打越氏(内越氏)は、清和天皇及び物部氏族熊野国造系和田氏を源流とし、南北朝の動乱を契機として、河内(甲斐)源氏流小笠原氏(本姓源氏)と楠木正成の弟又は従弟・楠木正家(本姓橘氏)とが姻戚関係を結んで発祥した氏族であり、戦国時代、小田原征伐、関ケ原の戦いなどを契機として出羽国由利郡で勢力を伸ばし、1系統17流(本家3流、分家14流)の系流に分かれながら日本全国へ進出して行った同祖同根の氏族です。現代に残る限られた古文書等から、その歴史的な事跡を明らかにします。

第4部第3巻 打越(内越)氏にゆかりの場所(第3段)

第3段 その他(打越(内越)氏の墓碑等)
打越氏が集中的に分布している以下の地域を中心として、打越氏の墓碑(家紋)を調査(墓参り)しています。
 
東国における南朝勢力の拠点:茨城県(1位)
中央における南朝勢力の拠点:兵庫県(2位)大阪府(4位)和歌山県(7位)
西国における南朝勢力の拠点:鹿児島県(6位)福岡県(9位)熊本県(13位)
 
但し、上記のうち「大阪府(4位)」「福岡県(9位)」及び「東京都(3位)・神奈川県(8位)・千葉県(11位)・埼玉県(12位)」については、経済の中心地として全国から人口が集中しているという現代的な要因により打越氏の分布が多いものと考えられ、この地域の打越氏の墓碑(家紋)を調査しても土地の歴史を紐解くヒントにならないと考えられることからフィールドワークの対象から外しています(注3)(注35)(注39)。また、「北海道(5位)」については、主に北方警備を開始した幕末から蝦夷地開拓を本格化した明治維新以後の歴史となりますので、どこから入植した可能性があるのかを中心に調査しています。
 
第1節 その他(東国にある打越氏の墓碑)
大乗寺北海道上磯郡知内町元町282
②知内公園(北海道上磯郡知内町元町128
打越氏(分家?)の墓碑(木瓜紋知内町松前藩の領地ですが、若狭武田氏が青森県むつ市に移住して南朝勢力であった南部師行の家臣となり、その後、松前藩を立藩して独立しています。 打越氏(分家?)の墓碑(木瓜紋木瓜紋は打越氏(本家Ⅱ、分家Ⅹ、分家Ⅺ、分家Ⅻ、分家ⅩⅢ)の系流が使用していますが、いずれの系流に属するのか不明です。関西圏から入植している可能性があります。 打越氏(分家?)の墓碑(木瓜紋/知内公園には木瓜紋を使用する河内和田氏の末裔と思われる墓も散見されます。 打越氏(分家?)の墓碑(木瓜紋/知内公園には菊水紋を使用する墓がありますが、もともとは和泉国和田を発祥()とする氏族と思われます。  
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真宗大谷派江差別院(北海道檜山郡江差町中歌町169
江差追分会館(北海道檜山郡江差町中歌町193-3
③海の駅開陽丸(北海道檜山郡江差町姥神町1-10
打越氏(分家?)の墓碑(蔦紋)/後述する高島墓地(小樽市)には石川県に分布する打越氏(分家Ⅳ)の墓(揚羽蝶紋)があり、同じく蔦紋を使用する打越氏が石川県に分布していることから、石川県(1491年(延徳2年)に打越新兵衛が加賀国金津荘の与知村(現、石川県かほく市余地)の土地(童子丸名)に他国から入部して加賀一向宗徒を支援していますが、打越氏(本家Ⅰ、分家Ⅰ)の庶流が浪人し又は石山本願寺に味方した雑賀衆・打越氏(本家Ⅱ)が加賀一向宗徒を軍事支援するために加賀国へ入部している可能性が考えられます。)から入植している可能性があります。 打越氏(分家?)の墓碑(蔦紋)真宗大谷派江差別院には、土方歳三の末裔と思しき墓があります。 江差追分会館鈴鹿峠を超える際に唄われた馬子唄が信濃追分になり、それが瞽女や座頭、北前船によって信濃から日本海に沿って北陸、東北、北海道へと伝えられて江差追分が誕生してしています。姥神町という地名にもなっている「にしん伝説」が残る「にしえ街道」は昔風情が残り、にしん蕎麦が名物になっています。 海の駅開陽丸/開陽丸に乗った榎本武明や土方歳三五稜郭を占拠すると江差に上陸しますが、荒波によって開陽丸は座礁沈没します。海の駅開陽丸には、復元された原寸大の開陽丸が展示されています。  
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①禅源寺(北海道古平郡古平町浜町368
羊蹄山北海道虻田郡ニセコ町
③ウポポイ(民族共生象徴空間)(北海道白老郡白老町若草町2丁目3
打越氏(分家?)の墓碑(三つ柏紋)/前源寺は曹洞宗ですが、三つ柏紋は雑賀氏と姻戚関係を結んだ打越氏(分家Ⅹ)の系流が使用していますので、関西圏から入植している可能性があります。 打越氏(分家?)の墓碑(三つ柏紋) 打越氏(分家?)の墓碑(三つ柏紋) 羊蹄山(えぞ富士)/外国人観光客に人気の観光地・ニセコ(羊蹄街道)から臨む羊蹄山(えぞ富士)。 ウポポイ(民族共生象徴空間)/千歳空港から近隣にアイヌ文化を紹介するウポポイ(民族共生象徴空間)が近く開館される予定です。また、千歳空港からほど近い北海道沙流郡平取町二谷風や少し遠方にはなりますが北海道釧路市阿寒町阿寒温泉には、実際にアイヌの集落があった場所が残されており、アイヌの自然に触れ、アイヌの文化を体感し、アイヌの料理を食べられるなどお勧めの観光スポットがありアイヌ文化を広げるために精力的に活動している若者もいて非常に面白い場所です。さらに、千歳空港に出店しているアイヌモシリ三光では、アイヌの民芸品(アイヌ文様が施された小物、アイヌの伝統楽器やアイヌの民芸品など、ここでしか手に入れられないユニークなものが販売されていますので立ち寄られることをお勧めします。
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①高島墓地(北海道小樽市祝津2-382
①祝津パノラマ展望台(北海道小樽市祝津3-282
③篠路兵村(北海道札幌市北区屯田8条10丁目9
秋田藩元陣屋第二台場跡(北海道増毛郡増毛町別苅1
打越氏(分家?)の墓碑(揚羽蝶紋)/石川県に分布する打越氏(分家Ⅳ)の墓(揚羽蝶紋)と同紋でありがあり、石川県から入植している可能性があります。なお、真宗大谷派江差別院には石川県に分布する打越氏の同じ蔦紋を使用する墓も安置されています。 打越氏(分家?)の墓碑(揚羽蝶紋) 祝津パノラマ展望台/高島墓地は石狩湾を一望できる高所に位置しています。津軽三味線名人・高橋竹山の生涯を歌った北島三郎の風雪ながれ旅で歌われている留萌方面や、積丹半島も一望できます。 篠路兵村紀州徳川家に仕官していた打越留吉(本家Ⅱ)が篠路屯田兵として入植し、屯田4番通沿いにあるホクレンショップ屯田8条店ある区画の隣りの区画(屯田8条10丁目9)を開拓しています。 秋田藩元陣屋第二台場甲斐源氏の系流である津軽藩(南部氏流津軽家)や秋田藩(佐竹氏)は松前藩(若狭武田氏流松前家)と共に北方警備を任されており、ロシア等の外国船を警戒するために、増毛町秋田藩元陣屋跡秋田藩元陣屋第一台場普伝寺跡津軽藩陣屋跡水戸藩主宿営地)、稚内町、斜里町等に出兵しています。普伝寺跡には、この地で殉死した秋田藩士・打越角左衛門の墓があったと言われています。
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恵林寺青森県弘前市西茂森1-6-1
恵林寺曹洞宗秋田県由利本荘市の惠林寺とどのような関係にあるのか分かりません。打越氏の家臣に今泉光家という人物がいましたが、境内にはその末裔と思われる墓碑(丸に中陰橘紋)もあります。 打越氏(分家Ⅳ)の墓碑(三階菱紋)/他氏ですが三つ引両紋から松皮菱紋への替紋(譲与紋)の例 打越氏(分家Ⅳ)の墓碑(三階菱紋)青森県に分布している打越氏は発祥当時の名残りから「ウテツ」と発音しているようです。    
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善導寺青森県北津軽郡中迫町深郷田富森109
善導寺(浄土宗) 打越氏(分家Ⅳ)の墓碑(丸に隅田て四ツ目結紋) 打越氏(分家Ⅳ)の墓碑(丸に隅田て四ツ目結紋) 金木武田氏の末裔と思しき墓碑(割菱紋)善導寺に隣接する雲祥寺金木武田氏の菩提寺です。大浦為則の弟・大浦守信が堀越城主・武田重信の娘の婿養子に入って大浦城から堀越城へ移り、その後、南部久慈氏流の津軽為信を養子として迎えています(津軽氏の祖)。 金木武田氏の末裔と思しき墓碑(丸に隅田て四ツ目結紋)/第4代藩主・津軽信政の時代に金田新田の開拓や治水等に従事した武田源左衛門(櫛引源左衛門)の末裔の方である可能性も考えられます。
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大慈寺岩手県遠野市大工町9-20
大慈寺曹洞宗南北朝の動乱南朝方に与した甲斐源氏小笠原氏流・南部家の分家である根城南部家(通称、八戸家)の菩提寺で、南部師行は石津の戦いで北畠顕家と共に討死しています。大慈寺の近くに遠野物語を執筆するために柳田国男が逗留した高善旅館跡があります。 打越氏(系流不詳)の墓碑(丸に蔦紋)/両隣に小笠原氏(松皮菱紋)と菊池氏(左違い鷹羽紋)の墓碑があります。  小笠原氏の墓碑(三階菱紋)/加賀美遠光の二男が小笠原長清、三男が南部光行で、小笠原氏の墓碑も数多く安置されています。 菊池氏の墓碑(左違い鷹羽紋)南朝方であった菊池氏は肥後国から陸奥国青森県八戸市)へ上陸し、同じく南朝方であった根城南部家を頼って岩手県遠野市に分布しています。その関係で遠野市菊池市は友好都市となっています。  
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①浄光寺(茨城県ひたちなか市館山9015
②聴法寺(茨城県ひたちなか市平磯町550
浄光寺(浄土真宗本願寺派/打越伊賀守が城主を務めた立(館)山城跡にあります。 打越氏(分家Ⅱ)の墓碑(丸に一文字三ツ星紋)茨城県には永井氏(丸に一文字三ツ星紋)が分布していますが、出羽国置賜郡長井荘を支配した大江氏流長井氏の庶流なので、打越氏とは遠戚関係になります。 聴法寺(浄土真宗大谷派 打越氏(分家Ⅱ)の墓碑(丸に一文字三ツ星紋) 打越氏(分家Ⅱ)の墓碑(丸に一文字三ツ星紋)
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常教寺(茨城県ひたちなか市館山9011
常教寺(浄土真宗本願寺派/打越伊賀守が城主を務めた立(館)山城跡(浄光寺の向かい)。佐竹氏の末裔伊達氏の末裔の墓碑もあります。 打越氏(分家Ⅱ)の墓碑(丸に一文字三ツ星紋) 打越氏(分家Ⅱ)の墓碑(丸に一文字三ツ星紋) 梅原氏の墓碑(家紋不詳茨城県ひたちなか市釈迦町(旧住所、那珂湊町字打越前)にいた打越清左衛門の別家として梅原(打越)覚兵衛がいました(「那珂港名所圖画全」より)。梅原氏は、出羽国仙北郡梅原郷を領有していた藤原頼忠の曾孫・元勝が梅原を名乗ったことが発祥という説と、浄光寺を開山した藤原(隼人佑)頼貞が薩摩国梅原郷に居を構えていたことから梅原を名乗るようになり、そこから常陸国笠間郡稲田郷へ移住(その後、常陸国那珂郡枝川郷へ転居)したことが発祥という説(「那珂湊市史料第4集」より)の2説があります。梅原氏の本紋は梅鉢紋ですが、現在は替紋の抱き茗荷紋を使用している家が多いようです。  
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正安寺(茨城県ひたちなか市中根3542
正安寺(浄土真宗大谷派/1860年(万延元年)に常陸府中藩主・松平(播磨守)頼策から八角葵紋の五条袈裟を拝領し、それを寺紋とします。境内には徳川氏の墓碑武田氏の墓碑があります。 打越氏(分家Ⅱ)の墓碑(丸に一文字三ツ星紋) 打越氏(分家Ⅱ)の墓碑(丸に一文字三ツ星紋) 打越氏(分家Ⅱ)の墓碑(丸に一文字三ツ星紋) 打越氏(分家Ⅱ)の墓碑(丸に一文字三ツ星紋) 
打越氏(分家Ⅱ)の墓碑(丸に一文字三ツ星紋) 打越氏(分家Ⅱ)の墓碑(丸に一文字三ツ星紋) 打越氏(分家Ⅱ)の墓碑(丸に一文字三ツ星紋) 打越氏(分家Ⅱ)と他氏の共同墓碑(家紋不詳)/ 選択的夫婦別氏の墓碑なのでしょうか?核家族化が進むなかで、夫婦で双方の親の菩提を弔うための新しい墓碑の形と言えるかもしれません。  
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普岸寺(茨城県東茨城郡茨城町大戸1867
普岸寺(天台宗/現在、普岸寺は廃寺となり、如意輪寺(天台宗)茨城県東茨城郡茨城町小鶴1771)が菩提寺となっていると思われます。なお、この近隣には同じ一文字三ツ星紋の永井氏の墓の分布も確認できますが、出羽国置賜郡長井荘を支配していた大江氏流長井氏の末裔と思われます。打越氏は出羽国村山郡寒河江荘を支配していた大江氏流寒河江氏との間で姻戚関係を結んだ際に一文字三ツ星紋を譲与された可能性がありますので、永井氏と打越氏は遠戚関係にあると考えられます。 打越氏(分家Ⅱ)の墓碑(丸に一文字三ツ星紋)/この墓地の一番奥に「本家」の墓碑があります。なおこの墓地には越藤氏の墓碑(三階菱紋)が何基かありますが、越藤氏は茨城県(及び茨城県から移住した広島県)以外に分布がないことから、打越氏(分家Ⅱ)の別家と思われます。 打越氏(分家Ⅱ)の墓碑(丸に一文字三ツ星紋) 打越氏(分家Ⅱ)の墓碑(丸に一文字三ツ星紋) 打越氏(分家Ⅱ)の墓碑(丸に一文字三ツ星紋)
打越氏(分家Ⅱ)の墓碑(丸に一文字三ツ星紋) 打越氏(分家Ⅱ)の墓碑(丸に一文字三ツ星紋) 打越氏(分家Ⅱ)の墓碑(丸に隅立て四ツ目結紋)/この墓地の一番奥に「本家」の墓碑があり丸に一文字三ツ星紋であることから、打越氏(分家Ⅱ)の分家だと思われます。(小笠原氏と佐々木氏との間で姻戚関係を結んだ際に小笠原氏の家紋が譲与されたものと思われる墓碑岩手県盛岡市大慈寺町の祇陀寺)、男子を婿養子に入れる際に家紋を譲与するパターン) 打越氏(分家Ⅱ)の墓碑(丸に隅立て四ツ目結紋) 打越氏(分家Ⅱ)の墓碑(丸に隅立て四ツ目結紋)
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①教住寺(茨城県笠間市住吉1183
②龍隠院(茨城県笠間市平町253
教住寺(時宗信州善光寺会)/初代の常陸国守護職であった八田知家(小田氏の祖)の菩提寺  打越氏(系流不明)の墓碑(丸に梅鉢紋)/境内には武田氏の墓碑小笠原氏の墓碑もあります。 龍穏院(曹洞宗出羽国から常陸国に国替えになった秋田実季が建立。 打越氏(系流不明)の墓碑(丸に梅鉢紋)  
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堂山共同墓地(茨城県ひたちなか市中根字堂山1439
堂山共同墓地/堂山共同墓地は、出羽国由利郡から(かつて打越氏の祖・楠木正家が楠木正成の地頭代として守備した)常陸国那珂郡へ移り住み、江戸(但馬守)道勝に仕官した館(立)山城主・打越伊賀守の三男の末裔と思われる墓が安置されています。 堂山共同墓地/堂山共同墓地には、1864年(元治元年)の元治甲子の変で幕府軍・諸生党(保守派)の援軍・福島藩士の墓が安置されています。 堂山共同墓地 堂山共同墓地 堂山共同墓地 
堂山共同墓地 堂山共同墓地 堂山共同墓地 堂山共同墓地 堂山共同墓地
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華蔵院茨城県ひたちなか市栄町1-1-33
薬王院茨城県水戸市元吉田町682
華蔵院/全国で色々な打越氏の墓を見てきましたが、打越氏一門で最大級の墓華蔵院は、応永年間(1394~1428)に開基された真言宗智山派名刹で、境内からは那珂川の河口・那珂湊を一望 華蔵院 華蔵院 華蔵院 華蔵院
華蔵院 華蔵院/墓じまい? 華蔵院梵鐘/楠木正家が北朝方に敗れた瓜連城の戦いがあった3年後の1339年(延元3年)に制作された梵鐘で、鐘の銘文に源(佐竹)義長の名前が彫られています。なお、華蔵院には化け猫伝承があり、山門には猫瓦があります。 薬王院仁王門薬王院本堂は、1529年(享禄2年)に江戸(但馬守)通泰が建立。

薬王院
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祇園寺(茨城県水戸市八幡町11−69
祇園寺(曹洞宗徳川光圀が中国から心越禅師を招いて建立。境内には武田氏の墓碑小笠原氏の墓碑鈴木氏の墓碑雑賀衆鈴木氏)や菊池氏の墓碑(姻戚関係があります。)があります。 打越氏(分家Ⅱ)の墓碑(丸に一文字三ツ星紋) 打越氏(系流不詳)の墓碑(丸に剣梅鉢紋) 諸生党慰霊碑/元治甲子之変で佐幕派として戦った諸生党の慰霊碑で、境内には諸生党の代表者である市川三左衛門の墓碑もあります。  
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常盤共有墓地(茨城県水戸市松本町13−34
常盤共有墓地徳川光圀水戸藩士のために常盤共有墓地と酒門共有墓地(彰考館総裁・打越(樸齋)直正の墓がある)を解説しています。 常盤共有墓地/彰考館総裁・安積(澹泊)覚兵衛覚の墓で、水戸黄門の格さんのモデルになっています。なお、彰考館総裁・打越(樸齋)直正の同僚(先輩)です。 常盤共有墓地水戸藩儒学者藤田幽谷(父)、藤田東湖(子)の墓です。彰考館総裁・打越(樸齋)直正は藤田幽谷から高い評価を得ています。 常盤共有墓地藤田東湖の息子・藤田小四郎は筑波山で蜂起し、明治維新の端緒となった元治甲子之変を主導しています。 常盤共有墓地桜田門外の変を指揮した水戸藩士・関鉄之介の墓です。映画「桜田門外ノ変」では、大沢たかおさんが演じる主人公です。
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宗吾霊堂墓苑(千葉県成田市宗吾1-523-2
       
宗吾霊堂墓苑/丸に右違い鷹の羽紋。歌舞伎の人気演目「佐倉義民伝」の主人公・佐倉惣五郎(本名:木内宗吾)を祀る宗吾霊堂がある東勝寺墓地に安置されています。谷田部氏常陸国那珂郡三反田郷の隣接地を支配していた武家であり、何らかの関係がありそうなので打越氏(内越氏)(分家Ⅱ)の末裔ではないかと思われます。        
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第2節 その他(中央にある打越氏の墓碑)
真光寺(和歌山県和歌山市打越町1−38
真光寺(浄土真宗本願寺派楠木正成の甥で楠木正行や楠木正家らと共に四条畷の戦いで討死した和田賢秀が1336年(延元元年)に和泉国日野郡に開基し、後醍醐天皇の勅願所となった由緒ある真言宗「嘉祥寺」を移設、再興して、その後に浄土真宗に改宗して1464年(寛正5年)に蓮如上人によって寺号を「真光寺」と改められています。 真光寺(浄土真宗本願寺派/打越氏(本家Ⅱ)の発祥地である紀伊国海部郡宇須邑字打越にあります。 打越氏(本家Ⅱ)の墓碑(丸に木瓜紋/楠木氏と同族の河内和田氏の替紋と同紋。 打越氏(本家Ⅱ)の墓碑(丸に木瓜紋/楠木氏と同族の河内和田氏の替紋と同紋。 打越氏(分家Ⅹ)の墓碑(丸に中陰蔦紋)/打越氏と雑賀氏は姻戚関係を結んでいますが、雑賀氏の家紋「丸に蔦紋」の譲与紋と思われる「丸に中陰蔦紋」です。 
千光寺(和歌山県田辺市上秋津4514
千光寺(臨済宗妙心寺派紀州藩士・打越十左衛門の弟とその子が出家した寺。 打越氏(分家Ⅺ)の墓碑(丸に五本骨扇紋) 打越氏(分家Ⅺ)の墓碑(丸に五本骨扇紋)  佐武氏の墓碑(丸に五本骨扇紋)/打越氏(分家Ⅺ)と姻戚関係にあると思われる常陸源氏佐竹氏流佐武氏の墓碑。 楠木氏の墓碑(丸に五三桐紋)/境内には橘氏の墓碑(橘紋)や愛洲氏の墓碑(橘紋)が安置されています。
下菟野墓地(和歌山県田辺市伏菟野110
下兎野墓地(寺名・宗派は不明)雑賀衆・佐武(伊賀守)義昌(常陸国佐竹氏8代当主の佐竹貞義の庶子、佐竹師義が足利将軍家に仕えて栄えた庶流で、1570年(元亀元年)に軍功を挙げて足利義昭から「佐武」の姓を賜り佐竹から佐武へ改称)と姻戚関係を結んで佐武氏の「丸に日の丸扇紋」又は「丸に五本骨扇紋」を使用したと思われます。 打越氏(分家Ⅹ)の墓碑(丸に日の丸扇紋) 打越氏(分家Ⅹ)の墓碑(丸に日の丸扇紋) 打越氏(分家Ⅹ)の墓碑(丸に日の丸扇紋) 打越氏(分家Ⅹ)の墓碑(丸に五本骨扇紋)  
安楽寺和歌山県和歌山市磯の浦27
②安養寺(浄土宗和歌山県和歌山市禰宜198
安楽寺浄土真宗 打越氏(分家Ⅺ)の墓碑(丸に五本骨扇紋) 打越氏(分家Ⅺ)の墓碑(丸に五本骨扇紋) 安養寺(浄土宗) 打越氏(本家Ⅱ)の墓碑(橘紋)
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①聞光寺(和歌山県和歌山市禰宜198
②光恩寺(和歌山県和歌山市大垣内663
聞光寺(浄土宗) 打越氏(系流不明)の墓碑(丸に三つ柏紋)/打越氏と姻戚関係にあった雑賀衆及び根来寺と同紋。 光恩寺(浄土宗)根来衆雑賀衆へ初めて鉄砲を伝えた津田監物の子・津田算正が開基した寺。境内には徳川家康の三女・振姫の墓碑があります。 湯川氏の墓碑(割菱紋)甲斐源氏紀州武田氏湯川氏の菩提寺。打越氏が紀州藩に提出した系譜には光恩寺のある大垣内の堤防が紀の川の氾濫で決壊して4種類の系譜が流されたとあり、打越氏(本家Ⅱ)の居住地も大垣内にあった可能性があります。 津田氏の墓碑(五木瓜紋/津田算正は楠木正儀の末裔。
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①清蔵寺(和歌山県新宮市熊野川町西137
②椋井墓地(和歌山県新宮市熊野川町椋井65
③相賀墓地(和歌山県新宮市相賀436
清蔵寺(臨済宗妙心寺派 打越氏(分家Ⅺ)の墓碑(丸に五本骨扇紋) 打越氏(系流不明)の墓碑(五三桐紋)/皇室は菊紋と五七桐紋を伝統的に使用してきましたが、武家政権へ大政委任するにあたって五三桐紋を武家に下賜されることがありました。因みに、熊野速玉大社は神紋として皇室と同じく五七桐紋を使用しています。 打越氏(系流不明)の墓碑(五三桐紋) 打越氏(系流不明)の墓碑(下り藤紋)/初代熊野別当藤原氏と同紋。相賀の荒ぶる山の神(山崩れ)に自然信仰の原点が伺えます。
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西明寺兵庫県淡路市生穂2383
西明寺真言宗西明寺の隣には八咫烏を神紋とする賀茂神社があり、打越氏(系流不明)氏神になっています。 打越氏(系流不明)の墓碑(丸に梅鉢紋)雑賀衆は水軍を持ち、頻繁に阿波や淡路を往来していたので、雑賀衆・打越氏の庶流である可能性があります。 打越氏(系流不明)の墓碑(丸に梅鉢紋)  打越氏(系流不明)の墓碑(丸に梅鉢紋)  打越氏(系流不明)の墓碑(丸に片喰紋 
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正久寺(兵庫県淡路市佐野1322-3
正久寺(真言宗 打越氏(系流不明)の墓碑(丸に梅鉢紋)/境内には茨城県にも分布していた梅原氏(丸に抱き茗荷紋)の墓があります。なお、茨城県ひたちなか市釈迦町にいた打越清左衛門の別家として梅原(打越)覚兵衛がいました(「那珂港名所圖画全」より)。      
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西方寺(奈良県宇陀市榛原山辺三496
 
西方寺(融通念仏宗派)/西方寺がある大和国宇陀郡は宇陀三将と呼ばれる南朝方の武将・秋山氏、沢氏及び芳野氏が支配した土地で、楠木正成の本領である河内国楠木正成の妹を嫁がせた服部家がある伊賀国を結ぶ初瀬街道の中間に位置。境内には小笠原氏の墓碑もあります。 打越氏(系流不明)の墓碑(丸に上がり藤に左違い鷹羽紋)/本紋は丸に左違い鷹羽紋で、上がり藤は他氏との婚姻関係による替紋と思われます。 打越氏(系流不明)の墓碑(丸に上がり藤に左違い鷹羽紋) 打越氏(系流不明)の墓碑(丸に左違い鷹羽紋  打越氏(系流不明)の墓碑(丸に左違い鷹羽紋 
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①立政寺(岐阜県岐阜市西荘3丁目7−11
②東鏡島霊園(岐阜県岐阜市鏡島中1-10−52
③西鏡島霊園(岐阜県岐阜市鏡島西1-13−9
④安祥院(岐阜県岐阜市西荘3丁目7−11
打越氏(系流不明)の墓碑(五七桐紋)美濃源氏打越氏の家紋は剣片喰、丸に右三つ巴、三連銭などなので、美濃源氏の末裔の方なのかは不明です。 楠氏の墓(菊水紋)/立政寺の周辺には楠氏の末裔の方と思しき墓も安置されています。 名和氏の墓(帆掛船紋)/立政寺の周辺には名和氏の末裔の方と思しき墓も安置されています。 長井氏の墓(一文字三ツ星紋)出羽国置賜郡長井荘を発祥とする大江氏流長井氏の後裔で、美濃守護代斎藤氏に仕えます。  
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大島町墓地(石川県小松市大島町ラ178
②勝光寺(打越勝光城跡)(石川県加賀市打越町ト21
打越氏(美濃源氏流打越氏?)の墓碑(丸に蔦紋)大島町墓地には、複数の打越氏の墓(丸に蔦紋)と共に、複数の木田氏の墓(丸に桔梗紋)が安置されています。この点、丸に蔦紋は木田氏の替紋でもあることから、この地域に分布している打越氏(丸に蔦紋)は美濃源氏流打越氏の後裔である可能性があります。 打越氏(美濃源氏流打越氏?)の墓碑(丸に蔦紋) 打越氏(美濃源氏流打越氏?)の墓碑(丸に蔦紋) 木田氏の墓大島町墓地には、複数の打越氏の墓(丸に蔦紋)と共に、複数の木田氏の墓(丸に桔梗紋)が安置されています。 勝光寺(打越勝光城跡)/越前一向宗の拠点であったところですが、この近隣にある菅原神社由緒書きには1548年(天文17年)の天文日記に初めて打越の地名が登場しているとのことであり、既にこの地域には1491年(延徳2年)、加賀国金津荘与知村を支配していた土豪として打越新兵衛の名前がありますので、この地は打越氏の発祥とは関係ありません。
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弘願寺(石川県鹿島郡中能登町羽坂4-24乙
弘願寺(浄土真宗本願寺派)/能登国鹿島郡の半分(3万3000石)を支配する加賀藩重臣(半大名的な身分)の長氏が1666年(寛文6年)に実施した検地担当者として打越半右衛門の名前が残されており長氏の家臣。 打越氏(系流不詳)の墓碑(丸に蔦紋) 打越氏(系流不詳)の墓碑(丸に蔦紋) 打越氏(系流不詳)の墓碑(丸に蔦紋) 打越氏(系流不詳)の墓碑(丸に蔦紋)
打越氏(系流不詳)の墓碑(丸に蔦紋) 打越氏(系流不詳)の墓碑(丸に蔦紋) 打越氏(系流不詳)の墓碑(丸に蔦紋) 打越氏(系流不詳)の墓碑(丸に蔦紋) 打越氏(系流不詳)の墓碑(丸に蔦紋)
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①超専寺(広島県広島市中区寺町6−11
原爆ドーム広島県広島市中区大手町1−10
郡山城跡(広島県安芸高田市吉田町吉田郡山
超専寺/丸に橘紋。映画「仁義なき戦い」の登場人物のモデルになった人の墓です。劇映画として面白くするために、かなりデフォルメした描き方がされていますので実像とは乖離しています。1967年に引退し、実業家として成功しています。墓碑銘は、当時の大蔵大臣・佐藤栄作の揮毫です。 超専寺/丸に橘紋。社交的でビジネスセンスのある人だったそうで、紙屋町タクシー(広島県広島市中区本通)という会社を経営されていたそうです。中央政界とのパイプも太く、広島カープの後援会(鯉城後援会)を作った人としても知られています。 超専寺/丸に橘紋。どの系流なのかは不明ですが、紀州征伐で雑賀衆が淡路、土佐、中国地方や九州地方へ遁れたと言われていますので、その末裔である可能性があります。 原爆ドーム/戦後日本は統治機構がマヒしていたことから、ヤクザが社会秩序の維持に一定の役割を果たしていたと言われています。やがて戦後復興で経済が成長し、統治機能が回復すると、徐々にヤクザは社会から排除されるようになります。 郡山城毛利元就が居城とした郡山城跡です。毛利元就毛利隆元ほか、毛利一族の墓が安置されています。なお、境内には、毛利元就吉田郡山城を拡張する際に人柱の代わりに使用した石碑に書かれた言葉「百万一心」の碑があります。
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第3節 その他(西国にある打越氏の墓碑)
唐津墓地(佐賀県唐津市鎮西町名護屋4751
水窪墓地公園(鹿児島県曽於市末吉町南之郷250-3
③唐湊市営墓地(鹿児島県鹿児島市唐湊1-35
④市営郡元墓地(鹿児島県鹿児島市唐湊1-35
打越氏(系流不明)の墓碑(丸に剣片喰紋/同じ墓地内に酒井氏の墓碑(片喰紋)があり、酒井氏からの譲与紋である可能性があります。なお、肥前に分布している酒井氏は清和源氏新田氏流得川(松平)親氏を祖とし(徳川(松平)氏とは同祖同根)(都道府県別姓氏家紋大辞典西日本編)、1359年(延文4年)に南朝方の菊池武光を頼って下向した新田氏流が酒井宿禰の後裔と姻戚関係を結んで生まれた系流があります(「姓氏家系大辞典」より)。また、同じく清和源氏新田氏流得川(松平)親氏を祖とし、徳川将軍家の御書院番として仕えた酒井重政(剣片喰紋)は同じく御書院番・打越光業の五男を娘の婿養子に迎えて姻戚関係を結んでいます(「新訂寛政重修諸家譜第2巻第69」より)。因みに、文禄の役肥前名護屋に出陣した真田昌幸の陣屋跡に真田幸村の供養塔のほか誰のものか分からない墓標(五輪塔)が数基と盛土が安置されています。場合によると、そのうち1つは小田原城攻めで真田昌幸と同陣し肥前名護屋で病没した打越光重の墓標である可能性があります。
打越氏(系流不明)の墓碑(丸に四方木瓜紋/熊野国造和田氏を先祖とする河内和田氏と同紋。 打越氏(系流不明)の墓碑(丸に木瓜紋/熊野国造和田氏を先祖とする河内和田氏と同紋。 楠木氏の墓碑(丸に橘紋)/関西(河内国紀伊国伊勢国等)から薩摩国へ入部してきた可能性も考えられます。 和田氏の墓碑(菊水紋)/関西(河内国紀伊国等)から薩摩国へ入部してきた可能性も考えられます。
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①浜田町墓地(鹿児島県鹿屋市浜田町24
②吉利墓地(鹿児島県日置市日吉町吉利3000
③漆墓地(鹿児島県姶良市蒲生町漆1673
打越氏(系流不明)の墓碑(丸に四方花菱紋 打越氏(系流不明)の墓碑(丸に四方剣花菱紋 打越氏(系流不明)の墓碑(丸に四方剣花菱紋 打越氏(系流不明)の墓碑(丸に橘紋)/初代・吉利村長を務められていますので、薩摩国吉利郷を領有していた薩摩藩島津家の重臣・禰寝(根占)家(別称・小松家で、薩摩藩家老・小松帯刀を輩出)の家臣(分家Ⅻ)であった家ではないかと思われます。なお、打越氏(本家Ⅱ)と同紋ですが、薩摩商いで紀州国から薩摩国へ入部してきた可能性も考えられます。 打越氏(系流不明)の墓碑(丸に橘紋)/同左。なお、打越氏(本家Ⅱ)と同紋ですが、薩摩商いで紀州国から薩摩国へ入部してきた可能性も考えられます。
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①坂元墓地(鹿児島県鹿児島市坂元町19
②根占墓地(鹿児島県南大隅町根占横別府2678
打越氏の墓碑(下がり藤紋)紀伊国熊野別当藤原氏と同紋の下がり藤紋を使用する打越氏が分布しており、紀伊国から薩摩国へ入部してきた可能性も考えられます。 和田氏の墓碑(丸に橘紋)/熊野国造和田氏を先祖とする河内和田氏の末裔か。 橘氏の墓碑(丸に橘紋)醍醐天皇の御代に牟婁郡大領(従五位下右衛門尉)熊野広方(橘広方)が橘姓に改姓し、その曾孫・橘良冬(和田良冬)が和田庄司を称して熊野国造和田氏の祖となっています。 紀氏の墓碑(八重菊紋)/第二次紀州征伐では紀氏は雑賀衆及び根来衆と共に共闘していますが、その後、紀伊国から薩摩国へ入部してきた可能性が考えられます。 打越氏(系流不明)の墓碑(丸に桔梗紋)/近隣の浄光寺(浄土真宗東本願寺派)鹿児島県南大隅町根占川南3674)の檀家として複数名の打越氏の名前があります。浄土真宗一向宗)を中心に構成されていた雑賀衆紀伊国から薩摩国へ入部した痕跡があり(熊野(雑賀)水軍による薩摩商いは山川湊を拠点としており)、その末裔の可能性も考えられます。
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①小田墓地公苑(鹿児島県指宿市十二町2630
②鯛名墓地(宮崎県延岡市鯛名町242-1
打越氏の墓碑(丸に左違い鷹羽紋)紀州徳川家に仕官していた打越氏(本家Ⅱ)の庶流が千光寺に出家しており、その寺紋が丸に左違い鷹の羽紋です。 根来氏の墓碑/鹿児島県指宿市種子島と隣接しており、また、雑賀衆が大陸との交易を行う薩摩商いの拠点でもあったことから、雑賀衆根来衆が最新式の鉄砲の調達と大陸交易のために薩摩国へ入部していたことと考えられます(例えば、薩摩藩島津家の分家・伊集院忠真の客将で根来寺の僧・白石永仙が有名)。 開聞岳/指宿は佐賀の乱後藤新平が逗留中の西郷隆盛を訪ねた鰻温泉、天璋院篤姫の出身地や竜宮伝説の舞台になった竜宮神社をはじめとした風光明媚な観光名所です。 内越氏(系流不明)の墓碑(丸に三引両紋) 甲斐氏の墓碑(左違い鷹羽紋)肥後国菊池氏の庶流
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①高須墓園(鹿児島県鹿屋市高須町1250
②桂霊園(鹿児島県曽於市大隅町中之内4595
打越氏の墓碑(姻戚関係を契機した替紋)/この墓の墓誌を見ると、打越氏と他氏が姻戚関係を結ぶにあたり、他氏の家紋である「丸に蔦紋」が譲与されたものと思われます(譲与紋)。姻戚関係の1類型:A家(A家名、A家紋)+B家(B家名、B家紋)=A家(A家名+B家紋)。 打越氏の墓碑(姻戚関係を契機した替紋)/この墓の墓誌を見ると、打越氏と他氏(鉄山師として製鉄技術を持ち種子島で鉄砲製造を指導したことがある薩摩藩家臣の系流)が姻戚関係を結ぶにあたり、他氏の家紋である「丸に梅花紋」が譲与され、その譲与紋と打越氏の本紋である「松皮菱紋」を合せた「隅立て八角に梅花紋」(更に、その分家が本家の替紋「組み合わせ角に星梅鉢紋」)が作られたものと思われます。和歌山県の真光寺にも打越氏と他氏が姻戚関係に結ぶにあたり、他氏の譲与紋から替紋が作られたものと思われる例があります。 日本一大きい西郷隆盛像(鹿児島空港前)西郷隆盛南朝の忠臣、肥後国を中心に九州で勢力を持っていた菊池氏の末裔ですが、北朝が優勢になると菊池氏は東国へ落ち延びます。打越氏(分家Ⅱ)は、南朝の忠臣、那珂氏の末裔である常陸江戸氏に仕官していた菊地氏の末裔と姻戚関係を結んでいます。鹿児島には薩摩藩の居城・鶴丸城、私学校の西南戦争銃弾跡西郷隆盛西南戦争で立て籠もった城山洞窟、城山洞窟から私学校へ下る途中にある西郷隆盛終焉の地南洲神社にある西郷隆盛の墓西郷隆盛生誕地(近所には東郷平八郎生誕地等もあり)や白洲正子さんの祖父・樺山資紀邸跡キリスト教を伝来したフランシスコザビエル上陸地、鉄砲が伝来した種子島など日本史上の重要な出来事に関係する場所が数多くあります。 桜島(鹿児島名物の火山灰)/桜島という名称は、968年(安和元年)に大隅守に就任した桜島(櫻嶋)忠信の名前に由来し、その娘が大江広元の先祖である大江惟時の子に嫁いでいます。因みに、源頼朝の墓には彼の側近であった大江広元の墓と島津忠久の墓が安置されています。島津氏は薩摩国及び大隅国の守護に任じられ、その後、蒙古襲来を契機として九州に土着し、明治維新まで同地を支配することになります。 坂本龍馬とお龍の新婚旅行碑/1866年に寺田屋事件で負傷した坂本龍馬西郷隆盛らの勧めによって鹿児島空港の近くにある塩浸温泉で湯治を進められたことから、坂本龍馬が新婚のお龍を伴って訪れており、これが日本最初の新婚旅行と言われています。坂本龍馬が実際に浸かった湯舟坂本龍馬が愛用したブーツ拳銃を充実に再現したレプリカ等が展示されています。
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