打越氏(内越氏)は、清和天皇及び物部氏族熊野国造系和田氏を源流とし、南北朝の動乱を契機として、河内(甲斐)源氏流小笠原氏(本姓源氏)と楠木正成の弟又は従弟・楠木正家(本姓橘氏)とが姻戚関係を結んで発祥した氏族であり、戦国時代、小田原征伐、関ケ原の戦いなどを契機として出羽国由利郡で勢力を伸ばし、1系統17流(本家3流、分家14流)の系流に分かれながら日本全国へ進出して行った同祖同根の氏族です。現代に残る限られた古文書等から、その歴史的な事跡を明らかにします。

第3部第2巻 打越専三郎の日記(1863年)

 
 2018年は明治維新150年目の節目にあたりますが、打越専三郎の書留には幕末勤王の志士達に影響を与えて明治維新の原動力となった水戸学の思想や時代の空気感が比喩的に語られており興味尽きせぬものがあります。
 
【現代語訳(意訳)】
 
▽「忠義」に関する書留(写真中央)
 この掛け軸は大忠院様からのご寄付で、「忠義」の二文字は水戸黄文光綱公の直筆であり名筆です。表装を見ると、別天地は大和錦で、一文字風袋(用紙の上部に置かれた細い布)は御所裂、両縁は筑波染め、軸は古木の楠です。布は花地の紋で十六菊に三つ葵の紋様です。本当に名高い掛け軸です。また大切な箇所に矢の紋様入りとなっています。
 
(注74)打越専三郎日記の意義①
 この掛軸(メタファー)は「大忠院」(=偽名、徳川斉昭のこと)からの寄付で、これに標されている「忠義」の2文字は「光經公」(=偽名、徳川光圀のこと ※經とは、教えのこと)の名筆であると由来を語り、この掛軸の上部には「御所裂」(=天皇)、両側には「筑波染め」(=水戸藩尊王攘夷派)、軸には「古木の楠」(=楠木正成)、布には「十六菊」(=皇室の家紋)と「三つ葵」(=徳川氏の家紋)があしらわれ、大切な個所には「」(=命を惜しまない忠義)が加えられていると解説を加えています。これは楠木正成による忠義の本分を引き合いに出しながら徳川光圀徳川斉昭が説いた「尊王幕」の考え方を比喩的に表現したものと解されますが、やがてこの考え方が時代の潮流に乗って「尊王幕」(明治維新)へと傾斜して行くことになります。なお、徳川斉昭(烈公)は、その子の徳川慶喜に対して、徳川光圀(義公)以来の水戸家の家訓として「水戸家が将軍家を助けることは当然だが、万一、朝廷と将軍家との間に争いが生じることになった場合でも、水戸家が朝廷と敵対することがあってはならない。」(徳川慶喜公伝より烈公の遺訓)と忠義の本分を諭していますが、これが幕末日本を壊滅的な内乱状態に陥らせずに江戸無血開城へと導くことになります。 
 
 ▽「輿」に関する書留(写真右)
 この輿は、西国で名高い「別け片端の輿」というものです。昔、この国の大将が異国と交流することについて議論しましたが、皆の意見が一致しないので大将は憤慨し、馬に繋がれていた輿を引き裂いて投げ捨てました。すると不思議なことに、この輿の半分は異国へ飛んで行き、残りの半分は皇国(日本)に残りました。現在、この輿を使用する際は、輿の片方だけでは大変に不都合なので、もう片方の輿に太い綱をつけて引いているそうです。
 
(注75)打越専三郎日記の意義②
 古来、輿は「」(=天皇)の乗り物とされていますが、この「西国の輿」(輿の片方)の車輪には「薩摩藩の家紋」らしき挿絵があしらわれています。この国の外交政策が国民的な議論(=佐幕開国派と尊王攘夷派の対立)に発展して紛糾していたところ、この国の大将(=井伊大老)は業を煮やして国論(輿)を分断し、この国の重心を外国の力に頼って生き延びる政策へとシフトしましたが、この国の重心を「皇国」(天皇による統治)に置いて国力を蓄えながら外国と対等な関係を構築する政策を支持する者も多く、このままでは国(車輪)が上手く回らないので、佐幕開国派(輿のもう片方)に綱をつけて何とかこの国(輿)を牽引して行こうとしている苦衷が昔話風に吐露されています。この記述を見ると、幕末の志士達が何とか議論を重ねて国論を統一しようとしていたところに(民主的プロセス)、大老井伊直弼が国論の統一又は十分な議論の成熟を見ないままに外圧に押されて独断で事を進めたので(独裁的プロセス)、それが「尊王幕」から「尊王幕」へと時代を加速させていった状況が読み取れます。その意味では、開国か攘夷かという外交政策上の問題もさることながら、この国の統治の仕組みに係る根本的な問題に及ぶ書留になっており、近世的な価値観と近代的な価値観の鬩ぎ合いが感じられる非常に興味深い内容です。