打越氏(内越氏)は、清和天皇及び物部氏族熊野国造系和田氏を源流とし、南北朝の動乱を契機として、河内(甲斐)源氏流小笠原氏(本姓源氏)と楠木正成の弟又は従弟・楠木正家(本姓橘氏)とが姻戚関係を結んで発祥した氏族であり、戦国時代、小田原征伐、関ケ原の戦いなどを契機として出羽国由利郡で勢力を伸ばし、1系統17流(本家3流、分家14流)の系流に分かれながら日本全国へ進出して行った同祖同根の氏族です。現代に残る限られた古文書等から、その歴史的な事跡を明らかにします。

第4部第3巻 打越(内越)氏にゆかりの場所(第1段)

第1段 打越氏(本家Ⅰ、分家Ⅰ~Ⅸ、その他)にゆかりの場所

 
第1節 打越氏(本家Ⅰ、分家Ⅰ)にゆかりの場所
金沢柵(秋田県横手市金沢中野(字)金洗沢
本丸跡/1336年(延元元年)に瓜連城の戦いに敗れて奥州へ落ち延びた楠木正家が再起を図るために籠城した金沢柵の本丸跡。 兜石/1087年(寛治元年)に後三年の役源義家清原氏の居城・金沢柵を陥落して自らの兜を土中に埋め、その目印として置いた大石。 兜杉清原氏の滅亡により奥州を支配した藤原清衡源義家を記念して兜石の横に植えた杉。奥州藤原氏源義家の曾孫に滅ぼされる。 菊水の地名/金沢柵の城下町に現代も「菊水」という字名として残る楠木正家の痕跡。城下町に軍記が掲げられていたのではないかと推測される。 納豆発祥の地碑後三年の役で金沢柵を包囲する源義家が農民から俵に詰めた煮豆を馬の背に乗せて供出させたところ、馬の体温で発酵して納豆が誕生。
①打越城跡(白坂館)(秋田県大仙市大沢郷寺(字)白坂館39
②岩倉館跡(秋田県由利本荘市福山(字)岩倉81
③黒瀬館跡(秋田県由利本荘市内黒瀬(字)坂の下
①打越城跡/楠木正家は瓜連城の戦いに敗れて陸奥国へ落ち延び、金沢城(柵)へ籠城した後に打越城(白坂館)を築いて再起を図ります。その後、四条畷の戦いに参加して討死します。 ①北出丸の稲荷神社/昔、大沢郷は打越郷と言い、そこから楠木正家の子・正安が打越と称するようになったと言われていますので、こちらが本当の打越氏の発祥地と言って良いかもしれません。 ①打越城の土塁/楠木正家が築いた打越城(白坂館)は雄物川の支流・大沢川に面し、在地勢力・由利氏と姻戚関係を結んで岩倉館へ移ります。小笠原氏流大井家との婚姻関係等により勢力基盤を確立。 ②岩倉館/楠木正家の孫・正宣が由利惟貴の孫娘・満姫を娶って入城した由利氏の居城・岩倉館跡(ハゲ山の上、日本海東北自動車道34.4キロポスト付近)。 ③黒瀬館/楠木正宣が岩倉館から移り住んだ館跡。
平岡館跡(寒風館)(秋田県由利本荘市内越(字)家ノ前326
平岡館(寒風館)/楠木正宣の子・打越正光が岩倉館から移り住んだ館跡。現在は、白山神社になっています。 平岡館(寒風館)/主郭にあたる部分に白山神社の主殿。
平岡館(寒風館)/西側は芋川を利用した天然の堀。
平岡館(寒風館)/南側、東側の備えである土塁跡。
 
①北館跡(秋田県由利本荘市内越(字)北館
②内越館跡(秋田県由利本荘市福山(字)長者屋敷
③阿久根館跡(秋田県由利本荘市赤田(字)阿久根
④古舘館跡(秋田県由利本荘市赤田(字)古舘
⑤後田館跡(秋田県由利本荘市赤田(字)後田
北館跡/平岡館の北側に位置し、現在は北館天満宮になっています。 内越館跡/内越館は狭小地で防戦に不向きであることから、平岡館に移住したと言われています。 阿久根館跡/奥羽慶長合戦(北の関ケ原の戦い)の軍功により常陸国行方郡新宮邑2000石に加増されて国替えとなった際、この国替えに応じなかった打越氏(分家Ⅰ)の一部が阿久根館に立て籠もり、最上氏との間で小競り合いになったと言われていますが、最上義光が楯岡光直に命じて打越氏(分家Ⅰ)は岩谷古舘に屋敷を与えられます(「由利郡中世考」より)。 古舘館跡/正確な場所は分かりませんが、打越氏(本家Ⅰ、分家Ⅰ)は芋川とその支流・赤田川の流域に幾つかの館を構えていたと言われています。 後田館跡/正確な場所は分かりませんが、阿久根館、古舘館と隣接する場所に館を構えています。
①新宮城跡(茨城県行方市新宮505
②元館跡(秋田県由利本荘市岩谷町八ケノ下80-2
新宮城跡/打越光隆が奥羽慶長合戦(北の関ケ原の戦い)で上杉氏を撃退した軍功により常陸国行方郡新宮村2000石に加増されて大身旗本とります。なお、1619年(元和5年)、打越光久は福島正則の蟄居改易にあたり駿河国志太郡の田中城の守備を命じられています。因みに、福島正則の孫・福島正勝が御家を再興し、代々、御書院番等を務めますので打越氏(本家Ⅰ)と親交があった可能性があります。 新宮城の土塁/新宮城は北浦湖畔に面し、背後を山に囲まれた平城で、現在、新宮城跡は民家と水田になっています。新宮城跡にある民家には往時を忍ばせる土塁が残されています。なお、新宮城は、佐竹義宣小田原征伐で北条方へ味方した大掾氏を滅亡させた南方三十三館の1つです(「麻生の文化9号」より)。「故城あり、打越光隆の居せし所といふ」(「行方郡郷土史」より)、「新宮故城行方郡にあり、打越光隆飛騨守と称す、新宮に居る」(「常陸国誌巻の八」より)。 淡路神社/新宮城の裏手にある神社で、正確な創建年は分かりませんが、打越光隆・打越光久がいた時代に開基されたもののようです。 北浦/北浦は白鳥の里と呼ばれ、毎年、沢山の白鳥が飛来する美しい湖です。マナーが良い人が多いためか人を怖がらないので、真近で野鳥観察ができます。 元館跡/打越氏は奥羽慶長合戦(北の関ケ原の戦い)の軍功により出羽国由利郡内越村1250石から常陸国行方郡新宮村2000石への加増国替えを命じられますが、打越氏の一部が常陸国行方郡への国替えに応じずに出羽国由利郡へ留まったので、出羽国由利郡を支配することになった最上義光から元館への居住を許されます(「親川楠家系図」より)。なお、元館は出羽国由利郡親川村と村境を接しており、岩谷から親川へ移住して打越から楠へ復姓したものと思われます。
八森城跡(秋田県由利本荘市矢嶋町(字)城内八森6
八森城跡/最上氏の国替えに伴って上杉氏の抑えとして出羽国由利郡矢島邑3000石に加増されて交代寄合旗本(大名待遇格)となります。 八森城跡/1635年(寛永12年)、打越光久が高田馬場で頓死し、その嗣子がなかったことから御家断絶となります。実際には妾の男子がいたようですが、御家騒動が勃発して取り潰されたのではないかと考えられます。 八森城跡/案内版には1623年(元和9年)に打越光隆が八森城に入ったとありますが、打越光隆の没年は1609年(慶長14年)であることから、これは打越光久の誤りではないかと考えられます。    
①高屋城跡(大阪府羽曳野市古市5-8-15
金ヶ崎城跡(福井県敦賀市金ヶ崎町1-1
高屋城跡/於曾尚光は明応の政変畠山義豊に加勢して紀伊国雑賀荘に隣接する河内国で討死。 高屋城跡畠山義豊の父で河内国及び紀伊国守護職畠山義就が築城。雑賀衆は畠山氏の要請に応じて各地を転戦しながら傭兵集団として成長し、いち早く鉄砲を導入して全国的に注目されるようになりました。 金ヶ崎城/1337年(延元2年)、打越氏(本家Ⅰ、分家Ⅰ)の祖である於曾時高が金ヶ崎で討死しています。延元の乱で足利尊氏が西国勢を従えて再起すると同族の小笠原氏は北朝方に寝返りますが、1336年5月に京都を守備していた於曾貞光は後醍醐天皇のために戦い、討死していますので、於曾時高も金ヶ崎の戦い南朝方として戦い、討死したものと考えられます。同族の南部氏も南朝方として戦い、石津の戦いで北畠顕家と共に南部師行が討死しています。 尊良親王御陵墓見込地碑新田義貞の子・新田義顕尊良親王金ヶ崎城を落ち延びることを勧めますが、尊良親王は臣下を見捨て逃げることを拒絶して自害しています。金崎宮尊良親王が祀られ、その横に建立されている絹掛神社には金ヶ崎城に籠城して尊良親王と共に自害した武将が祀られています。 金ヶ崎の退き口金ヶ崎の戦いから233年後に金ヶ崎城織田信長朝倉義景との間で行われた合戦の舞台となり、織田信長お市の方が夫・浅井長政の裏切りを両端を紐で縛った小豆袋(袋の小豆=袋の鼠)で知らせたという逸話で有名です。
江戸城東京都千代田区千代田1-1
②田中城跡(静岡県藤枝市田中1-7−20
江戸城(大手門)/打越氏(本家Ⅰ)は、代々、徳川将軍の身辺警護を勤める御書院番や、大奥や西の丸など江戸城の警備を勤める御留守居番を歴任。 江戸城(百人番所/昭和時代は皇居を見下ろす高さの高層ビルの建設は自粛されてきましたが、時代は移ろい、平成に入ると土地の高度利用が進み、丸の内の高層ビル群を背景にすると150年前と現代が共存しているようです。 松之大廊下跡/松之廊下刃傷事件の舞台となった場所。大石内蔵助祖父・大石良欽は常陸国笠間藩浅野家の家老で後に赤穂藩へ国替えとなっており、赤穂四十七士には常陸国笠間出身者も多いです。因みに、笠間は座頭市(実在)の生誕地でもあります。 田中城跡/1619年(元和5年)、打越光久は福島正則の蟄居改易にあたり、駿府城の西の守りとして老中・酒井忠利が城主を勤める田中城(駿河国志太郡)の守備を命じられています。 田中城跡/田中城があった西益焼小学校の校庭に造られた田中城のレプリカです。田中城に特徴的な三重の正円形の総構えの名残りが現代の街割りにも残されています。
打越光業の拝領屋敷
打越光高・打越金之助の拝領屋敷
打越光中・打越光広の拝領屋敷
打越左大夫の拝領屋敷
打越光業の拝領屋敷/御書院番(将軍警護)であった打越光業は1682年から東京千代田区隼町4(現在の最高裁判所国立劇場に跨る土地)に拝領屋敷を与えられています(「江戸城下変遷絵図集」より)。※旗本の知行地(自宅)は江戸城から離れた地方にあるので、江戸勤番の旗本には江戸城周辺の屋敷(社宅)が与えられていました。 打越光業の拝領屋敷/御書院番(将軍警護)であった打越光業は1710年から東京都千代田区九段北2-4-1(現在の靖国神社の境内とシャルトル聖パウロ修道女会に跨る土地)に拝領屋敷を与えられています(「江戸城下変遷絵図集」より)。 打越光高・打越金之助の拝領屋敷/御留守居番(大奥等の江戸城警護)であった打越光高は1724年から、また、御書院番(将軍警護)であった打越金之助(小普請組頭であった打越光広の嫡子)は1792年から、それぞれ東京都千代田区三番町3-9江戸城乾門前)に拝領屋敷を与えられています(「江戸城下変遷絵図集」より)。 打越光中・打越光広の拝領屋敷/小普請組頭(お目見以下の旗本・御家人の管理)であった打越光中は1756年から、また、同じく小普請組頭(お目見以下の旗本・御家人の管理)であった打越光広は1786年から、それぞれ東京都新宿区四谷本塩町15-12(現在の防衛省正門前近辺の土地)に拝領屋敷を与えられています(「江戸幕府旗本人名辞典第1巻」より)。 打越左大夫の拝領屋敷/御書院番(将軍警護)であった打越左大夫は1850年から東京都新宿区若葉1-13-32(現在の西念寺の正面の土地(490坪余)で、西念寺徳川家康の家臣で伊賀忍者の頭領・服部(半蔵)正成が開基し、服部(半蔵)正成の墓が安置されている寺)(「寛政譜以降旗本家百科辞典第1巻」「江戸城下変遷絵図集」より)
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①龍源寺(秋田県由利本荘市矢嶋町(字)城内田屋の下26
②長國寺(茨城県潮来市上戸166
龍源寺(曹洞宗/打越光久が常陸国行方郡新宮邑2000石から出羽国由利郡矢島郷3000石へ加増されて国替えになり開基した打越氏の菩提寺です(打越光隆が龍源寺を開基したと解説している本を見かけますが、一級資料である天下僧録牒(「道元思想のあゆみ3」より)には打越光久が開基檀越として記録が残されており、打越光隆は 1609年(慶長14年)5月18日に没している(「寛政重修諸家譜(巻二百五)」より)と考えるのが自然です。)。その後、生駒氏の菩提寺になっています。 龍源寺(本堂)/龍源寺の本堂は2004年に国の登録有形文化財に登録されています。 龍源寺(打越光隆像)/打越光隆(着座)、打越光久(立座)及び白峰廣椿和尚(指差し)の銅像です。打越光隆は常陸国行方郡新宮村を支配していた1609年(慶長14年)に他界していますので、龍源寺は打越光隆の菩提を弔うために打越光久が創建しています。 龍源寺(打越氏墓)/打越光隆、打越光久の墓です。1634年(寛永11年)に打越光久は高田馬場で頓死して龍源寺に葬られますが、嗣子なく、また、御家騒動も発生していたので御家断絶となります。 長國寺/龍源寺は打越光隆及び打越光久が常陸国行方郡新宮村を領地していた時代に親交があった長国寺(常陸国行方郡八代)の八世即殿分廣和尚の弟子・白峰廣椿和尚を招いて1623年(元和9年)に打越光隆の菩提を弔うために創建しています(「大日本地名辞書第5巻」より)。
①楠木正家の墓(秋田県由利本荘市岩谷町(字)日渡100
恵林寺秋田県由利本荘市内黒瀬(字)程岡37
楠木正家の墓/楠木正家の墓が岩谷にあるのは、打越氏が常陸国行方郡新宮邑2000国へ加増されて国替えになる際に、これに応じなかった打越氏(分家Ⅰ)に対し、最上義光が楯岡光直に命じて岩谷古舘に屋敷が与えられたと言われていますので(「由利郡中世考」より)、その関係で岩谷に墓があるのだろうと思われます。 楠木正家の墓の碑文/楠木正家が「贈正四位」を追贈されたのは1915年(大正4年)のことですが、碑文に「打越九代孫 再建」と記載されており、碑文にある「打越(孫二郎橘正朝)」が1662年(寛文2年)に没していることから、打越正朝の9代孫が官位の追贈を祈念して大正年間に墓碑を再建したということで概ね計算も合います。なお、近隣に藤原藤房の供養塔秋田県秋田市山内田中157-5)もあります。 親川楠家に伝わる甲冑(修身館所蔵)/中世の鎧にしては寸法(体格)が大きく感じられ、鎧のサイズから後世に造られたものである可能性があります。なお、打越氏(分家Ⅰ)は打越氏から楠氏へ復姓しています。 恵林寺/楠木正家の孫・楠木正宣が恵林寺を開基し、その子・打越正光が打越将監を名乗ります。なお、恵林寺の寺紋は菊水紋です。 楠木正宣の墓恵林寺の境内には、楠木正家の墓(五輪塔)が安置されています。楠木正成が千早赤坂の戦いで戦死した味方を弔うために建立した味方塚と同じ形状の石像五輪塔です。
①高建寺(秋田県由利本荘市矢島町立石(字)上野120
鳥海山国際禅堂(秋田県由利本荘市矢島町坂之下(字)上新田39
③耕雲寺(新潟県村上市門前143
高健寺/1427年(応永34年)、傑堂能勝禅師楠木正儀の子・楠木正能)が出家して開基したと伝わる耕雲寺の末寺。 高健寺/寺紋は菊水紋です。 鳥海山国際禅堂/高建寺の禅堂です。 耕雲寺南北朝合一の翌年1394年(応永元年)、傑堂能勝禅師楠木正儀の子・楠木正能)が開基したと伝わる寺。 耕雲寺/寺紋は菊水紋です。
長泉寺(東京都文京区本郷5-6-1
長泉寺(曹洞宗/打越氏(本家Ⅰ)の菩提寺。1635年(寛永16年)、小石川水戸藩邸敷地の拡張に伴って後楽園にあった長泉寺を本郷丸山に移築することになり、徳川光圀観音堂を建立した由緒あるお寺で、打越氏の菩提寺です。 長泉寺(曹洞宗森鴎外小説「伊沢欄軒」では主人公の伊沢欄軒(御殿医)が長泉寺を度々訪れており、その友人として打越古琴という人物が登場しています。 長泉寺(曹洞宗/打越氏(本家Ⅰ)の累代の墓。 長泉寺(曹洞宗/墓には丸に一文字三ツ星紋が刻まれています。  
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神明社秋田県由利本荘市内黒瀬(字)坂ノ下1-1
白山神社秋田県由利本荘市雪車町字白山前33
神明社/応永年間、黒瀬館があった山麓の麓に楠木正宣が開基した神社で、応仁年間、打越正淑が再建しています。 神明社/雪囲いのための鉄パイプが組まれています。 白山神社/岩倉館城主打越宮内少輔が加賀の白山妙理大権現分祀。打越氏(本家Ⅱ)が分布していた玉置神社奈良県吉野郡十津川村)は白山妙理大権現(白山比咩大神、菊理媛尊)を主祭神とし、また、石川県にも打越氏の末裔が数多く分布していますので、打越氏(本家Ⅰ、分家Ⅰ)と打越氏(本家Ⅱ)との関係性を物語るものと言えるかもしれません。 白山神社/社殿は雪囲いに覆われています。  
秋田県湯沢市松岡(字)打越
秋田県由利本荘市鳥海町下直根(字)打越
栃木県芳賀郡芳賀町打越新田
秋田県湯沢市松岡(字)打越菅江真澄が打越式部太夫、打越孫四郎の子孫・打越孫治郎及び内越民部少輔が住んでいると記載しています(菅江真澄全集第五巻)なお、湯沢は小野小町生誕の地 秋田県由利本荘市鳥海町下直根(字)打越/峠道なので打越という字名が付けられたものと推測され、打越氏の発祥とは直接の関係はないと思われますが、鳥海町慈恩寺(笹子)及び正重寺(中直根)は打越氏の菩提寺・龍源寺の末寺。 秋田県由利本荘市鳥海町下直根(字)打越/打越(字名)を見下ろすように丘陵の上に新田氏の末裔の墓があります。因みに、由利十二頭の羽川氏は新田氏の末裔です。 栃木県芳賀郡芳賀町打越新田/慶長年間、打越光行が下野国芳賀郡(現、栃木県芳賀郡芳賀村)に打越新田を開発し、その際に守本尊として虚空大菩薩を崇請して星宮神社を建立し、その末裔である黒崎隼人治郎左衛門が打越邑を開発(「栃木県史第3巻」、「栃木県史第15巻」より)。徳川将軍家へ仕官した打越氏(本家Ⅰ)の知行地(500石)があった下野国都賀郡等に隣接するが、それ以前の話し。 栃木県芳賀郡芳賀町打越新田/打越新田を開発した際に、鎮守として虚空蔵大菩薩を勧進して星宮(八坂)神社を建立し、その境内にある庚申塔には打越邑と刻まれています。一般には地名を氏とするのが一般的ですが、土地を開墾し又は支配した者の氏を地名にする例の1つと思われます。
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①山根館跡(仁賀保氏)(秋田県にかほ市小国(字)館平
禅林寺秋田県にかほ市院内(字)城前75
山根館跡/由利十二頭の旗頭となり、常に打越氏と軍事行動を共にしていた仁賀保氏の居城。 山根館跡/山根館の主郭。 山根館跡/大井友挙が信濃国から由利国へ下向するにあたって上陸した芹田方面。 禅林寺仁賀保氏の菩提寺。寺紋は丸に箱一文字三ツ星紋。 禅林寺/大井友挙と仁賀保挙誠の墓。
①稲荷神社(秋田県にかほ市芹田高磯63
②芹田館跡(秋田県にかほ市三森高田65-1
稲荷神社/1467年(応仁元年)に仁賀保氏の祖である小笠原(大井)友挙が出羽国由利郡へ下向し、芹田岬に着船しています。 稲荷神社/小笠原(大井)友挙が着船した場所には稲荷神社が建立され、仁賀保氏の祈願所となっています。 稲荷神社/稲荷神社の裏手から眺める芹田岬(白雪川河口)。 芹田館跡出羽国由利郡芹田村を支配していた大江氏流芹田氏の館跡。小笠原(大井)友挙の後裔である仁賀保兵庫頭の弟・挙実は芹田氏の家督を相続していますので、小笠原(大井)友挙が仁賀保荘(芹田村を含む)を支配するにあたり芹田氏との間で姻戚関係を結んだ可能性が考えられ、これにより箱一文字三ツ星紋を使用することになったのではないかと推測されます。  
①高城跡(赤尾津氏)(秋田県由利本荘市岩城下蛇田(字)高城
②岩谷館跡(岩谷氏)(秋田県由利本荘市岩谷麓水上162
③滝沢城跡(滝沢氏)(秋田県由利本荘市前郷(字)滝沢館132
高城跡/赤尾津氏(小介川氏)の居城。高城山の麓には佐竹義重の三男・岩城貞隆が藩主を勤めた亀田藩の亀田城もあります。 高城跡/高城から小笠原氏が上陸した松ケ崎方面を臨む。真田幸村の娘・顕性院殿(お田の方)が父を弔うために妙慶寺を建立し、実弟・真田幸信を岩城氏に仕官させて真田(幸村)家を再興します。 永傳寺/岩谷氏の居城・岩谷古館の跡地に岩谷氏の菩提寺である永傳寺が建立され、岩谷朝繁の菩提が弔われています。後年、常陸国行方郡新宮邑への国替えに抵抗した打越氏(分家Ⅰ)が最上義光より岩谷古舘への居住を許されていますが、永伝寺の裏山は親川へ通じています。なお、その末裔なのか、現在でも岩谷や石脇等には打越氏(分家Ⅰ)の系流である打矢氏の分布が確認できます。 滝沢城跡/滝沢城の本丸跡。一時、滝沢(由利)氏は矢島氏との争いに敗れて最上氏を頼って落ち延びていましたが、やがて由利十二頭により矢島氏が滅亡すると復活し、豊臣秀吉から姻戚関係にある打越氏と共に由利五人衆の1氏に選ばれています。関ケ原の戦いの後は最上氏の家老となり、江戸後期の読本作者の滝沢馬琴や幕末には由利公正を輩出しています。 滝沢城跡/滝沢館の近くには日本海から矢島への海上輸送路である子吉川前郷船着場跡秋田県由利本荘市前郷(字)西川町16-3)があります。矢島氏にとって滝沢氏との戦いは海上輸送路の確保という重要な戦略的意味もあったと言われています。
妙典寺(東京都大田区蒲田2-3-10
   
妙典寺日蓮宗触頭寺で、境内には武田氏の元家臣・嶋田氏の墓碑等が安置されています。 妙典寺関東管領上杉氏の菩提寺で、上杉六郎(池上本門寺5世日饒上人)が開基。 妙典寺/1852年(文政8年)7月に入滅した44世住職として打越権右衛門(法名:妙好院日進上人)がいます。(「大田区史史料編寺社2」より)    
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①築館跡(秋田県由利本荘市矢島町城内字築館63-1
②根城館跡(秋田県由利本荘市矢島町荒沢中荒沢80-5
③元弘寺跡(秋田県由利本荘市鳥海町下川内矢ノ本
④大井満安の墓(高健寺)(秋田県由利本荘市矢島町立石上野120
⑤根井館跡(秋田県由利本荘市矢島町元町新町73
⑥正重寺(秋田県由利本荘市鳥海町中直根前ノ沢108-1
⑦巴館跡(秋田県由利本荘市西沢上屋敷17-1
⑧小次郎館跡(牛越館)(秋田県由利本荘市鳥海町栗沢牛ケ首23
⑨紀之社(加賀国金津荘与知村)(石川県かほく市余地
築館跡鎌倉時代畠山重忠が築城し、応永年間、大江義久が築館に入り八森古城を築城したと言われています。 根城館跡/大井義久が築城した平山城。根城館は子吉川の支流・ 荒沢川(金沢橋から臨む根城館)と田沢川に挟まれた(字)矢越と呼ばれる一帯にあります。根城館旧道入口から根城館の本丸へ至ると八幡神社が建立されています。 元弘寺跡/楠木正家が南朝の菩提を弔うために建立したと言われています。矢島(大井五郎)満安の墓が安置され、その隣に矢島(大井五郎)満安の娘・鶴姫が庵を結んで矢島(大井五郎)満安の菩提を弔ったと言われており、その跡地に鶴姫の墓が建立されています。元弘寺のあった場所には八幡神社が建立され、そこから矢島(大井五郎)満安が籠城した荒倉館が見えます。 矢島(大井五郎)満安の墓(高健寺)/元弘寺が廃寺となり、傑堂能勝大和尚(楠木正能)が開基した高建寺に矢島(大井五郎)満安の墓が安置されています。信濃国佐久郡の滋野氏流望月氏の支流・矢島氏は南朝勢力でしたが、最上義光に味方した他の由利十二頭と袂を分かち、同じく南朝勢力の小野寺氏に味方して他の由利十二頭と対立しています。その出自は、滋野氏流望月氏の支流・矢島氏が大江(寒河江)氏と姻戚関係を結ぶなどして大江(矢島)義久となって出羽国由利郡津雲出郷(後の矢島郷)に入り、その後、大井光泰(光重)と姻戚関係を結ぶなどして大井義久に改称して出羽国由利郡矢島郷の勢力基盤を固めたと可能性も考えられます(注4-2) 根井館跡木曾義仲の滅亡後に、義仲四天王の1氏であった信濃国佐久郡の滋野氏流望月氏・根井氏が出羽国由利郡へ下向しており、矢島氏の重臣をつとめていました。なお、信濃国佐久郡にある根井正親の館跡は正法寺となっていますが、(どのような経緯があるのか分かりませんが)出羽国から信濃国へ移住したと思われる佐藤氏の墓が安置されています。
正重寺義仲四天王の1人であった根井正親の末裔・根井正重は、矢島(大井五郎)満安の弟・大井与兵衛と共に謀反を起こしますが、大井与兵衛は討ち取られ、根井正重は出家して正重寺を開基しています。 巴館跡木曽義仲の愛妾・巴御前の末裔・巴太郎頼勝が隠棲していたと伝わる巴館跡があります。巴御前は、木曾義仲の養父・中原兼遠の娘と言われており、中原氏の末裔と思われる者達も出羽国由利郡へ下向してきています。 小次郎館跡(牛越館)/楠木正家が築城し、その後、楠木(打越)小次郎が居城としました。楠木(打越)小次郎は、当初、元弘寺を居城としていましたが、後年、小次郎館(牛越館)へ移っています。 紀之社(加賀国金津荘与知村)/1491年(延徳2年)、京都上賀茂神社の荘園だった加賀国金津荘の与知村を支配していた土豪として打越新兵衛の名前があります(参74)。紀之社は、当時、金津荘の鎮守ために京都上賀茂神社から移築されたものです。この近傍に賀茂神社が祀られています。 紀之社(加賀国金津荘与知村)/打越新兵衛は、経済的又は人的関係を梃子にして金津荘以外の土地から入部し、金津荘の荘園経営には直接関与せず、専ら軍事的な面で一向宗徒(本願寺)と深い結び付きを持っていたようです。
白鳥神社長野県東御市本海野1204
②興善寺(長野県東御市和1557
③打越城跡(真田古城・信綱寺)(長野県上田市真田町長8064-1
上田城長野県上田市二の丸2
⑤望月城跡(長野県佐久市望月1730
⑥根井館跡(正法寺)(長野県佐久市根々井624
⑦矢島城跡(長野県佐久市矢島550-1
木曾義仲挙兵の地(長野県上田市御嶽堂145
白鳥神社海野宿にある白鳥神社は海野氏及び真田氏の氏神で、海野氏は木曾義仲に味方しています。木曾義仲挙兵の地(白鳥河原の勢揃) 興善寺/海野氏の菩提寺で、海野幸明の墓(“幸”は海野氏、真田氏の通字)が安置されています。六文銭は、もともと海野氏及び真田氏の家紋であったもので、武田信玄が三途の川の渡し賃として真田氏へ下賜した譲与紋ではありません。さしずめ武田信玄から六文銭の家紋の由来を訊ねられたことが、武田信玄から譲与紋を下賜されたという逸話になったのではないかと推測されます。 打越城跡(真田古城・信綱寺打越城(真田古城・信綱寺)は、真田氏が旧領を回復した後、真田本城を築くまで打越城(真田古城)を居城としましたが、その後、真田信綱が同地に寺を建立し、長篠の戦いで討死した真田信綱真田昌輝の墓が安置されています。これに伴って真田昌幸が真田氏の家督を相続します。打越城正面左側が真田本城、その右側が砥石城となります。 上田城真田昌幸が上杉氏への備えとして徳川家康に築城させた後に寝返って、2度の上田合戦で徳川軍を敗退させています。上田と海野の間には真田軍が川の堰を切り数多くの徳川軍を溺死させた神川合戦の古戦場があります。真田十勇士の1人・由利鎌之助 望月城跡/望月城の麓にある城光寺は望月氏菩提寺で、真田氏、依田氏などの墓を安置しています。
根井城跡(正法寺義仲四天王の1人・根井行親の館跡には正法寺が建立され、根井行親の供養塔が安置されています。(どのような経緯があるのか分かりませんが)出羽国から信濃国へ移住したと思われる佐藤氏の墓が安置されています。また、古越氏の墓も安置されていますが、滋野一族は「〇越」(打越、矢越、古越など)という屋号を使用する例が多くあります。 矢島城跡源平盛衰記や承久記に名前が登場する矢島(八島四郎)行忠が築城しています。 木曾義仲挙兵の地/1180年(治承4年)、以仁王平氏打倒を命じる令旨を発し、叔父・源(新宮十郎)行家が諸国の源氏に挙兵を呼びかけると、これに応じて家臣・依田実信の依田城で挙兵します。依田城の麓には木曾義仲館跡が残されています。なお、木曾義仲の滅亡後は、巴御前木曾義仲の菩提を弔うために依田城の麓に庵を構えた場所に、巴御前がお歯黒を落とした巴御前お歯黒の池が残されています。    
 
第2節 打越氏(分家Ⅱ)にゆかりの場所
①立(館)山城跡(茨城県ひたちなか市館山9015
②浄光寺(茨城県ひたちなか市館山9015
③河和田城(茨城県水戸市河和田町1019
立(館)山城跡/1460年頃、打越伊賀守が江戸(但馬守)道勝(道房)から永禄200貫(約2000石)を与えられて立(館)山城主となります。 立(館)山城跡/打越伊賀守は丸に一文字三ツ星紋を使用していることから、出羽国由利郡から下向したものと思われます。 立(館)山城跡/打越伊賀守は嫡男の打越豊後守に家督を相続し、次男を大戸村庄屋、三男を中根村庄屋として帰農させています。なお、1670年頃、打越氏が茨城県ひたちなか市中根の六ケ新田(500石超)を開発して領有しています(「角川日本地名大辞典8 茨城県」より)。 浄光寺浄土真宗本願寺派・浄光寺は親鸞の弟子・藤原(隼人佑)頼貞(薩摩梅原)が常陸枝川に開基し、1696年に現在の地に移転されています。 河和田城跡/1336年(延元元年)、楠木正家が守備していた瓜連城が落城すると南朝方の那珂通辰は北朝方の佐竹貞義に滅ぼされます。その子・那珂通泰は佐竹氏に仕えて常陸国那珂軍江戸郷を与えられたことから江戸氏を名乗るようになりました(第5部第2巻を参照)。1300年代後半に江戸道景は河和田城を本拠とし、1426(応永33年)に江戸道房が江戸城を攻め落として本拠を水戸城へ移しています。その後、打越伊賀守が江戸道房(道勝)に仕官しています。
①額田城跡(阿弥陀寺)(茨城県那珂市額田南郷258
②久慈浜の戦い(茨城県常陸太田市島町2317
額田城跡常陸江戸氏に仕官した打越伊賀守の子孫・打越刑部少輔は、1589年(天正17年)に常陸江戸家の重臣である神生右衛門大夫が起こした謀反(神生の乱)で、神生氏を匿った小野崎照通が守備する額田城を攻め(小野崎氏は結城へ敗走)、江戸重道から「額田において討敵の動比類なく候」という感状が発給されています。 額田城跡/額田城跡には浄土真宗大谷派阿弥陀寺が建立され、境内には徳川光圀のお手植えと伝われる枝垂れ桜があります。 額田城跡/打越刑部少輔の子孫・打越瀬左衛門の日記には、打越越刑部少輔が幼少期に北条氏へ人質にとられており額田城攻めが初陣であったことや、江戸重道の姪を妻に娶ったことなどが記されています。また、菊池隼人(南北朝の動乱南朝方として活躍した肥後国菊池氏の庶流で江戸但馬守から常陸国那珂郡三反田に700石を与えられて仕官)の娘を娶っていた打越彦三郎は額田城の戦いで討死しています。因みに、打越豊後守は菊池隼人の父である菊池内膳の姉妹を娶っています。 久慈浜久慈川湖畔から臨む梵天山と島村。1864年(元治元年)9月9日、大発勢に加わっていた水戸藩目付方同心組・打越(佐次郎)正只が常陸国久慈郡島村で討死。久慈浜の古戦場から西に約3kmに瓜連城南東に約3kmに額田城がありますので、打越氏の戦いを語るうえで欠かせない場所です。 久慈川水戸藩天狗党(改革過激派)と諸生党(保守派)の内乱を鎮圧するために水戸藩主・徳川義篤の名代として大発勢(改革慎重派)を指揮していた宍戸藩主・松平頼徳は和平交渉を装った幕府勢に謀殺され、大発勢に加わっていた打越貞助は佐倉藩・堀田(相模守)正倫の佐原陣屋にお預けとなります(その後の記録がありませんが、放免されたのではないかと思われます)。
水戸城茨城県水戸市三の丸3-10-1
偕楽園茨城県水戸市常磐町1-3
水戸城(大手橋)水戸城三の丸から水戸城二の丸へ向かう大手橋。水戸城三の丸小学校と弘道館があります。 水戸城(大手門跡)水戸市立第二中学校と彰考館跡茨城県立水戸第三高校があります。なお、現在、水戸城大手門及び二の丸角櫓の復元整備工事が行われていますが、二の丸角櫓に使用する瓦の寄付「一枚瓦城主」が募集されています。(水戸城二の丸は打越(樸斎)直正が第2代水戸藩主・徳川光圀の信任を受けて総裁を務めた彰考館があった場所でもあります。) 水戸城(本丸跡)/本丸と二の丸を隔てる空堀で、本丸跡には茨城県水戸第一高校があります。1590年(天正18年)、北条方に味方して小田原征伐に参陣しなかった江戸重道は佐竹義宣に討伐され、江戸氏の家臣として江戸城の守備にあたっていた打越左京亮は討死しています。 偕楽園好文亭から臨む偕楽園千波湖偕楽園とは孟子の「古の人は民と偕に楽しむ、故に能く楽しむなり」に由来し、「是れ余が衆と楽しみを同じくするの意なり」という愛民精神を表現したもので、それを体現するように武士だけではなく一般庶民も広く偕楽園への入園が許されていました。 日本初のエレベーター茨城県と言えば、日立製作所が創業された場所ですが、水戸藩主・徳川斉昭が日本初のエレベーターを発明しています。このほかにも徳川斉昭日本初の戦車日本初の潜水艦等も発明しています。つくば万博や筑波宇宙センター(JAXA)に象徴されるように茨城県イノベーションを育む風土があると言えるかもしれません。
彰考館(茨城県水戸市三の丸2-9-22
大日本史編纂之地水戸藩主・徳川光圀は修史事業として大日本史編纂を計画し、江戸小石川藩邸に彰考館を設置し、その後、水戸城二の丸(現、水戸市立第二中学校)へ移設します。北畠親房の「神皇正統記」の影響を受けた水戸藩主・徳川光圀や彰考館総裁・打越(僕斎)直正らが南朝正当論を唱えます。これを根拠として、1911年(明治44年)に明治天皇三種の神器を所持していた南朝が正当であるという勅裁を下されました。なお、1879年(明治12年)に和田勘恵(佐竹氏流・小沼義宣が婿養子に迎えた楠正継の末裔)は水戸学の影響を受けて、楠木正成の功績を称えて忠義心を養うための楠木神社茨城県鉾田市上太田525−3)を建立。鳥居横の遙拝壇の頂上にはご神木の樹齢120年の楠。 彰考館総裁/打越(樸斎)直正(贈縦五位)は大日本史の初版(享保本)を完成させ、最初に徳川将軍へ献呈したときの彰考館総裁で、後の尊王思想に大きな影響を与えています。 彰考館扁額徳川光圀揮毫による扁額で、彰考館とは「彰往考来」(往事を彰らかにし、来時を考察する)に由来して命名されています。水戸学の礎を築き、それが200年後に明治維新を起こす幕末志士達の思想的な支柱となります。 大日本史/将軍へ献呈された大日本史のBOXセット。木版印刷(凸版印刷)の技術を使って製本されています。 徳川光圀印籠徳川斉昭徳川光圀以来の水戸徳川家の家訓として「水戸家が将軍家を助けることは当然だが、万一、朝廷と将軍家との間に争いが生じることになった場合でも、水戸家が朝廷と敵対することがあってはならない。」という教えを徳川慶喜に諭していたので、徳川慶喜は朝廷に弓引くことなく江戸無血開城明治維新が成し遂げられました。稀代の名将と評せられる一方で君臣和睦に心を砕いた楠木正成楠木正儀の忠義の本分が大日本史編纂とそれにより育まれた水戸学を通して水戸徳川家にも息衝いていたことが感じられます。
①酒門共有墓地(茨城県水戸市酒門町330
②常盤共有墓地(茨城県水戸市松本町13−34
酒門共有墓地徳川光圀水戸藩士のための共有土地として酒門共有墓地と常盤共有墓地を建立しています。 酒門共有墓地/彰考館総裁・打越(樸斎)直正の墓のほか、水戸藩家老・戸田忠大夫、水戸藩家老・安島帯刀、水戸藩家老・岡田徳至などの墓が安置されています。 打越(樸斎)直正の墓/彰考館総裁・打越(樸斎)直正(贈従五位)とその子・打越直道の墓が安置されています。 善重寺/打越(樸斎)直正の墓は、現在、酒門共有墓地にありますが、もともとは酒門共有墓地と地続きになっている善重寺(浄土真宗大谷派)の墓地にあったものが酒門共有墓地に紛れ込んだものです。 常盤共同墓地/彰考館総裁・安積(澹泊)覚兵衛覚の墓があり、TVドラマ「水戸黄門」で格さんのモデルになっています(覚→格)。彰考館総裁の打越(撲斎)直正の先輩にあたり、大日本史編纂の方針につて安積澹泊に意見した記録「樸斎正義」が残されています。
常盤共有墓地水戸藩儒学者藤田幽谷(父)、藤田東湖(子)の墓です。彰考館総裁・打越(樸齋)直正は藤田幽谷から高い評価を得ています(「水戸史学先賢伝」「水戸光圀の遺猷」より)。 常盤共有墓地藤田東湖の息子・藤田小四郎は筑波山で蜂起し、明治維新の端緒となった元治甲子之変を主導しています。 常盤共有墓地桜田門外の変を指揮した水戸藩士・関鉄之介の墓です。映画「桜田門外ノ変」では、大沢たかおさんが演じる主人公です。    
①氷之沢鹿嶋神社(茨城県常陸大宮市氷之沢266
風車の弥七の住居跡(茨城県常陸大宮市松之草375
③正宗寺(茨城県常陸太田市増井町1514
氷之沢鹿嶋神社/1691年(元禄4年)、水戸藩郡奉行・林十衛門及び郡奉行代官・打越瀬左衛門は徳川光圀の命を受けて鹿島神宮から分祀した氷之沢鹿嶋神社を造営しています(「第84回ふるさと見て歩き」より)。 風車の弥七の住居跡/TVドラマ「水戸黄門」で風車の弥七と妻のお新のモデルになった小八兵衛とお新の住居跡(うっかり八兵衛は架空の人物で弥七の本名)。徳川光圀の下で忍び働きをしていましたが、氷之沢鹿嶋神社の普請に駆り出されていた可能性もあります。  正宗寺/正宗寺は佐竹氏の菩提寺で、TVドラマ「水戸黄門」で助さんのモデルになった彰考館総裁の佐々(介三郎)宗淳の墓(介→助)も安置されています。なお、佐々宗淳は徳川光圀の命により湊川神社楠木正成の墓(嗚呼忠臣楠子之墓)を建立しています。    
①打越(瀬左衛門)政徳の屋敷(茨城県常陸太田市町田町163-1
②西山御殿(茨城県常陸太田市新宿町590
打越(瀬左衛門)政徳の拝領屋敷/打越(瀬左衛門)政徳は水戸藩郡奉行代官武茂組を勤めていましたが、当時は在方陣屋制度(郡奉行土着制)が採られており、打越瀬左衛門の日記には水府の士人と記載されていることから、常陸国久慈郡水府邑に拝領屋敷を与えられていたと考えられます。 西山御殿(西山荘/1691年(元禄4年)から徳川光圀が隠居所として暮らしていました。 西山御殿(西山荘徳川光圀の書斎で、晩年はここで大日本史の筆削にあたっていたと思われます。 西山御殿(西山荘西山荘は佐竹氏の居城であった太田城と近く、打越(瀬左衛門)政徳の屋敷と隣接しています。  
水戸金工打越派の祖、打越(一乗斎)弘寿(東京都千代田区神田
福神図鍔/水戸金工打越派の祖・打越(一乗斎)弘寿の作(作風記事)。水戸金工は矢田部通寿が基礎を築き、その門人に写実風の高彫りを得意とする打越(一乗斎)弘寿等が現れて江戸神田で活躍して評判となります。細かい細工に優れた物が多く明治金工の礎となり、その技術は皇居外苑楠木正成公の銅像製作等にも生かされます。 魚尽図鐔/打越(一乗斎)弘寿の作。クインシー・A.ショー氏が東京国立博物館に寄贈し、その後、光村利藻のコレクションに加えられて根津美術館が所蔵しています。 仙遊寺図小塚/画題となった白楽天長恨歌「林間煖酒焼紅葉 石上題詩拂緑苔」(意訳:森林で紅葉の落ち葉を焚いて酒を煖め、緑に苔むした石の上に詩を刻んだものだ。)と記されています。なお、打越(一乗斎)弘寿は本阿弥家とも親交があったと言われています。 三番叟図小柄/打越(一乗斎)弘寿の門人・桃寿の作。  
 
第3節 打越氏(分家Ⅲ)にゆかりの場所
①大寶寺(佐竹屋敷跡)(神奈川県鎌倉市大町3-6-22
②馬坂城跡(茨城県常陸太田市天神林町3247
太田城茨城県常陸太田市中城町151
④秋田城(秋田県秋田市寺内大畑3
⑤大館城(秋田県大館市中城20
大寶寺(佐竹屋敷跡)/源(新羅三郎)義光が屋敷を構え、その後、佐竹義盛が出家して多福寺(現、大寶寺)を開山しています。なお、境内には源(新羅三郎)義光の墓が安置され、また、多福稲荷(写真右)は源(新羅三郎)義光が建立したものです。 馬坂城跡/源(新羅三郎)義光の孫・佐竹昌義は常陸国久慈郡佐竹郷の居城1106年(嘉承元年)、源(新羅三郎)義光及び源義業常陸合戦で従父・源義国(新田氏、足利氏の祖)と戦って常陸への侵攻を防ぎ、源義業はその子・源(佐竹)昌義へ常陸国久慈郡佐竹郷を与え(佐竹氏の祖)、佐竹昌義は馬坂城を築城します。 太田城/佐竹昌義の子・佐竹隆義は馬坂城から太田城へ移り、その後、1590年(天正18年)、佐竹義重小田原征伐に参陣しなかった江戸重通を滅ぼして水戸城に居城を移すまで、佐竹氏の本城となります。 秋田城関ケ原の戦いに参陣しなかった佐竹義重の子・佐竹義宣常陸国から出羽国へ減封国替えとなりました。 大館城/1678年(延宝六年)、打越角右衛門は久保田藩大館城代を務めていた佐竹西家の佐竹義房に禄高30石として仕えています。なお、1698年(元禄11年)、打越光政が久保田藩に提出した系図にはその名前が見当たらないので、佐竹氏に仕官した打越氏がもう複数家あった可能性があります。
①佐竹寺(茨城県常陸太田市天神林町2404
②正宗寺(茨城県常陸太田市増井町1514
③天徳寺(秋田県秋田市泉三嶽根10-1
佐竹寺/佐竹昌義が寺領を寄進して祈願所とし、1546年(天文15年)に佐竹義昭が兵火により消失した本堂を現在地に再建し、馬坂城の鬼門除けとしています。 佐竹寺/現在、茅葺屋根の葺替えを計画されており、平成34年3月まで佐竹寺社務所で一口3000円からの募金を募られています。 正宗寺/佐竹氏の菩提寺。境内にはTVドラマ「水戸黄門」で助さんのモデルになった彰考館総裁・佐々(介三郎)宗淳の墓(介→助)も安置されています。 正宗寺/佐竹氏の菩提寺に安置されている佐竹氏の墓。 天徳寺/佐竹氏が常陸国から出羽国へ減封国替えと共に移設された佐竹氏の菩提寺で、境内には佐竹氏累代の廟所があります。また、闐信寺(秋田県秋田市手形蛇野89)には佐竹義重の墓が安置されています。
①五林平八幡宮青森県北津軽郡板柳町五林平細田90
       
五林平八幡宮/五林平村を知行された津軽藩士・打越(常左衛門)勝由及びその子・打越(源五郎)勝村が建立し、棟札を奉納しています。鳥居には、津軽名物の「鳥居の鬼コ」が鎮座。        
 
第4節 打越氏(分家Ⅳ)にゆかりの場所
①種里城(青森県西津軽郡鰺ケ沢町種里町90
②堀越城(青森県弘前市堀越柏田243
弘前城青森県弘前市下白銀町1-13
種里城/1491年(延徳3年)に南部光行の四男・七戸朝清の庶流である南部(久慈)光信(大浦氏の祖)が十三安東氏の抑えとして種里城に入り、1502年(文亀2年)に大浦城を築城してその子・大浦盛信に守備させます。なお、種里城跡には、南部(久慈)光信の廟所津軽氏子孫の方々による植樹歴史資料館「光信公の館」があります。 堀越城/大浦盛信の孫・大浦為則は堀越城主・武田重信を降伏させると弟・大浦守信を武田重信の娘・阿保良(戌姫)の婿養子として送り込み、大浦守信は大浦城から堀越城へ入ります。 津軽藩祖・津軽為信の像/1571年(元亀2年)に大浦守信の子・大浦為信は南部宗家の御家騒動を奇貨として石川城郡代南部高信を滅亡させて津軽攻略に乗り出し、1578年(天正6年)には浪岡城を落城させて北畠顕村を自害させて(浪岡北畠氏の滅亡。この2年前に北畠具教が織田信長織田信雄の計略により殺害されて伊勢北畠氏の滅亡。)、津軽統一を果たします。1591年(天正19年)に大浦為信は豊臣秀吉から津軽三郡(平賀郡、鼻和郡、田舎郡)及び合浦一円の領地を安堵されて南部氏からの完全な独立を果たします(津軽氏の祖)。 弘前城(二の丸東門)/国指定重要文化財。1611年(慶長11年)に大浦(津軽)為信(津軽氏の祖)の子・津軽信枚が堀越城から弘前城へ移ります。 弘前城(本丸)/本丸石垣を改修中ですが、天守曳家によって天守の位置が約70m北西へ移動(写真手前のネットが張ってある場所から天守が移っている場所まで移動)しています。晴れていれば天守の後ろに岩木山が望めます。
①革秀寺(青森県弘前市藤代1-4-1
長勝寺青森県弘前市西茂森1-23-8
恵林寺青森県弘前市西茂森1-6-1
革秀寺津軽為信によって造営され、その子・津軽信枚が境内に津軽為信の霊屋を建立すると共に、藩士による境内への立ち入りを制限することで津軽為信の霊威を高めることに利用しています。 長勝寺津軽氏の菩提寺。大浦盛信が大浦(南部)光信の菩提を弔うために創建。境内には津軽氏の歴代当主の墓碑が安置されています。長勝寺の境内からは津軽富士の異名を持つ岩木山が臨めます。 恵林寺曹洞宗弘前城を築城した津軽信枚は津軽氏の菩提寺を含む禅院33ケ寺を1ケ所に集めますが、その1寺として打越氏(分家Ⅳ)の菩提寺恵林寺が含まれています。楠木正宣が出羽国由利郡に恵林寺曹洞宗)を開山していますが、その関係は不明です。 恵林寺曹洞宗/打越光久に嗣子がなく御家が断絶しますが、次男・打越光種は徳川将軍家へ仕官し、四男・打越光春及び五男・打越光豊(後に、その子孫が柳沢氏へ仕官)は津軽氏へ仕官しています。また、長女・千は津軽為信の養女となっています。なお、三男・光清は南部藩秋田氏へ養子に出ています。 恵林寺曹洞宗/打越氏(分家Ⅳ)が仕官した津軽氏は小笠原氏流南部氏の庶流、打越氏(分家Ⅴ)が仕官した柳沢氏は甲斐源氏武田氏の庶流ですが、御家断絶にあたって甲斐源氏の縁故を頼って仕官先を模索したようです。
①小湊(浅所海岸)(青森県弘前市藤代1-4-1
②平内町歴史民俗資料館(青森県弘前市西茂森1-23-8
小湊(浅所海岸)津軽藩御家騒動船橋騒動)の後に出羽国で浪人していた打越光忠出羽国由利郡小砂川村に打越光隆が浪人していたという記録がありますが、これは打越光忠の誤りである可能性)は、津軽越中守)信枚の叔父・津軽十郎左衛門の取り計らいにより陸奥国津軽郡小湊郷に居を構えています。昔、打越屋敷があった場所に石碑が建っていたそうですが、その場所は不明です。なお、小湊は日本で唯一の国指定特別天然記念物「小湊のハクチョウおよびその渡来地」になっている景勝地です。 平内町歴史民俗資料館津軽三味線の名人・高橋竹山青森県平内町小湊の出身で、平内町歴史民俗資料館には高橋竹山顕彰碑が建立されています。現在、高橋竹山の半生を描いた映画「津軽のカマリ」が公開されていますが、その音楽(演奏)の“凄さ”に圧倒されます。 平内町歴史民俗資料館/現在、民族資料館では「初代高橋竹山資料展示」が行われ、実際に高橋竹山が使用されていた三味線や尺八等が展示されています。現在、残されている録音や録画に触れる度に、同時代人であったにも拘らず、その生演奏に触れる機会に恵まれなかったことが悔やまれてなりません。歴史に名を残すような偉人・賢人は生前にはなかなか気付かないものです。    
津軽三味線会館(青森県五所川原市金木町朝日山189-3
②三味線塚(青森県五所川原市金木町川倉七夕野426−1
津軽三味線発祥之地碑(青森県五所川原市金木町芦野234−219
④仁太坊の郷碑(青森県五所川原市金木町神原桜元29
⑤仁太坊生誕150周年祈念碑(青森県五所川原市金木町神原小泉126ー77
津軽三味線会館津軽三味線の祖・仁太坊は越後瞽女に影響を受けて津軽三味線を創始したといわれています。 三味線塚津軽三味線の祖・仁太坊を顕彰した碑です。現在、津軽三味線の名人・高橋竹山の半生を描いた映画「津軽のマガリ」が上映されています。 津軽三味線発祥之地碑文豪・太宰治青森県五所川原市金木町の出身で、津軽三味線発祥之地碑がある芦野公園には太宰治の銅像もあります。 仁太坊の郷碑津軽三味線の祖・仁太坊(本名、秋元仁太郎・1857年(安政4年)~1928年(昭和3年)も青森県五所川原市金木町出身です。
仁太坊生誕150周年記念碑津軽三味線の祖・仁太坊は越後瞽女に影響を受けながら津軽三味線に特徴である「叩き奏法」を編み出します。
 
第5節 打越氏(分家Ⅴ)にゆかりの場所
佐貫城(千葉県富津市佐貫582
佐貫城/1688年(元禄元年)、津軽藩士であった打越光豊の子・打越光忠の二男・打越光長は徳川綱吉側用人となった柳沢吉保(武田家旧臣で、当時は上総国佐貫藩主)に拝謁し、同じ新羅三郎義光の血をひく甲斐源氏の誼から召し抱えられています。 佐貫城/佐貫藩主・柳沢吉保は、1690年(元禄3年)に2万石が加増されて三男・打越光登を召し抱え、1692年(元禄5年)に3万石が加増されて長男・打越光永、四男・打越光棟を相次いで召し抱えています。 佐貫城/本丸から臨む東京湾柳沢吉保上野国館林藩上総国佐貫藩(1688年(元禄元年))→武蔵国川越藩(1694年(元禄7年))→甲斐国甲府藩(1704年(宝永元年))と加増国替えになり、その子・柳沢吉里は大和郡山藩(1724年(享保9年))に転封になっていますが、唯一、上総国佐貫藩が海を持つ領地でした。 タマサ醤油(宮醤油)/1834年(天保5年)に佐貫城の城下町で創業したタマサ醤油(宮醤油)で、建物が登録有形文化財に指定されています。 タマサ醤油(宮醤油)/日本で唯一の料理の神様を祀る高家神社(境内には包丁塚があり、毎年、映画「武士の献立」でも登場した四条流包丁式が奉納されています)がある千葉県は醤油生産量が全国1位(約1/3)の醤油の名産地ですが、そのなかでもタマサ醤油は全国醤油品評会で十数回も優秀賞等を受賞しており全国からの購入者が後を絶ちません。タマサ醤油は、すっきりとした香味と色味が特徴的で、バランスが良い風味豊かな正統派の醤油です。
川越城埼玉県川越市郭町2-13-1
川越城/1694年(元禄7年)、徳川綱吉側用人から老中へ昇格した柳沢吉保は佐貫藩主から川越藩主へ加増国替えとなります。川越城は、北条氏康が扇谷上杉氏を滅ぼして戦国大名として頭角を現すことになった河越夜戦の舞台となった歴史の深い場所でもあります。 川越城/川越大師喜多院には江戸城から移築された徳川家光公誕生の間春日局化粧の間などがあり、また、小江戸と言われる川越城城下町も昔風情を湛えており、大人も遊べる魅力的な街です。 童唄「とおりゃんせ」発祥の地川越城の城郭内に三芳野神社があり、童唄「とおりゃんせ」発祥の地と言われています。 童唄「とおりゃんせ」発祥の地三芳野神社は菅原道真公を主祭神とし、歌詞にある「天神様」が祀られています。 童唄「とおりゃんせ」発祥の地三芳野神社の参道が歌詞にある「天神様の細道」です。三芳野神社が川越城の城郭内にあったことから城内への不審者の侵入を防ぐために門番に出入りを厳しく監視されていたと言われていますので(御用のないもの通しゃせぬ♪)、決して神隠し(人さらい)の歌ではなく、密偵等に疑われて戻って来ない人がいたということかもしれません。
甲府城山梨県甲府市丸の内1-5-4
恵林寺山梨県甲州市塩山小屋敷2280
甲府城柳沢吉保徳川綱吉側用人であった柳沢吉保(武田氏の旧臣)は甲府藩主に加増国替え。 武田神社/武田氏の本拠である躑躅ヶ崎館があった場所。織田信長による甲州征伐で、家臣の裏切りが相次いで万策が尽きた武田勝頼(享年38歳)が腰掛けて途方に暮れたという思案石があります。撲にとっても人生の思案石というべきもので、ここに生ては来し方行く末に思いを巡らす大切な場所になっています。 恵林寺/甲斐武田家の菩提寺甲州征伐では、恵林寺に逃げ込んだ六角義定(六角氏の末裔・佐々木次郎)の織田軍への引き渡しを拒んで焼き討ちされます。快川紹喜が火の中で「心頭を滅却すれば火も自ら涼し」と言った言葉は有名です。 恵林寺柳沢吉保の墓)/柳沢氏は甲斐源氏武田氏流一条氏の末裔で、甲斐武田氏の遺臣と言われています。 恵林寺武田信玄の墓)柳沢吉保甲府藩主となり、武田信玄の第133回忌法要を執り行っています。
大和郡山城(奈良県大和郡山氏城内町2-1
追手向櫓徳川綱吉側用人であった柳沢吉保(武田氏の旧臣)の子・柳沢吉里が加増国替え。 東大寺興福寺大和郡山城の東側には東大寺興福寺方面。興福寺薪能発祥の地です。 柳沢文庫大和郡山藩主であった柳沢伯爵の本邸を移築したもので、写真は車寄せと応接室。 打越織次郎の拝領屋敷大和郡山城の天守台から北側には打越織次郎の拝領屋敷(正面の立派な入母屋造の屋根の建物の周囲)が見えます。 観阿弥の供養塔大和郡山城内に安置されている観阿弥の供養塔。観阿弥楠木正成の姉と服部家の祖・服部元就の間に生まれた子で、大和郡山城の天守台から南西側には金剛山(楠木正成が籠城した千早赤坂城)が見えます。
 
第6節 打越氏(分家Ⅵ・Ⅶ)にゆかりの場所
三春城舞鶴城)(福島県田村郡三春町大町164
三春滝桜福島県田村郡三春町大字滝桜久保115
磐城平城福島県いわき市平旧城跡7
④湯長谷城(福島県いわき市常磐下湯長谷町古館78
三春城舞鶴城)秋田実季は関ケ原の戦いの後に出羽国秋田郡から常陸国宍戸郡へ国替えとなり、その後、陸奥国田村郡三春邑へ国替えとなっています。1659年(万治2年)、その孫・秋田盛季の代に打越六兵衛(分家Ⅵ)が破損手代(建造物の営繕、材木の管理を掌った役職)として仕えています。 三春滝桜/推定樹齢千年超の日本5大桜の1つで、三春藩主の御用木とされてきました。(写真は桜が散った後ですが、その枝振りだけでも見事です。そのうち撮り直しに行く予定です。) 磐城平城/1662年(元和8年)、内藤政長が上総佐貫から磐城平へ入部し、その孫・内藤義概の代に打越新兵衛(分家Ⅶ)が磐城平藩大納戸衆として仕えています。 湯長谷城/内藤義概の弟・内藤政亮に1万石が分与されて磐城平藩支藩として湯長谷藩を立藩しています。映画「超高速!参勤交代」は第4代湯長谷藩主・内藤政醇を主人公としており、第6代磐城平藩主・内藤政樹が大名行列を貸すシーンで登場しています。  
 
第7節 打越氏(分家ⅩⅣ)にゆかりの場所
岡崎城愛知県岡崎市康生町561−1
唐津城佐賀県唐津市東城内8
岡崎城/1730年(享保15年)頃、岡崎藩主・水野忠輝に藩医(外科)として打越(宗三)世衡が仕官。なお、祖先・水野忠政は徳川家康の生母・於大の方(伝通院)の父(徳川家康の外祖父)にあたります。 唐津城/1762年(宝暦12年)、水野忠任は岡崎藩から唐津藩へ国替えになりますが、藩医(外科)・打越世衡も一緒に下向しています。なお、どのような経緯で水野氏へ仕官し、また、その末裔がどうなったのかなどの仔細は分かっていません。      
 
第8節 打越氏(美濃源氏)にゆかりの場所
①城ケ峰(打越本郷交差点)(岐阜県岐阜市打越
②源満政の墓(大阪府大阪市豊能郡能勢町神山310
③木田小学校(岐阜県岐阜市木田2-173
若宮八幡宮岐阜県岐阜市彦坂84
⑤立政寺(岐阜県岐阜市西荘3丁目7−11
城ケ峰(打越本郷交差点)長良川河口に「羽(八)島郷」があり、長良川支流の伊自良川沿いに上流から「彦坂村」「打越村」「則武村」「木田村」「改(開)田村」があります。なお、「打越」という地名は「打ち越す」という動詞が語源となっており、山、峠や川の周辺に多い地名です(注34)。 源満政の墓/源満政は、美濃国方県郡八島郷を支配し、源(八島大夫)満政を名乗ります。 木田小学校/源満政の玄孫・源重長美濃国方県郡木田郷を支配して木田氏を名乗ります。 若宮八幡宮(楠氏の墓)/1221年(承久3年)、後鳥羽上皇に味方した木田重知が討死すると、同じく美濃源氏八島氏流・彦坂氏から婿養子を迎え、その孫・木田(左近大夫)頼氏が美濃国方県郡打越村の地頭職に任じられ、打越氏を名乗ります。美濃源氏打越氏の祖。  立政寺/立政寺は、明智光秀細川藤孝の仲介により、織田信長公が足利義昭を迎えた場所です。また、関ケ原の戦いに向かう徳川家康も立ち寄っています。
 

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