打越氏(内越氏)は、清和天皇及び物部氏族熊野国造系和田氏を源流とし、南北朝の動乱を契機として、河内(甲斐)源氏流小笠原氏(本姓源氏)と楠木正成の弟又は従弟・楠木正家(本姓橘氏)とが姻戚関係を結んで発祥した氏族であり、戦国時代、小田原征伐、関ケ原の戦いなどを契機として出羽国由利郡で勢力を伸ばし、1系統17流(本家3流、分家14流)の系流に分かれながら日本全国へ進出して行った同祖同根の氏族です。現代に残る限られた古文書等から、その歴史的な事跡を明らかにします。

第4部第2巻 楠木氏にゆかりの場所(第1段)

楠木正成生誕地(大阪府南河内郡千早赤阪村水分266
②楠(楠木)氏発祥の地(静岡県静岡市清水区楠
楠公生誕地/楠木氏の屋敷跡で、この地で楠木正成が生まれました。なお、楠公出世地の裏手(下赤坂常の眼下)に建武以降の楠木邸伝説地があります。 楠公産湯の井戸楠木正成が生まれたときに産湯として使用した井戸。 菊水紋の兜千早赤阪村で出土した菊水紋の兜。 千早赤阪村/「一冊の絵本のような村」と言われるとおり美しい景観が広がります。 楠(楠木)氏発祥の地/楠(楠木)氏の出自には諸説あり確かなことは分かりませんが、駿河国入江荘長崎郷楠村を支配して楠氏を名乗ったという説があります(「神道学128号」より)。
楠木氏の出自には諸説あり確かなことは分かりませんが、駿河国入江荘長崎郷楠村(鎌倉幕府内管領・長崎氏の領地内)を支配して楠(楠木)氏を名乗ったという説が有力です(「神道学128号」「静岡県史通史編第2巻」「鶴岡八幡宮年表」より)。上述のとおり、武家の名字は天皇(又は天皇が土地の分配権を委嘱した幕府)から与えられた土地の支配権を示すためにその地名(名田の字)を名乗るのが通例で、その発祥地には武家の名字の由来となった同一の地名が存在します(これとは逆にその土地を支配する武家の名字と同一の地名に変更された例もあります)。1285年(弘安8年)の霜月騒動を契機として楠木氏が河内国観心寺荘へ入部した可能性があり、楠木氏は河内和田氏(河内和田氏の祖である熊野国造系和田氏は橘氏との間で姻戚関係を重ねており本姓は橘氏)から娘婿を迎えて楠木氏の家督を承継させ、その子孫に楠木正成が誕生したという説があり(「姓氏家系大辞典」より)、1322年(元享2年)に楠木正成が北条時高から命じられて鎌倉幕府御家人として湯浅氏を討伐していることからその時までには楠木正成が楠木氏の家督を相続してたと考えられます(「大日本佛教全書第131巻」の「高野春秋編年輯録」より)。このためか楠木氏の家督を承継した嫡流楠木正成以外の一族はそのまま和田を名乗っていた者が多かった形跡があり、楠木正成の弟・楠木正季の墓(寶國寺)に和田と刻まれ、また、楠木正季の子(楠木正成の甥)・和田賢秀が和田を名乗っています(「園太暦」より)。なお、公家・二条道平の日記「後光明照院関白記」に「楠の木の 根は鎌倉に 成ものを 枝を切りにと 何の出るらん」という落首が記録されていることや「吾妻鑑」の1190年(建久元年)11月7日の日記に源頼朝に従って上京した兵のうち殿隊42番として楠木四郎の名前が記録されていることなどから、もともと楠木氏は鎌倉幕府御家人であった可能性が高く、上述のとおり1285年頃に楠木氏が河内国へ入部してから同地に勢力のあった河内和田氏と姻戚関係を結び、紀伊半島に築かれていた河内和田氏の人的ネットワークをフルに活用していたのではないかと推測されます。因みに、上記の殿隊第42番(3人1組)には楠木四郎のほかに武蔵七党の忍三郎及び忍五郎の名前が記録されていますが、映画「のぼうの城」佐藤浩二さんが演じた忍城石田堤から見る忍城)を守備した正木丹波守利英(高源寺にある慰霊碑には菊水紋)は楠木氏の末裔と言われていることから、楠木氏と忍氏との間で姻戚関係が結ばれた可能性が高いのではないかと考えられます(その後、忍氏は成田氏に滅ぼされており、その末裔が正木氏を名乗って成田氏に仕えたのではないかと推測されます)。なお、小田原征伐で北国軍(大将:前田利家、副将:上杉景勝真田昌幸)の信濃衆に編成された打越光重は、八王子城を陥落した後に忍城責めにも参加していた可能性があり、同じ楠木の血を引く正木氏と打越氏が敵味方に別れて戦ったと推測されます。
①下赤坂城跡(大阪府南河内郡千早赤阪村東阪25
②上赤阪城(大阪府千早赤阪村桐山258
②寄手塚・味方塚(大阪府南河内郡千早赤坂村森屋942
下赤阪城/1331年(元弘元年)、鎌倉幕府討幕のために後醍醐天皇と共に楠木正成が挙兵(元弘の乱)。楠木正成は下赤坂城に立て籠もり数十万の幕府軍を翻弄しますが、楠木正成は態勢を立て直すために自害を装って伊賀方面へ逃れ、護良親王は十津川から熊野方面へと逃れます。打越氏(本家Ⅲ)の発祥地である紀伊国牟婁郡和田邑は護良親王(大塔宮)が落ち延びたことから大塔村(現在、和歌山県田辺市大塔地区)と名付けられています。 下赤阪の棚田農水省が認定する「日本の棚田百選」の1つに数えられる下赤坂城跡の棚田。 上赤阪城/1332年(元弘2年)、楠木正成は再挙兵して下赤坂城を奪還すると、上赤坂城、千早城を築城して幕府軍と対戦し、上赤坂城は落城しますが、千早城に立て籠もって善戦し、後醍醐天皇を勝利に導きます。登山口から約20分。 寄手塚楠木正成が千早赤坂城の戦いで戦死した者の霊を弔うために建てたと伝わる五輪塔。寄手塚は幕府軍戦没者を弔うための塚で、総高182cmと味方塚よりも大きめに造っています。 味方塚楠木正成が千早赤坂城の戦いで戦死した者の霊を弔うために建てたと伝わる五輪塔。味方塚は朝廷軍の戦没者を弔うための塚で、総高137cmと寄手塚よりも小さめに造っています。なお、打越氏の氏祖・楠木正家の三男・楠木正宣の墓(恵林寺)は、味方塚と全く同じ形状(石像五輪塔)をしています。
千早城跡(大阪府南河内郡千早赤坂村千早1063-1
千早城/1333年(元弘3年)、赤坂城及び金峰山寺が陥落すると、楠木正季及び護良親王千早城へ引いて抗戦します。 千早城(四の丸)幕府軍千早城の水の手を絶つ作戦に出たが、水辺に陣を構えて警戒していた北条(名越)時見は楠木正成の老練な駆引きに翻弄されて壊滅させられます。 千早城(三の丸)楠木正成は夜陰に紛れて城外にわら人形を並べて鬨の声を挙げ、幕府軍を城壁の間近まで誘き寄せて、城の上から大石を落とし、矢を浴びせて幕府軍に大損害を与えます。 千早城(二の丸~本丸)幕府軍空堀に梯子を架けて城内に乱入しようとしますが、楠木正成は油を入れた水鉄砲を梯子にかけて火をつけ、幕府軍は大混乱に陥ります。幕府軍千早城攻めに手間取っているうちに足利高氏六波羅探題を陥落して幕府軍千早城から撤退しますが、その12日後、新田義貞が鎌倉を陥落して幕府は滅亡します。 楠木正儀の墓楠木正成後醍醐天皇足利尊氏との君臣和睦を説いて退けられ、湊川の戦いに赴きますが、楠木正儀北朝から京都を4度も奪還する戦功を上げながらも、楠木正成の遺志を継いで常に君臣和睦の道を模索し続けました。
後醍醐天皇御駐蹕之處(福厳寺)(兵庫県神戸市兵庫区門口町2
豊島河原の戦い箕面川)(大阪府箕面市瀬川2丁目
楠公戦跡(打出浜古戦場)(兵庫県芦屋市楠町14-23
楠公供養石(阿弥陀寺)(兵庫県神戸市兵庫区中之島2-3-1
後醍醐天皇御駐蹕之處(福厳寺)/1333年(元弘3年)、隠岐から還御する後醍醐天皇楠木正成らが出迎えを受けた寺。 豊島河原の戦い箕面川)/京都を包囲する足利尊氏を三条河原(糺河原)の合戦で破った北畠顕家新田義貞と共に豊島河原(瀬川河原)で足方尊氏と再び抗戦しますが(右岸:北畠・新田軍、左岸:足利軍)、膠着状態となります。 楠公戦跡(打出浜古戦場)楠木正成が足利軍の背後に回り込んで撃退しています。これに敗れた足利尊氏は九州へ落ち延び、その3ケ月後に西国勢を従えて再上洛します。 楠公供養石(阿弥陀寺足利尊氏が須佐の入江の奥にあった魚堂で、楠木正成の首改めをした礎石です。  
①桜井駅跡(大阪府三島郡島本町桜井1-3
②会下山公園(兵庫県神戸市兵庫区会下山町2-19
湊川公園兵庫県神戸市兵庫区荒田町1-20
桜井駅跡湊川の戦いに向かう楠木正成が未だ少年期であった子・楠木正行に別れを告げた場所(桜井の別れ)。桜井の別れは、能「楠露」(曲名は松尾芭蕉の俳句から引用)の題材にもなっています。 父子別れの石像/「義を紀信が忠に比すべし」(太平記)※紀信は主君の身代わりになって窮地を救った忠臣。楠公父子訣別の所碑(乃木希典揮毫)があります。 明治天皇の歌碑明治天皇は桜井の別れに涙し、「子わかれの 松のしづくに 袖ぬれて 昔をしのぶ さくらゐのさと」と詠んでいます。楠木父子が別れを告げた場所にあった旗立松の木端が残されています。 絵下山公園楠木正成湊川の戦いで本陣を置いた場所。東郷平八郎の書「大楠公湊川陣之遺跡」の碑が建立されています。 湊川公園/大楠公像(兵庫区役所の新庁舎建設工事に伴って大楠公像は移設されますが、現在、移設先は未定。)
湊川神社兵庫県神戸市中央区多聞通3-1-1
湊川神社明治天皇の命により明治5年に創建された楠木正成を祭神とする神社 湊川神社/本殿は三座に分かれ、中央が主神の楠木正成、向かって右側は楠木正成夫人、向かって左側は楠木正行楠木正季及びその他楠木一族、菊池武吉が祀られています。 楠木正成公殉節地/1336年(延元元年)5月25日、楠木正成らが「七生滅賊」を誓って殉節した場所 楠木正成墓碑/1692年(元禄5年)、徳川光圀は彰考館総裁・佐々(介三郎)宗淳(TVドラマ「水戸黄門」の助さんのモデル)に命じて、徳川光圀の書「嗚呼忠臣楠子之墓」を刻ませた墓碑を建立させました。因みに、打越(樸斎)直正が彰考館総裁に就任するのは1727年(享保12年)のことですが、打越(樸斎)直正の同期(先輩)に彰考館総裁・安積(覚兵衛)澹泊(TVドラマ「水戸黄門」の格さんのモデル)がいます。 徳川光圀銅像徳川光圀公の死後、打越(樸斎)直正が彰考館総裁を務めていた1737年(元文2年)に大日本史の初版(元文検閲本)が完成しました。北畠親房の「神皇正統記」の影響を受けて徳川光圀及び彰考館総裁・打越(樸斎)直正は大日本史南朝正当論を唱え、その大日本史の記述等を根拠として1911年(明治11年)に明治天皇南朝が正当であるという勅裁を下し、南朝復権が果たされました。
観心寺大阪府河内長野市寺元475
楠公通学橋(大阪府河内長野市三日市町56-16
③大江時親邸跡(大阪府河内長野市加賀田1639
楠公手植えの楠(石清水八幡宮)(京都府八幡市八幡高坊30
観心寺/楠木氏の菩提寺楠木正成は8~15歳まで観心寺で僧・龍覚に学問を学ぶ一方、観心寺から約8km離れた大江広元の曾孫・大江時親(毛利氏の祖)の邸宅まで通って兵法を学んだと言われています。因みに、打越氏(本家Ⅰ)は大江広元の嫡男・大江(寒河江)親広又は次男・大江(長井)時広の系流と姻戚関係にある可能性があります。 観心寺金堂/1334年(建武年)、後醍醐天皇楠木正成を奉行として金堂造営の勅を出して現在の近藤が造営されました。 楠木正成首塚/1336年(延元元年)、湊川の戦いで殉節した楠木正成の首級が観心寺に送り届けられ、首塚として祀られています。 後村上天皇後村上天皇は吉野から賀名生へ行宮した後、観応の擾乱に乗じて京を奪還しますが、再び、足利氏に京を奪い返されます。その後も京の奪還を試みますが、1368年(正平23年)に崩御しています。 中院楠木正成は8~15歳まで住職の滝覚坊を師と仰いで学問を修得したと言われています。
楠公通学橋/多聞丸(楠木正成)が大江時親に兵法を学ぶために観心寺から大江時親邸までの約8kmを通う途中にあった楠公通学橋。 多聞丸(楠木正成)大江時親に兵法を学ぶ像/多聞丸(楠木正成)は毛利氏の祖・毛利(大江)時親に兵法を学んでいます。なお、毛利(大江)時親の祖父・毛利(大江)経光はその父・大江広元から相模国愛甲郡毛利荘神奈川県厚木市下古沢659)の領地を相続して毛利氏を名乗りますが、1247年(宝治元年)の宝治合戦相模国愛甲郡毛利荘を失うと、出羽国長井荘を支配していた大江広元の次男・長井(大江)氏のとりなしで安芸国吉田荘の領地を与えられ、六波羅評定衆河内国加賀田郷の地頭職等を務めて河内国加賀田郷に邸宅を構えます。因みに、打越氏(本紋:三階菱、菊水紋、替紋:一文字三ツ星紋)は出羽国寒河江荘を支配していた大江広元の長男・大江(寒河江)氏又は長井(大江氏)氏と姻戚関係を結んで一文字三ツ星紋を譲与されたと考えられます(注4-1)(注34)。 大江時親碑/毛利(大江)時親の邸宅があった場所に大江時親の碑が建立され、祀られています。毛利(大江)時親は曾孫・毛利(大江)元春に安芸国吉田荘を相続させていますが、その末裔に毛利(大江)元就が登場します。 大江時親邸宅跡/大江氏は代々学者の家柄で、毛利(大江)時親の祖先である大江匡房は源(八幡太郎)義家の師であったと言われています。 楠公手植えの楠(石清水八幡宮/1334年(建武元年)、楠木正成は戦勝を祈願して植樹奉納しています(樹齢約700年)。境内にはもう1本、楠公手植えの楠が植樹奉納されており、その根元には尺八都山流の祖・中尾都山頌徳碑があります。
①和田(楠木)正遠の墓(奈良県御所市西佐味621
②楠木(和田)正季の墓(大阪府和泉市府中町6-9−35
常福寺金剛山の麓にある和田(楠木)正遠の菩提寺 和田(楠木)正遠の墓/右から3基目の五輪塔が和田(楠木)正遠の墓。和田(楠木)正遠の子孫の墓と一緒に並んでいます。 寶國寺/浄土宗。楠木正季の墓が安置されています。 楠木正季の墓/寶國寺にある楠木正季の墓。向かって右の墓碑の礎石に「和田墓」と刻まれています。 楠木正季の墓/寶國寺にある楠木正季の墓。向かって左の墓碑の裏面に「楠木正成弟和田二郎正季 嫡子和田和泉守重次 墓碑  大正二年一月修保 累代和田要人」と刻まれています。楠木氏は河内和田氏(河内和田氏の祖である熊野国造系和田氏の本姓は橘氏で橘紋を使用)から娘婿を迎えて楠木氏の家督を承継させたという説がありますが、このためか楠木氏の家督を承継した嫡流楠木正成以外の一族はそのまま和田を名乗ってい者が多かった形跡があり、楠木正季やその他の庶流の末裔は和田氏へ復姓した者も多いとも言われています。
①瓜連城(茨城県那珂市瓜連1222
②金砂山城(茨城県常陸太田市上宮河内町1911
③那珂道辰の墓(茨城県常陸太田市増井町1529-2
瓜連城(常福寺/1335年(建武2年)12月、南朝方の北畠顕家軍は甕の原合戦で北朝方の佐竹貞義軍に苦戦しますが、那珂道辰の加勢により佐竹貞義軍を退けて上洛を果たします。1336年(建武3年)1月、後醍醐天皇から楠木正成に与えられた常陸国那珂郡にその代官として楠木正家が派遣され、楠木正家は瓜倉城を構築して北朝勢力の征討にあたります。 瓜連城(常福寺/1336年(建武3年)2月、楠木正家は佐竹貞義の子・佐竹義直及び佐竹義冬と戦って佐竹義冬を討ち取り、西国でも北畠顕家新田義貞及び楠木正成足利尊氏を破り南朝方の有利に戦況が展開します。 瓜連城(土塁跡)/1336年(建武3年)5月、九州で再起した足利尊氏湊川の戦い新田義貞及び楠木正成を破って高師冬らの大軍を常陸国へ派遣すると楠木正家は劣勢となり、1336年(建武3年)12月、武生城茨城県常陸太田市下高倉町2153−39)から南下する佐竹義篤に責められて瓜連城は落城します。 金砂城/1336年(建武3年)12月、金砂城から南下する佐竹貞義を迎撃していた那珂道辰は瓜連城の落城によって孤立し、那珂道辰ら一族34人と自刃します。 那珂道辰の墓/1336年(建武3年)12月、瓜連城の落城によって孤立した那珂道辰ら一族34人は勝楽寺の裏山で自刃します。このとき那珂通泰は落ち延びて御家を再興し、その後、打越伊賀守(分家Ⅱ)が仕官した常陸江戸氏の祖となっています。
①那珂西城(茨城県東茨城郡城里町大字那珂西1958
江戸城茨城県那珂市下江戸
③小田城(茨城県つくば市小田2377
北畠親房の墓(奈良県五條市西吉野町賀名生5
那珂西城/那珂道辰の居城。1335年(建武2年)12月、那珂道辰は、多賀の甕の原で北朝方の佐竹貞義に苦戦する北畠顕家に加勢し、佐竹貞義の背後を急襲して敗走させます。その後、那珂道辰は北畠顕家に従って上洛し、後醍醐天皇から十六菊に一文字紋を下賜されます。 江戸城/金砂城の戦いで北朝方の佐竹貞義に敗れて自刃した那珂道辰の子・那珂通泰は佐竹貞義と和睦して常陸国那珂郡江戸郷を与えられ、 その子・那珂道高は佐竹義篤の娘を娶ってて江戸氏を名乗ります。その後、1460年頃に出羽国由利郡から打越伊賀守(分家Ⅱ)が江戸氏に仕え、その子孫は水戸徳川家に召し抱えられます。 小田城北畠親房は、その子・北畠顕家及び新田義貞が討死すると、関東の南朝勢力を拡大するために常陸国へ下向し、南朝方の小田治久の居城である小田城へ入ります。 神皇正統記起稿之地碑北畠親房は小田城で南朝の正統性を述べた歴史書である神皇正統記を執筆し、その後、徳川光圀大日本史編纂で神皇正統記を高く評価しますが、それは徳川光圀や彰考館総裁・打越(樸斎)直正が唱えた南朝正当論へと受け継がれ、やがて水戸学と結び付いて日本人の歴史観(1つの王朝(万世一系天皇)によって途切れることなく受け継がれてきたという日本の伝統)に影響を与えます。この途切れることなく受け継がれてきた日本の伝統を守ることが日本人の精神的な支柱となり、それが良くも悪くも作用して日本の歴史を形成してきました。光が強ければ陰を濃くするのと同様に、必ず、物事には二面性があり、人生はその選択の連続です。 北畠親房の墓楠木正行、楠木正家、和田賢秀らが四条畷の戦いに敗れると、後村上天皇高師直に吉野を攻められて賀名生行宮します(河内長野~十津川~熊野へ至る街道沿いで、打越氏も多く分布)。その後、一時、観応の擾乱に乗じて京を奪還しますが、再び、足利氏に京を奪い返されます。その後も京の奪還を試みますが、1359年(正平9年)に賀名生で北畠親房が亡くなります。
笠置寺後醍醐天皇御在所)(京都府相楽郡笠置町大字笠置小字笠置山29
後醍醐天皇御腰掛けの岩(元弘帝御着船所)(鳥取県西伯郡大山町御来屋1016
隠岐の神塚(後醍醐天皇御着船地)(鳥取県西伯郡大山町岡511
笠置寺後醍醐天皇御在所)/1331(元弘元年)に討幕計画が北条方に露見して日野俊基藤原師賢らが捕らえられ、後醍醐天皇笠置寺に逃れました。 笠置寺後醍醐天皇御在所)笠置寺に籠城する後醍醐天皇方2,500名は、北条方75,000名に責められて落城し、後醍醐天皇隠岐流罪になりました。 笠置寺後醍醐天皇御在所)後醍醐天皇が籠城した笠置山(写真中央)は、柳生新陰流の創始者・柳生氏の発祥地である柳生の里に隣接していますが、柳生氏は元弘の乱鎌倉幕府(北条)軍と戦い、後醍醐天皇から大和国添上郡柳生郷を下賜されています。 御腰掛けの岩(元弘帝御着船所)/133年(元弘3年)に隠岐を脱出した後醍醐天応が名和の湊(御来屋港)に辿り着き、この岩に腰掛けたと言われています。元弘帝御着船所名和氏の館から最寄りの湊ですが、隠岐から脱出した後醍醐天皇が最初に上陸した地と思われます。 隠岐の神塚(後醍醐天皇御着船地)名和長年後醍醐天皇を奉じて挙兵し、船上山の戦いで北条方を撃退して船上山に行宮を設置します。大坂の湊は船上山の最寄りの湊ですが、名和の湊から大坂の湊へ移動した後醍醐天皇が2度目に上陸した地と思われます。
金峯山寺(吉野朝宮跡)(奈良県吉野郡吉野町吉野山2498
護良親王の墓(神奈川県鎌倉市二階堂748
善名称院(真田庵)(和歌山県伊都郡九度山町九度山1413
金峰山寺/国宝・仁王堂は北畠顕家が石津の戦いで討死した1338年(延元3年)の再建。国宝・蔵王堂文禄・慶長の役が開始された1592年(天正20年)の再建。 金峰山寺(大塔宮御陣地)/1332年(元弘2年)、赤坂城が落城して十津川から熊野方面へと逃れていた護良親王(大塔宮)は再び挙兵して大海人皇子壬申の乱で挙兵した吉野にある金峰山寺に本陣を敷きます。1333年(元弘3年)、金峰山寺幕府軍に包囲されますが、村上義光が護良親王に扮して身代わりとなり、護良親王は落ち延びて千早城へ入ります。なお、672年(天武天皇元年)、大海人皇子が不破の地に布陣して名産の桃を全兵士へ配って大友皇子を破ったことから不破の地は桃配山と呼ばれるようになりますが、それから約千年後の1600年(慶長5年)に徳川家康関ケ原の戦いで桃配山に布陣して勝利しています。 吉野朝宮跡/最初に南朝(吉野朝)が置かれた金峰山寺の境内。王朝文化の雅(菊と刀のうち菊=文雅の要素)を象徴する歌碑が建っています。 護良親王の墓足利尊氏の暗殺計画に失敗した護良親王護良親王を祀る鎌倉宮神奈川県鎌倉市二階堂154)の土牢に9ケ月間に亘って幽閉されていましたが、1335年(建武2年)、中先代の乱北条時行及び諏訪頼重護良親王を擁立されることを恐れた足利直義によって暗殺され(護良親王の御首が置かれた御構廟(御首塚))、理智光寺の住職が葬っています。因みに、元弘の変で討幕計画が発覚して処刑された日野俊基の墓鶴岡八幡宮を挟んで鎌倉宮と向かい合うように建つ日野俊基を祀る葛原岡神社神奈川県鎌倉市梶原5-9-1)の境内にあります。なお、日野俊基日野有信の末裔で本願寺を創建した親鸞上人や日野富子とは同族関係にありますが、日野家の家紋・鶴丸紋を使用していますが、この鶴丸紋は日本航空のマークにも採用されています。 善名称院(真田庵)/楠木氏や南朝には関係がありませんが、河内長野から吉野や十津川に通じる九度山には真田昌行・真田幸村が配流になった善名称院(真田庵)があり、真田昌行の墓真田の抜け穴真田幸村が大阪夏の陣で使用した槍先などが残されています。なお、典厩寺には、川中島の戦いで討死した武田信繁の墓(写真中央、武田信繁の兜)と並んで真田信繁(幸村)の墓(写真中央から左へ2つ目の小さい五輪塔)が安置されています。
①如意輪寺(奈良県吉野郡吉野山1024
吉野神宮奈良県吉野郡吉野町大字吉野山3226
如意輪寺後醍醐天皇が吉野に行宮を定めた際に勅願所と定められた寺。 如意輪寺後醍醐天皇腰掛石と楠木正行手植えの木斛 如意輪寺(後醍醐天皇御陵)/2018年は後醍醐天皇即位700周年 如意輪寺(埋髻の墳)楠木正行と143名が四条畷への出陣に先立って如意輪堂へ奉納した髻を埋めた場所です。 如意輪寺(小楠公髻塚の碑)/1865年(慶応元年)、津田正臣により建立。津田正臣は根来・雑賀へ鉄砲を伝えた津田正信の末裔です。
楠木正行辞世の句四条畷の戦いに向かう楠木正行後村上天皇に拝謁し如意輪堂の扉に鏃で辞世の句(かえらじと かねておもへば梓弓 なき数に入る 名をぞとどむる)を刻んでいます。 如意輪寺の過去帳楠木正行らは四条畷の戦いに向かうにあたり如意輪寺の過去帳に名前を記しています。 如意輪寺楠木正行の兜。 如意輪寺四条畷の戦いで楠木正行、楠木正家らと共に討死した和田賢秀の鎧です。 吉野神宮明治維新の根源建武中興と吉野朝にあると言われており、明治時代に後醍醐天皇建武中興の忠臣を祀る建武中興十五社が建立されています。
大和国を治めていた天津神(いわば全国の統治者)・神武天皇は、出雲国を治めていた国津神(いわば地方の統治者)・大国主大神を屈服(国譲り)させて、日本で最初に天下を統一して日本国を建国します。爾来、歴代の天皇が日本国を治めてきましたが、その後、源頼朝武家政権鎌倉幕府)→後醍醐天皇天皇政権)→足利尊氏武家政権室町幕府)→豊臣秀吉天皇から大政を委任できるのは天皇又は皇子の子孫である皇別氏族のうち源氏に限られており源氏でなければ征夷大将軍として幕府を開けなかったので、豊臣秀吉征夷大将軍として大政委任される代りに天皇の政務を補佐する最高官職である関白・太政大臣に就任することで国を支配したので、実質上は武家政権として機能していたとしても形式上は天皇政権であったと言えます。)→徳川家康武家政権江戸幕府)→明治天皇天皇政権)→国民へと天下(≒土地の支配権)が移っています。なお、織田信長は自らを神格化しようと考えていたようですが、日本は国を治める者を神としてきた歴史的な伝統があり、天皇の臣下としての征夷大将軍統治機構の二重構造)ではなく天皇(神)に代わる別の神(日本国を治める者)として君臨しようとしていたことが伺えます。この点、多神教の国では人(とりわけ権力者)が神の名を語って人々の思考を停止させることで自らを絶対的に正当化し、無批判に受け入れるようにしてきた負の歴史がありますが、一神教の国(とりわけプロテスタンティズム)では神を唯一の存在と捉えることで人(とりわけ権力者)が神の名を語れないようにして人(とりわけ権力者)と神を分離する知恵(政教分離の思想)を働かせてきたと言えるかもしれません(尤も、それでもなお神の名を語る人はなくなりませんが...)。日本が第二次世界大戦に敗戦して国を治める者としての神の存在(≒ 日本における国の治め方の伝統)を否定されたのは、このような文脈によるものだと思われます。因みに、橿原神宮の鳥居から国見山の山頂が顔を覗かせていますが、神武天皇がこの山の山頂から奈良盆地(大和平野、大和国)を一望したことから「国見山」と命名されたそうです。なお、打越氏の源流は物部氏流熊野国造系和田氏(河内和田氏及び楠木氏)になりますが、神武東征の遠征軍として活躍した物部氏は日本書記において伊勢神宮と共に日本最古の神社として記録されている石上神宮(神武東征において神武天皇が熊野で苦戦した際に使用した剣が御祭神)を創建しています。
①竹之坊墓地(光明寺跡、井泉寺跡)(和歌山県田辺市本宮町本宮624
②平野墓地(和歌山県田辺市本宮町本宮630
③楠藪(徐福公演)(和歌山県新宮市徐福1-4
竹之坊墓地/熊野連正全の墓。物部氏の始祖・饒速日命ニギハヤヒ)の後裔が成務天皇から熊野国造に任命され、熊野連の姓を下賜っており、代々、紀伊国牟婁郡の大領(郡司)や熊野本宮大社禰宜神職)を務めています。 竹之坊墓地熊野本宮大社の社家を務めた熊野国造の後裔・楠木氏の館があった場所(光明寺跡、井泉寺跡)にある楠木氏の墓。なお、墓地内には嶋(島)津氏の墓もありますが、その由緒は不明です。志摩国を支配した島津国造の末裔の可能性もありますが、家紋は薩摩藩島津氏のものなので、1242年(仁治3年)に和泉国和田郷の地頭職に任命された島津忠時(「島津家文書」や「鎌倉遺文」には島津忠時のことを嶋津三郎兵衛尉忠義と記載)の末裔の可能性もあります。 平野墓地熊野別当・和田(内膳)良賢の墓。 平野墓地 楠藪/楠木正定が居を構えていた場 所で、その娘が橘盛仲に嫁い で楠木正遠を生み、楠木正遠 の次男に楠木正成が生まれ、 その娘の一人は和田正家に嫁 いでいるという説もあります (「新宮市誌」より)。
熊野本宮大社和歌山県田辺市本宮町本宮1110
熊野本宮牟婁郡大領・橘広方の曾孫・橘良冬が和田良冬に改称として和田庄司(庄司とは貴族や寺社の領地を管理する職)を称し、代々、熊野本宮の禰宜神職)を努めています。また、その子孫は土豪化して紀伊国河内国等に勢力を持ち、河内和田氏の祖となります(「姓氏家系大辞典第2巻」より)。熊野本宮から小辺路高野山)や峯奥駈道’(吉野山)に至ると楠木氏の領地である千早赤阪へ通じていますので、蟻の熊野詣と言われるように人々の往来が盛んであったと思われます。 熊野本宮/プロサッカー選手の元祖・藤原成道は蹴鞠上達祈願のために50回以上も熊野詣をし、熊野本宮でうしろ鞠の名技を奉納しています(「古今著聞集」より)。サッカー日本代表のエンブレムは熊野本宮の寺紋である八咫烏です。 熊野本宮(本殿)熊野古道小辺路高野山から熊野本宮)、中辺路(田辺から熊野本宮)及び大辺路(田辺から那智大社、速水大社)の3つの参詣道が世界遺産に登録されています。これ以外にも峯奥駈道(金峯山寺~熊野本宮)や伊勢路伊勢神宮~速水大社、那智大社)があります。そして、川の参詣道として熊野川舟下り(熊野本宮~速水神社)があり、打越保さん(90)が最高齢の船頭として活躍されています。 八咫烏ポスト/ハガキの元祖・多羅葉のご神木の下に八咫烏ポストがあり(戦国時代には多羅葉に枝で文字を書き込んで密書にしていました)、2018年12月31日までに投函すると八咫烏の消印が押印されます。ハガキ(葉書)の名前は多羅葉に書くから由来。 大斎原の大鳥居/熊野本宮は熊野川、音無川及び岩田川の合流点にある中洲「大斎原」にありましたが、1889年(明治22年)の大水害で社殿が流され、現在の場所に遷座されています。
熊野速玉大社(和歌山県新宮市新宮1
熊野速玉大社/熊野本宮は熊野川、熊野速玉大社はことびき岩、熊野那智大社那智の滝御神体(神の依り代)としています。新宮市には、武蔵坊弁慶産家楠跡、源義盛(新宮十郎行家)屋敷跡(源頼朝源義経の叔父)、平忠度生誕地(平清盛の異母兄弟)が残されており、中世武家社会のダイナミズムが感じられる歴史の深い土地。 熊野速玉大社/熊野速玉大社の禰宜を努めていた穂積氏流鈴木氏は穂積国興の子・鈴木基行が鈴木を名乗ったことが始まりと言われています。本紋は穂積姓に由来する「抱き稲」(イネのホ→ススキ(イネのホに酷似)→スズキ)、替紋は熊野別当藤原氏に由来する「下り藤」です(熊野に分布している打越氏にも「下り藤」を使用している家があり同様の由緒ではないかと推測されます)。その子孫が熊野から藤白に移住して藤白神社和歌山県海南市藤白448)の神職も努め、境内には鈴木屋敷が現存しています(鈴木屋敷復元プロジェクトクラウドファンディングに挑戦中)。その子・鈴木良氏と河内和田氏の祖・橘博方の娘の間で生まれた鈴木重氏は源義経に従って武蔵坊弁慶らと共に衣川館で討死しています。また、その次男・鈴木重次雑賀衆鈴木氏の祖となります。 熊野川熊野川は「熊野川 瀬切に渡す 杉舟の 辺波に袖の 濡れにけるかな」(後嵯峨上皇)と和歌に詠まれているとおり川の参詣道と言われ、現代に川舟下りの文化が受け継がれてており、世界遺産にも登録されています。最高齢の船頭として打越保さん(90)が川舟下りの文化を次世代に受け継ぐために頑張っておられ、同じ一門として非常に誇らしく感じています。 熊野牛王符/熊野牛王符に認めたことは熊野権現に対して誓ったということ(神様との約束)になり、これを破ると神罰が下る(血を吐いて地獄に落ちる)と信じられていましたので、戦国時代には国主が家臣に忠誠を誓わせるために提出させる起請文や合戦時の和睦などに使用されていました。熊雄牛王符には熊野大社で88羽、那智大社で72羽、速玉大社で48羽の烏がデザインされています。契約書は国家がその実現を保証するというものですが、熊野牛王符は神様がその実現を保証するというものなので、当事者の心理的強制力は相当に強いものでした。  御神木「梛」(ナギ)/境内にある梛(ナギ)の大樹は樹齢千年を超え、昔からの葉を懐中に納めてお参りすると道中の案園が守られると言われTきました。「千早ふる 熊野の宮の なぎの葉を 変わらぬ千代の ためしにぞ折る」(藤原定家)  
神倉神社(和歌山県新宮市神倉1-13−8
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神倉神社/熊野速玉大社の摂社である神倉神社の山麓の鳥居。拝殿に続く石段は、源頼朝が寄進したと伝えられる急勾配の鎌倉積み石段で538段あります。雨上りの日は滑り易いので避けることをお勧めします。 神倉神社御神体であることびき岩。ことびきとは新宮の方言で、ヒキガエルのこと。熊野三山に祀られる熊野権現が初めて地上に降臨した伝承をもつ古社で、その創建は神話時代の128年頃と言われています。 神倉神社/神倉神社は天ノ磐盾(あまのいわだて)という険しい崖の上にありますが、黄昏色に染まる新宮市街と熊野灘、黄昏月を一望できる眺望です。    
熊野那智大社和歌山県東牟婁郡那智勝浦町那智山1
熊野那智大社の二の鳥居/社殿は、317年に仁徳天皇が創建し、平重盛が改装し、織田信長による焼討にあった後に豊臣秀吉が再興しています。 熊野那智大社/2107年に創建1700年を迎えた記念事業として社殿の修補等が進められており、既に拝殿(写真)の修補を終え、年内には全ての施設の修補等が完了する予定です。現在、熊野那智大社では創建1700年事業の奉賛を受け付けられています。 御懸彦社と八咫烏八咫烏(ヤタガラス)のヤタとは「大きい」という意味を持っており、古から神の使いとされてきました。 那智の大滝/高さ133mで一段の滝として日本一の長さです。 クスノキ胎内くぐり平重盛が手植えした樹齢約850年の大楠。神社は生者のための場所、寺社は死者のための場所ですが、神社は鳥居(女性器)を潜って、参道(産道)を通り、本宮(子宮)に至って、心の穢れを払い、もう一度生まれ直して鳥居(女性器)から出てくる神聖な場所(命を育めるのは神様のみ)です。お宮参り、七五三、結婚式など人生の節目に神社を参詣するのは、もう一度生まれ直して新たな気持ちで人生を歩むための大変に有難い儀式です。
四条畷神社(大阪府四条畷市南野2-18-1
②小楠公墓所大阪府四條畷市雁屋南町27-5
楠木正行首塚(宝筐院)(京都府京都市右京区嵯峨釈迦堂門前南中院町9-1
④和田賢秀の墓(大阪府四條畷市南野4-15-6
⑤往生院六萬寺(大阪府東大阪市六万寺町1-22−36
四条畷の戦い(南朝軍本陣地)(大阪府大東市中垣内950
四条畷の戦い(北朝軍本陣地)(大阪府大東市野崎2-6-8
四条畷の戦い(激戦地)(大阪府大東市北条6-5-1
楠木正行像(飯盛城跡)(大阪府大東市北条2377-11
四条畷神社/1348年(正平3年)、南朝方の楠木正行、楠木正家、和田賢秀らと北朝方の高師直高師泰らとの間で合戦。楠木正行主祭神とし、楠木正家、和田賢秀を配祀。なお、打越(内越)氏の始祖・楠木正家公の御傍近くに小職の名前を留めたいと念願していましたが、平成30年台風21号の被害で倒壊した手水舎再建の寄付者として小職の名前を留めることが叶いました。光栄です。 楠公墓所楠木正行四条畷の戦いで戦死した地。 楠公墓所/贈従三位楠正行朝臣之墓。小楠公に寄り添うように建つ樹齢600年のクスノキの巨木(大楠公) 楠木正行首塚(宝筐院)室町幕府第2代将軍・足利義詮は「自分の逝去後、かねており敬慕していた観林寺(宝筐院)楠木正行の墓の傍らで眠らせ給え」と遺言し、楠木正行の墓(写真右)の隣に足利義詮の墓(写真左)を建立したと言われています。 和田賢秀の墓楠木正行の従兄弟の和田賢秀は敵の首に噛み付き睨んで離さず敵はそれが因で死んだと言われており歯噛神様として祀っています。打越氏(本家Ⅱ)の発祥地である紀伊国海部郡宇須邑字打越には和田賢秀が開基した真光寺があり、打越氏の菩提寺となっています。
往生院六萬寺/当初、楠木正行を総大将とする南朝軍が本陣を置いていた場所で、その後、東高野街道を北上します。 四条畷の戦い(南朝軍本陣地)東高野街道生駒山地と深野池に挟まれた縄手(畷)状の狭い街道で、楠木正行は大軍の移動には不利な地形を利用し、僅か3千の兵で6万の北朝軍を3kmも押し戻す奮戦を見せます。 四条畷の戦い(北朝軍本陣地)/先に戦場に着陣していた北朝軍は、本隊が慈眼寺(野崎観音)、別動隊が飯盛山中腹と有利な場所に布陣し、東高野街道を北上してくる南朝軍を挟撃します。 四条畷の戦い(激戦地)南朝軍は野崎から北条まで北朝軍を押し戻す奮戦を見せますが、現在でも、激戦地となった場所には「古戦田」(大阪府大東市北条2-14−2)、楠木正行が自刃した場合には「ハラキリ」(大阪府大東市錦町17−58)という字(地名)が残されています。 楠木正行像(飯盛城跡)四条畷神社の裏手にある飯盛城跡には楠木正行像が建立されています。飯盛城跡からは大阪市と淡路島を一望できますが、後世、三好長慶が飯盛城を居城としています。なお、飯盛山には四条畷の戦いの戦死者の菩提を弔うために楠公寺が建立されています。
①定専坊(大阪府大阪市東淀川区豊里6-14-25
②楠木正勝の墓(奈良県吉野郡十津川村武蔵530
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定専坊楠木正儀の嫡子・楠木正勝が開基し、その孫の楠木掃部助が本願寺蓮如上人の教えに帰依して真言宗から浄土真宗本願寺派に改宗し、楠木正具が伊勢から移住して法灯を継いだと言われています。 楠木正勝、楠木正盛、楠木信盛、楠木正具の墓石山本願寺合戦の終結後に石山本願寺織田信長によって焼き払われますが、定専坊の境内には、その際に本願寺から持ち出された梵鐘が残されています。 楠木正勝の墓河内長野から熊野新宮へ抜ける街道の中間地点に位置していますが、護良親王は赤阪城の戦いで幕府軍に敗れ、熊野衆徒を味方につけて熊野詣を装いながら十津川へ逃れ、その後、吉野で再起しています。楠木正勝は普化宗の僧として虚無という法名を名乗り尺八を吹きながら全国を行脚したと言われていますが、それが虚無僧の元祖と言われています。なお、十津川村には打越氏が分布しています。 佐久間信盛の墓/1580年(天正8年)、織田氏を追放された佐久間信盛高野山から熊野方面へ落ち延びたと言われていますが、丁度、その中間に位置しているのが十津川村になります。  
①定願寺(大阪府大阪市生野区巽南1-10-10
②正善寺(大阪府東大阪市友井2-33-26
定願寺楠木正儀の三男・楠木正長は本願寺巧如上人の教えに帰依して浄土真宗大谷派の定願寺を開基。 定願寺/楠木正長旧跡碑。 定願寺/楠木正長の案内板。 正善寺楠木正儀五代嫡流・楠木正明は本願寺蓮如上人の教えに帰依して浄土真宗本願寺派の正善寺を開基。 正善寺/楠木正明の案内板。
本願寺鷺ノ森別院(雑賀御坊)(和歌山県和歌山市鷺ノ森1
本願寺鷺ノ森別院(雑賀御坊)石山本願寺合戦で顕如上人は織田信長と和睦して本願寺鷺ノ森別院(雑賀御坊)に移住しますが、その子・教如上人が織田信長に対する抵抗を続けます。 本願寺鷺ノ森別院(雑賀御坊)/楠木正意は本願寺鷺ノ森別院(雑賀御坊)を守備しますが、本願寺門主顕如上人が入滅し、豊臣秀吉が長男・教如上人を隠居させると出羽国由利郡打越郷へ遁れています(「西摂大観上巻」より)。また、顕如上人から出羽国由利郡の打越正義に援軍要請の書状がありその名代として弟・打越三郎左衛門が本願寺鷺ノ森別院(雑賀御坊)を守備しています。その後、打越三郎左衛門は慶長出羽合戦(北の関ケ原の戦い)に参戦しています。      
観阿弥ふるさと公園(観阿弥創座の地)(三重県名張市上小波田181
観阿弥像(三重県名張市平尾3225−10
世阿弥公園(世阿弥の母像)(三重県伊賀市守田町1720
④杉谷神社(三重県名張市大屋戸62
⑤観世発祥の地(奈良県磯城郡川西町結崎1890-2
観阿弥ふるさと公園(観阿弥創座の地)観阿弥伊賀上野楠木正成の妹と服部元就(服部半蔵の先祖)との間に生まれ、妻の出身地である伊賀小波田で創座したと言われています(大河ドラマ「太平記」(第48作)では服部元就と楠木正成の妹・卯木(12:40~)と観阿弥清次(14:20~)が登場)。その場所は河内長野に通じる初瀬街道沿いにあって観阿弥ふるさと公園として整備され、能楽堂が設置されています。なお、楠木正成は芸能集団を抱えて興行の名目で全国へ派遣し(芸能プロダクション)、その傍ら各国の情勢も収集させていたと言われています。 観阿弥名張駅西口に翁面を手に持った観阿弥像が設置され、観阿弥の業績が憲章されています。また、名張市役所の前庭(三重県名張市鴻之台1-1)にも翁面を被った観阿弥像が設置されています。 世阿弥公園(世阿弥の母像)観阿弥の妻は伊賀小波田の出身ですが、観阿弥及び世阿弥と同祖同根の間柄にある鹿島建設の元会長・故鹿島守之助さん観阿弥の出身地である伊賀上野世阿弥の母像を設置されています。また、故鹿島守之助さんは映画「世阿弥」という作品を製作され、女性で初めて能舞台に立った白洲正子さんが原作を務められています。なお、観阿弥は、1333年(元弘3年)に伊賀国阿蘇田を支配していた服部元成の三男に生まれますが(本名:・服部三郎清次)、世阿弥公園の周辺になります。なお、大河ドラマ「太平記」(第36話)(27:25~)で服部元就と楠木正成の妹・卯木(樋口可南子さんが演じる花夜叉、楠木正成の妹という設定で登場しますが、名前はフィクション)が登場します。 杉谷神社/大江貞基が伊賀国名賀郡に開基し、観阿弥が北野天神縁起絵巻(重文)を寄進しています。 観世発祥の地/伊賀小波田で創座した観阿弥は、その後、金剛山と指呼の距離にある伊賀上野に通じる大和街道沿いの大和結城に移って結城座を構えて観世発祥の地となります。なお、観阿弥及び世阿弥の墓は大徳寺真珠庵にあるそうですが一般公開されていません。また、打越氏(分家Ⅴ)が仕官していた大和郡山城城内に観阿弥の供養塔があります。
①千賀地城(三重県伊賀市予野8809
服部半蔵の墓(西念寺)(東京都新宿区若葉2-9
松尾芭蕉生誕の地(三重県伊賀市上野赤坂町304
千賀地城服部半蔵の生誕地。なお、東海道関宿にある銘菓関の戸「深川屋」三重県亀山市関町中町387)に服部家の子孫の方が営業されています。京都御所の御用菓子となり、銘菓関の戸を納めるときに使用した荷担箱が店内に置かれています。 服部(半蔵)正成の墓/徳川家の家臣で伊賀忍者の頭領・服部(半蔵)正成が開基した西念寺に服部(半蔵)正成の墓が安置されています。因みに、西念寺の正面は、打越左大夫の拝領屋敷があった場所です。 松尾芭蕉の生誕地服部川を隔てた伊賀上野城の東側の指呼の距離に松尾芭蕉の生誕地があり、このことからも松尾芭蕉江戸幕府の隠密であったのではないかと言われています。    
①岩室城(和歌山県有田市宮原町
②来見屋城(和歌山県有田郡有田川町小川
岩室城鎌倉幕府に抵抗を続けていた安(保)田庄司・湯浅氏の居城で、1322年(元享2年)、楠木正成北条高時の命により討伐します。 来見屋城/1322年(元享2年)、楠木正成北条高時の命により鎌倉幕府に抵抗を続けていた安(保)田庄司・湯浅氏を討伐する際に来見屋城を築城します(参223)。      
 

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