打越氏(内越氏)は、清和天皇及び物部氏族熊野国造系和田氏を源流とし、南北朝の動乱を契機として、河内(甲斐)源氏流小笠原氏(本姓源氏)と楠木正成の弟又は従弟・楠木正家(本姓橘氏)とが姻戚関係を結んで発祥した氏族であり、戦国時代、小田原征伐、関ケ原の戦いなどを契機として出羽国由利郡で勢力を伸ばし、1系統17流(本家3流、分家14流)の系流に分かれながら日本全国へ進出して行った同祖同根の氏族です。現代に残る限られた古文書等から、その歴史的な事跡を明らかにします。

第2部第2巻 打越(内越)氏の合戦(第5段)

第5段 打越氏(本家Ⅱ・本家Ⅲ)の合戦 

①安宅一乱

 安宅実俊は那智山別当家の娘を正室に迎えて紀伊水道制海権を握る一大水軍を率いて隆盛を極めますが、1526年(大永6年)、安宅実俊が病没し、その子・安宅安定が15歳になるまでの間はその弟・安宅定俊が家督を継ぐことになります。1530年(享禄3年)11月、安宅安定が安宅定俊に対して家督の返還を求めたところ家督争いが生じ、安宅安定は苦戦を強いられて那智山別当家を頼り落ち延びます。その後、安宅安定は安宅水軍を使って海上から安宅定俊の居城である八幡山城を包囲し、ついに安宅定俊を自刃に追い込みます。しかし、勝山城を居城とする安宅定俊の子・安宅安次丸が生き残り、安宅安定と安宅安次丸との間で戦いが続きます。この際、安宅安定と安宅安次丸はそれぞれ近隣の国人や土豪に援軍を要請しますが、やがて援軍同士が独自に衝突するようになり安宅氏は没落します。

 このような状況のなか、安宅定俊に味方した日高郡の玉置庄司は、安宅安定から淡路国阿波国を奪うために挙兵し、近隣の国人や土豪に出陣を要請しますが、そのなかに湯浅氏や津田氏らと共に打越氏の名前があります。玉置庄司は、安宅安定の重臣・大野相模守を討ち取るなど戦果を挙げますが、やがて劣勢になり、1531年(享禄4年)1月、日高郡へ撤退します(参43)。

 これが関西地方で打越氏の名前が登場する最古の記録ではないかと思われます。

f:id:bravi:20210516201438j:plain
f:id:bravi:20210326115907j:plain 【名称】八幡山城(詰め城)
【住所】和歌山県西牟婁郡白浜町矢田555
【備考】安宅定俊の居城・八幡山城(詰め城)跡。安宅安定の家老が安宅定俊に対し甥・安宅安定へ家督を返還するように求めたことから家督争いが勃発。
f:id:bravi:20210326115926j:plain 【名称】大野城
【住所】和歌山県西牟婁郡白浜町大古
【備考】安宅安定の重臣大野城主・大野相模守が家督を返還しない安宅定俊の居城である八幡山城を攻めますが、その守りが固く撤退します。
f:id:bravi:20210522125817j:plain 【名称】安宅本城(下屋敷
【住所】和歌山県西牟婁郡白浜町安宅106
【備考】安宅定俊は大野相模守を撃退した後、安宅安定の居城である安宅本城を攻めて焼失させます。
f:id:bravi:20210522125651j:plain 【名称】勝山城
【住所】和歌山県西牟婁郡白浜町塩野
【備考】安宅安定は安宅水軍を使って八幡山城を包囲し安宅定俊を自刃に追い込みますが、その子・安宅安次丸が勝山城に立て籠り、膠着状態に陥ります。
f:id:bravi:20210522130027j:plain 【名称】宝勝寺
【住所】和歌山県西牟婁郡白浜町矢田423
【備考】安宅氏の菩提寺。安宅氏はこの乱で衰退しますが、淡路島に本拠を移して三好長慶小笠原長清の後裔)の弟・三好冬康を婿養子に迎えて家督を継がせ、その子・安宅信康は淡路水軍を率いて第一次木津川合戦で毛利水軍に味方。

 

石山本願寺合戦(本庄城の戦い)

 1570年(元亀元年)、一向一揆に手を焼いた織田信長石山本願寺法主顕如上人に対して本願寺を破却すると通告してきたことを契機として約10年に及ぶ石山本願寺合戦が開始されます。1576年(天正4年)、顕如上人は毛利輝元に庇護されていた将軍・足利義昭に加勢するという名目で挙兵し、これに対して織田信長石山本願寺を完全に包囲します。顕如上人が毛利輝元に援軍を要請したので、毛利水軍約800艘は兵糧や弾薬等を積んで石山本願寺へ来援します。織田信長は織田水軍300艘で石山本願寺の水運路である木津川口を閉鎖しますが、毛利水軍の焙烙玉や雑賀衆焙烙火矢により焼き払われて全滅し、石山本願寺に兵糧や弾薬等を運び込むことに成功します(第一次木津川口合戦)。このとき雑賀衆石山本願寺の51支城の1つで石山本願寺の水運路である木津川口(現、淀川(旧、中津川)及び大川(木津川口))を守備する拠点・本庄城(大阪府大阪市北区本庄東3-10−7周辺、毛馬水門の近く)に籠城して対抗しますが、「総じて大坂に籠る所、諸国の僧多しと雖も、其功を建つる事、雑賀の者第一たり。其中にも総軍の駈引の謀主は、鈴木源左衛門也。先陣の武将は、山内三郎大夫、高柳監物、西ノ口平内大夫、原平馬、天井浜主計。遊兵として弱きを扶け、敵の横合を打つ者の武将には、高松三充、打越藤左衛門、津屋十郎左衛門、高仏十郎次郎、土橋平次郎、和歌藤左衛門等、何れも鳴世の武士にて、毎時戦功出群せしとかや。」(参31、陰徳太平記下巻第53/参190)とあるとおり、打越藤左衛門の武勇が敵味方の間で有名(鳴世)を馳せたという記録が残されています。この合戦に敗退した織田信長は、戦況を打開するために、1577年(天正5年)、石山本願寺に加勢する雑賀衆を討伐します(第一次紀州征伐)。これに対して雑賀(鈴木)孫市を中心とする雑賀衆は雑賀城に籠城して抵抗しますが、戦線が膠着状態に陥ったことから、織田信長の和議申入れに対し、石山本願寺に一定の配慮を行うことを条件として和議に応じ、織田信長もこれを受け入れます。その後、1579年(天正7年)、顕如上人は、第二次木津川口合戦で毛利水軍が撃退されたので、朝廷からの和議斡旋を受け入れて織田信長と和議を結ぶことを決意します。顕如上人は、石山本願寺を退去して渡辺津の八軒家浜着船場(熊野詣の海上交通の拠点として栄えた場所)から船で鷺森別院(雑賀御坊)へ移ります。石山本願寺雑賀衆は寺領や惣領を自治する国家体制(共和制)を目指していたのに対し(近現代の権力分散型社会)、織田信長封建制的な国家体制(独裁制)を目指していた(中近世の権力集中型社会)という意味でイデオロギーの対立の戦いでもありました。(第2部第2巻第2段の⑤へ続く) 

f:id:bravi:20190701212555j:plain 【名称】本庄城跡
【住所】大阪府大阪市北区本庄
【備考】石山本願寺の51支城の1つで淀川(中津川)及び大川(木津川口)を抑える拠点・本庄城を打越藤左衛門(本家Ⅱ)が守備して軍功をあげます。
f:id:bravi:20190824091318j:plain 【名称】石山本願寺
【住所】大阪府大阪市中央区大阪城2−2
【備考】大阪城の城内に石山本願寺跡があります。顕如上人は、織田信長と和議を締結して鷺森別院(雑賀御坊)に移ります。

 

石山本願寺合戦(鷺森城の戦い)

 (第2部第2巻第5段の②から続く)1580年(天正八年)、本願寺法主顕如上人は朝廷からの和議斡旋を受け入れて織田信長との和議に応じ、石山本願寺(大阪)から退去して鷺森別院(雑賀御坊)に移りますが(鷺森別院は打越氏(本家Ⅱ)の発祥地である海部郡雑賀荘にあり、かつてこの地に梛(なぎ)の大木に白鷺が棲んでいたという伝承に由来して鷺森と名付けられます。)、この際、顕如上人から出羽国の打越正義(分家Ⅰ)に援軍要請があり、その名代として弟・打越三郎左衛門を鷺森別院(雑賀御坊)へ派遣し、楠木正意らと共に鷺森別院(雑賀御坊)を守備しています。なお、顕如上人は、長男・教如(強硬派)が石山本願寺に籠城して抵抗を続けたので、一時、教如を義絶しますが、本能寺の変の後、教如の義絶を赦免します。1592年(文禄元年)、顕如上人が入滅すると教如本願寺法主の座を承継しますが、1593年(文禄2年)、豊臣秀吉教如に隠退を命じ、その弟・准如(穏健派)に本願寺法主の座を譲らせます。1593年(慶長3年)に豊臣秀吉が逝去すると、教如徳川家康から寺領を寄進されて東本願寺真宗大谷派)を分立し、准如西本願寺本願寺派)と2派に分かれます(徳川家康が支援する教如東本願寺真宗大谷派)と、豊臣秀吉が支援する准如西本願寺本願寺派))。なお、楠木正意は顕如上人が入滅すると出羽国由利郡打越郷へ遁れます(参3)。 

f:id:bravi:20181231093308j:plain 【名称】本願寺鷺森別院(雑賀御坊)
【住所】和歌山県和歌山市鷺ノ森1
【備考】石山本願寺合戦で織田信長と和睦した顕如上人が打越氏(本家Ⅱ)の発祥地に移ります。なお、楠木正意と打越三郎左衛門(分家Ⅰ)が鷺森別院を守備します(参3、11)。

 

(注61)雑賀衆の活躍を扱った映画、アニメ

 毎年、鷺森御坊(雑賀御坊)で「孫市まつり」が開催されています。また、雑賀衆の頭領・雑賀(鈴木)孫市を主人公とした映画「尻啖え孫市」予告編)は有名ですが、現在、資金不足で本編の撮影は行われていませんが、映画「SAIKA~信長を震撼させた男たち~」パイロット版予告編)がインターネットで公開されています。さらに、雑賀衆を扱ったアニメ「天下統一恋の乱~出陣!雑賀4人衆~」がインターネットで配信されています(第一話無料配信中)。

  

紀州征伐(岸和田合戦等)

 1583年(天正11年)、豊臣秀吉紀州を攻略するために中村一氏岸和田城に入れ、本願寺顕如上人に鷺森御坊(紀伊国雑賀荘)から貝塚御坊(和泉国南郡)への移転を命じます(参226)。これに対して雑賀衆及び根来衆は畠山貞政を旗頭として近木川沿いに千石堀城、積善寺城、沢城等の付城を築き、湯川氏と軍事同盟を結んで対抗します。これに土橋氏や佐武氏等と共に打越氏が参陣します(参190、225)。1584年(天正12年)、豊臣秀吉は、小牧・長久手の戦いに出陣しますが、この機に乗じて雑賀衆及び根来衆は約5千の手勢で岸和田城を攻撃すると共に、別動隊を堺に派遣して占領し、その勢いで生駒親正らが守備する築城中の大阪城を急襲します。このため、小牧・長久手の戦いに出陣した豊臣秀吉は途中で大阪に戻っており、気勢を制せられています。1585年(天正13年)、豊臣秀吉は、雑賀衆及び根来衆に対して和睦を申し入れますが、その交渉が決裂したことから約10万の軍勢で千石堀城、積善寺城、沢城等の付城を攻撃します。雑賀衆及び根来衆は城内から鉄砲を一斉に撃ち掛けて敵に大損害を与える奮戦振りを見せ、千石堀城の戦いでは僅か約1時間の戦闘で豊臣秀次の軍勢に約1000人の死傷者が出たと言われています。しかし、衆寡敵せず、千石堀城及び沢城等は落城し、貝塚御坊の仲介で積善寺城が開城降伏します。その後、豊臣秀吉は、岸和田城を出陣し、根来寺及び粉河寺を焼き討ちします。雑賀衆は、岡氏の寝返りによって総崩れとなり、船で阿波、山陰地方や長宗我部元親を頼って土佐等へ逃亡する者が後を絶ちませんでしたが(参234)、佐武氏らは雑賀城に籠城して抗戦を続けます。また、その他の雑賀衆の残党は太田城に籠城して徹底抗戦しますが、豊臣秀吉による水攻めにより太田城は落城します(高松城及び忍城と並んで、日本三大水攻めの1つと言われています)。その後、畠山貞政は岩室城が落城して敗走しますが、湯川直春はゲリラ戦を展開して抵抗を続け、これに手を焼いた豊臣秀吉は湯川直春と和睦します。その後、1586年(天正14年)、湯川直春は大和郡山城で豊臣秀長に拝謁した直後に急死します(豊臣秀吉による毒殺説)(第1部第1巻第4段を参照)。 

f:id:bravi:20210326115443j:plain 【名称】岸和田城
【住所】大阪府岸和田市岸城町9-1
【備考】楠木氏の一族・和田高家が築城した城。豊臣秀吉紀州征伐の拠点とするために中村一氏を入城させて雑賀衆及び根来衆に対抗します。
f:id:bravi:20210326115545j:plain 【名称】大野城
【住所】和歌山県西牟婁郡白浜町大古
【備考】安宅安定の重臣大野城主・大野相模守が家督を返還しない安宅定俊の居城である八幡山城を攻めますが、その守りが固く撤退します。
f:id:bravi:20210326115709j:plain 【名称】高井城跡
【住所】大阪府貝塚市名越714
【備考】雑賀衆及び根来衆は、中村一氏岸和田城に入ると、近木川沿いに複数の付城を築いて対抗します。
f:id:bravi:20210522165627j:plain 【名称】太田城水攻め堤防跡
【住所】和歌山県和歌山市出水64−3
【備考】高松城忍城と並んで日本三大水攻めの1つ、太田城和歌山県歌山市太田2−3−7)の水攻めのための堤防跡。
f:id:bravi:20210522150009j:plain 【名称】岩室城跡
【住所】和歌山県有田市宮原町
【備考】畠山政貞は、岩室城に籠城して抵抗を続けますが、その後、落城して敗走します。
f:id:bravi:20210522152221j:plain 【名称】龍松山城
【住所】和歌山県西牟婁郡上富田町市ノ瀬1957
【備考】湯川直春は亀山城、泊城、龍松山城と退却しながら神出鬼没のゲリラ戦を展開して豊臣軍を籠絡します。

 

⑤大阪の陣

1615年(慶長19年)、大阪夏の陣で東軍の浅野氏が出陣している隙を狙って、西軍に味方する吉野、北山及び紀伊の百姓等が北山一揆を起こし、浅野氏の家臣・戸田勝直が守備する新宮城に迫ったことから、湯川五兵衛が紀伊国木本村の土豪・打越左衛門尉(打越左介)に援軍を要請する書状を発します。打越左衛門尉(打越左介)は戸田勝直に加勢して一揆の撃退に成功し、褒美を受けます(参191、192)。

f:id:bravi:20210522151608j:plain 【名称】新宮城
【住所】和歌山県新宮市新宮7691−1
【備考】関ケ原の戦いにより浅野長政の弟・浅野幸長紀伊国へ加増国替えとなり、その叔父・浅野忠良が新宮へ派遣され、熊野川沿岸に新宮城を築城します。

 

トップに戻る