第1段 総論
①楠木正家後裔/甲斐源氏小笠原氏流
打越氏(内越氏)は、由利十二頭として出羽国由利郡内越村等(芋川及び赤川の流域等)を支配しますが、1450年頃から家督を相続できない庶流が浪人して他家へ仕官したことに加え、家督争いによる御家断絶や津軽藩の御家騒動等により、下表のとおり細かく系流が分化することになりました。
主家 | 系流 | 分類 |
由利十二頭(本家Ⅰ、分家Ⅰ) | ||
徳川将軍家 | - | 本家Ⅰ |
水戸徳川家 | 分家Ⅰ→常陸江戸氏→水戸徳川家(水戸藩) | 分家Ⅱ |
佐竹氏 | 本家Ⅰ→佐竹氏(久保田藩→秋田藩) 佐竹氏は関ケ原の戦いで中立的な立場をとったことから常陸国から出羽国(羽後)へ減封国替え |
分家Ⅲ |
津軽氏 | 本家Ⅰ→津軽氏(津軽藩→弘前藩) | 分家Ⅳ |
柳沢氏 | 本家Ⅰ➟分家Ⅳ→柳沢氏(上総佐貫藩→川越藩→甲府藩→大和郡山藩) | 分家Ⅴ |
秋田氏 | 本家Ⅰ、分家Ⅱ又は分家Ⅲ→秋田氏(出羽国秋田郡→常陸宍戸藩→磐城三春藩) | 分家Ⅵ |
内藤氏 | 本家Ⅰ、分家Ⅱ又は分家Ⅲ→内藤氏(磐城平藩) 映画「超高速!参勤交代」で参勤交代の行列を分家の湯長谷藩内藤氏へ貸す場面で登場、後に磐城平藩から延岡藩へ国替え |
分家Ⅶ |
秋田氏(南部氏の家臣) | 本家Ⅰ→分家Ⅳ→秋田氏(南部藩) 南部氏の家臣・秋田氏の養子 |
分家Ⅷ |
長氏(前田氏の重臣) | 本家Ⅰ又は分家Ⅰ→長家(加賀藩) 長氏は能登畠山氏の重臣からその滅亡後に前田氏の重臣へ仕官替え |
分家Ⅸ |
水野氏(徳川氏の重臣) | 系流不詳→水野氏(岡崎藩→唐津藩) | 分家ⅩⅣ |
②雑賀衆/源姓
打越氏は、雑賀衆として紀伊国海部郡宇須村字打越を支配しましたが、1585年(天正13年)の第二次紀州征伐後は、一旦、紀伊国牟婁郡で帰農(土豪化)します。その後、1619年(元和5年)に紀州徳川家が旧家や地侍のうち、熊野八庄司の末裔、畠山氏や湯川氏の遺臣等の中から武功に秀で家柄の由緒正しい者を選んで召し抱えることになり、打越氏も紀州徳川家へ召し抱えられます(参60、61、62)。また、雑賀衆は熊野水軍を母体とする雑賀水軍を擁し、南北朝の動乱や薩摩商いで紀伊国と薩摩国及び大隅国の間を頻繁に往来していましたが、打越氏の一部が紀伊国から薩摩国へ移住したと考えられます(参63)。主家 | 系流 | 分類 |
雑賀衆(本家Ⅱ) | ||
紀州徳川家 | 本家Ⅱ→紀州徳川家(紀州藩、西条藩)×× | 本家Ⅱ |
雑賀氏✖打越氏 | 本家Ⅱ→雑賀氏との姻戚関係 | 分家Ⅹ |
佐武氏✖打越氏×××× | 本家Ⅱ→佐武氏との姻戚関係 | 分家Ⅺ |
禰寝氏(島津氏重臣) | 本家Ⅱ→禰寝(根占)氏(薩摩藩) 禰寝氏は肝付氏及び伊知地氏らと共に島津氏に対抗しますが、後に島津氏に臣従。薩摩商いで薩摩国及び大隅国へ移住した本家Ⅱの庶流と推測。なお、戦国時代や明治維新等を契機として薩摩国及び大隅国へ移住した本家Ⅰ又は分家Ⅱの庶流の可能性もあり。 |
分家Ⅻ |
肝付氏(島津氏家臣) | 本家Ⅱ→肝付(肝属)氏→島津氏(薩摩藩) 肝付氏(大伴氏の後裔)は菊池氏や阿蘇氏らと共に南朝勢力として活躍しますが、後に島津氏に臣従。薩摩商いで薩摩国及び大隅国へ移住した本家Ⅱの庶流と推測。なお、戦国時代や明治維新等を契機として薩摩国及び大隅国へ移住した本家Ⅰ又は分家Ⅱの庶流の可能性もあり。 |
分家XⅢ |
③甲斐源氏武田氏流
1585年(天正13年)、第二次紀州征伐で紀州武田氏流・湯川直春が豊臣秀吉と和睦し、その弟の大和郡山城主・豊臣秀長と面会した直後に急死します(豊臣秀吉による毒殺説)。このような状況を受けて、湯川直春の第四子・忠蔵は紀伊国牟婁郡下川下村字打越に隠棲して仏門に入り打越氏を名乗ります(参53)。その後、1619年(元和5年)、紀州徳川家は、旧家や地侍のうち、熊野八庄司の末裔、畠山氏や湯川氏の遺臣等の中から武功に秀で家柄の由緒正しい者を選んで召し抱えることになり、打越氏も紀州徳川家へ召し抱えられます(紀州各郡地士姓目名/参62)。
主家 | 系流 | 分類 |
湯川氏(本家Ⅲ) | ||
紀州徳川家×××××× | 本家Ⅲ→紀州徳川家(紀州藩) 熊野八庄司・湯川氏の庶流が熊野国造系和田氏の元領地で隠棲して打越氏を名乗る。雑賀衆・打越氏(本家Ⅱ)と姻戚関係を結んだ可能性もあり。 |
本家Ⅲ |
④まとめ
打越氏(内越氏)の各系流の相関関係をイメージとして捉え易いように、次ページに俯瞰図をまとめました(但し、注2-2を参照)。但し、分かり易く全体を俯瞰するために、極めて不正確な表記に留まっているところがあることを予めご了承下さい。また、打越氏(分家ⅩⅣ)は系流不詳であることから、次ページの俯瞰図には含めていません。なお、図中の点線は古文書等の裏付けが確認できておらずフィールドワーク等から得られた歴史的な痕跡等から推測される1つの可能性を示したものです。
このような俯瞰図は見る者を分かったような気分にさせるだけで歴史事実を曇らせてしまう毒性がありますが、その一方で、分かり易く全体を俯瞰することで、各々の断片的な情報が持つ有機的な関係性を探り、情報を整理するツールとしては有用ではないかと考えます。
【図表6】各系流の相関図