第2段 出羽国由利郡内越村発祥
第1節 小笠原氏・於曾氏の出羽国由利郡への下向
①小笠原氏の下向(1回目)
1213年(建暦3年)、鎌倉幕府執権の北条義時は、源頼家(第2代将軍)及び源実朝(第3代将軍)の養育係を務めた小笠原長清の妹・大弐局に対し、和田合戦で由利惟久から没収した領地・出羽国由利郡を恩賞として与えます(鎌倉幕府による土地支配の正当性)(参4)。しかし、大弐局には子供がいなかったことから小笠原長清の七男で甥の小笠原(大井)朝光を養子に迎えて出羽国由利郡を相続させます。その後、1285年(弘安8年)、安達泰盛(外様御家人の勢力が味方)と平頼綱(北条得宗家の勢力が味方)との間の権力闘争に端を発する霜月騒動が勃発し、小笠原(大井)氏、大江(寒河江)氏や足利氏等の外様御家人が味方した安達泰盛が敗れると、小笠原(大井)氏の領地であった出羽国由利郡は北条得宗家に没収されます。因みに、このとき安達泰盛の領地であった観心寺荘も北条得宗家に没収され、その被官として楠木氏が入部したのではないかと考えられています(参251)。1331年(元徳3年)、鎌倉幕府(北条得宗家)の討幕を企図して元弘の乱が勃発しますが、同年、小笠原(大井)正光及び滋野(根井)行家が鳥海山元宮に銅棟札を奉納しており(その銅棟札には「奉鋳 於羽州由利郡津雲出郷 十二神将」「大旦那 源正光 並 滋野行家」等と記されていますが、源正光は小笠原(大井)朝光の曾孫・小笠原(大井)正光、滋野行家は根井行家のこと(参5))、また、根井家由来書には「信州義仲滅亡ノ後、行親末子則式部太夫ト云、信州ヲ立退、羽州油利ノ郡矢嶋ノ庄二年久ク蟄居シテ、民ヲシタカイ、土地ヲ開カセ、子孫繁栄ス」と記されていること(参6)などから、遅くとも鎌倉時代後期には小笠原(大井)氏の庶流やその家臣・滋野(根井)氏が出羽国由利郡へ下向し(参7、参8)、霜月騒動で北条得宗家に没収されていた出羽国由利郡の旧領支配を回復する機会を伺っていたのではないかと考えられます。この点、1335年(建武2年)、小笠原(大井)行光が鎮守府将軍・北畠顕家の要請に応じて上洛軍に参加したという記録がありますが(参9)、小笠原(大井)行光は信濃国佐久郡岩村田を本拠とし、北朝勢力として活動していたことから、元弘の乱により鎌倉幕府(北条得宗家)が滅亡したことで、事実上、出羽国由利郡の旧領支配を回復していた小笠原(大井)氏の庶流が地政学的な理由等から上洛軍に参加したのではないかと推測されます。その後、小笠原(大井)氏の庶流と楠木正家との間でも姻戚関係が結ばれて打越氏(内越氏)が誕生しています。
②小笠原氏の下向(2回目)
1324年(正中元年)、由利(仲八郎)政春が鳥海氏に滅ぼされた後、一時、その子・由利維貴は信濃国の小笠原氏へ身を寄せていましたが、1339年(延元4年)、小笠原(甲斐守)朝保、小笠原(大井五郎)光泰及び小笠原(伯者守)光貞らの援軍と共に出羽国由利郡へ下向して鳥海氏から旧領を奪還し、小笠原(甲斐守)朝保は岩谷館(後の岩谷氏)、小笠原(大井五郎)光泰は八森古城(後の矢島氏)、小笠原(伯耆守)光貞は大野館(後の赤尾津(小介川)氏)、由利維貴は岩倉館へ入ります(参10)。なお、「打越旧記」には、南北朝合一後の1428年(応永末年)の状況として小笠原(大井)氏の庶流が由利氏、楠木氏及び新田氏(後の羽川氏)等と共に出羽国由利郡を分割支配していた様子が記載されています(参11)(注4-1)。この点、1449年(宝徳元年)、小笠原(大井)氏流・小介川(伯耆守)立貞が支配していた出羽国赤宇曽郡について、醍醐寺三宝院から同院の寺領であるにも拘らず、同院への年貢が未納である旨を室町幕府へ訴えられ、これに対して小介川(伯耆守)立貞は鎌倉時代から何代にも亘って支配してきた土地であり、過去に一度も醍醐寺三宝院へ年貢を納めたことはないことを理由に年貢の納入を拒んだという記録が残されていますが(その後、後南朝の対立、応仁の乱等の勃発で沙汰止?)(参6、8)、この頃には小笠原(大井)氏の庶流等が地頭代から国人領主化し(由利十二頭)、出羽国由利郡の実効支配(鎌倉幕府による土地支配の正当性を失った後も武力で土地を実効支配)を確立していたと考えられ、室町幕府から醍醐寺三宝院へ寺領として新たに与えられた出羽国赤宇曽郡の支配を巡る争いが表面化したものと思われます。
③於曾氏の下向
1394年(応永元年)、於曾光俊(小笠原(大井)朝光の叔父)の末裔・於曾光栄が室町幕府(鎌倉公方)に対して出羽国由利郡への下向を願い出て認められ(室町幕府による土地支配の正当性)、その弟・於曾光広が出羽国由利郡へ下向して小笠原(大井)氏及び於曾氏が出羽国由利郡内越村及びその周辺を分割支配したと考えられます(注5)(参11)。時代は下って、1590年(天正18年)、小田原征伐に参陣した小笠原(大井)氏流・打越(宮内少輔)光重に対し、豊臣秀吉から本領安堵の御朱印状が下賜されたことから(豊臣秀吉による土地支配の正当性)(参15)、打越(宮内少輔)光重の系流が打越氏(内越氏)の惣領家に定まり、於曾氏が支配していた土地(≒於曾氏の家督)を統合、承継することになったのではないかと考えられます(第1部第2巻第2段①を参照)。この点、「打越氏御先祖様代代記覚書控」(参10)(この家系図には加賀美遠光の四男・光俊の子・光晴が小笠原氏を名乗り始めたと記載されていますが、光俊は加賀美遠光の五男であり、また、その名字は「小笠原」ではなく「於曾」なので、この部分は誤りか)には、打越(宮内少輔)光重の代から打越氏(内越氏)を名乗り始めたと記載されていますが、これは打越(宮内少輔)光重が於曾氏の支配していた土地(≒於曾氏の家督)を統合、承継したことにより於曾氏の系流も打越氏(内越氏)を名乗り始めたからではないかと考えられます(注20-2)。
なお、豊臣秀吉から下賜された本領安堵の御朱印状には、本領の地名として「内越村」と表記している一方で、名字(注1)は本領の地名とは異なる「打越」という表記を使用していることから、豊臣秀吉が本領安堵の御朱印状を下賜する前から打越氏を発祥し、その表記を使用していたと考えられます。また、1465年頃(内越(宮内少輔)氏光の代)、打越伊賀守が出羽国由利郡から常陸国那珂郡へ移って常陸江戸氏へ仕官していること(注7)(参16、65)や打越氏の菩提寺である恵林寺の過去帳に1450年(宝徳2年)時点の楠木正賢の俗名として内越小笠原左衛門太夫正賢と記されていること(参11)などを考え併せると、後述のとおり1350年頃に楠木正家の子・楠木正安が「打越将監」(楠木正家が打越城(白坂館)を構えた出羽国仙北郡打越郷(現、大沢郷寺)の地名である「打越」と楠木正安の官位である「将監」から構成)という通称を名乗り、また、小笠原大和守の三男・義知が楠木正家の娘の婿養子に入り(これにより小笠原義和と楠木正安とは義兄弟)、出羽国由利郡内越村に築いた内越城(平岡館)に移って「内越」と名字を改めたことに打越氏(内越氏)の発祥を求めるのが適当ではないかと考えます(後述する打越氏(内越氏)分家Ⅰ)(参10、11)。よって、打越氏(内越氏)の事実上の発祥地は、打越城(白坂館)を構えた出羽国仙北郡打越郷(現、大沢郷寺)であり(参10、11)(注4-2)、また、豊臣秀吉から下賜された御朱印状を根拠とする打越氏(内越氏)の公式上の発祥地は、出羽国由利郡内越村であると整理するのが合理的で、このような経緯から打越氏と内越氏の2つの表記が混在することになったのではないかと考えられます(注20-2)。
なお、打越氏(内越氏)の惣領家となった系流(後述の打越氏(内越氏)本家Ⅰ)は、1400年代後半、内越(宮内少輔)氏光の代から打越氏(内越氏)を名乗り始めていますが(参6、9)、内越(宮内少輔)氏光と同世代の楠木正清(後述の打越氏(内越氏)分家Ⅰ)が小笠原(大井)氏から妻を迎えて姻戚関係を重ねていますので、この頃には楠木氏だけではなく小笠原(大井)氏も本格的に打越氏(内越氏)を名乗り始めて「一家」の結び付きを強めたものと考えられます。(巻末家系図:図表7-②、図表9-②)(注20-2)
▼打越氏(内越氏)の発祥と定着
年代 | 名乗り | 系流 | |
1350年頃 | 楠木正安 | 打越将監 | 分家Ⅰ |
小笠原義和 | 内越(小笠原)義和 | ||
1450年頃 | 楠木正賢 | 内越(小笠原)正賢 | |
1465年頃 | ? | 打越伊賀守 | 分家Ⅱ |
1400年後半 | 小笠原氏光 | 内越(小笠原)氏光 | 本家Ⅰ |
④小笠原氏の下向(3回目)
1467年(応仁元年)、出羽国由利郡の領民が地頭不在による治安悪化を室町幕府(鎌倉公方)へ訴えたことを受けて、室町幕府が小笠原(大井)氏の庶流を出羽国由利郡へ派遣し(室町幕府による土地支配の正当性)、それが由利十二頭の由来であるという記録が残されています(参18)。しかし、この時期に鎌倉公方は存在せず、古河公方と堀越公方に分かれて争われていたことや、上述のとおり1331年以降に小笠原(大井)氏の庶流が相次いで出羽国由利郡へ下向していたことなどから、鎌倉幕府による土地支配の正当性しか有していなかった小笠原(大井)氏の庶流(由利十二頭)が室町幕府による土地支配の正当性を偽装するために考えた創作話ではないかと推測されます。この点、仁賀保氏の家系図には、仁賀保氏の祖・小笠原(大井)友挙が1467年(応仁元年)に出羽国由利郡へ下向したとあり、そのことを裏付けるように「打越旧記」には1428年(応永末年)時点の出羽国由利郡の領主として仁賀保氏の名前は記録されていませんが(参11)、その一方で、既に由利十二頭の矢島氏、赤尾津氏、子吉氏、玉米氏、石沢氏、滝沢氏等の名前は記録されており、また、醍醐寺三法院から年貢未納の訴えがあったのが1449年(宝徳元年)であることを考え併せると、1467年(応仁元年)に室町幕府が小笠原(大井)氏の庶流を地頭代として出羽国由利郡へ派遣したことで由利十二頭が誕生したとする説明では辻褄が合わず、鎌倉幕府の滅亡により小笠原(大井)氏の庶流等が国人領主化し(由利十二頭の誕生)、出羽国由利郡を実効支配していたと考えられます。
【名称】稲荷神社 【住所】秋田県にかほ市芹田高磯63 【備考】1467年(応仁元年)、仁賀保氏の祖・小笠原(大井)友挙が越後国から船で出羽国由利郡へ下向した際に着船した芹田岬に建立されている神社です。 |
⑤ まとめ
出羽国由利郡の地頭代であった小笠原(大井)氏や、於曾氏の庶流が元弘の乱、南北朝の動乱や応仁の乱等を契機として相次いで出羽国由利郡へ下向し(注8)、在地勢力(大江(寒河江、長井、芹田)氏や由利氏)や新興勢力(楠木氏や新田氏)と姻戚関係を結びながら、その勢力基盤を確立する過程で、打越氏(内越氏)を含む由利十二頭が形成されていったのではないかと考えられます。なお、各家の家系図や古伝等に矛盾や混乱を生じているのは、豊臣秀吉が奥州仕置で由利十二頭から由利五人衆に整理、統合して御朱印状を下賜するまでの間(とりわけ鎌倉幕府が滅亡して鎌倉幕府による土地支配の正当性が失われ、その後、小笠原(大井)氏の庶流等が国人領主化して由利十二頭が形成されていったと思われる応仁の乱までの間)は出羽国由利郡における土地支配の正当性の根拠が曖昧な状態が続き、その支配状況も流動的であったと考えられます。また、各家が土地支配の正当性を主張するために出羽国由利郡へ下向した経緯やその系流等を自らに都合良く誇張又は脚色して伝えたものが虚実入り乱れ、玉石混交とした状況を生んだのではないかと推測されます。よって、これらの家系図や古伝等は、歴史事実をありのままに記録した写真のようなもの(記録物)ではなく、歴史を語る媒介者(利害関係人)の目を通して映し出され、断片的に切り取られ又は装飾された絵画のようなもの(表現物)として、その表現意図等にも十分に注意して取り扱う必要があります。
▼小笠原氏及び楠木氏の出羽国由利郡への下向年
年代 | 主な出来事 | 主な下向者【末裔】 |
1331年(元弘元年) | 元弘の乱 | 小笠原(大井)正光【打越氏】 |
1336年(建武3年) | 瓜連城の戦い 湊川の戦い |
楠木正家【打越氏】 |
1339年(延元3年) | 後醍醐天皇の崩御 | 小笠原(大井)朝保【岩屋氏】 小笠原(大井)光貞 【赤尾津氏(小介川氏)】※1
小笠原(大井)光泰【矢島氏】
由利維貴【滝沢氏(由利氏)】※2
|
1394年(応永元年) | 足利義満の将軍職退位 | 於曾光広【打越氏】 |
1467年(応仁元年) | 応仁の乱 | 小笠原(大井)友挙【仁賀保氏】 小笠原(大井)重泰【矢島氏】 |
1592年(天正20年) | 顕如の入滅 | 楠木正意【打越氏?】※3 |
(注4-1)小笠原氏と大江氏の関係
1428年(応永末年)の時点で、小笠原(大井五郎)光泰の後裔・小笠原(大井又次郎)光重は八森古城から滝沢へ移り(打越旧記/参11)、これに代って大江(大膳大夫)義久が築館(秋田県由利本荘市矢島町城内築館)へ入り八森城を築城します(参90、116)。その後、大江義久は「大江」を改めて「小笠原」を名乗っていることから(参24、25)、大江義久が小笠原光重の娘の婿養子になって家督を承継し、これに伴って小笠原光重が滝沢へ移住(隠居)した可能性や1467年(応仁元年)、出羽由利郡へ下向した小笠原(大井)重泰が矢島を支配するにあたり在地勢力の大江義久と姻戚関係を結んだ可能性等が考えられます。このため、その後裔・矢島(大井五郎)満安が「小笠原(大井)」及び「大江」の双方を名乗り、一文字三ツ星紋(寒河江(大江)氏と同紋)を使用したのではないかと推測されます(注6)。また、奥羽慶長軍記(参6)では、源頼朝から出羽国秋田郡太平村を下賜された大江(長井)氏流・太平広治と矢島満安を「一家」と記載していることからも、大江氏と小笠原(大井)氏との間には何らかの姻戚関係があった可能性が考えられます(参11)。なお、矢島満安が「大江」と「小笠原(大井)」の双方を名乗っていたことについては、「大江」は本姓、「小笠原(大井)」は名字であることから双方を併用することは何ら不自然ではなく(例えば、「源」が本姓、「小笠原」が名字であるのと同じ)、また、両者は姻戚関係(大江氏が父系、小笠原(大井)氏が母系?)にあった可能性がありますので、状況に応じて都合の良い方を名乗っていたのではないかと考えられます。因みに、1467年(応仁元年)、小笠原重泰と共に出羽国由利郡へ下向した小笠原(大井)友挙の後裔・仁賀保兵庫頭の弟・挙実は、出羽国由利郡芹田村を支配していた長井(大江)氏流・芹田氏の家督を相続していますが、同じように小笠原友挙が仁賀保(芹田村を含む)を支配するにあたり芹田氏との間で姻戚関係を結んだ可能性があり、これにより箱一文字三ツ星紋(長井(大江)氏も同紋)を使用することになったのではないかと考えられます(注6)。これらのことから、出羽国由利郡へ下向した小笠原(大井)氏の庶流は、在地勢力の大江(寒河江、長井、芹田)氏、由利氏らや、新興勢力の楠木氏らと姻戚関係を結びながら、その支配基盤を確立して行ったと考えられ、その過程で打越氏(内越氏)が誕生したと考えられます(第1部第1巻第2段①②を参照)。
(注4-2)打越氏(内越氏)の発祥地に関するもう1つの可能性
親川楠家系図(参11)には、楠木正家が南朝勢力を支援するために川内打越に居城を構えて籠城し、北朝勢力と争ったという記載があります。この点、出羽国由利郡矢島郷川内村に「打越」という地名や字名はなく(但し、その近傍に秋田県由利本荘市鳥海町下直根字打越という地名が残されており、現在も新田氏の末裔が分布)、また、親川楠家系図には「川内打越は大沢打越とあり」と記載されていることから(参11)、この地を打越氏(内越氏)の発祥地とする根拠は薄弱と考えられます。但し、後醍醐天皇から下賜された論旨を所持していた楠木(打越)小次郎は、楠木正家が南朝勢力の関係者を供養するために建立した元弘寺(秋田県由利本荘市鳥海町下川内矢ノ本)を拠点として活動し、その後、楠木正家が築城した小次郎館(牛越館)(秋田県由利本荘市鳥海町栗沢字牛ケ首)に移ったと言われており(参235、236、237、238)、また、傑堂能勝禅師(楠木正能)が小次郎館(牛越館)の近くに高健寺(秋田県由利本荘市鳥海町伏見)を開基し(参11)、その後、現在の場所へ移されていますので(参241)、打越氏(内越氏)の勢力拠点であったと考えられます。なお、東信濃を支配した滋野三氏(海野氏(真田氏の祖)、望月氏(甲賀忍者・望月氏の祖)、根津氏)のうち、望月氏の庶流は信濃国佐久郡矢島村及び根々井村を支配し、それぞれ矢島(八島)氏及び根井氏を名乗りますが、1184年(寿永3年)の木曾義仲の挙兵に従い、木曾義仲が滅亡してその所領を没収されると小笠原(大井)氏に臣従します(参206)。しかし、南北朝の動乱では、矢島(八島)氏及び根井氏は南朝勢力に与し、主家である小笠原(大井)氏(北朝勢力)と争います。この点、根井家由来書には「信州義仲滅亡ノ後、行親末子則式部太夫ト云、信州ヲ立退、羽州油利ノ郡矢嶋ノ庄二年久ク蟄居シテ、民ヲシタカイ、土地ヲ開カセ、子孫繁栄ス」と記されており(参6)、木曾義仲の滅亡や南北朝の動乱を契機として根井氏が南朝勢力である寒河江(大江)氏を頼って出羽国由利郡津雲出郷(後の矢島郷)へ下向した可能性が考えられ(因みに、海野氏の末裔は寒河江(大江)氏へ仕官しています。)、これを裏付けるように木曽義仲の愛妾・巴御前の末裔である巴太郎頼勝が隠棲していたと伝わる巴館跡(秋田県由利本荘市西沢上屋敷17-1)も残されています。その後、応永年間、大江(大膳大夫)義久が出羽国由利郡津雲出郷(後の矢島郷)を支配しますが(参24)、これに伴って小笠原(大井)光泰の後裔である小笠原(大井又次郎)光重が矢島から滝沢へ移り(打越旧記/参11)、大江(大膳大夫)義久は小笠原(大井)義久と改名していますので、小笠原(大井又次郎)光重が大江義久を婿養子を迎えた可能性(名字を「小笠原」へ改める代りに、家紋は元の一文字三ツ星のままとするパターン)等が考えられます(参25)(巻十八由利十二頭の事/参207)(注4-1)。時代は下って、1593年(文禄2年)、小笠原(大井)義久の後裔で矢島城の戦いで敗れた矢島(大井五郎)満安(滋野氏流望月氏の庶流・矢島(八)氏と同じ名字ですが、滋野氏流の後裔ではありません。)は楠木正家が南朝勢力の関係者を供養するために建立した元弘寺に葬られますが(親川楠家系図/参11)、矢島(大井五郎)満安の息女・鶴姫が元弘寺の隣に庵を結んで菩提を弔ったと言われており、その庵跡に鶴姫の墓が安置されています。その後、元弘寺が廃寺になり、矢島満安の墓は高建寺(傑堂能勝禅師(楠木正能)の開基)へと移されています。
▼武家の台頭と終焉
院政の開始 | 白河天皇が藤原氏による摂関政治から実権を取り戻すために武家(平氏、源氏)の軍事力を頼って院政を開始。(武家(平氏、源氏)の台頭) |
保元の乱 | 後白河天皇と崇徳上皇が院政の主導権を巡って争い、後白河天皇が武家(平氏、源氏)の軍事力を借りて勝利。(武家(平氏、源氏)の台頭) |
平治の乱 | 後白河法皇と二条天皇が院政の主導権を巡って争い、後白河法皇が武家(平氏)の軍事力を借りて勝利。(武家(平氏)のみ台頭、貴族(藤原氏)及び武家(源氏)の没落) |
木曾義仲の挙兵 | 以仁王が平氏打倒を命じる令旨を発し、紀伊国牟婁郡新宮村(熊野速玉大社、弁慶の生誕地及び楠木氏の発祥地の1つと考えられている楠藪もあり。)に居住する源(新宮十郎)行家が諸国の源氏に挙兵を呼び掛け、叔父・木曾義仲が挙兵し、都から平氏を一掃。(武家(源氏)のみ台頭) |
鎌倉幕府の樹立 | 後白河法皇は源頼朝に皇位継承問題に口を挟む木曾義仲を討伐させ、源頼朝は平氏、源義経及び奥州藤原氏を滅亡して源頼朝に抵抗できる軍事力を一掃し、武家政権(鎌倉幕府)の樹立を朝廷に容認させる。(武家(源氏)の支配) |
承久の乱 | 後鳥羽上皇が朝廷政権の樹立を目指しますが失敗。(武家(源氏)の支配) |
南北朝の動乱 | 後醍醐天皇が朝廷政権の樹立を目指しますが失敗。(武家(源氏)の支配) |
明治維新 | 明治天皇が王政復古を実現して武家政権が終焉。 |
(注5)於曾氏の歴史
於曾氏は、1200年頃に加賀美遠光の四男・光経及び五男・光俊(経光)が甲斐国山梨郡於曾郷を支配して「於曾」を名乗り、信濃守護職・小笠原氏に仕えます。信濃国の国人領主は北朝勢力と南朝勢力、足利尊氏党と足利直義党に二分して各所で合戦を繰り返し、混乱状態に陥っていたこともあり、あまり於曾氏に関する史料は残されておらず、僅かに1400年から1547年にかけて大塔物語や信陽雑志にその名が確認できる程度で、1445年頃からは於曾氏に代わって板垣氏が甲斐国山梨郡於曾郷を支配しています(参32)。1339年(暦応2年)、備後国得良郷(足利尊氏が南北朝の動乱で九州へ落ち延びる途中に立ち寄り、尾道浄土寺に同地の地頭職を寄進)で於曾六郎兵衛尉らが濫妨(地頭以外の者が税を徴収する行為)を働いたことから、備後国守護・源兼継に抑止されています(参33、34)。また、1400年(応永7年)、大塔合戦(信濃守護職・小笠原長秀とその圧政に不満を抱く信濃国の国人領主・滋野氏、仁科氏、高科氏、村上氏等との合戦)では於曾七郎が信濃守護職・小笠原長秀に従って戦いますが、大井氏をはじめとした小笠原氏一門の半数以上が小笠原長秀に従わずに小笠原長秀は大敗します(参35)。さらに、1541年(天文10年)、武田信玄が信濃侵攻を開始しますが(その結果、1550年、小笠原氏は信濃国の支配を失います。)、1548年(天文17年)、武田信玄の命により板垣信方の娘の婿養子・於曾(左京亮)信安が板垣氏の名跡を継いでいます(参36)。時代は下って、1841年(天保12年)、加賀美亮は盛岡藩南部氏に召し抱えられ、その子・啓之丞が於曾氏に復姓したという記録が残されており(参37)、於曾氏の庶流が信濃国から奥州各地へ流れていたものと考えられます。
(注6)家紋の由来
仁賀保氏の「諸家系譜 先祖書」(参6)には、南北朝の動乱で北畠顕家から武功第一として下賜された「一品」の字形を象って「箱一文字三ツ星紋」を家紋として使用するようになったという家紋の由来が記載されていますが、これは大江氏の祖である阿保親王が一品親王と称され(平城天皇の第一皇子として一品の位にあるという称号)、この「一品」を図案化して「一文字三ツ星紋」を使用し始めたという家紋の由来と酷似しており、これを借用したものではないかと推測されます。これは徳川家康が征夷大将軍に就任するために清和源氏新田氏流・得川氏を祖にすると称したこと(系図買いの可能性)が背景にあり、南朝勢力を祖とする徳川家康の関心を引くための創作話である可能性も考えられます。この点、上記の由来が大江氏の家紋の由緒に取材して創作されたものであるとすれば、やはり仁賀保氏の箱一文字三ツ星紋の由来は大江氏との関係性に見出だすのが自然ではないかと思われます(注4-1)。即ち、1467年に出羽国由利郡へ下向した小笠原(大井)氏が大江氏又はその庶流の芹田氏と姻戚関係を結び、これに伴って大江氏又はその庶流の芹田氏から譲与された譲与紋である可能性が考えられます(注4-1)。なお、打越氏(内越氏)は三階菱紋を本紋とし、一文字三ツ星紋を替紋としていますが、既に1465年頃に常陸江戸氏へ仕官した打越伊賀守が丸に一文字三ツ星紋を使用していることから(参16、65)、1600年(慶長5年)に慶長出羽合戦(北の関ケ原の戦い)で毛利(大江)氏流・越後北条氏から旗指物を奪ったことによる略奪紋であるという家紋の由来(参6、39)や、1584年(天正12年)に最上義光が寒河江(大江)高基を滅ぼした際に最上氏に味方した打越氏及び仁賀保氏が戦勝を記念して大江氏の家紋を使用し始めたという家紋の由来(参9)は創作話である可能性があります。この点、打越氏(内越氏)と姻戚関係を結んだ由利氏がそれよりも前から大江氏と姻戚関係を結んで一文字三ツ星紋を使用しており(由利楠家紀伝/参11)(注4-1、37)、楠木(内越)正宣と由利惟貴の曾孫・満姫の婚姻を契機として由利氏から楠木(内越)氏へ一文字三ツ星紋が譲与されたのが実際ではないかと思われます。しかし、このような家紋の由来では打越氏(内越氏)の武勇をアピールすることにならず、仁賀保氏と同様に打越氏(内越氏)も家紋の由来を創作したのではないかと考えられます。現代でも面接で実績を誇張又は創作してアピールするのと似ており、多少のハッタリを効かる機転と度量も重要な処世術として評価の対象になるのは昔も今も同様かもしれません。
常陸江戸氏は、瓜連城の戦いで楠木正家と共に南朝勢力として戦って敗れた那珂道辰の孫・那珂通泰が南北朝合一後に佐竹氏と和睦して佐竹義篤の娘を娶り常陸国那珂郡江戸郷を下賜され、名字を「江戸」と改めて誕生します。常陸江戸氏が独自の家臣団を形成するにあたり、楠木正家の末裔である打越氏(内越氏)の庶流を出羽国から常陸国へ呼び寄せて召し抱えたのではないかと推測されます。
律令時代に五畿七道が整備され、征夷の道として設けられた北陸道や東山道等を経由し、又は海路を伝って、人、物や情報が信濃国と出羽国及び陸奥国との間で盛んに流通するようになります。その後、江戸時代に入り五街道及び脇街道に宿場町や飛脚制度等が設けられたことで、人、物や情報の流通が一層と盛んになりますが(江戸時代の流通革命)、江戸時代の運送業者が峠を超える際に荷を引く馬を追いながら歌う馬追い唄(馬子唄)が誕生します。その代表的な例として、碓氷峠を越える際に歌われた小諸馬子唄が打越氏(内越氏)の祖・小笠原(大井)氏の発祥地である信濃国佐久郡(越後国へ通じる北国街道と武蔵国へ通じる中仙道に分岐する追分宿)に伝わって「信濃追分節」に発展し、それを越後瞽女(高田瞽女、長岡瞽女)や座頭が門付をしながら北陸道、羽後浜街道(日本海沿岸)を北上したことで広まり、やがて「津軽三味線」へと発展します。その後、信濃追分は北前船の船頭により北海道の江差地方へ伝わって「江差追分節」が誕生し、逆に、それが北前船の船頭により出羽国由利郡へ伝わって「本荘追分節」が誕生します。
【名称】碓氷関所跡 【住所】群馬県安中市松井田町横川573 【備考】碓氷峠の入り口にある安中藩の碓氷関所跡で、日本で最初のマラソン大会である安中藩の遠足を題材とした映画「サムライマラソン」の舞台にもなった場所 |
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【名称】碓氷峠 【住所】群馬県安中市松井田町坂本 【備考】1159年(天正18年)、小田原征伐で、打越光重は北国軍の信濃衆に編成され、初陣の真田幸村らと共に、碓氷峠の北条勢を撃退します。 |
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【名称】信濃追分発祥の地碑 【住所】長野県佐久市軽井沢町追分1155-8 【備考】打越氏(内越氏)の祖・大井氏の発祥地へと続く碓氷峠を越える際に唄われた馬子唄が信濃追分節となり、そこから津軽三味線へと発展します。 |
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【名称】分去れ 【住所】長野県北佐久郡軽井沢町追分558 【備考】左方:中山道(近江国)、右方:北國街道(越後国)、後方:中山道(武蔵国)で、次の岩村田宿(左方)が打越氏の祖・小笠原氏流大井家の発祥地。 |
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【名称】追分宿跡 【住所】長野県北佐久郡軽井沢町追分570 【備考】左側に通称、枡形の茶屋と呼ばれる「つがるや」の歴史的建造物があり(ほぼ原型のまま保存)、更に追分宿の奥には油屋旅籠等も営業を継続中。 |
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【名称】高田瞽女・杉本シズさんの墓 【住所】新潟県上越市東本町3-2-51 【備考】善念寺。高田瞽女は弟子を養子に入れて相伝されたので、杉本シズさんの師匠・杉本キクイさん(無形文化財)さんを含む高田瞽女の先代3名の名前も刻まれています。 |
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【名称】瞽女ミュージアム高田 【住所】 新潟県上越市東本町1-2-33 【備考】善念寺の近くにある高田瞽女の文化を保存し、現代に伝えています。2020年に映画「瞽女-GOZE-」の公開も予定されています。 |
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【名称】長岡瞽女・小林ハルさん(無形文化財)の墓 【住所】新潟県胎内市熱田坂631の先 【備考】胎内やすらぎの家を背にして胎内フィッシングセンターを右手に見ながら道沿いに進むと左手に墓が見えてきます。 |
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【名称】瞽女顕彰碑 【住所】新潟県胎内市熱田坂881-86 【備考】小林ハルさんが入居されていた胎内やすらぎの家の敷地内。瞽女唄ネットワークが長岡瞽女唄を所存し、その伝承を支援するための取組みを行っています。 |
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【名称】仁太坊の里碑 【住所】青森県五所川原市金木町神原桜元30-3 【備考】はぐれ瞽女から信濃追分節(三味線)を学び、その後、太棹による力強い叩き奏法を生み出して津軽三味線を創始した仁太坊の出生地です。 |
第2節 楠木氏の出羽国由利郡への下向
1336年1月(建武3年)、足利尊氏は、建武の乱で南朝勢力に敗れて九州へ落ち延びますが、1336年(延元元年)年5月、西国勢を従えて再上洛し、湊川の戦いで楠木正成及び新田義貞を破って京都を制圧します(参20)。これにより後醍醐天皇は比叡山へ遁れますが、名和長年や於曾貞光(打越氏(内越氏)の祖先)が内野の合戦(京の一条院跡付近)で討死し(注12)(参253)、さらに、比叡山の中腹で千種忠顕が討死します。1336年(延元元年)12月、足利尊氏は、東国の北朝勢力を支援するために高師冬が率いる大軍を常陸国へ派遣しますが、これにより東国の南朝勢力は劣勢となり、楠木正家が守備する瓜連城も落城します。楠木正家は、再起を図るために陸奥国へ落ち延び(参21、208)、金沢城(出羽国平鹿郡横手郷)を経由して打越城(出羽国仙北郡打越郷(現、大沢郷寺)へと移り南朝勢力の支援に尽します(参10、11、64)。1337年(延元2年)3月、新田義貞は後醍醐天皇の皇子・尊良親王と共に越前国の金ヶ崎城に籠城して北朝勢力に対抗しますが、これに加っていた於曾時高(於曾貞光の子又は孫で打越氏(内越氏)の祖先)が討死します(参10、11)。1337年(延元2年)8月、北畠顕家は、後醍醐天皇及び北畠親房の援軍要請に応えて再上洛しますが、この再上洛軍に楠木正家が加わったと考えられます(参208)(但し、親川楠家系図(参11)では、楠木正家は出羽国で没したと記しています)。一方、出羽国に留まった楠木正家の子・楠木正安は「打越将監」という通称を名乗り(打越氏の祖)、また、楠木正家の娘の婿養子になった小笠原(三郎左衛門)義知は内越城(平岡館)(出羽国由利郡内越村)を築城して「内越」を名乗ります(内越氏の祖)(注10、13-1、13-2、20-2)。さらに、内越義知の子・楠木(内越)正宣は由利維貴の曾孫・満姫を娶って内越城(平岡館)から岩倉館(出羽国由利郡川口村)へ移り、出羽国由利郡における勢力基盤を固めます(参6、11、22、23)(注11、14)。1338年(延元3年)5月、北畠顕家は、度重なる戦闘による損耗と疲労で次第に劣勢となり、石津の戦いに敗れて南部師行や名和義高らと共に討死します(参253)。その後、1348年(正平3年)1月、四条畷の戦いで楠木正行、楠木正時、和田賢秀らと共に楠木正家が討死します(注9)(第2部第2巻第2段①を参照)。
いにしへを のべはくるし 玉の緒の 絶ゆるばかりに とくるともなし(正家)
【現代語訳】昔を振り返っても、苦しいいことの連続であり、束の間の幸せも、いつ終わるか分からない。
かしこしな めくみの露の 置添へし 昔のあきを 今おもふにも(正安)
【現代語訳】色鮮やかな紅葉に付いている露のように、昔の秋を思い返しても美しいものに感じられる。
1347年(正平2年)6月、楠木正行は北朝勢力との決戦を決意し、吉野行宮で後村上天皇に拝謁した後、後醍醐天皇陵を参拝して、如意輪堂の扉に「かへらじと かねて思へば梓弓 なき数に入る 名をぞとどむる」という辞世の句を鏃で刻みます。その後、楠木正行は、紀伊国橋本で挙兵し、八尾城の戦い、藤井寺・教興寺の戦い、住吉・天王寺の戦いと連勝します。1348年(正平3年)1月、楠木正行を大将とする南朝勢力と高師直を大将とする北朝勢力が大阪府大東市北条周辺(四条畷神社と小楠公墓地の間を通る東高野街道沿い)で激戦となり、約20倍近い兵力差があったにも拘らず、南朝勢力が北朝勢力を約3kmも押し戻す奮戦を見せますが、衆寡敵せず、楠木正行らは自刃します。その後、吉野行宮は陥落し、後村上天皇は賀名生へ行宮を移します。時代は下って、明治政府は、明治維新の根源は建武中興と吉野朝にあるとして、1889年(明治22年)、四条畷神社を建立して楠木正行、楠木正家や和田賢秀らを祀ります。
【名称】楠木正行 辞世の句 【住所】奈良県吉野郡吉野山(如意輪堂宝物殿) 【備考】楠木正行が四条畷の戦いに向かうにあたり如意輪寺の扉に鏃で刻んだ辞世の句が残されています。 |
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【名称】如意輪寺 芳名録 【住所】奈良県吉野郡吉野山(如意輪堂宝物殿) 【備考】楠木正行に従って四条畷の戦いに参陣した芳名録に楠木正家の名前があります。 |
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【名称】和田賢秀の鎧(胴巻き) 【住所】奈良県吉野郡吉野山(如意輪堂宝物殿) 【備考】楠木正季の嫡子・和田賢秀(歯神様)が身に着けていた鎧(胴巻き)です。 |
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【名称】四条畷神社 【住所】大阪府四条畷市南野2-18-1 【備考】四条畷神社の古戦場跡に建立され、楠木正行を主祭神とし、楠木正家、和田賢秀らを配祀しています。 |
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【名称】楠木正行の墓 【住所】大阪府四條畷市雁屋南町27-5 【備考】四条畷神社の向かいには楠木正行(小楠公)の墓が建立され、その隣に楠の大樹(大楠公)が植樹されています。 |
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【名称】和田賢秀の墓 【住所】大阪府四條畷市南野4-15-6 【備考】楠木正行の従弟で四条畷の戦いで討死します。なお、打越氏(内越氏)の発祥地の1つに和田賢秀が開基した真光寺があります。 |
(注10)打越氏(内越氏)の6種類の家系図
打越氏(内越氏)の家系図は、代表的なものだけを挙げても以下の①乃至⑥の6種類が確認でき(但し、注2-2を参照)、これらの家系図が相互に有機的に絡み合って打越氏(内越氏)の家系図を構成しています(参26、27)。
①寛政重修諸家譜(巻二百五 打越):小笠原(大井)朝光を祖とする系流
②蕗原拾葉高遠進徳本(打越家系):小笠原(大井)朝光を祖とする系流
③打越氏御先祖様代代覚書控(矢島町史続上巻):於曾光俊を祖とする系流
⑤久保田藩諸士系図(源姓打越氏):打越(三郎兵衛)光重を祖とする系流
⑥紀州家中系譜並に親類書書上げ(源姓打越氏):打越藤左衛門を祖とする系流
それぞれの家系図又は正史と比較して整合性がとれない部分も散見されますが、現代人が作成する書類でも日時や人名等の誤りがあることは珍しいことではなく、寧ろ、多少の記憶違いや誤記等の不備があるのは自然なことです。そのうえで、それぞれの家系図又は正史との比較で整合性がとれる説明を試みるとすれば、大要、以下のとおりになるのではないかと考えます。なお、上記①乃至④の家系図の相関関係は、後掲の図表3をご参照下さい。
上記①乃至③の家系図は、河内(甲斐)源氏流・加賀美遠光から分家した系流(秋山氏、小笠原氏、南部氏、於曾氏)を祖としてまとめられているものです。上記①の家系図は、小笠原(大井)朝光を祖とする系流のうち、打越(宮内少輔)光重以後の世代について詳細に記録し、上記③の家系図は、於曾光俊を祖とする系流のうち、打越(宮内少輔)光重以前の世代(於曾氏)について詳細に記録しており、上記①及び③の家系図は系流を異にしながらも相互補完関係にあります。これは豊臣秀吉が奥州仕置で由利十二頭を由利五人衆に再編成し、出羽国由利郡内越村及びその周辺(芋川及び赤川の流域の1250石)の本領安堵の御朱印状を小笠原(大井)氏流・打越(宮内少輔)光重に下賜したことで(豊臣秀吉による土地支配の正当性)(参15)、打越(宮内少輔)光重(上記①の家系図)が惣領家に定まり、それまでは不完全な惣領制の下で独立していた於曾氏(上記③の家系図)が支配していた土地(≒於曾氏の家督)を統合、承継した為ではないかと推測されます。なお、一部の文献(参10、11)には「光俊」を小笠原長清の弟としながら、於曾光俊ではなく小笠原光俊と記載しているものがあり、また、上記③の家系図には「光俊」の子・光晴から小笠原氏を名乗ったと記されていますが、これらは誤りと思われます。よって、このWEBでは、小笠原(大井)氏流・打越(宮内少輔)光重が豊臣秀吉から本領安堵の御朱印状を下賜され、於曾氏が支配していた土地(≒於曾氏の家督)を統合、承継するまでの間は、両者を明確に分けて記載しています。
上記②の家系図は、小笠原(大井)朝光を祖とする系流のうち、打越(宮内少輔)光重以前の世代(小笠原(大井)氏)について詳細に記録し、上記①及び②の家系図は系流が同一で相互補完関係にあります。なお、蕗原拾葉高遠進徳本(正編150巻、続編338巻、巻外20巻)は、信濃国の高遠藩が高遠藩及び信濃国の郷土史を編纂したものであり、このうち打越家系は諏訪家譜、真田内伝、滋野姓氏権与と共に巻外第4巻に収められています。但し、巻外は、蕗原拾葉高遠進徳本を編纂するにあたって収集した資料のうち、正編又は続編で採り上げなかった資料をまとめたもので、それらの内容は十分な検証が加えられていない可能性があり、その取扱いには慎重を要します。
上記④の家系図は、打越氏(内越氏)から楠(木)氏へ復姓した系流の家に伝えられる親川楠家系図(参11)をベースにし、これに含まれている誤謬等を由利楠家紀伝、恵林寺過去帳、由利十二頭記、打越旧記等を参考にしながら補正したものですが(参6、11)、これによれば楠木正家の子・楠木正安が「打越将監」という通称を名乗ると共に、楠木正家が娘の婿養子として迎え入れた小笠原大和守の三男・小笠原義知が内越城(平岡館)(羽国由利郡内越村)に本拠を構え、「内越」を名乗っています。さらに、内越義知の子・楠木(内越)正宣は、在地勢力の由利惟貴の曾孫・満姫と婚姻関係を結んで内越城(平岡館)(出羽国由利郡内内越村)から由利氏の居城である岩倉城(出羽国由利郡川口村)へと本拠を移し、勢力基盤を固めています。これにより楠木(打越)正安と楠木(内越)正宣は叔父と甥の関係となりますが、打越氏と内越氏の2つの表記が混在しているのは上述のような経緯を経ているからだと思われます。
上記⑤の家系図は、久保田藩士・打越(三郎兵衛)光政が久保田藩へ提出したもので、打越(三郎兵衛)光重を祖としていますが、上述の打越(宮内少輔)光重や小笠原(又次郎)光重(打越旧記/参11)とは別人と考えられます。この点、佐竹義宣が常陸国を支配していたのは1586年(天正14年)から1602年(慶長7年)までの間ですが、豊臣秀吉から打越(宮内少輔)光重へ本領安堵の御朱印状が下賜されて惣領家に定まった時点又は打越(飛騨守)光隆が打越氏(本家Ⅰ)の家督を相続した時点で、打越氏(本家Ⅰ、分家Ⅰ)の庶流が浪人して常陸国の佐竹氏に仕官を求めたのではないかと推測されます。なお、この時代には一門内に同名の者がいる例は珍しくなく、例えば、小笠原(大井)朝光の叔父・於曾光俊と小笠原(大井)朝光から数えて第7代目・小笠原(大井)光俊とは同名別人です。
最後に、上記⑥の家系図は、紀州藩士・打越氏が紀州藩に提出したもので、雑賀衆・打越藤左衛門を祖としていますが、紀ノ川の大氾濫で大垣内堤防が決壊したことにより、少なくとも4種類の家系図が流失し、詳しい由緒が分からなくなっています。この点、紀伊国発祥の打越氏(内越氏)が出羽国発祥の打越氏(内越氏)から派生したことを示す直接的な証拠は発見できていませんが、①出羽国発祥の打越氏(内越氏)は清和源氏及び物部氏族熊野国造系和田氏を源流としており(参2)、両者は同じ源流であること、②由利十二頭は熊野詣する修験道を利用して諸国の情勢偵察を行わせており(参28、29)(注25)、紀伊国との間で活発な交流があったと考えられること、③出羽国の打越正義は石山本願寺合戦で顕如上人から援軍を要請され、その名代として弟・打越三郎左衛門を紀伊国雑賀荘の鷺森別院(雑賀御坊)へ派遣していますが(参11)、同じく鷺森別院(雑賀御坊)を守備していた物部氏族熊野国造系和田氏を祖とする楠木正意が出羽国由利郡打越郷(内越村)へ遁れたという記録があること(参3、52)、④雑賀衆・打越藤左衛門は顕如上人に味方して本庄城を守備しており(参31)、石山本願寺合戦では出羽国の打越三郎左衛門と協力して織田信長に抵抗したと考えられること、⑤俗に「最上家の三兵庫」と呼ばれる最上義光の傘下の1人に雑賀兵庫がおり(参219)、紀伊国と出羽国との間で人流があったと考えられること、⑥出羽国発祥の打越氏(内越氏)が古文書の記録に登場してから約150年後に紀伊国発祥の打越氏が土豪として古文書の記録に登場しますが、1450年頃から1590年頃までの間に出羽国由利郡発祥の打越氏(内越氏)の庶流が仕官先を求めて諸国へ移っている例があることなどから、出羽国由利郡から打越氏(内越氏)の庶流が紀伊国へ移って土豪化した可能性も十分に考えられ、上記③及び④などから両者には何らかの人脈があった可能性が考えられます。
(注11)楠木氏の下向経緯
親川楠家系図(参11)には、1391年(元中8年)に楠木正家や小笠原信濃守が成良親王を奉じて奥州へ下向したと記載されていますが、成良親王は1334年(師守記)又は1336年(太平記)に薨去したと記されていることから、おそらく土地支配の正当性の根拠とし又は奥州の南朝勢力の士気を高めるために成良親王の奥州下向を喧伝したものがそのまま家系図に記載され、又は古伝として残されているのではないかと推測します。この点、楠木正家の孫・楠木正宣の没年1419年(応永26年)から逆算すると、1336年に瓜連城が落城して陸奥国へ落ち延びた楠木正家が出羽国由利郡へ入部したとしても不自然ではありません。その後、楠木正家の娘の婿養子として小笠原大和守の三男・小笠原(内越)義知を迎えたことを始め、楠木(内越)正国の妻として小笠原義光の娘、楠木(打越)正春の妻として小笠原(仁賀保)兵庫頭の娘、楠木(内越)正兼の妻として小笠原(岩谷)行義の娘など、楠木氏と小笠原氏(仁賀保氏、岩谷(屋)氏)等との間で姻戚関係が重ねられています。(参11)(第1部第2巻第2段①を参照)
(注12)南北朝の動乱と於曾氏の戦い
打越氏御先祖様代代覚書控(参10)には、1335年(建武2年)5月、打越氏の祖先である第10代・於曾貞光が後醍醐天皇に味方して京で討死したという記録が残されています。この点、1335年12月に足利尊氏が後醍醐天皇に謀反し、1336年1月、陸奥鎮守府将軍・北畠顕家が京を包囲していた足利尊氏を一掃しますが(参20)、再び、1336年5月に足利尊氏が西国勢を従えて京を占領しており、名和長年らと共に於曾貞光が内野の合戦(京都市上京区梨木町192の一条院跡周辺)で討死したものと思われます。よって、於曾貞光の没年は1335年5月ではなく1336年5月が正しいのではないか(誤記)と思われます。さらに、1337年1月、後醍醐天皇の皇子・尊良親王や新田義貞、新田義顕らが籠城する越前国の金ヶ崎城で第12代・於曾時高も討死します。なお、1336年5月から1337年1月までの短い期間のうちに第11代・於曾光時が代替りしていますが(参10)、その詳しい経緯等については記録が残されていません。
【名称】名和長年戦没遺蹟 【住所】京都府京都市上京区梨木町192 【備考】1336年(元弘元年)6月、名和長年らは一条院跡周辺で行われた内野の合戦で討死。後醍醐天応は比叡山へ遁れ、新田義貞は日吉大社へ布陣。 |
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【名称】金ヶ崎城跡(金崎宮) 【住所】福井県敦賀市金ヶ崎町1 【備考】1337年(元弘2年)3月、金ヶ崎城の戦いに敗れた尊良親王及び新田義顕と共に、於曾時高ら兵約100名が討死又は自害しています。 |
(注13-1)打越(内越)の読み方
秋田県由利本荘市及びその周辺には「打越」(訓読み:うつこし、うちこし、うちごし)又は「内越」(音読み:うてつ)という地名が計4ケ所ありますが、一般に、武家は土地の支配権を示すためにその地名を名字(名田の字)として名乗っており、また、逆に土地を支配した武家の名字がその土地の字(あざ)となるケースもあります。なお、日本海側の地域では「越」を「えつ」と音読みし(例えば、越後国、越中国、越前国など)、それ以外の地域では「越」を「こし」と訓読みする傾向があります(注13-2、34)。因みに、Weblioの英文文例では「うちこし」が使用されています。
①「恵林寺資料」(参10)には、楠木正家は出羽国仙北郡打越郷(現、大沢郷寺)に打越城(うつこし)を築き、その地名から打越氏を名乗ったと記載しています。
②「寛永諸家系図伝」「寛政重修諸家譜」「干城録」には打越(うていち)と音読みで記していますが、打越光輪の代に打越(うちこし)と訓読みに統一されています。
③秋田県湯沢市松岡字打越(うちごし)には、江戸時代の国学者・菅江真澄が訪れ、南北朝時代に楠木正家が籠城したと言われる金沢柵跡に近い出羽国雄勝郡松岡郷打越村に、軍記物に名前が登場する打越式部太夫や打越孫四郎が住んでいたことや現在はその子孫の打越孫治郎及び内越民部少輔が住んでいるが詳しい住所は分からないことなどを記しています(参39)。因みに、久保田藩佐竹氏に仕官していた打越平角、打越安之助はこの近隣の秋田県横手市上境に知行地がありました。
④秋田県由利本荘市下直根字打越(うちこし)には、新田氏の末裔が多数分布していますが(第4部第3段①を参照)、親川楠家系図(参10)には打越氏(内越氏)が新田氏とも姻戚関係を結んだという記録が残されています。なお、この近くにある秋田県由利本荘市鳥海町栗沢字牛ケ首には、楠木正家が築城し、楠木(打越)小次郎が守備した小次郎館跡があります(参235、236、237、238)(注4−2)。また、正重寺(秋田県由利本荘市鳥海町中直根前ノ沢108−1)及び慈音寺(秋田県由利本荘市鳥海町上笹子石神4−2)は、打越氏(内越氏)の菩提寺・龍源寺の末寺ですが、このうち正重寺は木曽義仲の重臣・根井正重が開基した根井氏の菩提寺です。
(注13-2)全国の主要な打越(内越)の地名又は呼称
居住地の近くに名字と同じ地名等があると、そこが発祥地のような錯覚を受けますが(注13-1)、地名等の発生時代や地史等を調べると(角川日本地名大辞典、日本歴史地名体系等)、そこが発祥地か否かの凡その見当が付きます。この点、打越氏(内越氏)の発祥地となり得るのは、鎌倉時代までに使用している地名と考えられます。なお、古文書等に記録がない地名の発生年代を推測することは困難ですが、下表では可能な範囲で最も古い記録の年代を記載しています。地名 | 時代 | 備考 | 読み |
秋田県由利本荘市内越 | 律令 | 内越氏の発祥地 内越城(平岡館) |
うてつ |
秋田県大仙市大沢郷寺 | 鎌倉 | 打越氏の発祥地 打越城(白坂館) |
うつこし |
秋田県由利本荘市鳥海町下直根打越 | ? | 元弘寺、小次郎館、高健寺など南朝遺構 | うちこし |
秋田県湯沢市松岡打越 | 江戸 | 打越孫治郎、内越民部少輔の屋敷 | うちこし うちごし |
福島県耶麻郡猪苗代町千代田打越 | 江戸 | 新潟県小千谷市吉谷の打越集落から移住 | うちこし |
福島県栗山村西川打越 | 江戸 | 現在はなし | うちこし |
栃木県芳賀町打越新田 | 戦国 | 打越光行が新田開発 | うちこし |
茨城県那珂湊町打越前 | ? | 現在はなし 打越幹嗣の拝領屋敷 |
うちこし |
埼玉県所沢市山口打越 | 戦国 | 現在はなし | うちこし |
埼玉県富士見市みずほ台 | ? | 打越遺跡 打越館 |
うちこし おっこし |
東京都中野区中野打越 | 江戸 | 打越天神北野神社 | うちこし |
東京都八王子市打越町 | 鎌倉 | 打越八幡社 打越弁財天 |
うちこし |
東京都千代田区新橋1丁目 | 江戸 | 打越屋敷(龍造寺氏分家・村田氏の館) | うちこし |
千葉県袖ケ浦市打越 | 戦国 | 打越城 | うちこし |
神奈川県横浜市中区打越 | ? | - | うちこし |
神奈川県藤沢市遠藤打越 | ? | - | おっこし |
神奈川県厚木市飯山 | ? | 打越熊野神社 | うちこし |
長野県上田市真田町長 | 戦国 | 打越城 | おっこし |
愛知県みよし市打越町 | 江戸 | - | うちこし |
愛知県長久手市打越 | ? | - | うちこし |
岐阜県岐阜市打越 | 鎌倉 | 打越氏の発祥地 | うちこし |
新潟県新潟市西蒲区打越 | 室町 | 打越屋敷(武田氏旧臣・澤将監の館) | うちこし |
石川県小松市打越町 | 室町 | - | うちこし |
石川県加賀市打越町 | 戦国 | 打越城(勝光寺) 打越菅原神社 |
うちこし |
石川県輪島市打越町 | 江戸 | - | うちこし |
富山県南砺市西赤尾町打越 | 江戸 | - | うちこし うちごえ |
福井県丹生郡越前町打越 | ? | - | うちこし |
京都府京都市下京区打越町 | ? | - | うちこし |
京都府京都市山科区栗栖野打越町 | ? | - | うちこし |
京都府福知山市多保市 | 戦国 | 打越城(武田氏旧臣・大槻氏の居城) | うちこし |
京都府舞鶴市下東 | 戦国 | 打越城 | うちこし |
滋賀県甲賀市甲賀町隠岐 | 戦国 | 打越城 | うちこし |
三重県鈴鹿市岸岡町字打越 | ? | - | うちこし |
三重県度会郡南伊勢町伊勢路 | 戦国 | 打越城(愛洲久忠が陰流を創始した地) | うちこし |
大阪府門真市打越町 | 江戸 | - | うちこし |
兵庫県姫路市打越 | 江戸 | - | うちこし |
兵庫県神戸市東灘区本山町田中 | ? | 打越山 | うちこし |
和歌山県和歌山市打越町 | 鎌倉 | 打越氏の発祥地 | うちこし |
和歌山県田辺市下川下打越 | 鎌倉 | 打越氏の発祥地 | うちこし |
広島県広島市西区打越町 | 江戸 | 隣は楠木町 | うちこし |
徳島県海部郡美波町山河内打越 | 戦国 | 打越寺 | うちこし |
香川県坂出市府中町打越 | ? | 打越窯跡 | うちこし |
福岡県北九州市戸畑地区打越町 | ? | 現在はなし | うちこし |
福岡県田川郡糸田町打越 | ? | - | うちこし |
大分県国東町打越 | 江戸 | 現在はなし | うちこし |
長崎県諫早市小長井町打越 | 江戸 | 現在はなし | うちごし |
熊本県熊本市北区打越町 | 鎌倉 | 打越城(南朝勢力・菊池氏の居城) 打越菅原神社 打越駅 |
うちこし うちごし |
熊本県宇土市栗崎町打越 | 室町 | 宇土古城(南朝勢力・名和氏の居城) | うちごし |
熊本県熊本市北区清水町打越 | 江戸 | - | うちごし |
熊本県阿蘇市三久保 | 江戸 | 打越菅原神社 | うちこし |
鹿児島県日置市吹上町湯之浦 | 戦国 | 打越城(南朝勢力・伊作(島津)忠親の居城) | うちこし |
(注14)秋田県由利地方に残る楠木氏の痕跡
秋田県由利地方には、楠木氏に関する数多くの古伝に加えて、歴史的な痕跡が残されていますので、以下に代表的なものを挙げます。なお、南朝勢力の楠木氏は「悪党」(室町幕府に反抗する者)と評され、水戸藩主・徳川光圀や彰考館総裁・打越直正らが大日本史編纂において「南朝正当論」を唱えるまでは歴史的に正当な評価を受けていませんでした。そのためか楠木氏に関する記録は非常に少なく、その家系図や事績等の詳細を知ることはできませんが、秋田県由利地方やその他の地域に楠木氏と打越氏の関係を示す歴史的な痕跡が残されています。この点、このWEBは、学術的に価値のある研究等に資することを目的としていませんので、学説の争いがある楠木氏の出自や家系図等には深入りせず、主に、秋田県由利地方に残る楠木氏に関する古伝や痕跡等を挙げるに留めます。
①打越旧記(参22)。
打越旧記は、1428年(応永35年)時点の出羽国由利郡の支配条状況を記したもので、由利十二頭として楠(木)氏の名前を記しています。
由利十二頭
楠氏の一族、仲太郎。
又次郎光重、滝沢住(小笠原氏族)
子三郎光宗、子吉住。(同上)
四郎左衛門光貞、赤宇津住。(池田氏)
式部光安、玉米住。(小笠原氏族)
鳥海三郎、西岡住。
佐兵衛、岩倉住。(小笠原氏族)
木曽左馬介、矢島住。
彌八郎、石沢住。(小笠原氏族)
応永末年の事也
※「仲太郎」とは由利太郎のこと
②由利家及打越家系図(参6)。なお、本荘郷土資料館には打越氏(分家Ⅰ)から復姓した親川楠家に代々伝わる菊水紋の甲冑が展示されています。
④1390年~1394年(明徳年間、本荘市史年表索引編には1395年)、楠木(内越)正宣は楠木一族の菩提を弔うために出羽国由利郡内黒瀬村に恵林寺(寺紋:菊水紋)を開基し、境内に楠木(内越)正宣の墓があります。
⑤1394年~1427年(応永年間)、楠木(内越)正宣は内黒瀬に神明社を建立し、その後、内越(楠木)正淑によって再建されています(参220)。
⑥1623年(元和9年)、打越光久が打越光隆の菩提を弔うために開基した龍源寺(その後、生駒氏の菩提寺)の寺紋は、現在、生駒氏の家紋である半車紋が使用されていますが、打越氏(内越氏)が矢島領主であった時代は菊水紋が使用されています(参27、205)。
⑦高建寺の由緒書き(参26)には、1427年(応永34年)、傑堂能勝禅師(楠木正儀の子・楠木正能)が楠木一族の菩提を弔うために出羽国由利郡に開基したとあります(寺紋:菊水紋)。なお、傑堂能勝禅師は、1394年(応永元年)に越後国蒲原郡に耕雲寺(寺紋:菊水紋)及び1447年(文政4年)に陸奥国会津郡に天寧寺(現、秋田県仙北市)を開基しています。
⑧楠木正成の嫡男・楠木正行、楠木正時、楠木正家、和田賢秀らが祀られている四条畷神社には、打越氏の末裔が奉納した楠木氏の遺品である「鉢割」(志津三郎兼氏作、九寸八分)と「藍金蘭の袋」が保管されています(参11)。
☞ 志津三郎兼氏は政宗に師事し政宗十哲の一人に数えられる日本刀の名匠で、鎌倉時代後期から南北朝時代前期に活躍しています。なお、楠木正成の所蔵と伝わる志津三郎兼氏作「兜割」(在銘「五郎入道政宗造之 元弘元年二月日 楠多門兵衛正成志津三郎源兼氏新模之」)なども存在します。
⑨楠木正家やその一族が拠点とした打越城(白坂館)、岩倉館、内越城(平岡館)、黒瀬館、小次郎館(牛越館)、元弘寺等の遺構が残されています。
⑩1334年(建武元年)、後醍醐天皇は、楠木正成に対し、出羽国の内陸を縦断する羽州街道(国道13号線)の入り口にあたる出羽国屋代松の地頭職を下賜しており(参40)、陸奥国を縦断する奥州街道(国道4号線)の入り口にあたる多賀城(太平洋側)に北畠顕家、出羽国の沿岸を縦断する羽州浜街道(国道7号線)の入り口にあたる大井田城(日本海側)に新田義貞を配置し、楠木正家が守備する常陸国久慈郡(後に那珂郡)の瓜連城を前線基地として東国の守備を固めています。その後、楠木正家は瓜連城が落城すると鎮守府将軍・北畠顕家を頼って陸奥国へ落ち延び(参21、208)、その後、出羽国へ移って南朝勢力を支援しながら再起を図りますが、由利地方(国道7号線沿い)や横手地方(国道4号線沿い)に楠木氏の末裔の分布があるのはこのような歴史的な経緯があることも関係していると思われます。なお、1347年(正平2年)、北畠顕家の弟・北畠顕信は霊山城が落城すると出羽国へ遁れ、また、1351年(正平8年)、再び宇津峰城等が落城すると出羽国由利郡へ潜伏して再起を図っており(参41)、北畠顕信が出羽国由利郡へ潜伏していた時期に鳥海山大物忌神社に納めた南朝復興と出羽国静謐を祈願する寄進状が残されています(参8)。この点、最上川以北の出羽国飽海郡及び由利郡は南朝勢力が強く、最上川以南の出羽国田川郡は北朝勢力が強かったと言われています(参41)。
⑪1335年(建武2年)12月、後醍醐天皇から綸旨を下賜された鎮守府将軍・北畠顕家は「伊達、信夫、金沢、大沢、赤宇津、由利、鳥海、大山、最上の者共、結城、宇都宮が勢馳せ着いて三万余騎也」(参20)の軍勢を従えて出陣し、鎮守府将軍・北畠顕家の要請に応じて打越氏(内越氏)の祖先である小笠原(大井)行光が参陣したという記録が残されていることから(参9)、小笠原(大井)行光の地頭代として出羽国由利郡を支配していた小笠原(大井)氏の庶流が従軍したものと考えられます。この点、地政学的な理由から、南部氏や結城氏などと同様に、信濃国の小笠原(大井)氏は北朝勢力、出羽国の小笠原(大井)氏の庶流は南朝勢力に分かれて動いていたのではないかと推測されます。なお、1343年(康永2年)9月、南朝勢力であった結城親朝が北朝勢力へ寝返り、その注進状に由利兵庫介の名前が含まれていることから(参42)、由利氏は結城氏の誘いに応じて南朝勢力から北朝勢力へ寝返り生き残りを図ったものと思われます。最上川以北の出羽国飽海郡及び由利郡は南朝勢力が強かったと言われていますが(参41)、北朝勢力が優勢になるにつれ、南朝勢力にも相当な動揺が広がっていたことが窺がわれます。
【名称】楠木正家の墓(大内公民館) 【住所】秋田県由利本荘市岩谷町日渡100 【備考】楠木正家、打越勝光、打越勝正、打越正朝、岩谷朝繁の名前が刻まれていますが、楠木正家に正四位が追贈された際に再建されています(注1)。 |
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【名称】楠木正宣の墓(恵林寺) 【住所秋田県由利本荘市内黒瀬程岡37 【備考】恵林寺(寺紋:菊水紋)を開基した楠木(内越)正宣の墓が安置されています。楠木正成が千早赤坂村に建立した味方塚と同じ形状の墓です。 |
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【名称】神明社 【住所】秋田県由利本荘市内黒瀬坂ノ下1-1 【備考】楠木(内越)正宣が内黒瀬に建立し、その後、内越(楠木)正淑が社殿を再建しています。 |
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【名称】龍源寺(打越光隆の像) 【住所】秋田県由利本荘市矢嶋町城内田屋の下26 【備考】打越光久が打越光隆の菩提を弔うために建立(参205)。打越氏(内越氏)が出羽国由利郡矢島郷を支配していた時代の寺紋は菊水紋です。 |
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【名称】高健寺(寺紋:菊水紋) 【住所】秋田県由利本荘市矢島町立石上野120 【備考】楠木正儀の子・楠木正能が出家して傑堂能勝禅師を名乗り、楠木一族の菩提を弔うために耕雲寺、天寧寺、高健寺を開基しています。 |
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【名称】岩倉館跡 【住所】秋田県由利本荘市福山岩倉81 【備考】楠木(内越)正宣が由利惟貴の曾孫・満姫と婚姻し、内越城(平岡館)から岩倉館へ移ります。現在、岩倉館跡には日本海東北自動車道が開通しています。 |
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【名称】黒瀬館跡 【住所】 秋田県由利本荘市内黒瀬坂の下 【備考】小笠原義知が楠木正家の娘の婿養子として内越城(平岡館)に入り、楠木正安は打越城(白坂館)から黒瀬館へ移っています。 |
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【名称】北畠顕信寄進状(本荘郷土資料館蔵) 【住所】秋田県由利本荘市石脇弁慶川5 【備考】出羽国由利郡へ潜伏していた北畠顕信は、南朝復興等を祈願する寄進状を鳥海山大物忌神社に納めています。 |