打越氏(内越氏)は、清和天皇及び物部氏族熊野国造系和田氏を源流とし、南北朝の動乱を契機として、河内(甲斐)源氏流小笠原氏(本姓源氏)と楠木正成の弟又は従弟・楠木正家(本姓橘氏)とが姻戚関係を結んで発祥した氏族であり、戦国時代、小田原征伐、関ケ原の戦いなどを契機として出羽国由利郡で勢力を伸ばし、1系統17流(本家3流、分家14流)の系流に分かれながら日本全国へ進出して行った同祖同根の氏族です。現代に残る限られた古文書等から、その歴史的な事跡を明らかにします。

第1部第3巻 打越(内越)氏の家紋(第4段)

第4段 主要な家紋の由緒(甲斐源氏武田氏流)

 

①本紋(割菱紋):本家Ⅲ

 紀州藩が編纂した「紀州各郡地士姓名」(参61)には、紀伊国牟婁郡和田村の地士として打越忠蔵の名前が記されていますが、打越忠蔵は清和源氏武田氏流・湯川直春の第四子で第二次紀州征伐の後に入道して打越氏を名乗ります(参53)。なお、湯川氏の本紋は「割菱紋」になります(本家Ⅲ)。紀伊国牟婁郡和田村は楠木氏と同族の河内和田氏の祖・物部氏族熊野国造系和田氏の領地であった場所で、打越忠蔵が開基した梵光寺には打越氏の墓と共に和田氏の墓もあります。

なお、1562年(永禄5年)、湯川直春は、教興寺の戦い雑賀衆及び根来衆と協力して三好長慶と戦いますが、湯川直春から雑賀衆及び根来衆の有力者に対して軍事同盟の起請文が提出されており、第二次紀州征伐でも湯川氏と雑賀衆及び根来衆の間は強力な軍事同盟関係にありました。
 

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