打越氏(内越氏)は、清和天皇及び物部氏族熊野国造系和田氏を源流とし、南北朝の動乱を契機として、河内(甲斐)源氏流小笠原氏(本姓源氏)と楠木正成の弟又は従弟・楠木正家(本姓橘氏)とが姻戚関係を結んで発祥した氏族であり、戦国時代、小田原征伐、関ケ原の戦いなどを契機として出羽国由利郡で勢力を伸ばし、1系統17流(本家3流、分家14流)の系流に分かれながら日本全国へ進出して行った同祖同根の氏族です。現代に残る限られた古文書等から、その歴史的な事跡を明らかにします。

第1部第1巻 打越(内越)氏の発祥(第1段)

第1段 総論

①打越氏(内越氏)の発祥地

 打越氏(内越氏)は、いくつかの参考文献(注2-1)から、1系統17流(本家3流、分家14流)の存在を確認できます(注1)。その源流を紐解けば、清和天皇及び物部氏族熊野国造系和田氏を祖とし(参2)、主に、南北朝の動乱を契機として、河内(甲斐)源氏流小笠原(大井)氏(本姓源氏)と楠木正成の弟又は従弟・楠木正家(本姓橘氏)とが姻戚関係を結んで発祥した氏族であり、出羽国由利郡で勢力を伸ばしながら、日本全国へ分布していった同祖同根の系流であると考えられます。その主な発祥地又は根拠地を紐解けば、以下の3ケ所(発祥年代順)に集約することができます(注2-1)。なお、このWEBでは、美濃源氏流打越氏の系流は対象とせず、その概要のみに触れています(注2-2)。

出羽国由利郡内越村(楠木正家後裔/河内(甲斐)源氏小笠原氏流)

紀伊国海部郡宇須村字打越(雑賀衆/源姓)

紀伊国牟婁郡下川下村字打越(河内(甲斐)源氏武田氏流)

f:id:bravi:20170505094723j:plain 【名称】内越城(平岡館)跡
【旧住所】出羽国由利郡内越村
【新住所】秋田県由利本荘市内越(字)家ノ前326
【備考】打越氏(内越氏)の公式上の発祥地で、この近隣に楠木正宣が開基した打越氏(内越氏)の菩提寺恵林寺があります。
f:id:bravi:20170505094625j:plain 【名称】打越城(白坂館)跡
【旧住所】出羽国仙北郡打越郷(参10)
【新住所】秋田県大仙市大沢郷寺(字)白坂館39
【備考】打越氏(内越氏)の事実上の発祥地で、瓜連城の戦いに敗れた楠木正家は奥州へ落ち延び、打越城へ入ります。
f:id:bravi:20180716095139j:plain 【名称】真光寺
【旧住所】紀伊国海部郡宇須村字打越
【新住所】和歌山県和歌山市打越町1−38
【備考】楠木正成の甥・和田賢秀が開基した後醍醐天皇勅願寺で、後年、顕如上人が寺号を「真光寺」に改めます。
f:id:bravi:20180716093551j:plain 【名称】打越城跡
【旧住所】紀伊国牟婁郡下川下村字打越
【新住所】和歌山県田辺市下川下826-1
【備考】熊野水軍の本拠地と熊野本宮大社を結ぶ間道にあり、赤坂城の戦い護良親王(大塔宮)がこの地に落ち延びます。
f:id:bravi:20181112203225j:plain 【名称】打越屋敷跡
【旧住所】紀伊国牟婁郡和田村
【新住所】和歌山県田辺市和田148
【備考】熊野国造系和田氏の元領地で、安川を挟んだ対岸に同族の紀州武田氏流愛洲(来栖)氏の屋敷跡があります。

 

②打越氏(内越氏)の発祥と時代背景

 打越氏(内越氏)が発祥した南北朝時代は、鎌倉幕府の成立により実権を失った朝廷政権下の旧勢力(国司)が武家政権下の新勢力(守護、地頭)からその実権を取り戻すための戦いという側面があり(権力の二重構造から生じた相克)、両統迭立大覚寺統持明院統に分かれて争われていた皇位継承問題)を背景として、朝廷政権下の旧勢力(国司)の多くが大覚寺統を中心とする南朝勢力(王政復古)に加勢したのに対し、武家政権下の新勢力(守護、地頭)の多くが持明院統を中心とする北朝勢力(武家政権への回帰)に加勢して戦います。しかし、新田氏、南部(八戸)氏や大江(寒河江)氏など武家政権下の新勢力(守護、地頭)に属しながら、南朝勢力(王政復古)に加勢した武家も少なからず存在します。

 このような時代背景のなか、打越氏(内越氏)は、南北朝の動乱を契機として、①政権下の新勢力である小笠原(大井)氏の庶流、②朝廷政権下の旧勢力である楠木氏及び③在地勢力である由利氏が勢力基盤の安定を図るために姻戚関係を重ねる過程で発祥した氏族であると考えられます(次ページの図表1を参照)。このためか、現在、打越氏(内越氏)の末裔は、茨城県兵庫県大阪府和歌山県、鹿児島県、福岡県、熊本県等の南朝勢力にゆかりの地に数多く分布しており、楠木氏との関係を示す史料や歴史的な痕跡等が数多く残されています(注3)。

f:id:bravi:20210515164130j:plain

 

(注1)氏族と名字

 氏族とは、共通の祖先を持つ血族集団のことで、父系又は母系のいずれかの系流で把握され、名字で識別されます。例えば、徳川家康の正式な名前は、徳川右大臣(次郎三郎)源朝臣家康で、「名字」(徳川)+「官位」(右大臣)(「仮名」(次郎三郎))+「」(源)+「」(朝臣)+「」(家康)から構成されています(参1)。

【名字】全ての血族集団(氏)のうち、直系の血族集団(家)を区別するもので、自らの所領の支配権を示すために地名(田の(あざ)=名字)を名乗ったもの(例、甲斐源氏の祖・源義光の玄孫の源長清が甲斐国巨摩郡小笠原郷を支配して「小笠原」を名乗るなど)

【官位】家の序列を示すもの。家長は官位を与えられると「仮名」(家族の序列)に代えて「官位」(家の序列)を名乗るのが通例

【仮名】家族の序列を示すもの(例、長男:太郎、次男:次郎など)

【氏】天皇が臣下に与えた血縁関係を示す称号(例、源・平・藤・橘)

【姓】天皇が臣下に与えた組織地位を示す称号(例、臣・連・伴造・国造)

【諱】親(実父又は烏帽子親)が元服した男子に対し、家督承継権があることを示すために与える実名で、代々その家に受け継がれ、親の諱に含まれている通字(例、光・正・蔵など)を与える例が多い。但し、武家家督争いを避けるために家督承継順位の低い男子には家督承継権がないことを示すために通字を含まない諱とする例もある。(例、武田信玄は、四男・武田勝頼に信の通字をつけず、その孫・武田信勝に信の通字をつけて家督を承継させているなど)

 上記の定義に従えば、本来、打越氏(内越氏)ではなく打越家(内越家)と表記するのが正確ですが、打越家(内越家)は複数の系流(本家、分家)に分派しており、これらが同祖同根の血族であるとしても、必ずしも、その全てを直系の血族関係として扱うことが適切でない場合もあります。そこで、このWEBでは、便宜上、原則として打越氏(内越氏)と表記しますが、特定の系流のみを限定して示す必要がある場合に限り打越家(内越家)と使い分けています。
 なお、打越氏(内越氏)の本姓(姓ではなく氏の意味)は源氏ですが、楠木正家墓碑銘(秋田県由利本荘市岩谷町)に刻まれているとおり、打越氏(内越氏)のうち後述の分家Ⅰの系流は本姓として橘氏も使用しています(参11)。

f:id:bravi:20210515163802p:plain

 

(注2-1)打越氏(内越氏)の発祥に関する参考文献

 姓氏家系大辞典(太田亮著/国民社)を手掛りとして、下表の参考資料等から打越氏(内越氏)の発祥を洗い出しました。知る限り、古文書等で確認できる打越氏(内越氏)に関する記録は出羽国が最古で(但し、注2-2を参照)、紀伊国の記録はその約150年後ですが、出羽国発祥の打越氏(内越氏)と紀伊国発祥の打越氏は、同じ清和天皇及び物部氏族熊野国造系和田氏を源流とする同祖同根の氏族と考えられます(参2)。この点、両者がどのような関係にあったのかを明確に示す記録は残されていませんが、遠隔地であったにも拘らず、後述のとおり両者には何らかの人脈があったことを示す事績も残されています(参3、52)(注25)。

①各藩が編纂した家系図

寛永諸家系図伝(四十一)譜牒餘録(後編巻十九)諸家系譜寛政重修諸家譜(巻二百五)干城録(百二十三)蕗原拾葉 高遠進徳本(打越家系)久保田藩元禄家伝文書紀州家中系譜並に親類書書上げ ほか

②各藩が編纂した分限帳

③各家に伝わる家系図

打越氏御先祖様代代記覚書控親川楠家系図由利家及打越家系図 ほか

④各地方公共団体が編纂した郷土史資料

本荘市史(通史編1)(史料編1上)(史料編1下)、由利本荘市誌鶴舞由利郡中世史考水戸市史 上巻勝田市史 中世編・近世編那珂湊市史料(第1集)(第14集)、和歌山県史 近世編大塔村史 通史・民族編鹿児島県史料旧記雑錄拾遺 諸氏系譜 第1巻 ほか

⑤各地に分布する家紋

都道府県別姓氏家紋大辞典(東日本編)(西日本編) ほか

⑥市販書

物部氏-剣神奉斎の軍事大族(古代氏族の研究)打越内越一族(日本家系家紋研究所、1984年)北羽南朝の残照(無明舎出版、2002年)家系研究(65号)、家系研究(66号)(家系研究協議会、2018年) ほか 

⑦インターネット上の情報

 なお、熊野本宮大社の裏山には熊野本宮大社社家・楠(木)氏の屋敷跡があり、その跡地の竹之坊墓地(光明寺跡、井泉寺跡)及び平野墓地には熊野国造の熊野連、楠(木)氏及び和田氏の墓が安置されており、この場所に打越氏の源流の1つがあるものと考えられます。また、そのことを示すように現在でも熊野本宮大社の周辺には打越氏(内越氏)の末裔が数多く分布しています。

f:id:bravi:20191230233729j:plain 【名称】熊野連正全の墓
【住所】和歌山県田辺市本宮町本宮624 竹之坊墓地(光明寺跡、井泉寺跡)
【備考】熊野連正全の墓。物部氏の始祖・饒速日命ニギハヤヒ)の後裔が成務天皇から熊野国造を任命され、熊野連の姓を下賜されており、代々、紀伊国牟婁郡の大領(郡司)や熊野本宮大社禰宜神職)を務めています。
f:id:bravi:20191230233620j:plain 【名称】熊野本宮大社社家・楠氏の墓
【住所】和歌山県田辺市本宮町本宮624 竹之坊墓地(光明寺跡、井泉寺跡)
【備考】熊野国造の後裔・楠氏の屋敷があった場所(光明寺跡、井泉寺跡)に熊野本宮大社社家・楠氏の墓があります。
f:id:bravi:20191230233742j:plain 【名称】熊野別当・和田内膳良賢の墓
【住所】和歌山県田辺市本宮町本宮630
【備考】熊野広方が橘良殖の猶子となって本姓を橘姓に改め、その曾孫の橘良冬が名字を「和田」に改めます。(注1)
f:id:bravi:20190120100350j:plain 【名称】熊野本宮大社
【住所】和歌山県田辺市本宮町本宮1110
【備考】生命の水の霊が宿る熊野川の中州・大斎原に社地がありましたが、明治22年の大洪水で流され、現在の場所に社地が移されています。

 

(注2-2)もう1つの系流、美濃源氏流打越氏

 このWEBは、美濃源氏流打越氏を対象としていませんが、その概要について簡単に触れておきます。美濃国諸家系譜(江戸時代に編纂された系譜で、作者は不詳)には、美濃源氏八島氏流木田氏の庶流として打越氏の家系図(巻末家系図:図表12)が記載されています。その由緒を紐解けば、清和源氏の祖・源経基の次男・源(八島大夫)満政が美濃国方県郡八島郷を支配し、その玄孫・源重長美濃国方県郡木田郷を支配して木田氏を名乗ります。1221年(承久3年)、木田(源)重長の孫・木田重知は承久の乱後鳥羽上皇に味方して敗れますが(参239)、これに伴って木田重知の弟・木田政氏(但し、木田氏が同族の美濃源氏八島氏流彦坂氏から迎えた婿養子)が美濃国方県郡木田郷打越村、土井村、石谷村の地頭職に就任します(減封)。その後、木田政氏の孫・木田(左近大夫)頼氏が弘長・文永年間(1261年~1275年頃)に美濃国方県郡木田郷打越村の地頭職に就任し(減封)、打越氏を名乗ります。これによれば、出羽国由利郡内越村で発祥した打越氏(内越氏)より約100年も早く打越氏を発祥していたことになりますが、この家系図(巻末家系図:図表12)の江戸時代以降の部分は打越左近(徳川家に禄高500石で仕える)-打越治右衛門-打越治右衛門(鵜殿新三郎の子を婿養子に迎える)と記載され、出羽国由利郡内越村で発祥した打越氏(内越氏)の家系図寛政重修諸家譜巻二百五)とほぼ同一であり(打越光久-打越光種-打越光業)、その家系図を引用したものではないかと推測されます。この点、出羽国由利郡内越村で発祥した打越氏(内越氏)と美濃国方県郡打越村で発祥した打越氏の間にどのような関係があったのかを示す史料等が見当たらず明確なことは分かっていません。なお、石川県小松市には木田氏(丸に桔梗紋)の末裔と共に打越氏の末裔の分布(丸に蔦紋)も見られますが、丸に蔦紋は木田氏の替紋なので(参25)、石川県に分布する打越氏の一部は美濃源氏流打越氏の末裔である可能性も考えられます。

f:id:bravi:20210325122508j:plain 【名称】城ケ峰(打越本郷交差点)
【旧住所】美濃国方県郡木田郷打越村
【新住所】岐阜県岐阜市打越391-2
【備考】長良川河口に「羽(八)島郷」があり、長良川支流の伊自良川沿いに上流から「彦坂村」「打越村」「則武村」「木田村」「改(開)田村」があります。なお、「打越」という地名は「打ち越す」という動詞が語源となっており、山、峠や川の周辺に多い地名です(注34)。

 

(注3)打越氏(内越氏)末裔の全国分布

 現在、打越氏(内越氏)の末裔が集中的に分布している「茨城県(1位)」は東国における南朝勢力の拠点で陸奥鎮守府北畠顕家)の前線基地である瓜連城(楠木正家が楠木正成の代官として守備)があった場所、「兵庫県(2位)・大阪府(4位)・和歌山県(7位)」は中央における南朝勢力の拠点で楠木氏の勢力基盤があった場所及び「鹿児島県(6位)・福岡県(9位)・熊本県(13位)」は西国における南朝勢力の拠点で南朝の鎮西府(懐良親王)や菊池氏の勢力基盤があった場所です。「北海道(5位)」は明治維新により紀州藩に仕官していた打越氏(内越氏)の一部が屯田兵として疎開しています(参12)。また、秋田藩江戸幕府からシャクシャインの戦い(アイヌ民族の蜂起)で苦戦する松前藩の援軍を命じられ、打越氏(内越氏)も北海道松前町へ出兵しています。さらに、秋田藩江戸幕府から外国船来航を契機として蝦夷地の海岸警備を命じられ、1859年(安政6年)に秋田藩士・打越角左衛門が秋田藩徒目付・日野喜右衛門と共に秋田藩の陣屋がある北海道増毛町に赴任しますが、1861年(万延2年)4月12日に打越角左衛門が同地で殉死し、北海道増毛町暑寒沢に墓があります(参13)。また、打越氏(内越氏)が仕官していた津軽藩江戸幕府から蝦夷地の警備を命じらていますので、これらの経緯から打越氏(内越氏)の一部が北海道へ入植した可能性も考えられます。なお、日高地方(沙流川流域)には、陸奥国津軽郡宇鉄の浦(青森県東津軽郡外ヶ浜町三厩上宇鉄)の人々が入植し、その子孫の分布が見られることから(参14)、江戸時代初期には青森県と北海道(松前、日高や増毛等)との間で人々の往来、貿易や移住等が本格化していたと思われます。その他で上位にランクされている「東京都(3位)・神奈川県(8位)・千葉県(11位)・埼玉県(12位)」は徳川将軍家や柳沢氏に仕官した打越氏(内越氏)の知行地があった場所であることに加えて、都心への通勤圏として人工が集中しているという現代的な要因により打越氏(内越氏)の分布が多いものと考えられます(第1部第3巻第1段を参照)。

 

f:id:bravi:20190826083854j:plain

多聞丸(楠木正成の幼名)は毛利氏の祖・大江時親(当時、河内国加賀田郷の地頭職)に兵法を学ぶために観心寺から大江時親邸まで約8kmの道程を通ったと言われています。因みに、打越氏(内越氏)の家紋は、本紋:三階菱紋、菊水紋又は橘紋、替紋:一文字三ツ星紋になります。(第1部第3巻を参照)

 

トップに戻る