打越氏(内越氏)は、清和天皇及び物部氏族熊野国造系和田氏を源流とし、南北朝の動乱を契機として、河内(甲斐)源氏流小笠原氏(本姓源氏)と楠木正成の弟又は従弟・楠木正家(本姓橘氏)とが姻戚関係を結んで発祥した氏族であり、戦国時代、小田原征伐、関ケ原の戦いなどを契機として出羽国由利郡で勢力を伸ばし、1系統17流(本家3流、分家14流)の系流に分かれながら日本全国へ進出して行った同祖同根の氏族です。現代に残る限られた古文書等から、その歴史的な事跡を明らかにします。

第1部第3巻 打越(内越)氏の家紋(第3段)

第3段 主要な家紋の由緒(雑賀衆

①本紋(橘紋):本家Ⅱ

 打越氏(内越氏)の源流の1つである物部氏族熊野国造系和田氏は橘氏と姻戚関係を重ね、「橘紋」を本紋としますが、紀州藩士・打越安左衛門(本家Ⅱ)が紀州藩へ提出した家系図にも、雑賀衆・打越藤左衛門を祖とし、「丸に橘紋」を本紋としています(注42)。

 なお、紀州藩士・打越円蔵(本家Ⅱ)の次男及び孫(諱不明)が出家して千光寺(和歌山県田辺市上秋津4514)の住職を勤めますが、その寺紋は「丸に左違い鷹羽紋」です(参47)。また、千光寺には「丸に橘紋」の愛洲家の墓もあります(以下の第4段を参照)(注42)。

 

(注42)鹿児島に分布する打越氏

 鹿児島県に分布する打越氏(内越氏)のうち、鹿児島県日置市及び姶良市に分布している打越氏は、薩摩藩島津氏の重臣・禰寝(根占)氏(後に小松氏と名字を改め、薩摩藩家老・小松帯刀を輩出)に仕官していた打越氏(分家Ⅻ)の末裔が「丸に橘紋」を使用しています。なお、薩摩藩島津氏の重臣・禰寝(根占)氏は太閤検地で鹿児島県南大隅町から鹿児島県日置市薩摩国吉利郷)へ領地替えになっていますが、禰寝(根占)氏の旧領があった富田城(鹿児島県肝属郡南大隅町)の近隣にも打越氏が分布しています。また、薩摩商い(注17、27)の拠点となった山川港(1343年(興国3年)、征西大将軍懐良親王熊野水軍を率いて山川港へ上陸)のある鹿児島県指宿市に分布する打越氏は「丸に左違い鷹羽紋」を使用しており、この地域には根来氏の末裔も分布していること(例えば、薩摩藩島津氏の分家・伊集院忠眞の客将で根来寺の僧・白石永仙)などから、雑賀衆・打越氏(本家Ⅱ)の庶流が最新式の鉄砲を調達するために薩摩商いで薩摩国大隅国へ入部して土着した可能性が考えられます。

 

②替紋(譲与紋):分家Ⅹ、分家

 雑賀衆は、紀伊国五荘郷(雑賀荘、社家郷、中郷、南郷、十ケ郷)を支配していた地侍で構成される集団(伊賀国加賀国と同様に主家を持たずに共和自治を行う惣国的な集団)で、相互に婚姻関係を結んで組織的な結束を図っています。

 雑賀衆・打越氏は、雑賀氏(鈴木氏)と婚姻関係を結び、雑賀氏の家紋(譲与紋)である「丸に中陰蔦紋」や「丸に三つ柏紋」等を使用しています(分家Ⅹ)。また、上述の千光寺には「丸に五本骨扇紋」の佐武氏の墓と共に「丸に五本骨扇紋」の打越氏の墓があり、さらに、和歌山県田辺市和歌山県和歌山市等には「丸に日の丸扇紋」や「丸に五本骨扇紋」の打越氏の墓が数多くあります。この点、古文書等が残されていないので詳しいことは分かりませんが、紀伊国で丸に日の丸扇紋や丸に五本骨扇紋を定紋として使用していたのは佐武氏のほか宇多源氏流の氏族や清原流の氏族などごく一部に限られていることを踏まえると(参91)、打越氏と佐武氏との間で姻戚関係が結ばれてその家紋を譲与された可能性が考えられます。なお、佐竹氏の第8代当主・佐竹貞義の庶子・佐竹師義が足利将軍家に仕えて京都佐竹氏が誕生しますが、その末裔である佐竹(伊賀守)義昌は1570年(元亀元年)に足利義昭から恩賞として「佐武」の名字を賜り「佐竹」から「佐武」へ改名します。豊臣秀吉紀州征伐後に佐武義昌及び嫡男・佐武(源太郎)義章は浅野氏(広島藩)へ仕官し、関ケ原の戦いの後に次男・佐武(源大夫)義和は紀州徳川家へ仕官します(参111)(注43)。

 また、打越氏発祥の地である紀伊国海部郡宇須村字打越にある浄土真宗「真光寺」は楠木正成の甥・和田賢秀が開基した寺ですが、河内和田氏の替紋である「丸に木瓜紋」の打越氏の墓があります(参25)。

 

(注43)広島県兵庫県(淡路島を含む)、徳島県等に分布する打越氏

 広島県には「丸に一文字三ツ星」「丸に橘紋」「丸に梅鉢紋」を使用する打越氏(内越氏)の分布が確認できます(参91)。この点、丸に橘紋は和歌山県に分布している雑賀衆・打越氏の末裔の家紋と共通しています。また、兵庫県(淡路島を含む。)に分布している打越氏(丸に梅鉢紋)が氏子になっている賀茂神社兵庫県淡路市生穂)は熊野本宮大社の御祭神の神使である八咫烏を神紋の1つとしていますが、第二次紀州征伐で豊臣秀吉に敗れた雑賀衆は船で淡路国、山陰地方や長曾我部氏等を頼って土佐国等へ遁れたと言われていることを踏まえると、雑賀衆・打越氏の末裔がこれらの地域に分布している可能性が考えられます。なお、1619年(元和5年)、浅野長政の子・浅野幸長紀伊国から安芸国広島藩)へ国替えとなり、その後、1645年(寛永21年)に浅野長政の孫・浅野長直が常陸国から播磨国赤穂藩)へ国替えになっており、それらの過程で紀伊国又は常陸国に分布する打越氏(内越氏)が浅野氏に仕官した可能性も考えられますが、広島藩士の記録である「藝藩輯要」等には打越氏(内越氏)の名前は見当たりません。因みに、1830年(文政13年)に日本全国の一宮巡りをしていた水戸藩士・打越平が安芸国で死亡したという記録が残されており(参112)、宿場町が整備された江戸時代には常陸国安芸国の間の往来も活発であったと思われます。また、打越氏(分家Ⅱ)の庶流・越藤氏(三階菱紋)は、現在、茨城県及び広島県のみに分布しています(注39)。
 

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