階堂154)に奉納されています。 北畠顕家の墓太平記には北畠顕家は北畠公園がある場所(摂津阿倍野)で討死したと記されています。近くには、北畠顕家を祀る阿倍野神社があります。大河ドラマ「太平記」(第39話)の北畠親房と北畠顕家の父子の厳しいなかにも強い情愛が感じられる場面(21:47~)及び(33:05~)での近藤正臣さんの名演技が心に染みます。 北畠顕家・南部師行の供養塔北畠顕家が討死したと言われている石津合戦の古戦場には北畠顕家と小笠原氏流・南部師行(根城南部家)の供養塔が建立されています。 阿部野神社北畠親房及び北畠顕家を祀る神社。参道に北畠顕家の像
①田丸城(三重県玉城町田丸114−1
②大湊(三重県伊勢市大湊町1118-194
③胆沢城(岩手県奥州市水沢佐倉河字四月23-1
④水沢城(岩手県奥州市水沢大手町1-1
田丸城跡/1336年(延元元年)、北畠親房及び北畠顕信初瀬街道(伊賀-宇陀-河内)と熊野街道が合流する場所に田丸城を築城しますが、1342年(康永元年)、足利尊氏によって攻め落とされています。田丸城の天守閣から正面が大湊、右側が伊勢神宮になります。 大湊/1338年(延元3年)、北畠親房は、義良親王を奉じて、北畠顕家の後任として鎮守府将軍に就任した北畠顕信、結城宗広、伊達行朝らと共に大船53艘で大湊から陸奥へ向けて出港しますが、途中、暴風雨に遭遇して北畠親房常陸国東条浦に漂着しています(第8節を参照)。なお、結城宗広は、伊勢国篠島に漂着しますが、その後、病没しています。 胆沢城跡坂上田村麻呂が政庁舎として築いた旧陸奥鎮守府 鎮守府八幡宮坂上田村麻呂が東奥鎮撫のために勧進し、源義家奥州藤原氏、伊達氏、豊臣秀吉も崇敬。 水沢城跡/1408年(応永15年)、将軍・足利義持に仕えていた北朝勢力の佐々木(将監)繁綱佐々木源氏発祥地:沙沙貴神社)は足利義持の死後に葛西氏を頼り陸奥へ下向して胆沢郡を知行されますが、1590年(天正18年)、豊臣秀吉の奥州仕置で葛西氏が滅亡すると、それに伴って佐々木氏も没落して帰農します。この地方に分布する佐々木氏はその末裔です。
蝦夷奥州勢)を征討するために桓武天皇が派遣した最初の征夷大将軍(天皇が任命する蝦討する軍勢の指揮官の称号)・坂上田村麻呂西国勢)が政庁府として築城しますが、時代は下って源頼朝奥州藤原氏奥州勢)を滅ぼしたことで征夷大将軍に任じられて武士の統領となります。本来、武士は天皇の家人として天皇による土地(=農作物や鉱物)の支配を武力的に支え、その代りに天皇が支配する土地の一部を分配されて、その証として天皇から土地の名前をとして与えられるという国家統治の仕組みが確立します。南北朝の動乱天皇による土地の分配に不満を抱く「武士足利尊氏が率いる西国勢)と「天皇」(陸奥鎮守府大将軍・北畠顕家が率いる奥州勢)の政権(土地の分配権)争いに「武士」(西国勢)が勝利しましたが、明治維新天皇による土地の支配を脅かす欧米列強への対処方針(天皇による土地支配を守るために攘するか又は開国するか)で対立する「天皇」(西郷隆盛が率いる西国勢)と「武士」(徳川慶喜が率いる奥州勢)の政権争いに「天皇」(西国勢)が勝利します。日本に限らず、人類の歴史は常に「西」が「東」を支配する歴史であったと言えるかもしれません。
①宇津峯城(福島県須賀川市塩田金山
鳥海山大物忌神社山形県飽海郡遊佐町吹浦布倉10
③椿館(福島県福島市小倉寺椿舘7−6
宇津峰城北畠顕家が石津の戦いで討死すると弟・北畠顕信鎮守府将軍に任命され、陸奥国へ下向します。その後、北朝方の攻撃によって霊山城、多賀城が落城すると、南朝方の伊達氏らと共に南朝方の田村氏(坂上田村麻呂の子孫)の勢力圏内に宇津峰城を築城して抗戦します。 宇津峰城/宇津峰城が落城すると、北畠顕信は未だ南朝方が優勢であった出羽国由利郡へ潜伏して再起を図ります。 鳥海山大物忌神社鳥海山信仰を司る出羽国一之宮です。本社は鳥海山山頂にあり、薬師十二神将薬師如来の十二の大願に応じて十二の時、十二の月、または十二の方角を守る神将)が祀られていますが、これが打越氏を含む由利十二頭の名前の由来にもなっています。 鳥海山大物忌神社北畠顕信出羽国由利郡へ潜伏していた時期に鳥海山大物忌神社南朝復興と出羽国静謐を祈願する寄進状を奉納し、出羽国由利郡乙友邑の土地(もとは由利孫五郎維方の領地で小早川定平(後に毛利元就の三男・隆景が小早川家の家督を承継し、毛利両川と言われる家)に与えられていた土地)を寄進しています。その後、北畠顕信の消息は定かではありませんが、陸奥国津軽郡浪岡村に遁れ又はその子・北畠守親に後事を託して天野行宮がある河内国金剛寺へ帰ったとも言われています。 椿館/北畠(春日侍従)顕国は、北畠顕家と共に陸奥国へ下向し、伊達氏の居城や霊山城に近い阿武隈川沿いの椿館を守備します。1335年(建武2年)には多田貞綱と共に小山氏を攻撃し、1336年(延元元年)には楠木正家と共に佐竹義春と戦います。その後、1343年(興国4年)に北畠親房が籠城する関城・大宝城が落城して北畠親房が吉野に帰還した後も、北畠顕国は常陸国へ留まって北朝勢力に抵抗しますが、1344年(興国5年)、北朝勢力に捕らえられて斬首されます。
①天童城(山形県天童市天童4146
②北畠神社(山形県天童市荒谷421
天童城(天童城主郭跡)北畠顕家・顕信の子孫・北畠天童丸は南朝方の寒河江氏の勢力圏であり、かつ、この近傍にある立石寺南朝方であったことから舞鶴山に天童城を築城して北朝方と抗戦します。その天童城主郭跡には愛宕神社が建立されています。 天童城/1368年(応安元年)に漆川の戦いで寒河江氏が斯波兼頼に大敗すると、文中年間(1372~1374年)に斯波兼頼の攻撃により天童城も落城し、北畠天童丸は陸奥国津軽郡鰺ケ沢村へと落ち延びます。 天童城(天童神社)/天童城内に北畠天童丸を祀る天童神社が建立されています。なお、1576年(天正4年)に織田信長の長男・織田信雄によって北畠具教が殺害されたことにより伊勢北畠氏は滅亡していますが(映画「忍びの国」)、本能寺の変後、織田信雄の子孫・織田信美が天童織田藩主としてこの地を治めて天童城内に織田信長を祀る建勲神社を建立しています。 天童城(王将の碑)/将棋の駒の生産で有名な山形県天童市に因んで舞鶴山には「王」字をあしらった階段の上に王将の碑が設置されています。因みに、打越氏の祖である小笠原氏は御醍醐天皇から「王子紋」を下賜されており、打越氏(本家Ⅰ)も「王子紋」を使用しています。 北畠神社/1351年(正平6年)に北畠顕信がこの地で北朝方の吉良氏を敗走させたことを祈念して神社が建立されています。
①天童山館(青森県西津軽郡鰺ヶ沢町舞戸町小夜670-14
②浪岡城(青森県青森市浪岡岡田10-15
③北畠神社(青森県青森市浪岡北中野上沢田109−15
天童山館/北畠天童丸は天童城(出羽国)の落城によって陸奥国津軽郡鰺ケ沢村へと落ち延び、鰺ケ沢港を一望する天童山に館を構えます。 天童山館/第2代津軽藩主・津軽信枚の弟・津軽信隆がこの場所に館を築いています。 浪岡城/根城南部氏の庇護のもと北畠顕家の子・北畠顕成が陸奥国津軽郡浪岡村へ移住し(浪岡北畠氏の祖)、その娘は南朝方の安東貞季に嫁いでいます。1578年(天正6年)に津軽為信津軽氏の祖)に攻められて浪岡城が落城し、北畠顕村が自刃して浪岡北畠氏は滅亡しています。その後、浪岡北畠氏の子孫は秋田氏、津軽氏、南部氏の家臣として存続しています。 浪岡城JA青森浪岡東部りんごセンター青森県青森市浪岡大字北中野五倫54)の近隣には浪岡北畠氏累代の墓北畠顕信の子・北畠守親の墓が安置されています。 北畠神社/浪岡北畠氏が浪岡城へ移る前に本拠地とした源常館には北畠神社が建立され、浪岡北畠家累代の墓も併設されています。源常館の遺構が残されています。約800年前に植樹された大銀杏の木津軽山唄の碑があります。大浦氏(南部氏→大浦氏→津軽氏)が浪岡城を落城させて堀越城で祝宴をあげますが、その時、家臣が「浪岡の源常林の銀杏の木は、枝は浪岡、葉は黒石、花は弘前の城で咲く」と唄われ、これが木こりの仕事歌である津軽山唄になったと言われています。
北畠神社(三重県津市美杉町上多気1148
青野ヶ原一里塚(青野ヶ原の戦い)(岐阜県大垣市青野町239−1
北畠神社伊勢国司を任命された多気北畠氏の館があった場所。 北畠神社北畠親房の長男で陸奥鎮守府将軍北畠顕家の死後、その後を次男・北畠顕信が次ぎますが(浪岡北畠氏の祖)、三男・北畠顕能伊勢国司に任じられ、多気北畠氏を継いでいます。 北畠神社/北畠庭園。北畠神社には日本最後の石垣も残されています。 青野ヶ原一里塚(青野ヶ原の戦い)/延元2年(1337年)8月、鎮守府将軍北畠顕家は奥州勢を率いて2度目の上洛に向かいますが、利根川の戦い、杉本寺の戦いなどで北朝勢力を破って12月に鎌倉を攻略。翌年1月2日、北畠顕家は鎌倉を出発し、北朝勢力と転戦しながら東海道を西上、1月20日には美濃国に達し、京へ向かうために美濃路から東山道へ転進し、1月29日に青野ケ原の戦いで土岐頼遠北朝勢力8万に勝利。北畠顕家は兵の疲弊が激しいことから、そのまま京都へ進軍せず、一旦、北畠氏の本拠地である伊勢で態勢を立て直します。なお、青野ヶ原(江戸時代には垂井宿として繁栄)には1353年(文和2年)に南朝軍が京を奪還した際に後光厳天皇が行宮を置いた長屋氏屋敷跡があります。  
北畠親房による常陸合戦は第8節へ。
 
第3節 千種氏にゆかりの場所
千種忠顕卿戦死之地跡(京都府京都市左京区修学院丸子青良ケ谷 
禅林寺城跡(禅林寺)(三重県三重郡菰野町下村191

③千種城(三重県三重郡菰野町大字千草851
千種忠顕卿戦死之地碑/1336年5月25日、湊川の戦い楠木正成足利尊氏に敗れると後醍醐天皇比叡山へ籠りますが、その際、京都を守備していた名和長利や於曾貞光(打越氏の祖)が討死します。足利尊氏は東寺に本陣を移し、足利直義比叡山を攻めます。1336年6月7日、千種忠顕比叡山の中腹(山頂に向かってケーブル比叡駅の右手に下り階段があるので、その階段を15分ほど下った右手側に碑があります。)で討死しています。 千種忠顕卿戦死之地碑ケーブル比叡駅から京都を一望できますが、丁度、この下方に千種忠顕卿が戦死した場所があります。攻め寄せる足利軍を一望できる眺望です。 禅林寺城跡(禅林寺千種忠顕禅林寺城を構えましたが、その子・千種顕経が千種城に移ると千種氏の菩提寺として禅林寺を建立しています。境内には、千種忠顕卿追悼碑が建立されています。 千種城/千種顕経が築城しています。小高い丘陵に立地する城なので、戦闘用の詰め城ではありません。  
 
第4節 新田氏にゆかりの場所
新田義貞の墓(福井県坂井市丸岡町長崎19-17
②新田塚(福井県福井市新田塚町605
称念寺新田義貞と親交があった称念寺の住職が新田義貞の遺骸を手厚く葬りました。 称念寺新田義貞の墓)五輪塔は1837年(天保8年)に福井藩主・松平宗矩が建立したもの。 新田塚/1338年(延元3年)、藤島の戦いで新田義貞が戦死し、福井藩主・松平光通は新田義貞の兜が発見された場所に新田塚を建立しました。 新田塚/新田塚の案内板。  
藤島神社福井県福井市毛矢3-8-21
新田義貞首塚神奈川県小田原市東町4-5-6
日野俊基の墓(葛原岡神社)(神奈川県鎌倉市梶原5-9-1
藤島神社新田義貞主祭神とし、新田義顕脇屋義助らを配祀しています。 藤島神社/新田氏の末裔の玉垣が建立されています。 藤島神社/新田塚で発見された新田義貞の兜のレプリカが奉納されています。 新田義貞首塚新田義貞の家臣・宇都宮泰藤(大久保氏の祖)は、晒し首になっていた新田義貞の首級を奪い返し、酒匂川の畔に埋葬したと言われています。その子孫・大久保長安の祖父は金春流能楽師、父は大蔵流の開祖。 日野俊基の墓(葛原岡神社)/1331年(元弘元年)に元弘の乱で捕らえられた日野俊基が葛原ヶ岡で斬首され、その場所(源氏山公園)に日野俊基を祭る葛原岡神社と墓碑が建立されています。なお、1333年(元弘3年)、鎌倉討幕のために挙兵した新田義貞はこの葛原ヶ岡にある化粧坂切通しから鎌倉へ攻め入ろうとしますが突破できず、稲村ケ崎に回って鎌倉へ攻め入っています。
①世良田東照宮得川氏発祥の地)(群馬県太田市世良田町3119−1
②長楽寺(得川義季の墓)(群馬県太田市世良田町3119−6
③徳川東照宮得川義季の館)(群馬県太田市徳川町387
④反町館跡(新田義貞の館)(群馬県太田市新田反町町896
生品神社新田義貞旗揚げの地)(群馬県太田市新田市野井町645
世良田東照宮得川氏発祥の地)/新田氏の祖・源義重の四男・新田義季は、上野国新田郡得川郷及び世良田郷を与えられて得川義季又は世良田義季を名乗ります(得川氏の祖)。 長楽寺(得川義季の墓)/長楽寺には得川義季の墓が安置されています。 徳川東照宮得川義季の館)/徳川東照宮には得川義季の館がありました。徳川家康松平氏の祖・松平親氏徳阿弥と号していたことに肖って、損得の「得川」(えがわ)ではなく人徳の「徳川」(とくがわ)へと改名しています。 反町館跡(新田義貞の館)新田義貞が館を構えていた場所で、土塁や堀などの遺構が残されています。 生品神社新田義貞旗揚げの地)新田義貞鎌倉幕府討幕のために挙兵した場所で、新田義貞像があります。
小手指ヶ原古戦場(埼玉県所沢市北野2-12
②久米川古戦場跡記念碑(東京都東村山市諏訪町2ー20-1
分倍河原古戦場碑(東京都府中市分梅町2-36−5
化粧坂切通し(神奈川県鎌倉市扇ガ谷4-14−7
稲村ケ崎神奈川県鎌倉市稲村ガ崎1-19
小手指ヶ原古戦場/1333年(元弘3年)5月8日、新田義貞生品神社で挙兵しますが、11日には入間川を渡って小手指原に達したところで鎌倉幕府軍と遭遇戦に突入します。新田義貞鎌倉幕府に不満を抱く武蔵の御家人の加勢を得て合戦を有利に展開。鎌倉幕府軍は態勢を立て直すために久米川まで撤退します。新田義貞が源氏の旗を立てた白旗塚と、討幕の誓いを立てた誓詞橋があります。なお、新田軍による鎌倉幕府の攻撃には小笠原貞宗が参陣しており(これにより小笠原貞宗後醍醐天皇から信濃守護に任命され、王子紋を下賜されています。)、打越氏(内越氏)の祖である於曽氏も参陣し、その後、(小笠原貞宗足利尊氏に味方して北朝勢力として活動したのに対して)於曽貞光及び於曽時高は新田義貞と共に後醍醐天皇に味方して南朝勢力として活動していたものと考えられます。なお、打越氏(内越氏)の祖である小笠原(大井)氏は、1335年(建武2年)、謀反を起こした足利尊氏を征伐するために、鎮守府将軍北畠顕家の要請に応じて小笠原(大井)行光(但し、出羽国由利郡へ下向していた庶流と思われる)が上洛軍に参加したという記録がありますので(「蕗原拾葉 高遠進徳本」の「打越家系」より)、小笠原貞光と行動を共にしていなかった可能性があります。 久米川古戦場跡記念碑/1333年(元弘3年)5月12日、新田義貞が久米川に布陣する鎌倉幕府軍に奇襲を仕掛け、手薄になった鎌倉幕府軍の本陣を撃破したことから、鎌倉幕府軍は分倍河原まで撤退します。写真の背後に映る山は新田義貞が本陣を置いた将軍塚です。 分倍河原古戦場碑/1333年(元弘3年)5月15~16日、鎌倉幕府軍は増援を得て巻き返しを図りますが、新田義貞は忍びを使って更に増援が来るという嘘の噂を流して鎌倉幕府軍を油断させたうえで、奇襲攻撃を掛けて鎌倉幕府軍を破ります。なお、京王線分倍河原駅前には新田義貞公之像が建てられ、その功績が顕彰されています。 化粧坂切通新田義貞新田義貞鎌倉街道を南進し、極楽寺切通し、巨福呂坂切通し、化粧坂切通しの三方向から鎌倉を攻めます。 稲村ケ崎化粧坂切通しで攻めあぐねた新田義貞は、干潮を利用して稲村ケ崎から鎌倉へ侵入し、北条高時北条氏の菩提寺・東慶寺切腹して鎌倉幕府が滅亡します。
①矢作神社(うなり石)(愛知県岡崎市矢作町宝珠庵1
②手越河原合戦碑(静岡県静岡市駿河区みずほ5-9-15
③竹之下古戦場碑(静岡県駿東郡小山町竹之下227
④箱根峠(静岡県田方郡函南町桑原1364−50
矢作神社(うなり石)後醍醐天皇は謀反した足利尊氏の討伐を新田義貞に命じますが、新田義貞三河矢作川(写真の向こう岸が岡崎)で足利直義と交戦し、これを撃退します。この際、矢作神社を参詣して戦勝を祈願したところ境内の石がうなりだし、そのご加護で勝利したと伝えられています。 手越河原合戦碑/矢作の戦いで勝利した新田義貞は、駿河の手越河原で12時から20時まで8時間に亘って足利直義と17回の激戦を繰り広げ、これを撃退しています。 竹之下古戦場碑/矢作の戦い及び手越河原の戦いに連勝した新田義貞伊豆国府を占領した後、伊豆三島で軍勢を2手に分けて、1335年(建武2年)12月11日、脇屋義助足利尊氏が守る足柄峠足柄城跡から見える竹之下古戦場方面と富士山後三年の役に向かう源義光が笙を吹いたと伝わる源義光吹笙之石)、新田義貞足利直義が守る箱根峠を攻撃を開始します。しかし、12日、脇屋義助の軍から裏切者が出て総崩れとなり敗走します。南朝勢力が本陣を置いた興雲寺には竹之下合戦供養塔が建立されていますが、足柄峠写真の奥の一番高い山)から攻め下ってきた足利軍と鮎沢川を挟んで激戦となり、やがて劣勢となると興雲寺から鮎沢川沿いを撤退し、藤原為冬(二条中将)は尊良親王を落ち延びさせると白幡神社で討死します。 箱根峠新田義貞は箱根峠を守る足利直義に大勝します。しかし、脇屋義助の軍が総崩れになったという報告を受け、足利尊氏に背後に回られて足利直義と挟撃されることを恐れた新田義貞は、一旦、伊豆三島まで撤退しますが、こにより新田義貞の軍からも裏切者が出て劣勢となり、1336年(建武3年)、足利尊氏により京都が包囲されます。なお、箱根峠には、大石内蔵助赤穂浪士討入り、荒木又右衛門の伊賀越え仇討と並んで日本三大仇討の1つに数えられる父親の仇である工藤祐経を討った曽我兄弟の墓が安置されており、また、大石内蔵助が江戸入りの際に参詣し、赤穂浪士討入りの成功を祈願した曽我神社箱根神社境内)があります。  
①松平東照宮愛知県豊田市松平町赤原13
②松平城(愛知県豊田市松平町三斗蒔15
③高月院(松平親氏の墓)(愛知県豊田市松平町寒ケ入44
天下茶屋愛知県豊田市松平町赤原34-5
大樹寺松平氏9代の墓)(愛知県岡崎市鴨田町広元5−1
松平東照宮松平氏発祥の地には、徳川家康の産湯を汲んだ産湯井戸松平氏の祖・松平親氏像があります。 松平城上野国新田郡得川郷を支配していた清和源氏新田氏流・新田(得川)義季の末裔・得川親氏は北朝方に敗れて清浄光寺(現、神奈川県藤沢市遊行寺)で出家し、徳阿弥と称します。徳阿弥は諸国を流浪して三河国加茂郡松平郷(現、愛知県豊田市)へ至り、阿保親王の血を引く在原氏の末裔で同地を支配していた松平信重に身を寄せます。松平信重徳阿弥を還俗させて婿養子に迎え、松平親氏と名を改めさせます。 高月院(松平親氏の墓)/境内には松平親氏の墓在原氏の墓が安置されています。 天下茶屋/高月院の近くにある天下茶屋では徳川家康が食していた麦飯とろろ(写真左)と「織田がつき 羽柴がこねし 天下餅 座して喰らふは 徳の川という江戸時代(天保8年)の落首に肖った天下餅(写真右)が好評です(「近代日本漫画百選」「筆禍史」の42コマ目「御代の若餅」に解説と浮世絵あり)。 大樹寺松平氏9代の墓)/境内には松平氏9代の墓(手前から初代・松平親氏~第9代・松平(徳川)家康まで)が安置されています。大樹寺の三門から一直線に岡崎城が臨める伽藍配置になっています。徳川家康は、松平氏嫡流のみを徳川氏(但し、損得の「得川」ではなく人徳の「徳川」へ)に復姓し、松平氏の庶流を同格の「氏族」ではなく一段低い「家臣」と位置付けました。映画「引っ越し大名」松平氏9代・松平元康(徳川家康)の二男・松平秀康(結城秀康)を家祖とする越前松平氏を題材としています。
 
第5節 大江氏(寒河江氏)にゆかりの場所
寒河江城(山形県寒河江市丸内1-3-11
②澄江寺(山形県寒河江市本町3-12-3
③大江稲荷社(神奈川県鎌倉市十二所114
寒河江大江広元源頼朝から奥州合戦の恩賞として出羽国寒河江荘及び長井荘を賜り、寒河江荘を長男・大江親広、長井荘を次男・大江時広に承継させており、大江親広の祖父で出羽国寒河江荘の地頭代として赴任していた摂津源氏多田氏流多田仁綱になります。由利氏の祖も摂津源氏多田氏流であり、寒河江氏と由利氏との間で婚姻関係が結ばれた可能性があります。 澄江寺/大江(寒河江)知広が開山した曹洞宗の寺院(澄江寺の由緒書き)。大江広元の四男・大江季光が毛利氏の祖で、また、楠木正成大江季光の子・大江時親に兵法を学んでいます。源(新羅三郎)義光の兄・源(八幡太郎)義家は大江匡房に兵法を学んでいます。 澄江寺/寺紋は大江氏の家紋と同じ一文字三ツ星紋。 澄江寺/境内には大江(寒河江)知広と夫人の墓が安置されています  大江稲荷社鎌倉幕府の政所初代別当として活躍した大江氏中興の祖・大江広元を祀る神社。この近所には大江広元邸宅跡神奈川県鎌倉市十二所921-3)があり、また、源頼朝の墓がある法華堂神奈川県鎌倉市西御門2-1-24)には忠臣として死後も源頼朝を守るために政所初代別当・大江広元の墓及びその子で長州藩毛利氏の祖・大江(毛利)季光(楠木正成に兵法を教えた大江(毛利)時親の祖父)の墓薩摩藩島津氏の祖・島津忠久の墓が安置されています。なお、「源氏」とは皇族が臣籍降下する際に天皇から与えられたもので「天皇とみなもと(源)を同じくする」という意味があります。因みに、平氏は当時の都であった平安京から一字がとられています。
阿保親王墓(兵庫県芦屋市翠ケ丘町9-15
親王寺(兵庫県芦屋市打出町3-21
③阿保天神社(兵庫県芦屋市上宮川町7-11
④金津山古墳(兵庫県芦屋市春日町2-13
⑤阿保神社(大阪府松原市阿保5-4-19
阿保親王平城天皇の第一皇子・阿保親王薬子の変連座して九州大宰府へ左遷される際に、大枝本主は阿保親王の息子を養子に迎え、その子が大枝を大江に改めて大江音人と名乗ります。なお、大塚山古墳(大阪府大阪市阿倍野区北畠3-7−20)が阿保親王の墓である説もあります。 親王阿保親王は「一品親王」と呼ばれていましたので、この「一品」を象って一文字三ツ星紋を使用し始めたので、その末裔である大江氏(寒河江氏、長井氏、毛利氏等)も一文字三ツ星紋を使用しています。因みに、親王寺の寺紋も一文字三ツ星紋になっています。 阿保天神社阿保親王を祀る阿保天神社。なお、阿保親王の末裔である大江匡房河内源氏源義家八幡太郎)に兵法を教え、また、大江(毛利)時親は多聞丸(楠木正成)に兵法を教えたと言われています。 金津山古墳阿保親王が村人のために飢饉に備えて財宝を塚に埋めたという伝承がある古墳。 阿保神社阿保親王及びその子・在原業平が住んでいた住居跡に建つ神社。
①米沢城(山形県米沢市丸の内1-4
善光寺山形県米沢市万世町堂森375
舞鶴城(秋田県秋田市太平目長崎沼田217-5
米沢城/1238年(暦仁元年)に大江広元の次男・大江(長井)時広が築城し、現在は上杉謙信を祀る上杉神社が建立されています。 米沢城/1385年(元中2年)に長井広房が伊達宗遠によって滅ぼされ、その後裔である伊達政宗蒲生氏郷重臣・蒲生郷安→上杉景勝重臣直江兼続上杉景勝と城主が変遷しています。 米沢城/米沢城の近くには上杉家廟所があり、上杉謙信上杉景勝上杉鷹山などの歴代の上杉家当主の御霊が祀られています。また、上杉家廟所の前には上杉家の菩提寺である法音寺があります。上杉謙信を始めとした上杉家当主の御位牌をお参りすることも可能です。さらに、長尾家の菩提寺である林泉寺には直江兼続の墓碑や御位牌等があります。 善光寺/長井時広夫妻坐像が安置されています。また、前田慶次は晩年を善光寺で過ごして他界したことから、境内には前田慶次の墓が安置され、前田慶次が力試しに持ち上げた力石も置かれています。 舞鶴源頼朝から出羽国秋田郡太平邑を下賜された大江氏流長井氏の庶流・太平氏の居城(太平川に面する場所)で、秋田氏に仕えていました。奥羽慶長軍記では太平(左近将監)広治と矢島(五郎)満安を「一家」と記載していることなどから、由利十二頭の矢島氏、仁賀保氏及び打越氏が大江氏の家紋である一文字三ツ星紋と同紋であるのは、大江氏流太平氏、長井氏、寒河江氏と姻戚関係があったことを示しています。
 
第6節 那珂氏(常陸江戸氏)にゆかりの場所
①瓜連城(茨城県那珂市瓜連1222
②金砂山城(茨城県常陸太田市上宮河内町1911
③那珂道辰の墓(茨城県常陸太田市増井町1529-2
瓜連城(常福寺/1335年(建武2年)12月、南朝方の北畠顕家軍は甕の原合戦で北朝方の佐竹貞義軍に苦戦しますが、那珂道辰の加勢により佐竹貞義軍を退けて上洛を果たします。1336年(建武3年)1月、後醍醐天皇から楠木正成に与えられた常陸国那珂郡にその代官として楠木正家が派遣され、楠木正家は瓜倉城を構築して北朝勢力の征討にあたります。 瓜連城(常福寺/1336年(建武3年)2月、楠木正家は佐竹貞義の子・佐竹義直及び佐竹義冬と戦って佐竹義冬を討ち取り、西国でも北畠顕家新田義貞及び楠木正成足利尊氏を破り南朝方の有利に戦況が展開します。 瓜連城(土塁跡)/1336年(建武3年)5月、九州で再起した足利尊氏湊川の戦い新田義貞及び楠木正成を破って高師冬らの大軍を常陸国へ派遣すると楠木正家は劣勢となり、1336年(建武3年)12月、武生城茨城県常陸太田市下高倉町2153−39)から南下する佐竹義篤に責められて瓜連城は落城します。 金砂城/1336年(建武3年)12月、金砂城から南下する佐竹貞義を迎撃していた那珂道辰は瓜連城の落城によって孤立し、那珂道辰ら一族34人と自刃します。 那珂道辰の墓/1336年(建武3年)12月、瓜連城の落城によって孤立した那珂道辰ら一族34人は勝楽寺の裏山で自刃します。このとき那珂通泰は落ち延びて御家を再興し、その後、打越伊賀守(分家Ⅱ)が仕官した常陸江戸氏の祖となっています。
①那珂西城(茨城県東茨城郡城里町大字那珂西1958
江戸城茨城県那珂市下江戸
那珂西城/那珂道辰の居城。1335年(建武2年)12月、那珂道辰は、多賀の甕の原で北朝方の佐竹貞義に苦戦する北畠顕家に加勢し、佐竹貞義の背後を急襲して敗走させます。その後、那珂道辰は北畠顕家に従って上洛し、後醍醐天皇から十六菊に一文字紋を下賜されます。 江戸城/金砂城の戦いで北朝方の佐竹貞義に敗れて自刃した那珂道辰の子・那珂通泰は佐竹貞義と和睦して常陸国那珂郡江戸郷を与えられ、その子・那珂道高は佐竹義篤の娘を娶ってて江戸氏を名乗ります。その後、1460年頃に出羽国由利郡から打越伊賀守(分家Ⅱ)が江戸氏に仕え、その子孫は水戸徳川家に召し抱えられます。      
 
第7節 南部氏(根城南部氏)にゆかりの場所
①南部氏館跡(南部氏発祥の地)(山梨県南巨摩郡南部町南部8244
②南部氏累代の墓(浄光寺)(山梨県南巨摩郡南部町南部8843
新羅神社(山梨県南巨摩郡南部町南部8114
諏訪神社山梨県南巨摩郡南部町南部8909
南部光行・実長館跡(八幡神社)(山梨県南巨摩郡南部町本郷7956
南部氏館跡(南部氏発祥の地)/石津の戦いで北畠顕家と共に南部師行が討死していますが(大河ドラマ「太平記」でも北畠顕家と共に北畠親房に拝謁する南部師行が登場します。)、南部氏発祥の地。富士川を背にし、周囲を掘りで囲った平城。周囲の民家の鬼瓦には甲斐源氏の家紋である割菱(武田菱)があしらわれています。1189年(文治5年)、奥州合戦陸奥国糠部五郡を与えられ、その子孫が陸奥国三戸郡(後に盛岡南部氏)、陸奥国八戸郡(後に遠野(根城)南部氏)へ移住し、江戸時代になると遠野南部氏は盛岡南部氏の筆頭家臣となります。映画「壬生義士伝」の主人公・吉村貫一郎剣聖・塚原卜傳鹿島新当流の使い手)は盛岡南部藩を脱藩して新選組の隊士となった実在の人物です。 南部氏累代の墓と供養塔(浄光寺)/南部氏の菩提寺浄光寺には南部氏供養塔と共に南部氏累代の墓が安置されています。 新羅神社/南部氏の祖・南部光行甲斐源氏の祖・源(新羅三郎)義光を祀る新羅神社を創建。 諏訪神社/1095年(嘉保2年)甲斐源氏の祖・源(新羅三郎)義光がこの地に諏訪神社を創建し、1190年代(建久年間)に南部氏の祖・南部光行が再建した神社。 南部光行・実長館跡(八幡神社/南部氏館跡から北西3KMの山間部に南部光行・実長の山城(八幡神社)があります。南部氏館跡が平城であったので、敵からの攻撃を防ぐ詰城又は富士川の氾濫時に避難するためのものではないかと推測されます。現在は、南部茶の茶畑になっていますが、当時の井戸石垣の跡が残されています。やはり周囲の民家の鬼瓦には甲斐源氏の家紋である割菱(武田菱)があしらわれています。
①道の駅なんぶ(南部光行の像)(山梨県南巨摩郡南部町中野3034−1
②波木井氏館跡(山梨県南巨摩郡身延町梅平2780
③波木井城(山梨県南巨摩郡身延町波木井3034
④円実寺(南部(波木井)実長の像)(山梨県南巨摩郡身延町波木井1132
久遠寺(南部(波木井)実長の像)(山梨県南巨摩郡身延町身延3567
道の駅なんぶ(南部光行の像)名物の南部茶をテーマにしたグルメスポットとしてオープンし、南部氏の祖・南部光行銅像と南部氏に関する資料を展示している資料館が併設されています。 波木井氏館跡鏡圓坊には案内板があり、波木井氏館跡の場所と南部(波木井)実長の墓の場所が案内されています。南部(波木井)実長は、1274年(文永11年)に日蓮を招いて日蓮宗の総本山・久遠寺を建立寄進しており、波木井氏館跡は身延山の正面に位置しています。 波木井城/南部(波木井)実長が身延山東麓に築城した山城で、眼下に富士川が流れる天然の要害です。南部(波木井)実長の子・南部(波木井)実継は1331年(元弘元年)の元弘の乱護良親王らと共に赤坂城に籠城して斬首され、その子・南部(波木井)長継、その後を南部(波木井)長継の従兄弟である南部政行の子・南部(波木井)師行(北畠顕家に従って八戸に下向し、石津の戦いで北畠顕家と共に討死)が家督を相続して南朝方として奮戦し、1392年に南北朝合一を果たすまで南部(波木井)氏は甲斐国巨摩郡波木井郷及び陸奥国糠部郡八戸郷を根拠地としながら南朝方として活躍しています(根城南部氏、後に遠野南部氏)。 円実寺(南部(波木井)実長の像)/南部(波木井)実長は、円実寺、鏡圓坊及び久遠寺(御廟所)の3ケ所に分骨されて供養されており、円実寺には日蓮と共に南部(波木井)実長の像があります。円実寺の寺紋は「鶴丸紋」(JALのエンブレムは鶴丸紋をアレンジ)ですが、南部氏の「対い鶴紋」は1193年(建久3年)に南部光行源頼朝と狩りに出た際に飛来した2羽の鶴を殺さずに射落とし、それを源頼朝から称賛されたことから、「割菱紋(武田菱紋)」の替紋として使用し始めたと言われています。 久遠寺(南部(波木井)実長の像)/南部(波木井)実長が日蓮を招いて建立した久遠寺は、総門三門を抜けて菩提梯に向かう途中に、南部(波木井)実長の像があります。菩提梯を登って、左側に五十棟、右側に大鐘、正面に身延山を背にして本堂祖師堂が並んで建てられています。本堂に向かって右手に開基堂があり、南部(波木井)実長が祀られています。毎朝5時30分から朝勤が行われていますが、大太鼓のリズムに合わせて僧侶と信者が一斉に唱える読経の声が身延山に木霊して感動を禁じ得ませんので、少し早起きをしてこの時間帯に行かれることをお勧めします。
①根城(青森県八戸市根城東溝35-1
②櫛引八幡宮青森県八戸市八幡八幡丁3
大慈寺青森県八戸市松館古里38
根城/南部氏は1189年(文治5年)に源頼朝から奥州合戦の恩賞として陸奥国糠部五郡を与えられ、1191年(建久2年)に南部光行は三男・南部(波木井)実長を甲斐国巨摩郡に残して陸奥国糠部五郡へ入部しています。1331年(元弘元年)に元弘の変で斬首されると、その後、その子・南部(波木井)長継及びその甥・南部(波木井)師行が家督を相続して南部長継の遺志を継いで御醍醐天皇に忠節を尽くしています。 根城/1336年(延元元年)に北畠顕家に従って南部(波木井)師行が甲斐国巨摩郡波木井村から陸奥国多賀城へ下向し、陸奥国糠部郡の郡代に命じられて陸奥国八戸郡に根城を築城します。その後、1338年(延元3年)に南部師行は北畠顕家に従軍し、石津の戦いで討死しています。 櫛引八幡宮南部光行陸奥国へ入部した際に甲斐国巨摩郡南部村から八幡宮遷座し、南部師行が再興し、南部氏の祈願所となりました。 櫛引八幡宮/南部師行の曾孫・南部信光が後村上天皇から拝領した白糸威褄取鎧(国宝)。 大慈寺/根城(八戸)南部氏の菩提寺。根城(八戸)南部氏が陸奥国閉伊郡横田村(現、岩手県遠野市)へ移封になった際に大慈寺も移転していますが、その後、同地にも大慈寺を再興。なお、遠野南部氏の菩提寺である大慈寺岩手県遠野市大工町9-20)には打越氏(分家Ⅷ)の墓も安置されています。なお、大慈寺の近く八戸線「鮫駅」がある葦毛崎は、東山魁夷出世作「道」を描いた場所でもあります。
①南部神社(岩手県遠野市東舘町3−6
②鍋島城(岩手県遠野市東舘町3−6
南部神社南北朝時代に創建された神社で、1627年(寛永4年)に根城南部氏が陸奥国八戸郡から陸奥国閉伊郡横田村(現、岩手県遠野市)へ移封になって鍋倉城に入部し、この神社は根城南部氏の歴代当主を祀る南部神社となります。 南部神社/南部神社の境内には遠野南部氏の歴代当主が愛用した清水が現在も沸いています。 南部神社/南部神社に奉納されている遠野七福神寄付者芳名碑に打越氏(分家Ⅷ)の末裔の方と思われる名前が記されています。 鍋倉城/鍋倉城本丸跡。本丸の城郭を調査していたら、野生のニホンカモシカ(天然記念物)に遭遇しました。 鍋倉城/鍋倉城三の丸跡からは遠野駅のある遠野市街を見下ろすことができます。南朝忠臣・肥後国の菊池氏は根城南部氏を頼って海路で八戸港に上陸し、陸奥国出羽国常陸国に分布していますが、遠野市には旧菊池家の南部曲り家岩手県遠野市土淵町土淵6地割5-1)が現存しています。また、遠野物語でカッパが出没したという伝承地になっているカッパ淵岩手県遠野市土淵町土淵8地割799)があり(「かっぱ巻き」という名称はカッパの好物がきゅうりであることに由来)、そこは安倍氏(阿部氏)一族の屋敷があったと言われています。
①旧菊池家南部曲り家岩手県遠野市土淵町土淵6地割5-1
竜王寺(菊池刑部の墓)(青森県西津軽郡深浦町岩崎玉坂91
旧菊池家南部曲り家南朝忠臣・肥後国の菊池氏は根城南部氏を頼って海路で八戸港に上陸し、陸奥国出羽国常陸国に分布していますが、遠野市には旧菊池家の南部曲り家が現存しています。また、遠野物語でカッパが出没したという伝承地になっているカッパ淵岩手県遠野市土淵町土淵8地割799)があり、そこは安倍氏(阿部氏)一族の屋敷があったと言われています。 旧菊池家南部曲り家/曲り家はいつでも馬の世話ができるように母屋と馬屋がL字型で一体となり一つ屋根の下で人間と馬が共同生活を送る構造になっています。遠野物語では農家の娘が飼馬に恋をしてオシラサマになって天に昇ったという民間伝承がありますが、如何に馬が大切に世話されていたのかが分かります。因みに、オシラサマは蚕の神、農業の神、馬の神として信仰されていますが、映画「千と千尋の神隠し」でも大根の神として登場しています。 竜王寺(菊池刑部の墓)/菊地刑部は南朝忠臣の肥後菊池氏の一族で、長慶天皇を供奉して陸奥国へ下向し、この地に丸山城(菊池館)を築いたと言われています。その子孫は津軽為信津軽統一に協力して岩崎関所番役に任じられ、第11代目の子孫が深浦町奉行として赴任した際に先祖を顕彰するために建立したものと言われています。なお、長慶天皇陸奥国へ下向して食事に困られた際に、家臣・赤松助左衛門が近くの農家からそば粉と胡麻を手に入れて自分の鉄兜を鍋の代わりにして焼き上げたものを長慶天皇に食事として供したのが南部煎餅の始まりと言われています。南部煎餅に「三階松」と「菊水紋」の刻印があるのは、このときに長慶天皇から南朝忠臣である赤松氏の家紋「三階松」と楠木氏の家紋「菊水」を焼き型に使用することを許されたことに由来すると言われています。南朝忠臣の事績は銘菓「南部煎餅」となって現代に伝えられています。 竜王寺(菊池刑部の墓)竜王寺には、南部氏の末裔と思われる七戸氏の墓と共に菊地刑部の末裔と思われる遠野菊池氏の墓が安置されています。肥後菊池氏は並び鷹の羽紋(その分家である遠野菊池氏は違い鷹の羽紋)ですが、竜王子にある遠野菊池氏の家紋は小笠原氏の家紋と同じく松皮菱や三階菱なので、小笠原氏と遠野菊池氏との間で婚姻関係を結んだ際に小笠原氏の家紋が譲与された譲与紋である可能性が考えられます。因みに、打越氏(分家Ⅱ)も肥後菊池氏の末裔である常陸菊池氏と姻戚関係を結んでいます。  
 
第8節 小田氏・関氏・下妻氏・東条氏にゆかりの場所
①東条ケ浦(茨城県稲敷市飯出1706 
②神宮寺城跡(茨城県稲敷市神宮寺829
③阿波崎城跡(茨城県つくば市小田2377
④十三塚(茨城県稲敷市神宮寺2261
⑤小田城跡(茨城県つくば市小田2377
⑥関城跡(茨城県筑西市関舘57
⑦大宝城跡(茨城県下妻市大宝667
北畠親房の墓(奈良県五條市西吉野町賀名生5
⑨小田五郎挙兵難台城址追弔碑(茨城県笠間市上郷2899
東条ケ浦北畠親房は、1338年(延元2年)に石津の戦いで長男・北畠顕家が討死したことにより鎮守府将軍に任じられた次男・北畠顕信、親房、伊達行朝、結城宗広らと共に義良親王宗良親王を奉じて伊勢国大湊から50余艘の大船団で海路を陸奥国へ下向する途中、遠州灘で暴風に遭って四散し、1338年(延元2年)9月に北畠親房の舟は常陸国東条ケ浦に漂着します。現在、東条ケ浦という地名は残っていませんが、霞ヶ浦湖畔17.0kmポストから19.0kmポストのあたりに漂着したものと考えられます。この近くにある「東浄(条)寺」という寺号に東条ケ浦の地名の名残りがあり、また、「飯出」という意味深長な字名も残されており、北畠親房の漂着と何か関係があるかもしれません。 神宮寺城跡/東条ケ浦に漂着した北畠親房の手勢は、この地の地頭職であった東条氏の神宮寺城へ迎えられますが、1338年(延元2年)10月、北朝勢力であった佐竹義篤らに攻められて落城し、北畠親房は近隣の阿波崎城へ遁れます。神宮寺城跡には「北畠准后唱義之碑」が建てられています。 阿波崎城跡北畠親房は、南朝正当を信奉する近隣村々の名手達の協力により阿波崎城を築城し、北朝勢力に抗戦しますが、阿波崎城も落城して、北畠親房は小田城へと落ち延びます。後年、水戸藩主・徳川光圀、彰考館総裁・打越(樸斎)直正が大日本史編纂にあたって南朝正当論(水戸学)を唱え、その思想が明治維新へと引き継がれますが、もともと常陸国南朝色の強い土地柄であったと言えます。 十三塚/阿波崎城が落城した後、北畠親房に協力した近隣の村々の名主13名は佐竹義篤に斬首されますが、その13人の名主の供養塚が残されています。また、北畠親房に協力した名主の1名は斬首を逃れましたが、自ら進んで「ホーイ、ホーイ」と佐竹勢を呼び戻して斬首され、ホイホイ地蔵茨城県稲敷市信太古渡172)として祀られています。 小田城北畠親房は、阿波崎城が落城すると、南朝勢力の小田治久の居城である小田城へ入ります。
神皇正統記起稿之地碑北畠親房は小田城で南朝の正統性を述べた歴史書である神皇正統記を執筆し、その後、徳川光圀大日本史編纂で神皇正統記を高く評価しますが、それは徳川光圀や彰考館総裁・打越(樸斎)直正が唱えた南朝正当論へと受け継がれ、やがて水戸学と結び付いて日本人の歴史観(1つの王朝(万世一系天皇)によって途切れることなく受け継がれてきたという日本の伝統)に影響を与えます。この途切れることなく受け継がれてきた日本の伝統を守ることが日本人の精神的な支柱となり、それが良くも悪くも作用して日本の歴史を形成してきました。光が強ければ陰を濃くするのと同様に、必ず、物事には二面性があり、人生はその選択の連続です。 関城/小田城の落城により北畠親房は結城氏の一族である関宗祐が北畠親房を迎え、北畠親房は関城で神皇正統記を完成したと言われています。その後、関城は北朝方の攻撃により落城して関宗祐は討死しており、関城跡には関宗祐の墓碑が建立されています。関城の落城に伴って、北畠親房は吉野へ帰還しています。 大宝城/1341年(興国2年)、北畠(春日中将)顕国は興良親王を奉じて下妻政泰が守備する大宝城、北畠親房は関宗祐が守備する関城へ入り、伊達行朝が守備する伊佐城と共に北朝勢力に対抗しますが、1343年(興国4年)に大宝城、関城、伊佐城が落城して北畠親房は京都へ帰還しています。なお、北畠親房、北畠顕国及び北畠顕国は、薬王院茨城県水戸市元吉田町682)に吉田郷を寄進して天下静謐を祈願しています。 北畠親房の墓楠木正行、楠木正家、和田賢秀らが四条畷の戦いに敗れると、後村上天皇高師直に吉野を攻められて賀名生行宮します(河内長野~十津川~熊野へ至る街道沿いで、打越氏も多く分布)。その後、一時、観応の擾乱に乗じて京を奪還しますが、再び、足利氏に京を奪い返されます。その後も京の奪還を試みますが、1359年(正平9年)に賀名生で北畠親房が亡くなります。 小田五郎挙兵難台城址追討碑/1387年(元中4年)、南朝勢力の小田(五郎)藤綱は、小山若犬丸と共に挙兵し、北朝勢力の上杉朝奈と戦いますが、1388年(元中5年)、小田(五郎)藤綱は兵糧が底をついたことから城から打って出て討死しています。
 
第9節 結城氏(白川結城氏)にゆかりの場所
①白川城(搦手城)(福島県白河市八竜神143
②関川寺(福島県白川市愛宕町94
小峰城福島県白川市郭内1-168
白川城(搦手城)/1189年(文治5年)、結城朝光は奥州合戦の恩賞として陸奥国白河郡を与えられ、その孫・結城祐広が下総国結城郡から移住して白川城を本拠としています(白川結城氏の祖)。 白川城(搦手城)/結城祐広の子・結城宗広は鎌倉幕府の討幕に参加し、その後、南北朝の動乱では南朝方として活躍しました。
関川寺/白川結城氏の菩提寺。1338年(延元3年)に北畠顕家及び南部師行が石津の戦いで討死しますが、結城宗広は逃れて南朝再興に尽くします。義良親王後村上天皇)を奉じて伊勢国大湊から北畠親房・伊達行朝・中村経長らと共に海路から奥州へ向いますが、暴風で難破し間もなく病死します。このとき北畠親房は小田治久の小田城に身を寄せて神皇正統記を執筆しています。 関川寺/関川寺の境内にある結城宗広の像。 小峰城/1504~1520年(永正年間)に白川結城氏の本城が小峰城に移されています。
結城神社三重県津市藤方2341
結城神社/結城宗広は北畠親房・伊達行朝・中村経長らと共に義良親王を奉じて伊勢国大湊から海路で陸奥へ向かおうとしましたが、海上で遭難して伊勢国津へ流れ着きて病没しています。 結城神社/このとき、北畠親房は伊達行朝・中村経長らと共に常陸国へ漂着し、小田治久の小田城に身を寄せて神皇正統記を執筆しています。 結城神社/津藩主・藤堂高兌は徳川光圀楠木正成の墓碑を建立したことに倣って結城宗広の墓碑を建立しました。    
 
第10節 伊達氏にゆかりの場所
①伊佐城(観音寺)(茨城県筑西市中館456-2
②中村城(遍照寺)(栃木県真岡市中2402
伊佐城(観音寺)/伊達氏は四条流庖丁式創始者で知られる魚名流藤原山蔭の子孫で、藤原氏が統治していた常陸国伊佐郡下野国中村荘に住み、その子孫は伊佐氏や中村氏を名乗ります。中村氏の祖・中村実宗は1111年(天永2年)に常陸介に任命され、常陸国伊佐荘中村に移住して伊佐城を築きます。なお、四条流包丁式は映画「武士の献立」でも登場していますが、日本で唯一の料理の神様を祀る高家神社では年に二度四条流包丁式による奉納が行われます。因みに、高家神社ではヒゲタ醤油が神様に奉納されていますので、神様御用達のヒゲタ醤油宮内庁御用達のキッコウマン醤油となります。 伊佐城(観音寺)/伊佐城の裏を流れる利根川の支流・五行川から臨む筑波山。1335年(建武2年)に北畠顕家による足利尊氏討伐に従軍して上京、興国年間には南朝方として同族の伊佐氏や中村経長らとともに伊佐城を拠点として、北朝方の高師冬らと戦いますが、南朝方は破れて伊佐城は落城します。 中村城(遍照寺)/中村氏の祖・中村実宗の玄孫・中村朝宗(伊達氏の祖)は中村城を築きます。中村城(遍照寺)の敷地内には中村八幡宮が建立され、中村姓の人にとっての氏神様が祀られています。 中村城(遍照寺)/伊達(中村)朝宗が築城した中村城(遍照寺)には、伊達(中村)朝宗の子・伊達(中村)宗村が奥州合戦の軍功により伊達郡信夫郡を与えらて赴任する際に「宗村公奥州征伐の凱旋記念樹」として植樹した榧の木があります。この榧の木の苗が伊達氏発祥の地である高子岡城(鶴岡八幡宮)に移植されています。  
①高子岡城(亀岡八幡宮)(福島県伊達市保原町上保原高子6
②米沢城(山形県米沢市丸の内1-4
③館山城(山形県米沢市館山1688-10
④成島八幡宮山形県米沢市広幡町成島1057-2
高子岡城(亀岡八幡宮/中村氏の祖の中村実宗の玄孫・中村朝宗は、1189年(文治5年)の奥州合戦の軍功により源頼朝から陸奥国伊達郡及び信夫郡を下賜され、中村氏から伊達氏へ改称しました。なお、北畠顕家北朝方の攻勢に備えるために陸奥国府を多賀城から南朝方の伊達氏の所領にある霊山城に移しています(高子岡城から見る霊山城方面)。 高子岡城(亀岡八幡宮/伊達宗村が下野国中村郡から陸奥国伊達郡へ下向する際に中村城(遍照寺)に植樹した榧の木の苗が伊達氏発祥の地である高子岡城に移植されています。 米沢城/大江氏流・長井時広(同じ大江氏流でも寒河江氏は南朝、長井氏は北朝に分かれており、一文字三ツ星紋の永井氏は長井氏の支流)が築城した米沢城は、1377年(天授3年)~1385年(元中2年)に伊達宗遠及びその子・伊達政宗仙台藩主・伊達政宗の8代前で同性同名)の侵攻により奪われ、伊達氏の居城となります。その後、豊臣秀吉の命により上杉景勝の家臣・直江兼続が米沢城の城主となっています。 館山城/1548年(天文17年)、大江氏流・長井氏の滅亡後、伊達晴宗が米沢城に移住したと言われていますが、現在の米沢城ではなく館山城を居城としていたという説もありますが、現在の米沢城は本城、館山城は詰城として利用されていた可能性が考えられます。 成島八幡宮伊達政宗重臣片倉小十郎景綱は米沢八幡宮神職の次男と言われており、米沢八幡宮とは片倉小十郎景綱の母の家が神職を務めていた成島八幡宮のことであると言われています(諸説あり)。片倉氏は信濃国伊奈郡片倉村の発祥で、奥州探題職・斯波氏に従って奥州に入部しています。真田幸村は、大阪夏の陣で次男・真田大八と三女・阿梅姫を片倉景綱の子・片倉重長に託し、片倉重長は阿梅姫を継室に迎え、真田大八は仙台藩士・真田(片倉)守信として仙台真田氏を再興しています。阿梅姫と真田大八の墓は当信寺(宮城県白石市本町62)に安置されています。因みに、真田幸村の五女・御田姫は佐竹(岩城)宣隆の継室となり、三男・真田(三好)幸信は亀田藩士・として亀田真田氏を再興しています。御田姫と亀田真田氏の墓は妙慶寺(秋田県由利本荘市岩城亀田最上町104)に安置されています。
 
第11節 菊池氏にゆかりの場所
菊池神社熊本県菊池市隈府1257
②菊池征西府(雲上宮神社)(熊本県菊池市隈府1512−17
菊池武光像(熊本県菊池市隈府1298−1
④菊地武光墓(正観寺)(熊本県菊池市隈府1128
⑤菊池武重墓(熊本県菊池市亘264−15
菊池神社1870年(明治3年)、明治天皇が顕彰した忠臣・菊池一族を祭祀するために菊池氏居城跡に創建された神社で、第12代菊池武時、第13代菊池武重、第15代菊池武光主祭神としています。 征西府跡(雲上宮神社)/征西将軍・懐良親王の御在所。1336年(延元元年)、懐良親王熊野水軍等の援助を得て伊予国から薩摩国へ渡り、肥後国菊池武光らを味方につけて隈府城に入って征西府を開きます。1361年(康安元年)、観応の擾乱に乗じて一時は大宰府を制圧しますが、再び北朝大宰府を奪われています。 菊池武光/菊地武光像の後方に広がる森が菊地氏の本城である隈府城跡になります。隈府城には菊地十八支城と言われる支城が築かれいましたが、そのうちの1つに打越城( 熊本県菊池市七城町蘇崎335)があります。但し、打越氏の発祥とは直接の関係はありません。  菊地武光墓(正観寺)/菊地武光が創建した正観寺。境内には菊池一族の墓が安置されています。南北朝の動乱は朝廷が武家から政権の奪回を試みたことを端とする争いですが、菊池氏が南朝(朝廷)に味方して奮戦します。その後、時代は下って、明治維新では再び朝廷が武家から政権の奪回を試みて成就しますが、このときも菊池氏の末裔である西郷隆盛が活躍しています。 菊池武重墓/1335年(建武2年)、足利尊氏が謀反を起こすと、新田義貞の軍に加わって各地を転戦しています。菊池氏の一部は、海路から根城南部氏(北畠顕家に従軍した南部師行)が支配する青森県八戸市へ上陸し、岩手県遠野市へ分布しますが(遠野市には打越氏も分布しています)、その一部が常陸国へ進出し、南朝方で楠木正家と共に北朝方と戦った那珂氏の末裔である江戸氏に仕官し、同じく江戸氏に仕官していた打越氏と姻戚関係を結んでいます。
①八代宮(熊本県八代市松江城町7−34
懐良親王御墓(熊本県八代市妙見町2464
懐良親王高田御所跡(熊本県八代市奈良木町183
八代宮/征西将軍・懐良親王主祭神とし、その後、征西将軍職を継いだ良成親王を配祀。 八代宮鎌倉宮井伊谷宮、金崎宮と並ぶ官幣中社 懐良親王御墓/1341年(暦応4年)、南朝方の肝付兼重らが籠城する薩摩国東福寺城が北朝方の島津貞久によって攻め落とされますが、翌1342年(興国3年)、征西大将軍懐良親王熊野水軍らに守られて薩摩国の谷山城に入城し、島津貞久が苦戦を強いられています(「新宮市誌」より)。 懐良親王御墓/1347年(貞和3年)、島津貞久南朝方の熊野水軍らを撃退し、島津氏は日向国から薩摩国への進出を果たしています(「新宮市誌」より)。  懐良親王高田御所跡/1347年(正平2年)、懐良親王薩摩国の谷山城から肥後国の高田御所へ移り、その後、宇土を経て菊池から太宰府へ進出します。
 
第12節 名和氏にゆかりの地
名和神社鳥取県西伯郡大山町名和556
②名和氏館跡(鳥取県西伯郡大山町名和83-1
②長綱寺(鳥取県西伯郡大山町名和69-1
後醍醐天皇御腰掛けの岩(元弘帝御着船所)(鳥取県西伯郡大山町御来屋1016
隠岐の神塚(後醍醐天皇御着船地)(鳥取県西伯郡大山町岡511
名和神社村上源氏名和長年主祭神とし、名和氏一族42名を合祀。名和氏の家紋の帆懸船が社紋。境内にある銘板には名和氏の末裔の方々の御芳名。 名和氏館跡/御来屋港から内陸の高台を上ったところに名和氏の館跡。 長綱寺/名和氏菩提寺長綱寺には名和氏一族の墓が安置されています。境内の裏山からは名和氏の館跡と隠岐島方面を一望できます。 後醍醐天皇御腰掛けの岩(元弘帝御着船所)/133年(元弘3年)に隠岐を脱出した後醍醐天応が名和の湊(御来屋港)に辿り着き、この岩に腰掛けたと言われています。元弘帝御着船所名和氏の館から最寄りの湊ですが、隠岐から脱出した後醍醐天皇が最初に上陸した地と思われます。 隠岐の神塚(後醍醐天皇御着船地)名和長年後醍醐天皇を奉じて挙兵し、船上山の戦いで北条方を撃退して船上山に行宮を設置します。大坂の湊は船上山の最寄りの湊ですが、名和の湊から大坂の湊へ移動した後醍醐天皇が2度目に上陸した地と思われます。
名和長年戦没遺跡(一条院跡)(京都府京都市上京区梨木町192
宇土城(熊本県宇土市神馬町663
名和長年戦没遺跡(一条院跡)/1336年(建武3年)、足利尊氏湊川の戦い楠木正成を破ると京都へ進軍しますが、名和長利や於曾貞光(打越氏(内越氏)の祖)は後醍醐天皇比叡山に遁すために足利直義が率いる北朝勢力と京都御所及び比叡山の間に立ちはだかるように布陣して死守します。この後、足利尊氏は東寺に布陣し、足利直義比叡山を攻めさせますが、この際、比叡山の中腹で千種忠顕が討死しています。 宇土/元弘の変の軍功により、後醍醐天皇から肥後国八代郡を下賜され、名和長年の孫・名和顕興が名和氏一族を連れて下向しています。 宇土/1387年(元中7年)、征西大将軍・良成親王を迎えて、肥後国八代郡高田郷に御所を設けています。 宇土宇土城の南東に打越という字名の土地がありますが、打越氏との直接の関係は確認できていません。  
 
第13節 井伊氏にゆかりの地
井伊谷宮静岡県浜松市北区引佐町井伊谷1991-1
宗良親王御墓(静岡県浜松市北区引佐町井伊谷1991-1
②瓢箪寺(静岡県浜松市北区引佐町井伊谷1989
井伊共保出生井(静岡県浜松市北区引佐町井伊谷1881−9
⑤井伊氏館跡(静岡県浜松市北区引佐町井伊谷607
井伊谷宮/井伊道政及び井伊高顕は宗良親王及び尹良親王井伊谷城に迎えて南朝方として戦います。 宗良親王御墓井伊谷宮の裏手にある宗良親王の御墓。 瓢箪寺/井伊氏菩提寺瓢箪寺には、井伊直政井伊直虎ほか井伊氏一族の墓が安置されています。 井伊共保出生井/井伊氏の始祖・井伊共保が生まれたと伝わる井戸。 井伊氏館跡井伊氏館跡とその後方に見える山が井伊谷城跡。
 
第14節 肝付氏、指宿氏、愛洲氏、柳生氏にゆかりの地
東福寺城跡(鹿児島県鹿児島市清水町28-25
②谷山城(千々岩城)跡(鹿児島県鹿児島市下福元町1485
③高山城跡(鹿児島県肝属郡肝属町新富9110
④自(示)顕流発祥の地(鹿児島県肝属郡肝属町新富9110
⑤弓張城跡(鹿児島県肝属郡肝属町新富5595
⑥松尾(三俣)城跡(宮崎県都城市山之口町花木1630
⑦日和(高)城跡(宮崎県都城市高城町大井手2643
⑧松尾(指宿)城跡(鹿児島県指宿市西方6830
東福寺城跡/肝付氏は1340(興国元年)8月から8ケ月間に亘り籠城し、北朝勢力の島津氏と奮戦。 谷山城(千々岩城)跡東福寺城の落城後、征西大将軍懐良親王は、南朝勢力の挽回のために谷山城(鹿児島県鹿児島市)へ入城。 高山城南朝勢力の肝付氏の居城で、北朝勢力の島津氏に二度攻められていますが、いずれも島津氏を防いでいます。 自(示)顕流発祥の地/肝付氏の祖・大伴氏は近衛軍(物部氏は遠征軍)として八咫烏賀茂氏)と共に神武東征を先導したと言われていますが、肝付兼重は大伴氏の太刀流(勤皇の剣)をもって南朝勢力へ味方。その後、関ヶ原の戦い島津義弘と共に敵中突破した薬丸(肝付)兼成が野太刀流を基にして東郷重位示現流を融合し、野太刀自(示)現流を創始。勤王の剣として明治維新にも活躍した野太刀自(示)現流の技は警視庁に採用されます。 弓張城跡/肝付兼重と共に南朝勢力であった楡井頼仲(楡井氏は清和天皇信濃源氏信濃国高井郡楡井村の発祥)の居城。
   
松尾(三俣)城跡/肝付兼重により築城された日和(高)城の支城です。 日和(高)城跡南朝勢力の肝付兼重は、多々良浜の戦い足利尊氏が勝利すると日和城に籠城しますが、北朝勢力の畠山直顕から攻められ、高山城へ撤退します。 松尾(指宿)城跡南朝勢力の指宿氏(頴娃忠光が祖)は北朝勢力の島津氏と戦い、第8代代指宿忠合が島津元久に敗れて滅亡し、その後、南朝勢力の肝付氏が松尾(指宿)城を守備します。     
①五ケ所城跡(三重県度会郡南伊勢町五ケ所浦2366
愛洲移香斎久忠生誕の地碑(三重県度会郡南伊勢町五ヶ所浦2366

③愛洲一族の墓(三重県度会郡南伊勢町五ヶ所浦2598
④鵜戸神社(宮崎県日南市宮浦3232
⑤打越城跡(三重県度会郡南伊勢町伊勢路
⑥柳生古城跡(奈良県奈良市柳生下町170
⑦柳生一族の墓(芳徳寺)(奈良県奈良市柳生下町445
⑧十兵衛杉(奈良県奈良市柳生下町575
⑨一刀石(天乃石立神社)(奈良県奈良市柳生町786
五ケ所城跡伊勢国南朝勢力であった愛洲氏の居城。北畠氏の養子となった織田信雄により攻められて滅亡します。 愛洲移香斎久忠生誕の地碑陰流の祖・愛洲(移香斎)久忠の生誕地。愛洲(移香斎)久忠が創始した「陰流」は上泉信綱に受け継がれて新陰流となり、更に、柳生(石舟斎)宗厳に受け継がれて柳生新陰流へと発展します。 愛洲一族の墓南北朝時代から戦国時代に亘って南伊勢を支配した愛洲一族の墓所です。 鵜戸神社/1488年(長享2年)、愛洲(移香斎)久忠が鵜戸神社の岩窟に参籠して「陰流」を創始したと言われています。なお、1300年代後半、念阿弥慈恩鵜戸神宮の洞窟に籠って「念流」を創始したと言われています。
打越城跡/五ケ所城から2里(車で10分)の距離に打越城があります。京から五ケ所浦へ通じる伊勢路を守備する支城です。
柳生古城跡/1331年(元弘元年)、後醍醐天皇笠置寺鎌倉幕府を討幕するために挙兵しますが(元弘の乱)、笠置寺に隣接する場所を支配していた柳生播磨守永珍は柳生古城を築いて南朝勢力として戦います。 柳生一族の墓(芳徳寺)/柳生(石舟斎)宗厳、初代柳生藩主・柳生宗矩、柳生(十兵衛)三厳をはじめとした柳生一族の墓所 十兵衛杉/柳生(十兵衛)が江戸幕府からの内命により西国大名の動勢を探るために旅立つ際、先祖の墓地に杉の木を植えたもの。 一刃石/柳生(石舟斎)宗厳が修行中に天狗を一刀のもとに切り捨てたところ、2つに割れた巨石が残ったという伝説があります。   
 
第15節 その他(護良親王(大塔宮/鎌倉宮)、日野俊基藤原師賢、藤原藤房)
大塔宮護良親王御遺跡の碑(滋賀県大津市坂本本町4220
鎌倉宮神奈川県鎌倉市二階堂154
護良親王御墓(神奈川県鎌倉市二階堂748
④村上義光の墓(奈良県吉野郡吉野町吉野山16
大塔宮護良親王御遺跡の碑護良親王は6歳から比叡山で修行を積み、20歳で天台座主に就任しています。護良親王は法勝寺九重塔(大塔)周辺に門室を置いたことから「大塔宮」と呼ばれており、赤坂城の戦いで大塔宮・護良親王が打越氏(本家Ⅲ)の発祥地で打越城がある和歌山県西牟婁郡大塔村に落ち延びたことから大塔村と呼ばれるようになりました。 鎌倉宮護良親王(大塔宮)を祀る鎌倉宮。境内には、護良親王(大塔宮)の御首が置かれた御構廟(御首塚)が祀られています。 鎌倉宮(土牢跡)足利尊氏の暗殺計画に失敗した護良親王は土牢に9ケ月間に亘って幽閉されていましたが、1335年(建武2年)、中先代の乱北条時行及び諏訪頼重護良親王を擁立されることを恐れた足利直義によって暗殺されます。 護良親王御墓理智光寺の住職が護良親王の御首を葬っています。 村上義光の墓/1333年(元弘3年)、吉野で挙兵した護良親王(大塔宮)は北朝方に敗れますが、その際に護良親王(大塔宮)が落ち延びるための時間を稼ぐために村上義光(信濃国の村上氏で、その末裔に村上義清)が護良親王(大塔宮)の甲冑を着て身代わりとなって自害しています。護良親王(大塔宮)を祀る鎌倉宮には村上義光も祀られています。
①葛原岡神社(神奈川県鎌倉市梶原5-9-1
小御門神社千葉県成田市名古屋898
葛原岡神社/1331年(元弘元年)、元弘の変で日野俊基は討幕計画が北条方に発覚して捉えられ斬首されています。なお、日野俊基本願寺を創建した親鸞上人人や日野富子とは同族関係にあります。また、日野家の家紋の鶴丸紋は、日本航空ののマークにも採用されています。 葛原岡神社新田義貞が鎌倉攻めで苦戦した 化粧坂の切通しの山頂にある葛原岡で日野俊基は斬首されています。 葛原岡神社日野俊基が斬首された場所には葛原岡神社が建立され、祀られています。 小御門神社/1331年(元弘元年)、元弘の変で藤原師賢は討幕計画が北条方に発覚し、後醍醐天皇笠置寺に逃れるための時間をするために後醍醐天皇の身代りになって比叡山で挙兵。その後、北条方に捕えられて、下総国へ配流され、1332年(元弘2年)にこの地で病没しています。 小御門神社/本殿の裏に藤原師賢御墓と伝わる塚があります。
①藤原(万里小路)藤房遺跡(藤原城)(茨城県土浦市藤沢1797
②藤原(万里小路)藤房遺跡(藤塚古墳)(茨城県笠間市泉1996
③妙感寺(滋賀県湖南市三雲1758
④藤原(万里小路)藤房供養塔(秋田県秋田市山内田中157-5
藤原(万里小路)藤房遺跡(藤原城/1331年(元弘元年)、藤沢藤房は元弘の乱後醍醐天皇と共に笠置山へ立て籠もり、その後、鎌倉幕府に捕らえられ、常陸国へ配流となって小田氏へ預けとなりますが、この地で剃髪してその髪を埋めた場所に髪塔塚が建立されています。 藤原(万里小路)藤房遺跡(藤塚古墳)/この近くの寺(現在は廃寺)に藤原藤房の墓があったことから、この石碑が建てられました。 妙感寺/藤原(万里小路)藤房は出家して臨済宗妙心寺派・妙感寺を開基します。 藤原(万里小路)藤房供養塔(補陀寺)/藤原藤房は出家して僧侶となり全国を遍歴したと言われており、出羽国にある補陀寺の二世住職・無等良雄は藤原藤房と同一人物であるという伝承が残されていますが(「吉野拾遺物語」「勝地臨毫(菅江真澄)」より)、その真偽は不明です。  
①妙宣寺(千葉県東金市家之子1384
②姫島(八幡神社)(千葉県山武市姫島
妙宣寺/1335年(建武2年)、護良親王(大塔宮、鎌倉宮)が足利直義により斬首されると、その御息女・華蔵姫は上総国山辺郡に遁れ、父宮の冥福を祈るために草庵(尼御所)を結び、後に妙宣寺が開基されます(由緒書)。なお、仁王門仁王尊は、護良親王の守護神と言われ、華蔵姫も厚く信仰したと言われています 妙宣寺(華厳姫供養塔)/妙宣寺には華厳姫の供養塔が安置され、毎年7月1日に華厳姫供養会が催されます。また、華厳姫が洗髪のために利用したと伝わる「髪洗いの井戸」が残されています。妙宣寺の周辺の字名「家之子」は「宮家の子」に由来し、また、「姫島」「御所下」「鎌倉道」など華厳姫所縁の地名が残されています。 姫島(八幡神社/妙宣寺の向かいにある姫島には、華厳姫が勧請した八幡神社があり(八幡神社から臨む九十九里)、ここに華厳姫の墓所「姫塚」があります。妙宣寺には華蔵姫の守り刀と伝わる波平行安作の短刀が秘蔵され、妙宣寺の周囲には華厳姫の従者である岩崎氏高科氏佐藤氏中嶋氏の末裔が分布しています。    
 
第16節 楠木八臣にゆかりの地
①和田(楠木)正遠の墓(常福寺)(奈良県御所市西佐味621
②恩智(左近)満一の墓(大阪府八尾市恩智中町5丁目223
③恩智城跡(恩地公園)(大阪府八尾市恩智中町5丁目188
④八尾(別当)顕幸の墓(常光寺)(大阪府八尾市本町5-8-1
⑤八尾城跡(八尾神社)(大阪府八尾市本町7-7-27
⑥小山城跡(志貴右衛門朝氏)(大阪府藤井寺市津堂44
⑦赤土山城跡(神宮寺(太郎左衛門)正師)(大阪府南河内郡千早赤阪村水分27
⑧佐備神社(宇佐見(河内守)正高?)(大阪府高槻市安満北の町5-26
⑨浄誓寺(安満了願)(大阪府高槻市安満北の町5-26
阿瀬川城跡(湯浅(孫六入道)定仏)(和歌山県有田郡有田川町杉野原152
和田(楠木)正遠の墓(常福寺金剛山にある浄福寺には、和田(楠木)正遠の墓が安置されています(右から三基目の五輪塔楠木八臣の一人。 恩智(左近)満一の墓恩智神社の社家の出で、楠木八臣の一人。湊川の戦いには参加しておらず、湊川の戦いの後に、八尾顕幸らと共に楠木正行を助けますが、延元二年(1337年)に病死。 恩智城跡(恩智公園)/恩(左近)智満一の居城。なお、恩智氏は、代々、恩智神社大阪府八尾市恩智中町5丁目10)の社家を務めていました。創建は雄略天皇14年(470年)頃とも。 八尾(別当)顕幸の墓(常光寺)/八尾別当で、何度か楠木正成に戦さで負けていますが、その後、楠木八臣の一人。湊川の戦いには参加しておらず、湊川の戦いの後に、八尾顕幸らと共に楠木正行を助けますが、延元3年(1338年)に病死。なお、境内には河内音頭発祥の地碑があり、門前通りには河内音頭承継者・河内屋菊水丸のショップが商店街に彩りを添えています。 八尾城跡(八尾神社)八尾(別当)顕幸の築城と伝えられていますが、八尾顕幸が南朝勢力に味方した後に、北朝勢力によって攻め落とされています。
小山城跡(志貴右衛門朝氏)楠木八臣の一人・志貴右衛門朝氏が津堂城山古墳を利用して築城。 赤土山城跡(神宮寺(太郎左衛門)正師)/1332頃年に上赤坂城の支城砦の1つとして築城され、楠木八臣の一人・神宮寺正師が守備しました。 佐備神社(宇佐見(河内守)正高?)楠木八臣の一人・宇佐見(河内守)正高については詳しいことは分かっておらず、一般に、宇佐見氏は伊豆国出身の系流が知られていますが、佐備氏を祖とする説も有力です。 浄誓寺(安満了願)/楠木八臣の一人・安満了願(楠木正頼が出家)が開基した寺。 阿瀬川城跡(湯浅(孫六入道)定仏)/一時、後村上天皇が身を潜めていた阿瀬川城跡には三宝大荒神社が祀られており、その参道に楠木八臣の一人・湯浅(孫六入道)の墓が安置されています。

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