打越氏(内越氏)は、清和天皇及び物部氏族熊野国造系和田氏を源流とし、南北朝の動乱を契機として、河内(甲斐)源氏流小笠原氏(本姓源氏)と楠木正成の弟又は従弟・楠木正家(本姓橘氏)とが姻戚関係を結んで発祥した氏族であり、戦国時代、小田原征伐、関ケ原の戦いなどを契機として出羽国由利郡で勢力を伸ばし、1系統17流(本家3流、分家14流)の系流に分かれながら日本全国へ進出して行った同祖同根の氏族です。現代に残る限られた古文書等から、その歴史的な事跡を明らかにします。

第2部第1巻 打越(内越)氏の歴史(略年表)

第1段 総論

 打越氏(内越氏)は、マイナーな氏族なので古文書等が断片的にしか残されておらず、打越氏(内越氏)の歴史を大河ドラマのような一筆書きの物語にまとめることは困難です。また、無理に物語仕立てにまとめようとすれば大幅な推測を交えて作成しなければならなくなり、歴史事実と大きく乖離してしまう虞もあることから、打越氏(内越氏)の歴史を物語仕立てにまとめることは断念し、以下では断片的に残されている古文書等から確認できる打越氏(内越氏)の祖先の事績を時系列順に並べています。また、打越氏(内越氏)の年表を各系流別に分けて作成するのではなく、全ての系流を1つにまとて作成することで、ジグソーパズルの1つのピースだけではなく、いくつかの断片的に残るピースを繋ぎ合わせることが可能となり、各々のピースが持つ意味もよく見え、時代の全体像を把握し易くなるのではないかと考えます(注44)。現代に生きる打越氏(内越氏)の末裔が様々な人生の困難に直面したときに、約700年間に亘って営々と受け継がれてきた打越氏(内越氏)の歴史に思いを馳せることで精神的な支えとなるものが感じられるのではないかと思いますし、それが歴史を学び、家譜を語り継ぐ意義の1つではないかと思います。打越氏(内越氏)の各系流の大まかな相関関係(俯瞰図)は図表6(第1部第2巻第1段④)をご参照下さい。

 

(注44)年表を貫く時代の横櫛(日本の歴史を動かした力学)

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明治維新までは、天皇上皇、皇族、公家及び武家が土地の支配権(主権)又はそのうちの土地の分配権(政権)を巡って争ってきた歴史。

②上記①の力学に加えて、外圧(蒙古襲来、黒船来航及び世界大戦)を契機として土地の支配権(主権)又はそのうちの土地の分配権(政権)が動揺。

天皇が蒙古襲来を契機として武家鎌倉幕府)から政権を取り戻すために承久の乱後鳥羽上皇)及び元弘の乱後醍醐天皇)を起こして失敗。時代は下って、天皇が黒船来航を契機として武家江戸幕府)から政権を取り戻すために明治維新明治天皇)を起こして成功(王政復古=政権返上)。

織田信長武家の最高官職である征夷大将軍に就任して幕府を開くことは天皇の臣下として土地の分配権(政権)を移行されるだけなので拒否し、自ら天皇に代わる国王になり土地の支配権(主権)を得ようとろうとしたが失敗。豊臣秀吉は農民出身で武家の最高官職である征夷大将軍に就任して幕府を開くことができないので、朝廷の権威を借りてその最高官職である太政大臣に就任して土地の分配権(政権)を掌握。(朝鮮出兵は、農民出身の豊臣秀吉が日本の国王になることを断念し、外国の国王になることを目指したものか。)

 

第2段 主要な事績(略年表)

暦年 祖先 場所 出来事(【略号】)
皇族vs公家の「土地の支配権」(主権)を巡る内乱
645年(皇極天皇4年)、中大兄皇子(後の天智天皇)と蘇我入鹿(公家)が争った「乙巳の変」勃発
大化の改新で公地公民制が導入、天皇が全国の土地と人民を支配(各地の土地と人民を管理するために国司を配置)
皇族vs皇族の「土地の支配権」(主権)を巡る内乱
672年(天智天皇元年)、皇太子・大友皇子と吉野・大海人皇子が争った「壬申の乱」の勃発
天皇vs地方豪族の「土地の支配権」(主権)を巡る内乱
794年(延暦13年)、桓武天皇坂上田村麻呂征夷大将軍(蝦伐する軍の指揮官)に任命して蝦夷征伐を開始

858年

(天安2年)

清和天皇 京都府 第56代天皇に即位
天皇vs公家&武家の「土地の支配権」を巡る内乱
935年(承平5年)「平将門の乱」の勃発
939年(天慶2年)「藤原純友の乱」の勃発

961年

(応和元年)

源経基 京都府

清和源氏の祖】

清和天皇の第六皇子・貞純親王の子で、平将門の乱藤原純友の乱を鎮撫して源姓を下賜されます。

1004年

(寛弘元年)

源満政 岐阜県羽島市

美濃源氏の祖】

源経基の次男で、武蔵守や陸奥守を就任します。

1047年(永承2年) 源頼信 兵庫県川西市

河内源氏の祖】

源経基の嫡男・源満仲の三男で、平忠常の乱を鎮撫して河内守に就任します。

天皇vs地方豪族の「土地の支配権」(主権)を巡る内乱
1051年(永承6年)「前九年の役」の勃発
1083年(永保3年)「後三年の役」の勃発
1087年(寛治元年) 源義光 兵庫県川西市

常陸源氏(佐竹氏)の祖】

甲斐源氏(武田氏)の祖】

源頼信の子・頼義の三男(新羅三郎)で、後三年の役で苦戦する兄・源義家を支援するために陸奥国へ下向し、その功績で常陸介に就任します。これに伴って長男・義業を常陸国久慈郡佐竹郷(茨城県常陸太田市)、三男・義清を常陸国那珂郡武田郷(茨城県ひたちなか市)へ派遣します。

1126年(大治元年) 源重長 岐阜県岐阜市

【木田氏の祖】

(源(陸奥守)満政-源(遠江守)忠重-源(駿河守)定宗-源(左衛門尉)重定までの年表は割愛します)。源(左衛門尉)重定の次男。美濃国方県郡木田村、開田村、打越村及び彦坂村の地頭職に就任します。

1127年(天承元年) 源義清 茨城県ひたちなか市山梨県巨摩郡(配流)

甲斐源氏(武田氏、小笠原氏、南部氏、於曾氏)の祖】

源義光の三男で、常陸国那珂郡武田郷を支配し、武田(武田冠者)を名乗ります。その後、領地争いが原因で勅勘を蒙り甲斐国巨摩郡へ配流され、甲斐国巨摩郡平塩岡に館を構えます(その近隣の山梨県西八代郡市川三郷町市川大門は歌舞伎の名跡市川団十郎発祥の地です)。
 歌舞伎「江戸の夕映え」(大佛次郎作)には旗本・打越郁之助が登場し、これまで初代市村鶴蔵三代目市川右之助初代澤村大蔵六代目中村山左衛門などに演じられています。
法皇天皇vs上皇天皇の「土地の支配権」(主権)を巡る内乱
1156年(保元元年)、後白河天皇崇徳上皇が争った「保元の乱」勃発
1159年(平治元年)、後白河法皇の近臣と二条天皇の近臣が争った「平治の乱」勃発
後白河天皇武家(源氏、平氏)を味方につけて「保元の乱」に勝利し、武家(源氏、平氏)が台頭
後白河法皇の近臣・平氏が「平治の乱」に勝利し、二条天皇の近臣・藤原氏及び源氏は没落して平氏のみが台頭
1168年(仁安3年) 木田(判官代)重固(美濃源氏 岐阜県岐阜市

近衛院判官代に就任します。

1178年(治承2年) 木田(判官代)重國(美濃源氏 岐阜県岐阜市

高松院判官代に就任します。

天皇武家へ「土地の支配権」のうち「土地の分配権」(政権)が移行

1180年(治承4年)、後白河法皇の皇子・以仁王及び源氏と平氏が争った「治承・寿永の乱」勃発(源平合戦

1185年(文治元年)、天皇から源頼朝に全国の土地と人民を管理するために守護・地頭を任命する権限を与える文治の勅許

武家の武力を背景としなければ政権を維持できなくなった天皇武家に政権を移行し、国司天皇)と守護・地頭(武家)による二重統治

1189年(文治5年)、奥州藤原氏と源氏が争った「奥州合戦」勃発

1192年(建久3年)、源頼朝征夷大将軍に任命されて鎌倉幕府を樹立
平清盛天皇の権威に立脚した傀儡政権を指向したのに対し、源頼朝は武力を背景に天皇から独立した政権を指向しており、本格的な武家政権源頼朝から開始。
1185年(文治元年) 加賀美遠光 山梨県南アルプス市

甲斐源氏(小笠原氏、南部氏、於曾氏)の祖】

小笠原流煎茶道の祖

源頼朝から信濃守を拝命。源義清の四男で、甲斐国巨摩郡加賀美郷を支配し、加賀美氏を名乗ります。

1195年(建久6年) 小笠原長清 山梨県南アルプス市

【小笠原氏の祖】

小笠原流弓馬術礼法の祖

【打越氏(内越氏)の祖】

加賀美遠光の二男で、甲斐国巨摩郡小笠原郷を支配し、小笠原氏を名乗ります。
?年 於曾光俊 山梨県塩山市

【於曾氏の祖】

【打越氏(内越氏)の祖】

加賀美遠光の五男で、甲斐国山梨郡於曾郷を支配し、於曾氏を名乗ります。
1219年(承久元年) 小笠原(大井)朝光 長野県佐久市

【大井氏の祖】

【打越氏(内越氏)の祖】

小笠原長清の七男で、小笠原朝光が承久の乱の戦功により信濃国佐久郡大井郷を下賜され、大井氏を名乗ります。吾妻鑑によれば、1213年(建暦年)、小笠原長清の妹・大弐局は自分が養育係を務めた源実朝から和田合戦で没収した出羽国由利郡の所領を恩賞として与えられますが、大弐局には子がおらず、甥・大井朝光を養子に迎えて出羽国由利郡の所領を相続させます。1331年(元弘元年)頃までには、大井朝光の後裔が出羽国由利郡へ下向し、その後、楠木氏と姻戚関係を結んで打越氏(内越氏)を名乗ります。

天皇vs武家の「土地の分配権」(政権)を巡る争い
1221年(承久2年)、後鳥羽上皇による「承久の乱」勃発(後鳥羽上皇隠岐へ配流)/span>
日本(武家)vs外国の「日本の土地の支配権」(主権)を巡る争い
1274年(文永11年)「文永の役」の勃発
1281年(弘安4年)「弘安の役」の勃発
※文永・弘安の役で幕府から武家への恩賞がなく、武家による幕府への不満が元弘の乱(討幕)へと発展
天皇武家へ「土地の分配権」(政権)が移行
1331年(元弘元年)後醍醐天皇による「元弘の乱」の勃発
元弘の乱天皇から武家への恩賞が少なく、武家による天皇への不満が南北朝の動乱へと発展
1221年(承久3年) 木田(判官代)重知(美濃源氏

岐阜県岐阜市

後鳥羽院北面の武士。従弟・木田(判官代)重季、甥・木田重泰らと共に、承久の乱後鳥羽上皇に味方して討死します。
1270年(弘長・文永年間) 木田(左近大夫)頼氏(美濃源氏

岐阜県岐阜市

美濃源氏流打越氏の祖】
美濃源氏八島氏流・木田重知は承久の乱後鳥羽上皇に味方して討死し、同じく美濃源氏八島氏流・彦田政氏を婿養子に迎えて家督を相続させますが、美濃国方県郡打越村、土井村、石谷村に減封され、その地頭職に就任します。更に、その孫・木田頼氏が美濃国方県郡打越村に減封され、その地頭職に就任して打越氏を名乗ります(注2-2)。 ※このWEBでは、美濃源氏流打越氏を対象としていませんので、これ以後の美濃源氏流打越氏の家系図は巻末家系図:図表12に譲り、年表は割愛します。
1336年(建武2年) 於曾(左衛門尉)貞光

山梨県塩山市

京都府

【本家Ⅰ】
(於曾光俊-於曾(兵衛尉)光清-於曾(左衛門尉)光忠-於曾(刑部少輔)長忠ー於曾(治部少輔)長宗までの年表は割愛します)。於曾光俊の後裔・於曾長宗の子。1336年1月、鎮守府将軍北畠顕家は上洛し、後醍醐天皇に謀反して京都を包囲していた足利軍を一掃しますが、1336年5月、西国で勢力を盛り返して再上洛した足利軍は湊川の戦いで新田氏及び楠木氏を破り、京を制圧します。この際、内野の合戦で名和長年らと共に於曾(左衛門尉)貞光が討死します。
天皇武家へ「土地の分配権」(政権)が移行
1336年(延元元年)後醍醐天皇南朝)と足利尊氏光明天皇北朝))が争った「南北朝の動乱」の勃発
1336年(延元元年)足利尊氏が征夷代将軍に任命されて室町幕府を樹立
※1回目の外圧(蒙古襲来)では天皇への政権移行は頓挫、2回目の外圧(黒船襲来)で天皇への政権移行が成就
1336年(延元元年) 楠木正家

大阪府南河内郡茨城県那珂市秋田県由利本荘市

【分家Ⅰ】

1335年(建武2年)、楠木正成は、後醍醐天皇から下賜された常陸国久慈郡(後に那珂郡)の地頭職の代官として弟又は従弟の楠木正家を派遣します。楠木正家は、鎮守府将軍北畠顕家後醍醐天皇に謀反した足利尊氏北朝勢力)を討伐するために奥州勢を従えて上洛している間、東国を守備するために瓜連城(茨城県那珂市)を築城して北朝勢力・佐竹氏を撃退します。しかし、1336年(延元元年)12月、足利尊氏北朝勢力を支援するために常陸国へ大軍を派遣すると瓜連城は落城し、楠木正家は鎮守府将軍北畠顕家を頼り奥州へ落ち延びます。その後、後三年の役源義家及び源義光が攻めた金沢柵を守備し(その痕跡が横手市金沢本町字菊水という字名に残されています。)、やがて打越城(白坂館出羽国仙北郡打越郷(現、大沢郷寺))(参10、11)へ移動して南朝勢力の支援に尽力します。1337年(延元2年)8月、楠木正家は、鎮守府将軍北畠顕家の再上洛に加わりますが(参21、66、75、84、113)、石津の戦いで敗北し(参253)、その後、1348年(正平3年)、楠木正家は、楠木正行らと共に四條畷の戦いで自害又は討死します。なお、楠木正家の子・楠木正安は出羽国由利郡に残って小笠原(大井)氏と姻戚関係を結んで打越氏(内越氏)を名乗り、その孫・楠木(内越)正宣は在地勢力の由利氏と姻戚関係を結んで勢力基盤を固めます(参6、11、115)。

【異説】

1391年(元中8年)、楠木正儀の孫・楠木正家は成良親王を奉じて出羽国へ下向し、打越城(白坂館/秋田県大仙市打越郷(現、大沢郷寺))(参10、11)へ入って奥州地方の南朝勢力を支援しますが、1392年(元中9年)、南北朝合一の勅使が訪れ、楠木正家は出羽国由利郡及び河辺郡の二郡を下賜されたので内越城(平岡館)(秋田県由利本荘市内越)へ移り、その鎮撫平定に尽力します。

☞ 成良親王は「太平記」に兄・恒良親王と共に花山院第に幽閉されて毒殺されたとあり、また、「師守記」には1344年死亡という記録がありますので、上記の異説はこれらの古文書等の記録と相違します。また、南北朝合一により楠木正家が由利郡(約7.7万石)及び河辺郡(約2.7万石)を下賜されたとすると2郡で合計約10万石という広大な領地(伊賀国に相当)を与えられたことになりますが、そのような公式の記録は残されておらず(豊臣秀吉から奥州仕置で打越氏に下賜された領地は1250石であり大きな乖離があります。)、後世の創作話である可能性が高いと思われます。この点、楠木正家の後裔が出羽国由利郡における土地支配の正当性を主張するための方便として語られたものが、そのまま記録として残されたのではないかと推測します。

1337年(延元2年) 於曾(伊予守)時高 長野県佐久市京都府

【本家Ⅰ】

第10代・於曾貞光又は第11代・於曾(右馬助)光時の子。於曾貞光及びその次男又は孫の於曾時高は南朝勢力として後醍醐天皇に従いますが、於曾光時が於曾貞光から家督を相続して僅か3年後に於曾時高へ家督が承継され、1337年3月、越前国金ヶ崎城で足利軍に抵抗を続けていた後醍醐天皇の皇子・尊良親王及び新田義顕らと共に於曾時高が討死します(打越氏御先祖様代代覚書控/参10)。

1394年(応永元年) 於曾(左衛門尉)光栄 長野県佐久市秋田県由利本荘市

【本家Ⅰ】

(於曾(伊予守)時高-於曾(伊豆守)時晴-於曾時長までの年表は割愛します)。於曾(兵部丞)時長の子。1392年(元中9年)、南北朝合一がなり、1394年(応永元年)、足利義満から足利義持へ将軍職が譲られて室町幕府の政権基盤が固められると、於曾光栄は1391年(元中8年)から出羽国及び陸奥国を管轄していた鎌倉公方出羽国由利郡への下向を願い出て、その弟・於曾(又二郎)光広が出羽国由利郡へ下向します(打越氏御先祖様代代覚書控/参10)。時代は下り、豊臣秀吉から出羽国由利郡内越郷の本領安堵御朱印状が小笠原(大井)氏流・打越(宮内少輔)光重へ下賜されて惣領家と定まり、於曾氏が支配していた土地(≒於曾氏の家督)も統合、承継されて打越氏(内越氏)を名乗ります。

☞ 於曾光栄と於曾尚光の間には約100年のブランクがあり、打越氏御先祖様代代覚書控(参10)に約2世代抜けがある可能性がありますが、その弟・於曾(左衛門尉)光広が出羽国由利郡へ下向した年を応仁の乱が勃発した1467年(応仁元年)とする資料もあり、これによれば於曾光栄と於曾尚光との間に世代抜けはなくなりますので、年代の誤記の可能性も考えられます。因みに、1467年には仁賀保氏の祖である小笠原(大井)友挙や矢島氏の祖である小笠原(大井)重泰が出羽国由利郡へ下向し、由利十二頭による支配体制が確立します(参19)。

1465年頃 打越(伊賀守) 茨城県

【分家Ⅱ】

打越伊賀守は、常陸国那珂郡(かつて楠木正成が御醍醐天皇から地頭職を下賜され、その弟又は従弟・楠木正家を代官として派遣した常陸国久慈郡の隣地)へ移り、その地を支配していた江戸(但馬守)道勝(江戸道房が晩年に出家して江戸道勝と改名)(参116)から常陸国那珂郡三反田郷(ひたちなか市)に永楽200貫(豊臣秀吉による太閤検知よりも前の時代は貫高制で、その後に石高制に変更されますが、目安としては1貫≒10石なので200貫≒2000石)を与えられ、立(館)山城主茨城県ひたちなか市館山)となります。なお、その子・打越豊後守が家督を相続し、次男が大戸村の庄屋、三男が中根村の庄屋として帰農させます(参16、117)。

☞ 「村々旧家諸姓落着書上簿」(参16)には、打越氏(内越氏)(分家Ⅱ)の元祖として打越伊賀守の名前が記載されており、その家紋は打越氏(内越氏)(本家Ⅰ、分家Ⅰ)と同じく丸に一文字三ツ星紋を使用していることから、1465年頃までには打越伊賀守が出羽国由利郡から常陸国那珂郡へ移住し、江戸道勝(道房)へ仕官したものと思われます。なお、出羽国由利郡で打越氏(内越氏)を名乗り始めたのは打越(宮内少輔)光重の代からであるという記録もありますが(打越氏御先祖様代代覚書控/参10)、上記のとおり打越(宮内少輔)光重が生まれる前の時代に常陸江戸氏に仕官した打越伊賀守とその子孫が打越氏を名乗り、丸に一文字三ツ星紋を使用していた記録が残されていることから、打越(宮内少輔)光重よりも前の世代から打越氏(内越氏)を名乗っていたと考えられます。この点、打越氏御先祖様代代覚書控(参10)は、楠木氏又は小笠原(大井)氏の系流を起点として作成したものではなく於曾氏の系流を起点して作成されたもので、豊臣秀吉から打越(宮内少輔)光重に本領安堵御朱印状が下賜されたことを契機として於曾氏が支配していた土地(≒於曾氏の家督)が打越(宮内少輔)光重に統合、承継され、そのために於曾氏は打越(宮内少輔)光重の代から打越氏を名乗り始めたと記載されているのではないかと考えられます(第1部第1巻第2段第1節③を参照)。

☞ 熊野三山を結ぶ熊野川沿いに打越氏(本家Ⅱ、本家Ⅲ)の末裔が数多く分布していますが、そこに隣接する和歌山県新宮市熊野川町相須紀州武田氏流愛洲氏の発祥の地となった場所とも言われており、その庶流である相須氏は和歌山県以外に茨城県ひたちなか市(打越伊賀守が守備した立(館)山城の周辺)に集中的に分布しています。この点、愛洲(曾)六郎左衞門尉は南朝勢力として北畠親房に従っていたという記録がありますが、1338年(延元3年)、北畠親房南朝勢力の拡大を図るために東国へ下向した愛洲一族の末裔の可能性も考えられます。

1400年代後半 内越(宮内少輔)氏光 秋田県由利本荘市

【本家Ⅰ】

(小笠原(大井七郎)朝光-小笠原(大井又太郎)光長ー小笠原(大井彦太郎)時光-小笠原(大井孫太郎)光家-小笠原(大井弥二郎)光長-小笠原(大井又三郎)行光-小笠原(大井弥三郎)光俊-小笠原(大井又一郎)光治-小笠原(大井弥二郎)光忠-小笠原(大井八郎左衛門尉)光政までの年表は割愛します)。小笠原(大井八郎左衛門尉)光政(正光?)の子。内越(宮内少輔)氏光(本家Ⅰ)と同世代の楠木正清(分家Ⅰ)が小笠原氏から妻を迎えていますので(親川楠家系図/参11)、この頃、小笠原(大井)氏と楠木氏との間で姻戚関係が重ねられて小笠原(大井)氏も本格的に打越氏(内越氏)を名乗り始めたものと考えられます。

☞ 寛政重修諸家譜(巻二百五)(参6)には内越(宮内少輔)氏光が出羽国由利郡発祥の打越氏(内越氏)の祖であるかのような記載が行われていますが、内越(宮内少輔)氏光よりも前の世代から打越氏(内越氏)を名乗っていたと考えられます(親川楠家系図/参10、参16、65)。

1491年(延徳3年) 打越新兵衛 石川県かほく市

【分家Ⅸ?】

京都上賀茂神社の荘園・加賀国金津荘のうち与知村(現、石川県かほく市余地)の土地(童子丸名)を支配していた土豪・打越新兵衛の名前が金津荘村名別公事銭等納帳(延徳3年)に記されています。経済的又は人的関係を利用して金津荘以外の土地から入部し、金津荘の荘園経営には直接関与することなく、専ら軍事的な面で一向宗徒(本願寺)と関係を持っていたと考えられます(参74)(第1部第2巻第2段④を参照)。

☞ 打越氏(本家Ⅱ又はⅢ)の系流にしては年代が古いので、打越氏(本家Ⅰ又は分家Ⅰ)(注45)、或いは、美濃源氏流打越氏の系流である可能性が考えられます。

1493年(明応2年) 於曾(宮内少輔)尚光 秋田県由利本荘市京都府 【本家Ⅰ】
於曾光栄の子。足利義尚足利義政日野富子との間の子)の近臣として仕え(当時、勢力を持っていた鎌倉公方を牽制するために室町幕府将軍が直接に主従関係を持った関東や東北の武士のことを京都扶持衆と言います。)、その一字を賜り於曾光寛から於曾尚光に名前を改めます。足利義尚の死後は河内国守護職畠山義豊に仕えますが、1523年(大永3年)1493年(明応2年)、畠山氏の家督争いに端を発して足利義材及び畠山政長畠山義豊の征伐を企てた戦いで於曾尚光が討死します。この機に乗じて畠山義豊と気脈を通じていた細川政元及び日野富子足利義澄足利義尚の甥で、日野富子の姪が妻)を将軍に擁立するクーデター(明応の政変)を起こします。
1500年前後 打越(豊後守) 茨城県

【分家Ⅱ】

打越伊賀守の子。菊池内膳(南朝勢力として活躍した肥後国の菊池氏の庶流で、江戸但馬守から常陸国那珂郡三反田に700石を与えられて新平館を構えた常陸菊池氏)の姉妹と婚姻関係を結びます。水戸藩郡奉行代官(武茂組)打越瀬左衛門、打越宇衛門の祖先(参21、118)。因みに、肥後菊池氏後醍醐天皇の皇子に従って全国各地に分布しており、青森県八戸市に上陸した菊池氏は南朝勢力・根城南部氏を頼り、主に岩手県遠野市に分布します(陸奥菊池氏)。

1521年(永正18年)頃 於曾(伊豆守)光季 秋田県由利本荘市京都府

【本家Ⅰ】

於曾尚光の子。足利義晴足利義政日野富子の姪との間の子)の近臣として仕え(当時、勢力を持っていた鎌倉公方を牽制するために室町幕府将軍が直接に主従関係を持った関東や東北の武士のことを京都扶持衆と言います。)、1539年(天文8年)に死去。

1560年頃(天正18年) 打越(宮内少輔)光重 秋田県由利本荘市

【本家Ⅰ】

(内越(宮内少輔)氏光-内越(孫四郎)光勝までの年表は割愛します)。内越(宮内少輔)氏光の孫。1580年(天正8)年の大宝寺(武藤)義氏から内越宮内少輔宛の感状や、1561年(天正19年)の最上(出羽守)義光の書状等が残されています(参217)。大宝寺(武藤)義氏は、上杉謙信の死後、織田信長の勢力を頼んで、大浦(津軽)氏や小野寺氏と同盟を結び出羽国由利郡へ勢力範囲を拡大しますが、織田信長の死後、最上氏、秋田(安東)氏及び由利十二頭により出羽国由利郡から退けられます。その後、由利十二頭は豊臣秀吉から最上義光傘下として小田原征伐へ参陣するように要請がありましたが、最上義光が父の葬儀のために遅参することになったので、北国軍(総大将:前田利家、副将:上杉景勝真田昌幸)の信濃衆(真田昌幸麾下)へ加わることになり、北条方の松井田城、鉢形城八王子城を落城させます。これにより豊臣秀吉は由利十二頭を由利五人衆(打越、仁賀保、赤尾津、滝沢、岩屋)へ再編成し直し、出羽国由利郡1250石の本領安堵の朱印状(天正18年(1590年)12月24日付打越宮内少輔宛)を打越(宮内少輔)光重に下賜します。1591年(天正19年)5月4日没。

豊臣秀吉本領安堵御朱印状】

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☞ 打越氏御先祖様代代覚書控(参11)では於曾光氏のことを由緒知れずと記載していますが(参119)、豊臣秀吉による本領安堵御朱印状が小笠原(大井)氏流・打越(宮内少輔)光重に下賜されたことで於曾氏が支配していた土地(≒於曾氏の家督)が打越(宮内少輔)光重に統合、承継され、於曾光氏が家督を失った為ではないかと考えられます(注5)。

☞ 打越(宮内少輔)光重ほか由利衆は小笠原(大井)氏流ということもあり小田原征伐信濃衆(真田昌幸麾下)に編成されますが、真田昌幸忍城攻めに苦戦していた石田三成の援軍に赴いていますので、打越(宮内少輔)光重ほか由利衆も忍城攻めに加わっていた可能性があります。

☞ 九戸政実の乱で打越(宮内少輔)光重は第7陣(傘下:滝沢氏、岩谷氏、平澤氏、西目氏、鮎川氏)を率いる侍大将として出陣し(参246)、先鋒の小野寺勢が劣勢に陥っていたところを助けて九戸勢を敗退させるなどの軍功をあげます。同年、文禄・慶長の役で出陣していた肥前国松浦郡名護屋(現、佐賀県唐津市)で没とありますが、この年には未だ肥前名護屋城は築城されていないので年代に誤りがある可能性もあります。また、当時の史料には複数の打越氏(内越氏)の名前が見られることから、打越(宮内少輔)光重の名代として打越氏(内越氏)の別の者が出陣していた可能性も考えられます(真偽不明)。なお、文禄の役では由利五人衆は渡海せずに肥前名護屋城の在陣衆として軍役を課せられています。1593年(文禄2年)、上杉景勝及び由利五人衆は苦戦する日本軍を支援するために大谷吉継麾下として晋州城へ出陣を命じられますが、渡海前に晋州城が落城したので由利五人衆の渡海は見送られます。その後、慶長の役では遠国の武士は出陣を免除され、由利五人衆は肥前国へ出陣していません(参8)。

1576年頃(天正4年) 打越藤左衛門 和歌山県和歌山市

【本家Ⅱ】

1576年(天正4年)3月、石山本願寺の51出城の1つで、木津川の水運支配の拠点となっていた本庄城(大阪府東大阪市本庄)の戦い(第一次木津川口合戦)に雑賀衆として打越藤左衛門が参加します。総大将の鈴木源左衛門、先陣の山内三郎大夫、高柳監物、西ノ口平内大夫、原平馬、天井浜主計、遊軍の高松三充、打越藤左衛門、津屋十郎左衛門、高仏十郎次郎、土橋平次郎、和歌藤左衛門などが武功に秀で敵味方に有名を馳せていたという記録があります(参31、陰徳太平記/参190)。

1580年頃(天正8年)

楠木正意(=打越正意?)
打越三郎左衛門

和歌山県和歌山市

【分家Ⅰ】

楠木正意は、石山本願寺合戦で顕如上人に味方して石山本願寺及び鷺森別院(雑賀御坊)(雑賀衆・打越氏(本家Ⅱ)の発祥の地)を守備し、その後、1593(文禄2年)、出羽国由利郡打越郷へ遁れたという記録が残されています(熊野国造系楠木氏系譜/参3、52)。また、石山本願寺顕如上人から出羽国の打越(民部太夫)正義(分家Ⅱ)へ加勢を求める書状があり、その名代として弟・打越三郎左衛門を派遣して鷺森別院(雑賀御坊)を守備します(親川楠家系図/参11)。その後、打越三郎左衛門は、出羽国由利郡へ戻り、慶長出羽合戦(北の関ケ原の戦い)で上杉方の酒田城攻めに参陣します(参19)。なお、石山本願寺合戦で顕如上人に味方した楠木正具の子孫が金沢柵跡のある秋田県横手市に落ち延び、その後裔である元アラビア石油社長・山下太郎さん(故人)が楠木同族会の初代会長になっています。上述の肥後菊池氏も然りですが、楠木氏や新田氏など南朝勢力の多くが出羽国陸奥国に落ち延びており、現在もその末裔が分布しています。

1589年(天正17年) 打越(刑部少輔)幹嗣 茨城県

【分家Ⅱ】

打越豊後守の子孫。1589年(天正17年)、常陸江戸氏重臣・神生右衛門大夫が起こした謀反(神生の乱)で、打越刑部少輔は、神生右衛門大夫を匿った小野崎照通が守備する額田城(常陸国那珂郡額田郷)を攻め落とし(小野崎照通は結城へ敗走)、江戸重道から打越刑部少輔に対して「額田において討敵の動比類なく候」という感状が発給されています(参21)。なお、打越瀬左衛門の日記(第3部第1巻)には、打越越刑部少輔は幼少期に北条氏へ人質として送られ、額田城攻めが初陣であり、江戸重道の姪を妻に娶ったことが記されています。

☞ 神生の乱の後に、打越(三郎兵衛)光重(分家Ⅲ)が出羽国由利郡から常陸国へ移って佐竹氏の直臣として召し抱えられます。因みに、一時期、常陸江戸氏(その後、水戸徳川家)に仕えた打越氏(分家Ⅱ)と佐竹氏に仕えた打越氏(分家Ⅲ)、徳川将軍家に仕えた打越氏(本家Ⅰ)が同じ常陸国の隣接する場所に住んでいたことになります。

1589年(天正17年)

打越彦三郎

茨城県

【分家Ⅱ】

打越豊後守の子孫(打越(刑部少輔)幹嗣の弟?)。1589年(天正17年)、常陸江戸氏重臣である神生右衛門大夫が起こした謀反(神生の乱)で、神生右衛門大夫を匿った小野崎照通が守備する額田城(常陸国那珂郡額田郷)を攻めた際(小野崎照通は結城へ敗走)、敵に取り囲まれて討死しています。菊池内膳の子・菊池隼人の娘を娶っており、打越又右衛門、打越源吉、打越次左衛門の祖先(参21、118)。なお、常陸菊池(地)氏は肥後国の菊池氏の庶流で、江戸但馬守から常陸国那珂郡三反田に700石を与えられて新平館を構えます。菊池隼人の父・菊池内膳は、その姉妹を打越豊後守(水戸藩郡奉行代官(武茂組)打越瀬左衛門の祖先)に嫁がせ、また、菊池隼人はその娘を打越彦三郎(額田城の戦いで討死)に嫁がせるなど打越氏(分家Ⅱ)と親密な姻戚関係を結んでいます(参21、118)。

?年

打越(三郎兵衛)光重

秋田県由利本荘市茨城県

【分家ⅩⅢ】

出羽国由利郡から浪人して常陸国へ入部し、大番組・禄高30石で佐竹(右京大夫)義宣へ仕官します(参230)。この打越(三郎兵衛)光重は打越(官職:宮内少輔、幼名:孫太郎)光重(本家Ⅰ)とは同名別人です(「光重」の諱を名乗る人物は打越(宮内少輔)光重、打越(三郎兵衛)光重、大井(又次郎)光重の3人が確認できます。また、「宮内少輔」の官職を名乗る人物は打越(宮内少輔)光重、打越(宮内少輔)頼尹、打越(宮内少輔)長治などが確認できます。)(戸澤家譜/参19)。この点、1591年、打越(飛騨守)光隆が本家Ⅰの家督を相続したことを受け、打越氏(内越氏)の庶流の一部が他国へ仕官を求めて移住した可能性が考えられ(現代でも次男以下は実家を出て独立するのと一緒)、打越(三郎兵衛)光重もその一人であった可能性があります。

1599年(慶長4年)

打越十兵衛

鹿児島県

【分家ⅩⅢ】

1599年(慶長4年)、庄内の乱(関ケ原の戦いで島津氏が数百の軍勢しか派兵できない原因となった御家騒動)を起こした伊集院忠眞(打越房勝の娘が嫁いだ伊集院忠真は同姓同名の別人)の弟・伊集院小次郎が籠城した末吉城を攻略するために、肝付(肝属)氏の家臣(島津氏の陪臣)である打越十兵衛(御弓箭=武士のこと)が大隅国恒吉郷(現、鹿児島県曽於市大隅町)から末吉城落城後に島津氏の領地へ組み込まれる予定の大隅国末吉郷(現、鹿児島県曽於市末吉町)への移動(衆中召移し)を命じられています(参88)。なお、衆中召移しとは、島津氏の有力家臣の家臣(陪臣)を島津氏の家臣(直臣)として召し抱え、有力家臣の力を削ぐ領地政策のことです。

☞ 伴氏(大伴氏の後裔)が薩摩国国司(掾)として下向しますが、その後、大隅国肝属郡の弁財使(郡奉行と同格)に任命されて肝付(肝属)氏を名乗ります。その後、鎌倉幕府が開府して朝廷による政治から武家政権へ移行すると、清和源氏流・惟宗氏が日向国島津荘の地頭職として下向して島津氏を名乗ります。肝付(肝属)氏は天皇の臣下(南朝勢力)、島津氏は武家の家臣(北朝勢力)の関係で、当初、肝付(肝属)氏が大隅国、島津氏は日向国を支配していましたが、その後、島津氏は鎌倉幕府から大隅国薩摩国及び日向国の守護に任命され、肝付(肝属)氏と勢力争いを行うようになります。やがて南北朝の動乱を経て肝付(肝属)氏は衰え、島津氏へ臣従することになります(注27)。

1600年(慶長5年) 打越(飛騨守)光隆 秋田県由利本荘市茨城県行方市

【本家Ⅰ】

慶長出羽合戦(北の関ケ原の戦い)で最上義光麾下として上杉氏を撃退した軍功により、1601年4月、最上義光、打越光隆らが徳川家康に拝謁し、最上義光は褒美として名刀「正宗」を与えられ、打越光隆は徳川氏の直臣に取り立てられます。また、徳川家康から打越氏、仁賀保氏、滝沢氏及び赤尾津氏に対して庄内地方に留まって上杉景勝の減封国替えの警備にあたるように命じられます。なお、徳川家康最上義光に宛てた1601年8月24日付の朱印状には最上義光を総大将として先陣:南部利光、第2陣:戸沢政盛ら仙北衆、第3陣:打越源太郎(光隆)ら由利衆、第4陣:最上義光の子・最上義康、第5陣:越後衆から構成される約2万5千名の陣立てを記しています(新庄古老覚書巻之一/参120)。さらに、最上義光が戸澤政盛に宛てた書状の中で慶長出羽合戦(北の関ケ原の戦い)に参陣した者として打越(宮内少輔)頼尹の名前がありますが(参19)、どの系流に属するのかは分かっていません(因みに、「頼」は美濃源氏流打越氏の通字です)。その後、1602年(慶長7年)、打越光隆は、佐竹氏の減封国替えに伴って常陸国行方郡新宮郷(新宮、天掛、龍田)2000石に加増国替えになり、大身旗本として新宮城に入ります。因みに、このとき仁賀保氏は常陸国行方郡武田郷5000石に国替えになっていますが、この地は常陸国那珂郡武田郷(甲斐武田氏発祥の地)から甲斐国へ流布となった源義清の末裔で甲斐国守護・武田信満の弟・武田信久が常陸国行方郡に移り(常陸武田氏の祖)、その地名を武田郷と改めた場所です(参221)。1605年(慶長10年)、徳川秀忠征夷大将軍宣下を受けるための宮中参内の行列の六番(井伊、大久保、榊原、水野、土井、阿部、青山、真田、鍋島等の譜代家臣)の中に打越内膳正(内膳正とは、宮中の官職で宮内省長官のことですが、このときのために特別に付与された官職と思われます。)の名前が見られますが、大身旗本・打越(飛騨守)光隆と思われます。因みに、この行列の八番には上杉景勝毛利秀元京極高次伊達政宗福島正則島津家久佐竹義宣最上義光など錚々たる名前が並んでおり、この行列に名前を連ねる名誉がどれほどのものであったのか分かります。(東大寺雑集録/参204)。1609年(慶長14年)5月18日没。

1614年(慶長19年) 打越当左衛門 青森県

【分家Ⅳ】

1614年(慶長19年)、第3代津軽藩主・津軽信枚は大阪冬の陣で徳川方として3000名の軍勢を率いて出兵していますが(但し、このときは大阪へ向かわずに江戸勤番を命じられています。)、その軍勢の中に鉄砲足軽組を指揮する組頭として打越当左衛門の名前があります(参121)。打越光久が常陸国から出羽国へ加増国替えになったのが1923年、また、打越光久に嗣子がなく御家断絶になったのが1634年(寛永11年)のことなので、それ以前から津軽氏に仕官していたことになりますが、1602年(慶長7年)、打越光隆が出羽国から常陸国へ加増国替えになった際に出羽国へ留まった打越氏(内越氏)(分家Ⅰ)の一部が津軽氏へ仕官した可能性や、「最上家の三兵庫」の1人として雑賀兵庫が最上義光へ仕官している例もありますので(参219)、場合によると、雑賀衆・打越氏(本家Ⅱ、本家Ⅲ)が津軽氏へ仕官した可能性も考えられます。なお、1678年(延宝6年)の記録に同じく鉄砲足軽組を指揮する組頭として打越常右衛門の名前がありますので、代々、津軽氏の鉄砲隊を指揮していた家があったものと考えられます。

?年 打越(定左衛門)光信 秋田県由利本荘市茨城県

【分家Ⅲ】

打越(三郎兵衛)光重の子で、徒歩目付・禄高30石。佐竹氏は関ケ原の戦いで中立的な立場をとったので常陸国から出羽国へ減封国替えになり、これに伴って打越光信も出羽国へ移ります(参148)。佐竹氏は出羽国羽後国)へ国替えの後に佐竹氏の家臣団の家系図を編纂して「諸士系図」(参148)にまとめていますが、その中に佐竹氏に仕えた打越氏(分家Ⅲ)の家系図(1698年(元禄11年)、打越光信の子・打越(三郎兵衛)光政が作成)が収録されています。

佐竹義宣宛朱印状/慶長7年(1602年)7月7日】

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☞ 1678年(延宝6年)、打越定右衛門が自宅謹慎中(原因は不明)に家督相続の申出を行う前に病死したという久保田藩の記録が残されていますが(山方清兵衛利直日記/参122)、打越(定左衛門)光信と同年代の人物なので兄弟の可能性もあります。但し、上記の家系図には打越定右衛門は記載されておらず、久保田藩には複数の家が仕えていた可能性があります。

1622年(元和8年) 打越五郎右衛門 和歌山県和歌山市

【本家Ⅱ】

戦国時代に紀伊国を支配していた有力な地侍として鈴木孫一津田監物、佐武伊賀守らと共に、打越五郎右衛門の名前が記録されています(参198)。海士郡雑賀党・打越五郎右衛門が組頭・戸田金左衛門の配下の六十人地士として知行50石で紀州徳川家に召し抱えられ(元和八年被召出地士六十人者姓名/参62)、その後、1625年(寛永2年)に組頭・渋谷伯耆守の配下に組替えになっています(大番頭六人預与力地士六拾人姓名/参62)。

☞ 1619年(元和5年)に徳川頼宣紀州国へ入部後直ちに、紀州の旧家や地侍のうち、熊野八庄司の末裔や畠山氏、湯川氏、宮崎氏(奥州探題職に仕え、一時期、秋田県仙北郡へ潜伏)及び貴志氏の遺臣の中から武功に秀で、家柄の由緒正しい60人を選んで土着のままで紀州藩士として取り立て「六十人者与力」(六十人地士)を組織し、その後、1654年(承応3年)に「六十人者」に改名します。「六十人者与力」(六十人地士)は、紀州藩士として有事の軍役に加え、警察機能を持ち村々を統治すると共に、訴状を取り扱うなど各村々の奉行代官的な役割を果たすために広範な権限を与えられています。

☞ 現在確認できているだけで紀州徳川家に仕官した打越氏(本家Ⅱ)には2つの系流があり、紀州藩士(扶持人)で「◯左衛門」「◯蔵」を通名(分家Ⅰ、Ⅱと同じ)とする系流と、紀州藩士(六十人地士)で「◯右衛門」を通名(本家Ⅰと同じ)とする系流が確認できます。なお、六十人衆として打越五郎左衛門の名前も記されていますが(参123)、打越五郎右衛門との関係は不明です。

?年 打越忠蔵 和歌山県田辺市

【本家Ⅲ】

紀伊風土記には由緒正しい旧家として、紀伊国牟婁郡(口粟野)道湯川村の湯川興兵衛や紀伊国牟婁郡(口熊野)大内川村の愛洲七郎兵衛等と共に、紀伊国牟婁郡(口熊野)和田村の打越忠蔵の名前が記録されています(紀州各郡地士姓目名/参62)。

☞ 打越忠蔵は、紀州武田氏流・湯川直春の第四子・忠蔵が紀伊国牟婁郡下川下村字打越(打越城)及び紀伊国牟婁郡和田村(打越屋敷)で仏門に入り打越氏を名乗りますが(参53)、この際、雑賀衆・打越氏との間で姻戚関係が結ばれた可能性があります。また、同じく紀州武田氏流・湯川氏の諸流・愛洲憲俊(武田家弘から嫡流の湯川氏と庶流の愛洲氏に分家)の弟・久留栖(愛洲)忠俊の末裔が打越屋敷と和田川を挟んだ対岸に久留栖屋敷を構え、その末裔が打越氏を名乗ったとも言われています(参59)。

1623年(元和9年) 打越光久 茨城県行方市秋田県由利本荘市

【本家Ⅰ】

打越光隆の嫡子・打越光久が家督を相続して徳川秀忠に仕えます。1623年(元和9年)、最上氏の国替えに伴い常陸国行方郡新宮郷2000石から出羽国由利郡矢島郷3000石に加増され、交代寄合旗本(大名待遇格)として八森城へ入ります。その後、1634年(寛永11年)8月7日、高田馬場で頓死しますが、嗣子なく御家断絶となります。

☞ 1623年(元和9年)、打越光隆が八森城(出羽国由利郡矢嶋郷)へ入ったとする説がありますが、打越光隆は1609年(慶長14年)に没しています(寛政重修諸家譜(巻二百五)/参6)。この点、1602年(慶長7年)、出羽国由利郡内越村から常陸国行方郡新宮郷へ加増国替えになった当時は打越光隆が当主であり、出羽国由利郡の人々の間に打越光隆が出羽国由利郡矢島郷へ戻ってきたという風聞が流布されたことによるものではないかと推測されます。また、打越氏御先祖代々記覚書控(参10)には、打越光隆が出羽国由利郡小砂川に隠居したという記録が残されており、また、諸家系譜(参6)には同じく津軽に隠居したという記録も残されていますが、上述のとおり打越光隆は常陸国常陸国行方郡新宮郷から出羽国由利郡矢島郷へ加増国替えになる前に没していますので、これは打越光隆と打越光豊又は打越光忠津軽藩船橋騒動により出羽国へ戻って浪人し、その後、津軽十郎左衛門の取り計らいで陸奥国津軽郡小湊村へ屋敷を与えられています。)を取り違えているのではないかと思われます。なお、打越光久は常陸国行方郡新宮郷にいた時代に親交があった長国寺(常陸国行方郡八代による曹洞宗総持寺系の寺院)の八世即殿分廣和尚の弟子・白峰廣椿和尚を招いて、1623年(元和9年)に打越光隆の菩提を弔うために龍源寺を開基します。この点、打越光隆が龍源寺を開基したと解説しているものを見かけますが、一級資料である天下僧録牒(参205)には打越光久が龍源寺を開基したという記録が残されています。

☞ 打越氏(本家Ⅰ)の家臣として菅原景本、菅原景長、工藤次郎三郎、今泉光家などの名前が残されていますが(参124)、打越光久が城主であった八森城内には古くから菅原道真公を主祭神とする天満宮が祀られており(菅原景本、菅原景長は菅原道真公の末裔とも言われています。)、天神信仰が盛んであったことが伺われます。また、出羽国由利郡矢島郷には山田与左衛門及び金子久左衛門という大肝煎がいて、このうち金子久左衛門(本国常陸・生国出羽)は、矢島満安及び打越光久に仕え、20人の足軽を預けられています(参229)。

1631年(寛永8年) 打越佐吉 秋田県由利本荘市青森県

【分家Ⅴ】

打越氏(内越氏)(本家Ⅰ)が御家断絶となる前に、出羽国由利郡から打越佐吉が第2代津軽藩主・津軽信枚へ仕官しています(参69)。

 

1631年(寛永8年) 打越刑部 茨城県

【分家Ⅱ】

常陸国那珂郡三反田郷の郷侍。常陸江戸氏の滅亡及び常陸佐竹氏の減封国替えの後、常陸江戸氏の旧臣は水戸徳川家から郷侍として領地を与えられています。

1634年(寛永11年) 打越光種 浦和市

【本家Ⅰ】

1629年(寛永6年)、打越光久の弟・打越光種が徳川秀忠に拝謁し、慶長出羽合戦(北の関ケ原の戦い)での軍功を評価され、1634年(寛永11年)、徳川家光の近侍として上洛軍に供奉します(参125)。その後、御書院番(将軍直属の親衛隊)に取り立てられて御家を再興し、食禄300俵の蔵米取りを経て、武蔵国北足立郡大久保村神田村に500石を知行されます(参126)。1670年(寛文10年)2月15日没。

【旧大久保村/埼玉県さいたま市桜区大久保領家】

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【旧神田村/埼玉県さいたま市桜区神田】

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1634年(寛永11年) 打越弘親 茨城県

【分家Ⅱ】

寛永年間半ばに郷侍の子弟を水戸徳川家の家臣として召し抱える政策がとられ、1634年(寛永11年)、打越刑部の子・打越弘親が郷士として水戸徳川家郷士として召し抱えられます(参117、129)。なお、水戸金工打越派の打越弘親とは同名別人です。

?年 打越(金右衛門)光清
打越(半四郎主殿)光春
打越(伝七郎)光豊
秋田県由利本荘市岩手県

【分家Ⅴ】

打越光隆の長男・打越光久の急死により嗣子なく御家断絶になりますが、長女・打越センが初代津軽藩主・津軽(右京太夫)為信の養女になっていたことから(その後、打越センは津軽藩家老・津軽伊豆の妻、その娘は津軽藩家老・津軽美作の妻)、その縁故を頼って、三男・打越(金右衛門)光清、四男・打越(半四郎主殿)光春、五男・打越(伝七郎)光豊は第2代津軽藩主・津軽越中守)信枚へ仕官します。なお、打越(半四郎主殿)光春は400石、打越孫九郎は700石及び打越城左衛門(なお、打越城左衛門、打越常左衛門、打越丈左衛門(御家断絶前の打越氏(本家Ⅰ)の家老)は、それらが活躍した年代やその経緯からいずれも別人と考えられます。)は400石という高禄を与えられ(信枚公御代元和年中御家臣姓名大概/参128)、また、打越(半四郎主殿)光春は第3代津軽藩主・津軽信義により大目付に登用されます(参128)。1634年(寛永11年)、第3代将軍徳川家光は将軍代替りの挨拶のために約30万の軍勢を率いて上洛しますが(本家Ⅰの打越光種が徳川家光の近侍、分家Ⅳの打越半四郎及び打越嘉平次が津軽信義の近侍として上洛)、この上洛軍に供奉していた津軽信義が京都から戻ると津軽藩御家騒動船橋騒動)が勃発します。1631年(寛永8年)、津軽信義は若年で津軽藩主になりましたが、これを奇貨として権勢を私物化する近従と譜代の家臣との間の対立が深刻化し、津軽伊豆・津軽美作など津軽藩重臣と、これに同調した譜代の家臣・岩橋、三村、打越(孫九郎、半四郎)、坂本、増川、七戸、郡、湊、秋田、郡らが津軽藩家老・舟橋半左衛門及び乾四郎兵衛の不行状を江戸幕府に訴えます。その後、1636年(寛永13年)、幕府評定所の裁定が下り、喧嘩両成敗により津軽藩家老・舟橋半左衛門及び乾四郎兵衛と津軽藩重臣津軽伊豆及び津軽美作は他藩へお預け、また、津軽藩要職にあった沼田八郎左衛門と打越(半四郎主殿)光春は津軽藩追放になり(その後、行方知れず)、御家騒動船橋騒動)は終息します(参110)。なお、津軽藩御家騒動船橋騒動)の後、打越(金右衛門)光清は南部氏の家臣・秋田金左衛門の養子となりますが、打越(伝七郎)光豊は出羽国へ戻って浪人し、その子・打越光忠津軽越中守)信枚の叔父・津軽十郎左衛門の取り計らいにより陸奥国東津軽郡小湊郷へ屋敷を与えられます。(打越氏御先祖様代代覚書控/参11)。

?年 打越孫四郎 秋田県由利本荘市茨城県

【分家Ⅰ】

(楠木(河内守)正家-楠木(出羽守・打越将監)正宣-楠木(七郎左衛門)正光-小笠原(左衛門)正賢-楠木(摂津守)正時-楠木(大炊介)正常-楠木(左馬介允)正清-打越(左衛門)正国-打越(左衛門大夫)正淑-打越(左衛門大夫)正諸-打越(左衛門大夫)正依-打越(式部大夫)正春-打越(民部大輔)正義までの年表は割愛します)。打越(民部大輔)正義の子。打越光久(本家Ⅰ)の急死により嗣子なく御家断絶となりますが、兄・打越(孫次郎)正朝(分家Ⅰ)は落馬の怪我で動けないので弟・打越孫四郎を養子に入れて御家再興を江戸幕府へ訴えたところ、徳川光圀から旗本として召し抱えるので出仕するように指示がありました。なお、打越孫四郎は上京するまでの間、佐竹義隆に身を寄せています(親川楠家系図/参10)。

☞ 打越(宮内少輔)正兼(分家Ⅰ)が打越(宮内少輔)光重(本家Ⅰ)のことを示している可能性がある旨の記述もありますが(参119)、その後の家系図は全く一致していませんので、その可能性は低いと思われます。その一方で、於曾氏の系流(打越氏御先祖様代代覚書控/参11)については打越光重の代から家系図の一致が見られますので、豊臣秀吉が由利十二頭を由利五人衆に整理して打越光重に本領安堵の朱印状を下賜したことにより於曾氏が支配していた土地(≒於曾氏の家督)が惣領家に定まった打越光重に統合、承継されたのではないかと考えられます。

1645年(正保2年) 打越序左衛門 青森県

【分家Ⅳ】

玉林寺(秋田県大館市大館24)へ潜伏していた罪人・佐久間喜左衛門が発見され、打越序左衛門が身柄引請けに出向いたという記録があります(参121)。

1645年(正保2年) 打越藤右衛門 和歌山県和歌山市

【本家Ⅱ】

紀州藩の大番頭・戸田十郎左衛門の配下として打越藤右衛門の名前が記録れています(六十人者地士組分け/参62)。1667年(寛文7年)、打越藤右衛門及びその子・打越清右衛門が紀州藩付家老三浦家を訪れ、打越清右衛門が江戸勤番のために上京するにあたり挨拶を行ったという記録が残されています(参247)。

1659年(万治2年) 打越(治右衛門)光業 栃木県小山市鹿沼市

【本家Ⅰ】

打越光種が鵜殿長種(弁慶の父・熊野別当湛増の末裔)の四男を娘の婿養子に迎えて家督を相続させます。1659年(万治2年)、徳川家綱に拝謁し、御書院番松前伊豆守組)に就任します。1697年(元禄10年)、下野国都賀郡上殿村口粟野村横倉村下古山村に合計500石の知行地を与えられます(参130)。1713年(正徳2年)10月24日没。

拝領屋敷:(1682年~)東京千代田区隼町4国立劇場、(1710年~)東京都千代田区九段北2-4-1シャルトル聖パウロ修道女会(参131)

【旧上殿村/栃木県鹿沼市上殿町】

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【旧口粟野村/栃木県鹿沼市口粟野】

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【【旧横倉村/栃木県小山市横倉】

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【旧下古山村/栃木県下野市下古山】

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【東京都千代田区隼町(1682年~)】

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【東京都千代田区九段北(1710年~)】

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☞ 旗本は江戸城から離れた遠国に知行地がありましたので、その領地を管理するために代官を置き、日頃は江戸城近くに与えられた拝領屋敷で生活していました。打越氏(本家Ⅰ)は、約500石の知行取りでしたが、一般にこのクラスの旗本には約500坪程度の拝領屋敷(時代劇に登場する門番が居る屋敷)が与えられた模様です。

1659年(万治2年) 打越六兵衛 福島県三春町

【分家Ⅶ】

陸奥三春藩(秋田氏)の破損手代(建造物の営繕、材木の管理を掌った役職)として二両二人扶持(万治二年家中給人知行高扶持切米高覚/参132)。なお、1602年(慶長7年)、秋田実季は佐竹氏が出羽国羽後国)へ減封国替えになったことに伴って打越光隆らと共に出羽国から常陸国(宍戸藩)へ国替えになっており、さらに、1645年(寛永21年)、常陸国(宍戸藩)から陸奥国三春藩)へと国替えになっています。

1665年(寛文5年) 打越甚五左衛門 青森県

【分家Ⅳ】

1663年(寛文3年)に津軽藩の御旗大将、1665年(寛文5年)に御物番頭(御書院番頭)になります(参136)。1664年(寛文2年)に第3代津軽藩主・津軽信義の側室・長泉院に騎馬で御供します(参136)。また、1665年(寛文5年)に長峰村の狼狩の陣備え(約5千人弱)の左脇備の侍大将として打越甚五左衛門の名前があります(津軽信政公事蹟/参137)。1665年に打越甚五左衛門の娘が添田儀左衛門貞俊(子・盈章は津軽藩家老)に嫁いでいます(参242)。

1666年(寛文6年) 打越半右衛門 石川県鹿島郡

【分家Ⅵ】

加賀藩前田氏の重臣・長氏は半大名的な立場で独自に領地経営を行っていた能登国鹿島郡で隠田検地を実施し、検地大奉行・三宅善丞、検地奉行・小川三郎左衛門、河嶋治兵衛、横目・堀部新助、帳付・打越半右衛門、宮崎兵三、竿取・高橋八右衛門と郡奉行・代官らが参加します。1667年(寛文7年)、長氏の譜代家臣・浦野信秀と百姓が前近代的土豪的土地支配の既得権益を守るために加賀藩前田氏に対して検地反対越訴を企てる事件(浦野事件)が発生し、長氏はその責任を問われて領地を没収され、以後、半大名的な立場ではなく加賀藩前田氏の1家臣(重臣)として仕えます(参72、245)。

☞ 石川県に分布する打越氏は丸に揚羽蝶紋を使用していますが(但し、現在、石川県に分布している打越氏は美濃源氏氏流木田氏の替紋と同じ蔦紋が多い)、これは打越氏(分家Ⅵ)の主家・長氏が室町時代能登国の守護であった能登畠山氏の家臣(長氏は畠山七人衆に数えられる有力家臣)として仕えていましたが、能登畠山氏は桓武平氏流と清和源氏流の2流(この2流は婚姻関係があり1家を構成)があったので主家から揚羽蝶紋を譲与された可能性や、由利十二頭・矢島氏が替紋として揚羽蝶紋を使用していたこと(参25)に由来する可能性が考えられます。1582年(天正10)年、長氏は七尾城主となった前田利家に臣従し、前田八家の1家として前田氏の重臣になりますが、上述の浦野事件の責任を取らされて長氏の領地(能登国鹿島郡の半分3万3000石)が没収され、加賀国金沢郡への移住が命じられて前田氏の1家臣(重臣、禄高3万3000石)として仕えます。

☞ 長氏中興の祖・長信連は、源頼朝から能登国大屋荘を下賜され、由利小藤太の後家を娶っています。また、於曾(打越)尚光(本家Ⅰ)は河内国守護職であった畠山義豊に仕えましたが、能登国守護職・畠山義統は応仁の乱畠山義豊の父・畠山義就に味方していますので、長氏と打越氏(本家Ⅰ)との間に何らかの関係があった可能性も考えられます。

1667年(寛文7年) 打越城左衛門 青森県

【分家Ⅳ】

津軽藩津軽氏に400石で召し抱えられます(信枚公御代元和年中御家臣姓名大概/参105)。なお、打越城左衛門が越後高田で津軽為信に召し抱えられたという記録もありますが(八木橋文庫「奥富士物語 三」より)、打越氏(内越氏)(分家Ⅰ)の一部が越後高田で浪人していたところを召し抱えられた可能性が考えられます(その子・打越(常左衛門)勝由の「勝」の通字は分家Ⅰのもの)。その後、打越城左衛門は隠居し、1667年(寛文7年)8月18日朝に弘前城御書院で馳走され、御祝儀を下賜されています(参136)。なお、打越城左衛門、打越常左衛門、打越丈左衛門(御家断絶前の打越氏(本家Ⅰ)の家老)は、それらが活躍した年代やその経緯からいずれも別人と考えられます。

1669年(寛文9年) 打越勘左衛門
打越甚左衛門
打越伊左衛門
秋田県

【分家Ⅲ】

1669年(寛文9年)、佐竹義隆は江戸幕府の命によりシャクシャインの戦い(アイヌ民族の蜂起)で松前藩に援軍を送ることになりますが、御使番大将(25名の部隊を指揮)として打越勘左衛門(参109)、御使番として打越甚左衛門が出陣し、打越甚左衛門は先陣を命じられています(参133)。また、その軍勢の大鼓役(陣太鼓を打ち鳴らして軍勢に本陣からの指示を伝える役目)として打越伊左衛門が出陣を命じられます(参134)。なお、1698年(元禄11年)、打越光政が久保田藩に提出した家系図にはその名前が見当たらず、佐竹氏には複数の家が仕官していた可能性があります。

1669年(寛文9年) 打越源五郎 青森県

【分家Ⅳ】

打越城左衛門の子。1669年(寛文9年)10月に開催された第4代津軽藩主・津軽信政の御前試合に当流の達人・高田儀兵衛と共に打越源五郎が出場しています(参135)。なお、石高不明ですが、打越城左衛門の子で津軽藩士・打越市十郎の名前があります(参135)。

☞ 後述の打越(常左衛門)勝由と同一人物である可能性がありますが(幼名:源五郎、通称:常左衛門)、代々、同じ幼名になる例は多く、はっきりしたことは分かりません。

1674年(延宝2年) 打越(常左衛門)勝由 青森県

【分家Ⅳ】

1685(貞享2年)の津軽藩分限帳に寄合400石として名前が記録されており(参136)、打越城左衛門の子・源五郎と同一人物である可能性がありますが(幼名:源五郎、通称:常左衛門)、はっきりしたことは分かりません。1674年(延宝2年)、楠木正家を始祖に持つことから津軽藩に上方への参詣願いを出し、許されています(参243)(上方への参詣願いの理由として石田三成との関係性を推測する書籍もありますが、石田三成と打越氏(内越氏)との関係性を示す事績はなく、始祖・楠木正家の出身地を参詣する目的と考えられます。)。1678年(延宝6年)、第4代津軽藩主・津軽信政の生母・久昌(祥)院が浅虫温泉青森県青森市浅虫)へ湯治に向かいますが、その御供の先頭に打越常左衛門、続いて御駕籠廻り8名、その他の供回り8名が随行しています(参139)。1680年(延宝8年)、打越常左衛門が病死し、その子・源五郎が幼少であることから親類の添田儀左衛門が代わって打越源五郎への家督相続を申し出て認められています(参244)。なお、1696年(元禄9年)、御留守居役でしたが、大凶作で津軽藩から暇を貰い、出羽で浪人していたところ、久保田藩佐竹氏からの仕官の話がありましたが、これを断り津軽に戻ったという記録がありますが(参243)、その真偽は不明です。なお、打越(常左衛門)勝由は、陸奥国津軽郡五林平村(青森県北津軽郡板柳町五林平)に知行地があり、五林平八幡宮青森県北津軽郡板柳町五林平細田)を建立(又は再建)し、「延宝六年七月大日祥 奥州津軽中郡五林台村鎮守(知行のみぎり建立なり)打越常左衛門尉源氏小笠原朝臣勝由 子源五郎勝村」と自筆した棟札を奉納しています(参243)。また、1765年(明和2年)、打越(源五郎)勝村の子・打越〇〇(大組足軽)の婿養子・打越軍八が足軽目付として津軽藩に仕えるという記録が残されています(参243)。

1676年(延宝4年) 打越新兵衛 福島県

【分家Ⅷ】

磐城平藩の大納戸衆(参73)。

☞ 映画「超高速!参勤交代」磐城平藩(内藤氏)は分家の湯長谷藩(内藤氏)に参勤交代の行列を貸すシーンで登場しますが、1747年(延享4年)に日向国(現、宮崎県)の延岡藩へ国替えになっています。なお、近代筝曲の開祖・八橋検校は1663年(寛文3年)まで磐城平藩(内藤氏)に専属音楽家として召し抱えられており、打越新兵衛と同時代を磐城で過ごしています。その後、八橋検校は京都へ移住しますが、筝の形を模した京都名菓「八ッ橋」は八橋検校の名前の由来になっています。

1678年(延宝6年) 打越角右衛門 秋田県

【分家Ⅲ】

佐竹氏の分家である佐竹西家・佐竹義房が久保田藩大館城代を務めていた時代の延宝六年改大館城代家中分限に禄高30石として打越角右衛門の名前があります(参138)。なお、1698年(元禄11年)に打越光政が久保田藩に提出した家系図には名前が見当たらないので、佐竹氏には複数の家が仕官していた可能性があります。

1678年(延宝6年) 打越常右衛門 青森県

【分家Ⅳ】

鉄砲足軽組を指揮する組頭として打越常右衛門の名前があります(参140)。

1683年(天和3年) 打越与兵衛 石川県輪島市

【分家Ⅵ?】

打越宗五郎の子で、才許人として記録があります(参141)。才許(裁許)人とは、新田開発や土地売買等の事務を統制する役職のこと。また、打越宗五郎の子・打越太郎兵衛の名前もあります。

1685年(貞享2年) 打越(左大夫)光高 栃木県小山市鹿沼市

【本家Ⅰ】

1685年(貞享2年)、徳川綱吉に拝謁し、御小姓組(大岡土佐守組)、御留守居番(大奥の警護等)等に就任。1744年(延享元年)8月24日没。下野国都賀郡口粟野村(現、栃木県上都賀郡)約238石、下野国都賀郡上殿村(現、栃木県鹿沼市)約87石、下野国都賀郡下古山村(現、栃木県下都賀郡)約204石、下野国都賀郡横倉村(現、栃木県小山市)約143石を知行されていますが、これらの合計(実高)は約700石となります(旧高旧領地取調帳データベース、参142、143)。なお、1968年(元禄10年)に下野国都賀郡横倉村の代官(当主に代って領地の事務を司る者)として打越浪右衛門が置かれています(参144)。拝領屋敷:(1724年~)東京都千代田区三番町3-9番町千鳥ヶ淵アビダシオン(参131)

【東京都千代田区三番町(1724年~)】

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1688年(元禄元年) 打越(市之進)光長 青森県~千葉県

【分家Ⅴ】

打越光忠の二男・打越光長は津軽藩御家騒動船橋騒動)に巻き込まれて祖父・打越光豊及び父・打越光忠の代から出羽国及び陸奥国(小湊)で浪人生活を送っていましたが、1688年(元禄元年)、第5代将軍徳川綱吉側用人上総国佐貫城主・柳沢吉保に拝謁し(その後、武蔵国川越藩主、甲斐国甲府藩主となり、その子・柳沢吉里の代に大和国郡山藩主)、源(新羅三郎)義光を祖先とする甲斐源氏の誼で柳沢氏に召し抱えられます(打越氏御先祖様代代覚書控/参11)。

1690年(元禄3年) 打越(権八郎)光登 青森県~千葉県

【分家Ⅴ】

打越光忠の三男・打越光登は1690年(元禄3年)に2万石加増された上総国佐貫城主・柳沢吉保に拝謁し、柳沢氏に召し抱えられます(打越氏御先祖様代代覚書控/参11)。

1692年(元禄5年) 打越(藤右衛門)光永
打越(幸四郎)光棟
青森県~千葉県

【分家Ⅴ】

打越光忠の長男・打越光永及び四男・打越光棟は1692年(元禄5年)に3万石加増された上総国佐貫城主・柳沢吉保に拝謁し、柳沢氏に召し抱えられます。なお、打越光永柳沢吉保馬廻りを仰せつかりますが、打越光棟は未だ幼年のため部屋住料を下賜されます(打越氏御先祖様代代覚書控/参11)。1694年(元禄7年)、柳沢吉保武蔵国川越藩に加増国替えになり、これに伴って打越幸四郎を大小姓に登用します。また、1696年(元禄9年)、打越(幸四郎改め、幸右衛門)光棟は柳沢吉保の江戸における御側衆を仰せつけられます(元禄7年柳沢保明(柳沢吉保)家中分限帳/参145)。

1692年(元禄5年) 打越勘太郎 和歌山県

【本家Ⅱ】

高野山には「行人」(雑事)-「学侶」(修行)-「聖」(布教)という3つの階層(高野三方)が存在しましたが、行人と学侶との間で僧侶の資格や儀式の実施権限等に関する論争(騒動)が勃発します(元禄高野騒動)。江戸幕府は騒動鎮圧のために軍勢を差し向けますが、「高野騒動之時出張之地士」として「元禄五申七月高野之儀に付橋本へ罷越候地侍六十人者須田組大庄屋の分」のなかに海士郡の六十人組・打越甚太郎が息子1人及び下人1人を従えて出陣した記録が残されています。なお、「地士所持鉄砲調之事」の「在々所持鉄砲之書付」の中に海士郡宇須村の打越甚太郎が鉄砲一挺、玉目三匁五分を所持していたことが記録されています。この調書には、猪や鹿を駆除するために使用される「おどし鉄砲」や禁猟地区で密猟して取り上げられた「取上鉄砲」、鉄砲の調練に使用される「稽古鉄砲」など鉄砲の用途も記録されていますが、打越甚太郎については「鉄砲」とのみ記録されていることから実戦に使用するための鉄砲であったと考えられます(参62)。

1694年(元禄7年) 打越藤吉 和歌山県

【本家Ⅱ】

1694年(元禄7年)、紀州藩徳川家の地士六十人者(須田組)・紀伊国海士郡宇須村の打越藤吉が記録されています(紀州勢州三領六拾人者等在々名前覚/参146)。

1695年(元禄8年) 打越(瀬左衛門)政徳 茨城県

【分家Ⅱ】

打越氏(分家Ⅱ)は那珂湊に屋敷を構えて常陸江戸氏に仕えていましたが、常陸江戸氏が滅亡して郷侍となり、その後、父の打越弘親が水戸藩郷士として召し抱えられて水戸城下へ移ります(参129)。その子・打越(瀬左衛門)政徳は水戸藩士に取り立てられて吟味役、鳥見役、郡奉行代官等を歴任します。1695年(元禄8年)、徳川光圀の命令で郡奉行の林(十左衛門)正興と共に鹿嶋神社から分祀した氷之沢鹿嶋神社茨城県常陸大宮市氷之沢266)を再建。常陸国久慈郡水府村に住み、徳川頼房(威公)、徳川光圀(義公)、徳川綱条(粛公)の3代に仕えて1719年(亨保4年)没(享年80歳)。打越(瀬左衛門)政徳の長男・打越(七郎次)直は彰考館の史館編集、また、次男・打越(円次郎)政孝は彰考館の史館物書(書記役)に就任しますが(注46)、二人の息子に先立たれたことから、1715年(正徳5年)に那珂湊船手方・米川彦右衛門の子・米川弥八の才能を見込んで打越(瀬左衛門)正徳の長女の婿養子に迎えて打越直正と改名し、やがて彰考館総裁になります(参67、147)。

1695年(元禄8年) 打越清之丞 青森県

【分家Ⅳ】

留守居番に就任します(信政公御代元禄八乙亥年十一月廿一日改候弘前御家中分限帳覚/参105、149)。

1696年(元禄9年) 打越理右衛門 青森県

【分家Ⅳ】

長内杢右衛門と上屋敷替えがあった記録が残されています。なお、打越清之丞との関係は不明ですが、家督相続があった可能性があります(参136)。

1698年(元禄11年) 打越(三郎兵衛)光政 秋田県

【分家Ⅲ】

佐竹氏へ仕官した打越光信の子・打越光政は久保田藩による「諸士系図」の編纂にあたり、佐竹氏へ打越氏(分家Ⅲ)の家系図を提出します(巻末家系図:図表10を参照)。嫡子・打越宇吉(参148)。なお、1711年(寛政11年)、田中清左衛門は不始末により梅津藤十郎へ身柄御預けとなりますが、田中清左衛門が腰痛の悪化を理由としてお役御免を願い出ている旨を、田中清左衛門の親類・打越光政が久保田藩家老へ内々に申し出て認められたという記録が残されています(参231)。

?年 打越形左衛門 青森県弘前市

【分家Ⅲ】

第2代津軽藩主・津軽信枚の時代、岩木山山岳信仰霊場として藩士及び領民の厚い信仰の対象になっていました。津軽藩士・打越形左衛門は仲間2人と岩木山へ参詣登山する途中で行方不明となり、数日後、打越形左衛門が魂を抜かれたような状態で弘前城下へ姿を現します。その翌未明に、打越形左衛門は、大筒鉄砲を持って岩木山へ登り、何度も火口へ発砲する事件(その発砲音が弘前城下まで響いたことで発覚)が発生します(奥富士物語/参108、参151)。打越形左衛門は火山ガスで意識が混濁して幻覚に襲われ、火口に潜む魔物を退治しようとしたのかもしれません。津軽藩はこの事件を奇貨として藩士による岩木山への登山を全面禁止し、藩主家のみが入山を許されるとすることで岩木山霊性を高めると共に、藩主家を岩木山に祀って神格化することで藩士及び領民の人心を掌握する領国統治策の1つとして利用します。なお、打越形左衛門の娘が添田儀左衛門貞盈(子・貞順は津軽藩家老)に嫁いでいます(参243)。また、打越形左衛門は、津軽信政の使者として赴いた久保田藩で接待を受けますが、食膳をひっくり返す不調法を犯した際の対応が泰然として卒がなく、佐竹義格から褒められたという記録があります。その後、打越形左衛門が津軽藩から暇を貰い、久保田藩佐竹氏に2百石で召し抱えられますが、その後、久保田藩佐竹氏からも暇を貰い、二本松藩丹羽氏へ仕官替えしたという記録が残されていますが(参243)、真偽不明です。

1701年(元禄14年) 打越(頼母)光保 栃木県小山市鹿沼市

【本家Ⅰ】

1701年(元禄14年)に徳川綱吉に拝謁し、御書院番(酒井因幡守組)に就任します。父の打越光高に先立って1742年(寛保2年)2月29日没。

1705年(宝永2年) 打越(左太夫)光富 栃木県小山市鹿沼市

【本家Ⅰ】

打越(治右衛門)光業の子で御小姓(皆川山城守組)に就任します(参127)。

1711年(宝永8年) 打越新五兵衛 青森県弘前市

【分家Ⅳ】

足軽目付・横山嘉左衛門及び打越新五兵衛が1711年(宝永8年)1月4日に江戸から到着し、津軽(土佐守)信寿から自宅謹慎(配下の足軽が問題を起こし、その監督責任を問われたものだと思います。30日~50日程度の昼間の外出が禁じられますが、夜間外出は認められていますので、閉門よりは軽い処分です。)を命じられています(巻55本紀54津軽信寿代/参203)

1716年(享保元年) 打越猶右衛門 和歌山県和歌山市

【本家Ⅱ】

紀伊国名草郡の郡奉行代官(参85)。

1717年(享保2年) 打越伊左衛門 和歌山県和歌山市

【本家Ⅱ】

仔細不明。1730年(享保2年)没。(参47)

☞ 1865年(慶応元年)の大垣内の堤防決壊により打越氏(本家Ⅱ)の系譜4種類を流失していますが、現在確認できているだけで本家Ⅱには2つの系流があり、紀州藩士(扶持人)で「◯左衛門」「◯蔵」を通名(分家Ⅰ、Ⅱと同じ)とする系流と、紀州藩士(六十人地士)で「◯右衛門」を通名(本家Ⅰと同じ)とする系流があります。

1724年(享保9年) 打越丈右衛門 奈良県

【分家Ⅴ】

大和郡山藩の御奏者番享保9年分限帳より)、御使番(松之間詰)(安永2年席帳より)を歴任します。また、打越蔵五郎(打越丈右衛門の子?)の家紋として三階菱(安永3年定紋覚より)が記録されています。なお、1724年(享保9年)に柳沢吉保の嫡男で甲府藩主・柳沢吉里は大和郡山藩へ加増国替えになり、大和郡山藩へ向かう行列(約1km)の八番隊の隊長として打越丈右衛門の名前があります(甲陽遺聞録/参152)。

1726年(享保11年) 打越(用右衛門)房勝 鹿児島県

【分家Ⅻ】

薩摩藩島津氏の重臣・禰寝(根占)氏の家臣・打越(用右衛門)房勝の娘が島津氏の分家・伊集院忠眞に嫁いで長女を出産しており(参153)、島津氏の分家・伊集院氏と打越氏(分家Ⅻ)は姻戚関係となります。また、薩摩国日置郡吉利村の検地竿次帳には、「1726年(享保11年)4月18日、郡見廻打越用右衛門、役人弥寝五郎左衛門、竿取谷山猪俣覚之助」らによって検地が実施された記録が残されています(参154)。

1727年(享保12年) 打越(樸齋)直正 茨城県

【本家Ⅱ】

1700年(元禄13年)、徳川光圀水戸藩士船手方の下級武士であった米川氏の子・弥八(14歳)の才能を認めて格留付列史館見習に抜擢し、楠木正成楠木正行新田義貞名和長年、藤原藤房、日野俊基南朝の忠臣を研究していた三宅観瀾(1710年(宝永7年)に彰考館総裁に就任)に師事します(参155、156、216)。1715年(正徳5年)、打越瀬左衛門が弥八の才能に惚れ込んで長女の婿養子に迎えて家督を承継して打越直正と改名させます(参67)。その後、僅か25年で留付→徒→右筆→馬廻→小納戸(総裁)へ出世しますが、「このような昇進振りは当時として全く例のないことであった」ようです(参157、158)。やがて打越直正は徳川光圀が見込んだとおりの才覚を現し、1727年(享保12年)、彰考館総裁に就任して大日本史編纂に従事し、1740年(元文5年)まで彰考館総裁を務めます。最初に出版された「大日本史」(元文検閲本)の完成は打越(樸齋)直正が彰考館総裁を務めていたときのことです。北畠親房の「神皇正統記」を高く評価した徳川光圀及び打越(樸齋)直正は南朝正当論を唱えて楠木氏の復権に尽くし、水戸学の礎を築くなどの功績を残します。徳川光圀(義公)、徳川綱条(粛公)、徳川宗堯(成公)の3代に仕えます。1740年(元文5年)8月5日没(享年55歳)(官位:贈縦五位)。なお、水戸藩儒学者・藤田幽谷(藤田東湖の父)が先生の敬称をもって尊敬していたのは安積澹泊、栗山潜鋒、打越樸齋、立原翠軒の4人であったと言われていますが(参258)、とりわけ打越直正が先輩格の安積澹泊に宛てた「樸齋正議」は、藤田幽谷から高い評価を得ています(参67、155、159)

【彰考館総裁・打越樸齋直正の墓/酒門共有墓地】

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☞ 現在の天皇北朝の系流ですが、1911年(明治44年)、明治天皇は、水戸藩主・徳川光圀や彰考館総裁・打越直正らが「大日本史」で唱えた「南朝正当論」を根拠とし、当時、三種の神器を所持していた南朝が正統であるという勅裁を下し(但し、南朝の正統性は南北朝合一(明徳の和約)により南朝後亀山天皇北朝後小松天皇三種の神器を渡すまでの南北朝時代の間のことで、その後の北朝の正統性を否定するものではありません。)、これが現在に至るまでの皇室の公式見解になっています。この点、打越(樸齋)直正が大日本史の編纂方針について徳川光圀の遺志を示すために著した「僕斎正義」で南朝正当論を唱えながら現在の皇室が北朝の系統であることを重く踏まえて北朝五帝も正統な歴史的取扱いが適当であると反対論を退けた理性的な態度が(参155)、明治天皇による勅裁にあたり大日本史の記載を根拠の1つとされた理由の1つではないかと思われます。なお、打越このWEBの冒頭に掲載している楠木正成像はこのような時代背景のもと住友財閥から東京美術学校(現、東京藝術大学)に制作を依頼し、皇室に献上されたものです。

☞ 北畠親房は関東の南朝勢力を支援するために常陸国へ下向して南朝勢力・小田治久の居城である小田城に入りますが、そこで南朝の正統性を述べた歴史書である神皇正統記を執筆します。時代は下って、水戸藩主・徳川光圀大日本史編纂で神皇正統記を高く評価し、彰考館総裁・打越(樸斎)直正らと共に南朝正当論を唱えて水戸学の礎(前期水戸学は徳川光圀が中心となって尊王思想を唱えますが、後期水戸学は徳川斉昭が中心となって尊王思想に加えて攘夷思想を唱え、原理主義的な傾向を色濃くします。但し、会沢正志斎は晩年に開国論を前提とする富国強兵論に転じており現実主義的な路線に軌道修正を試みています。)(参255、256)を築くと共に、その後の日本の歴史観(1つの王朝(万世一系天皇)によって途切れることなく受け継がれてきた日本の国の治め方を含む歴史的な伝統を尊ぶ考え方)に大きな影響を与えます。この途切れることなく受け継がれてきた日本の歴史的な伝統を守ることが日本人の精神的な支柱となり日本の歴史を形成してきました。

1730年(享保15年) 打越(宗三)世衡 静岡県佐賀県

【本家ⅩⅣ】

1730年(享保15年)頃、岡崎藩主・水野忠輝の代に岡崎藩藩医(外科)として打越(宗三)世衡が仕官します(参250)。1762年(宝暦12年)、水野氏は三河国岡崎藩から肥前国唐津藩へ国替えを命じられており、これに伴って打越(宗三)世衡も肥前国唐津藩へ移ります。1771年(明和8年)に死亡。

1735年(享保20年) 打越助右衛門 和歌山県和歌山市

【本家Ⅱ】

奥熊野2郷村の薬園へ移植した朝鮮人参の栽培状況について郡奉行から郡奉行代官に報告するように指示があり、奥熊野代官所三重県熊野市木本町)・打越助右衛門から報告があった旨が和田興三右衛門から美濃部善一及び茂野八郎兵衛宛の書簡に記されています。(参161)

1742年(寛保2年) 打越(左大夫)光輪 栃木県小山市鹿沼市

【本家Ⅰ】

打越光高は松波筑後守正春(戦国大名斎藤道三の末裔)の五男を娘の婿養子として迎えて家督を相続させます。1742年(寛保2年)、徳川吉宗に拝謁し、御書院番(将軍直属の親衛隊)に就任します。1756年(宝暦6年)11月6日没。打越光輪は、それまで「打越」が「うてつ」「うていち」「うてえち」「うてゑつ」「うてぢ」「うちごえ」「うちごし」「おっこし」など様々な読み方で統一されていなかったので、これを「うちこし」に統一します(注13-2、34)。なお、その娘が小笠原(大隅守)義武に嫁いでいます。

1755年(宝暦5年) 打越八右衛門 鹿児島県

【分家Ⅻ】

禰寝(根占)氏の当主・禰寝(根占)清雄が農業の方法を定めた「農業方之条書」を基にして、薩摩藩郡奉行・汾陽(四郎兵衛)盛常が編纂した「農業法」を薩摩国吉利郷役所(奉行所)が紛失し、1755年(宝暦5年)に有馬源五右衛門が所持していた写本を書き写して打越八右衛門及び禰寝越右衛門が連署したものが残されています。(参162)

1756年(宝暦6年) 打越(治右衛門)光中(仲) 栃木県小山市鹿沼市

【本家Ⅰ】

打越光輪は朝比奈泰輝(武田氏旧臣で、武田氏滅亡後に徳川氏に臣従)の次男を娘の婿養子として迎えます。1756年(宝暦6年)に家督を相続し、小普請組組頭(お目見以下の旗本・御家人の管理等)に就任します。1798年(寛政10年)7月23日没。

拝領屋敷:市ヶ谷新本村四丁目(現在の防衛省正門前近辺)(参98)。

【東京都千代田区市ヶ谷新本村四丁目(1756年~)】

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1757年(宝暦7年) 打越十左衛門 和歌山県和歌山市

【本家Ⅱ】

紀州藩士・打越伊左衛門の嫡子。1757年(宝暦7年)没。(参47)

1764年(明和元年) 打越熊次郎 奈良県

【分家Ⅴ】

大和郡山藩の御長槍頭、支配方御槍奉行を歴任します(明和分限帳より)。嫡子:打越熊之助(家督分限帳より)。

1773年(安永2年) 打越力蔵 奈良県

【分家Ⅴ】

大和郡山藩の御近習組、御納戸役を歴任します(安永2年席帳より)。本紋:三階菱(安永3年定紋覚より)。

?年 打越直道 茨城県

【本家Ⅱ】

打越直正の子。打越直道(幼名:介七を改め弥八)は、徳川宗堯(成公)、徳川宗翰(良公)、徳川治保(文公)の3代に仕え、御留守居役同心頭を務めます(参160)。1775年(安永4年)5月15日没(享年60歳)。徳川光圀水戸藩士のために作った酒門共有墓地にある打越直正の墓の横に打越直道の墓が並び建っています。

1784年(天明4年) 打越(治右衛門)光広 栃木県小山市鹿沼市

【本家Ⅰ】

1781年(天明元年)、小普請組組頭(お目見以下の旗本・御家人の管理等)に就任。1784年(天明4年)に徳川家治に拝謁し、1786年(天明7年)に家督を相続。拝領屋敷:市ヶ谷新本村四丁目(防衛省正門前)(参98)。

【東京都千代田区市ヶ谷新本村四丁目(1756年~)】

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?年 打越光之 栃木県小山市鹿沼市

【本家Ⅰ】

記録なし(1798年(寛政10年)以降、江戸幕府は大名や旗本(御目見以上)の家系図を作成していません。)

?年 打越金之助 栃木県小山市鹿沼市

【本家Ⅰ】

書院番(将軍直属の親衛隊)に就任します(参98)。

拝領屋敷:(1792年~)東京都千代田区三番町3-9番町千鳥ヶ淵アビダシオン(参131)

【東京都千代田区三番町(1792年~)】

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☞ 1798年(寛政10年)以降は現存する古文書に記録されている限りで家譜を辿るしかありません。打越光広から打越金之助が家督を継いだという記録がありますが(参164)、これが打越光之と同一人物なのか不明です。

1796年(寛政8年) 打越金次郎 栃木県小山市鹿沼市

【本家Ⅰ】

留守居番(大奥等の警備)に就任します。1796年(寛政8年)から1811年(文化8年)まで大久保四丁町小屋敷辺(東京都新宿区余丁町12周辺)の御留守居番組屋敷に居住しています(参165)。

【東京都新宿区余丁町(1796年~)】

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出世稲荷神社(東京都新宿区余丁町)】

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1806年(文化3年) 打越橘右衛門 奈良県大和郡山市

【分家Ⅴ】

大和郡山藩の御広式御用役に就任(享保分限帳より)。

江戸後期(文化年間) 打越(一乗斎)弘寿 茨城県水戸市~東京都千代田区神田

【本家Ⅱ】

別名:打越円蔵。水戸金工打越派の祖で古今彫四十四名工の一人に数えられ、江戸金工番付でも前頭に列せられる名工です。水戸生まれで、江戸神田に移り住み、玉川承寿の弟子・玉川吉長に師事しますが、精緻な彫刻表現を得意とし、その作品は根津美術館等に所蔵されるなど現代でも美術品として高く評価されています。水戸金工は慶長年間に佐竹氏が京都から彫工を招致したことに始まり、江戸時代後期に隆盛を迎えますが、打越派は玉川派、泰山派、一柳派、萩谷派と並んで一大派閥を形成し、水戸金工・打越派として弘義、弘親、弘信、弘直、弘泰などの有能な門人を多数輩出します。(参166、167)。

 

☞ 1889年(明治22年)、岡倉天心東京美術学校(現、東京藝術大学)を開校するにあたり、金工や漆工など美術工芸を絵画や彫刻と同等に新しい造形を生み出す芸術として捉え、水戸金工の流れを汲む海野勝珉を招聘して美術工芸科を設置し、それがこのWEBの冒頭に掲載している楠木正成公像の制作にも活かされています。

1816年(文化13年) 打越千之丞 秋田県横山市

【本家Ⅲ】

打越千之丞が秋田県横山市上境に禄高29石5斗9升7号の知行地(文化13年久保田藩分限帳より)を与えられます。

【文化13年久保田藩分限帳】

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1820年(文政3年) 打越孫治郎、打越民部少輔 秋田県横山市

【分家Ⅰ】

江戸時代の国学者菅江真澄は、1811年から1829年(没)まで久保田藩に身を寄せ、佐竹義和から久保田藩の地誌を作成するように依頼されます。菅江真澄は、楠木正家が籠城した金沢柵跡の近く出羽国雄勝郡松岡郷打越村(現、秋田県湯沢市)を訪れ、出羽国平鹿郡や由利郡で行われた合戦の軍記物に打越式部太夫、打越孫四郎の名前が見られ、その子孫が住んでいると記しています。また、現在、打越孫治郎及び内越民部少輔が住んでいるそうだが、詳しい住所は分からないとも記しています(参39)。武家は土地の領有権を主張するためにその地名(田の)を名字にしましたが、その逆の例(屋号のように武家の名字から地名がつけられた例)の1つと思われます。なお、式部太夫や民部大輔等の官職名は打越氏(分家Ⅰ)で代々自称し、世襲されていたものであり(本家Ⅰでは見られない官職名)、また、佐竹氏に仕官する打越氏(分家Ⅲ)の知行地とも異なっていますので(但し、後掲の打越平角の知行地である秋田県横手市上境とは隣接地)、打越氏(分家Ⅰ)の系流であると考えられます。

1824年(文政7年) 打越平右衛門 新潟県佐渡市

【分家Ⅵ?】

1824年(文政7年)6月28日に宝生流能楽師・本間左京由春へ打越平右衛門が入門しています(本間左京由春入門姓名綴/参168)。本間左京由春は佐渡の地頭職であった本間秀高(上杉謙信により滅亡)の後裔です。佐渡世阿弥が晩年に配流されてから能楽が盛んとなり、その中でも本間左京由春は「最堪能と称せらる」(参169)ほどの名人で、佐渡宝生流の隆盛を極めた人物です。なお、江戸時代に佐渡は幕府領になっていますが、佐渡の鉱山奉行を務めた大久保長安の祖父は金春流能楽師、その父・大久保信安は大蔵流狂言を創始しており、佐渡能楽との所縁が深い土地柄です。

1825年(文政8年) 打越権右衛門 東京都

【本家Ⅰ?】

妙典寺(東京都大田区蒲田2-3-10)の44世住職(妙好院日進上人)で、1825年(文政8年)に示寂しています(参170)。

1832年(天保3年) 打越団蔵 和歌山県和歌山市

【本家Ⅱ】

紀州藩士・打越十左衛門の嫡子。1832年(天保3年)没。(参47)

1848年(嘉永元年) 打越彦十郎 茨城県

【本家Ⅱ】

水戸藩町同心。1844年(弘化元年)、徳川斉昭(烈公)は藩政改革に反対する水戸藩保守派の工作により幕府から謹慎蟄居及びその子・徳川慶篤(順公)への家督相続を命じられます。これを受けて水戸藩改革派が徳川斉昭復権に向けた活動を活発化されるなか、徳川斉昭が家臣に宛てた密書が盗難される事件が発生し、打越彦十郎らが盗品の密書を取り戻して難を逃れ、1849年(嘉永2年)に徳川斉昭復権を果たします(参171)。

1850年(嘉永3年) 打越左大夫 栃木県小山市鹿沼市

【本家Ⅰ】

打越金之助は小笠原大隅守(江戸幕府のフランス式陸軍精鋭部隊・伝習隊頭取)の孫を娘の婿養子として迎え、1843年(天保4年)に家督を相続させます。1850年(嘉永3年)12月23日付で御書院番(将軍直属の親衛隊)に就任します(参177)。なお、この年は江戸湾浦賀沖に黒船が来航しています。

拝領屋敷:東京都新宿区若葉1-13-32西念寺徳川家康の家臣で伊賀忍者の頭領・服部(半蔵)正成が開基、服部(半蔵)正成の墓所)の前(490坪余)(参131、164)

【東京都新宿区若葉1丁目(1843年~)】

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【服部(半蔵)正成の墓】

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日本(天皇武家)vs外国の「日本の土地の支配権」を巡る争い
1853年(嘉永6年)黒船来航
1855年(安政2年) 打越(十左衛門)繁門 和歌山県和歌山市

【本家Ⅱ】

紀州藩士・打越団蔵の嫡子。1855年(安政2年)没。打越団蔵の次男及びその子は和歌山県田辺市の千光寺へ出家します(参47)。

1855年(安政2年) 打越儀右衛門 奈良県大和郡山市

【分家Ⅴ】

大和郡山藩の御用達並となります(御分限帳上より)。

1861年(万延2年) 打越角左衛門 北海道増毛町

【分家Ⅲ】

黒船来航を契機として秋田藩佐竹氏は蝦夷地の海岸警備を命じられ、1859年(安政6年)に秋田藩佐竹氏の家臣で徒目付の日野喜右衛門と共に秋田藩の陣屋がある増毛に着任します。それに先立つ、1856年(安政3年)には厳しい寒さとビタミン不足による病気等から秋田藩士76名が死亡していますが(松浦記(安政6年)より)、そのような厳しい環境のなか1861年(万延2年)4月12日に打越角左衛門も死亡し、暑寒沢に墓があると言われています(参172)。

1863年(文久3年) 打越専三郎 茨城県

【本家Ⅱ】

水戸藩士。詳細は不明ですが、尊王攘夷の立場から時代を痛烈に風刺する私日記を残しています(第3部第2巻を参照)。

1864年(元治元年) 打越(佐次郎)正只 茨城県

【本家Ⅱ】

水戸藩目付方同心。水戸藩主・徳川慶篤(順公)の名代として宍戸藩主(水戸藩支藩)・松平頼徳が水戸藩の内乱(天狗党(改革激派)と諸生党(保守派)の争い)を鎮圧するために率いた軍勢(大発勢(改革慎派))に参陣します。1864年(元治元年)9月9日、常陸国久慈郡島村における幕府軍との戦闘で戦死し(享年43歳)、明治政府により明治維新の功労者として靖国神社へ合祀されます(参173、174)。

☞ 大発勢には徳川斉昭(烈公)が唱えた尊王攘夷思想の影響を受けた尊王攘夷派が数多く参加しますが、江戸幕府戊午の密勅の返納に反対する天狗党(改革激派)の討伐を決定すると、大発勢(改革慎派)は天狗党(改革激派)と共に諸生党及び幕府軍と戦い(元治甲子之変)、その後の明治維新への流れを作ります。この報に接した大久保利通は「実に聞くに堪えざる次第なり、是を以って幕府滅亡のしるしと察せられ候」と述べていますが、彰考館総裁・打越直正らが礎を築いた水戸学の思想(前期水戸学は徳川光圀が中心となって尊王思想を唱えますが、後期水戸学は徳川斉昭が中心となって尊王思想に加えて攘夷思想を唱え、原理主義的な傾向を色濃くします。但し、会沢正志斎は晩年に開国論を前提とする富国強兵論に転じており現実主義的な路線への軌道修正を試みています。)(参255、256)は吉田松陰西郷隆盛ら幕末勤王の志士達に多大な影響を与えて明治維新の原動力となります。

1864年(元治元年) 打越貞助 茨城県

【本家Ⅱ】

打越貞助(定介)水戸藩主・徳川慶篤(順公)の名代として水戸藩の内乱(天狗党(改革激派)と諸生党(保守派)の争い)を鎮圧するために水戸藩支藩である宍戸藩主・松平頼徳が率いる軍勢(大発勢(改革慎派))に参陣し、神勢館(茨城県水戸市若宮2-6-17)に入ります(参175)。その後、徳川慶篤は弟・将軍徳川慶喜の説得により幕府に恭順の意を示したことから大発勢(改革慎派)も幕府に投降し、佐倉藩堀田氏の佐原陣屋にお預けとなります。その後、約200名が放免されており、このとき打越貞助も放免された可能性があります。

☞ 水戸藩主に付されている諡号(〇公)は、各藩主の特色(例えば、徳川斉昭は将軍継嗣問題や日米通商条約の締結等を巡って幕府と激しく対立したので「烈公」、徳川慶篤は幕府に恭順の態度を示したので「順公」等)を表しています。因みに、徳川斉昭偕楽園(晋の武帝が学問に親しむと梅の花が開き、学問をやめると梅の花が開かなかったという中国の故事に肖って保存食にも優れている梅を植樹し、庶民の皆と一緒に楽しむという意味で偕楽園と名付けて庶民にも園を開放しました。)や藩校弘道館を設置して時代の変革期に必要とされる人材育成に注力すると共に、幕末期に西洋列強に先駆けて近代式戦車潜水艦を設計又は製造し、また、世界初の近代式エレベータ好文亭)を開発するなど時代の変革期に求められる規格外の人物であったので「賢公」とも名付けられています。

1865年(慶応元年) 打越平角
打越安之助
秋田県横手市

【分家Ⅲ】

秋田藩士・打越平角は秋田県横手市上境に29石5斗9升7号の知行を与えられ、その嫡子・打越安之助は扶持局住に任ぜられます(慶応元年秋田藩分限帳より)。なお、局住とは、藩士の嫡子・嫡孫で家督を継ぐべき者が御番入して奉公し、そこから御小姓に抜擢されると局住扶持を受けます(秋田藩職官略纂 編制及び勤務/参176)。

☞ 外様大名の家臣なので禄高は高くありませんが、幕末まで佐竹氏の家臣(直臣)として仕えています(打越千之丞と打越平角の禄高が一緒なので、少なくとも打越千之丞の代から楠木正家が守備した金沢柵の近く秋田県横手市上境に知行地を与えられていものと考えられます)。

【慶応元年秋田藩分限帳】

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【慶応元年秋田藩分限帳】

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【慶応元年秋田藩分限帳】

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1866年(慶応2年) 打越丈蔵 奈良県大和郡山市

【分家Ⅴ】

大和郡山藩の御使番。明治7年に打越丈蔵の子・打越初から家禄返還と資本金下賜願が出されています。

拝領屋敷:奈良県大和郡山市小川町郡山城之城下町絵図/注41)。

奈良県大和郡山市小川町】

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1866年(慶応2年) 打越織次郎 奈良県大和郡山市

【分家Ⅴ】

大和郡山藩の御近習取次役。明治7年に打越織次郎から家禄返還と資本金下賜願が出されています。

拝領屋敷:奈良県大和郡山市植槻町郡山城之城下町絵図/注41)。

奈良県大和郡山市植槻町】

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1868年(慶応4年) 打越左大夫 栃木県小山市鹿沼市

【本家Ⅰ】

留守居番(大奥の警護等)に就任します(江戸城多聞櫓文書書付より)。なお、この年は江戸無血開城が行われています。また、この頃、打越氏(本家Ⅰ)の知行地である口粟野村では近隣で発生した打ち毀しが波及し、打越氏(本家Ⅰ)の用人格代官・横尾氏等が襲われています(参227)。

☞ 先述の打越左大夫と同一人物かは不明です。1864年(元治元年)に打越長三郎に家督が承継され、打越氏(本家Ⅰ)の菩提寺・長泉寺(東京都文京区本郷)に墓があります。

☞ 森鴎外の小説「伊沢欄軒」では、主人公の伊沢欄軒(御殿医)が長泉寺を度々訪れ、その友人として打越古琴という人物が登場しますが、森鴎外がこの打越氏(本家Ⅰ)の墓を取材していた可能性があります。

【長泉寺にある打越氏(本家Ⅰ)の墓】

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1869年(明治2年) 打越(安左衛門)繁高 愛媛県西条市和歌山県和歌山市

【本家Ⅱ】

打越(十左衛門)繁門の嫡子。打越安左衛門は紀州藩支藩である西条藩伊予国)の御付人(準士)として仕え、1862年(明治2年)に紀州藩へ帰任します。(西条御付人御戻しの項/参62)。

1871年(明治4年) 打越城右衛門 青森県

【本家Ⅳ】

陸奥国中津軽郡相馬村(現、青森県弘前市相馬地区)の郡奉行となります(参178)。

1871年(明治4年) 打越新六 青森県

【分家Ⅳ】

廃藩置県の直前に、弘前藩士・打越新六が弘前藩に由緒書を提出しています(由緒書第10(TK288-22)/参150)。

天皇武家へ「土地の分配権」(政権)が移行
1867年(慶応3年)幕府から天皇へ政権を返上(王政復古)
1871年(明治4年)廃藩置県で幕府から分配された土地を天皇へ返上
1873年(明治6年)地租改正により私人による土地所有権が確立
?年

曾祖父

祖父

茨城県~鹿児島

【分家Ⅱ】

水戸藩を脱藩して薩摩へ移住(家伝)。薩摩で姻戚関係を結んだ家は薩摩藩島津氏の家臣で鉄山師として種子島で鉄砲製造を指導した氏族です(参180)(注42)。なお、元治甲子之変で天狗党(改革激派)に与することになった大発勢(改革慎派)に参加していた打越佐次郎が戦死し(靖国神社に合祀)、打越貞助が捕らえられますが、その後、明治維新までは諸生党(保守派)が水戸藩の実権を握ることになり、赤ん坊を含む一家全員が処刑されるなど水戸藩の改革派(改革慎派を含む)に対する粛清が凄惨を極めています(参224)。

☞ 1870年(明治3年)に戸籍法が施行されて「名字」及び「名前」を戸籍に登録することになります。武士は「仮名」(通称)や「諱」など複数の名前を持っていましたが、そのうち好きなものを1つ選んで名前を登録することになりす。この点、「個人」ではなく「家」が重んじられていた時代には、その者の身分を表すために「名字」で家を、「仮名」(通称)で家中の序列を記すのが通例であり、また、一般に「諱」(=忌み名)は親しい間柄だけに許される呼び名で、他人から「諱」で呼ばれることは無礼なこととして忌み嫌われていましたので(古文書等でも「名字」及び「仮名」(通称)のみを記して「諱」を記さないのが通例)、その名残で戸籍にも「名字」及び「仮名」(通称)が登録される例が多かったと言われています。小職の系流の閉鎖戸籍謄本(原戸籍)を見ても、やはり「諱」ではなく「仮名」(打越源次郎、打越仲次郎など)が登録されています。因みに、現代では家制度が形骸化し、個人を識別するための「諱」のみが使用されています。

日本(天皇・国民)vs外国の「外国の土地の支配権」を巡る争い
1894年(明治24年)日清戦争
1904年(明治37年)日露戦争
1914年(大正3年)第一次世界大戦
1937年(昭和12年)日中戦争
1941年(昭和16年)第二次世界大戦
2000年(平成12年) 叔父 鹿児島~埼玉県

【分家Ⅱ】

会社を経営していた叔父は日本経済の発展に尽力した功績を讃えられ、平成12年4月に叙勲の栄誉に預かります(「叙勲に輝く人々東日本編」に掲載)。

☞ 叔父が叙勲された黄綬褒章は「業務に精励し衆民の模範となるべき者」(「日本の勲章」より)に与えられるもので、文化勲章と同じく単一級で等級はありません。

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2018年(平成30年) 小職 関八州

【分家Ⅱ】

趣味・道楽に溺れ、家名を汚す。及ばずとも、心掛けたいものですが、なかなか侭ならないのが人生でもあります。 

 

(注45)打越氏(内越氏)の通字、通名、官位

 武家は、名前を付けるにあたって、その家に代々に亘って受け継がれている「通字」(代々受け継がれる諱に使用される漢字)、「通名」(代々受け継がれる仮名に使用される通称)や「官位」(領地支配の権威的な裏付けとして、代々受け継がれる武家が任官又は自称(僭称)する官職又は位階)を使用する例が多く、これらを手掛りとしてどの係流に属しているのかを推測することも可能です。なお、武家家督争いを避けるために家督承継順位の低い男子には「通字」を含まない諱とすることで家督承継権がないことを示す例があります。例えば、武田信玄は四男の武田勝頼に「信」の通字を与えておらず、その孫の武田信勝に「信」の通字を与えて家督を承継させています。 

打越氏(内越氏)の主な使用例 主な使用家
通字 「光」 分家Ⅰ、分家Ⅱ
「正」「勝」 分家Ⅰ、分家Ⅱ  
通名 「治右衛門」「左大夫」 本家Ⅰ  
「〇左衛門」「〇次郎」
「〇右衛門」「〇兵衛」
本家Ⅰ、本家Ⅱ、分家Ⅰ、分家Ⅱ
「〇蔵」 分家Ⅱ、分家Ⅴ、本家Ⅱ、本家Ⅲ  
官位 「宮内少輔」 本家Ⅰ
「左近将監」 分家Ⅰ、分家Ⅱ  

 

(注46)打越瀬左衛門の2人の息子の事績

 打越(樸齋)直正の事績の影に隠れ、打越(瀬左衛門)政徳の実子で長男・打越(七郎次)直(彰考館史館編集)及び次男・打越(円次郎)政孝(彰考館史館物書(書記役))の事績が取り沙汰されることはありませんが、水戸史館雑事記(元禄11年~宝永5年)に若干の記録(主に褒美=臨時手当の記録)が残されていますので、以下に原文を引用します(参181)。

 

【1699年(元禄12年)】

 〇正月廿四日

  佐野助十郎、打越七郎次、中沢平次郎、伊藤兵七、竹田伊平多太、森田左源太

  右六人史館書写御用ニ御雇被遊候由今日被 仰出候二月三日より右之面々致出勤候

 〇五月十七日

  佐野助十郎、打越七郎次、森田左源太、中沢平次郎、伊藤兵七、竹田伊平多太

  右六人史館書写御御用相務申候付為御褒美晒壱疋ツ丶被下置候由今日御城へ被為召被仰渡候

  但介十七郎次源太平次郎は御老中被仰渡兵七へは奉行衆伊平太へは御用人衆被仰渡候惣裁大井彦介列座に罷出候

 〇九月二日

  中絹壱疋ツ丶御褒美被下

  佐野助十郎、打越七郎次、中沢平次郎、森田左源太、竹田伊平多太

 〇十二月十六日

  金壱両壱分ツ丶為御褒美被下

  佐野助十郎、打越七郎次、中沢平次郎、竹田伊平多太、森田左源太

 

【1700年(元禄13年)】

 〇四月三日

  打越円次郎

  右は当遡日江戸史館物書被仰付候由江戸より申来

 〇五月廿一日

  晒壱疋ツ丶為御褒美被下置候旨御老中被 仰渡此節安積覚兵衛出座

  打越七郎次、中沢平次郎、竹田伊平多太、森田左源太、服部次郎四郎、前野八郎次

 〇十二月遡日

  中沢平二郎、前野八郎次、打越七郎次、竹田伊平多太、森田左源太、川又所衛門

  絹壱疋ツ丶被下置候旨於御城御老中被仰渡候此節出座大井彦介

 〇十二月十五日

  五百疋ツ丶

  前野八郎次、打越七郎次、竹田伊平多太、森田左源太、川又所衛門、中沢平二郎

  右六人史館書写御やとい相務申候付為御褒美前書之通被下置候旨於御城御老中被仰渡候(中略)列座大井彦介也

 

(注47)打越氏と世界大戦の記録
 NHK特集「歴史への招待-兵士たちの日露戦争-」(1978年11月16日NHK総合テレビ)において海軍一等機関兵・打越信太郎氏が著した「従軍之友撲の日記」(「勝田市史 近代・現代編」より)が紹介されています。また、ジャーナリスト・打越(旧姓・田中)和子氏が「靖國のこえに耳を澄ませて 戦歿学徒十七人の肖像」を出版されています。

 

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