打越氏(内越氏)は、清和天皇及び物部氏族熊野国造系和田氏を源流とし、南北朝の動乱を契機として、河内(甲斐)源氏流小笠原氏(本姓源氏)と楠木正成の弟又は従弟・楠木正家(本姓橘氏)とが姻戚関係を結んで発祥した氏族であり、戦国時代、小田原征伐、関ケ原の戦いなどを契機として出羽国由利郡で勢力を伸ばし、1系統17流(本家3流、分家14流)の系流に分かれながら日本全国へ進出して行った同祖同根の氏族です。現代に残る限られた古文書等から、その歴史的な事跡を明らかにします。

第1部第3巻 打越(内越)氏の家紋(第2段)

第2段 主要な家紋の由緒(楠木正家後裔/甲斐源氏小笠原氏流)

 ①本紋(三階菱紋、松皮菱紋、王子紋、菊水紋):本家Ⅰ、分家Ⅰ

 甲斐源氏は伝統的に「菱紋」を家紋として使用し、甲斐源氏小笠原氏流・打越氏(内越氏)は「松皮菱紋」「三階菱紋」「王子紋」を本紋として使用しています(寛政重修諸家譜(巻二百五)/参6)。その由来については諸説に分かれますが、甲斐源氏の祖・源(新羅三郎)義光が前九年の役に出陣する際に後冷泉天皇から「松皮菱紋」を下賜され、第6代・小笠原貞宗まで小笠原氏の家紋(本紋)として使用します(参96、97)。その後、小笠原貞宗後醍醐天皇から信濃国守護職に任じられて「王字紋」を下賜されますが、そのまま使用するのは恐れ多いとして「王字紋」と「松皮菱紋」を組み合わせて作った松皮菱の下太と言われる「三階菱紋」(王の字の横棒は三階建て、王の字の縦棒は菱の隅立て)を小笠原氏の家紋(本紋)として使用し始めます(寛政重修諸家譜(巻二百五)/参6)。なお、徳川将軍家に仕官していた打越光広(本家Ⅰ)は、江戸幕府に対し、「三階菱紋」「松皮菱紋」ではなく「王字紋」を本紋として届け出ています(参98)(注35)。

 また、打越氏(内越氏)は、小笠原(大井)氏と楠木氏が姻戚関係を結んで生まれた氏族で、打越氏(内越氏)(分家Ⅰ)の一部が楠木氏に復姓して「菊水紋」を本紋として使用しています(由利楠家紀伝/参11)。その由来については諸説に分かれますが、楠木正成後醍醐天皇から「菊紋」を下賜されますが、そのまま使用するのは恐れ多いとして自ら信奉する水分神社に祀られている水分神に因んで下半分を水に流して「菊水紋」にしたという伝承があります。しかし、それ以前から河内和田氏が「橘水紋」を使用しており、これをヒントにして「橘」と「菊」を入れ替えて「菊水紋」にしたというのが実際のところではないかと推測されます(注36)。因みに、楠木正成の縁戚である観世氏は観世水を定紋としていましたが、観阿弥の拝領屋敷跡(京都の観世稲荷神社)に現在も残る井戸(観世井)に龍が降りて出来た水の波紋に由来するという逸話が残されており、観世水を象った京銘菓「観世井」が有名です。

 

②替紋(星紋):本家Ⅰ、分家Ⅰ及び分家Ⅱ

 打越氏(内越氏)が「丸に一文字三ツ星紋」を使用し始めたのは、1600年(慶長5年)、慶長奥羽合戦(北の関ケ原の戦い)において上杉氏の家臣であった大江氏流・越後北条氏の旗指物を奪ったこと(略奪紋)(寛政重修諸家譜(巻二百五)、譜牒餘録(後編巻十九)/参6)(注37)又は1584年(天正12年)、最上義光寒河江(大江)高基を滅ぼした際に最上方であった打越氏及び仁賀保氏が戦勝を記念して寒河江(大江)氏の家紋を使用し始めたこと(略奪紋)(参9)(注37)に由来すると言われていますが、実際には、打越伊賀守が江戸道房(道勝)に仕官した1465年頃までには「丸に一文字三ツ星紋」を使用し始めており(由利楠家紀伝/参11、参16、65)、おそらく慶長奥羽合戦(北の関ケ原の戦い)の軍功によって徳川将軍家に召し抱えられた打越氏(内越氏)(本家Ⅰ)がその武勇を喧伝するために家紋の由来を改作した武勇伝又は最上氏への忠誠を示すために家紋の由来(寒河江(大江)氏からの譲与紋→寒河江(大江)氏からの略奪紋)を脚色したもの(注37)ではないかと推測されます。現代でも就職活動等で自己PRを誇張又は創作するのと同じようなことが行われていたと考えられます。この点、仁賀保氏も「丸に箱一文字三ツ星紋」(寒河江(大江)氏は一文字三ツ星紋、長井(大江)氏は箱一文字三ツ星紋)を使用していますが、その由来は全く異なるもので、南北朝の動乱鎮守府将軍北畠顕家から武功第一として下賜された「一品」の文字を象った家紋であると言われています(仁賀保氏諸家系譜先祖書/参6)。しかし、これは大江氏の祖・阿保親王が一品親王と称され(平城天皇の第一皇子として一品の位にあるという称号)、この「一品」の文字を象って「一文字三ツ星紋」を使用し始めたという由来と酷似しており、仁賀保氏が大江氏の家紋の由緒に取材してこれを借用したとすれば、仁賀保氏が「丸に箱一文字三ツ星紋」を使用し始めた由来は大江氏との関係性に見出すのが自然ではないかと思われます。また、仁賀保氏と同族の矢島氏も「一文字三ツ星紋」を使用していますが、1428年(応永末年)頃、八森古城を居城としていた小笠原(大井五郎)光泰の後裔である小笠原(大井又次郎)光重が矢島から滝沢へ移っていますが(打越旧記/参11)、これに代って大江義久が築館(秋田県由利本荘市矢島町城内築館)へ移り、大江義久を改めて小笠原義久を名乗っていることから(参24、25)、小笠原(大井又次郎)光重の娘の婿養子に入った可能性や、1467年(応仁元年)に出羽国由利郡へ下向した小笠原(大井)重泰が矢島を支配するにあたり在地勢力の大江義久と姻戚関係を結んだ可能性等が考えられ(婿養子等の姻戚関係を結ぶにあたり一方の家名を使用する代わりに、他方の家紋を使用する例)、これによって生まれた矢島氏が小笠原(大井)氏(名字)及び大江氏(本姓)の双方を名乗り(羽黒祭文/参10)、「丸に一文字三ツ星紋」(出羽国置賜郡寒河江荘を支配した寒河江(大江)氏も同じ家紋)を使用し始めたのではないかと推測されます。このことは、奥羽慶長軍記(参6)において、源頼朝から出羽国秋田郡太平村を下賜された大江氏庶流・太平(左近将監)広治と矢島(大井五郎)満安を「一家」と記載していることや、大江広元の養父・中原広忠は滋野氏とも姻戚関係にあること(矢島氏の重臣・根井氏も滋野氏の庶流)などからも推測されます(参11)(注38)。この点、打越氏(内越氏)が「丸に一文字三ツ星紋」を使用し始めた経緯として楠木氏(打越氏(内越氏))と由利氏が婚姻関係を結んだ際に由利氏の家紋である「丸に一文字三ツ星紋」を譲与されたという記録が残されていますがのk(参11)、打越氏(内越氏)が「丸に一文字三ツ星紋」を使用し始めた時期は仁賀保氏の祖・小笠原(大井)友挙が出羽国由利郡へ下向してくる前からであることや、大江(後に小笠原に改称)義久の孫・義満と由利刑部少輔が「一門」であるという記録があることから(由利氏は摂津源氏多田氏流と称していますが、摂津源氏多田氏流・多田仁綱は大江広元の義父で出羽国置賜郡寒河江荘の地頭代)(御尋に付乍恐奉申上口上覚/参11)(注39)(参116)、大江氏との間で姻戚関係を結んだことにより由利氏の家紋になっていた「丸に一文字三ツ星紋」(参116)を由利氏から譲与され、それを打越氏(内越氏)が替紋として使用し始めたのではないかと推測されます(参90)(注38)。因みに、1467年(応仁元年)、小笠原(大井)重泰と共に出羽国由利郡へ下向した小笠原(大井)友挙の後裔・仁賀保兵庫頭の弟、仁賀保挙実は出羽国由利郡芹田村を支配していた長井(大江)氏流・芹田(大江)氏(参6)の家督代襲相続しており、また、仁賀保氏の通字である「挙」は芹田(大江)氏の通字でもありますので、上記と同様に小笠原(大井)友挙が仁賀保荘(芹田村を含む)を支配するにあたり芹田(大江)氏と姻戚関係を結んだ可能性が考えられ、これにより「丸に箱一文字三ツ星紋」を使用することになったのではないかと推測されます(参99、100)。

 

③替紋(菱紋):分家Ⅴ

 津軽藩御家騒動(舟橋騒動)は、江戸幕府津軽藩大目付・打越(半四郎主殿)光春など重臣に責任をとらせる形で幕引きが図られますが(一般に御家騒動は減封や改易等になる例が多いですが、江戸幕府津軽藩蝦夷警備の賦役を担っていたことから重臣の処分のみという軽い仕置きで幕引きしたと言われています)(注39、40)、1688年(元禄元年)、これに伴って浪人していたその甥で打越光忠の二男・打越光長は、第5代将軍徳川綱吉側用人になった柳沢吉保に拝謁し、同じ源(新羅三郎)義光の血を引く甲斐源氏の系流であるという理由(柳沢氏は武田氏旧臣)から上総国佐貫藩柳沢氏に召し抱えられます(参27)。その後、1690年(元禄3年)、柳沢吉保は、2万石を加増されると三男・打越光登を召し抱え、更に、1692年(元禄5年)、3万石を加増されると長男・打越光永及び四男・打越光棟を召し抱えます(注41)。なお、打越氏(分家Ⅴ)は、本紋として「三階菱紋」を柳沢氏へ届け出ており(参101)、これとは別に「剣花菱紋」及び「一文字三ツ星紋」を替紋として使用しています(参27)。

 

④その他(譲与紋):分家Ⅳ 

 1631年(寛永8年)、出羽国由利郡の打越佐吉が第2代津軽藩主・津軽信枚に召し抱えられます(参69)(注38)。その後、1634年(寛永11年)、打越光久が頓死して嗣子がなく御家断絶しますが、打越光隆の長女・打越センが初代津軽藩主・津軽(右京太夫)為信の養女となっていたことから(その後、打越センは津軽藩家老・津軽伊豆の妻となり、その娘は津軽藩家老・津軽美作の妻となります。)、その縁故を頼って、三男・打越(金右衛門)光清、四男・打越(半四郎主殿)光春及び五男・打越(伝七郎)光豊が第2代津軽藩主・津軽越中守)信枚へ仕官します(分家Ⅳ)。これにより津軽家の親戚であるという理由から津軽家の家紋「卍紋」の使用を許されており(「兄左近死後、後式願出づるも相立たず、打越譜代の捨て難き者を相連れ津軽越中守に奉仕。津軽と親戚となりし故、当時津軽の紋を用ひ候」(打越氏御先祖様代代覚書控/参10))、打越(伝七郎)光豊が実際に使用していた旗標にも「卍紋」が使用されています(「卍 うてゑち伝七」)(参27)。その後、津軽藩御家騒動船橋騒動)の責任をとらされて打越光豊の子・光忠出羽国由利郡へ戻って浪人しますが、第3代津軽藩主・津軽信義の叔父・津軽十郎左衛門の取り計らいにより陸奥国津軽郡小湊郷に屋敷を与えられます(③へ続く)(打越氏御先祖様代代覚書控/参10)(注39、40)。

 なお、寛政重修諸家譜では、家名を「打越」(うていち)、家紋を「三階菱紋」、「丸に箱一文字三ツ星紋」及び「左藤巴紋」と記載していますが、「丸に箱一文字三ツ星紋」は「丸に一文字三ツ星紋」の替紋、「左藤巴紋」は打越光輪が朝比奈泰輝の次男を娘の婿養子に迎えていることから朝比奈氏(武田氏旧臣で、武田氏滅亡後に徳川氏の家臣)からの譲与紋ではないかと思われます(参6、102)。

 

(注35)民謡「長柄節」に残る家紋の云われ

 福井県勝山市に伝わる民謡「長柄節」は、越前国勝山藩主・小笠原氏が将軍から領地加増のお墨付きを与えられましたが、これを老中に言上しなかった無欲さを評価されて2万3千石の勝山藩が参勤交代等で10万石の格式ある長柄の槍を使用することを許されたという故事を民衆が讃えたものですが、この歌詞の中で「三階菱の王子紋」と家紋の云われが歌い込まれています。

1)長柄は空につかえます ひくい御門の 槍のさや

  トウロやトウロ オシカケトウロ ササヨイヨイヨイ ヨイヤーサー

2)鶴が御門に巣をかけた 年の暮れには五万石

  トウロやトウロ オシカケトウロ ササヨイヨイヨイ ヨイヤーサー

3)二万三千石 勝山藩は 三階菱の王子紋

  トウロやトウロ オシカケトウロ ササヨイヨイヨイ ヨイヤーサー

 

(注36)打越氏(内越氏)と菊水紋

 打越左近は「金沢少尉正家」(当初、楠木正家が出羽国平鹿郡横手郷の金沢柵(城)に入っていたことによる楠木正家の通称で、楠木正成楠木正行も「少尉」という武官職を拝命しています。)の末裔と公称しており(参75、76、岩倉館/参113)、出羽国由利郡とその周辺にはそのことを裏付ける家系図、寺社や古伝等の痕跡が数多く残され、打越氏の一部が楠木氏に復姓して「菊水紋」を使用しています。また、打越氏(内越氏)の菩提寺である恵林寺や高健寺の寺紋は現在も菊水紋ですし、同じく打越氏(内越氏)の菩提寺である龍源寺の寺紋も菊水紋でしたが(参11)、その後、生駒氏が出羽国由利郡矢島村に国替えとなり龍源寺が生駒氏の菩提寺になると、その寺紋が生駒車紋に変更されています。

 

(注37)打越氏(内越氏)の替紋「一文字三ツ星紋」の由来

 「萬世家譜」「干城録」「寛政重修諸家譜(巻二百五)」「譜牒餘録(後編巻十九)」(参6)には、打越氏(内越氏)が略奪紋(合戦によって敵の旗指物を奪って自らの家紋とするもので、龍造寺氏が大友氏の軍勢を破った際に大友氏から奪った杏葉の幕紋を使用した例などがあります)として「一文字三ツ星紋」を使用し始めたと記載しています。これによると、打越氏(内越氏)は慶長出羽合戦(北の関ケ原の戦い)で上杉氏が支配する庄内地方に侵攻して上杉氏の北方の要衝である東禅寺城や菅野城を落城させていますが、その際に打越治右衛門が上杉氏に従軍していた大江氏流・越後北条氏鎌倉時代源頼朝から相模国愛甲郡毛利荘(神奈川県厚木市下古沢659)を知行地として与えられた大江季光は毛利を名乗るようになりますが(安芸毛利氏の祖)、その庶流が「北条」を名乗ったことが越後北条氏の始まりと言われています。上杉氏の家督相続争いである御舘の乱で上杉景虎北条氏康の子)に味方して敗れた後に、武田勝頼の仲介によって越後北条氏の一部が上杉景勝に臣従します。)から「一文字三ツ星紋」の旗指物を奪う武功を挙げたことを吉祥に思い、打越氏(内越氏)の家紋(本紋)である「三階菱紋」「松皮菱紋」とは別に替紋して「一文字三ツ星紋」を使用するようになったと言われています。しかし、実際には、打越伊賀守が江戸道房(道勝)に仕官した1465年頃までには「丸に一文字三ツ星紋」を使用し始めており(参16、65)、上記の由来は慶長出羽合戦の軍功によって徳川将軍家に召し抱えられた打越氏(内越氏)(本家Ⅰ)がその武勇を喧伝するために創作した武勇伝である可能性が高いと推測されます。また、「蕗原拾葉 高遠進徳本」(参9)には、1584年(天正12年)に最上義光寒河江(大江)高基を滅ぼした際に最上方であった打越氏及び仁賀保氏が戦勝を記念して使用し始めた略奪紋であると記載されています。しかし、同じく一文字三ツ星紋を使用していた矢島氏が参陣していないことから、この説明では整合性がつかず、最上氏が寒河江(大江)氏を攻略するにあたって寒河江(大江)氏の出羽国由利郡への影響力を削ぐために大江氏から譲与紋を下賜されていた矢島氏と仁賀保氏及び打越氏との分断を図り、仁賀保氏及び打越氏は最上氏への忠節を示すために大江氏からの譲与紋ではなく略奪紋であるという別の由来を創作したものではないかとも推測されます。この点、出羽国置賜郡寒河江荘の地頭代として多田氏が派遣されていますが、由利氏は摂津源氏多田氏流を祖としていること、大江(後に小笠原に改称)義久の孫・義満と由利刑部少輔が「一門」であるという記録があること(参116)及び由利氏は楠木氏(打越氏(内越氏))と姻戚関係を結ぶ前から一文字三ツ星紋を使用していた可能性があること(由利楠家紀伝/参11)などから、由利氏は多田氏(摂津源氏)との間で姻戚関係を結び、寒河江(大江)氏の家紋である一文字三ツ星紋を譲与された可能性があり、そのため、由利氏には大中巨氏を祖とする家系図摂津源氏多田氏を祖とする家系図の2種類が存在することになったのではないかと推測されます(注38)。その後、由利氏と楠木氏(打越氏(内越氏))との間で姻戚関係が結ばれ、由利氏から楠木氏(打越氏(内越氏))へ一文字三ツ星紋が譲与されたのではないかと考えられます(滝沢館/参113)。

 

(注38)出羽国の大江氏と由利氏、楠木氏及び北畠氏との関係

 1189年(文治5年)、大江広元奥州合戦の論功行賞で東山道出羽国の入り口にあたる出羽国置賜郡長井荘及び寒河江荘の地頭職を下賜され、1190年(文治6年)、摂津源氏多田氏流・多田仁網(大江広元は多田仁綱の娘を娶っており、多田仁綱は大江広元の義父)を寒河江荘の地頭代として派遣します(注37)。1192年(建久3年)、大江広元は、嫡男・大江親広に寒河江荘の地頭職(寒河江氏の祖)、二男・大江時広に長井荘の地頭職(長井氏の祖)を分割相続させます。因みに、大江広元は、鎌倉幕府の開府に伴って源頼朝から相模国愛甲郡毛利荘(神奈川県厚木市下古沢659)を下賜され、その地頭職を四男・大江季経(楠木正成に兵法を教えた大江時親の祖父で毛利氏の祖)に相続させます。1221年(承久3年)、嫡男・寒河江(大江)親広は、承久の乱後鳥羽上皇に味方して敗れ、出羽国置賜郡寒河江荘の地頭代で祖父の多田仁網に匿われますが、これにより鎌倉幕府に味方した長井(大江)時広が大江氏の惣領家を承継します。なお、当時、未だ大江広元が健在だったので、寒河江(大江)親広の子・広時及びその孫・政広は鎌倉幕府に許されて要職に就いています。1247年(宝治元年)、宝治合戦(執権北条氏と御家人三浦氏が対立した鎌倉幕府の内乱)で、長井(大江)時広の長男・泰秀は鎌倉幕府(北条氏)に、毛利(大江)季光は三浦氏(妻の実家)にそれぞれ分かれて戦い執権北条氏が勝利しますが、長井(大江)泰秀は毛利(大江)季光の四男・経光の赦免を鎌倉幕府に願い出たことにより、毛利(大江)経光は安芸国吉田荘及び越後国佐橋荘の地頭職に任じられます。それを毛利(大江)経光の四男・時親が相続し、そのうち安芸国吉田荘を曾孫・毛利(大江)元春へ譲渡して、その末裔に毛利元就が誕生します。その後、毛利(大江)時親は、河内国加賀田郷の地頭職を務めることになりますが、多聞丸(楠木正成の幼名)は観心寺で僧・龍覚に学問を教わる傍ら約8キロ離れた河内国加賀田郷にある毛利(大江)時親の邸宅まで通って闘戦経や孫子等の兵法を学んだと言われています。因みに、大江氏は、代々学者の家柄で、源(八幡太郎)義家は、大江匡房に兵法を学んだと言われています。このように楠木氏及び大江氏(寒河江氏、毛利氏)は共に南北朝の動乱では南朝勢力(但し、毛利(大江)元春は御家存続のために北朝勢力)、石山本願寺合戦では本願寺勢力に味方して戦っており、打越氏(内越氏)の祖である楠木氏と大江氏はもともと深い縁で結ばれています。1285年(弘安8年)、霜月騒動安達泰盛に味方して敗れたた寒河江(大江)親広の曾孫・元顕(寒河江(大江)政広と毛利(大江)経光の娘の間の子)は、鎌倉幕府の圧力を避けるために出羽国置賜郡寒河江荘へと遁れています。その後、大江(寒河江)元顕の子・元政は、鎮守府将軍北畠顕家に従って南朝勢力として活躍します。なお、北畠親房の嫡男・北畠顕家及び次男・北畠顕信は奥州へ下向し、三男・北畠顕能伊勢国司を承継しますが、北畠顕家の死後に鎮守府将軍に就任した北畠顕信は1347年(正平2年)に霊山城が落城すると出羽国へ遁れ、また、1351年(正平8年)に一度は奪還した多賀城等が再び落城すると出羽国由利郡へ潜伏して再起を図ります。この間、鳥海山大物忌神社に南朝復興と出羽国静謐を祈願する寄進状を奉納し、北朝勢力・小早川定平(後に毛利元就の三男・隆景が小早川家の婿養子に入って家督を承継し、毛利両川と言われた家)に与えられていた出羽国由利郡乙友村を寄進します。なお、1358年(正平13年)、北畠顕信は、その子・北畠守親に後事を託して天野行宮がある河内国金剛寺に向かった(参104)とも、陸奥国津軽郡浪岡へ落ち延びたとも言われていますが、その消息は定かではありません。因みに、寒河江(大江)親広は、一時、北畠氏の祖・源通親の猶子となり源親広を名乗っていますので、北畠氏と寒河江(大江)氏は祖先の代から奇しき因縁で結ばれています。1368年(応安元年)、漆川の戦いで、寒河江(大江)元顕の孫・茂信が北朝勢力に大敗して滅亡すると(このとき、その弟・寒河江(大江)時氏が北朝勢力に降り、寒河江(大江)氏の家督を継いで御家の存続を図っています。)、出羽国置賜郡寒河江荘に隣接する天童城に籠城して籠もり北朝勢力に抵抗を続けていた北畠顕家の弟又は子孫・北畠天童丸は劣勢となり、1373年前後(文中年間)、天童城を捨て南朝勢力・根城南部氏を頼って陸奥国津軽郡浪岡郷へ落ち延びます。その後、浪岡北畠氏は安東(秋田)実季の娘を娶って勢力基盤を固めますが、やがて大浦(津軽)氏に滅ぼされ、その子孫は秋田(安東)氏、南部氏及び津軽氏に仕えます。なお、南北朝の動乱では、寒河江(大江)氏が南朝勢力、長井(大江)氏が北朝勢力に分かれて戦いましたが、1385年(元中2年)、旧北朝勢力・長井(大江)氏は旧南朝勢力・伊達氏に攻め滅ぼされます。時代は下って、1584年(天正12年)、伊達氏と姻戚関係を結んだ旧北朝勢力・最上氏に旧南朝勢力・寒河江(大江)氏が攻め滅ぼされます。この点、最上氏が寒河江(大江)氏への攻撃を開始した時期と仁賀保氏が矢島氏(注4-2)への攻撃を開始した時期が一致していますので、最上氏は寒河江(大江)氏の出羽国由利郡への影響力を削ぐために矢島氏と仁賀保氏及び打越氏の分断を図り、仁賀保氏及び打越氏と気脈を通じて寒河江(大江)氏及び矢島氏の攻略に乗り出した可能性も考えられます。


出羽国由利郡地頭職由利維平について-源頼朝政権と出羽国-」(野口実)より抜粋

 

(注39)津軽藩で勃発した御家騒動船橋騒動)

 1634年(寛永11年)、第3代将軍・徳川家光は将軍代替りの挨拶のために約30万の軍勢を率いて上洛しますが(打越光種は徳川家光の近侍として上洛)(寛政重修諸家譜(巻第二百五)/参6)、この上洛軍に供奉していた第3代津軽藩主・津軽信義(津軽信義の御側衆として打越半四郎及び打越嘉平次が御供)(参108、109)が京から江戸屋敷へ戻ると津軽藩御家騒動船橋騒動)が勃発します。1631年(寛永8年)、津軽信義は若年で津軽藩主になりますが、それを奇貨として権勢を私物化する近従と、これを快く思わない譜代の家臣との間で対立が深刻化し、津軽美作・津軽伊豆など津軽藩重臣を含む譜代の家臣は、津軽藩の家老・舟橋半左衛門及び乾四郎兵衛の不行状を江戸幕府に訴え、これに津軽藩士の岩橋氏、三村氏、打越氏(孫九郎、半四郎)、坂本氏、増川氏、七戸氏、郡氏、湊氏、秋田氏らが同調します。1636年(寛永13年)、幕府評定所の裁定が下り、喧嘩両成敗により津軽藩の家老・舟橋半左衛門及び乾四郎兵衛は松山藩松平家へお預け、また、津軽藩重臣津軽美作及び津軽伊豆は長府藩毛利家へお預けとなり、津軽藩の要職にあった沼田八郎左衛門と打越(半四郎主殿)光春、打越甚七は津軽藩追放になって御家騒動船橋騒動)は収束します(参108、110)。なお、その後、打越(半四郎主殿)光春の消息は不明となっていますが、津軽美作及び津軽伊豆派であった津軽藩士の多くは江戸及び国元で暇をとっています。

  

(注40)津軽家へ仕官した打越氏

 打越光豊の兄・打越(半四郎主殿)光春は、第3代津軽藩主・津軽信義により津軽藩大目付に登用され(参70)、また、打越(半四郎主殿)光春は400石、打越孫九郎が700石及び打越城左衛門が400石という高禄を下賜される(信牧公御代元和年中御家臣姓名大概/参105)など、船橋騒動が発生するまでは津軽家の親戚として破格の待遇を受けていたことが分かります。なお、船橋騒動の後、打越氏(分家Ⅳ)の一部は将軍徳川綱吉側用人柳沢吉保へ仕官替えしますが、その他は津軽藩へ仕官を続けており、1669年(寛文9年)10月18日に開催された第4代津軽藩主・津軽信政の御前試合に新当流の達人・高田儀兵衛と共に打越源五郎が出場する栄誉を与えられます(弘前藩庁日記/参106)。また、石高不明として打越市十郎(弘前藩庁日記/参106)や御留守居番として打越清之丞(信政公御代元禄八乙亥年十一月廿一日改候弘前御家中分限帳覚/参105)の名前等も記録されています。

 

(注41)柳沢氏へ仕官した打越氏

 大和郡山藩の分限帳、家督分限帳及び定紋覚(参107)の記録を見ると、打越氏(分家Ⅴ)は大和郡山藩で要職を歴任しており、以下の上段全図の郡山城之城下町絵図(郡山城及城下町/奈良県立図書情報館まほろばデジタルライブラリー)には、打越織次郎(植槻町/以下の下段左図)及び打越丈蔵(小川町/以下の下段右図)の拝領屋敷が記録されています。1874年(明治7年)、打越織次郎(植槻町)及び打越初(打越丈蔵の子)から家禄返還と引き換えに資本金下賜願が出されていますので、幕末まで大和郡山藩へ仕えていたことが分かります。なお、家督分限帳(参107)に打越熊之助、打越広助の名前がありますが、いずれの係流に属するのかは不明です。

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