打越氏(内越氏)は、清和天皇及び物部氏族熊野国造系和田氏を源流とし、南北朝の動乱を契機として、河内(甲斐)源氏流小笠原氏(本姓源氏)と楠木正成の弟又は従弟・楠木正家(本姓橘氏)とが姻戚関係を結んで発祥した氏族であり、戦国時代、小田原征伐、関ケ原の戦いなどを契機として出羽国由利郡で勢力を伸ばし、1系統17流(本家3流、分家14流)の系流に分かれながら日本全国へ進出して行った同祖同根の氏族です。現代に残る限られた古文書等から、その歴史的な事跡を明らかにします。

第1部第1巻 打越(内越)氏の発祥(第4段)

第4段 紀伊国牟婁郡下川下村字打越発祥

 1585年(天正13年)、豊臣秀吉は、第二次紀州征伐で紀州武田氏流・湯川直春によるゲリラ戦に苦戦を強いられ、本領安堵を条件として湯川直春と和睦します。しかし、湯川直春は、大和郡山城主・豊臣秀長と面会した直後に急死しており、豊臣秀吉によって毒殺された可能性が指摘されています。このような不穏な状況を察してか、湯川直春の第四子・忠蔵は紀伊国牟婁郡下川下村字打越(打越城)及び紀伊国牟婁郡和田村(打越屋敷)に隠棲して仏門に入り打越氏を名乗ります(参53)(注20-1、20-2)。また、湯川氏の庶流・愛洲憲俊の弟・久留栖(愛洲)忠俊の末裔が打越屋敷と和田川を挟んだ対岸に久留栖屋敷を構え、その末裔が打越氏を名乗ったとも言われています(参59)。その後、紀州藩が編纂した紀州各郡地士姓目名には牟婁郡の地士として道湯川村・湯川太兵衛、大内川村・愛洲七郎兵衛と共に和田村・打越忠蔵が記されており(参62)、また、紀伊風土記には打越忠蔵が天杯(天皇から下賜された滅金に銀の半月の模様がある大杯)及び1343年(興国4年)に愛洲左衛門尉に下賜された南朝綸旨を所持していると記されています(参58、59)(注13-2)。

 

(注20-1)打越氏の発祥地と大塔村の由来

 1332年(元弘2年)、南北朝の動乱後醍醐天皇が立て籠もった笠置山の陥落後も、楠木正成、愛洲憲俊及びその子・能俊らは後醍醐天皇の皇子・護良親王(大塔宮)と共に河内国の赤坂城に籠城して鎌倉幕府に抵抗を続けますが、やがて赤坂城が落城すると、楠木正成伊賀国へ(注19-1)、また、護良親王(大塔宮)及び愛洲父子は紀伊国へそれぞれ落ち延びます。その際、護良親王(大塔宮)が立ち寄った村(和歌山県牟婁郡下川下村及びその周辺)を「大塔村」と呼ぶようになりますが、そこが湯川直春の第四子・忠蔵が仏門に入り打越氏を名乗った場所です。なお、湯川氏は南北朝の動乱では北朝勢力に味方しましたが、その後、雑賀衆と誼を通じ、本願寺合戦や紀州征伐等では共闘しています。

 

(注20-2)打越氏(内越氏)を名乗る者が確認できた年代

 打越氏(内越氏)を名乗る者が確認できた年代を下表にまとめました(第1部第1巻第2段第1節の③を参照)。現在、確認できる最も古いものは、1260年代、木田頼氏(美濃源氏流)が打越氏を名乗ったものです。また、河内(甲斐)源氏流打越氏では、1350年代頃、楠木正安と小笠原義和(分家Ⅰ)がそれぞれ打越氏及び内越氏を名乗ったのが事実上の発祥であり、1400年後半、小笠原氏光(本家Ⅰ)も内越氏を名乗っています。また、1590年、豊臣秀吉から下賜された本領安堵御朱印状により打越光重(本家Ⅰ)が公式に打越氏(内越氏及び於曾氏を含む)の惣領家として認められます。

年代 系流 名前 表記
1260年代 美濃源氏 木田頼氏 打越 美濃国
1350年代 分家Ⅰ 楠木正安 打越 出羽国
小笠原義和 内越 出羽国
1400年代後半 本家Ⅰ 小笠原氏光 内越 出羽国
1400年代後半 分家Ⅱ 打越伊賀守 打越 常陸国
1531年 本家Ⅱ 雑賀衆 打越 紀伊国
1585年 本家Ⅲ 湯川忠蔵 打越 紀伊国
1590年 本家Ⅰ 打越光重 打越/内越 出羽国
1599年 分家ⅩⅢ 打越十兵衛 打越 薩摩・大隅国

 

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