歴史絵巻 打越家伝

楠木正家後裔/河内(甲斐)源氏流

第2部第1巻 打越氏の発祥(第1段)

第1段 総論
 
 打越氏(内越氏)(本姓源氏。但し、分家Ⅰは本姓橘氏も使用。)は、各種の参考文献から1系統16流(本家3流と分家13流)の存在が確認できます(注1)(注2)。その源流を紐解けば物部氏族熊野国造系和田氏(河内和田氏及び楠木氏)を祖とし(物部氏は大伴氏と共に朝廷の軍事を司り、物部氏は攻撃を担う遠征軍、大伴氏は守備を担う親衛隊)(注2)、その後裔(神別氏族)が清和源氏流河内(甲斐)源氏皇別氏族)と姻戚関係を結んで出羽国で勢力を伸ばしながら、日本全国へ分布していった同祖同根の係流であると考えられ、それらの主な発祥地(打越氏を名乗り及び/又はその繁栄の基盤となった場所)を紐解けば、以下の3ケ所に集約することができます。

出羽国由利郡内越村発祥(楠木正家後裔/河内(甲斐)源氏小笠原氏流)

紀伊国海部郡宇須村字打越発祥(雑賀衆/源姓)

紀伊国西牟婁郡和田村字打越発祥(河内(甲斐)源氏武田氏流)

 
 また、南北朝の動乱では後醍醐天皇南朝)に忠節を尽くして、鎌倉幕府及び足利尊氏北朝)に対抗した楠木氏との関係を示す史料や各地の痕跡が数多く残されており、現在でもそれを裏付けるように打越氏の末裔は南朝の勢力拠点があった地域に集中的に分布しています(注3)
 
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多聞丸(楠木正成)が毛利氏の祖・大江時親に兵法を学ぶ像(三日市駅前)
            物部氏族熊野国造系和田氏
                 ⇩

甲斐源氏小笠原(大井)氏】+【楠木氏】=打越氏
                 +
                                                      【由利氏】+【大江氏】【摂津(多田)源氏

▼打越氏(内越氏)の発祥と時代状況
 南北朝時代は、武家政権鎌倉幕府)の下で実権を失っていた朝廷政権の旧勢力(国司、郡司)が武家政権の新勢力(守護、地頭)からその実権を取り戻すという側面があり(権力の二重構造から生じる相克)、朝廷政権の旧勢力(国司、郡司)の多くが南朝方(朝廷政権を志向)、武家政権の新勢力(守護、地頭)の多くが北朝方(武家政権を志向)に分かれて戦っています(但し、新田氏、南部氏や大江(寒河江)氏のように武家政権の新勢力(守護、地頭)に属しながら南朝方に与した武家もいます)。打越氏(内越氏)は、物部氏族熊野国造系和田氏(河内和田氏及び楠木氏)を源流とし、南北朝合一を背景として朝廷政権の旧勢力(楠木氏+由利氏)武家政権の新勢力(甲斐源氏小笠原(大井)氏)が姻戚関係を結んで行く過程で生まれた氏族と考えられます。
 
 
 なお、打越氏(内越氏)の庶流の中には武士から帰農した家も多く、それらの家の子孫は庄屋、医師や教育者等として活躍した人も数多く確認できますが、非常に広範多岐に亘りまとめきれないことから、このWEBサイトでは武士の系流のみを対象としています。
 
(注1)氏族と名字
氏族とは、共通の先祖を持つ血族集団のことで、父系又は母系のいずれかの系流で把握され、名字で識別されます。例えば、徳川次郎三郎(右大臣)源朝臣家康は、「名字」(徳川)+「仮名(幼名)」(次郎三郎)(「官位」(右大臣))+「氏」(源)+「姓」(朝臣)+「実名(諱)」(家康)で構成されており、徳川氏は清和源氏新田氏流得川氏松平氏へ養子に入り、その後、松平家康が徳川(損得の得川ではなく人徳の徳川に改名)に復姓して誕生した氏族と言われており、得川氏の所領である上総国新田荘得川郷が発祥地であると考えられています(「日本大百科全書第16巻」より)。なお、源氏とは臣籍降下(皇族が天皇の臣下の籍に降りること)の際に天皇から下賜された氏で、「天皇とみなとも(源)を同じくする」という意味があります。神武天皇以降に皇室から分かれて臣籍降下した氏族のことを「皇別氏族」と言い、源氏、平氏橘氏等が代表的ですが、その姓に「臣」がつく氏族が多いのが特徴です。これに対し、神武天皇以前の神代から存在する氏族のことを「神別氏族」と言い、藤原氏物部氏、隼人氏等が代表的ですが、その姓に「連」がつく氏族が多いのが特徴です。
【名字】「氏」(例、源氏)の中で「直系の血族集団」(例、佐竹家、武田家、小笠原家、於曾家、南部家)を区別するもので、各々の所領の支配権(地縁関係=家)を示すために自ら所領の地名(田の(あざな)=名字)を名乗ったもの(例、小笠原家は甲斐国巨摩郡小笠原郷)。
【仮名】家族の序列(例、長男:太郎、二男:次郎、三男:三郎)。
【官位】の序列(家長は官位を与えられると「仮名」(家族内での序列)に代えて「官位」(家の序列)を名乗ります。)
【氏】 天皇が臣下に与えた血縁関係を示す称号(例、源・平・藤・橘)
【姓】 天皇が臣下に与えた組織地位を示す称号(例、臣・連・伴造・国造)
【実名(諱)】父親が元服のときに男子につけた名前(代々その家に受け継がれ、父親の実名にも含まれている通字(例、光・正・蔵)を含む名前を付けることが多く、家督争いを避けるために後順位の男子には家督承継権がないことを示すために敢えて通字を含まない名前(例、武田信玄武田勝頼に信の通字を与えないことで家督承継権がないことを示し、その孫・武田信勝に信の通字を与えて家督承継権があることを示した)とすることも多い。

(注)上記の定義に従えば、本来、打越(内越)氏ではなく打越(内越)家と表記するのが正確と言えるかもしれませんが、打越(内越)家は複数の系流(本家、分家)に分派しており、これらが同祖同根の血族であってもその全てを直系の血族関係として十把一絡げに扱うことが適切でない場合もあることから、複数の系流を示す意味で打越(内越)氏、また、単独の系流を示す意味で打越(内越)家(但し、可能な限り本家〇又は分家〇など系流を明確化)と使い分けたいと思います。
 
(注2)打越氏の発祥に関する参考文献
打越氏というマイナーな氏族を研究している専門家はいませんので、先ずは姓氏家系大辞典を手掛りとして、以下の参考資料等から打越氏の発祥を洗い出しました。上述のとおり打越氏は物部氏野国造系和田氏及び楠木氏を源流としていますが、知る限り、古文書で確認できる打越氏に関する記録は出羽国におけるものが最古であり、紀伊国における記録はその約100年後になってからです。出羽国発祥の打越氏(本家Ⅰ、分家Ⅰ)と紀伊国発祥の打越氏(本家Ⅱ、本家Ⅲ)とは同じ物部氏野国造系和田氏及び楠木氏を源流にしていますので同祖同根の系流と考えられます(「物部氏-剣神奉斎の軍事大族(古代氏族の研究)」より)。この点、両者がどのような関係にあるのかを明確に示す記録は残されていませんが、何らかの人的なつながりがあったことを示す史料は残されています(後述「西摂大観上巻」より)(注17)。なお、熊野本宮大社の裏山には熊野本宮大社社家・楠(木)氏の屋敷跡があり、その跡地の竹之坊墓地(光明寺跡、井泉寺跡)及び平野墓地には熊野国造の熊野連、和田氏、楠(木)氏の墓が安置されていますが、ここに打越氏の源流があると考えられ、そのことを示すように現在でも熊野本宮の周辺を含む和歌山県内には打越氏の末裔の方が数多く分布しています(「第5部第3巻第3段」を参照)。
①竹之坊墓地(光明寺跡、井泉寺跡)(和歌山県田辺市本宮町本宮624
②平野墓地(和歌山県田辺市本宮町本宮630
竹之坊墓地/熊野連正全の墓。物部氏の始祖・饒速日命ニギハヤヒ)の後裔が成務天皇から熊野国造を任命され、熊野連の姓を下賜されており、代々、紀伊国牟婁郡の大領(郡司)や熊野本宮大社禰宜神職)を務めています。 竹之坊墓地熊野本宮大社の社家を務めた熊野国造の後裔・楠(木)氏の館があった場所(光明寺跡、井泉寺跡)にある楠(木)氏の墓。なお、墓地内には嶋(島)津氏の墓もありますが、その由緒は不明。志摩国を支配した島津国造の末裔の可能性もありますが、家紋は薩摩藩島津家のものなので、1242年(仁治3年)に和泉国和田郷の地頭職に任命された島津忠時(「島津家文書」や「鎌倉遺文」には島津忠時のことを嶋津三郎兵衛尉忠義と記載)の末裔の可能性もあります。 平野墓地熊野別当・和田(内膳)良賢の墓。 平野墓地/楠(嘉兵衛)良清の墓もあるそうですが、どの墓なのか特定ができません。
①各藩が編纂した家系図
寛永諸家系図伝(四十一)譜牒餘録(後編巻十九)諸家系譜寛政重修諸家譜(巻二百五)干城録(百二十三)蕗原拾葉 高遠進徳本(打越家系)久保田藩元禄家伝文書紀州家中系譜並に親類書書上げ ほか
②各藩が編纂した分限帳
③各家に伝わる家系図
打越氏御先祖様代代記覚書控親川楠家系図由利家及打越家系図 ほか
④各地方公共団体が編纂した郷土史資料
本荘市史(通史編1)(史料編1下)、由利本荘市誌鶴舞水戸市史 上巻勝田市史 中世編・近世編那珂湊市史料(第1集)(第14集)、和歌山県史 近世編大塔村史 通史・民族編鹿児島県史料旧記雑錄拾遺 諸氏系譜 第1巻 ほか
⑤各地に分布する家紋
都道府県別姓氏家紋大辞典(東日本編)(西日本編) ほか
⑥市販書
物部氏-剣神奉斎の軍事大族(古代氏族の研究)打越内越一族(著者:新井康友、出版:日本家系家紋研究所、1984年)北羽南朝の残照(著者:大坂高昭、出版:無明舎出版、2002年)家系研究(65号)、家系研究(66号)(著者:岡田有史、出版:家系研究協議会、2018年)
⑦インターネット上の情報
サイバー記念館(秋田県由利本荘市矢島町)武家家伝 由利十二頭通史武家家伝 打越氏、 武家家伝 楠木氏(、上表の異説:)、 武家家伝 大井氏()、武家家伝 小笠原氏()、武家家伝 甲斐源氏武家家伝 仁賀保氏武家家伝 矢島氏武家家伝 赤尾津氏武家家伝 滝沢(由利)氏天月ブログ(家系研究65号、66号)仁賀保氏の歴史橘氏関係系図(橘氏系人物事典)南木-楠木正成と南木の謎
 
(注3)打越氏の末裔の分布状況 
現在、打越氏の末裔が集中的に分布している「茨城県(1位)」は東国における南朝の勢力拠点で陸奥鎮守府の前線基地である瓜連城(楠木正家が楠木正成の代官として守備)があった場所、「兵庫県(2位)・大阪府(4位)・和歌山県(7位)」は中央における南朝の勢力拠点で吉野宮や楠木氏の勢力基盤があった場所及び「鹿児島県(6位)・福岡県(9位)・熊本県(13位)」は西国における南朝の勢力拠点で南朝の鎮西府(護良親王)や菊池氏の勢力基盤があった場所です。また、「北海道(5位)」は明治維新により紀州藩に仕官していた打越家(本家Ⅱ)の一部が屯田兵として疎開した場所であり(「屯田兵村の百年」より)、また、秋田藩は黒船来航を契機として蝦夷地の海岸警備を命じられ、1859年(安政6年)に秋田藩の名家で徒目付の日野喜右衛門が秋田藩の陣屋がある北海道増毛町に赴任し、それに随行していた秋田藩士・打越角左衛門が1861年(万延2年)4月12日に同地で死亡して北海道増毛町暑寒沢に墓があるそうなので(「増毛町概史」より)、打越家(分家Ⅲ)の一部が入植していた可能性も考えられます。さらに、打越家(分家Ⅳ)が仕官していた津軽藩蝦夷地の警備を命じられ、打越家(分家Ⅳ)も何度か北海道松前町等へ出兵していますので打越家(分家Ⅳ)の一部が入植した可能性も考えられます。なお、その他で上位にランクされている「東京都(3位)・神奈川県(8位)・千葉県(11位)・埼玉県(12位)」は徳川将軍家や柳沢家に仕官していた打越氏(本家Ⅰ、分家Ⅴ)の知行地があった場所であることに加えて、都心への通勤圏として人工が集中しているという現代的な要因により打越氏の分布が多いものと考えられます。(注35)(注39)
 

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