第4段 打越氏(分家Ⅲ・分家Ⅳ)の合戦
①シャクシャインの戦い
松前藩は、アイヌ民族との交易を独占していましたが、アイヌ民族に不利な交易条件を強いていたことから、アイヌ民族が幾度となく蜂起を繰り返します。そのような状況のなか、1668年(寛文8年)、アイヌ民族は漁猟権を巡る民族間の争いのために松前藩に武器の提供を要望しますが、その使者が帰途に疱瘡を罹患して死亡します。これを松前藩の毒殺であるという風聞が広まり、予ねてからの交易条件に対する不満も相俟って、1669年(寛文9年)6月、シャクシャインは各地のアイヌ民族に対して松前藩への蜂起を呼び掛け、これにより約2千人が蜂起します。当初、松前藩は劣勢で江戸幕府に援軍を求めますが、江戸幕府は久保田藩佐竹氏、津軽藩津軽氏及び盛岡藩南部氏に松前藩への援軍を要請します。これを受けて佐竹義隆は、杉山吉成(石田三成の嫡孫)を大将として、御使番大将(25名の部隊を指揮)・打越勘左衛門(参109)、御使番・打越甚左衛門(先陣(参133))、大鼓役(陣太鼓を打ち鳴らして軍勢に本陣からの指示を伝える役目)・打越伊左衛門ら約700名の援軍を派遣し(参134)、松前城下の警備にあたります。これにより鉄砲等の装備が充実した松前藩は優勢となり、同年11月、松前藩はアイヌ民族が賠償に応じることを前提としてアイヌ民族を助命するという条件でシャクシャインと和睦します。しかし、その和睦の酒宴で松前藩がシャクシャインを謀殺し(第二次紀州征伐の湯川直春、小田原征伐の北条氏政や九戸の乱の九戸政実などの例も同じ)、その翌日にシャクシャイン城が陥落します。その後、松前藩は、アイヌ民族に不利な交易条件の一部を見直す一方で、七ヵ条の起請文に誓約させることでアイヌ民族に対する経済的及び政治的な支配を強めます(参254)。
【名称】松前城(福山城) 【住所】北海道松前郡松前町松城144 【備考】若狭を出奔した武田信広は、アイヌ民族との交易を行っていた蠣崎季繁(元陸奥国の土豪)の養嗣子となり、その後、コシャマインの戦いを平定します。松前氏の祖。 |
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【名称】シャクシャイン城跡 【住所】北海道日高郡新ひだか町静内真歌7 【備考】シャクシャインは、静内川東岸に面した断崖丘陵にあるシャクシャイン城を本拠とし、日高から松前に向かって進軍します。 |
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【名称】英傑シャクシャイン像 【住所】北海道日高郡新ひだか町静内真歌7 【備考】北海道胆振東部地震で英傑シャクシャイン像(写真)も被害に遭い、現在は別の像に建て替えられています。 |
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【名称】ウポポイ(民族共生象徴空間) 【住所】北海道白老郡白老町若草町2-3 【備考】国連の勧告を踏まえた国会決議で、2020年、アイヌ民族の文化を尊重し、継承するための博物館が開館します。 |
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【名称】知里幸恵の墓 【住所】北海道登別市富浦町188-1 【備考】アイヌ民族・知里幸恵(登別出身)は、言語学者・金田一京助の支援のもと、アイヌ・ユーカラの中から神謡13篇を選んで日本語に翻訳したアイヌ神謡集を出版します。叔母・金成マツさんの墓の横に安置されています。 |
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【名称】金田一京助の旧居跡 【住所】東京都文京区本郷4丁目11−6 【備考】知里幸恵は、金田一京助の自宅に下宿しながらアイヌ神謡集を編訳しますが、1922年(大正11年)、アイヌ神謡集が完成した日の夜に持病の心臓疾患により19歳の若さで急逝します。 |