第2段 楠木正家後裔/甲斐源氏小笠原氏流
①由利十二頭(本家Ⅰ、分家Ⅰ)
打越氏(内越氏)の事実上の発祥は、楠木正家(注24-1)が出羽国仙北郡打越郷(現、大沢郷寺)に打越城(白坂館)を築いて(参10、11、64)、1350年頃に楠木正家の子・楠木正安が「打越将監」(地名+官職)という通称を名乗り(注4-2、18、22)、また、楠木正家の娘の婿養子として小笠原大和守の三男・義知を迎え、出羽国由利郡内越村に内越城(平岡館)を築いて「内越」と名字を改めたことにあると考えられます(楠木氏+小笠原(大井)氏=分家Ⅰ:楠木氏の家督)(親川楠家系図/参11)。楠木正家は、出羽国仙北郡から出羽国由利郡へ勢力範囲を拡げるために、その家督を実子・楠木正安ではなく娘の婿養子・小笠原義知に承継させ、その後、1400年前後、その子・楠木(内越)正宣が在地勢力の由利惟貴の曾孫・満姫と婚姻関係を結んで内越城(平岡館)から岩倉館へ移り出羽国由利郡における勢力基盤を固めます。
但し、「打越旧記」には、1428年(応永末年)時点の出羽国由利郡の支配状況として「楠木一族」「小笠原氏族」「仲太郎」(=由利氏)が記されており、未だ打越氏(内越氏)とは記されていないことから、この時点では打越氏(内越氏)が正式な名字として定着していなかったものと思われます。この点、楠木(内越)正宣が開基した恵林寺の過去帳には1450年(宝徳2年)の楠木正賢の俗名として「内越小笠原左衛門太夫正賢」と記されていますが、それ以降の代になっても、楠木氏、打越氏又は内越氏の名字が混在しており統一されていません。(恵林寺過去帳/参11)(注21)。
▼親川楠家系図にみる由利五人衆との血縁関係 (注11)
なお、諸家系譜によれば、1400年代後半頃、打越(宮内少輔)光重の祖父・内越(宮内少輔)氏光の代から打越氏(内越氏)が正式な名字として定着したと思われますが(参6、9)、内越(宮内少輔)氏光と同世代の楠木正清が小笠原氏から妻を迎えていますので(親川楠家系図/参11)、この頃、小笠原(大井)氏と楠木氏との間で姻戚関係が重ねられて小笠原(内越氏)氏も本格的に打越氏(内越氏)を名乗り始めたものと考えられます(楠木氏+小笠原(大井)氏=本家Ⅰ:小笠原(大井)氏の家督)。
その後、豊臣秀吉が由利十二頭を由利五人衆に整理、統合して本領安堵の御朱印状を打越(宮内少輔)光重に下賜しますが(豊臣秀吉による土地支配の正当性)、これにより打越(宮内少輔)光重が出羽国由利郡内越村及びその他周辺(芋川及び赤川の流域一帯)の領地(1250石)を支配する惣領家(本家Ⅰ)に定まり、於曾氏が支配していた土地(≒於曾氏の家督)を含む全ての土地が打越(宮内少輔)光重に統合、承継されたものと思われます。この御朱印状には、地名として「内越」、名字として「打越」と記載されており、それ以前から打越氏を名乗っていたと考えられますので、、楠木正安が「打越将監」という通称を名乗ったことが打越氏(内越氏)の事実上の発祥であると考えるのが合理的です。なお、打越氏(内越氏)を名乗り始めた時期は、打越氏(内越氏)(本家Ⅰ)よりも打越氏(内越氏)(分家Ⅰ)の方が早かったと考えられますが、このWEBでは豊臣秀吉から本領安堵の御朱印状を下賜された打越(宮内少輔)光重を打越氏(内越氏)の惣領家(本家Ⅰ)として扱っています。
②常陸国への進出(本家Ⅰ、分家Ⅱ、分家Ⅲ)
1465年頃(正確な年代は不詳)、打越氏(内越氏)(分家Ⅰ)の庶流・打越伊賀守(諱は不詳、家紋は丸に一文字三ツ星紋)が常陸国那珂郡(かつて楠木正成の代官として楠木正家が瓜連城を築城した常陸国久慈郡の隣地で、甲斐源氏発祥の地である武田郷がある場所)を支配している常陸江戸氏へ仕官し(分家Ⅱ)、江戸(但馬守)道勝(=道房)から常陸国那珂郡三反田郷に200貫(約2000石)を与えられて立(館)山城を守備します(参16、65)(注23)。しかし、常陸江戸氏は、小田原征伐で北条氏に味方したことから佐竹氏により滅ぼされ、その後、打越氏(内越氏)(分家Ⅱ)は郷侍として土豪化します。やがてその後裔・打越弘親が水戸徳川家へ召し抱えられ(参117、129)、幕末まで水戸藩徳川家へ仕えます。
また、1590年頃(正確な年代は不詳)、打越(三郎兵衛)光重が出羽国由利郡から常陸国へ移り、佐竹(右京大夫)義宣の直臣として大番組30石で召し抱えられます(分家Ⅲ)。その後、佐竹義宣は関ヶ原の戦いで中立的な立場をとったことから(関ケ原の戦いで徳川家康が暫く江戸城から身動きできなかった理由として、上杉景勝と佐竹義宣が呼応して江戸に攻め込む機会を伺っていたという噂があった為と言われています。)、1602年(慶長7年)、常陸国から出羽国(羽後国)へ減封国替えになります。これに伴って、打越氏(分家Ⅲ)も一緒に出羽国(羽後国)へ移り、幕末まで久保田藩(秋田藩)佐竹氏へ仕えます。この際、打越氏(内越家)(本家Ⅰ)は、佐竹氏の国替えと入れ替えに出羽国由利郡内越村から常陸国行方郡新宮郷へ加増国替えになり(約1250石→約2000石)、大身旗本として新宮城主になります。なお、1605年(慶長10年)、徳川秀忠が征夷大将軍宣下を受けるために宮中へ参内する行列の六番(井伊、大久保、榊原、水野、土井、阿部、青山、真田、鍋島等の譜代家臣)の中に打越内膳正(内膳正とは、宮中の官職で宮内省長官のことですが、この日のために特別に付与された官職と思われます。)(本家Ⅰ)の名前が見られますが、打越(飛騨守)光隆と思われます。因みに、この行列の八番には上杉景勝、毛利秀元、京極高次、伊達政宗、福島正則、島津家久、佐竹義宣、最上義光など錚々たる名前が並んでおり、この行列に名前を連ねる名誉がどれほどのものであったのかが伺われます(東大寺雑集録/参204)。その後、1622年(元和8年)、江戸幕府は、最上氏の御家騒動に伴う改易により旧最上領であった出羽国を細分化して管理する方針に改め、再び、六郷氏が出羽国由利郡本荘、仁賀保氏が仁賀保、岩城氏が亀田、打越氏(内越氏)が矢島に国替えになります。これにより打越氏(内越氏)(本家Ⅰ)は常陸国行方郡新宮郷から出羽国由利郡矢島郷へ加増国替えになり(約2000石→約3000石)、交代寄合旗本(大名格遇格※)として八森城主になります(参68)。
※大名格待遇とは、一般の旗本とは異なり江戸城の控室として個室が与えられるなど大名と同等の身分的な特権が与えられる一方で、大名と同様に参勤交代を義務付けられること。
③御家断絶と再興(本家Ⅰ、分家Ⅳ、分家Ⅴ、分家Ⅷ)
1634年(寛永11年)、打越光久が高田馬場で頓死し、未だ嗣子がなかったことから、打越光久の末弟・打越光豊に家督を承継させるべく江戸幕府へ働き掛けが行われましたが、その願いは認められず御家は断絶します。この背景として、打越光久には婚外子(愛人の子)がおり、この婚外子と親戚関係にあった小笠原美濃がこの婚外子を打越氏(内越氏)(本家Ⅰ)の後嗣に推したことから家中を二分するお家騒動に発展し、御家断絶に至ったと考えられています(参27)。なお、これに先立ち、1629年(寛永6年)、打越光隆の次男・打越光種は将軍・徳川秀忠に拝謁して慶長出羽合戦(北の関ケ原の戦い)の軍功を高く評価され、徳川家光の近侍として上洛に供奉します(寛政重修諸家譜(巻二百五)/参6)。その後、打越光種は徳川将軍家へ仕官を許されて御家を再興し(本家Ⅰ)、幕末に至るまで将軍直属の親衛隊である御所院番や大奥等の警備にあたる御留守居番を歴任します(寛政重修諸家譜(巻二百五)/参6)。また、1631年(寛永8年)、打越佐吉(系流不明)が津軽藩津軽氏へ仕官しています(分家Ⅳ)(参69)。このように相次いで打越氏(内越氏)の庶流が他家へ仕官していますが、世は太平に定まり、家督を相続できない庶流は軍功で身を立てることができず、また、合戦で領地を広げること(即ち、分家に分け与えるための領地を確保すること)も不可能になったので、他家へ仕官するしか身を立てる術がなかったのではないかと考えられます。そのような状況のなか婚外子に家督を継がせることに対する家中の反発がお家騒動にまで発展したのではないかと推測されます。
その後、打越光隆の長女・打越センが初代津軽藩主・津軽(右京太夫)為信の養女になっていたことから(その後、打越センは津軽藩家老・津軽伊豆の妻、その娘は津軽藩家老・津軽美作の妻)、その縁故を頼って、打越光隆の三男・打越(金右衛門)光清、同四男・打越(半四郎主殿)光春及び同五男・打越(伝七郎)光豊が第2代津軽藩主・津軽(越中守)信枚へ仕官し(分家Ⅳ)、打越氏(分家Ⅳ)は津軽氏の親戚ということで津軽氏の家紋「卍紋」の使用を許されます(打越氏御先祖様代代覚書控/参10)。同四男・打越(半四郎主殿)光春は津軽藩の大目付など重臣として重用されますが(参70)、江戸幕府から津軽藩のお家騒動(舟橋騒動)の責任を問われて失脚し、その後、打越(半四郎主殿)光春は行方知れず、打越(金右衛門)光清は盛岡藩南部氏の家臣・秋田氏の養子となり(分家Ⅷ)、打越光豊とその子・打越光忠は出羽国へ戻って浪人し、その他の一族は幕末まで弘前藩津軽氏に仕えます。その後、出羽国で浪人していた打越光忠は、第2代津軽藩主・津軽(越中守)信枚の叔父・津軽十郎左衛門の取り計らいにより陸奥国津軽郡小湊郷に屋敷を与えられます(昔は、打越屋敷があった場所に石碑が建っていたそうですが、現在、その場所は不明)。1688年(元禄元年)、打越光忠の次男・打越光長が第5代将軍・徳川綱吉の側用人・柳沢吉保に拝謁し、同じ源(新羅三郎)義光の血を引く甲斐源氏の系流であるという理由(柳沢氏は武田氏旧臣)から柳沢氏(当時は上総国佐貫藩主)に召し抱えられます(分家Ⅴ)。1690年(元禄3年)、柳沢吉保が上総国佐貫藩で2万石加増されたことに伴い、打越光忠の三男・打越光登が柳沢氏に召し抱えられ、また、1692年(元禄5年)、柳沢吉保が上総国佐貫藩で更に3万石加増されたことに伴い、長男・打越光永及び四男・打越光棟が相次いで柳沢氏に召し抱えられます(参27)。その後、柳沢氏の加増国替えに伴って、打越氏(分家Ⅴ)も武蔵国川越藩、甲斐国甲府藩、大和国郡山藩へ移り、幕末まで大和郡山藩柳沢氏に仕えます。
④その他(分家Ⅵ、分家Ⅶ、分家Ⅸ、分家ⅩⅣ)
1602年(慶長7年)、出羽国秋田郡の秋田実季は、関ケ原の戦いで中立的な立場をとった佐竹氏が出羽(羽後)国へ減封国替えになると、これと入れ替えに出羽国から常陸国(宍戸藩)へ国替えになります。その後、1645年(寛永21年)、その子・秋田俊季の代に常陸国(宍戸藩)から陸奥国(三春藩)へ国替えになり、1659年(万治2年)、その子・秋田盛季の代に陸奥国三春藩の破損手代(建造物の営繕、材木の管理を掌った役職)として打越六兵衛の名前があります(分家Ⅳ)(万治二年家中給人知行高扶持切米高覚/参71)。但し、どのような経緯で三春藩秋田氏へ仕官し、また、その末裔がどうなったのかなどの仔細は分かっていません。
1670年(寛文10年)、陸奥国磐城平藩第3代藩主・内藤義概は、その弟・内藤政亮に1万石を分与して陸奥国湯長谷藩(映画「超高速!参勤交代」に登場)を立藩させますが、1676年(延宝4年)、磐城平藩の大納戸衆として打越新兵衛の名前があります(分家Ⅶ)(参73)。但し、どのような経緯で磐城平藩内藤氏へ仕官し、また、その末裔がどうなったのかなどの仔細は分かっていません。なお、内藤義概は教養人としても知られ、近代筝曲の開祖・八橋検校は1663年(寛文3年)まで磐城平藩の専属音楽家として召し抱えられており、打越新兵衛も八橋検校の演奏を拝聴する機会に恵まれたかもしれません。その後、1747年(延享4年)に磐城平藩内藤氏は陸奥国から日向国(延岡藩)へ国替えになります。
1582年(天正10)年、能登畠山氏の重臣(畠山七人衆の1人)であった長氏は、能登畠山氏の滅亡後、七尾城主となった加賀藩前田氏に仕官替えし、その重臣(加賀八家の1人)として半大名的な立場で独自の領地経営(能登国鹿島郡の半分:3万3千石)を認められます。1666年(寛文6年)、長連頼は、領地の隠田検知(年貢の徴収を免れるために密かに耕作して隠し持っている水田の検知)を実施しますが、この検知に検地大奉行・三宅善丞、検地奉行・小川三郎左衛門、河嶋治兵衛、横目・堀部新助、帳付・打越半右衛門、宮崎兵三、竿取・高橋八右衛門と、これに郡奉行・代官らが参加したという記録が残されています(分家Ⅸ)(参72、245)。その翌年、この隠田検知に端を発して長氏の譜代家臣・浦野(孫右衛門)信秀とこれに同調する百姓が中世の土豪的な土地支配による既得権益を守るために加賀藩前田氏へ検地反対越訴を企てる事件(浦野事件)が勃発しますが、加賀藩前田氏はこれを奇貨として、長氏の責任を追及する形でその領地を没収し、以後、長氏は加賀藩前田氏の家臣(但し、禄高は3万3千石)として加賀国金沢郡への移住を命じられます。因みに、長氏中興の祖・長信連は、源頼朝から能登国大屋荘を下賜され、その後、由利小藤太の後家を娶っていますので、出羽国由利郡との関係は深かったと推測されます。
1491年(延徳2年)、京都上賀茂神社の荘園であった加賀国金津荘の与知村(現、石川県かほく市余地)の土地(童子丸名)を支配していた土豪として打越新兵衛の名前があります(金津荘村名別公事銭等納帳/参74)。その出自は定かではありませんが、経済的又は人的関係を梃子にして金津荘以外の土地から入部し、金津荘の荘園経営には直接関与せず、専ら軍事的な面で一向宗徒(本願寺)と深い結び付きを持っていたようなので、打越氏(内越氏)(分家Ⅰ)(石山本願寺合戦で、顕如上人からの要請に応じて打越三郎左衛門が紀伊国雑賀荘・鷺森城を守備し、また、同じく鷺森城を守備していた楠木正意が本願寺合戦後に出羽国由利郡打越郷へ遁れていますので、一向宗徒とは深い関係にあったと考えられます。)の系流である可能性や美濃源氏流打越氏の系流である可能性(注2-2)などが考えられます。また、この時期は、打越氏(内越氏)(分家Ⅰ)の庶流が常陸国へ移住した時期とほぼ同時期であり、打越氏(本家Ⅱ)が初めて記録に登場するのが1531年(享禄4年)であることを考え併せると、打越氏(内越氏)(本家Ⅰ)の庶流が加賀国へ移住した可能性も考えられます(注45)。なお、打越氏(分家Ⅸ)は一向宗徒の拠点である加賀国江沼郡打越(現、石川県加賀市打越町)が発祥であるとする説もありますが、加賀国江沼郡打越の地名は1491年(延徳2年)より50年以上も経過した天文日記の1548年(天文17年)4月7日の条に初めて記録が登場しますので(石川県加賀市打越町の菅原神社の由来書きより)、同地が発祥である可能性は低いと考えられます。
1730年(享保15年)頃、藩主・水野忠輝の代に岡崎藩水野氏の藩医(外科)として打越(宗三)世衡が仕官します(分家ⅩⅣ)(参250)。水野忠輝は、徳川家康の生母・於大の方(伝通院)の実父(徳川家康の外祖父)・水野忠政の末裔にあたり、後世、天保の改革を行った老中・水野(越前守)忠邦を輩出しています。打越(宗三)世衡の俸禄は20口及び薬品料として金一枚で、これは律令制度下の縦四位又は正五位の官位に与えられる俸禄ですが(他の藩医と比べると高い俸禄)、藩医は藩主等の診療にもあたることから、形式上、高い身分が与えられて厚遇されました。その後、1764年(明和元年)に薬品料として金二枚に昇給し、また、1768年(明和5年)に俸禄25口に昇給していることから、医師としての技量は高く評価されていたものと思われます。1762年(宝暦12年)、水野氏は岡崎藩(三河国)から唐津藩(肥前国)へ国替えを命じられ、打越(宗三)世衡も従っています。1771年(明和8年)、打越(宗三)世衡は他界しますが、どのような経緯で岡崎藩水野氏へ仕官し、また、その末裔がどうなったのかなどの仔細は分かっていません。
(注21)親川楠家系図の世代数
親川楠家系図によれば、非常に短い期間で頻繁に家督相続が行われていることから、直系卑属(子)だけではなく傍系血族(兄弟)にも家督が相続されていた可能性が考えられます。なお、現在では「楠木」と表記するのが一般的ですが、これは明治時代になって大政官修史館でそのように表記することを決定した時代以降のことであり、太平記の諸本や徳川光國が編纂を指示した大日本史等の古文書では「楠木」ではなく「楠」と表記しているものが多いです。(但し、このWEBでは、便宜上、「楠木」に表記を統一しています。)
(注22)打越氏(内越氏)(本家Ⅰ、分家Ⅰ)の通称
打越左近(但し、打越光隆のことかは不明)は「金沢少尉正家」の子孫であると公称していたようですが(参75、76、岩倉館/参113)、これは楠木正家が出羽国仙北郡打越郷(現、大沢郷寺)(参10、11)に打越城を構える前に守備していた出羽国平鹿郡横手郷の金沢柵(城)に由来する楠木正家の通称で、「金沢」は金沢柵(城)、「少尉」は楠木正成や楠木正行も拝命していた武官職名、「正家」は諱になります。
(注23)出羽国由利郡から常陸国久慈郡(後に那珂郡)への進出
打越伊賀守が江戸(但馬守)道勝(=道房)に仕官した詳しい経緯等については古文書等に記録が残されておらずその詳細を知ることはできませんが、常陸江戸氏(旧、那珂氏)が独自の家臣団を形成するにあたり楠木正家の後裔である打越伊賀守を召し抱えた可能性が考えられます。その後、打越伊賀守は、嫡男・打越豊後守に家督を譲り、かつて南朝勢力であった肥後国・菊池氏の庶流で常陸江戸氏に召し抱えられていた菊池内膳の姉妹と婚姻関係を結ぶと共に(参21)、二男を大戸村庄屋、三男を中根村庄屋として分家(帰農)させます(参16、65)。この点、中根村庄屋の打越家は1594年(文禄三年)に三反田村の打越家から三男・勘解由が分家して誕生したと解説しているものもありますが、もっと古い時代から分家(帰農)として存在していたと考えられます。時代は下って、徳川斉昭が戦国時代以来の旧家として打越家を訪れたという記録が残されています(参78)。また、打越光久の頓死に伴う御家断絶にあたり内越孫四郎(分家Ⅰ)が出羽国由利郷から江戸へ上って徳川光圀に御家再興を願い出たところ、徳川光圀から旗本として召し抱えるので兄・内越孫二郎正朝の子息も連れて出仕するように申し渡されていることから(親川楠家系図/参11)、打越伊賀守の子孫(分家Ⅱ)以外にも水戸徳川家へ召し抱えられた家があると考えられます。なお、水戸藩、久保田藩及び津軽藩等には、打越氏(内越氏)のうちどの系流に属するのか分からない複数の家が仕官していた可能性がありますが、打越氏(内越氏)の惣領家である打越氏(内越氏)(本家Ⅰ)に関する記録は比較的に詳しく残されていますので、あまり詳しい記録等が残されていない打越氏(内越氏)(分家Ⅰ)の系流から複数の者がそれらの藩に仕官していた可能性が考えられます。
(注24-1)楠木氏の出自と系図
楠木氏の出自には諸説あり確かなことは分かりませんが(参215)、駿河国入江荘長崎郷楠村(鎌倉幕府内管領・長崎氏の領地)を支配して楠(楠木)氏を名乗ったという説(但し、紀伊国牟婁郡新宮村字楠藪とする説も有力(参48))があります(参79、80、81)(注18)。上述のとおり、武家の名字は天皇(又は天皇が土地の分配権を委嘱した幕府)から下賜された土地の支配権を示すためにその地名(名田の字)を名乗るのが通例で、その発祥地には武家の名字の由来となった同一の地名が存在します(これとは逆にその土地を支配する武家の名字と同一の地名に変更された例もあります)。1285年(弘安8年)、霜月騒動を契機として楠木氏が河内国観心寺荘へ入部し、河内和田氏から娘婿を迎えて楠木氏の家督を承継させ、その子孫に楠木正成が誕生したという説(但し、楠木正定がその娘を橘盛仲へ嫁がせ、その孫に楠木正成が生まれたとする説も有力(参48))があります(参50)。楠木正成(22歳)が楠木氏の家督を承継した翌年1316年(正和5年)、北条得宗家に所領を没収された大和国・越智(四郎)邦永が謀反を起こし、六波羅探題がその鎮圧に失敗したことから、楠木正成が執権・北条高時の命で越智邦永を討伐しています(大和国越智家系図/参209)。その後、1322年(元亨2年)、楠木正成(29歳)は、執権・北条高時の命で鎌倉幕府に反抗する摂津国・渡辺右衛門尉(鎌倉将軍家譜/参211)及び紀伊国・湯浅氏(安(保)田庄司)(高野春秋編年輯録/参82)を討伐し、湯浅氏の領地を恩賞として与えられていることから(参210、223)、楠木氏は、鎌倉幕府と主従関係を結ばない悪党(非御家人)ではなく、北条得宗家の被官として北条得宗家の命で鎌倉幕府に反抗する勢力の鎮圧にあたりながら、大和川の水運を支配し、河内国、紀伊国及び摂津国等に勢力を伸ばしていった御家人であったと考えられます。なお、楠木氏の家督を承継した嫡流・楠木正成以外の一族はそのまま和田氏を名乗り又は復姓している者も多く(注18)、楠木正成の弟・楠木正季の墓(寶國寺)には和田と刻まれ(「楠木正成弟和田次郎正季、嫡子和田和泉守重次 墓碑」)、また、楠木正季の子(楠木正成の甥)は和田賢秀を名乗っています(参83、84)。さらに、公家・二条道平の日記「後光明照院関白記」に「楠の木の 根は鎌倉に 成ものを 枝を切りにと 何の出るらん」という落首が記録されていることや「吾妻鑑」の1190年(建久元年)11月7日の日記に源頼朝に従って上京した兵のうち殿隊42番として楠木四郎の名前が記録されていることなどからも、楠木氏は鎌倉幕府の御家人であった可能性が高く(注18)、上述のとおり1285年頃に楠木氏が河内国観心寺荘へ入部して在地勢力の河内和田氏と姻戚関係を結び、その人的ネットワークをフルに活用したのではないかと推測されます(参212)。なお、上記の殿隊第42番(3人1組)には楠木四郎のほかに武蔵七党の忍三郎及び忍五郎の名前が記録されていますが、映画「のぼうの城」で佐藤浩二さんが演じた忍城の城代家老・正木丹波守利英(忍氏は成田氏に滅ぼされ、その末裔が正木氏を名乗って成田氏に仕えたと言われています。)は楠木氏の末裔と言われていることから(高源寺にある忍城戦死者慰霊碑には菊水紋が刻まれています。)、楠木氏と忍氏との間で姻戚関係が結ばれた可能性が考えられます。なお、時代は下って、忍藩御使番・楠五郎兵衛という人がいますが、摂津国から下向した人で楠木四郎との関係は確認できていません(参213、214、215)。因みに、小田原征伐で北国軍(大将:前田利家、副将:上杉景勝、真田昌幸)の信濃衆に編成された打越(宮内少輔)光重は、八王子城を陥落した後に忍城責めにも参加していた可能性があり、同じ楠木氏後裔の正木氏と打越氏が敵味方に別れて戦ったのではないかと考えられます。楠木氏の家系図は複数の異なる家系図が存在して錯綜しており、そのいずれが正確なものなのか(いずれも正確ではない可能性を含む)は歴史の闇に埋もれていますが、1つの可能性として、①橘諸兄の孫・橘島田麻呂の第四子・橘眞主が熊野連多賀志麿の娘の婿養子に入り、その玄孫に熊野廣方が生まれたこと、②熊野廣方が橘良植の娘の婿養子に入り、その曾孫に橘良冬が生まれて和田氏を名乗ったこと(本姓は橘氏、名字は和田氏で、熊野国造系和田氏、河内和田氏の祖)、③和田(橘)良冬の後裔(和田(橘)正俊か?)又は橘成仲の祖父が楠木氏へ婿養子に入ったこと、④その後裔(楠木(橘)正遠か?又は楠木(橘)正玄か?)が橘成仲の娘を娶り又はその後裔(楠木正定か?)の娘が橘成仲に嫁いで楠木(橘)正成又は楠木(橘)正遠が生まれたこと、⑤楠木(橘)正遠の叔父(和田(橘)正光か?)の子として和田(橘)正家が生まれ又は和田(橘)正家が楠木(橘)正遠の娘の婿養子に入り、楠木氏の家督承継権がある者として楠木氏を名乗ったことなどの仮定(図表5を参照)を前提として、いつの時点におけるどの系流を基軸とした家系図を作成したのかによって複数の異なる家系図が作成されるに至ったのではないかと推測されます。なお、親川楠家系図にも共通しますが(注21)、惣領家の当主の逝去(戦死や病死等)に伴ってその子に代わりその兄弟(叔父)が惣領家の家督を承継することは珍しくなかったようで(例えば、大河ドラマ「麒麟が来る」で明智氏の家督が嫡男の明智光秀ではなく叔父の明智光安に承継されている例など)、当主の子はその兄弟(叔父)が養父となって育てることも珍しくなかったのではないかと思われます。この点、現代のように家(世帯)の捉え方が細分化されておらず、惣領制を前提として惣領家(本家)及び庶子家(分家)を一体のもの(一門)として捉える考え方が強かったと考えられ、それが一層と家系図を読み解き難いものにしています。
(注24-2)打越氏(内越氏)の姻戚関係と血脈
狩猟採取を中心とする先史時代の日本は、母系社会であったと言われていますが、やがて農耕牧畜による定住生活が普及するにつれて社会が形成され、その富の分配を巡って争いが頻発するようになると、力の強い男が富を独占して徐々に父系社会へと移り変わります。その後、大和朝廷が中国の国家制度に倣って父系社会を本格的に導入したことにより、日本は母系社会から父系社会へと変遷しました。やがて武家社会の到来により、その富の分配を巡って争いが激化すると、それを避けるために嫡流による富の単独承継(土地の単独相続)が一般化し、これに伴って家系図は父系嫡流のみで作成されるようになり、父系庶流や女系の記録は殆ど残されなくなります。なお、現代では、平等社会と貨幣経済の浸透により富の分割承継(金銭の分割相続)が一般化し、(現行制度の中にも多少は父系社会の名残がありますが)基本的に嫡流又は庶流や父系又は母系に関係なく戸籍という形で家系図が記録されるようになりました。そこで、下表には、限られた記録の中から打越氏(内越氏)の父系庶流や女系の血脈をまとめています。小笠原氏、酒井氏(松平氏同族)や朝比奈氏(武田氏旧臣)等と姻戚関係が結ばれた例が多いですが、少し変わったところで、大名家の津軽(南部)氏や伊集院(島津)氏、弁慶の父・湛増の末裔である鵜殿氏や斎藤道三の末裔である松波氏等との姻戚関係が結ばれているのが注目されます。なお、由利十二頭及び雑賀衆の中で行われた姻戚関係については、その詳細が不明であり、その数も相当に多いと考えられることから下表に含めていません(注11)。
血流 | 系流 | 打越氏 | 他氏 | |||
家主 | 続柄 | 名前 | 続柄 | 家主 | ||
入 | 分家Ⅰ | 楠木正家 | 婿養子 | 内越義和 | 実父 | 小笠原大和守 |
入 | 分家Ⅱ | 打越政徳 | 婿養子 | 打越直正 | 実父 | 米川彦右衛門 |
入 | 本家Ⅰ | 打越光種 | 婿養子 | 打越光業 | 実父 | 鵜殿長直 |
入 | 本家Ⅰ | 打越光高 | 妻 | ? | 実父 | 朝比奈泰周 |
入 | 本家Ⅰ | 打越光保 | 妻 | ? | 実父 | 美濃部茂済 |
入 | 本家Ⅰ | 打越光保 | 婿養子 | 打越光輪 | 実父 | 松波正春 |
入 | 本家Ⅰ | 打越光輪 | 婿養子 | 打越光中 | 実父 | 朝比奈泰輝 |
入 | 本家Ⅰ | 打越光中 | 妻 | ? | 実父 | 酒井忠利 |
入 | 本家Ⅰ | 打越光広 | 妻 | ? | 実父 | 拓殖兄典 |
入 | 本家Ⅰ | 打越金之助 | 妻 | ? | 実父 | 小笠原大隅守 |
出 | 本家Ⅰ | 打越光隆 | 三男 | 打越光清 | 婿養子 | 秋田金左衛門 |
出 | 本家Ⅰ | 打越光隆 | 長女 | 打越セン | 妻 | 津軽伊豆 |
出 | 本家Ⅰ | 打越光種 | 長女 | ? | 妻 | 内藤彰政 |
出 | 本家Ⅰ | 打越光種 | 次男 | 打越政英 | 婿養子 | 酒井重政 |
出 | 本家Ⅰ | 打越光高 | 長女 | ? | 妻 | 小笠原頼貴 |
出 | 本家Ⅰ | 打越光高 | 次男 | 打越政栄 | 婿養子 | 酒井政英 |
出 | 本家Ⅰ | 打越光輪 | 長女 | ? | 妻 | 小笠原義武 |
出 | 分家Ⅻ | 打越房勝 | 長女 | ? | 妻 | 伊集院忠眞 |
出 | 本家Ⅲ | 打越義方 | 長女 | ? | 妻 | 下川五郎右衛門 |
※ 打越センの娘は津軽美作の妻。
※ 打越光輪(本家Ⅰ)の三女は、徳川家斉将軍の長女・淑姫の侍女として仕え、1799年(寛政11年)の尾張藩主・徳川斉朝への輿入に御供。
※ 添田貞俊の子・盈章及び添田貞盈の子・貞順はいずれも津軽藩家老。