打越氏(内越氏)は、清和天皇及び物部氏族熊野国造系和田氏を源流とし、南北朝の動乱を契機として、河内(甲斐)源氏流小笠原氏(本姓源氏)と楠木正成の弟又は従弟・楠木正家(本姓橘氏)とが姻戚関係を結んで発祥した氏族であり、戦国時代、小田原征伐、関ケ原の戦いなどを契機として出羽国由利郡で勢力を伸ばし、1系統17流(本家3流、分家14流)の系流に分かれながら日本全国へ進出して行った同祖同根の氏族です。現代に残る限られた古文書等から、その歴史的な事跡を明らかにします。

第1部第1巻 打越(内越)氏の発祥(第3段)

第3段 紀伊国海部郡宇須村字打越発祥

 

 打越氏(内越氏)は、物部氏族熊野国造系和田氏を源流の1つとしますが(参2)、和田氏は、代々、熊野本宮大社神職を務め、その後裔は紀伊国及び河内国へ分布して河内和田氏(楠木氏の同族)の祖であると言われています(参50)。知る限り、紀伊国河内国及びその他畿内周辺地域で打越氏が登場する最も古い記録は、1531年(享禄4年)、熊野八庄司の1つ玉置氏が河内(甲斐)源氏小笠原氏流・安宅氏の家督争い(安宅一乱)に乗じて阿州侵攻を計画し、近郷の地侍に出陣を要請した際、その中に湯川氏、湯浅氏及び津田氏(楠木正儀の後裔)等と並んで打越氏の名前が記録されているものです(参43)。また、1535年(天文4年)、紀伊国五荘郷(雑賀荘、社家郷、中郷、南郷、十ケ郷)を支配していた地侍で構成される集団(伊賀国(注19-1)や加賀国と同様に主家を持たずに共和自治を行う惣国的な集団)として「雑賀衆」という言葉が初めて歴史上に登場し(参44)、1543年に大隅国種子島に伝来した鉄砲をいち早く合戦に導入するなど鉄砲隊と水軍を備える戦闘能力が高い傭兵集団として全国から注目されるようになります。そのなかに鈴木氏、佐武氏及び津田氏等と並んで打越氏の名前が登場します(参45、46)(注15、16、17、27、20-2)。これらの記録は出羽国由利郡内越村発祥の打越氏(内越氏)の最も古い記録から約150年後のものです(注10)。

 雑賀衆は、諸国からの浪人(主家を去って封禄を失った武士)が多く、それらの者が相互に姻戚関係を重ねながら団結を強めていますが(参45)、例えば、1450年頃に打越伊賀守が常陸江戸氏へ仕官している事例(参16、65)や1590年頃に打越(三郎兵衛)光重が浪人して佐竹氏へ仕官を求めている事例(上記⑤の家系図)など打越氏(内越氏)の庶流が浪人して出羽国由利郡から他国へ仕官先を求めた事例は少なくありません。この点、由利十二頭は熊野詣する修験道を利用して諸国の情勢偵察を行わせていたという記録が残されており(参28、29)(注25)、出羽国紀伊国との間で頻繁な往来があったと考えられること(注18)などから、出羽国由利郡内越村発祥の打越氏(内越氏)の庶流が浪人して紀伊国へ土着し、土豪化した可能性も考えられます(注10)。

 因みに、打越氏の発祥地である紀伊国海部郡宇須村字打越には、打越氏の菩提寺である浄土真宗本願寺派「真光寺」が建立されていますが、その由緒を紐解けば、楠木正行や楠木正家らと共に四条畷の戦いで討死した楠木正季の子(楠木正成の甥)・和田賢秀が1336年(延元元年)に和泉国日野郡に開基し、後醍醐天皇の勅願所となった真言宗「嘉祥寺」を、この地で再興して浄土真宗に改宗し、1464年(寛正5年)、蓮如上人が寺号を「真光寺」へと改めています(参201)。

 

(注15)雑賀衆の構成員

 雑賀衆を構成する地侍は、湯川直春が雑賀衆との間で取り交わした「起請文」(東京湯川家文書)や「紀伊国旧家地士覚書」及び「南紀士姓旧事記」等から、凡そ、下表のとおりであったと考えられています(参45)。なお、雑賀衆は、火縄銃の欠点を克服するために「弾込」→「点火」→「狙撃」を3人1組で分担して行うことで連射を可能にする戦法を考案しますが、織田信長はこれを盗用して長篠の戦い武田勝頼に勝利します。但し、織田信長は、3人1組のうち狙撃手を撃たれてしまうと機能しなくなり敵に1点突破を許してしまう弱点を見抜き、「弾込」→「点火」→「狙撃」を1人で行わせてそれを3段に並べて順番に発射して連射する方法に改め、ゲリラ戦だけではなく組織戦闘にも通用する戦法に改良しています。織田信長は独裁的な中央集権国家を志向しているという意味では中近世的な思考ですが、雑賀衆は民主的な共和制国家を志向しているという意味では近現代的な思考と言え、民主的な価値観を持つ雑賀衆は独裁的な価値観を体現しようとする織田信長に激しく抵抗しています。

【雑賀荘】

粟(栗)村、植松、打越、岡、幸仏(物)、佐武(佐竹)、慈幸、嶋本(狐島)、鈴木、巽、土橋、中嶋、中村、林、藤木、穂出、松田、的場、宮本(湊)など

【十ケ郷】

鈴木(平井)、弾塚、中村、毘舎利、松江、向井、横庄司など

【中 郷】

岩橋(湯橋)、江川、岡崎、神谷、栗栖津田、土井、鳥居、林、佐和など

【宮 郷】

秋月、家永、太田、木村、黒田、神前、坂、嶋村、戸田、堀内、吉田など

【南 郷】

井口、石倉、石黒、稲井、宇野辺、大河内、岡本、奥、尾崎、坂本、田嶋、田所、土屋、角田、土井、中山、藤田、三尾、三上、森、矢野など

 (「紀州雑賀衆 鈴木一族」(鈴木真哉著/新人物往来社)より引用)


(注16)雑賀衆の誕生

 雑賀衆紀伊国五荘郷の地侍で構成される共和自治を行う惣国的な集団)は、応仁の乱以後、紀伊国及び河内国守護大名・畠山氏の要請に応じて近畿地方を転戦する傭兵集団として成長しますが、1542年(天文11年)、その後、畠山氏が没落すると、1543年(天文12年)、種子島に伝来した鉄砲をいち早く導入して鉄砲隊及び水軍を備えた傭兵集団として全国から注目を集めるようになります。なお、雑賀衆石山本願寺に帰依する一向宗を中心とする地根来衆根来寺に帰依する真言宗を中心とする兵という違いがあります。

 

(注17)鉄砲伝来と薩摩商い

 1185年(元暦元年)、熊野別当・湛慶(弁慶の父)は、平氏追討使に任命され、熊野水軍を組織して壇ノ浦の戦いに参陣します。時代は下って、1341年(暦応4年)、南朝勢力の肝付兼重が守備する東福寺城(鹿児島県清水町)が島津貞久によって攻め落とされると、1343年(興国3年)、征西大将軍懐良親王南朝勢力を挽回するために熊野水軍を従えて南朝勢力・指宿氏が支配する薩州津(山川湊)へ上陸した後(参248)、南朝勢力・谷山氏が守備する谷山城(鹿児島県鹿児島市)へ入城しており(参232)、一時、島津貞久は苦戦を強いられています(参48)(注27)。その後、雑賀衆の祖で熊野八庄司の1家である鈴木重恒は熊野水軍を率いて南朝勢力として活躍し、度々、九州地方へ遠征します。この点、雑賀衆には熊野水軍の流れを汲む者が多く、新たに雑賀水軍を組織して紀伊国から淡路国阿波国へ傭兵を派遣すると共に、紀伊水道を南下して九州地方や東南アジア諸国と交易を行い(薩摩商い)、最新式の鉄砲等を入手しています(参49)。現在でも薩摩半島には紀伊国から薩摩国大隅国へ入部した末裔が数多く分布しており(例えば、薩摩藩島津氏の分家・伊集院忠眞の客将で根来寺の僧・白石永仙が有名)、雑賀衆・打越氏の末裔の分布も確認できます。因みに、打越光種は熊野別当・湛慶(弁慶の父)の後裔・鵜殿長種の四男を娘の婿養子に迎え、打越氏(内越氏)の家督を相続させて打越光業と改名させていますので、打越氏(内越氏)には弁慶と同じ血が流れています(注24-2)。

 

(注18)楠木氏の出自と打越氏(内越氏)との関係

 打越氏は、物部氏族熊野国造系和田氏を源流の1つとしますが(参2)、熊野本宮大社神職を務めた熊野国造・熊野広方が橘良植の娘の婿養子に入って本姓を「橘」に改め、その後裔が名字を「和田」に改めて和田氏が発祥します(河内和田氏の祖)(参50、212)。最近の研究では、北条得宗家の被官であった楠木氏は、駿河国入江荘長崎郷楠村で発祥し、1285年(弘安8年)、霜月騒動を契機として河内国観心寺荘(又は玉櫛荘?)へ入部したという説が有力で、その後、楠木氏と在地勢力の河内和田氏との間で姻戚関係が結ばれたと考えられています(注24-1)。但し、駿河国入江荘長崎郷楠村が楠木氏の発祥地であると結論付けることは早計で、熊野櫲樟日命を祖とする家系図(昔、楠藪と呼ばれていた和歌山県新宮市の徐福公園周辺を発祥地と推定)(参48、55)(注24-1)や敏達天皇を祖とする家系図(但し、楠木氏の発祥の根拠となった地名が不定)(参57)等が存在することから、その後裔が駿河国入江荘有渡郡楠村を支配し(土地を支配した武家の名字に地名(村名や字)が変更になる例もあり)、その後、河内国観心寺荘(又は玉櫛荘?)に入部した可能性も考えられます。この点、楠木氏の出自は新たな証拠でも発見されない限り歴史の闇に埋もれて結論を得ることは困難であり、また、この問題を掘り下げることはこのWEBの目的とするところではありませんので、ここでは打越氏(内越氏)の発祥に関係がある範囲で簡単に触れるに留めます。楠木正成の弟又は従弟である楠木正家が瓜連城の戦いで敗れて陸奥国へ落ち延び(参21、208)、その後、再起を図るために出羽国仙北郡打越郷(現、大沢郷寺)へ移って南朝勢力の支援に尽力し(参11、64)、その子・楠木正安が「打越将監」という通称を名乗り、また、小笠原大和守の三男・小笠原(三郎左衛門)義知が楠木正家の娘の婿養子に入り出羽国由利郡内越村に内越城(平岡館)を築城して「内越」と名字を改めたことにより打越氏(内越氏)が発祥します。更に、内越義知の子・楠木(内越)正宣が在地勢力の由利惟房の娘・満姫と婚姻関係を結んで出羽国由利郡における勢力基盤を確立します(参6、11)。時代は下って、石山本願寺合戦では楠木氏の後裔の多くが石山本願寺に味方して織田信長に対抗しますが、第一次木津川合戦では石山本願寺の支城で淀川(旧木津川)水運の支配を巡る本庄城の戦いで石山本願寺に味方した雑賀衆・打越藤左衛門が有名を馳せる働き(「鳴世の武士」)を見せます(参31、陰徳太平記下巻第53/参190)。その後、本願寺法主顕如上人は織田信長と和睦すると(但し、以後も顕如上人の子・教如織田信長への抵抗を続けます)、石山本願寺を退去して紀伊国雑賀荘の鷺森別院(雑賀御坊)へ移りますが、顕如上人の要請に応じて出羽国由利郡から打越正義(巻末家系図:図表9-③)の名代として打越三郎左衛門が鷺森別院(雑賀御坊)の守備にあたります(参11)。また、同じく鷺森別院(雑賀御坊)の守備にあたった熊野国造系和田氏を祖とする楠木正意は、顕如上人が入滅すると、出羽国由利郡打越郷へ遁れます(参3、52)。これらのことから楠木氏、出羽国由利郡内越村発祥の打越氏(内越氏)及び紀伊国海部郡宇須村字打越発祥の打越氏の間には、何らかの人的なつながりがあったことが伺えます。

 

(注19-1)楠木氏、服部氏、観世氏と打越氏の関係性

 楠木正遠の娘(楠木正成の妹)は、伊賀国阿蘇田を支配していた服部元就に嫁ぎますが(伊賀忍者の棟梁・服部半蔵の先祖。伊賀忍者南北朝の動乱では南朝皇統奉公衆「八咫烏」として南朝勢力に味方します。一方、甲賀忍者北朝皇統奉公衆「山窩」として北朝勢力に味方します。)、1333年(元弘3年)、その子として服部三郎清次(その後、能楽を大成した観阿弥で、世阿弥の父)が生まれます。楠木氏は、能楽師大道芸人等の芸能集団(忍者を含む身体機能に優れた者等)を抱え、その芸能集団を興業という名目で全国各地へ派遣して諜報活動を行わせています。また、世阿弥が晩年に佐渡へ配流された大きな理由は、足利義教との不仲ではなく、長男・観世(十郎)元雅が南朝勢力と通じていたことから、その連帯責任を取らされた可能性があるのではないかと指摘されています。因みに、楠木正成の本領である河内国及び雑賀衆の本領である紀伊国楠木正成の妹を嫁がせた服部氏が支配する伊賀国を結ぶ初瀬街道の中間地点には打越氏の菩提寺西方寺があり(因みに、河内国伊賀国を結ぶもう1つの街道・大和街道沿いには観世発祥の地があり)、また、この地域一帯は楠木氏と軍事行動を共にしていた南朝勢力・宇多三将(そのうち秋山氏は甲斐源氏)が支配していたことからも、南朝勢力の歴史が深く刻まれた土地柄と言えます。なお、大河ドラマ太平記」では、服部元就、楠木正成の妹・卯木、三郎清次(後の観阿弥)が登場します(第48作)。また、楠木正成と楠木正行が今生の別れを告げる親子の情愛溢れる名場面(桜井の別れ)(第36作)や、北畠親房と北畠顕家の親子の機微が肌理細やかに描かれている名場面(第39話)など見所に欠きません。また、現在、楠木正成の所縁の地である大阪府河内長野市が中心となって「「楠公さん」を主人公としたNHK大河ドラマの実現を求める署名」活動が行われており、河内長野市役所のホームページでも署名が可能です。

f:id:bravi:20190824090816j:plain 【名称】観阿弥ふるさと公園(観阿弥創座の地)
【住所】三重県名張市上小波田181
【備考】観阿弥伊賀上野楠木正成の妹と服部元就(服部半蔵の先祖)の間に生まれ、妻の出身地である伊賀小波田で創座したと言われています。
f:id:bravi:20190824074621j:plain 【名称】観阿弥
【住所】三重県名張市平尾3225−10
【備考】名張駅西口に翁面を手に持つた観阿弥像が設置され、観阿弥の業績が憲章されています。
f:id:bravi:20190824090724j:plain 【名称】観阿弥
【住所】三重県名張市鴻之台1番町1
【備考】名張市役所の前庭に翁面を被った観阿弥像が設置されています。
f:id:bravi:20190624200930j:plain 【名称】杉谷神社
【住所】三重県名張市大屋戸62
【備考】観阿弥は、大江貞基が伊賀国名賀郡に建立した杉谷神社に北野天神縁起絵巻(重文)を寄進しています。
f:id:bravi:20190624214207j:plain 【名称】観世発祥の地
【住所】奈良県磯城郡川西町結崎1890-2
【備考】伊賀小波田で創座した観阿弥は、金剛山と指呼の距離にある大和街道沿いの大和結城に移り結城座を構えます。
f:id:bravi:20190603230456j:plain 【名称】観阿弥供養塔(大和郡山城内)
【住所】奈良県大和郡山市城内町2−255
【備考】大和郡山城に観阿弥供養塔があります。なお、観阿弥世阿弥の墓は一休宗純が開基した大徳寺真珠庵に安置されています(非公開)。

 

(注19-2)楠木正成南北朝時代を題材とした能楽

 1333年(元弘3年)、後に能楽を大成する観阿弥世阿弥の父、本名は服部三郎清次)は、楠木正成の妹と服部元就(伊賀国阿蘇田を支配した伊賀忍者の棟梁・服部半蔵の先祖。伊賀忍者南北朝の動乱では南朝皇統奉公衆「八咫烏」として南朝勢力に味方。)の間に誕生します(注19-1)。この点、1432年(永享4年)、世阿弥の嫡男・観世(十郎)元雅は巡業先の伊勢国安濃津で急死しますが、南朝勢力と関係があることを理由として斯波兵衛三郎に暗殺され、その連帯責任を取らされて世阿弥佐渡へ配流されたのではないかと言われています。時代は下って、水戸藩主・徳川光圀や彰考館総裁・打越(樸齋)直正らが礎を築いた水戸学(南朝正当論を含む)の影響から幕末志士の間で尊王思想が広まり、やがて大政奉還を迎えると、南朝の忠臣を顕彰する能楽の新曲が次々に創作されます。その代表的な作品を挙げると下表のとおりとなります(参222)。但し、観阿弥世阿弥、観世元雅や金春禅竹らが創作した曲と比べると名作に恵まれなかったこともあり、現在では、これらの曲が上演される機会が乏しいことは残念でなりません。それでもなお、能「桜井駅」や能「楠露」等の曲は人気が高く上演される機会もあり、広く親しまれています。 

【曲目】能「菊水」(単式夢幻能)
【主演】シテ:楠木正成の霊、ワキ:男 作者:通仙子(富士谷土岐三郎)
【作年】1870年(明治3年)
【内容】楠木正成の霊が湊川合戦を述懐する。(独吟用謡曲
【曲目】能「船上山」(現在能)
【主演】シテ:名和長年、ワキ:千種忠顕、アイ:名和湊の者、ツレ:名和長重、ツレ:隠岐判官義清
【作者】双鶴軒
【作年】1871年(明治4年)
【内容】隠岐から還幸した後醍醐天皇を船上山に奉じた名和長年の忠烈を描く。
【曲目】能「桜井駅」(金剛流・現在能)
【主演】シテ:楠木正成、ツレ:恩地満一、子方:多聞丸(楠木正行
【作者】根津守真
【作年】1872年(明治5年)
【内容】桜井駅での楠公父子が訣別する場面で、楠木正成が男舞を舞う。
【曲目】能「正行」(金剛流・現在能)
【主演】シテ:楠木正行、ツレ:楠木正行の家臣、ワキ:僧兵、ワキツレ:僧兵、アイ:楠木正行の従者
【作者】石井一斎
【作年】1882年(明治15年)
【内容】楠木正行が吉野に陣を構えて行宮を守護する場面を描く。
【曲目】能「太刀まつり」(現在能)
【主演】シテ:新田義貞、ワキ:脇屋義助、ツレ:郎党
【作者】高木半
【作年】1883年(明治16年)
【内容】新田義貞が鎌倉合戦で稲村ケ崎に黄金の太刀を沈める場面を描く。
【曲目】能「楠露」(観世流・現在能)
【主演】シテ:恩地満一、ツレ:楠木正成、子方:楠木正行、トモ:太刀持ち
【作者】根津真五郎?
【作年】1887年(明治20年)
【内容】金剛流・能「桜井駅」の改作。松尾芭蕉が桜井の別の絵を見て読んだ画賛句「なでし子に かゝるなみだや 楠の露」に因んで「楠露」と改名。観世流はシテの恩地満一が男舞を舞うが、金剛流喜多流はシテの楠木正成がツレの恩地満一に勧められ男舞を舞う。
【曲目】能「桜井」(喜多流・現在能)
【主演】シテ:楠木正成、ワキ:恩地満一、子方:多聞丸(楠木正行
【作者】清水昌作、下田守
【作年】1895年(明治28年)
【内容】桜井駅での楠公父子が訣別する場面で、楠木正成は恩地満一に勧められて男舞を舞う。
【曲目】能「桜井」(現在能)
【主演】シテ:楠木正行、ツレ:楠木正成、ワキ:恩地満一
【作者】高木半
【作年】1898年(明治31年)
【内容】桜井の別れの場面で、楠木正行及び恩地満一が楠木正成を見送る。
【曲目】能「湊川」(現在能)
【主演】シテ:楠木正成、子方:楠木正行、ワキ:高師直、トモ:従者
【作者】田中可然
【作年】1902年(明治35年)
【内容】桜井の別れから湊川合戦までを描く。

 なお、南北朝時代には、社会秩序を否定して派手な振る舞いや粋で華麗な服装を好む「婆娑羅(ばさら)」と呼ばれる美意識が生まれ、そのような美意識を持つ守護大名を「ばさら大名」と呼びましたが、これが戦国時代に入り「かぶき(傾奇、歌舞伎)者」へと変化します。江戸時代に入ると、これらの美意識を反映した歌舞伎、浄瑠璃や講談等が発展し、南北朝時代を舞台にした軍記物語「太平記」に題材を求めた太平記物と言われる作品が人気を博します。例えば、「吉野都女楠」(1710年)、「相模入道千匹犬」(1714年)、「大塔宮曦鎧」(1723年)、「楠昔噺」(1746年)、「仮名手本忠臣蔵」(1748年)(吉良氏は足利一族であることから、忠臣・大石内蔵助楠木正成に準えた作品)、「蘭奢待新田系図」(1765年)、「神霊矢口渡」(1770年)等の作品は、現代でも人気の演目であり、また、明治時代に入って、歌舞伎「北条九代名家功~高時」(1884年)、常磐津・義太夫舞踊「大森彦七」(1897年)(大森彦七楠木正成を自害に追い込んだ人物)、講談「水戸黄門漫遊記湊川建碑〜」、日本舞踊「楠公長唄囃子連中」等の作品も誕生します。さらに、映画「大楠公」、映画「楠公二代誠忠録」や映画「史劇 楠公訣別」など楠木正成を主人公にした映画も制作され、最近では、歌劇「楠木正成」、歌劇「紅天女」、宝塚歌劇「桜嵐記」、ミュージカル「龍起伝」、マンガ「君がために~楠木正成絵巻~」など様々なジャンルの作品も創作されるなど、時代を超えて、様々な形で人々に愛され続けています。なお、現在、楠木正成の所縁の地である大阪府河内長野市が中心となって「「楠公さん」を主人公としたNHK大河ドラマの実現を求める署名」活動を行っています(注19-1)。

f:id:bravi:20200922114813j:plain 【名称】能「楠露」と桜井の駅
【住所】大阪府三島郡島本町桜井1-3
【備考】桜井の別れを題材とした能「楠露」(曲名は松尾芭蕉の俳句からの引用)の説明書き。
f:id:bravi:20200922114919j:plain 【名称】旗立松
【住所】大阪府三島郡島本町桜井1-3
【備考】楠木父子が桜井の別れを行った場所にあった軍旗を立て掛けた松の木端。
f:id:bravi:20170527085835j:plain 【名称】明治天皇御製碑
【住所】大阪府三島郡島本町桜井1-3
【備考】明治天皇の御詠歌「子わかれの 松のしづくに 袖ぬれて 昔をしのぶ さくらゐのさと」の文字は、東郷平八郎による揮毫です。
f:id:bravi:20210516203129j:plain 【名称】楠公父子訣児之處碑
【住所】大阪府三島郡島本町桜井1-3
【備考】英国公使パリー・S・パークスが外国人として忠臣・楠木正成の忠義を讃えています。 “A Tribute by foreigner to the loyality of the faithfull retainer KUSUNOKI MASASHIGE.”
f:id:bravi:20210516202520j:plain 【名称】楠公父子子別れの石像
【住所】大阪府三島郡島本町桜井1-3
【備考】台座に刻まれている「滅私奉公」の文字は、近衛文麿の揮毫です。
f:id:bravi:20210516203003j:plain 【名称】楠公父子訣別之所碑
【住所】大阪府三島郡島本町桜井1-3
【備考】碑文の「楠公父子訣別之所」の文字は、乃木希典の揮毫です。

 

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