歴史絵巻 打越家伝

甲斐源氏小笠原氏流/楠木正家後裔

第3部第1巻 打越氏の歴史(略年表)

暦年 祖先 場所 出来事(【略号】)
天皇×天皇の「土地の支配権」(主権)を巡る内乱
672年(天智天皇元年)皇太子・大友皇子と吉野朝の大海人皇子が争った「壬申の乱」の勃発
天皇×地方豪族の「土地の支配権」を巡る内乱
794年(延暦13年)坂上田村麻呂征夷大将軍に任命されて蝦夷征伐を開始
858年(天安2年) 清和天皇 京都府 【正史】
第56代天皇に就任
天皇×武士・貴族の「土地の支配権」を巡る内乱
935年(承平5年)「平将門の乱」の勃発
939年(天慶2年)「藤原純友の乱」の勃発
961年(応和元年) 源経基 京都府 【正史】
清和天皇の第六皇子・貞純親王の子で、平将門の乱藤原純友の乱を鎮撫して源氏姓を賜る。清和源氏の祖
1047年(永承2年) 源頼信 兵庫県川西市 【正史】
経基の子・満仲の三男で、平忠常の乱を鎮撫して河内守に任官。河内源氏の祖
天皇×地方豪族の「土地の支配権」を巡る内乱
1051年(永承6年)「後九年の役」の勃発
1083年(永保3年)「後三年の役」の勃発
1087年(寛治元年) 源義光 兵庫県川西市 【正史】
源頼信の子・頼義の三男(新羅三郎)で、後三年の役で苦戦する兄の源義家を支援するために陸奥国へ下向。その功績で常陸介に任官し、長男の義業を常陸国久慈郡佐竹郷(茨城県常陸太田市)、三男の義清を常陸国那賀郡武田郷(茨城県ひたちなか市)に派遣。常陸源氏(佐竹氏)、甲斐源氏(武田氏、小笠原氏、南部氏、於曾氏)の祖
1127年(天承元年) 源義清 茨城県ひたちなか市山梨県巨摩郡(配流) 【正史】
源(新羅三郎)義光の三男で、常陸国那賀郡武田郷を支配し、武田(武田冠者)を名乗ります。領地争いが原因で勅勘を蒙り甲斐国巨摩郡へ配流。甲斐国巨摩郡平塩岡に館を構えます(山梨県西八代郡市川三郷町市川大門は歌舞伎の名跡市川団十郎発祥の地でもあります)。甲斐源氏(武田氏、小笠原氏、南部氏、於曾氏)の祖
 歌舞伎「江戸の夕映え」(大佛次郎作)には旗本・打越郁之助が登場し、これまで初代市村鶴蔵三代目市川右之助初代澤村大蔵六代目中村山左衛門などに演じられています。
天皇⇒武士へ「土地の支配権」のうち「土地の分配権」(政権)が移行
1185年(文治元年)源頼朝に守護・地頭の任命権を与える文治の勅許
1189年(文治5年)「奥州合戦」の勃発(土地の分配権を巡る武士と地方豪族の争い)
1192年(建久3年)源頼朝征夷大将軍に任命されて鎌倉幕府の樹立
平清盛天皇の権威に立脚した傀儡政権を指向、源頼朝は武力を背景に天皇からの独立政権を指向
1185年(文治元年) 加賀美遠光 山梨県南アルプス市 【正史】
源頼朝から信濃守を拝命。源義清の四男で、甲斐国巨摩郡加賀美郷を支配し、加賀美を名乗ります。甲斐源氏小笠原氏、南部氏、於曾氏の祖、小笠原流煎茶道の祖
1195年(建久6年) 小笠原長清 山梨県南アルプス市 【正史】
加賀美遠光の二男で、甲斐国巨摩郡小笠原郷に館を構え、小笠原を名乗ります。小笠原氏の祖、小笠原流弓馬術礼法の祖
?年 於曾光俊 山梨県塩山市 【本家Ⅰ】
加賀美遠光の五男で、甲斐国山梨郡於曾郷に館を構え、於曾を名乗ります。於曾氏の祖(その末裔が出羽国由利郡へ下向して打越氏を名乗ります。打越氏の祖)
なお、1394年(応永元年)、於曾光栄は室町幕府鎌倉公方出羽国由利郡への下向を願い出て許され、その弟・於曾光広が出羽国由利郡へ下向しています(「矢島町史続上巻(打越氏御先祖様代代覚書控)」)。
1219年(承久元年) 小笠原(大井)朝光 長野県佐久市 【本家Ⅰ】
小笠原長清の七男で、小笠原朝光が承久の乱の戦功により信濃国佐久郡大井郷を賜り、大井氏を名乗ります。大井氏の祖(その末裔が出羽国由利郡へ下向して打越氏を名乗ります。打越氏の祖)
なお、1213年(建暦3年)、小笠原長清の妹・大弐局は自分が養育係を務めていた源実朝から和田合戦で没収した出羽国由利郡の所領を与えられていましたが、大弐局が養子に迎えていた甥・大井朝光に出羽国由利郡の所領を相続します(以上は「吾妻鏡」より)。
日本(天皇・武士)×外国の「日本の土地の支配権」(主権)を巡る争い
1274年(文永11年)「文永の役」の勃発
1281年(弘安4年)「弘安の役」の勃発
※幕府による土地の分配(=恩賞)がなく武士の幕府への不満が元弘の乱(討幕)へと発展
幕府⇒天皇へ「土地の分配権」(政権)が移行
1331年(元弘元年)後醍醐天皇による「元弘の乱」の勃発
天皇による土地の分配(=恩賞)が少なく武士の天皇への不満が南北朝の動乱へと発展
1336年(建武2年) 於曾(左衛門尉)貞光 秋田県由利本荘市京都府 【本家Ⅰ】
於曾光俊の末裔、於曾長宗の子(於曾光俊-於曾(兵部尉)光清-於曾(左衛門尉)光忠-於曾(刑部少輔)長忠ー於曾(治部少輔)長宗までの系図は割愛)。1336年1月、陸奥鎮守府将軍北畠顕家は、後醍醐天皇に謀反し京都を包囲していた足利軍を一掃しますが、1336年5月に西国で勢力を盛り返して再上洛した足利軍が湊川の戦いで楠木軍を破り、この際に京都を守備していた於曾(左衛門尉)貞光が討死しています。
天皇⇒武士へ「土地の分配権」(政権)が移行
1336年(延元元年)吉野朝の後醍醐天皇足利尊氏光明天皇)が争った「南北朝の動乱」の勃発
1336年(延元元年)足利尊氏が征夷代将軍に任命されて室町幕府を樹立
※1回目の外圧(蒙古襲来)では天皇政権への移行は挫折、2回目の外圧(黒船襲来)で天皇政権へ移行
1336年(延元元年) 楠木正家

大阪府南河内郡茨城県那珂市秋田県由利本荘市

【分家Ⅰ】
1335年(建武2年)、楠木正成後醍醐天皇から下賜された常陸国那珂郡の領地の地頭代として楠木正家を派遣。楠木正家は北畠顕家後醍醐天皇に謀反した足利尊氏北朝方)を討伐するために奥州勢を従えて上洛するにあたって東国を守備するために瓜連城(茨城県那珂市)を築城して北朝方の佐竹氏に勝利しますが、その後、足利尊氏の援軍により勢力を盛り返した佐竹氏に敗れて1336年(延元元年)12月に瓜連城が落城し陸奥鎮守府北畠顕家を頼って奥州へ落ち延びます。その後、後三年の役おいて源義家及び源義光甲斐源氏の祖)が落城させた金沢柵を守備し(地名にも残る歴史的な痕跡)、その後、白坂館(打越城/出羽国仙北郡大沢郷)、平岡舘(内越城、別称・寒風館 /出羽国由利郡内越郷)等へ移りながら勢力を整えて再起を図りますが、1337年(延元2年)8月に北畠顕家の再上洛軍に参加して上洛します(「国史大辞典」「日本史人物辞典」「水戸市史上巻」「亀田郷土史上巻」「日本城郭全集第1巻」より)。1348年(正平3年)に楠木正家は楠木正行と共に四條畷の戦いで討死。なお、楠木正家の子・楠木正安は出羽国由利郡に残って地頭代・小笠原氏大井家と姻戚関係を結び、更にその曾孫・楠木(打越)正宣は由利氏と姻戚関係を結んで打越を名乗る(「本荘市史資料編1下」「由利郡中世史考」「北羽南朝の残照」「秋田県曹洞宗編年史」より)。
【異説】1391年(元中8年)に楠木正儀の孫・正家は成良親王を奉じて出羽国へ下向し、白坂館(現、打越城/秋田県大仙市大沢郷寺)へ入って奥州地方の南朝勢力を支援しますが、1392年(元中9年)に南北朝合一の勅使が訪れて楠木正家は出羽国由利郡及び河辺郡の二郡を賜ったことから寒風館(現、内越城/秋田県由利本荘市内越)へ移り、その鎮撫平定に尽くします。
☞ 成良親王は「太平記」に兄・恒良親王と共に花山院第に幽閉されて毒殺されたとあり、また、「師守記」には1344年死亡という記録がありますので、上記の異説はこれらの古文書等の記録と相容れないこと、そのことを裏付ける歴史的な痕跡が何も残されていないこと、南北朝合一により楠木正家が由利郡(約7.7万石)及び河辺郡(約2.7万石)を下賜されたとあり2郡で合計約10万石という広大な領地(伊賀国に相当)を与えられたことになりますが、そのような公式の記録は残されていないこと(豊臣秀吉から奥州仕置で打越氏に下賜された領地は1250石であり大きな乖離があること)などから後世に創作された可能性が高く、この異説を採用することには無理があるのではないかと思われます(前掲注3、注7)。推測すると土地支配の正当性を主張するための方便として物語りされたものではないかと推測されます。
1337年(延元2年) 於曾(伊予守)時高 長野県佐久市京都府 【本家Ⅰ】
第6代・於曾貞光又は第7代・於曾(右馬助)光時の子(於曾貞光とその次男又は孫の於曾時高は南朝方として後醍醐天皇に従いますが、於曾光時が家督を相続してから僅か3年で於曾時高へ家督が承継されています)。1337年3月に越前国金ヶ崎城で足利軍に抵抗を続けていた後醍醐天皇の皇子・尊良親王らと共に於曾時高が戦死します(「打越氏御先祖様代代覚書控(矢島町史続上巻」より)。
1394年(応永元年) 於曾(左衛門尉)光栄 長野県佐久市秋田県由利本荘市 【本家Ⅰ】
於曾(兵部丞)時長の子(於曾(伊予守)時高-於曾(伊豆守)時晴-於曾時長の系図は割愛)。1392年の南北朝合一がなり、その後、1394年に将軍職が第3代・足利義満から第4代・足利義持へ譲られて室町幕府の政権基盤が固められると、1391年から出羽国及び陸奥国を管轄することになった鎌倉公方出羽国由利郡への下向を願い出て、その弟・於曾(又二郎)光広が出羽国由利郡へ下向します(「矢島町史続上巻(打越氏御先祖様代代覚書控)」(於曾光栄と於曾尚光との間は約100年のブランクがあり、「大阪打越系図」に記述されている系図に約2代の世代抜けがある可能性があります。しかし、於曾(左衛門尉)光栄が出羽国由利郡へ下向した年を応仁の乱が勃発した1467年(応仁元年)とする資料もあり、これによれば於曾光栄と於曾尚光との間に世代抜けはなくなりますので、年代の誤記の可能性も考えられます。因みに、1467年には仁賀保氏の祖である小笠原(大井)友挙や矢島氏の祖である小笠原(大井)重泰が出羽国由利郡へ下向し、これにより由利十二頭による支配体制が確立します(「秋田市史」より))。
1465年頃 打越(伊賀守) 茨城県 【本家Ⅱ】
立(館)山城主茨城県ひたちなか市館山)。打越伊賀守は楠木正成が御醍醐天皇から下賜され、楠木正家が瓜連城を築城して守備した常陸国那珂郡へ移り住み、江戸(但馬守)道勝(江戸道房が晩年に出家して江戸道勝と改名)(「大日本地名辭書第1巻」より)から常陸国那珂郡三反田郷(ひたちなか市)、永楽200貫(豊臣秀吉による太閤検知よりも前の時代は貫高制で、その後に石高制に変更されています。目安としては1貫≒10石なので200貫≒2000石)を与えられています。その子・打越(豊後守)が家督を相続し、次男が大戸村の庄屋、三男が中根村の庄屋になっています(「茨城県の思想・文化の歴史的基盤」より)。
☞ 「村々旧家諸姓落着書上簿」には打越氏(分家Ⅱ)の元祖として打越(伊賀守)の名前が記され、打越(伊賀守)の家紋は打越氏(本家Ⅰ)と同じ丸に一文字三ツ星紋を使用していることから1465年頃までには打越(伊賀守)が出羽国由利郡から常陸国那珂郡へ移り住み、江戸道勝(道房)へ仕官したものと推測されます(前掲注8)。なお、出羽国由利郡で打越氏を名乗り始めたのは打越光重の代からであるという記録もありますが(「矢島町史続上巻(打越氏御先祖様代代覚書控)」)、上記のとおり打越光重が生まれる前の時代に常陸江戸氏に仕官した打越(伊賀守)とその子孫が打越姓を名乗り、一文字三ツ星紋を使用していた記録が残されていることから、打越光重よりも前の世代から打越姓を名乗っていたと考えられます(打越氏御先祖様代代覚書控(矢島町史続上巻は楠木氏又は小笠原氏の系流を起点として作成したものではなく於曾氏の系流を起点して作成されたものであり豊臣秀吉から打越光重に本領安堵御朱印状が下賜されたことを契機として小笠原氏大井家の系流である打越氏に於曾氏の家督(≒土地の支配権)が統合され、そのために打越氏御先祖様代代覚書控(矢島町史続上巻では打越光重の代から打越を名乗り始めたと記載されているのではないかと推測されます。)。
☞ 熊野三山を結ぶ熊野川沿いに打越氏(本家Ⅱ、本家Ⅲ)が分布していますが、そこに隣接する和歌山県新宮市熊野川町相須甲斐源氏紀州武田氏流愛洲氏の発祥の地となった場所とも言われており、その庶流である相須氏は和歌山県以外に茨城県ひたちなか市(打越伊賀守が守備した立(館)山城の周辺)に集中的に分布しています。この点、愛洲(曾)六郎左衞門尉が北畠親房に従っていたという記録があり、1338年(延元3年)、北畠親房南朝勢力の拡大を図るために東国へ向い、常陸国筑波郡小田邑の小田治久を頼っていますので、その関係で常陸国へ渡海した可能性も考えられます。
1493年(明応2年) 於曾尚光 秋田県由利本荘市京都府 【本家Ⅰ】
於曾光栄の曾孫。於曾尚光は足利義尚足利義政日野富子との間の子)の近臣として召し出され(当時、勢力を持っていた鎌倉公方を牽制するために室町幕府将軍が直接に主従関係を持った関東や東北の武士のことを京都扶持衆と言います。)、その一字を賜り於曾光寛から於曾尚光に改めます。足利義尚の死後は河内守護・畠山義豊に仕えますが、1523年(大永3年)1493年(明応2年)に畠山家の家督争いに端を発して足利義材及び畠山政長畠山義豊の征伐を企て、この戦いで於曾尚光が討死します。この機に乗じて畠山義豊と気脈を通じていた細川政元及び日野富子らは足利義澄を将軍に擁立するクーデター(明応の政変)を起こします(前掲注10)。
1500年前半 打越(豊後守) 茨城県 【分家Ⅱ】
打越(伊賀守)の子。常陸江戸家の家臣で常陸国那珂郡三反田郷に知行地を有し、新平館を構えていた菊池内膳の姉妹を妻とします。水戸藩郡奉行代官(武茂組)打越瀬左衛門、打越宇衛門の祖先(「水戸市史上巻」「勝田市史 中世・近世編」より)。なお、菊池内膳は、南朝方として活躍した肥後国の菊池氏の庶流で江戸但馬守から常陸国那珂郡三反田に700石を与えられて新平館を構えていましたが(常陸菊池氏)、その姉妹を打越豊後守に嫁がせています。なお、肥後国の菊池氏は後醍醐天皇の皇子に従って全国各地に分布しており、青森県八戸市に上陸した菊池氏が南朝方であった根城南部家を頼って岩手県遠野市に分布していますが(陸奥菊池氏)、岩手県遠野市には打越氏の分布も見られますので、南北朝合一後も南朝方で密接な関係を保っていたことが伺えます。
1521年(永正18年)頃 於曾(伊豆守)光季 秋田県由利本荘市京都府 【本家Ⅰ】
於曾尚光の子。於曾尚光は足利義晴足利義尚日野富子の姪との間の子)の近臣として仕え(当時、勢力を持っていた鎌倉公方を牽制するために室町幕府将軍が直接に主従関係を持った関東や東北の武士のことを京都扶持衆と言います。)、1539年(天文8年)に死去。
1539年(天文8年)頃 打越(宮内少輔)氏光 秋田県由利本荘市 【本家Ⅰ】
小笠原(大井)朝光の末裔(小笠原(大井)朝光-小笠原(大井)光長ー小笠原(大井)正光~(不詳)~打越(宮内少輔)氏光までの間の系図が定かではありません。)。なお、大坂打越家系図にある第14代・於曾光季の次代となる「於曾光◯」とは於曾光氏のことであるとされていますが(「大内町史」より)、本来、於曾光氏が相続すべきであった於曾氏の家督(≒土地の支配権)は豊臣秀吉による由利五人衆への整理統合に伴って打越氏光の子・打越光重が代襲相続した可能性があります(前掲注4)。なお、於曾光俊の系流が室町幕府による土地支配のお墨付きを得て出羽国由利郡に下向してきましたが、於曾光栄の子・於曾尚光及びその孫・於曾光季は足利将軍家の近臣として奉公するために在京していたと思われます。
☞ 史料には宮内氏光と記されているものもありますが、これは打越(宮内少輔)氏光の誤りだと思われます。なお、寛政重修諸家譜(巻二百五)には打越氏光が出羽国由利郡発祥の打越氏の祖であるかのような記載が行われているが、打越氏光よりも前の世代(1350年頃)から打越を名乗っていたと考えられる。
1560年頃(天正18年) 打越(宮内少輔)光重 秋田県由利本荘市 【本家Ⅰ】
打越(宮内少輔)氏光の子。小田原征伐で北国軍(総大将:前田利家、副将:上杉景勝真田昌幸)の信濃衆に加わり北条方の松井田城、鉢形城八王子城を落城させるなどの軍功により、豊臣秀吉から出羽国由利郡1250石の本領安堵の朱印状(天正18年12月24日付打越宮内少輔宛)を下賜され、由利十二頭は由利五人衆(打越、仁賀保、赤尾津、滝沢、岩屋)へと再編成されます(注40)。1591年(天正19年)5月4日没。
☞ 打越光重ほか由利衆は小笠原氏大井家の出自のためか信濃衆に編成されていましたので副将・真田昌幸の軍勢の配下であった能性がありますが、真田昌幸忍城攻めに苦戦していた石田三成の援軍に赴ていますので、打越光重ほか由利衆も忍城攻めに加わっていた可能性が考えられます。
☞ 打越光重は仁賀保家の麾下として九戸政実の乱の鎮圧に参陣して劣勢に陥った先鋒の小野寺勢を助けて九戸勢を敗退させるなどの軍功をあげます。同年に文禄・慶長の役で赴いていた肥前国松浦郡名護屋(現、佐賀県唐津市)で没とありますが、当時の史料には複数の打越一族の名前が見られることから、打越光重の名代として打越一族の別の者を参陣させていた可能性も考えられますがその真偽は不明です。なお、1591年(天正19年)には肥前名護屋城は築城されていないので年代に誤りがある可能性もあります。文禄の役では由利五人衆は渡海せずに肥前名護屋城に在陣して軍役を課せられていましたが、1593年(文禄2年)に日本軍が苦戦すると、由利五人衆は大谷吉継の麾下として晋州城攻撃の出陣命令が出されますが渡海前に晋州城が落城したので由利五人衆の出陣は見送られました。また、慶長の役では遠国の武士は参陣を免除され、由利五人衆も肥前国へは参陣していません(「由利本荘市誌」より)。
1576年頃(天正4年) 打越藤左衛門 和歌山県和歌山市 【本家Ⅱ】
1576年(天正4年)3月10日、石山本願寺の51出城の1つ本庄城(大阪府東大阪市本庄)の戦いに雑賀衆として打越藤左衛門が参加。総大将の鈴木源左衛門、先陣の山内三郎大夫、高柳監物、西ノ口平内大夫、原平馬、天井浜主計、遊軍の高松三充、打越藤左衛門、津屋十郎左衛門、高仏十郎次郎、土橋平次郎、和歌藤左衛門などが武功に秀で敵味方に有名を馳せていたと記録があります(「紀州雑賀衆鈴木一族」「通俗日本全史第14巻」の陰徳太平記より)
1580年頃(天正8年)

楠木正意(=打越正意?)
打越三郎左衛門

和歌山県和歌山市 【分家Ⅰ】
楠木正意が石山本願寺合戦で本願寺に味方して石山本願寺及び雑賀衆打越氏発祥の地である紀伊国海士郡打越郷に隣接する鷺森城(本願寺鷺森別院)を守備し、その後、出羽国由利郡打越郷へ遁れたという記録が残されています(「西摂大観 上巻」の「熊野国造系楠木氏系譜」より)。また、石山本願寺から出羽国由利郡の打越(民部太夫)正義へ加勢を求める書状がありその名代として実弟の打越三郎左衛門を派遣し鷺森城(本願寺鷺森別院)を守備して功名を挙げたという記録が残されています(「親川楠家系図」、機関誌「家系研究」(第65号)及び「家系研究」(第66号)(家系研究協議会))。なお、打越三郎左衛門は出羽国由利郡打越郷へ戻った後に奥羽慶長合戦(北の関ケ原の戦い)で上杉方の酒田城攻めに参陣したという記録が残されています(「秋田市史第8巻」より)。因みに、石山本願寺合戦で石山本願寺に味方した楠木正具の子孫が金沢柵跡がある秋田県横手市に落ち延び、その末裔のアラビア石油社長・山下太郎さん(楠木同族会初代会長)湊川神社の門柱を奉納しています。上述の肥後国の菊池氏も然りですが、楠木氏の子孫が北畠顕家が治めた南朝の牙城である陸奥国及び出羽国を頼って移住しています。
1589年(天正17年) 打越(刑部少輔)幹嗣 茨城県 【本家Ⅱ】
打越(豊後守)の子孫。1589年(天正17年)に常陸江戸氏重臣である神生右衛門大夫が起こした謀反(神生の乱)で、神生氏を匿った小野崎照通が守備する額田城(常陸国那珂郡額田郷)を攻め(小野崎氏は結城へ敗走)、江戸重道から打越刑部少輔に対して「額田において討敵の動比類なく候」という感状が発給されています(水戸市史上巻)。なお、打越瀬左衛門の日記には、打越越刑部少輔は幼少期は北条家に人質にとられており額田城攻めが初陣であったことや江戸重道の姪を妻に娶ったことが記されています(詳細後述)。
☞ 神生の乱の後に、打越(定左衛門)光信【分家Ⅲ】が出羽国由利郡から常陸国へ移り住んで佐竹氏の直臣として召し抱えられていますが、久保田藩(佐竹氏)が編纂した打越氏の系図に記載されている打越(三郎兵衛)光重は、打越(官職:宮内少輔、幼名:孫太郎)光重(本家Ⅰ)とは同名別人か又は打越(三郎兵衛)光政が打越光重の幼名を知らずに自分と同じ幼名を記載して提出したものである可能性あります。なお、1591年に打越(飛騨守)光隆が本家Ⅰの家督を相続したことを受けて、その他の庶子が他国へ仕官を求めて移住した可能性が考えられ、打越光信もその一人であったと考えられます(現代でも次男以下は実家を出て独立するのと一緒です)。因みに、一時期、常陸江戸氏に仕えた打越氏(分家Ⅱ)と佐竹氏に仕えた打越氏(分家Ⅲ)、徳川将軍家に仕えた打越氏(本家Ⅰ)と水戸徳川家に仕えた打越氏(分家Ⅱ)が同じ常陸国の近隣する場所に住んでいたことになります。
1589年(天正17年)

打越彦三郎

茨城県 【本家Ⅱ】
打越(豊後守)の子孫(打越刑部少輔の弟?)。1589年(天正17年)に江戸氏の重臣である神生右衛門大夫が起こした謀反(神生の乱)で、神生氏を匿った小野崎照通が守備する額田城(常陸国那珂郡額田郷)を攻めた際(小野崎氏は結城へ敗走)、敵に取り囲まれて討死しています。菊池内膳の子・菊池隼人の息女を娶っており、打越又右衛門、打越源吉、打越次左衛門の祖先。なお、菊池氏は肥後国の菊池氏の庶流で、江戸但馬守から常陸国那珂郡三反田に700石を与えられて新平館を構えていました。菊池隼人の父である菊池内膳は、その姉妹を打越豊後守(水戸藩郡奉行代官(武茂組)打越瀬左衛門の祖先)に嫁がせ、また、菊池隼人はその娘を打越彦三郎(額田城の戦いで討死)に嫁がせるなど打越氏と親密な姻戚関係を結んでいます。(「水戸市史上巻」「勝田市史 中世・近世編」より)
1600年(慶長5年) 打越(飛騨守)光隆 秋田県由利本荘市茨城県行方市 【本家Ⅰ】
慶長奥羽合戦(北の関ケ原の戦い)で最上義光の麾下として上杉氏を撃退した軍功により、1601年4月に最上義光、打越光隆らが徳川家康に拝謁し、最上義光には褒美として名刀「正宗」が与えられ、打越光隆は徳川家の家臣に取り立てられました。また、徳川家康から打越氏、仁賀保氏、滝沢氏及び赤尾津氏に対して庄内地方に留まって上杉景勝の米沢移封の警備にあたるように命じられ、徳川家康最上義光に宛てた1601年8月24日付の朱印状には最上義光を総大将として先陣:南部利光、第2陣:戸沢政盛ら仙北衆、第3陣:打越源太郎(光隆)ら由利衆、第4陣:最上義光の子・最上義康、第5陣:越後衆から構成される約2万5千名の陣立てが記されています(「近世旗本家伝文書集 記録御用所本古文書」「新庄古老覚書巻之一」より)。なお、最上義光が戸澤政盛に宛てた書状の中で慶長奥羽合戦(北の関ケ原の戦い)に参陣した者として打越(宮内少輔)頼尹の名前があります(「秋田市史第8巻」より)。1602年(慶長7年)、佐竹氏の減封国替えに伴って常陸国行方郡新宮郷(新宮、天掛、龍田)2000石に加増され、大身旗本として新宮城に入ります。1609年(慶長14年)5月18日没。
☞ 打越光隆の弟・打越光信は甲斐源氏発祥の地である常陸国を頼って佐竹義宣へ仕官(直臣)しており、関ケ原の戦いで中立的な立場をとった佐竹氏の国替えに伴って打越光信も出羽国へ入部しており、同じ打越氏が入れ違えになっています。(佐竹氏は出羽国へ国替えの後に佐竹氏の家臣団の家系図を編纂して「諸士系図」にまとめていますが、その中に佐竹氏に仕えた打越氏の家系図(1698年(元禄11年)、打越(三郎兵衛)光政が作成)が収録されています。)
?年 打越(定左衛門)光信 秋田県由利本荘市茨城県 【分家Ⅲ】
打越光隆の弟、打越光信は出羽国由利郡から甲斐源氏発祥の地である常陸国へ入部し、佐竹義宣へ仕官(直臣)。その後、佐竹氏が常陸国から出羽国へ国替えになったので打越光信も出羽国へ従っています(「諸士系図」より)。同じ常陸国でも打越氏(分家Ⅰ)は常陸国の旧南朝勢力を頼り、打越氏(本家Ⅰ)は常陸国甲斐源氏を頼っています。
☞ 1678年(延宝6年)に打越定右衛門が自宅謹慎中(原因は不明)に家督相続の申出を行う前に病死したという記録が残されているが(国典類抄第8巻 山方清兵衛利直日記より)、打越定左衛門と同年代の人物なので兄弟の可能性もある。
1622年(元和8年) 打越五郎右衛門 和歌山県和歌山市 【本家Ⅱ】
海士郡雑賀党として打越五郎右衛門が組頭・戸田金左衛門の配下の六十人地士として知行50石で紀州徳川家に召し抱えられ(「南紀徳川史第11冊」から「元和八年被召出地士六十人者姓名」より)、その後、1625年(寛永2年)に組頭・渋谷伯耆守の配下に組替えとなります(「南紀徳川史第11冊」から「大番頭六人預与力地士六拾人姓名」より)。
☞ 1619年(元和5年)に徳川頼宣紀州国へ入後直ちに、紀州の旧家や地侍のうち、熊野八庄司の末裔や畠山氏、湯川氏、宮崎氏(奥州探題職に仕え、一時期、秋田県仙北郡へ潜伏)及び貴志氏の遺臣の中から武功に優れ、家柄の由緒正しい60人を選んで土着のままで紀州藩士として取り立て「六十人者与力」(六十人地士)を組織し、その後、1654年(承応3年)に「六十人者」になっていいます。「六十人者与力」(六十人地士)は、紀州藩士として、有事の軍役に加え、警察機能を持ち村々を統治すると共に、訴状を取り扱うなど各村々の奉行代官的な役割を果たすために広範な権限を与えられていました。
☞ 現在確認できているだけで本家Ⅱには2つの系流があり、紀州藩士の「扶持人」で「◯左衛門」「◯蔵」を通名(分家Ⅰ、Ⅱと同じ)とする家系と、「六十人地士」で「◯右衛門」を通名(本家Ⅰと同じ)とする家系があります。
?年 打越忠蔵 和歌山県田辺市 【本家Ⅲ】
紀伊風土記には由緒書正しい旧家として紀伊国牟婁(口熊野)郡和田邑の打越忠蔵の名前が記録されており、その他にも牟婁郡の地士として紀伊国牟婁郡(口粟野)道湯川邑に湯川興兵衛や紀伊国牟婁郡(口熊野)大内川邑に愛洲七郎兵衛等の名前が記録されています(「南紀徳川史第11冊」から「紀州各郡地士姓名」より)。また、紀州藩が編纂した「紀州各郡地士姓目名」にも紀伊国牟婁郡和田邑・打越忠蔵の名前が記録されています(「南紀徳川史第11巻」より)。
☞ 打越忠蔵は、甲斐源氏紀州武田氏流・湯川直春の四男・忠蔵が紀伊国牟婁郡和田邑には打越屋敷及び打越城があり、そこで仏門に入り打越を名乗ったことが発祥とされています(「大塔村史 通史・民族編」より)。また、同じく甲斐源氏紀州武田氏流湯川氏の諸流・愛洲憲俊(武田家弘から嫡流の湯川氏と庶流の愛洲氏に分家)の弟・久留栖(愛洲)忠俊の末裔が打越屋敷と和田川を挟んだ対岸に久留栖屋敷を構え、その末裔が打越を名乗ったとも言われています(「熊野山警固愛洲氏一門」より)。
1623年(元和9年) 打越光久 茨城県行方市秋田県由利本荘市 【本家Ⅰ】
打越光隆の嫡子、打越光久が家督を相続して徳川秀忠に仕え、1623年(元和9年)、最上家の国替えに伴って常陸国行方郡新宮郷2000石から、出羽国由利郡矢島郷3000石に加増され、交代寄合旗本(大名待遇格)として八森城に入ります。1634年(寛永11年)8月7日に高田馬場で急死しますが、嗣子なく御家断絶。
☞ 由利本荘市観光協会のWEBサイトには、1623年(元和9年)に打越光隆が八森城(出羽国由利郡矢嶋郷)へ入ったと記載されていますが、打越光隆は1609年(慶長14年)に新宮城(常陸国行方郡新宮郷)で没しており、打越光久が八森城へ入っていますので、この記載は誤りではないかと思われます。1602年(慶長7年)に出羽国由利郡内越邑から常陸国行方郡新宮邑へ加増国替えとなりますが、その当時の当主は打越光隆であり、出羽国由利郡の人々の間には打越光隆が出羽国由利郡矢島郷へ戻ってきたという風聞が流布されたことによるものではないかと推測されます。また、矢島町史続(上巻)の「打越氏御先祖代々記覚書控」には打越光隆が出羽国由利郡小砂川に隠居したという記述が残されており、また、諸家系譜には津軽に隠居したという記録が残されていますが、上述のとおり打越光隆は常陸国行方郡新宮郷で没していますので、これは打越光隆と誰かを取り違えているのではないかと考えられます。
☞ 打越家(本家Ⅰ)の家臣として菅原景本、菅原景長、工藤次郎三郎、今泉光家などの名前が残されていますが(『鶴舞』(74号)「仁賀保光誠補遺」より)、打越光隆及び打越光久が城主であった八森城内には古くから菅原道真公を祀る天満宮が安置され(菅原景本、菅原景長は菅原道真公の末裔)、八森城のある出羽国由利郡矢島郷は天神信仰が盛んであったと思われます。
1634年(寛永11年) 打越光種 浦和市 【本家Ⅰ】
1629年(寛永6年)、打越光久の弟・打越光種が徳川秀忠に拝謁し、慶長奥羽合戦(北の関ケ原の戦い)での軍功が評価されて、1634年(寛永11年)に徳川家光の近侍として上洛軍に供奉(「貞享書上」より)。その後、御書院番(将軍直属の親衛隊)に取り立てられて御家を再興。食禄300俵の蔵米取りを経て、武蔵国北足立郡大久保村・神田村の500石(知行地)を与えられます(「浦和市史 通史編 第2巻」より)。1670年(寛文10年)2月15日没。
?年 打越(金右衛門)光清
打越(半四郎主殿)光春
打越(伝七郎)光豊
秋田県由利本荘市岩手県 【分家Ⅴ】
長男・打越光久が家督を相続した後、三男・打越(金右衛門)光清、四男・打越(半四郎主殿)光春、五男・打越(伝七郎)光豊は第2代津軽藩藩主・津軽越中守)信枚へ仕官します。長女・打越センは津軽藩初代藩主・津軽(右京太夫)為信の養女となり、打越センは津軽藩家老・津軽伊豆(津軽氏流・兼平信孝)の妻、その娘は津軽藩家老・津軽美作(乳井建定)の妻となっています。なお、打越(半四郎主殿)光春は400石、打越孫九郎は700石及び打越城(常)左衛門(打越氏(本家Ⅰ)の家老として打越丈左衛門という人がいますので、同一人物である可能性があります。)は400石という高禄を与えられていたという記録が残されています(信枚公御代元和年中御家臣姓名大概)。また、打越(半四郎主殿)光春は津軽藩第3代藩主・津軽信義に津軽藩大目付に登用されています(「歴代重役人名覚書」より)。その後、1634年(寛永11年)、第3代将軍徳川家光は将軍代替りの挨拶のために約30万の軍勢を率いて上洛しますが(本家Ⅰの打越光種が徳川家光の近侍として上洛)、この上洛軍に供奉していた津軽藩第3代藩主・津軽信義が京都から江戸へ戻ると津軽藩御家騒動船橋騒動)が勃発します。津軽信義は1631年(寛永8年)に若年で津軽藩主になりましたが、それを奇貨として権勢を欲しいままにする近従と譜代の家臣との間の対立が深刻化し、津軽伊豆・津軽美作など津軽藩重臣とこれに同調した譜代の家臣の岩橋、三村、打越(孫九郎、半四郎)、坂本、増川、七戸、郡、湊、秋田、郡らが津軽藩家老・舟橋半左衛門及び乾四郎兵衛の不行状を幕府に訴えます。その後、1636年(寛永13年)に幕府評定所の裁定が下り、喧嘩両成敗により津軽藩家老・舟橋半左衛門及び乾四郎兵衛と津軽藩重臣津軽伊豆及び津軽美作は他藩(毛利氏)へお預けとなり、津軽藩要職にあった沼田八郎左衛門と打越(半四郎主殿)光春は津軽藩追放になり(その後、行方知れず)、御家騒動船橋騒動)は収束しています(「新編弘前市史 通史編2」より)。なお、津軽藩御家騒動船橋騒動)後、打越(金右衛門)光清は南部家の家臣・秋田金左衛門の養子となります。また、打越(伝七郎)光豊は出羽国へ戻って浪人となり、その子・打越光忠津軽越中守)信枚の叔父・津軽十郎左衛門により陸奥国東津軽郡小湊郷へ屋敷を与えられます。(打越氏御先祖様代代覚書控(矢島町史続上巻より)。
?年 打越佐吉 秋田県由利本荘市青森県 【分家Ⅴ】
出羽国由利郡から打越佐吉が津軽藩第2代藩主の津軽信枚へ仕官(「梅津政景日記」より)。
?年 打越孫四郎 秋田県由利本荘市茨城県 【分家Ⅰ】
(楠木(河内守)正家-楠木(出羽守・打越将監)正宣-楠木(七郎左衛門)正光-小笠原(左衛門)正賢-楠木(摂津守)正時-楠木(大炊介)正常-楠木(左馬介允)正清-打越(左衛門)正国-打越(左衛門大夫)正淑-打越(左衛門大夫)正諸-打越(左衛門大夫)正依-打越(式部大夫)正春-打越(民部大輔)正義の系図は割愛)打越光久の死後により嗣子なく御家断絶となりますが、兄・打越(孫次郎)正朝は落馬の怪我で動けないので弟・打越孫四郎を養子に入れて御家再興を江戸へ訴えたところ、徳川光圀から旗本として召し抱えるので出仕するように指示があります。なお、江戸へ上京するまでの間、一時、佐竹義隆に身を寄せています(「親川楠家系図」より)。
☞ 打越(民部大輔)正義の次代・打越(宮内少輔)正兼が打越(宮内少輔)光重のことを示している可能性がある旨の記述もありますが(大内町史)、於曾氏の系流(打越氏御先祖様代代覚書控(矢島町史続上巻)については打越光重の代から系図の一致が見られますので、豊臣秀吉が由利十二頭を由利五人衆に整理して打越光重に本領安堵の朱印状を下賜したことに伴って於曾氏の家督が打越光重(小笠原氏大井家)に統合されたと考えられますが、楠木氏の系流(親川楠家系図)については総領家である打越光重(小笠原大井家)の系図と記載が似通るのは当然のこととして、名前や世代数が全く一致しておらず、また、とりわけ御家断絶後の経緯が全く異なりますので、これらを無理に同一の系図であると解するのは無理があると思われます。
1631年(寛永8年) 打越刑部 茨城県 【分家Ⅱ】
常陸国那珂郡三反田郷の郷侍。常陸江戸家の滅亡及び常陸佐竹家の減封国替えの後、常陸江戸家の旧臣は水戸徳川家から郷侍として一定の領地を与えられていましたが、寛永年間半ばに郷侍の子弟(この打越刑部とは、打越(瀬左衛門政)政徳を水戸徳川家の家臣として召し抱える政策がとられています。(「茨城県の思想・文化の歴史的基盤」、「大日本歴史大辞典 第二巻」より)。
1645年(正保2年) 打越藤右衛門 和歌山県和歌山市 【本家Ⅱ】
大番頭・戸田十郎左衛門の配下として打越藤右衛門の名前が記録されています(「南紀徳川史 第11冊」から「六十人者地士組分け」より)。
1659年(万治2年) 打越(治右衛門)光業 栃木県小山市鹿沼市 【本家Ⅰ】
打越光種が娘の婿養子として鵜殿長種(弁慶の父・熊野別当湛増の末裔)の四男を迎えます。1659年(万治2年)、徳川家綱に拝謁し、御書院番(松前伊豆守組)に就任。1697年(元禄10年)、下野国都賀郡上殿村、口粟野村、横倉村、下古山村に500石(知行地)を与えられています(「徳田浩淳著作選集第6巻(下野の領地と村名)」より)。1713年(正徳2年)10月24日没。拝領屋敷:東京千代田区隼町4国立劇場(1682年~)、東京都千代田区九段北2-4-1シャルトル聖パウロ修道女会(1710年~)(「江戸城下変遷絵図集」より)

☞ 旗本は江戸城から離れた遠国にある幕府領内に知行地があり、江戸城近くに拝領屋敷を与えられて生活していました。打越氏(本家Ⅰ)は約500石の知行取りででしたが、このクラスで約500坪程度の拝領屋敷(時代劇に登場する門番が居る屋敷)が与えられていた模様です。
1659年(万治2年) 打越六兵衛 福島県三春町 【分家Ⅶ】
陸奥三春藩(秋田家)の破損手代(建造物の営繕、材木の管理を掌った役職)として二両二人口(「三春町史第8巻 近世資料1 資料編2」より「万治二年家中給人知行高扶持切米高覚」)。1602年(慶長7年)、徳川家康から佐竹家の出羽国への国替えに伴って打越光隆らと共に出羽国から常陸国(宍戸藩)へ国替えとなり、1645年(寛永21年)、常陸国(宍戸藩)から陸奥国三春藩)へと国替えとなっています。
1665年(寛文5年) 打越甚五左衛門 青森県 【分家Ⅳ】
御物番頭(御書院番頭)(「青森県史 資料編 近世2」より)。1665年寛文5年、長峰村の狼狩の陣備え(約5千人弱)として左脇備に打越甚五左衛門の名前があります(「津軽信政公事蹟」より)。
1666年(寛文6年) 打越半右衛門 石川県鹿島郡 【分家Ⅵ】
加賀藩内で半大名的な立場で独自の領地経営を行っていた長氏が支配していた能登国鹿島郡で隠田検地が実施され、検地大奉行・三宅善丞、検地奉行・小川三郎左衛門、河嶋治兵衛、横目・堀部新助、帳付・打越半右衛門、宮崎兵三、竿取・高橋八右衛門などが任じられ、これに郡奉行・代官らも参加しました。1667年(寛文7年)に長氏の譜代家臣・浦野(孫右衛門)信秀とこれに与する百姓が(前近代的土豪的土地支配の既得権益を守るために)前田氏に対して検地反対越訴を企てる事件(俗に浦野事件)が発生し、長氏はその責任を問われて前田氏に領地を没収され、以後、加賀藩重臣の身分で仕えます(「日本近世史論叢上巻」より)。
☞ 石川県に分布する打越氏は丸に揚羽蝶紋を使用していますが(但し、現在、石川県に分布している打越氏は蔦紋が多い)、これは主家である長氏が室町時代能登国の守護であった能登畠山家の家臣(長家は畠山七人衆に数えられる有力家臣)として仕え、能登畠山家氏は桓武平氏流と清和源氏流の2流(この2流は婚姻関係があり1家を構成)があったことに由来している可能性が考えられます。1582年(天正10)年、長氏は七尾城主となった前田利家に臣従し、前田八家の1家として前田氏の重臣となりますが、上述の浦野事件の責任を取らされて長氏の領地、能登国鹿島郡の半分(3万3000石)が没収され、加賀国金沢郡への移住が命じられて前田家重臣(禄高3万3000石)として仕えています。
☞ 長氏中興の祖・長信連は源頼朝から由利小藤太の後家を娶らされ、能登国大屋荘を下賜されています。なお、打越尚光が河内国守護職であった畠山義豊に仕えていますが、能登国守護職であった畠山義統はは応仁の乱畠山義豊の父・畠山義就に与していることなどから、畠山義統と打越氏との間に何らかの関係があった可能性も考えられます。
1669年(寛文9年) 打越伊左衛門
打越甚左衛門
秋田県 【分家Ⅲ】
1669年(寛文9年)に佐竹義隆は松前蝦夷の蜂起鎮圧のために軍勢を編制し、その軍勢の大鼓役(陣太鼓を打ち鳴らして軍勢の進退など本陣からの指示を伝える役目)として打越伊左衛門が出陣を命じられています(「秋田沿革史大成上」より)。また、打越甚左衛門は反乱軍を包囲するために先陣を命じられています(「北方史史料集成第四巻」より)。なお、1698年(元禄11年)に打越光政が久保田藩に提出した系図にはその名前が見当たらないので、佐竹氏に仕官した打越氏が複数家あった可能性があります。
☞ 全ての分限帳を調べれば、佐竹家に仕えた打越家(打越光政以降)の系図を作成できるかもしれませんが、時間がなく未着手のままです。
1669年(寛文9年) 打越源五郎 青森県 【分家Ⅳ】
1669年(寛文9年)10月18日に開催された第四代藩主・津軽信政の御前試合に当流の達人・高田儀兵衛と共に打越源五郎が出場しています(「弘前藩庁日記」より)。また、石高不明の津軽藩士として打越市十郎の名前があります(「弘前藩庁日記」より)。
1676年(延宝4年) 打越新兵衛 福島県 【分家Ⅷ】
磐城平藩の大納戸衆(「磐城平藩(内藤家)財用方役人の確立」より)。
☞ 映画「超高速!参勤交代」磐城平藩(内藤家)は分家の湯長谷藩(内藤家)に参勤交代の行列を貸すシーンで登場しますが、1747年(延享4年)に日向国(現、宮崎県)の延岡藩へ国替えとなっています。なお、近代筝曲の開祖・八橋検校は1663年(寛文3年)まで磐城平藩(内藤家)に専属音楽家として召し抱えられており、打越新兵衛と同時代を磐城で過ごしています。その後、八橋検校は京都へ移住しますが、筝の形を模した京都名菓「八ッ橋」は八橋検校の名前が由来となっています。
1678年(延宝6年) 打越角右衛門 秋田県 【分家Ⅲ】
佐竹氏の分家である佐竹西家の佐竹義房が久保田藩大館城代を務めていた時代の延宝六年改大館城代家中分限には禄高30石として打越角右衛門の名前があります(「大館市史第2巻」より)。なお、1698年(元禄11年)に打越光政が久保田藩に提出した系図にはその名前が見当たらないので、佐竹氏に仕官した打越氏がもう複数家あった可能性があります。
1678年(延宝6年) 打越常右衛門 青森県 【分家Ⅷ】
鉄砲足軽二組組頭(「大日本史料第12編之36」より)。
1683年(天和3年) 打越与兵衛 石川県輪島市 【分家Ⅵ?】
打越宗五郎の倅で、才許人として記録があります(「輪島市史 資料編 第2巻」より)。才許(裁許)人とは、新田開発や土地売買等の事務を統制する役職のこと。また、打越宗五郎の倅、打越太郎兵衛の名前もあります。
1685年(貞享2年) 打越(左大夫)光高 栃木県小山市鹿沼市 【本家Ⅰ】
1685年(貞享2年)、徳川綱吉に拝謁し、御小姓組(大岡土佐守組)御留守居番(大奥の警護等)等に就任。1744年(延享元年)8月24日没。下野国都賀郡口粟野村(現、栃木県上都賀郡)に約238石、下野国都賀郡上殿村(現、栃木県鹿沼市)に約87石、下野国都賀郡下古山村(現、栃木県下都賀郡)に約204石、下野国都賀郡横倉村(現、栃木県小山市)に約143石があり、実際には計約700石の知行地となります(「旧高旧領地取調帳データベース」「栃木県史第15巻」「日本歴史地名大系第9巻」より)。なお、1968年(元禄10年)、下野国都賀郡横倉村の代官(当主に代って領地の事務を司る者)として打越浪右衛門が置かれていました(「小山市史料所在目録第7巻」より)。拝領屋敷:東京都千代田区三番町3-9番町千鳥ヶ淵アビダシオン(1724年~)(「江戸城下変遷絵図集」より)
1688年(元禄元年) 打越(市之進)光長 青森県~千葉県 【分家Ⅴ】
打越光忠の二男・打越光長は津軽藩御家騒動船橋騒動)に巻き込まれて祖父・打越光豊及び父・打越光忠の代から出羽国及び陸奥国(小湊)で浪人生活を送っていましたが、1688年(元禄元年)に第5代将軍徳川綱吉側用人に就任して上総国佐貫城主(その後、武蔵国川越藩主、甲斐国甲府藩主となり、その子・柳沢吉里の代に大和国郡山藩主)となった柳沢吉保に拝謁し、新羅三郎義光を祖先とする甲斐源氏の誼で柳沢家に召し抱えられます(「打越氏御先祖様代代覚書控(矢島町史続上巻」より)。
1690年(元禄3年) 打越(権八郎)光登 青森県~千葉県 【分家Ⅴ】
打越光忠の三男・打越光登は1690年(元禄3年)に2万石加増された上総国佐貫城主(その後、武蔵国川越藩主、甲斐国甲府藩主となり、その子・柳沢吉里の代に大和国郡山藩主)の柳沢吉保はに拝謁し、柳沢家に召し抱えられます(「打越氏御先祖様代代覚書控(矢島町史続上巻」より)。
1692年(元禄5年) 打越(藤右衛門)光永
打越(幸四郎)光棟
青森県~千葉県 【分家Ⅴ】
打越光忠の長男・打越光永及び四男・打越光棟は1692年(元禄5年)に3万石加増された上総国佐貫城主(その後、武蔵国川越藩主、甲斐国甲府藩主となり、その子・柳沢吉里の代に大和国郡山藩主)の柳沢吉保はに拝謁し、柳沢家に召し抱えられます。なお、打越光永柳沢吉保馬廻りを仰せつかり、打越光棟は未だ幼年のため部屋住料を下賜されます(「打越氏御先祖様代代覚書控(矢島町史続上巻」より)。
1692年(元禄5年) 打越勘太郎 和歌山県 【本家Ⅱ】
高野山では行人(雑事)、学侶(修行)、聖(布教)という3つの階層(高野三方)が存在しましたが、行人と学侶との間で僧侶の資格や儀式の実施権限等に関する論争が発生(元禄高野騒動)。徳川幕府は騒動鎮圧のために軍勢を差し向けますが、「高野騒動之時出張之地士」として「元禄五申七月高野之儀に付橋本へ罷越候地侍六十人者須田組大庄屋の分」のなかに海士郡の六十人組・打越甚太郎が息子1人、下人1人を従えて参陣したことが記録されています。なお、「地士所持鉄砲調之事」の「在々所持鉄砲之書付」のなかに海士郡宇須村の打越甚太郎が鉄砲一挺、玉目三匁五分を所持していたことが記録されています。この調書には、猪や鹿を駆除するために使用される「おどし鉄砲」や禁猟地区で密猟して取り上げられた「取上鉄砲」、鉄砲の調練に使用される「稽古鉄砲」など鉄砲の用途も記録されていますが、打越甚太郎については「鉄砲」とのみ記録されていることから実戦に使用するための鉄砲であったと考えられます(「南紀徳川史11巻」より)。
1694年(元禄7年) 打越(幸四郎)光棟 千葉県~埼玉県 【分家Ⅴ】
1694年(元禄7年)に柳沢吉保武蔵国川越藩主に加増国替えになり、これに伴って打越幸四郎を大小姓に登用します(「分限帳集成(埼玉県史調査報告書)」の「元禄7年柳沢保明(柳沢吉保)家中分限帳」より)。また、1696年(元禄9年)に打越(幸四郎改め、幸右衛門)光棟は柳沢吉保の江戸における御側衆を仰せつかります。※「打越氏御先祖様代代覚書控(矢島町史続上巻」の記載内容の信憑性の裏付け。
1695年(元禄8年) 打越(瀬左衛門)政徳 茨城県 【本家Ⅱ】
打越氏(分家Ⅱ)は那珂湊に住居を構えて常陸江戸氏に仕えていましたが、常陸江戸氏が滅亡して郷侍となり、その後、水戸藩郷士として召し抱えられて水戸城下に移ります(日本歴史大辞典第2巻(河出書房))。水戸藩吟味役、鳥見役、郡奉行代官等を歴任し、1695年(元禄8年)、徳川光圀の命令で郡奉行の林(十左衛門)正興と共に鹿嶋神社から分祀した氷之沢鹿嶋神社を再建しています。 常陸国久慈郡水府村に住み、徳川頼房(威公)、徳川光圀(義公)、徳川綱条(粛公)の3代に仕えて1719年(亨保4年)没(享年80歳)。打越(瀬左衛門)政徳の長男・打越(七郎次)直は彰考館の史館編集、次男・打越(円次郎)政孝は彰考館の史館物書(書記役)を務めていましたが(注41)、二人の息子が先立ったことから、1715年(正徳5年)、那珂湊船手方・米川彦右衛門の子・米川弥八の才能を見込んで打越(瀬左衛門)正徳の長女の婿養子に迎えて家督を継がせて打越直正と名を改めさせ、やがて彰考館総裁になります(「水戸光圀の遺猷」「成功百話」より)。
☞ 打越(瀬左衛門)政徳の筆記を編集した古文書に打越(瀬左衛門)政徳が常陸国久慈郡水府村(現在、茨城県常陸太田市棚谷町の近隣)に住んでいたことが記されています。常陸国久慈郡水府村徳川光圀が隠居生活を送った西山御殿と墓所に隣接し、佐竹氏が居城を構えていた常陸太田市にも近く風情豊かな土地柄です。
☞ 1688年(元禄元年)9月~1689年(元禄2年)12月までの打越(瀬左衛門)政徳の日記が残されていますが、常陸江戸氏の家臣であった「打越豊後守」及び「打越刑部少輔」(「豊後守」及び「刑部少輔」は縦五位下の官位を下賜された者に与えられる役職)に関する記述があります。
1695年(元禄8年) 打越清之丞 青森県 【分家Ⅳ】
津軽藩の御留守居番(信政公御代元禄八乙亥年十一月廿一日改候弘前御家中分限帳覚)。
1696年(元禄9年) 打越理右衛門 青森県 【分家Ⅳ】
長内杢右衛門と上屋敷替え(打越清之丞との関係は不明ですが、死亡に伴う家督相続があった可能性があります)(青森県史 資料編 近世2)。
1698年(元禄11年) 打越(三郎兵衛)光政 秋田県 【分家Ⅲ】
佐竹氏へ仕官した打越光信の嫡子・打越光政は久保田藩による「諸士系図」の編纂にあたり佐竹氏に仕官した源姓・打越氏の系図を提出。
1701年(元禄14年) 打越(頼母)光保 栃木県小山市鹿沼市 【本家Ⅰ】
1701年(元禄14年)、徳川綱吉に拝謁し、御書院番(酒井因幡守組)に就任。父の打越光高に先立って1742年(寛保2年)2月29日没。
1710年頃(宝永7年) 打越形左衛門 青森県弘前市 【分家Ⅲ】
第2代藩主・津軽信枚の時代、岩木山山岳信仰霊場として藩士・領民の厚い信仰対象になっていましたが、津軽藩士・打越形左衛門は仲間2人と岩木山へ参詣登山する途中で行方不明となります。数日後、打越形左衛門だけが魂を抜かれたような状態で弘前城下へ姿を現しますが、その翌朝未明に大筒鉄砲を持って再び岩木山へ登り、何度も火口へ発砲する(その発砲音が弘前城下まで響いたことで発覚)という事件が発生(「新編青森県叢書第5巻 奥富士物語」「叢書史層を掘る 漂白する眼差し」より)。打越形左衛門は火山ガスで意識が混濁して幻覚、幻聴に襲われるなか岩木山の魔性にとりつかれ、仲間2人を奪われた恨みから火口に潜む魔物を退治しようとしたのかもしれません。津軽藩はこの事件を奇貨として藩士による岩木山への登山を全面禁止し、藩主家のみが入山を許されるとすることで岩木山霊性を高めると共に、藩主家を岩木山に祀って神格化することで藩士・領民の人心を掌握する領国統治策の1つとして利用しました。
1716年(享保元年) 打越猶右衛門 和歌山県和歌山市 【本家Ⅱ】
紀伊国名草郡の郡奉行代官(「紀州藩農政史の研究」より)。
1724年(享保9年) 打越丈右衛門 奈良県 【分家Ⅴ】
大和郡山藩の御奏者番(「享保9年分限帳」より)、御使番(松之間詰)(「安永2年席帳」より)を歴任。本紋:三階菱(「1774年(安永3年)定紋覚」より)なお、1724年(享保9年)に甲府藩主の柳沢吉里(柳沢吉保の子)は大和郡山藩へ国替(加増)になり、大和郡山藩へ向かう国替の行列(約1km)の八番隊として打越丈右衛門の名前があります(「国史叢書 武田三代軍記2」の甲陽遺聞録より)。
1727年(享保12年) 打越(樸齋)直正 茨城県 【本家Ⅱ】
1700年(元禄13年)、徳川光圀水戸藩士船手方の下級武士であった米川家の子・弥八(14歳)の才能を認めて格留付列史館見習に抜擢して三宅観瀾に師事させ(「水戸史學先賢傳」より)、その後、僅か25年で留付→徒→右筆→馬廻→小納戸(総裁)に出世しましたが「このような昇進振りは当時として全く例のないことであった」ようです(「水戸学派の尊皇及び経綸」「水戸市史中巻第1」より)。1715年(正徳5年)、打越瀬左衛門が弥八の才能に惚れ込んで長女の婿養子として迎えて打越氏の家督を継がせて打越直正と改名(「水戸光國の遺猷」より)。その後、打越直正は徳川光圀が見込んだとおり才覚を現し、1727年(享保12年)、彰考館総裁を拝命して大日本史編纂に従事し、1740年(元文5年)まで彰考館総裁を務めます。初めて出版された「大日本史」(元文検閲本)の完成は打越(樸齋)直正が彰考館総裁を務めていたときのことです。徳川光圀と共に南朝正当論を唱えて楠木氏の復権を果たし、徳川光圀(義公)、徳川綱条(粛公)、徳川宗堯(成公)の3代に仕えます。1740年(元文5年)8月5日没(享年55歳)。打越直正が著した論文「樸齋正義」は水戸藩儒学者、藤田幽谷(藤田東湖の父)から高く評価されます(官位:贈縦五位)(「茨城県贈位者事蹟」より)(注〇)
☞ 現在の天皇北朝の系流ですが、明治天皇水戸藩主・徳川光圀彰考館総裁・打越直正らが編纂した「大日本史」で唱えられている「南朝正当論」等を根拠として三種の神器を所持していた南朝が正当であるという御裁断を下し(但し、南朝の正当性は南北朝合一(明徳の和約)により南朝後亀山天皇北朝後小松天皇三種の神器を渡すまでの南北朝時代の間のことで、その後の北朝の正当性を否定するものではありません。)、これが現在に至るまでの皇室の公式見解となっています。このWEBサイトの冒頭にある楠木正成公像はこのような時代背景のもとに住友財閥から東京美術学校(現、東京藝術大学)に制作を依頼され、皇室に献上されたものです。
☞ 北畠親房は関東の南朝勢力を拡大するために常陸国へ下向して南朝方の小田治久の居城である小田城に入りますが、そこで南朝の正統性を述べた歴史書である神皇正統記を執筆しています。時代は下って、水戸藩主・徳川光圀大日本史編纂で神皇正統記を高く評価し、彰考館総裁・打越(樸斎)直正らと南朝正当論を唱えて水戸学の礎を築くと共に、その後の日本人の歴史観(1つの王朝(万世一系天皇)によって途切れることなく受け継がれてきた日本の伝統)に大きな影響を与えます。この途切れることなく受け継がれてきた日本の伝統を守ることが日本人の精神的な支柱となり、それが良くも悪くも作用して日本の歴史を形成してきました。
?年 打越直道 茨城県 【本家Ⅱ】
打越直正の子(幼名:介七を改め弥八)、打越直道は、徳川宗堯(成公)、徳川宗翰(良公)、徳川治保(文公)の3代に仕え、御留守居役同心頭を務めます(「大日本人名辞書」より)。1775年(安永4年)5月15日没(享年60歳)。徳川光圀水戸藩士のために作った酒門共有墓地にある打越直正の墓碑の横に打越直道と婦人の墓碑が並び建っています。
1730年(享保2年) 打越伊左衛門 和歌山県和歌山市 【本家Ⅱ】
1865年(慶応元年)の大垣内の堤防決壊により系譜4種類を流失しますが、紀伊国海人郡打越村の地士・打越藤左衛門を祖先とする系譜のみが残っています。1730年(享保2年)没。(「紀州家中系譜並に親類書書上げ」より源姓打越氏系譜(家紋:丸に橘))
☞ 現在確認できているだけで本家Ⅱには2つの系流があり、紀州藩士の「扶持人」で「◯左衛門」「◯蔵」を通名(分家Ⅰ、Ⅱと同じ)とする家系と、「六十人地士」で「◯右衛門」を通名(本家Ⅰと同じ)とする家系があります。
1742年(寛保2年) 打越(左大夫)光輪 栃木県小山市鹿沼市 【本家Ⅰ】
打越光高が娘の婿養子として 松波筑後守正春(戦国大名・斎藤道三の末裔)の五男を迎えます。1742年(寛保2年)、徳川吉宗に拝謁し、御書院番(将軍直属の親衛隊)に就任。1756年(宝暦6年)11月6日没。打越光輪は、これまで「打越」が「うてつ」「うていち」「うてえち」「うてゑつ」「うてぢ」「うちごえ」「うちごし」「おっこし」等の様々な訓読みが存在しましたが、これを「うちこし」と改訓(前掲注27)。
1756年(宝暦6年) 打越(治右衛門)光中 栃木県小山市鹿沼市 【本家Ⅰ】
打越光輪が娘の婿養子として朝比奈泰輝の次男を迎えます。1756年(宝暦6年)に家督を相続し、小普請組組頭(お目見以下の旗本・御家人の管理等)に就任。拝領屋敷:市ヶ谷新本村四丁目(現在の防衛省正門前近辺)(江戸幕府旗本人名辞典第1巻)。1798年(寛政10年)7月23日没。
1757年(宝暦7年) 打越十左衛門 和歌山県和歌山市 【本家Ⅱ】
打越伊左衛門の嫡子。1757年(宝暦7年)没。(「紀州家中系譜並に親類書書上げ」より源姓打越氏系譜(家紋:丸に橘))
1764年(明和元年) 打越熊次郎 奈良県 【分家Ⅴ】
大和郡山藩の御長槍頭、支配方御槍奉行を歴任(明和分限帳より)、嫡子:打越熊之助(「家督分限帳」より)
1773年(安永2年) 打越力蔵 奈良県 【分家Ⅴ】
大和郡山藩の御近習組、御納戸役を歴任(安永2年席帳より)。本紋:三階菱(「1774年(安永3年)定紋覚」より)
1784年(天明4年) 打越(治右衛門)光広 栃木県小山市鹿沼市 【本家Ⅰ】
1781年(天明元年)、小普請組組頭(お目見以下の旗本・御家人の管理等)に就任。1784年(天明4年)、徳川家治に拝謁し、1786年(天明7年)11月29日に家督を相続。拝領屋敷:市ヶ谷新本村四丁目(現在の防衛省正門前近辺)(「江戸幕府旗本人名辞典第1巻」より)。
?年 打越光之 栃木県小山市鹿沼市 【本家Ⅰ】
記録なし(この先の家系図は不詳)
?年 打越金之助 【本家Ⅰ】
栃木県小山市鹿沼市
【本家Ⅰ】
御書院番(将軍直属の親衛隊)に就任(寛政譜以降旗本家百科辞典第1巻)拝領屋敷:東京都千代田区三番町3-9番町千鳥ヶ淵アビダシオン(1792年~)(「江戸城下変遷絵図集」より)

☞ 江戸幕府が作成した「寛政重脩諸家譜」は1798年(寛政10年)までの大名や旗本(御目見以上)の家譜を記録したものですが、それ以後は作成されていないので、現存する江戸幕府の古文書に記録されている限りで家譜を辿るしかありません。「寛政譜以降旗本家百科事典第1巻」には、打越光広から家督を継いだ者として打越金之助の名前が記録が残されていますが、これが打越光之と同一人物なのかは不明です。
1806年(文化3年) 打越橘右衛門 奈良県大和郡山市 【分家Ⅴ】
大和郡山藩の御広式御用役(「享保分限帳」より)
1816年(文化13年) 打越千之丞 秋田県横山市 【本家Ⅲ】
打越千之丞が秋田県横山市上境に禄高29石5斗9升7号の知行(「文化13年久保田藩分限帳」より)
1820年頃(文政3年) 打越孫治郎、打越民部少輔 秋田県横山市 【本家Ⅲ】
江戸時代の国学者菅江真澄は1811年から1829年(没)まで久保他藩に住み、佐竹義和から久保他藩の地誌を作成するように依頼されますが、楠木正家が籠城したと言われる金沢柵跡の近く出羽国雄勝郡松岡郷打越邑(現、秋田県湯沢市)を訪れ、出羽国平鹿郡や由利郡で行われた合戦の軍記物に打越式部太夫、打越孫四郎の名前が見られ、昔、その子孫が住んでいたと記録しています。また、現在、打越孫治郎及び内越民部少輔が住んでいますが、詳しい住所は分からないとも記録しています(「菅江真澄全集第五巻」より)。武家は土地の領有権を主張するためにその土地名を氏にしましたが、その逆(屋号等のように氏から土地名がつけられた例)もあったという例かもしれません。なお、式部太夫や民部大輔等の官職名は打越氏(分家Ⅰ)で代々自称し、世襲されていたものであり(本家Ⅰでは見られない官職名)、また、佐竹氏に仕官していた打越氏(分家Ⅲ)の知行地とも異なるので(但し、後掲の打越平角の知行地である秋田県横手市上境とは隣接地)、打越家(分家Ⅰ)の係流である可能性が考えられます。
江戸後期(19世紀) 打越(一乗斎)弘寿 茨城県水戸市~東京都千代田区神田 【本家Ⅱ】
別名:打越円蔵。水戸金工打越派の祖、古今彫四十四名工の一人に数えられ、江戸金工番付でも前頭に列せられる名工。水戸生まれで玉川承寿の弟子・玉川吉長に師事し、水戸から江戸神田に移り住んで学び、正確で精緻な彫刻表現を得意とし、その作品は根津美術館等に所蔵されるなど現代でも美術品としての評価は高いです。水戸金工派は慶長年間に佐竹氏が京都から彫工を招致したことに始まり、江戸時代後期に隆盛を迎えますが、打越派は玉川派、泰山派、一柳派、萩谷派と並んで一大派閥を形成し、水戸金工・打越派として弘義、弘親、弘信、弘直、弘泰などの有能な門人を多数輩出しています。(「刀装小道具講座6(諸国編・上)」「日本装剣金工史」より)。
☞ 1889年(明治22年)、岡倉天心東京美術学校(現、東京藝術大学)を開校するにあたり、美術工芸を絵画や彫刻と同等に新しい造形を生み出す芸術として捉えて金工や漆工などの美術工芸を教授するために水戸金工の流れを汲む海野勝珉を招聘して美術工芸科を設置し、それがこのWEBサイトの冒頭にある楠木正成公像の制作にも活かされています。
1824年(文政7年) 打越平右衛門 新潟県佐渡市 【分家Ⅵ?】
1824年(文政7年)6月28日、宝生流能楽師の本間左京由春へ打越平右衛門が入門(「新潟県史近世4 佐渡編」の「本間左京由春入門姓名綴」より)。本間左京由春は佐渡の地頭職であった本間秀高の後裔(上杉謙信により滅亡)で、江戸時代には佐渡徳川幕府領になっています。佐渡世阿弥が晩年に配流された土地で能楽が盛んであり、その中でも本間左京由春は「最堪能と称せらる」(「佐渡人物志」より)ほどの名人で、佐渡宝生流の隆盛を極めた人物。なお、佐渡の鉱山奉行を務めたことがある大久保長安の祖父は金春流能楽師、その父・大久保信安は大蔵流狂言を創始しており、佐渡能楽との所縁が深い土地柄。
1832年(天保3年) 打越団蔵 和歌山県和歌山市 【本家Ⅱ】
打越十左衛門の嫡子。1832年(天保3年)没。(「紀州家中系譜並に親類書書上げ」より源姓打越氏系譜(家紋:丸に橘))
1848年(嘉永元年) 打越彦十郎 茨城県 【本家Ⅱ】
水戸藩町同心。1844年(弘化元年)に徳川斉昭は藩政改革に反対する水戸藩保守派の働き掛けなどにより幕府からその子・徳川慶篤への家督相続と謹慎蟄居を命じられます。これを受けて水戸藩改革派が徳川斉昭復権に向けた活動を活発化されるなかで、徳川斉昭が家臣に宛てた内密の親書が盗難される事件が発生し、打越彦十郎らが盗品の親書を取り戻して1849年(嘉永2年)に徳川斉昭復権を果たします(水戸市史中巻(4))。
1850年(嘉永3年) 打越左大夫 栃木県小山市鹿沼市 【本家Ⅰ】
打越金之助が娘の婿養子として小笠原大隅守(江戸幕府のフランス式陸軍精鋭部隊・伝習隊頭取)の孫を迎え、1843年(天保4年)に家督を相続させています。1850年(嘉永3年)12月23日の日付で徳川家慶御書院番(将軍直属の親衛隊)に就任(「多聞櫓文書明細短冊」より)。なお、この年は江戸湾浦賀沖に黒船が来航している。拝領屋敷:東京都新宿区若葉1-13-32西念寺(徳川家康の家臣で伊賀忍者の頭領・服部(半蔵)正成が開基、服部(半蔵)正成の墓所)の前(490坪余)(「寛政譜以降旗本家百科辞典第1巻」「江戸城下変遷絵図集」より)
日本(天皇・武士)×外国の「日本の土地の支配権」を巡る争い
1853年(嘉永6年)黒船来航
1855年(安政2年) 打越(十左衛門)繁門 和歌山県和歌山市 【本家Ⅱ】
打越団蔵の嫡子。1855年(安政2年没)。打越団蔵の次男及びその子は和歌山県田辺市の千光寺へ出家。(「紀州家中系譜並に親類書書上げ」より源姓打越氏系譜(家紋:丸に橘))
1855年(安政2年) 打越儀右衛門 奈良県大和郡山市 【分家Ⅴ】
大和郡山藩の御用達並
1863年(文久3年) 打越専三郎 茨城県 【本家Ⅱ】
水戸藩士。詳細は不明ですが、尊王攘夷の立場から時代を痛烈に風刺する私日記を残しています。
1864年(元治元年) 打越(佐次郎)正只 茨城県 【本家Ⅱ】
水戸藩目付方同心組。水戸藩主の徳川慶篤(順公)の名代として宍戸藩主(水戸藩支藩)の松平頼徳が水戸藩の内乱(天狗党≒改革激派と諸生党≒保守派の争い)を鎮圧するために率いた軍勢(大発勢≒改革慎派)に参陣し、1864年(元治元年)9月9日に常陸国久慈郡島村幕府軍との戦闘により戦死(享年43歳)。明治政府により明治維新の功労者として靖国神社へ合祀。(「幕末維新全殉難者名鑑1」「水戸藩死事録・義烈伝纂稿」より)
☞ 大発勢には徳川斉昭(烈公)が唱えた尊王攘夷思想の影響を受けた尊王攘夷派が多く参加していましたが、徳川幕府戊午の密勅の返納に反対する天狗党の討伐を決定すると、大発勢は天狗党と共に諸生党及び幕府軍と戦い(元治甲子之変)、その後の明治維新への流れを作ります。この報に接した大久保利通は「実に聞くに堪えざる次第なり、是を以って幕府滅亡のしるしと察せられ候」と述べていますが、彰考館総裁・打越直正も一翼を担った水戸学の思想は吉田松陰西郷隆盛ら他藩の幕末志士達にも多大な影響を与えて明治維新の原動力となっています。
1864年(元治元年) 打越貞助 茨城県 【本家Ⅱ】
打越貞助水戸藩主の徳川慶篤(順公)の名代として水戸藩の内乱(天狗党と諸生党の争い)を鎮圧するために水戸藩支藩である宍戸藩主の松平頼徳が率いる軍勢(大発勢)に参加するが、徳川慶篤が弟の将軍徳川慶喜の説得により幕府に恭順の意を示したことから大発勢も幕府に投降し、佐倉藩堀田氏の佐原陣屋にお預けとなる(その後、約200名が放免されており、この際に打越貞助も放免された可能性)。
☞ 水戸藩主に付されている諡号(~公)は、各藩主の特色(例えば、徳川斉昭は将軍継嗣問題や日米通商条約の締結等を巡って幕府と激しく対立したので「烈」、徳川慶篤は幕府に恭順の態度を示したので「順」等)を表している。因みに、徳川斉昭偕楽園(領民の皆と一緒に楽しむという意味で偕楽園と名付けて領民にも園を開放し、晋の武帝が学問に親しむと梅の花が開き、学問をやめると梅の花が開かなかったという中国の故事に肖って保存食にも優れている梅を植樹)や藩校弘道館を設置して時代の変革期に必要とされる人材育成に注力すると共に、幕末期に西洋列強に先駆けて近代式戦車潜水艦を設計又は製造し、また、世界初の近代式エレベータ(好文亭)を開発するなど時代の変革期に求めらえる「賢公」というべき規格外の人物であった。
1865年(慶応元年) 打越平角
打越安之助
秋田県横手市 【分家Ⅲ】
秋田藩士の打越平角は秋田県横手市上境に29石5斗9升7号の知行を与えられ(慶応元年秋田藩分限帳)、その嫡子・打越安之助は扶持局住に任ぜられます(慶応元年秋田藩分限帳)。なお、局住とは、藩士の嫡子・嫡孫で家督を継ぐべき者が御番入として奉公し、そこから御小姓に挙がると局住扶持を受けます(「秋田県史第1冊 秋田藩職官略纂 編制及び勤務」より)。
☞ 外様大名の家臣なので禄高は高くありませんが、幕末まで佐竹氏の家臣(直臣)として仕えていたことが分かります(打越千之丞と打越平角の禄高が一緒なので、少なくとも打越千之丞の代から秋田県横手市上境(偶然かもしれないが、楠木正家が守備した金沢柵の真近)に知行地を与えられていたものと考えられます)。
1866年(慶応2年) 打越丈蔵 奈良県大和郡山市 【分家Ⅴ】
大和郡山藩の御使番。拝領屋敷:奈良県大和郡山市小川町(「郡山城之城下町絵図」より)明治7年に打越初(打越丈蔵の嫡子?)から家禄返還とこれに引き換えに資本金下賜願が出されます。
1866年(慶応2年) 打越織次郎 奈良県大和郡山市 【分家Ⅴ】
大和郡山藩の御近習取次役。拝領屋敷:奈良県大和郡山市植槻町(「郡山城之城下町絵図」より)明治7年に打越織次郎(植槻町)から家禄返還とこれに引き換えに資本金下賜願が出されています。
1868年(慶応4年) 打越左大夫 栃木県小山市鹿沼市 【本家Ⅰ】
御留守居番(大奥の警護等)に就任(「多聞櫓文書」の書付より)。なお、この年は江戸無血開城が行われている。
☞ 江戸幕府の古文書には「諱」まで記されていないので上記の打越左大夫と同一人物かは不明。1864年(元治元年)に打越長三郎に家督が譲られており、打越氏(【本家Ⅰ】)の菩提寺である長泉寺には打越家の墓があります。
1869年(明治2年) 打越(安左衛門)繁高 愛媛県西条市和歌山県和歌山市 【本家Ⅱ】
打越(十左衛門)繁門の嫡子。打越安左衛門は紀州藩支藩である西条藩伊予国)の御付人(準士)として仕えていましたが、1862年(明治2年)に紀州藩へ帰任しました。(「南紀徳川史 第11冊」から西条御付人御戻しの項より)。
武士⇒天皇へ「土地の分配権」(政権)が移行
1867年(慶応3年)幕府から天皇へ政権を返上
1871年(明治4年)廃藩置県で幕府から分配された土地を天皇へ返上
1873年(明治6年)地租改正により私人による土地所有権が確立
?年

曾祖父

祖父

茨城県~鹿児島

【分家Ⅱ】
水戸藩を脱藩して薩摩へ入部(家伝)。なお、元治甲子之変で天狗党(改革派)に与することになった大発勢(改革慎派)に参加していた打越佐次郎が戦死し、打越貞助(定介)が捕らえられるなど明治維新までは諸生党(保守派)が水戸藩を実効支配することになり、水戸藩の改革派(改革慎派を含む)に対する粛清が凄惨を極めたので(赤ん坊に至るまで一家全員が処刑されるなど徹底した制裁)、水戸藩と親密な関係(水戸藩薩摩藩の脱藩浪士が企てた桜田門外の変など)にあった薩摩藩を頼って水戸藩を脱藩したのではないかと思われます。なお、薩摩へ入部して姻戚関係を結んだ家は島津家家臣で鉄山師として種子島で鉄砲製造を指導したこともある武士の末裔ですが(「都道府県別姓氏家紋大事典西日本編」「南九州の伝統文化第2巻」より)、どのような経緯で知己を得て姻戚関係を結ぶに至ったのかなど詳しいことまでは分かりません(注42)
☞ 常陸国の菊地氏は、肥後国の菊池氏西郷隆盛の祖先で、菊池内膳の子・菊池隼人の「隼人」とは薩摩、大隅、日向に住む人々を示す言葉)の庶流が常陸国に移り住み、常陸江戸氏に仕官して常陸国那珂郡三反田郷に知行地を与えられ、その近隣を支配していた打越氏と婚姻関係を結んで親密な関係を築いている。なお、肥後国の菊池氏は、南北朝時代南朝方として日本各地を転戦し、1339年(延元4年)に後醍醐天皇の皇子・懐良親王が征西将軍として九州へ下向した際に菊池武重の娘が懐良親王へ嫁いでおり、その庶流である常陸国の菊地氏は同じく南朝方であった常陸江戸氏に仕官して、楠木正家の血を引く打越氏と婚姻関係を結んでいる。この点、常陸国は、守護職の小田氏や那珂氏(後の常陸江戸氏)が楠木正家に味方し、水戸藩主の徳川光圀や彰考館総裁の打越(樸齋)直正等が南朝正当論を唱えるなど南朝色の強い風土と言える。因みに、肥後国菊池十八外城の打越城と打越家との間には直接の関係はないと思われる。
☞ 1870年(明治3年)に戸籍法が施行され「氏」及び「名」を戸籍に登録することになったが、武士は「輩行名」(通称)や「諱」など複数の名前を持っていたので、そのうち好きなものを1つ選んで登録することになり(一般に「諱」(=忌み名)とは親しい間柄だけに許す呼び名で文字通り他人から「諱」で呼ばれることは無礼なこととして忌み嫌われていたので)、正式な記録を含む古文書等でも「氏」及び「輩行名」(通称)のみを記載する(即ち、「個人」ではなく「家」が重んじられていた時代に「氏」で家を、「輩行名」で長男、次男、三男などの序列を記載し、その者の身分を表す名称)のが通例で、「諱」まで記載する(即ち、序列が分からない「個人」を表す名称)ことは稀だったので、その名残りで戸籍にも日常生活で使われていた「輩行名」(通称)が登録される例が多かったと言われている。やはり僕の系流の閉鎖戸籍謄本(原戸籍)を見ても諱ではなく輩行名(打越源次郎、打越仲次郎など)が登録されている。

日本(天皇・国民)×外国の「外国の土地の支配権」を巡る争い
1894年(明治24年)日清戦争
1904年(明治37年)日露戦争
1914年(大正3年)第一次世界大戦
1937年(昭和12年)日中戦争
1941年(昭和16年)第二次世界大戦
2000年(平成12年) 叔父 鹿児島~埼玉県 【分家Ⅱ】
会社を経営していた叔父は生前に日本経済の発展に尽力した功績を讃えられ、平成12年4月に叙勲の栄誉に預かります(「叙勲に輝く人々東日本編」に掲載)。
☞ 叔父が叙勲された黄綬褒章は「業務に精励し衆民の模範となるべき者」(「日本の勲章」より)に与えられるもので、文化勲章と同じく単一級で等級のようなものはありません。なお、過去、叔父以外にも打越氏の中から叙勲された人もおり、同じ血を引く者として自らの不甲斐なさに身の引き締まる思いがします。及ばずとも、心掛けたいものですが、なかなか侭ならないのが人生でもあります。
2018年(平成30年) 小職 秘密 【分家Ⅱ】
趣味 道楽に溺れ、家名を汚す。
 
(注40)打越氏の通字、通名、官位
御家代々に亘って受け継がれることが多い「通字」(例えば、【本家Ⅰ】の「光」、【分家Ⅰ】の「正」など)、「通名」(例えば、【本家Ⅰ】の「治右衛門」「左大夫」、【分家Ⅰ】及び【本家Ⅱ】の「〇左衛門」「〇次郎」、【本家Ⅲ】の「〇蔵」など)や「官位」(例えば、【本家Ⅰ】の「宮内少輔」、【分家Ⅱ】の「左近将監」など)等にも系流が推測されます。
 
(注41)打越瀬左衛門の2人の息子の事績
打越直正の事跡の影に隠れて打越(七郎次)直及び打越(円次郎)政孝の事跡が取り沙汰されることはありませんが、「水戸史館雑記事(元禄11年~宝永5年)」に若干の記録(主に褒美の記録)が残されていますので、以下に原文を引用します(「茨城県史料近世思想編 大日本史編纂記録」より)。
【1699年(元禄12年)】
 〇正月廿四日
  佐野助十郎、打越七郎次、中沢平次郎、伊藤兵七、竹田伊平多太、森田左源太
  右六人史館書写御用ニ御雇被遊候由今日被 仰出候二月三日より右之面々致出勤候
 〇五月十七日
  佐野助十郎、打越七郎次、森田左源太、中沢平次郎、伊藤兵七、竹田伊平多太
  右六人史館書写御御用相務申候付為御褒美晒壱疋ツ丶被下置候由今日御城へ被為召被仰渡候
  但介十七郎次源太平次郎は御老中被仰渡兵七へは奉行衆伊平太へは御用人衆被仰渡候惣裁大井彦介列座に罷出候
 〇九月二日
  中絹壱疋ツ丶御褒美被下
  佐野助十郎、打越七郎次、中沢平次郎、森田左源太、竹田伊平多太
 〇十二月十六日
  金壱両壱分ツ丶為御褒美被下
  佐野助十郎、打越七郎次、中沢平次郎、竹田伊平多太、森田左源太
【1700年(元禄13年)】
 〇四月三日
  打越円次郎
  右は当遡日江戸史館物書ニ被 仰付候由江戸より申来
 〇五月廿一日
  晒壱疋ツ丶為御褒美被下置候旨御老中被 仰渡此節安積覚兵衛出座
  打越七郎次、中沢平次郎、竹田伊平多太、森田左源太、服部次郎四郎、前野八郎次
 〇十二月遡日
  中沢平二郎、前野八郎次、打越七郎次、竹田伊平多太、森田左源太、川又所衛門  
  として絹壱疋ツ丶被下置候旨於御城御老中被仰渡候此節出座大井彦介
 〇十二月十五日
  五百疋ツ丶
  前野八郎次、打越七郎次、竹田伊平多太、森田左源太、川又所衛門、中沢平二郎
  右六人史館書写御やとい相務申候付為御褒美前書之通被下置候旨於御城御老中被仰渡候(中略)列座大井彦介也 
 
(注42)打越氏と世界大戦の記録
NHK特集「歴史への招待-兵士たちの日露戦争-」(1978年11月16日NHK総合テレビ)において海軍一等機関兵・打越信太郎さんが著した「従軍之友撲の日記」(「勝田市史 近代・現代編」より)が紹介されています。また、ジャーナリスト・打越(旧姓・田中)和子さんが「靖國のこえに耳を澄ませて 戦歿学徒十七人の肖像」を出版されています。
 

トップに戻る