打越氏(内越氏)は、清和天皇及び物部氏族熊野国造系和田氏を源流とし、南北朝の動乱を契機として、河内(甲斐)源氏流小笠原氏(本姓源氏)と楠木正成の弟又は従弟・楠木正家(本姓橘氏)とが姻戚関係を結んで発祥した氏族であり、戦国時代、小田原征伐、関ケ原の戦いなどを契機として出羽国由利郡で勢力を伸ばし、1系統17流(本家3流、分家14流)の系流に分かれながら日本全国へ進出して行った同祖同根の氏族です。現代に残る限られた古文書等から、その歴史的な事跡を明らかにします。

第1部第2巻 打越(内越)氏の系流(第3段)

第3段 雑賀衆

雑賀衆(本家Ⅱ、分家Ⅴ、分家Ⅵ)

 1535年(天文4年)、紀伊国五荘郷(雑賀荘、中郷、南郷、十ケ郷、社家郷の約7万石)を支配した地侍で構成される集団(伊賀国加賀国と同様に主家を持たずに共和自治を行う惣国的な集団)として「雑賀衆」という言葉が初めて歴史上に登場し(参44)、大隅国種子島に伝来した鉄砲をいち早く合戦に導入して鉄砲隊及び水軍を擁する傭兵集団として全国から注目されるようになりますが(注17、27)、その構成員として鈴木氏、佐武氏及び津田氏と並んで打越氏の名前が見られます(本家Ⅱ)(参45、46)(注15、16、26)。この点、陰徳太平記における1576年(天正4年)の石山本願寺合戦(第一次木津川口合戦)に関する記述の中で「総じて大坂に籠る所、諸国の僧多しと雖も、其功を建つる事、雑賀の者第一たり。其中にも総軍の駈引の謀主は、鈴木源左衛門也。先陣の武将は、山内三郎大夫、高柳監物、西ノ口平内大夫、原平馬、天井浜主計。遊兵として弱きを扶け、敵の横合を打つ者の武将には、高松三充、打越藤左衛門、津屋十郎左衛門、高仏十郎次郎、土橋平次郎、和歌藤左衛門等、何れも鳴世の武士にて、毎時戦功出群せしとかや。」とあり、雑賀衆・打越藤左衛門はその軍功によって敵味方に有名(鳴世)を馳せていたという記録が残されています。しかし、雑賀衆に関する史料は非常に少なく、これ以外のことはよく分かりません(参31、陰徳太平記下巻第53/参190)。

 現在、和歌山県に分布している打越氏は、熊野本宮大社周辺、熊野水軍の本拠があった田辺市周辺及び雑賀荘があった和歌山市周辺に集中していますが、楠木氏や和田氏と同じく橘紋を使用している家や雑賀氏(鈴木氏)と姻戚関係を結んでいる家(分家Ⅹ)(参45)があります。また、河内(甲斐)源氏佐竹氏流・佐武氏と同じく丸に日の丸紋や丸に五本骨扇紋を使用している家(分家Ⅺ)が多く、打越(安左衛門)繁高の叔父及び従弟が住職を務めた千光寺(和歌山県田辺市)には打越氏の墓と共に佐武氏の墓が安置されており、佐武氏との間で姻戚関係が結ばれている可能性が考えられます。

 

紀州徳川家への仕官

 1621年(元和7年)、紀州藩主・徳川頼宣紀州藩の家臣団を増強するために雑賀衆等から由緒正しい有力者60人を選んで紀州藩士として登用し(六十人者与力)、海士郡の雑賀衆・打越五郎右衛門が大番頭与力として召し抱えられます(参60、61、62)(注28)。なお、 1869年(明治2年)、紀州藩士・打越(安左衛門)繁高が紀州徳川家に提出した家系図によれば、紀伊国海部郡宇須村字打越の発祥で、本姓を源氏とし、雑賀衆・打越藤左衛門を祖とすると記載されていますが、この家系図には上述の打越五郎右衛門の名前が記されていません。この点、1865年(慶応元年)、紀ノ川の氾濫で大垣内堤防が決壊して4つの家系図が流失し、詳しい由緒(打越藤左衛門以前の家系図やその他の系流の家系図)が分からないとも記載しており(参47)(注25、29)、この中に打越五郎右衛門の系図が含まれていた可能性もあることから、紀州徳川家へ召し抱えられた打越氏は複数家が存在していたと思われます。

 

(注25)出羽国紀伊国の往還

 矢島(大井五郎)満安の家来で修験者の普賢坊が熊野を参詣する傍ら京の状勢を探索していたという記録があります(奥羽永慶軍記/参163)。また、1580年(天正8年)、打越正義(分家Ⅰ)は、本願寺法主顕如上人からの援軍要請により、その名代として弟・打越三郎左衛門を鷺森城(雑賀御坊)へ派遣しています。さらに、1593年(文禄元年)、同じく鷺森城を守備していた楠木正意は、顕如上人が入滅したことから、出羽国由利郡打越郷へ遁れたという記録が残されており(参3)、出羽国紀伊国との間で何らかの人的なつながりがあったことを伺わせます。因みに、最上義光の傘下にあった仁賀保兵庫(挙誠)、六郷兵庫(政乗)、雑賀兵庫のことを俗に「最上家の三兵庫」と言いますが(参219)、紀伊国から出羽国へ雑賀氏が下向していた模様です。

 

(注26)雑賀衆打越氏

 1562年(永禄5年)、紀伊国日高郡を支配していた甲斐源氏武田氏流・湯川直春と雑賀衆の間で取り交わされた「起請文」(東京湯川家文書)や「紀伊国旧家地士覚書」及び「南紀士姓旧事記」等に記録されている雑賀衆の名字は、上記の注15の表に記載したとおりです(参45、54)。この中には雑賀衆の棟梁・鈴木氏(雑賀氏)や雑賀衆に鉄砲を伝えた楠木正儀後裔・津田氏に加えて、常陸源氏佐竹氏流・佐武氏や甲斐源氏武田氏流・栗栖氏の名前も見られ、いずれも打越氏(本家Ⅱ、本家Ⅲ)と姻戚関係を結ぶなど密接な関係にありました。

 

(注27)和歌山(紀伊)と鹿児島(薩摩)及び北海道(蝦夷)の関係

 1185年(元暦元年)、熊野別当・湛慶(弁慶の父)は、平氏追討使に任命され、熊野水軍を組織して壇ノ浦の戦いに参陣します。時代は下って、1341年(暦応4年)、南朝勢力・肝付兼重及び矢上高純が籠城する東福寺城(鹿児島県清水町)が島津貞久により攻め落とされると、1343年(興国3年)、征西大将軍懐良親王は、南朝勢力の挽回のために熊野水軍を率いて南朝勢力・指宿氏が支配する薩州津(山川湊)に上陸し(参248)、その後、南朝勢力・谷山氏が守備する谷山城(鹿児島県鹿児島市)へ入城しており(参232)、一時、島津貞久は苦戦を強いられます(参48)。この点、雑賀衆には熊野水軍の流れを汲む者が多く、それらの者を中心として雑賀水軍を組織して紀伊国から淡路国阿波国等へ傭兵を派遣すると共に、紀伊水道を南下して九州や東南アジア諸国と交易を行い(薩摩商い)、最新式の鉄砲等を入手しました(参49)。昔から、紀伊半島(熊野等)と九州半島(薩摩等)の間では人や物の往来が活発で、現在でも九州半島(薩摩等)には紀州半島(熊野等)から移住した末裔と思われる家の分布が多く、丸に橘紋を使用している雑賀衆・打越氏の後裔の分布も確認できます。このほか、打越安左衛門が紀州藩からその支藩である伊予国西条藩の御付人(準士)として仕え、1862年(明治2年)に紀州藩へ帰任したという記録が残されています(西条御付人御戻しの項/参62)。また、1889年(明治22年)7月、篠路屯田兵(北海道の警備と開拓にあたった元武士)として元紀州藩士(士族)・打越留吉が北海道へ入植し(参12)、兵村配置図から割り出すと屯田4番通り沿い(北海道札幌市北区屯田8条10丁目9)を開拓しており、紀伊半島のみならず、九州半島(薩摩等)、四国半島(伊予)や北海道(蝦夷)での事績が確認できます。因みに、映画「北の零年」は北海道開拓使が開拓を成し遂げる実話を元にした映画ですが、その陰で、明治政府の同化政策により虐げられたアイヌ民族の存在を忘れることはできません。2020年に「ウポポイ(民族共生象徴空間)」がオープンし、アイヌ民族ウィルタ民族やニヴフ民族等が育んだ独自の文化は非常に重要な文化的資産として、その価値が再認識されています。

f:id:bravi:20210326121549j:plain 【名称】東福寺城(肝付兼重奮戦の地碑)
【住所】鹿児島県鹿児島市清水町28-25
【備考】肝付兼重は1340(興国元年)8月から8ケ月間に亘り籠城し、北朝勢力・島津氏と奮戦します。
f:id:bravi:20210525175604j:plain 【名称】松尾城(指宿城)
【住所】鹿児島県指宿市西方6830
【備考】東福寺城の落城後、征西大将軍懐良親王熊野水軍(雑賀水軍)を従えて南朝勢力の松尾城主・指宿氏が支配する薩州津(山川湊)へ上陸します。後年、雑賀衆は山川湊を薩摩商いの拠点としますが、この地域には雑賀衆の後裔の分布が見られます。
f:id:bravi:20210325123718j:plain 【名称】谷山城(千々岩城)
【住所】鹿児島県鹿児島市下福元町1485
【備考】征西大将軍懐良親王は、南朝勢力の挽回のために南朝勢力・谷山氏が守備する谷山城(鹿児島県鹿児島市)へ入城します。
f:id:bravi:20210325123306j:plain 【名称】高山城
【住所】鹿児島県肝属郡肝属町新富5595
【備考】南朝勢力・肝付氏の居城で、北朝勢力・島津氏に二度攻められていますが、いずれも島津氏を防いでいます。
f:id:bravi:20210325123425j:plain 【名称】自(示)顕流発祥の地
【住所】鹿児島県肝属郡肝属町新富5595
【備考】肝付氏の祖・大伴氏は野太刀流(勤皇の剣)を使い近衛軍(物部氏は遠征軍)として八咫烏賀茂氏)と共に神武東征を先導したと言われていますが、肝付兼重も南朝勢力へ味方。その後、関ヶ原の戦い島津義弘と共に敵中突破した薬丸(肝付)兼成が野太刀流を基にして東郷重位示現流を融合し、野太刀自(示)現流を創始。勤皇の剣として明治維新にも活躍した野太刀自(示)現流の技は警視庁に採用されています。
f:id:bravi:20210325123227j:plain 【名称】弓張城
【住所】鹿児島県肝属郡肝属町新富5595
【備考】肝付兼重と共に南朝勢力として活躍した楡井頼仲(楡井氏は清和(信濃)源氏で信濃国高井郡楡井村の発祥)の居城。
  

(注28)紀州徳川家への仕官

 1619年(元和5年)、徳川頼宣は、雑賀衆根来衆等が戦国時代に紀伊国で共和自治を確立し、非常に独立性が強く第三勢力に統治されることを嫌う気質(ボヘミアニズム)があることに配慮し、紀伊国の旧家や地侍のうち、熊野八庄司の末裔や畠山氏(本家Ⅱの系流)、湯川氏(本家Ⅲの系流)、宮崎氏(奥州探題職に仕え、一時期、秋田県仙北郡へ潜伏)及び貴志氏の遺臣の中から武功に秀で家柄の由緒正しい60人を選んで土着のまま(即ち、現代風に言えば、本社の中間管理職ではなく、裁量権が多い地方の支店長)で紀州藩士として召し抱えて「六十人者与力」(六十人地士)を組織します(1654年(承応3年)に「六十人者」と改名)。「六十人者与力」(六十人地士)は、紀州藩士として有事の軍役に加え、警察機能を持って村々を統治すると共に、訴状を取り扱うなど各村の奉行代官的な役割を果たすために広範な権限を与えられます。また、藩主の直轄軍として馬上が許され(与力=寄り騎)、大番頭が侍大将であるとすると、その与力(六十人者与力)は足軽大将にあたり、大番頭の下で同心(足軽)の部隊を指揮管理しています。因みに、根来衆100人が同心(足軽)として召し抱えられています(根来同心)。1620年(元和6年)、海士郡の打越五郎右衛門は、「六十人者与力」(六十人地士)として組頭・戸田(金左衛門)清隆(徳川家康譜代の家臣で大阪の陣で徳川頼宣の軍勢に加わった際の実績で紀州藩重臣に抜擢)の配下となり、知行50石で紀州徳川家に仕え(元和八年被召出地士六十人者姓名/参62)、その後、1625年(寛永2年)、組頭・渋谷伯耆守の配下に組替えとなります(大番頭六人預与力地士六拾人姓名/参56)。また、1624年(寛永元年)、海士郡・打越藤右衛門も六十人者与力になりますが(参233)、同時期に2人が六十人与力を構成していたことになり、複数の家が紀州徳川家に仕官していた可能性が考えられます。その後、1645年(正保2年)、大番頭・戸田十郎左衛門の配下として打越藤右衛門の名前が記録されています(六十人者地士組分け/参62)。また、紀伊風土記(参58)に由緒書がある旧家として牟婁郡(口粟野)道湯川郷・湯川興兵衛や牟婁郡(口熊野)大内川郷・愛洲七郎兵衛と共に牟婁(口熊野)郡和田郷・打越忠蔵(本家Ⅲ)の名前が記録されています(紀州各郡地士姓名/参62)。

 

(注29)紀州藩士・打越氏の家系図

 紀州藩士・打越安左衛門が紀州藩へ提出した家系図(巻末家系図:図表11)には、打越藤左衛門を祖として打越伊左衛門-打越十左衛門-打越円蔵-打越十左衛門繁門-打越安左衛門繁高(分家Ⅰと同じ「◯左衛門」「◯蔵」を通字とする系流)及び打越円蔵の次男として千光寺に出家した叔父及び従弟(いずれも名前不詳)が記載されています。しかし、上述の六十人地士・打越五郎右衛門や打越藤右衛門及び1716年(享保元年)に紀伊国名草郡の郡奉行代官を務めた打越猶右衛門(参85)(本家Ⅰと同じ「◯右衛門」を通字とする系流)は記載されていませんので、大垣内堤防の決壊で流失した4種類の家系図の系流ではないかと考えられ、紀州藩士・打越氏の系流を全て把握することは困難になっています。なお、この記録から紀州藩士・打越氏(本家Ⅱ)は和歌山県和歌山市大垣内に館を構えていたと推測されますが、ここには打越氏(本家Ⅲ)の祖である湯川氏の菩提寺の光恩寺があり、その墓地には湯川氏の墓に加えて紀州武田氏の墓や根来衆及び雑賀衆に鉄砲を伝えたと言われている津田監物楠木正儀の末裔)の墓などがあります。なお、以下に時系列で示すとおり石山本願寺合戦では楠木氏、打越氏(本家Ⅱ)及び打越氏(分家Ⅰ)が相互に連携しながら対応していたと考えられます。

①1575年(天正3年):楠木正意が顕如上人の命で石山本願寺を守備

②1576年(天正4年):打越藤左衛門(本家Ⅱ)が天王寺合戦及び第一次木津川口海戦で本庄城を守備

③1577年(天正5年):第一回紀州征伐、第二次木津川口海戦

④1580年(天正8年):楠木正意及び打越三郎左衛門(分家Ⅰ)が顕如上人の命で鷺森別院(雑賀御坊)を守備

⑤1592年(天正20年):顕如上人の入滅に伴って楠木正意が出羽国由利郡打越郷へ隠遁

 

③その他(分家Ⅻ、XⅢ)

 薩摩藩島津氏の重臣・禰寝(根占)氏の家臣である打越(用右衛門)房勝の娘が島津氏の分家・伊集院忠眞(注30)に嫁いで長女を出産しており(参63)、打越氏(分家Ⅻ)は島津氏の分家・伊集院氏と姻戚関係にありました。また、薩摩国日置郡吉利村の検地竿次帳には「1726年(享保11年)4月18日、郡見廻打越用右衛門、役人弥寝五郎左衛門、竿取谷山猪俣覚之助」によって検地が実施されたという記録が残されています(参86)。さらに、禰寝(根占)氏の当主・禰寝(根占)清雄が農業の方法を定めた「農業方之条書」を基にして薩摩藩郡奉行・汾陽(四郎兵衛)盛常が編纂した「農業法」を薩摩国吉利郷役所(奉行所)が紛失したので、1755年(宝暦5年)、有馬源五右衛門が所持していた写本を借りて書き写し、これに打越八右衛門及び禰寝越右衛門が連署したものが残されている(参87)など、打越氏(分家Ⅶ)は禰寝(根占)氏から重用されていたことが伺えます。

 なお、打越氏(分家Ⅻ)については詳しい資料が残されておらず正確なことは分かりませんが、この地域に分布している打越氏の家紋や「都道府県別姓氏家紋大事典 西日本編」(千鹿野茂/柏書房)等から、打越氏(本家Ⅰ)又は打越氏(本家Ⅱ)の系流である可能性が考えられます。この点、禰寝(根占)氏は大隅国大泊を母港とする禰寝水軍を擁して大陸貿易を行っていたことから薩摩商いを行っていた雑賀水軍との関係も深く(薩摩国山川湊は雑賀水軍の寄港地。なお、1343年(興国3年)、征西大将軍懐良親王熊野水軍を従えて南朝勢力・指宿氏が支配する薩摩津(山川湊)へ上陸。)、雑賀衆・打越氏(本家Ⅱ)の庶流が禰寝(根占)氏へ仕官した可能性も考えられます。

 因みに、薩摩藩島津氏の重臣・禰寝(根占)氏は、富田城(鹿児島県肝属郡南大隅町根占川南5463)を本拠とし、大隅国禰寝(根占)院(現在の鹿児島県肝属郡錦江町及び南大隅町)を支配していましたが、1596年(文禄5年)の太閤検地に伴って大隅国禰寝(根占)院から薩摩国吉利郷へ知行地替えになり、1627年(寛永4年)、初代薩摩藩主・島津家久の子・島津久雄を婿養子に迎えて島津氏の分家となります(島津禰寝氏)。なお、後に禰寝(根占)氏は「小松」(注31)と名字を改め、維新十傑の1人、薩摩藩島津氏の家老・小松帯刀を輩出した島津藩屈指の名家で、その末裔には俳優・上原謙加山雄三、作家・ねじめ正一、騎手・武豊など著名人がいます。

 1599年(慶長4年)、庄内の乱を起こした伊集院忠眞(打越房勝の娘が嫁いだ伊集院忠真は同姓同名の別人)(注30)の弟・伊集院小次郎が籠城した末吉城(鹿児島県曽於市末吉町諏訪方8651-5)を攻略するために、肝付(肝属)氏の家臣(薩摩藩島津氏の陪臣)である打越十兵衛(御弓箭=武士)が大隅国恒吉郷(現、鹿児島県曽於市大隅町)から、末吉城落城後に薩摩藩島津氏の直轄地に組み込まれる大隅国末吉郷(現、鹿児島県曽於市末吉町)への移動(衆中召移し:島津氏の有力家臣の家臣(陪臣)を島津氏の家臣(直臣)として召し抱えて有力家臣の力を削ぐ領地政策)を命じられます(分家XⅢ)(参88)。

 なお、打越氏(分家Ⅻ)と打越氏(分家XⅢ)は、その地理的及び時代的な分布が重なっていることから、同じ血族ではないかと推測されます。

 因みに、肝付氏(朝廷を守護する親衛隊である大伴氏の後裔)は肥後国の菊池氏や阿蘇氏らと共に南朝勢力として活躍しますが、上述のとおり維新十傑の1人・薩摩藩家老・小松帯刀は肝付氏から禰寝(根占)氏へ婿養子に入っており、また、西郷隆盛は菊池氏の末裔と言われていますので、南朝勢力であった肝付氏や菊池氏の後裔が祖先の志を継いで明治維新の立役者になり、後醍醐天皇の悲願であった王政復古を約500年後に実現したことになります。

 

(注30)2人の伊集院忠真

打越(用右衛門)房勝の娘が嫁いだ島津氏の分家・伊集院氏は、第2代島津氏の当主・島津忠時の孫・島津俊忠が薩摩国日置郡伊集院を支配して伊集院を名乗り、その庶流である伊集院助左衛門尉秀久家・伊集院久國の三男として伊集院忠真が生まれています。この点、1599年(慶長4年)、庄内の乱(関ケ原の戦いで島津氏が数百の軍勢しか派兵できなかった原因となった御家騒動)を起こした伊集院忠眞とは同じ伊集院氏内の同姓同名の別人です。

 

(注31)禰寝(根占)氏=小松氏

薩摩藩重臣・禰寝(根占)氏は、大宰府在庁官人の建部姓を祖としますが、平清盛の嫡男・平重盛の血も引いていることから、維新十傑の1人、小松帯刀薩摩藩家臣・肝付氏からの婿養子で、旧名は肝付兼戈、その兄は肝付兼両)は、平重盛が京都六波羅の小松谷へ抜ける場所に館(小松第)を構えて小松殿と呼ばれていたことに因んで「小松」に名字を改名します。

 

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