打越氏(内越氏)は、清和天皇及び物部氏族熊野国造系和田氏を源流とし、南北朝の動乱を契機として、河内(甲斐)源氏流小笠原氏(本姓源氏)と楠木正成の弟又は従弟・楠木正家(本姓橘氏)とが姻戚関係を結んで発祥した氏族であり、戦国時代、小田原征伐、関ケ原の戦いなどを契機として出羽国由利郡で勢力を伸ばし、1系統17流(本家3流、分家14流)の系流に分かれながら日本全国へ進出して行った同祖同根の氏族です。現代に残る限られた古文書等から、その歴史的な事跡を明らかにします。

第2部第2巻 打越(内越)氏の合戦(第1段)

第1段 総論

 打越氏(内越氏)の各系流は、「南北朝の動乱」「石山本願寺合戦」「小田原攻め」「関ケ原の戦い(慶長出羽合戦)」「大阪の陣」「元治甲子の変」など時代のターニングポイントとなる大きな合戦に参加していますが、その代表的な合戦の概要を簡単にまとめます。

 例えば、奥羽永慶軍記(大沢合戦の段)には「敵の引くをよしと思ひ、勝ちに乗じて追て行かるる処に、敵は岩屋・赤尾津・打越聞ゆる古兵なれば、馬の足立よかりける所にて取り返し、手痛くこそは戦ひける。」とあり(参163)、打越氏(内越氏)らが退くと見せかけて敵を有利な地形に誘き寄せて撃退した様子が戯曲風に物語られています。これによれば、打越氏(内越氏)を含む由利十二頭は、寡勢でも老練巧みな駆け引きによって合戦を有利に展開する戦上手であったことが伺えます。

 現代は、貨幣経済の浸透と経済の高度化及び国際化によって、武士による武力を使った「土地」の奪い合いから(その先鋭的な形である戦争)、サラリーマンによる知力を使った「金銭」の奪い合い(その先鋭的な形である経済制裁)へと合戦のスタイルが様変わりしていますが、他人よりも多くの物を独り占めするために血道をあげる人間の本性(業)に変りはなく、打越氏(内越氏)の祖先がどのように賢く振る舞いながら生き抜いてきたのかを知ることは、現代人にとっても大変に興味深く参考になります。
 
 

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第2部第2巻 打越(内越)氏の合戦(第2段)

第2段 打越氏(本家Ⅰ・分家Ⅰ)の合戦

元弘の乱

 1331年(元弘元年)6月、後醍醐天皇鎌倉幕府に倒幕計画が発覚したことを契機として、山城国笠置山で挙兵し、これに呼応して後醍醐天皇の皇子・護良親王大和国吉野山楠木正成河内国の下赤坂城で挙兵します。しかし、同年9月に笠置山及び吉野山が相次いで陥落すると、同年10月に楠木正成は下赤坂城に火を掛けて伊賀へ落ち延びます。1332年(元弘2年)、首謀者として捕えられていた日野俊基は鎌倉に移送されて化粧坂上の葛原ケ岡で斬首され、後醍醐天皇隠岐へ配流となります。

 1332年(元弘2年)、再び、楠木正成河内国千早城で挙兵し、長期間に亘って鎌倉幕府軍と籠城戦を展開します。1333年(元弘3年)1月、赤松円心播磨国で挙兵し、同年2月、後醍醐天皇名和長年の働きで隠岐を脱出して伯耆国の船上山で討幕の綸旨を発して再挙します。同年5月、鎌倉幕府に反旗を翻した足利高氏六波羅探題を攻め落とし、京都を制圧します。また、同年5月8日、新田義貞上野国生品神社で挙兵し、鎌倉幕府に不満を抱く東国の御家人を味方につけますが、小笠原貞宗新田義貞に加勢したことから、これに於曾貞光及び於曾時高(打越氏(内越氏)の祖)も従ったものと思われます。同年5月11日、新田義貞入間川を渡って小手指原に達したところで鎌倉幕府軍と遭遇戦に突入し、その勢いに押された鎌倉幕府軍は態勢を立て直すために久米川まで撤退します。同年5月12日、新田義貞が久米川に布陣する鎌倉幕府軍に奇襲を仕掛けて撃破し、鎌倉幕府軍は分倍河原まで撤退します。同年5月15~16日、鎌倉幕府軍は援軍を得て巻き返しを図りますが、新田義貞は忍者を使って更に援軍が来るという嘘の噂を流して鎌倉幕府軍を油断させたうえで、再び、奇襲を仕掛けて鎌倉幕府軍を破ります。その後、新田軍は鎌倉街道沿いを南進し、極楽寺坂、巨福呂坂化粧坂の三方面から鎌倉を攻撃しますが、膠着状態に陥ります。そこで、新田義貞は干潮を利用して稲村ヶ崎から鎌倉へ突入し、同年5月22日、北条高時は北条氏の菩提寺東慶寺切腹して鎌倉幕府は終焉を迎えます。同年6月、楠木正成及び赤松円心らが隠岐から還御する途中の後醍醐天皇摂津国の福厳寺で出迎えます。

f:id:bravi:20210521101327j:plain 【名称】生品神社
【住所】群馬県太田市新田市野井町645
【備考】新田義貞が挙兵した場所で、境内には新田義貞が軍旗を掲げた櫟の切り株、旗挙塚や床机塚が祀られています。
f:id:bravi:20200929083333j:plain 【名称】小手指ヶ原古戦場碑
【住所】埼玉県所沢市北野2-12
【備考】この近隣には新田義貞が源氏旗を掲げた白幡塚、新田軍が集合した勢揃橋や、鎌倉幕府の討幕を誓った誓詞橋が残されています。
f:id:bravi:20200929083642j:plain 【名称】久米川古戦場跡記念碑
【住所】東京都東村山市諏訪町2-20-1
【備考】新田義貞は背後に見える山(将軍塚)に本陣を構えます。なお、久米川は1335年(建武2年)の中先代の乱でも戦場になっています。
f:id:bravi:20200929083836j:plain 【名称】分倍河原古戦場碑
【住所】東京都府中市分梅町2丁目36−5
【備考】三浦義勝など相模国の豪族が加って、新田軍は約20万の大軍勢に膨らんだといわれています。
f:id:bravi:20200929083150j:plain 【名称】新田義貞銅像
【住所】東京都府中市片町3丁目26−29
【備考】京王線分倍河原駅前には新田義貞公の銅像が建立されており、その事績が顕彰されています。
f:id:bravi:20200127074255j:plain 【名称】化粧坂切通し(鎌倉)
【住所】神奈川県鎌倉市扇ガ谷4-14-7
【備考】新田義貞は鎌倉攻めで化粧坂切通しを攻撃しますが、5月18日から4日間経っても突破できなかったと言われています。
f:id:bravi:20200929083452j:plain 【名称】稲村ケ崎(川崎)
【住所】神奈川県鎌倉市稲村ガ崎1-16-13
【備考】新田義貞化粧坂切通しの攻撃を断念し、干潮を利用して稲村ケ崎の海岸線から鎌倉へ侵攻しています。
f:id:bravi:20200925192316j:plain 【名称】北条高時腹切りやぐら
【住所】神奈川県鎌倉市小町3丁目11−38
【備考】北条高時鎌倉幕府軍約800名は、北条得宗家の氏寺・東勝寺に立て籠り、自害したと言われています。

 

②延元の乱

 1335年(建武2年)、足利尊氏は、北条時行鎌倉幕府の再興を企図して起こした中先代の乱を鎮圧しますが(この際、足利直義は、鎌倉に幽閉されている後醍醐天皇の第三皇子・護良親王(大塔宮、鎌倉宮)を北条時行が担ぎ出すことを恐れ、淵野辺城主・淵辺義博に命じて護良親王を斬首します。)、建武の新政に不満を抱いていたことから後醍醐天皇の帰京命令を拒んで鎌倉に留ります。そこで、後醍醐天皇は、足利尊氏の討伐を新田義貞に命じ、矢作川の戦い(三河)、手越河原の戦い駿河)と足利直義らに連勝しますが、同年12月、足利尊氏が参加した箱根・竹之下の戦いでは、新田義貞が箱根峠で足利直義に圧勝したものの、その弟・脇屋義助が味方の裏切りにより足柄峠の麓にある竹之下で足利尊氏に敗れます。新田義貞は、足利尊氏に背後へ回り込まれ、足利直義と挟撃されることを恐れて伊豆三島まで退却したことで劣勢となり、1336年(建武3年)1月、足利尊氏は一気に京へ進軍して京を包囲します。これに対し、1335年(建武2年)年12月、鎮守府将軍北畠顕家は、足利尊氏を討伐するために奥州勢を従えて京へ進発し、北畠顕家からの出陣要請を受けた小笠原(大井)行光(打越氏(内越氏)の祖先)は出羽国由利郡へ派遣していた地頭代・小笠原(大井)氏の庶流を参陣させたものと思われます(参9)。1336年(建武3年)1月2日、北畠顕家は、鎌倉で足利義詮及び桃井直常らを破り、同年1月6日に遠江、同年1月12日に近江へ進軍(注48-1)。同年1月13日には近江坂本で新田義貞及び楠木正成の軍勢と合流すると、園城寺の戦いで細川定禅、関山の戦いで高師直を破り、三条河原の合戦で京を包囲する足利尊氏を一掃します。同年2月11日、足利尊氏が態勢を立て直した豊島河原の戦いでは膠着状態に陥りますが、楠木正成が西宮から足利尊氏の背後を衝いた打出浜の戦いで足利尊氏は敗れます。その後、新田義貞足利尊氏を追撃しますが、赤松円心が立て籠もる白旗城の戦いで膠着状態に陥っている間に、足利尊氏は九州へと落ち延びます。

 1336年(建武3年)年3月、南朝勢力・菊池武敏らが北朝勢力・少弐貞経が守備する大宰府を責め落としますが、その後、足利尊氏多々良浜の戦い建武の新政に不満を持つ複数の武家を調略して菊池武敏らを破ると勢力を盛り返します。1336年(建武3年)5月、足利尊氏は、西国勢(水軍を含む)を従えて鞆の浦へ上陸し、光厳上皇より新田義貞追討の院宣を受けると、足利尊氏は海路を、足利直義は陸路を進軍します。同年5月13日、この報に接した新田義貞は白旗城から撤退し、同年5月24日、湊川(昔の湊川の流域は神戸電鉄湊川駅の辺り)を背にして新田義貞和田岬兵庫区和田宮通6丁目周辺)、脇屋義助は経島(兵庫区本町1丁目周辺)、大館氏明は灯炉堂の南岸(兵庫区高松町1丁目周辺)、楠木正成は絵下山(兵庫区会下山町3丁目周辺)に布陣します。同年5月25日、少弐頼尚新田義貞を攻撃しますが、新田義貞は海路を生田方面へ進軍する細川定善に背後から挟み撃ちされないように生田方面へ軍勢を移動したことで、足利尊氏和田岬に上陸することに成功し、これによって新田軍と楠木軍は分断されます。楠木正成は、足利軍に包囲されて孤立すると、楠木軍(約700人)は足利直義の軍勢(約1万人)に対して約6時間に亘り突撃を繰り返し足利直義の軍勢を約4kmも押し戻して須磨まで退却させる奮戦をみせますが、衆寡敵せず、湊川の民家(現、湊川神社)で自刃します。一方、新田義貞は、生田の森(現、生田神社)で態勢を立て直して足利尊氏及び足利直義と決戦に及びますが劣勢を挽回できず、丹波路から京へ撤退します。足利尊氏湊川の戦い楠木正成新田義貞を破って京を占領すると、後醍醐天皇比叡山へと遁れ、名和長年や於曾貞光(打越氏(内越氏)の祖先)は内野の合戦(京の一条院跡付近)で討死します(打越氏御先祖様代代覚書控/参11、参253)。その後、足利尊氏は東寺に布陣し、足利直義比叡山を攻めさせますが、比叡山の中腹で千種忠顕が討死します。なお、湊川の戦いでは、南朝勢力・熊野水軍が田辺沖で北朝勢力の水軍と交戦しこれを撃破していますが、そのために播磨沖への到着が遅れたことが新田軍及び楠木軍の大きな敗因の1つになっています。

 1336年(建武3年)12月、京を制圧した足利尊氏は、東国の北朝勢力を支援するために常陸国へ大軍を派遣し、楠木正家が守備する瓜連城(常陸国久慈郡)を攻め落とします。楠木正家は、再起を図るために北畠顕家を頼って陸奥へ落ち延び(参21、208)、南朝勢力を支援するために出羽国へ移りますが、その後、小笠原(大井)氏や由利氏と姻戚関係を結んで打越氏(内越氏)が発祥します。同じ頃、後醍醐天皇比叡山から吉野山へ移りますが、1337年3月、北朝勢力に対抗するために越前国金ヶ崎城に籠城していた後醍醐天皇の皇子・恒良親王尊良親王及び新田義顕らと共に於曾時高(打越氏(内越氏)の祖先)が討死します(打越氏御先祖様代代覚書控/参11)(注12)。

 同年8月、東国の北朝勢力を掃討するために陸奥へ帰国していた北畠顕家は、多賀城(平城)から霊山城(山城)へ国府を移した後、後醍醐天皇北畠親房からの上洛要請に応じて南部師行、伊達行朝及び楠木正家ほか奥州勢を従えて京へ進発し、同年12月、杉本城(杉本寺)の戦いで斯波家長を破ると足利義詮らは安房へ撤退して鎌倉は陥落します。1338年(延元元年)1月2日に北畠顕家は鎌倉を出発し、同年1月16日に遠江、同年1月21日に尾張へ進軍します。その後、京を目指して東海道から美濃路を経由して東山道へ転進し、同年1月28日に青野原の戦い岐阜県大垣市青野町)で土岐頼遠を破ります。しかし、北畠顕家は自軍の損害が甚だしいことから京への進軍を断念し、一旦、北畠氏の本拠地である伊勢で態勢を整えてから再び上洛を目指します。その後、北畠顕家は、北朝勢力と一進一退の攻防を繰り広げますが、同年3月16日に阿倍野の戦いに敗れて戦局は膠着状態となり、同年5月22日に石津の戦いで敗れて北畠顕家、南部師行らが討死したことで(参253)、以後、南朝勢力は劣勢となります(注48-2)。

 

(注48-1)風林火山の軍旗を最初に使用した鎮守府将軍北畠顕家

 後醍醐天皇は、建武の新政にあたり日本各地に自らの皇子(親王)を派遣して各地の鎮撫平定に尽くします。1333年(元弘3年)、幼少の第7皇子・義良親王とその後見人である陸奥守・北畠顕家陸奥国へ下向させ、1334年、北畠顕家陸奥国の北条氏の反乱をほぼ鎮圧します。1336年(建武3年)、足利尊氏は謀反し、楠木正成らが守備する京都を包囲しますが、北畠顕家は奥州勢を従えて1日40kmの行軍(豊臣秀吉による中国大返しを上回る速さ)で京を包囲する足利軍を急襲し、足利尊氏は九州へと落延びます。このとき北畠顕家武田信玄よりも前に風林火山の軍旗を使用しています。

f:id:bravi:20210521130902j:plain 【名称】矢作神社(うなり石)
【住所】愛知県岡崎市矢作町宝玉庵1
【備考】新田義貞矢作川の戦いの戦勝を祈願して矢作神社を参詣した際、石がうなりだしたという伝説があります。
f:id:bravi:20210521130929j:plain 【名称】手越河原古戦場碑
【住所】静岡県静岡市駿河区みずほ5-9-15
【備考】新田義貞足利直義らと17回の激戦を繰り広げ、これを撃退し、佐々木道誉新田義貞に寝返ります。
f:id:bravi:
20200929084309j:plain 【名称】竹之下古戦場碑
【住所】静岡県小山町竹之下227
【備考】足柄峠に布陣した足利尊氏足柄峠の麓に布陣する脇屋義助を攻め、脇屋軍が味方の裏切りもあって総崩れになります。
f:id:bravi:20200929082746j:plain 【名称】足柄峠(足柄城跡)
【住所】静岡県小山町竹之下1462
【備考】足利尊氏が布陣した足柄峠(足柄城跡)から見下ろす、脇屋義助が布陣した麓の街と富士山。この戦いに勝利した足利尊氏は京を包囲します。
f:id:bravi:20200929083729j:plain 【名称】竹之下合戦供養塔(興雲寺)
【住所】静岡県小山町竹之下1171
【備考】脇屋義助が本陣を置いた興雲寺には、竹之下合戦の戦死者を弔うための供養塔が建立されています。
f:id:bravi:20200929082640j:plain 【名称】二条中将・藤原為冬の墓(白旗神社
【住所】静岡県小山町竹之下3222
【備考】脇屋軍は興雲寺から鮎沢川沿いを敗走。藤原為冬は尊良親王が落ち延びたことを確認した後、この場で討死します。
f:id:bravi:20200929083104j:plain 【名称】箱根峠
【住所】静岡県函南町桑原1364-50
【備考】新田義貞は箱根峠に布陣する足利直義に大勝しますが、脇屋軍の敗北により背後を足利尊氏に攻められることを恐れて伊豆三島まで撤退し、足利尊氏に京まで攻め込まれます。
f:id:bravi:20200922115126j:plain 【名称】豊島河原の戦い箕面川)
【住所】大阪府箕面市瀬川2丁目
【備考】京を包囲する足利尊氏を三条河原の合戦で破った北畠顕家新田義貞と共に豊島河原で足利尊氏と再び交戦し(右岸:北畠・新田軍、左岸:足利軍)、膠着状態となります。
f:id:bravi:20200922115151j:plain 【名称】大楠公戦跡(打出浜古戦場)
【住所】兵庫県芦屋市楠町14-23
【備考】楠木正成が足利軍の背後に回り込み、これを破ると、足利尊氏は九州へ落ち延びますが、その3ケ月後に西国勢を従えて再上洛します。
f:id:bravi:20210521131326j:plain 【名称】白旗城の戦い
【住所】兵庫県赤穂市上小郡町細野556
【備考】赤松則村は白旗城に籠城して新田軍を50日間も防ぎ止めています。「落ちない城」から合格祈願所になっています。
f:id:bravi:20210521131429j:plain 【名称】多々良浜の戦い
【住所】福岡県福岡市東区多の津1-20
【備考】足利尊氏は数百の兵で陣の越多々良浜を一望)に本陣を構えます。これに対し、菊池氏や阿蘇氏を中心とする南朝勢力は10倍の兵力でしたが、南朝勢力に裏切りが出たために北朝勢力に敗れます。
f:id:bravi:20210521131402j:plain 【名称】鞆城跡(鞆の浦
【住所】広島県福山市鞆町843
【備考】足利尊氏鞆の浦に上陸し、光厳上皇から新田義貞追討の院宣を受けます。時代は下り、京を追放された足利義昭は毛利氏を頼り鞆城に身を寄せますが、足利氏にとっては栄枯盛衰に係る因縁の場所です。なお、筝曲「春の海」宮城道雄が父親の郷里である鞆の浦を思って作曲したものです。
f:id:bravi:20210521131508j:plain 【名称】遠矢の碑(和田岬
【住所】兵庫県神戸市兵庫区和田宮通6-1-18
【備考】新田義貞和田岬に陣を敷くと、本間孫四郎重氏が足利尊氏率いる水軍に向かって遠矢を射た場所です。
f:id:bravi:20170505094633j:plain 【名称】会下山公園
【住所】兵庫県神戸市兵庫区荒田町1-20
【備考】楠木正成湊川の戦いで本陣を置いた場所です。「大楠公湊川陣之遺跡」の碑(東郷平八郎揮毫)が建立されています。
f:id:bravi:20180924133541j:plain 【名称】楠木正成公殉節地(湊川神社
【住所】兵庫県神戸市中央区多聞通
【備考】湊川の戦いに敗れた楠木正成ら主従が湊川の集落で自刃しますが、その場所と伝わるところに湊川神社が建立されています。
f:id:bravi:20210521131301j:plain 【名称】生田神社(生田の森)
【住所】兵庫県神戸市中央区下山手通1-2―1
【備考】生田の森で態勢を立て直した新田義貞は、足利尊氏に決戦を挑みますが、劣勢を挽回できずに丹波路を敗走します。
f:id:bravi:20200518063443j:plain 【名称】名和長年戦没遺跡(一条院跡)
【住所】京都府京都市上京区梨木町192
【備考】足利尊氏の再上洛軍に対し、内野の合戦で名和長年及び於曾貞光(打越氏(内越氏)の祖)が討死します。
f:id:bravi:20200611080142j:plain 【名称】比叡山八瀬口(八瀬天満宮
【住所】京都府京都市左京区八瀬秋元町639
【備考】後醍醐天皇は、足利尊氏の再上洛にあたり八瀬口から比叡山へ遁れます。
f:id:bravi:20200611080104j:plain 【名称】千種忠顕卿戦死之地碑
【住所】京都府京都市左京区修学院丸子青良ケ谷
【備考】足利尊氏は東寺に本陣を置き、足利直義比叡山を攻めさせますが、比叡山の中腹で千種忠顕が討死します。
f:id:bravi:
20180924134635j:plain 【名称】尊良親王御陵墓見込地碑
【住所】福井県敦賀市金ヶ崎町
【備考】越前国金ヶ崎城に籠城していた尊良親王新田義顕らと共に自害します。この際、於曾時高(打越氏(内越氏)の祖先)も亡くなっています。
f:id:bravi:20190825102707j:plain 【名称】霊山神社(霊山城跡)
【住所】福島県伊達市霊山町
【備考】1度目の上洛後、足利尊氏湊川の戦いに勝利すると、東国の北朝勢力による攻勢が強まり、北畠顕家多賀城から霊山城へ国府を移します。
f:id:bravi:20210521131117j:plain 【名称】青野ヶ原一里塚(中仙道)
【住所】岐阜県大垣市青野町239
【備考】北畠顕家は、利根川の戦い、杉本城の戦い、青野ヶ原の戦いと連勝しますが、自軍の損害が激しかったことから伊勢で態勢を立て直します。
f:id:bravi:20210521131137j:plain 【名称】相川
【住所】岐阜県不破郡垂井町垂井1856-1
【備考】美濃路東山道が交わる相川橋から関ケ原~琵琶湖~京方面。正面の奥に頭が見えるのが伊吹山です。
f:id:bravi:20210521131156j:plain 【名称】長屋氏屋敷跡
【住所】岐阜県不破郡垂井町垂井1259-1
【備考】青野ヶ原には1352年(正平7年)、南朝勢力により京を追われた後光厳天皇が仮御所を置いた場所です。
f:id:bravi:20180924134119j:plain 【名称】北畠顕家の墓
【住所】大阪府大阪市阿倍野区王子町3-8
【備考】北畠顕家阿倍野の戦いで敗れ、その場所に墓が建立されています。実際はその後の石津の戦いで討死しています(参253)。
f:id:bravi:20180924133922j:plain 【名称】北畠顕家・南部師行の供養塔
【住所】大阪府堺市西区浜寺石津町中5-3-31
【備考】北畠顕家は、南部師行らと共に石津の戦いで討死しており(参253)、その場所に供養塔が建立されています。

 

(注48-2)常陸合戦とその後

 1338年(延元3年)5月、鎮守府将軍北畠顕家及び南部師行らが石津の戦いに敗れて討死すると、弟の北畠顕信鎮守府将軍に就任し、同年9月、北畠親房及び北畠顕信は、義良親王を奉じて、居城・田丸城に(参253)に近い伊勢国大湊(三重県伊勢市)から結城宗広、伊達行朝らと共に大船団で海路を陸奥国へ向かいます。しかし、途中で暴風に遭い、義良親王や結城宗広らは伊勢国へ漂着しますが、北畠親房らは常陸国東条ケ浦(茨城県稲敷市)へ到着し、東条氏の居城・神宮寺城に入ります。その後、北朝勢力・佐竹氏の攻撃によって神宮寺城が落城すると、北畠親房は神宮寺城の近くに自ら築城した阿波崎城へ移って抵抗を続けますが、やがて阿波崎城も落城します。北畠親房は、小田氏の居城・小田城へ落ち延びますが、これに協力した近隣の村々の名主13名が佐竹義篤に斬首され、その13人の名主の供養塚(十三塚)が残されています。また、北畠親房に協力した名主の1名は斬首を逃れましたが、自ら「ホーイ、ホーイ」と叫んで佐竹勢を呼び戻して潔く斬首されたことから、ホイホイ地蔵として祀られています。北畠親房は、小田城から関東各地の南朝勢力に結集を呼び掛けると共に、、南朝の正統性を唱えた「神皇正統記」の執筆を開始します。因みに、水戸藩主・徳川光圀は「神皇正統記」を高く評価し、大日本史編纂にあたり彰考館総裁・打越(樸斎)直正らと共に南朝正当論を唱えて、明治維新の原動力となる水戸学の礎(前期水戸学は徳川光圀が中心となり尊王思想を唱えますが、後期水戸学は徳川斉昭が中心となって尊王思想に加えて攘夷思想を唱え、原理主義的な傾向を色濃くします。但し、会沢正志斎は晩年に開国論を前提とする富国強兵論に転じており現実主義的な路線への軌道修正を試みています。)(参255、256)を築いています。1339年(延元4年)、関東執事職に就いた高師冬が南朝勢力へ攻撃を開始して一進一退の攻防が続いた後、1341年(興国2年)11月に小田城は落城し、城主・小田治久は北朝勢力に降伏します。北畠親房は小田城を脱出して関宗祐の居城・関城(茨城県筑西市)へ移り、下妻政泰の居城・大宝城(茨城県下妻市)や伊佐氏(伊達氏の祖)の居城・伊佐城(茨城県筑西市)等と連携し、北朝勢力への抗戦を続けます。しかし、1343年(興国4年)、北畠親房が頼りにしていた陸奥国白河(福島県白河市)の結城親朝北朝勢力に降伏すると、同年11月、関城・大宝城は陥落し、関宗祐・下妻政泰は討死します。これにより北畠親房常陸国及び陸奥国での南朝勢力の挽回を断念し、吉野へ帰還します。その後、常陸国及び陸奥国で、北畠顕家の弟・北畠顕信北畠顕家の家臣・北畠顕国、北畠顕家の子孫・北畠天童丸らが北朝勢力への抵抗を続けますが、1344年(興国5年)、北畠顕国は北朝勢力の結城直光に捕らえられて斬首されます。また、1353年(正平8年)、北畠顕信多賀城及び宇津峰城が落城すると出羽国由利郡へ潜伏し、鳥海山大物忌神社南朝復興と出羽国静謐を祈願する寄進状を奉納しますが、その後の消息が不明になっています。1368年(応安元年)、漆川の戦いで南朝勢力・寒河江氏が北朝勢力・斯波氏に大敗すると、文中年間(1372~1374年)、斯波氏の攻撃により北畠天童丸の居城・天童城(福島県天童市)も落城し、北畠天童丸は南朝勢力・南部(八戸)氏を頼って陸奥国津軽郡鰺ケ沢村へ落ち延びます(浪岡北畠氏の祖)。

f:id:bravi:20200922114227j:plain 【名称】伊勢国大湊
【住所】三重県伊勢市大湊町
【備考】1333年(延元3年)北畠顕信鎮守府将軍に任命されたことから、義良親王を奉じて伊勢国大湊から大船53艘で陸奥国へ向けて出港します。
f:id:bravi:20200922114329j:plain 【名称】田丸城
【住所】三重県度会郡玉城町114−1
【備考】北畠親房及び北畠顕信は、伊勢神宮と隣接し、大湊を一望できる場所に後醍醐天皇を迎えるための南朝の拠点として築城します(参253)。
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20200628131918j:plain 【名称】東条ケ浦
【住所】茨城県稲城市飯出1706周辺
【備考】遠州灘の暴風で船団は四散しますが、北畠親房の舟は1338年(延元2年)9月に常陸国東条ケ浦へ漂着します。
f:id:bravi:20200628132001j:plain 【名称】神宮寺城
【住所】茨城県稲敷市神宮寺829
【備考】北畠親房は、地頭職・東条氏の居城・神宮寺城へ迎えられますが、1338年(延元2年)10月に北朝勢力・佐竹義篤らに攻められて落城。
f:id:bravi:20200628132328j:plain 【名称】阿波崎城
【住所】茨城県稲敷市阿波崎58
【備考】北畠親房は、神宮寺城の近くに自ら築城した阿波崎城へ移って北朝勢力に抵抗しますが、やがて阿波崎城も落城して小田城へと落ち延びます。
f:id:bravi:20200628132128j:plain 【名称】十三塚
【住所】茨城県稲敷市神宮寺2261
【備考】北畠親房が小田城へ落ち延びるのを手助けした近隣村々の名主13名は佐竹義篤に斬首されますが、その13人の名主の供養塚があります。
f:id:bravi:20200628132149j:plain 【名称】ホイホイ地蔵
【住所】茨城県稲敷市信太古渡172
【備考】斬首を逃れた名主の1名は「ホーイ、ホーイ」と叫んで佐竹勢を呼び戻して潔く斬首されたことから、ホイホイ地蔵として祀られています。
f:id:bravi:20190812191347j:plain 【名称】小田城
【住所】茨城県つくば市小田2377−1
【備考】北畠親房は、阿波崎城が落城すると南朝勢力・小田治久の居城である小田城へ入ります。
f:id:bravi:20190812191324j:plain 【名称】神皇正統記起稿之碑
【住所】茨城県つくば市小田2575
【備考】北畠親房南朝の正統性を唱える神皇正統記を執筆し、その後、徳川光圀や彰考館総裁・打越(樸斎)直正が南朝正当論として受け継ぎ、水戸学の礎を築きます。
f:id:bravi:20191104202904j:plain 【名称】関城
【住所】茨城県筑西市関舘57
【備考】小田城の落城後、北畠親房は結城一族の関宗祐に迎えられますが、1334年(興国4年)、関城も落城すると、東国における南朝勢力の挽回を断念し、吉野へ帰還します。
f:id:bravi:20200618071326j:plain 【名称】大宝城
【住所】茨城県下妻市大宝667
【備考】1341年(興国2年)、北畠(春日中将)顕国が興良親王を奉じて下妻政泰が守備する大宝城に入りますが、関城と共に落城します。
f:id:bravi:20191014142743j:plain 【名称】宇津峰城
【住所】福島県須賀川市塩田金山
【備考】北畠顕信は、霊山城、多賀城が落城すると、宇津峰城を築城して南朝勢力・伊達氏や田村氏(坂上田村麻呂の子孫)と共に抵抗します。
f:id:bravi:20191014143006j:plain 【名称】鳥海山大物忌神社
【住所】山形県飽海郡遊佐町吹浦布倉10
【備考】北畠顕信は宇津峰城が落城すると再起を図るために出羽国由利郡へ潜伏し、鳥海山大物忌神社南朝復興と出羽国静謐を祈願する寄進状を奉納。
f:id:bravi:20191014150711j:plain 【名称】天童城跡(北畠神社)
【住所】山形県天童市荒谷421
【備考】1368年(応安元年)に漆川の戦いで南朝勢力の寒河江(大江)氏が敗れると、文中年間(1372~1374年)に北畠顕家の子孫・北畠天童丸が守備する天童城も落城します。
f:id:bravi:20191014151935j:plain 【名称】天童山館
【住所】青森県西津軽郡鰺ヶ沢町舞戸町小夜670-14
【備考】天童丸は、天童城の落城によって陸奥国津軽郡鰺ケ沢村へ落ち延び、天童山館を築きます。
f:id:bravi:20191014152237j:plain 【名称】浪岡城
【住所】青森県青森市浪岡岡田10-15
【備考】南朝勢力・根城南部氏の庇護のもと北畠顕家の子孫・北畠顕成が陸奥国津軽郡浪岡村へ移住(浪岡北畠氏の祖)。

 

③瓜連城の戦い

 1331年(元徳3年)、小田治久(藤原氏流八田氏の後裔で、元常陸国守護職)は、鎌倉幕府の命により元弘の乱で配流となった後醍醐天皇の側近・万里小路(藤原)藤房卿の身柄を預かっていましたが、1333年(元弘3年)、建武の新政万里小路(藤原)藤房が復権すると、小田治久は万里小路(藤原)藤房を助けて上洛し、後醍醐天皇に臣従します。1336年(建武3年)、楠木正成後醍醐天皇から下賜された常陸国久慈郡(後に那珂郡)の地頭代として楠木正家を派遣しますが、これに小田治久らが加勢して、金砂城を守備する常陸国守護職・佐竹貞義及びその嫡男・佐竹義篤に対抗します。同年2月6日、楠木正家は常陸国久慈郡で佐竹氏と交戦し、佐竹貞義の六男・佐竹義冬らを討ち取ります。同年2月25日、佐竹貞義及び佐竹義篤は瓜連城を守備する楠木正家を攻撃しますが、那珂通辰が楠木正家に加勢したことで劣勢となり、佐竹貞義は金砂山城、佐竹義篤は武生城に籠城してゲリラ戦を展開します。同年5月、湊川の戦い南朝勢力が敗れると、同年12月2日、鎌倉の足利義詮から援軍を差し向けられた佐竹義篤は武生城を出陣し、久慈川を渡河して瓜連城を総攻撃すると、同年12月11日に瓜連城は大軍を支えきれずに落城し、楠木正家は陸奥へ落ち延び(参21、208)、また、小田治久は小田城へと遁れます。このとき那珂道辰は金砂城に籠城する佐竹貞義を攻撃していましたが、瓜連城の落城によって退路を断たれ、那珂道辰ら一族34人は勝楽寺の裏山で自刃します。なお、那珂道辰の子・那珂通泰が生き残り、その子・那珂道高が佐竹氏に仕官して常陸国那珂郡江戸郷を与えられ、江戸氏を名乗ります。後年、打越伊賀守(分家Ⅱ)が江戸氏に仕官します(参21、182)。 

f:id:bravi:20170505094733j:plain 【名称】瓜連城跡(常福寺
【住所】茨城県那珂市瓜連
【備考】楠木正成後醍醐天皇から下賜された常陸国久慈郡の地頭職の代官として弟又は従弟の楠木正家を派遣し、北朝勢力の佐竹氏に対抗します。
f:id:bravi:20190623180852j:plain 【名称】那珂道辰の墓
【住所】茨城県常陸太田市増井町1591
【備考】那珂道辰は金砂城の佐竹義貞を攻撃していましたが、瓜連城の落城により退路を断たれて那珂道辰ら一族34人は勝楽寺の裏山で自刃します。
f:id:bravi:20210521154358j:plain 【名称】武生城跡(竜神大吊橋)
【住所】茨城県常陸太田市下高倉町
【備考】佐竹義篤が籠城していた武生城跡です。現在は竜神大吊橋が架けられ、日本一の高さのバンジージャンプで有名です。
 

四条畷の戦い

 1347年(正平2年)6月、楠木正行は、北朝勢力との決戦を決意して吉野行宮の後村上天皇に拝謁した後、後醍醐天皇陵を参拝し、如意輪堂の扉に「かへらじと かねて思へば梓弓 なき数に入る 名をぞとどむる」という辞世の句を鏃で刻みます。楠木正行は、紀伊国橋本で挙兵し、八尾城の戦い、藤井寺教興寺の戦い、住吉・天王寺の戦いと連勝します。1348年(正平3年)1月、楠木正行を大将とする南朝勢力と高師直を大将とする北朝勢力が東高野街道四条畷神社と小楠公墓地を挟む旧170号線沿い)で激戦となり、約20倍近い兵力差があったにも拘らず、南朝勢力が北朝勢力を約3kmも押し戻す奮戦を見せますが、衆寡敵せず、楠木正行、楠木正家、和田賢秀らは自刃又は討死します。これにより吉野行宮は陥落し、後村上天皇は賀名生へ行宮を移します。(参252)

f:id:bravi:20210516201452j:plain
f:id:bravi:20180924132711j:plain 【名称】吉野朝宮跡
【住所】奈良県吉野郡吉野町吉野山2498
【備考】四条畷の戦いに向かう楠木正行後村上天皇に拝謁し、後村上天皇から「正行よ、汝がたよりである。若し戦不利ならば、必ず戻るよう」と御言葉を掛けられています。
f:id:bravi:20181231102722j:plain 【名称】楠木正行辞世の句
【住所】奈良県吉野郡吉野山1024
【備考】楠木正行は、如意輪堂の扉に辞世の句(かえらじと かねておもへば梓弓 なき数に入る 名をぞとどむる)を鏃で刻んでいます。
f:id:bravi:20201101190721j:plain 【名称】往生院六萬寺
【住所】大阪府東大阪市六万寺町12-2-36
【備考】楠木正行南朝軍が最初に本陣を置いていた場所で、ここから東高野街道沿いを京都へ向かって北上します。
f:id:bravi:20201101191206j:plain 【名称】南朝軍進軍路
【住所】大阪府大東市中垣内3-2-28
【備考】北朝軍本陣から数キロに位置する南朝軍進軍路。当時は生駒連山と深野池に挟まわれた縄手(畷)道で、行軍には不利な地形でした(参253)。
f:id:bravi:20201101091858j:plain 【名称】北朝軍本陣跡
【住所】大阪府大東市野崎2-6-8
【備考】慈眼寺(野崎観音)の麓に北朝軍本陣跡があり、北朝軍の別動隊が飯盛山の中腹に陣取って有利な布陣であったと考えられます。
f:id:bravi:20201101092020j:plain 【名称】激戦地
【住所】大阪府大東市北条6-5-1
【備考】四条畷の戦いで激戦となった北条交番前交差点付近です。
f:id:bravi:20210326115403j:plain 【名称】古戦田
【住所】大阪府大東市北条12-19
【備考】南朝軍は北朝軍を3kmも押し戻す奮戦を見せますが、この字(あざ)「古戦田」で乱戦状態になり、やがて数で圧倒する北朝軍に包囲されて苦戦となります。
f:id:bravi:20210326115344j:plain 【名称】ハラキリ
【住所】大阪府大東市錦町17-58
【備考】楠木正行は、敵の手に掛ることを潔くないとして、この字(あざ)「ハラキリ」(古戦田と小楠公墓所との中間時点)で自刃したと伝えられています。
f:id:bravi:20201101091718j:plain 【名称】飯盛山城跡
【住所】大阪府大東市北條2377
【備考】飯森山城跡から眺める大阪市の全景で、右上に淡路島が見えます。後年、三好長慶が居城とした場所でもあります。
f:id:bravi:20201101091736j:plain 【名称】楠木正行
【住所】大阪府大東市北條2377
【備考】四条畷神社の裏手にある飯盛山登山口から入ると飯盛山城跡があり、その山頂に京の方角を向いた楠木正行像が建立されています。
f:id:bravi:20201101091838j:plain 【名称】楠公
【住所】大阪府大東市北條2377−1
【備考】楠木正行をはじめ、四条畷の戦いで戦死した南朝軍及び北朝軍の菩提を弔うために、飯盛山城跡に建立された寺です。
f:id:bravi:20170527085832j:plain 【名称】四条畷神社
【住所】大阪府四条畷市南野2-18-1
【備考】1348年(正平3年)、四条畷の戦いで自刀した楠木正行主祭神とし、楠木正家、和田賢秀らを配祀する神社です。
f:id:bravi:20170527085830j:plain 【名称】小楠公墓所
【住所】京都府京都市右京区嵯峨釈迦堂門前南中院町9-1
【備考】四条畷の戦いで自刃した楠木正行の墓碑に寄り添うように建つ樹齢600年のクスノキの巨木(大楠公)。
f:id:bravi:20180704204632j:plain 【名称】和田賢秀の墓
【住所】大阪府四条畷市南野4-15-6
【備考】楠木正行の従兄弟・和田賢秀は敵の首に噛み付いたまま死んだと言われており歯噛(神)様として祀られています。
f:id:bravi:20190824084714j:plain 【名称】賀名生行宮
【住所】奈良県五條市西吉野町賀名生5
【備考】吉野行宮を脱出した後村上天皇は楠木氏の傘下にあった紀伊国阿弖川荘(和歌山県有田郡有田川町)へ潜伏しますが、その後、賀名生へ行宮を移します(参252)。

  

⑤大曲城の戦い

 1582年(天正10年)、出羽国山北郡の一帯を支配していた小野寺(遠江守)景通及び戸沢盛重の名代で大曲城主・前田(薩摩守)利信は織田信長に拝謁するために上洛します(注49)。由利十二党の赤尾津氏は、前田氏に不満を抱く家臣から内応があったので、大曲城の攻略に取り掛かり、これに打越孫次郎、岩谷小三郎、石沢右衛門尉、小介川与市、潟保治部大夫等が加勢して約500余騎(1騎に3~5名の歩兵が従っていたとすると総勢約2000名の軍勢と推定)で大曲城を攻めます。大曲城の守兵は約600名を三手に分けて、大手門を神宮寺掃部が率いる200名強、搦手門を前田又四郎が率いる150名強、持口門を前田五郎が率いる100名強で守備します。打越孫次郎が率いる60騎、歩兵300名が持口門を攻めますが、前田五郎ほか城方の激しい抵抗にあって一旦は兵を引き膠着状態に陥ります。しかし、持口門を守備する前田五郎が討ち取られると戦局は一転し、打越孫次郎等が城内に乱入して火をかけたことで、前田又四郎らは大曲城を捨て神宮寺城へ落延びます。

 

(注49)有力な戦国武将との関係

奥羽永慶軍記(参163)によれば、奥州地方には京の情勢が風聞として伝わってきていましたが、意図的に流される嘘も多く疑心暗鬼の状態に置かれていた様子が記されています。また、当時、奥州地方には上杉氏、武田氏、北条氏、佐竹氏等の有力な戦国大名から配下になるように頻繁に誘いの手が伸びてきていましたが、これらの戦国大名は武威盛んでも将軍ではないのでこれに従う理由はないと考えていたようです。これらの戦国大名と比べると武威は劣るものの、足利義昭に代わって新しい将軍になったと伝え聞く織田信長の配下になりたいと考えて上洛する者が多かったと記されており、小野寺氏及び前田氏もその例と思われます。奥州地方では武威よりも権威を重んじて情勢を判断する遠国の力学(即ち、有力な戦国大名の傘下に入って武威を頼んでも遠国に援軍を派遣して貰える見込みは手薄で自らの領地を守ることは難しいので、正当な権力者に自らの領地支配を権威付けて貰ったうえで近隣の諸氏と友好な軍事同盟を結んで協力しながら自らの領地を死守しなければならない地理的な事情)が作用していたことが伺われます。なお、小野寺氏及び前田氏が上洛した1582年(天正10年)は、丁度、織田信長による甲州征伐が終わり、同年6月に本能寺の変が起こるまでの織田氏の絶頂期にあたります。 

f:id:bravi:20180427185351j:plain 【名称】大曲城跡(八幡神社
【住所】秋田県大仙市大曲丸の内町4-6
【備考】仙北平野の丸子川を背にした平城で、戸沢盛重の有力な与力である前田利信が守備していた居城です。
f:id:bravi:20180427185749j:plain 【名称】八幡土塁(大曲城跡)
【住所】秋田県大仙市大曲丸の内町4-6
【備考】大曲城の土塁跡が残されていますが、周囲は住宅街として整備されており、城の遺構は殆ど残されていません。
f:id:bravi:20180427185436j:plain 【名称】八幡神社(大曲城跡)
【住所】秋田県大仙市大曲丸の内町4-6
【備考】大曲城に面して丸子川が流れており、天然の要害となっています。

 

⑥大沢山の戦い

 1582年(天正10年)、出羽国山北郡を支配していた小野寺(遠江守)景通は上洛するにあたり、石沢氏から母を、打越氏、赤尾津氏、岩屋氏、仁賀保氏及び滝沢氏から各1人の男児を、矢島氏、下村氏及び玉前氏から各1人の女児を人質にとります。由利十二頭は小野寺景通と対立していた秋田氏と誼を通じていましたが、小野寺氏に人質をとられていたので不本意ながら小野寺氏に味方せざるを得ない状況にありました。しかし、小野寺氏の人質になった石沢氏の母と打越氏、赤尾津氏、岩屋氏、仁賀保氏及び滝沢氏の5人の男児は足手纏いとならないように自害して果て、この悲報に接した打越孫次郎、内越民部少輔、赤尾津左衛門尉、赤尾津孫四郎、仁賀保宮内大輔治重、仁賀保八郎、岩屋小三郎、石沢左衛門尉、滝沢刑部介らは、同年8月28日、その弔い合戦に総勢5000名の軍勢を率いて大沢山に出陣し、小野寺義通が率いる総勢8000名の軍勢と対峙します。小野寺義通は血気盛んな大将で自ら敵陣深く斬り込む猪武者振りでしたが、その気性を見抜いた打越氏、赤尾津氏、岩屋氏は、負け戦さを装い、引くと見せ掛けて山間地に敵勢を誘き寄せ、左右の山間から一斉に矢を射かけて敵が総崩れになったところを攻め掛かり、再び引いて見せるなど散々に籠絡して小野寺氏の重臣の多くを討ち取り、小野寺氏は大敗を喫します(由利十二頭の死者51名、小野寺氏の死者480名)。(参183) 

f:id:bravi:20180428070446j:plain 【名称】大沢山
【住所】秋田県横手市雄物川町大沢
【備考】由利十二頭は本荘街道(秋田県由利本荘市岩手県北上市)から雄物川を挟んで高地へ布陣。
f:id:bravi:20180428070556j:plain 【名称】雄物川
【住所】秋田県横手市雄物川町柏木
【備考】小野寺氏は横手城から出陣して雄物川を挟んで低地で防戦しますが、小野寺氏は大敗を喫します。

 

⑦戸崎湊の戦い

 1588年(天正16年)、湊城を守備する安東高季は、従弟・秋田実季が僅か12歳で家督を承継したことが不満で謀反します。これに対し、1589年(天正17年)、秋田実季は安東高季が守備する湊城を攻めますが、安東氏の備えが固く却って自軍の損耗が目立ったので、由利十二頭に加勢を要請します。これを受けて打越孫四郎、赤尾津孫次郎、岩屋内匠助、仁賀保兵庫頭勝俊等の約2000名が小舟200艘に乗って土崎の港(秋田県秋田市雄物川河口)に上陸し、秋田実季の約2000名の軍勢と合わせた総勢4000名の軍勢で湊城を囲みます。安東氏は城から打って出て夜襲を仕掛けるなど寄手を翻弄し、湊城攻めは膠着状態に陥ります。そこへ矢島(五郎)満安が加勢して湊城に火をかけたので、安東氏は城を捨て落延びようとしましたが、打越孫四郎、赤尾津孫次郎及び赤尾津九郎が追撃して安東氏を討ち取ります(参183)。 

f:id:bravi:20180425232620j:plain 【名称】土崎港
【住所】秋田県秋田市土崎港西
【備考】打越氏(内越氏)ほか総勢2000名の兵が200艘の船で上陸した土崎港です。写真左側が由利本荘市方面です。
f:id:bravi:20180425232034j:plain 【名称】湊城跡(土崎神明社
【住所】秋田県秋田市土崎港中央
【備考】安東高季が守備していた湊城跡です。
f:id:bravi:20180425232715j:plain 【名称】安東(安倍)氏の顕彰碑
【住所】秋田県秋田市土崎港中央
【備考】土崎神明社の境内には、湊安東(安倍)氏の顕彰碑があります。

 

⑧唐松野の戦い

 秋田(城之介)実季の家臣である太平(大江)広治(矢島氏とは「一家」(参6))は、小野寺義道と通じて謀反を起こし、1589年(天正16年)5月3日、秋田(城之介)実季とこれに加勢した岩屋重二郎、赤尾津左衛門、打越二郎、羽川小太郎の100騎(歩兵を入れると300~500名)の総勢2000名が唐松野に布陣し、小野寺義道の総勢3000名と対峙しました。小野寺氏の先手が総崩れになり小野寺氏は多数の死傷者を出しながら敗走すると、秋田氏は追撃戦に移りますが、太平(大江)広治が兵400名を率いて秋田氏の背後を急襲したので秋田氏は退却します。しかし、そこへ岩屋氏、打越氏、羽川氏が兵300名を率いて秋田氏の援護に回り、太平(大江)広治の軍勢を撃退します。翌日、小野寺氏の家臣・六郷正乗が打越氏、岩屋氏、赤尾津氏に和睦を申し入れ、小野寺義道の甥を秋田実季の養子とし、また、大平(大江)広治の次男を人質として秋田氏の元に送ることで和睦が成立します。 

f:id:bravi:20180426203737j:plain 【名称】唐松城跡
【住所】秋田県大仙市協和境唐松岳84
【備考】後三年の役源義家が攻めた唐松城跡です。
f:id:bravi:20180426203650j:plain 【名称】唐松野(唐松城跡本丸)
【住所】秋田県大仙市協和境唐松岳84
【備考】淀川流域に広がる唐松野が戦場となりました。
f:id:bravi:20180426203812j:plain 【名称】唐松神社
【住所】秋田県大仙市協和境下台84
【備考】物部氏の祖・饒速日尊を祀る神社で、物部氏の末裔の方が宮司を務めています。後三年の役源義家により修復されています。
f:id:bravi:20180426203520j:plain 【名称】喜多流謡曲
【住所】秋田県大仙市協和境下台84
【備考】唐松神社には京都西本願寺・北能舞台を模した秋田県唯一の能舞台があり、年に一度、能楽公演が開催されます。

 

小田原征伐(北国軍)

 小田原征伐(注50)では、豊臣秀吉が率いる本軍(先鋒:徳川家康)と前田利家が率いる北国軍(大将:前田利家、副将:上杉景勝真田昌幸)の二手に分かれて北条領へ侵攻します。打越氏(内越氏)を含む由利衆は、当初、最上義光の指揮下に入る予定でしたが、最上義光が父親の葬儀を理由に小田原征伐に遅参することになったので、北国軍の信濃衆(真田軍)に編成されます。前田利家上杉景勝真田昌幸、由利衆らは信濃国松代城松代城の近くに打越氏の祖先・小笠原(大井)氏の発祥の地である大井城があります。)に集まり、地の利がある信濃衆(真田軍)を先鋒として総勢35000名の北国軍が碓氷峠から北条領(上野国)へ侵攻します。1590年(天正18年)年3月15日に信濃衆(打越(宮内少輔)光重は信濃衆に編成)は碓氷峠(磐根石)で北条氏の伏兵と遭遇戦になりますが、この戦さが初陣の真田信繁(幸村)が北条氏の伏兵を見抜いてこれを撃退する軍功を挙げます。同3月19日、大道寺政繁が2000名の兵で籠城する松井田城を攻撃しますが、前田利家により松井田城の水の手を絶たれて4月22日に開城降伏すると、その近隣にある箕輪城厩橋城、河越城等の支城も次々に開城降伏します。前田利家は大道寺政繁の助命を約束し(但し、大道寺政繁は小田原城落城後に豊臣秀吉の命令で切腹)、北国軍の道案内役として八王子城攻めでは大道寺政繁に先鋒を務めさせます。次に、北国軍は徳川家康からの援軍を加えて北条氏邦が3000名の兵で籠城する鉢形城を攻めますが、6月14日、北条氏邦前田利家からの降伏勧告を受け入れて城兵の命を助けることを条件に降伏します(但し、北条氏邦前田利家の取り成しによって切腹を免れます)。豊臣秀吉が北条方の開城降伏を次々と受け入れて和睦に応じる前田利家の手緩い対応に不快感を示したことから、6月23日、前田利家北条氏照(但し、北条氏照小田原城に詰めており不在)の居城である八王子城を力攻めにすることにし、約2000名で籠城する八王子城は即日落城します。八王子城内にいた子女は城内の滝に身を投げ又は自害して果て、その血で滝の水が真っ赤に染まったと言われています。八王子城落城の報を受けた北条氏政及び北条氏直は落胆し、7月5日、相模国及び武蔵国の2か国を安堵するという条件で開城降伏します(但し、北条氏政豊臣秀吉の命令で切腹、北条氏は取り潰し)。このとき、石田三成は、成田長親が約300名の兵で籠城する忍城を23000名の兵で取り囲み、荒川を堰き止めて水攻めにしますが(その後、忍城攻めに苦戦する石田軍を支援するために真田軍が差し向けられていますので、打越(宮内少輔)光重も忍城攻めに参加していた可能性があります。)、小田原城が開城降伏した後も暫く持ち堪え、7月16日に開城降伏します。

 

(注50)名胡桃城の戦い

 1587年(天正15年)、豊臣秀吉が惣無事令(注60)を発布して大名の私闘を禁じるなか、北条氏の家臣・猪股(能登守)範直が真田氏の居城・名胡桃城を奪う事件が発生し、これが小田原征伐の直接的な原因となりました。上記のとおり由利十二頭の打越氏(内越氏)(本家Ⅰ及び分家Ⅰ)は、小田原征伐豊臣氏に味方し、常陸江戸氏に仕官していた打越氏(内越氏)(分家Ⅱ)は北条氏に味方していますが(第2部第2巻第3段の②を参照)、眞書太閤記十一編巻之九(参17)には、猪俣範直が名胡桃城を奪うにあたり打越治右衛門ら親交のあった武家60余人に相談を持ち掛けたと記載されています。但し、眞書太閤記は、江戸時代に出版された歴史読物で史料的な価値は低く信頼性を疑われていますので、その記載を鵜呑みにすることは危険です。この点、「治右衛門」の通名は、由利十二頭の打越氏(内越氏)(本家Ⅰ)に伝わるもので、豊臣氏に味方した由利十二頭の打越氏(内越氏)(本家Ⅰ)と北条氏に味方した常陸江戸氏に仕官していた打越氏(内越氏)(分家Ⅱ)とを取り違えて記載している可能性も考えられます。

f:id:bravi:20210526072427j:plain
f:id:bravi:20180429090849j:plain 【名称】松井田城跡
【住所】群馬県安中市松井田町高梨子
【備考】松井田城を守備する北条氏の重臣・大道寺正繁は開城降伏しますが、後日、豊臣秀吉の命により切腹します。
f:id:bravi:20180429090922j:plain 【名称】妙義山碓氷峠方面)
【住所】群馬県安中市松井田町高梨子
【備考】北国軍は碓氷峠に潜む北条氏の伏兵を撃退し、碓氷峠を越えて松井田城を包囲します。
f:id:bravi:20180429090954j:plain 【名称】鉢形城
【住所】埼玉県大里郡寄居町鉢形2496−2
【備考】北条氏政の弟・北条氏邦は開場降伏し、前田利家の助命嘆願により切腹を免れます。
f:id:bravi:20180429091055j:plain 【名称】鉢形城
【住所】埼玉県大里郡寄居町鉢形2496−2
【備考】鉢形城本丸から真田昌幸が攻めた北側方面。打越(宮内少輔)光重は信濃衆として真田昌幸傘下で戦っています。
f:id:bravi:20180429091321j:plain 【名称】八王子城
【住所】東京都八王子市元八王子町3-2664-2
【備考】豊臣秀吉が開城降伏を許さず、小田原征伐で最も激しい戦闘が行われました。
f:id:bravi:20180429091358j:plain 【名称】八王子城
【住所】東京都八王子市元八王子町3-2664-2
【備考】八王子城落城時に子女が自害して血で赤く染まった御主殿の滝。
f:id:bravi:20180429091520j:plain 【名称】北条氏照の墓
【住所】東京都八王子市元八王子町3-2653
【備考】兄の北条氏政と共に、豊臣秀吉から切腹を命じられています。
f:id:bravi:20180430222930j:plain 【名称】石田三成本陣跡(忍城
【住所】埼玉県行田市埼玉4834
【備考】石田三成上杉謙信も陣を敷いたことがある丸墓山古墳に忍城攻めの本陣を置きます。豊臣秀吉の命により真田軍(打越光重も同陣か?)が参陣しています。
f:id:bravi:20190818105841j:plain 【名称】忍城戦死者慰霊碑(高源寺)
【住所】埼玉県行田市佐間1-2-9
【備考】楠木氏の末裔・正木(丹波守)利英(映画「のぼうの城」)が出家して開基した高源寺にある忍城戦死者慰霊碑です。菊水紋が刻まれています。
f:id:bravi:20210419164150j:plain 【名称】沼田城(石垣跡)
【住所】群馬県沼田市西倉内町594
【備考】天正壬午の乱の和睦条件を不服とする真田氏は第一次上田合戦で徳川氏を撃退し、北条氏とも膠着状態に陥り、豊臣秀吉の仲裁で沼田城は北条氏、名胡桃城は真田氏で落着。
f:id:bravi:20210419163356j:plain 【名称】名胡桃城
【住所】群馬県利根郡みなかみ町下津3462-2
【備考】沼田城代・猪俣邦憲が豊臣秀吉の総事無令に反して真田氏の名胡桃城を奪取したことが小田原征伐の直接の原因となっています。

 

九戸政実の乱(奥州仕置)

 1591年(天正19年)、豊臣秀吉は、小田原征伐の後、主家の南部信直に背いて奥州仕置(検地、刀狩、人質、廃城、領地替え等)に抵抗する九戸氏を征伐するため、豊臣秀次及び徳川家康を総大将とする総勢15万の軍勢を九戸へ差し向け(このとき豊臣秀吉会津まで軍を進め、豊臣秀次及び徳川家康岩手山山麓に本陣を置きます)、出羽国からは打越宮内少輔、仁賀保兵庫頭勝俊、小野寺義道、秋田実季らが参陣し、その陣立は一陣:戸澤氏、二陣:六郷氏、三陣:梅澤氏、四陣:山田氏、五陣:小野寺氏、六陣:仁賀保氏(傘下:潟保氏、茂田氏、下村氏、根井氏)、七陣:打越氏(傘下:滝沢氏、岩谷氏、平澤氏、西目氏、鮎川氏)となっています(参246)。先陣の小野寺義道(約3500騎の5段備え)は浄法寺口(二戸市を南北に縦断する奥州街道(陸羽街道)沿いに馬淵川を挟んで布陣)から九戸城方面へ攻め入りますが、その対岸に布陣する九戸氏(約1500騎の5段備え)に3段まで崩されて敗戦が濃厚となります。これを見ていた由利十二頭の打越宮内少輔、仁賀保兵庫頭勝俊、赤尾津左衛門らが小野寺氏の援軍に駆け付けたことで九戸氏は総崩れとなり(参184)、総大将の九戸政実を初めとする九戸勢は九戸城に立て籠もります。これにより野戦から攻城戦へと移り、井伊直政は搦手に布陣し、打越氏ほか由利十二頭は仁賀保氏の指揮下で九戸城三の丸に面した馬淵川の対岸に布陣します(奥羽永慶軍記は、打越宮内少輔、仁賀保兵庫頭勝俊など由利十二頭は搦手に陣取ったとありますが、これは誤記と思われます。)。浅野長政は九戸城を力攻めすると死傷者が多く出ると考え、九戸政実に命を助けるという条件で降伏を勧告したところ、この条件を受け入れた九戸政実ほか重臣は(小田原征伐の際の伊達政宗に倣って)白装束で降伏しますが、騙し討ちに合って斬首されます。 

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f:id:bravi:20180425225009j:plain 【名称】九戸城跡
【住所】岩手県二戸市福岡城ノ内
【備考】九戸城三の丸から眺める本丸。
f:id:bravi:20180425225939j:plain 【名称】九戸城跡
【住所】岩手県二戸市福岡城ノ内
【備考】九戸城二の丸大手門から眺める本丸。
f:id:bravi:20180425225630j:plain 【名称】九戸城跡
【住所】岩手県二戸市福岡城ノ内
【備考】九戸城本丸から打越氏(内越氏)が布陣した場所の方向(針葉樹林の向こう側)。
f:id:bravi:20180425224614j:plain 【名称】九戸城跡
【住所】岩手県二戸市石切所荷渡6−3
【備考】仁賀保氏の陣に加わった打越氏(内越氏)が布陣した場所から九戸城の方向(針葉樹林の向こう側)。
f:id:bravi:20180425230425j:plain 【名称】岩手山岩手山SA)
【住所】岩手県八幡平市平笠第2地割1−36
【備考】豊臣秀次及び徳川家康が本陣を敷いた岩手山山麓

 

⑪矢島城の戦い

 1558年(永禄元年)、矢島(大善太夫)義満は滝沢刑部少輔に謀反の疑いがあるとして侵攻を開始し(本当の理由は領地争いが原因か)、これを受けて滝沢刑部少輔が仁賀保(大和守)明重に援軍を求めたことから矢島氏と仁賀保氏との間で本格的な争いに発展します。その後、矢島氏及び仁賀保氏は1592年(天正20年)までに十数回に亘る合戦に及びますが、その子・矢島(大井五郎)満安が矢島氏の家督を相続すると打越左近、岩屋内記、鮎川筑前守及び潟保双記斎らの仲裁により矢島氏と仁賀保氏との間で和睦が成立します。この間、由利十二頭は豊臣秀吉の命により1590年(天正18年)の小田原征伐、1591年(天正19年)の九戸政実の乱(奥州仕置)に参加しています。やがて矢島氏は小野寺氏と接近して再び仁賀保氏と対立するなど由利衆の結束を乱し始めたので、他の由利十二頭は仁賀保氏に味方します。打越左近、滝沢刑部少輔、赤尾津左衛門尉及び岩屋右兵衛尉は、矢島氏の力を削ぐために矢島(大井五郎)満安の留守を狙って弟の矢島与兵衛尉に謀反を起こさせますが、矢島(大井五郎)満安の機敏な対応により鎮圧されます。1592年(天正20年)、豊臣秀吉から朝鮮出兵文禄・慶長の役)の要請がありますが、出羽国は遠境の地なので各氏から総勢の1割の人数の参陣で構わないことになり、出羽国に残った仁賀兵庫頭、打越孫四郎、岩屋重次郎、赤尾津左衛門尉、滝沢刑部少輔等はこの機に乗じて総勢5000名で矢島へ侵攻します。矢島(大井五郎)満安は八森城や新荘館では防ぎ切れないと判断し、八森城及び新荘館を捨て、その支城・荒倉館に籠城します。仁賀保氏、打越氏、赤尾津氏、岩谷氏及び滝沢氏らは大手口の西側、子吉氏、潟保氏及び鮎川氏らは大手口の東側から攻め、3日後に荒倉館は落城します。その後、矢島(大井五郎)満安は義父・小野寺(肥前守)茂道を頼って西馬音内城へ落ち延びますが、再起を図ることは困難であると判断して自刃し、矢島氏は滅亡します(注60)。

 

(注60)惣無事令

矢島城の戦いは豊臣秀吉による惣無事令に違反するものですが、奥州仕置の時点で矢島氏の名前がないことなどから、奥羽慶長軍記に記されている年代に誤りがある可能性もあります。 

f:id:bravi:20170505094729j:plain 【名称】八森城跡(矢島小学校)
【住所】秋田県由利本荘市矢島町矢島町5
【備考】矢島(大井五郎)満安の居城です。
f:id:bravi:20170506091241j:plain 【名称】八森城跡(矢島小学校)
【住所】秋田県由利本荘市矢島町矢島町5
【備考】後年、打越光久が常陸国から加増国替えにより3000石の交代寄合旗本(大名格待遇)で入部します。
f:id:bravi:20210419164247j:plain 【名称】新荘館跡
【住所】秋田県由利本荘市矢島町新荘三川尻
【備考】矢島(大井五郎)満安の居城。子吉川を上流に辿ると荒倉館跡、元弘寺跡、小次郎館跡があります。
f:id:bravi:20210521230500j:plain 【名称】荒倉館跡
【住所】秋田県由利本荘市矢島町新荘
【備考】子吉川を挟んだ彼岸の山に矢島(大井五郎)満安が敗れた荒倉館跡があり、此岸には矢島(大井五郎)満安の息女・鶴姫が庵を結んだ場所があります。

 

文禄・慶長の役(大谷吉続麾下)

 1592年(文禄元年)、豊臣秀吉は約16万の軍勢で朝鮮半島の侵攻を開始します。内越宮内少輔(奥羽慶長軍記の文禄・慶長の役の段では打越ではなく内越と表記)、仁賀保兵庫頭、滝沢又五郎、岩屋能登守及び小助川治部少輔の由利五人衆は朝鮮半島に渡海せずに在陣衆として名護屋城で軍役にあたります。1593年(文禄2年)、朝鮮半島の戦況悪化に伴って、豊臣秀吉上杉景勝及び由利五人衆に対して大谷吉継の配下として高麗へ渡海し、前田利家及び蒲生氏郷の指揮のもとで晋州城(朝鮮国第一の名城)を攻撃するように命じます。しかし、やがて晋州城が落城したことから高麗への渡海が見送られ、その後、明国との和解交渉が開始されて休戦となり、1593年(文禄2年)末に由利五人衆は本国への帰国を許されますが、名護屋城の在陣中に内越宮内少輔が病没します(注70)。その後、慶長の役では、由利五人衆は遠国という理由から出兵を免除されています。

 

(注70)打越氏(内越氏)の陣屋

 打越氏(内越氏)の陣屋がどこに設けられていたのか定かではありませんが、文禄・慶長の役の陣立ては基本的に小田原征伐の陣立てに倣って編成されたと言われています。この点、小田原征伐では信濃衆(真田軍)に編成されていましたので、真田昌行の陣屋やこれに隣接する秋田実季の陣屋の近くにあった可能性が考えられます。なお、真田昌行の陣屋には真田幸村の供養塔のほかに誰のものか分からない墓がありますが、その形状から当時のものと思われる五輪塔が数基安置されていますので、そのうち1基が名護屋城の在陣中に病没した内越(宮内少輔)光重の墓である可能性も考えられます。因みに、どの系流の方なのか定かではありませんが、打越氏(内越氏)の末裔の方が肥前名護屋城の近くで肥前唐津焼の工房&ギャラリー「炎向窯」(ひなたがま)を営まれていますので、お土産に唐津焼の陶磁器をお勧めします。 

f:id:bravi:20180606152256j:plain 【名称】名護屋城
【住所】佐賀県唐津市鎮西町名護屋1931−3
【備考】文禄の役では打越(宮内少輔)光重も名護屋城へ布陣しますが、朝鮮半島へ渡海していません。慶長の役の出陣は免除。
f:id:bravi:20180606152614j:plain 【名称】名護屋城
【住所】佐賀県唐津市鎮西町名護屋1931−3
【備考】夜、松明を掲げた16万の軍勢が名護屋城を取り囲んで鬨の声を上げたそうなので、豊臣秀吉の絶頂期と言えます。
f:id:bravi:20180606152219j:plain 【名称】名護屋城
【住所】佐賀県唐津市鎮西町名護屋1931−3
【備考】小田原征伐と同編成と言われていますので、打越氏(内越氏)の陣屋は真田昌幸又は秋田実季の陣屋の近隣と推測。
f:id:bravi:20180606152532j:plain 【名称】秋田実季の陣屋跡
【住所】佐賀県唐津市鎮西町名護屋
【備考】この周辺に誰の陣屋か特定できない場所がいくつかありますので、その1つが打越氏(内越氏)ほか由利衆の陣屋跡ではないかと思われます。
f:id:bravi:20191231000937j:plain 【名称】真田昌幸の陣屋跡
【住所】秋佐賀県唐津市鎮西町名護屋
【備考】秋田実季の陣屋跡と隣接する場所に真田昌幸の陣屋跡があり、次男・真田幸村の供養塔が安置されています。
f:id:bravi:20191231001026j:plain 【名称】真田昌幸の陣屋跡
【住所】佐賀県唐津市鎮西町名護屋
【備考】打越光重は名護屋城在陣中に他界しますが、真田昌幸の陣屋跡に誰のものか分からない墓があり、その1基が打越光重の墓かもしれません。

 

⑬慶長出羽合戦(北の関ケ原の戦い

 1600年(慶長5年)、徳川家康は上杉征伐のために約22万の軍勢を率いて出陣しますが、石田三成による挙兵の知らせを受けて途中で軍勢を引き返します。これに伴って上杉景勝直江兼続を大将として最上領へ侵攻し、最上義光の本拠・山形城と指呼の距離にある長谷堂城を包囲します。これに対し、最上義光は由利衆を従えて米沢口に布陣しますが、徳川家康が軍勢を引き返したことで、伊達政宗の軍勢と合わせても上杉氏の約7万の軍勢を抑え切れないことから、上杉氏に従属するように装いながら時間を稼ぎます。この間、石田三成直江兼続の軍師として100万の軍勢で攻めてくるという噂が広まるなか、南部信直百姓一揆を鎮圧するために南部へ引き返したことで動揺が広がり、秋田、小野寺、六郷等も本国へ引き返します(参185)。また、同年9月8日、矢島(大井五郎)満安の遺臣が蜂起し、仁賀保氏の居城である矢島城を乗っ取ったことから、これに対処するために最上氏に従軍していた仁賀保氏及び打越氏も本国へ一時帰還します。なお、これらの一連の動きは最上氏の勢力を削ぐための上杉方の調略であった可能性も考えられます。同年9月25日、会津から直江兼続のもとに関ケ原の戦いで西軍が敗北したとの知らせが届いたことから退却を開始し、敵の追撃を防ぐことが難しいと判断して直江兼続が殿(しんがり)を務めます。その後、最上義光徳川家康から関ケ原の戦いで東軍が勝利したとの知らせを受けたので攻勢に転じますが、直江兼続の巧みな撤退戦により最上氏の追撃は阻まれます。この機に乗じて最上義光は上杉氏に奪われた庄内地方を奪還するために最上義安を総大将として8千の軍勢で庄内地方へ侵攻します。これに対して上杉氏は菅野大膳が守備する菅野城の備えとして女鹿から吹浦の間に2000名を配置します。上杉氏が吹浦で最上氏と交戦中に、背後から別動隊の志村(伊豆守)光安及び鮭延(越前守)秀綱が率いる最上勢2500名及び秋田実季が率いる打越氏及び仁賀保氏ら由利衆1000名の総勢3500名の軍勢に急襲されて菅野城は落城し、東禅寺(亀ヶ崎)城へ落ち延びる途中で相当数が討ち取られます。最上氏は、上杉氏の家臣の志駄義秀が守備する東禅寺(亀ヶ崎)城を攻撃するために、最上川の対岸に本陣6000名、新井田川の対岸に2000名を布陣し、北側から別動隊の3500名が攻城戦に加わります。東禅寺城は城内から鉄砲で応戦しますが、玉と火薬が尽きたことから大手門を破られ、 東禅寺(亀ヶ崎)城の城兵800名は全滅します。戦後、最上義光は秋田氏が出羽で勢力を持つことを恐れて、秋田氏、赤尾津氏、仁賀保氏及び打越氏が西軍に内通した疑があると徳川氏に讒言し、榊原康政から呼び出されて取り調べを受けることになります。しかし、その嫌疑は直ぐに晴れ、慶長羽合戦(北の関ケ原の戦い)の軍功として仁賀保挙誠及び打越光隆は徳川家康に召し出されて徳川氏の直臣旗本に取り立てられ、上杉氏の抑えを命じられます(干城録第8/参6)。その後、最上氏が出羽国由利郡を支配することになり、打越氏(内越氏)は出羽国由利郡内越郷1250石から常陸国行方郡新宮郷2000石(大身旗本)へ加増国替えとなり、新宮城へ入ります。やがて、最上氏は御家騒動によって改易となり、再び、仁賀保氏及び打越氏が出羽国由利郡矢島郷3000石(交替寄合旗本(大名格待遇))へ加増国替えとなり、八森城へ入ります。なお、「前田慶次郎」(近衛龍春著/PHP文庫)や「翔竜 政宗戦記 3竜虎の鬥」(坂上天陽著/歴史群像新書)では、慶長出羽合戦の画面で打越氏(内越氏)が登場します。

f:id:bravi:20200808091459j:plain 【名称】山形城(東大手門)
【住所】山形県山形市霞城町1−7
【備考】最上義光の居城・山形城。直江兼続は、徳川家康石田三成の挙兵の報を受けて軍勢を引き返したことから、最上領への侵攻を開始します。
f:id:bravi:20200808091614j:plain 【名称】長谷堂城
【住所】山形県山形市長谷堂994−2
【備考】直江兼続は、山形城と指呼の距離にある長谷堂城を包囲しますが、関ケ原の戦いで西軍が敗れると撤退します。
f:id:bravi:20180427201008j:plain 【名称】吹浦(芭蕉句碑)
【住所】山形県飽海郡遊佐町吹浦
【備考】関ケ原の戦いで東軍勝利が伝わると、上杉氏は撤退を開始し、女鹿から吹浦の間に2000名を配置して最上氏に備えます。
f:id:bravi:20180427201118j:plain 【名称】菅野城跡
【住所】山形県飽海郡遊佐町北目菅野谷地
【備考】上杉氏の家臣・菅野大膳が守備した菅野城は吹浦川と洗沢川の中洲にあったと言われています。
f:id:bravi:20180427191434j:plain 【名称】東禅寺城跡(亀ヶ崎八幡神社
【住所】山形県酒田市亀ケ崎1-3
【備考】上杉氏の家臣・志駄義秀が守備した東禅寺城跡には亀ヶ崎八幡神社が建立されています。
f:id:bravi:20180427192130j:plain 【名称】圓通寺
【住所】山形県酒田市吉田伊勢塚101
【備考】東禅寺城の搦手門は、現在、圓通寺に移築されています。
f:id:bravi:20180427200020j:plain 【名称】象潟(三崎峠からの景観)
【住所】秋田県にかほ市象潟町小砂川三崎
【備考】松尾芭蕉が訪れて俳句を詠んだ景勝地・三崎峠からの景観。打越光隆の隠居地という偽説も生まれるほどの絶景です。

 

⑭大森城の戦い

 小野寺氏は、最上氏に奪われていた雄勝郡を取り戻すために、関ケ原の戦いで西軍に味方します。しかし、関ケ原の戦いが東軍の勝利に終わったので、1600年(慶長5年)10月17日、最上氏は秋田氏のほか打越宮内少輔、仁賀保兵庫頭、赤尾津、滝沢又五郎など由利衆の援軍を加えた総勢約1万の軍勢で小野寺康道が守備する大森城を取り囲みます。大森城の城兵は約800名でしたが、天然の要害であることに加えて横手城主・小野寺義道から約300名の援軍が送られたことなどから、大森城兵の士気が高まり戦線が膠着状態に陥ります。その後、最上氏は積雪の季節を迎えて年内に大森城を落城させることは困難であると考え、一旦、小野寺氏と和議を結んで兵を引きます。その後、関ケ原の戦いの論功行賞で、横手城主・小野寺義道及び大森城主・小野寺康道は改易になります。 

f:id:bravi:20180429095124j:plain 【名称】大森城跡
【住所】秋田県横手市大森町高口下水戸堤
【備考】出羽国の情勢は、最上氏-仁賀保氏-秋田氏の勢力(北朝色)と、大江(寒河江)氏-矢島氏-小野寺氏(南朝色)の勢力の対立が背後にあったのではないかと推測します。

 

⑮大阪の陣

 打越氏(内越氏)は慶長出羽合戦(北の関ケ原の戦い)の軍功により馬廻衆徳川家康の直属部隊である旗本衆は積極的に戦闘に参加する先手衆と徳川家康の身辺を警護する馬廻衆に分かれ、馬廻衆は信頼厚く剣術や弓矢に秀でた上級旗本から選任されており、戦時は馬廻衆、平時は御書院番として将軍の身辺を警護。)に取り立てられます。1614年(慶長19年)、大坂冬の陣では、徳川家康大坂城の守りが比較的に薄く堺を守るのに適した茶臼山に本陣を構え、大身旗本・打越光久(本家Ⅰ)は本多正純、本多忠純、立花宗茂及び前田利孝らと共に本陣の後備えとして出陣しますが(番手組合之次第(8月16日付、秋元摂津守)/参186)、真田丸の奮戦など大坂城の守りが固く苦戦を強いられたことから豊臣氏に和議を申し入れます。その後、1615年(元和元年)5月1日、大坂夏の陣では、徳川家康は二条城を進発して南下を開始しますが、豊臣方からの内通者の情報で京へ火を放つ計画があることが判明し、その善処策を講じるために大坂城への進発を遅らせます(参187)。その後、徳川家康大坂城の総堀を埋め立て攻撃が容易になったことから生駒山麓に本陣を構え、大身旗本・打越光久(本家Ⅰ)は本多正純、本多忠純、立花宗茂及び前田利孝らと共に本陣の前備えとして出陣していますので、徳川家康の本陣へ突撃する真田幸村の軍勢と交戦している可能性があります。

f:id:bravi:20180716100032j:plain 【名称】真田丸三光神社
【住所】大阪府大阪市天王寺区玉造本町14−90
【備考】大坂冬の陣真田幸村が本陣を構えた真田丸。東郭にある地下道は、大坂城とつながっていると言われています。
f:id:bravi:20180716092703j:plain 【名称】茶臼山
【住所】大阪府大阪市天王寺区茶臼山町1−1
【備考】大坂冬の陣徳川家康大坂夏の陣真田幸村が本陣を構えた茶臼山大坂冬の陣で打越氏(内越氏)(本家Ⅰ)は徳川家康本陣後備え。
f:id:bravi:20180716092445j:plain 【名称】徳川家康本陣跡(大坂夏の陣
【住所】大阪府東大阪市豊浦町5
【備考】大坂夏の陣では、生駒山を背にして真田幸村の本陣である茶臼山とは対角線上に布陣。打越氏(内越氏)(本家Ⅰ)は本陣前備え。
f:id:bravi:20180716092550j:plain 【名称】真田幸村終焉の地(安居神社
【住所】大阪府大阪市天王寺区逢阪1丁目3−24
【備考】疲労困憊した真田幸村は、この境内にある松の下で腰かけていたところを敵に討たれます。
f:id:bravi:20190826052922j:plain 【名称】真田の抜け穴
【住所】和歌山県伊都郡九度山町九度山1378
【備考】真田幸村はこの抜け穴を使って幽閉されていた九度山から脱出し、大阪冬の陣へ向かったと言われています。
f:id:bravi:20190824084130j:plain 【名称】真田幸村の槍先(善名称院
【住所】和歌山県伊都郡九度山町九度山1413
【備考】真田幸村大阪夏の陣で実際に使用していた槍先です。
f:id:bravi:20190824080536j:plain 【名称】大阪城
【住所】大阪府大阪市中央区大阪城
【備考】正しくは大坂城と表記するようですが、その後、大阪城と表記が改められています。
f:id:bravi:20190824080311j:plain 【名称】大阪城跡(千貫櫓)
【住所】大阪府大阪市中央区大阪城
【備考】大阪城は日本一の高さを誇る石垣で有名ですが、伊賀上野城や二条城を手掛けた築城の名手・藤堂高虎によるものです。

 

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第2部第2巻 打越(内越)氏の合戦(第3段)

第3段 打越氏(分家Ⅱ)の合戦 

①神生の乱

 江戸重道の重臣・江戸道澄と神生右衛門は徳政令の実施を巡って対立し、江戸道澄が江戸重道を頼ってきたので、その子・江戸道升を援軍に差し向けたところ神生右衛門の返り討ちに合います。しかし、神生右衛門も常陸江戸氏の攻撃に耐え切れず、額田城の小野崎輝道を頼って落ち延びます。常陸江戸氏は小野崎氏に対して神生氏の引き渡しを要求しますが、小野崎氏がこれを拒否したので、1589年(天正17年)、常陸江戸氏は額田城を攻撃して落城させ、小野崎氏は結城氏を頼って落ち延びます。これにより江戸重道から額田城攻めに軍功があった家臣・打越刑部少輔に対して「額田において討敵の動比類なく候」という感状が送られますが(参21)、この乱で打越彦三郎は討死します(参188)。なお、神生の乱では、伊達政宗佐竹義重の家臣・小野崎氏に対して佐竹氏と離反して敵対すれば、その恩賞として常陸江戸氏の領地を与えるという条件で内応を促しており、これに対し、佐竹氏は、小野崎氏が敵対関係にある伊達氏へ内応する虞があったので、伊達政宗による常陸国への勢力拡大を阻止する意図もあって、常陸江戸氏へ援軍を送っています。

f:id:bravi:20180429100304j:plain 【名称】額田城跡(阿弥陀寺
【住所】茨城県那珂市額田南郷258
【備考】阿弥陀寺の境内を抜けると、額田城二の丸へと通じています。
f:id:bravi:20210522065252j:plain 【名称】額田城跡(本丸の堀)
【住所】茨城県那珂市額田南郷258
【備考】当時は1km四方に亘る巨大城郭でしたが、現在は堀や土塁の跡が僅かに残るのみです。

 

水戸城の戦い

 佐竹義宣は、江戸重通が小田原征伐に参陣しなかったことから水戸城の明け渡しを要求しますが、常陸江戸氏はこれを拒否したので、1590年(天正18年)12月、佐竹氏は常陸江戸氏征伐のために水戸城を攻撃します(注71)。江戸重通は手勢を率いて那珂川を渡河し佐竹氏を迎え討つ姿勢を示しますが、佐竹氏が水戸城を攻撃するために軍勢を二手に分けて進軍していることを察知し、水戸城へ籠城します。佐竹義宣(但し、佐竹義宣は上洛中であったのでその名代ではないかと思われます)が率いる本隊は太田→久慈川→後台→青柳→神生平と進軍し、また、佐竹義重が率いる別動隊は太田→村松→市毛原→勝倉→枝川と進軍して領内にある常陸江戸氏の支城(館)を次々に落としたうえで、水戸城の天王曲輪に突入して落城させ、江戸重通は結城氏を頼って落ち延びます。このとき水戸城を守備していた打越左京亮が討死します(参189)。

 

(注71)江戸氏に仕えた打越氏(分家Ⅱ)と佐竹氏に仕えた打越氏(分家Ⅲ)

打越(三郎兵衛)光重が出羽国由利郡から甲斐源氏発祥の地である常陸国へ移住し、佐竹義宣に直臣として召し抱えられていますが、打越氏(分家Ⅲ)は小田原征伐後に佐竹氏に仕官していますので、幸い常陸江戸氏に仕官していた打越氏(分家Ⅱ)とは敵味方に分かれて争うことはなかったものと思われます。 

f:id:bravi:20180430062237j:plain 【名称】水戸城跡(二の丸)
【住所】茨城県水戸市三の丸3-10-1
【備考】当初は本丸と二の丸の一部しかありませんでしたが、その後、二の丸と三の丸が拡充されています。
f:id:bravi:20180430062044j:plain 【名称】水戸城跡(大手門、二の丸)
【住所】茨城県水戸市三の丸9
【備考】三の丸から大手橋の向こうが二の丸です。江戸時代になり、二の丸の一部及び三の丸が拡張され、大手門が設けられました。
f:id:bravi:20210522070557j:plain 【名称】水戸城跡(大手門)
【住所】茨城県水戸市三の丸9
【備考】2020年、水戸城大手門が復元されました。
 

③元治甲子之変

 1864年(元治元年)3月、水戸藩尊攘派の藤田小四郎(藤田東湖の四男)は、江戸幕府が横浜港の鎖港(攘夷)を実施しないことに憤り天狗党(改革激派)を結成して筑波山で挙兵しますが、水戸藩左幕派の市川弘美は水戸城下で諸生党(保守派)を結成して対抗します。同年4月、将軍・徳川家茂は、朝廷から水戸藩主・徳川慶篤を責任者として横浜港の鎖港(攘夷)を実行するように命じられます。しかし、天狗党(改革激派)の一部が攘夷を口実に村々を恫喝して金品を徴収し、これに応じない村を放火して殺害するなど暴徒化したことから(金品の強要、放火など乱暴を働いた田中愿蔵らは7月に天狗党から除名処分)、同年6月、江戸幕府天狗党(改革激派)の追討令を出しますが、幕府軍天狗党(改革激派)に敗退します。同年7月、天狗党(改革激派)の決起に触発された長州藩尊攘派禁門の変を起こし、一気に尊王攘夷の機運が高まります。諸生党(保守派)は水戸城を掌握して江戸在府の水戸藩主・徳川慶篤の意向と関係なく藩政を動かすようになり、水戸藩主・徳川慶篤は内乱鎮圧のために水戸藩支藩の宍戸藩主・松平頼徳を名代として大発勢(改革慎派)を差し向けます。しかし、同年8月10日、失脚することを恐れた諸生党(保守派)は、大発勢(改革慎派)の水戸城入城を拒絶し、やむなく大発勢(改革慎派)は那珂湊へ布陣します。8月20日、大発勢(改革慎派)は水戸城下にある神勢館に進軍しますが、諸生党(保守派)は頑なに水戸城入城を拒否したので、8月22日に交戦状態に陥ります(参257)。8月25日、田沼意尊が率いる幕府軍が笠間に到着すると、一旦、大発勢(改革慎派)は那珂湊に退却します。当初、大発勢(改革慎派)は暴徒化した天狗党(改革激派)と行動を共にすることには消極的でしたが、諸生党(保守派)の工作により大発勢(改革慎派)と天狗党(改革激派)が同一視されるようになり、大発勢(改革慎派)も江戸幕府による追討令の対象に加えられ、同年9月1日、那珂湊に布陣する大発勢(改革慎派)は幕府軍及び諸生党(保守派)に包囲されます。このような経緯を経て、幕府軍と交戦状態に入った大発勢(改革慎派)に参加していた水戸藩目付方同心・打越(佐次郎)正只は、同年9月9日、梵天山麓久慈川畔(常陸国久慈郡島村郷/茨城県常陸太田市島町)で幕府軍と交戦中に討死します(享年43歳/靖国神社合祀)(参193)。再び、幕府軍那珂湊に布陣していた大発勢(改革慎派)を包囲しますが、大発勢(改革慎派)を率いていた宍戸藩主・松平頼徳は幕府の誤解を解くために苦慮し、同年9月26日、幕府軍から弁明の機会を与えるという名目で誘い出されますが、同年10月5日、事態の発覚を恐れた諸生党(保守派)により弁明の機会を与えられることなく騒動の責任をとる形で切腹させられます。同年10月23日、松平頼徳の自刃を知った大発勢(改革慎派)は幕府軍に投降し、それぞれ佐倉藩や古河藩等にお預けとなります。このとき大発勢(改革慎派)に加わっていた打越貞助は、佐倉藩佐原陣屋(藩主・堀田(相模守)正倫)にお預けとなりますが(参194)、その後の打越貞助の記録が残されていませんので、若年であったため斬首にならず放免された可能性があります。幕府軍に投降しなかった天狗党(改革激派)の一部は、京にいる徳川慶喜を頼って上洛を試みますが、徳川慶喜が自ら軍勢を率いて天狗党(改革激派)の鎮圧に乗り出すと恭順の姿勢を示して武装解除し降伏します。これにより諸生党(保守派)が水戸藩を実効支配することになり、天狗党(改革激派)や大発勢(改革慎派)の家族らをことごとく処刑します。その後、戊辰戦争が勃発すると、立場が逆転した諸生党(保守派)は劣勢となり、1868年(明治元年)10月、弘道館戦争で諸生党(保守派)の内越(打越)所一郎が水戸城三の丸で討死します(参195)。明治維新後に諸生党(保守派)の水戸藩士は謀反首謀により家名断絶となりますが、1892年(明治25年)に家名再興と士族編入を願い出て許可され、そのなかに打越惣衛門(目見格)の名前もあります(参196)(注72)。 

 

(注72)元治甲子之変の打越氏(内越氏)

元治甲子之変では、水戸藩士・打越氏(分家Ⅱ)は大発勢と諸生党に分かれて争ったようです。また、水戸藩内の各村に対して天狗党及び諸生党の双方から人数を出すように要請があり、村の安全を守るために双方に協力せざるを得なかった事情があったようで、帰農していた打越家(分家Ⅱ)の庶流は天狗党及び諸生党のそれぞれに人を出しています。当時、大戸村庄屋であった打越惣衛門は水戸藩士(目見格)として諸生党に参加しています。  

f:id:bravi:20210522105703j:plain 【名称】筑波山
【住所】茨城県つくば市筑波1
【備考】1864年(元治元年)、藤田小四郎は攘夷断行・横浜鎖港を主張して天狗党(改革激派)を結成し、筑波山で挙兵して幕府軍及び諸生党(保守派)と交戦状態になります。
f:id:bravi:20200618081324j:plain 【名称】薬王院
【住所】茨城県水戸市元吉田町665
【備考】水戸藩主・徳川義篤は水戸の内乱を鎮撫するために名代の宍戸藩主・徳川頼徳を向かわせますが、諸生党(保守派)が水戸城入場を拒否したので薬王院へ移ります。
f:id:bravi:20210522080427j:plain 【名称】郷校・敬業館
【住所】茨城県ひたちなか市山ノ上町1−1
【備考】徳川頼徳は、願入寺の戦いで諸生党(保守派)に勝利すると、那珂湊の郷校・敬業館に本陣を移します。
f:id:bravi:20210522075307j:plain 【名称】神勢館
【住所】茨城県水戸市若宮2-6-22
【備考】大発勢(改革慎派)は神勢館へ本陣を移し、水戸城入場を交渉しますが、諸生党(保守派)はこれを拒否。幕府軍が笠間に到着したので、一旦、徳川頼徳は那珂湊へ退却。
f:id:bravi:20190630090012j:plain 【名称】梵天山と島古戦場
【住所】茨城県常陸太田市島町
【備考】久慈川河畔で幕府軍と戦闘になり、大発勢(改革慎派)・打越(佐次郎)只正が討死し、明治維新の功労者として靖国神社に合祀されます。
f:id:bravi:20210522080716j:plain 【名称】部田野原の戦い
【住所】茨城県ひたちなか市部田野2792
【備考】大発勢(改革慎派)と天狗党(改革激派)は、激戦の末、幕府軍と諸生党に勝利します。
f:id:bravi:20210522080004j:plain 【名称】磯浜海防陣屋跡
【住所】茨城県東茨城郡大洗町
【備考】大発勢は徳川斉昭が異国船に対する警備強化のために設けた磯浜海防陣屋を占拠して、そこを本営とします。
f:id:bravi:20210623150807j:plain 【名称】日和山
【住所】茨城県ひたちなか市湊中央1-1
【備考】大発勢(改革慎派)は徳川頼徳が切腹させられたと知り日和山幕府軍に投降。大発勢・打越貞助が佐倉藩にお預けになります(その後放免された可能性あり)。
f:id:bravi:20210522080442j:plain 【名称】武田耕雲斎の墓(妙雲寺)
【住所】茨城県水戸市見川2-103
【備考】天狗党(改革激派)の代表者で、京都へ向けて進軍中に敦賀幕府軍に捕えられ、藤田小四郎と共に斬首されます。
f:id:bravi:20210522074827j:plain 【名称】藤田小四郎の墓(常盤共有墓地)
【住所】茨城県水戸市松本町13−34
【備考】天狗党(改革激派)を主導した藤田小四郎(藤田東湖の子)の墓。
f:id:bravi:20210522110318j:plain 【名称】水戸殉難志士の墓(回天神社)
【住所】茨城県水戸市松本町13−33
【備考】天狗党(改革激派)を含む水戸殉難志士が葬られています。
f:id:bravi:20210522081718j:plain 【名称】市川弘美の墓(祇園寺)
【住所】茨城県水戸市八幡町11−69
【備考】諸生党(保守派)の代表者で、明治維新で処刑されています。
f:id:bravi:20210522081615j:plain 【名称】門閥勢の慰霊碑(祇園寺)
【住所】茨城県水戸市八幡町11−69
【備考】門閥派の代表・市川弘美の墓と共に、門閥派の慰霊碑が安置されています。
f:id:bravi:20210522080730j:plain 【名称】幕府追討軍隊士の墓(長福寺)
【住所】茨城県水戸市塩崎町1135
【備考】大発勢は、長福寺に布陣していた幕府軍本陣に投降しています。
f:id:bravi:20200323190359j:plain 【名称】福島藩士の墓
【住所】茨城県ひたちなか市中根堂山1439
【備考】幕府軍の援軍として出陣した福島藩士の墓です。
f:id:bravi:20210522080702j:plain 【名称】宇都宮藩士の墓
【住所】茨城県ひたちなか市田彦540−8
【備考】幕府軍の援軍として出陣した宇都宮藩士の墓です。
f:id:bravi:20210522081316j:plain 【名称】弘道館
【住所】茨城県水戸市三の丸1丁目6−29
【備考】弘道館戦争で、諸生党(保守派)の内越(打越)所一郎が討死します。
f:id:bravi:20210522074735j:plain 【名称】関鉄之助の墓(常盤共有墓地)
【住所】茨城県水戸市松本町13−34
【備考】明治維新の契機となる桜田門外の変を主導した関鉄之助の墓。映画「桜田門外ノ変」では俳優の大沢たかおさんが主演しています。
f:id:bravi:20210620204909j:plain 【名称】彦根藩井伊家上屋敷跡(桜田門
【住所】東京都千代田区永田町1丁目1
【備考】彦根藩井伊家上屋敷から眺める桜田門大老井伊直弼内堀通り沿いを桜田門に向かう途中で桜田門外の変が発生します。桜田門の向こう側に次の時代を夢見ていたのかもしれません。

 

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第2部第2巻 打越(内越)氏の合戦(第4段)

第4段 打越氏(分家Ⅲ・分家Ⅳ)の合戦

シャクシャインの戦い

松前藩は、アイヌ民族との交易を独占していましたが、アイヌ民族に不利な交易条件を強いていたことから、アイヌ民族が幾度となく蜂起を繰り返します。そのような状況のなか、1668年(寛文8年)、アイヌ民族は漁猟権を巡る民族間の争いのために松前藩に武器の提供を要望しますが、その使者が帰途に疱瘡を罹患して死亡します。これを松前藩の毒殺であるという風聞が広まり、予ねてからの交易条件に対する不満も相俟って、1669年(寛文9年)6月、シャクシャインは各地のアイヌ民族に対して松前藩への蜂起を呼び掛け、これにより約2千人が蜂起します。当初、松前藩は劣勢で江戸幕府に援軍を求めますが、江戸幕府久保田藩佐竹氏、津軽藩津軽氏及び盛岡藩南部氏に松前藩への援軍を要請します。これを受けて佐竹義隆は、杉山吉成(石田三成の嫡孫)を大将として、御使番大将(25名の部隊を指揮)・打越勘左衛門(参109)、御使番・打越甚左衛門(先陣(参133))、大鼓役(陣太鼓を打ち鳴らして軍勢に本陣からの指示を伝える役目)・打越伊左衛門ら約700名の援軍を派遣し(参134)、松前城下の警備にあたります。これにより鉄砲等の装備が充実した松前藩は優勢となり、同年11月、松前藩アイヌ民族が賠償に応じることを前提としてアイヌ民族を助命するという条件でシャクシャインと和睦します。しかし、その和睦の酒宴で松前藩シャクシャインを謀殺し(第二次紀州征伐の湯川直春、小田原征伐北条氏政や九戸の乱の九戸政実などの例も同じ)、その翌日にシャクシャイン城が陥落します。その後、松前藩は、アイヌ民族に不利な交易条件の一部を見直す一方で、七ヵ条の起請文に誓約させることでアイヌ民族に対する経済的及び政治的な支配を強めます(参254)。

f:id:bravi:20210516201525j:plain 【名称】松前城福山城
【住所】北海道松前郡松前町松城144
【備考】若狭を出奔した武田信広は、アイヌ民族との交易を行っていた蠣崎季繁(元陸奥国土豪)の養嗣子となり、その後、コシャマインの戦いを平定します。松前氏の祖。
f:id:bravi:20210516201510j:plain 【名称】シャクシャイン城跡
【住所】北海道日高郡新ひだか町静内真歌7
【備考】シャクシャインは、静内川東岸に面した断崖丘陵にあるシャクシャイン城を本拠とし、日高から松前に向かって進軍します。
f:id:bravi:20210516201502j:plain 【名称】英傑シャクシャイン
【住所】北海道日高郡新ひだか町静内真歌7
【備考】北海道胆振東部地震で英傑シャクシャイン像(写真)も被害に遭い、現在は別の像に建て替えられています。
f:id:bravi:20210516201518j:plain 【名称】ウポポイ(民族共生象徴空間)
【住所】北海道白老郡白老町若草町2-3
【備考】国連の勧告を踏まえた国会決議で、2020年、アイヌ民族の文化を尊重し、継承するための博物館が開館します。
f:id:bravi:20210516201430j:plain 【名称】知里幸恵の墓
【住所】北海道登別市富浦町188-1
【備考】アイヌ民族知里幸恵(登別出身)は、言語学者金田一京助の支援のもと、アイヌユーカラの中から神謡13篇を選んで日本語に翻訳したアイヌ神謡集を出版します。叔母・金成マツさんの墓の横に安置されています。
f:id:bravi:20210516201414j:plain 【名称】金田一京助の旧居跡
【住所】東京都文京区本郷4丁目11−6
【備考】知里幸恵は、金田一京助の自宅に下宿しながらアイヌ神謡集を編訳しますが、1922年(大正11年)、アイヌ神謡集が完成した日の夜に持病の心臓疾患により19歳の若さで急逝します。

 

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第2部第2巻 打越(内越)氏の合戦(第5段)

第5段 打越氏(本家Ⅱ・本家Ⅲ)の合戦 

①安宅一乱

 安宅実俊は那智山別当家の娘を正室に迎えて紀伊水道制海権を握る一大水軍を率いて隆盛を極めますが、1526年(大永6年)、安宅実俊が病没し、その子・安宅安定が15歳になるまでの間はその弟・安宅定俊が家督を継ぐことになります。1530年(享禄3年)11月、安宅安定が安宅定俊に対して家督の返還を求めたところ家督争いが生じ、安宅安定は苦戦を強いられて那智山別当家を頼り落ち延びます。その後、安宅安定は安宅水軍を使って海上から安宅定俊の居城である八幡山城を包囲し、ついに安宅定俊を自刃に追い込みます。しかし、勝山城を居城とする安宅定俊の子・安宅安次丸が生き残り、安宅安定と安宅安次丸との間で戦いが続きます。この際、安宅安定と安宅安次丸はそれぞれ近隣の国人や土豪に援軍を要請しますが、やがて援軍同士が独自に衝突するようになり安宅氏は没落します。

 このような状況のなか、安宅定俊に味方した日高郡の玉置庄司は、安宅安定から淡路国阿波国を奪うために挙兵し、近隣の国人や土豪に出陣を要請しますが、そのなかに湯浅氏や津田氏らと共に打越氏の名前があります。玉置庄司は、安宅安定の重臣・大野相模守を討ち取るなど戦果を挙げますが、やがて劣勢になり、1531年(享禄4年)1月、日高郡へ撤退します(参43)。

 これが関西地方で打越氏の名前が登場する最古の記録ではないかと思われます。

f:id:bravi:20210516201438j:plain
f:id:bravi:20210326115907j:plain 【名称】八幡山城(詰め城)
【住所】和歌山県西牟婁郡白浜町矢田555
【備考】安宅定俊の居城・八幡山城(詰め城)跡。安宅安定の家老が安宅定俊に対し甥・安宅安定へ家督を返還するように求めたことから家督争いが勃発。
f:id:bravi:20210326115926j:plain 【名称】大野城
【住所】和歌山県西牟婁郡白浜町大古
【備考】安宅安定の重臣大野城主・大野相模守が家督を返還しない安宅定俊の居城である八幡山城を攻めますが、その守りが固く撤退します。
f:id:bravi:20210522125817j:plain 【名称】安宅本城(下屋敷
【住所】和歌山県西牟婁郡白浜町安宅106
【備考】安宅定俊は大野相模守を撃退した後、安宅安定の居城である安宅本城を攻めて焼失させます。
f:id:bravi:20210522125651j:plain 【名称】勝山城
【住所】和歌山県西牟婁郡白浜町塩野
【備考】安宅安定は安宅水軍を使って八幡山城を包囲し安宅定俊を自刃に追い込みますが、その子・安宅安次丸が勝山城に立て籠り、膠着状態に陥ります。
f:id:bravi:20210522130027j:plain 【名称】宝勝寺
【住所】和歌山県西牟婁郡白浜町矢田423
【備考】安宅氏の菩提寺。安宅氏はこの乱で衰退しますが、淡路島に本拠を移して三好長慶小笠原長清の後裔)の弟・三好冬康を婿養子に迎えて家督を継がせ、その子・安宅信康は淡路水軍を率いて第一次木津川合戦で毛利水軍に味方。

 

石山本願寺合戦(本庄城の戦い)

 1570年(元亀元年)、一向一揆に手を焼いた織田信長石山本願寺法主顕如上人に対して本願寺を破却すると通告してきたことを契機として約10年に及ぶ石山本願寺合戦が開始されます。1576年(天正4年)、顕如上人は毛利輝元に庇護されていた将軍・足利義昭に加勢するという名目で挙兵し、これに対して織田信長石山本願寺を完全に包囲します。顕如上人が毛利輝元に援軍を要請したので、毛利水軍約800艘は兵糧や弾薬等を積んで石山本願寺へ来援します。織田信長は織田水軍300艘で石山本願寺の水運路である木津川口を閉鎖しますが、毛利水軍の焙烙玉や雑賀衆焙烙火矢により焼き払われて全滅し、石山本願寺に兵糧や弾薬等を運び込むことに成功します(第一次木津川口合戦)。このとき雑賀衆石山本願寺の51支城の1つで石山本願寺の水運路である木津川口(現、淀川(旧、中津川)及び大川(木津川口))を守備する拠点・本庄城(大阪府大阪市北区本庄東3-10−7周辺、毛馬水門の近く)に籠城して対抗しますが、「総じて大坂に籠る所、諸国の僧多しと雖も、其功を建つる事、雑賀の者第一たり。其中にも総軍の駈引の謀主は、鈴木源左衛門也。先陣の武将は、山内三郎大夫、高柳監物、西ノ口平内大夫、原平馬、天井浜主計。遊兵として弱きを扶け、敵の横合を打つ者の武将には、高松三充、打越藤左衛門、津屋十郎左衛門、高仏十郎次郎、土橋平次郎、和歌藤左衛門等、何れも鳴世の武士にて、毎時戦功出群せしとかや。」(参31、陰徳太平記下巻第53/参190)とあるとおり、打越藤左衛門の武勇が敵味方の間で有名(鳴世)を馳せたという記録が残されています。この合戦に敗退した織田信長は、戦況を打開するために、1577年(天正5年)、石山本願寺に加勢する雑賀衆を討伐します(第一次紀州征伐)。これに対して雑賀(鈴木)孫市を中心とする雑賀衆は雑賀城に籠城して抵抗しますが、戦線が膠着状態に陥ったことから、織田信長の和議申入れに対し、石山本願寺に一定の配慮を行うことを条件として和議に応じ、織田信長もこれを受け入れます。その後、1579年(天正7年)、顕如上人は、第二次木津川口合戦で毛利水軍が撃退されたので、朝廷からの和議斡旋を受け入れて織田信長と和議を結ぶことを決意します。顕如上人は、石山本願寺を退去して渡辺津の八軒家浜着船場(熊野詣の海上交通の拠点として栄えた場所)から船で鷺森別院(雑賀御坊)へ移ります。石山本願寺雑賀衆は寺領や惣領を自治する国家体制(共和制)を目指していたのに対し(近現代の権力分散型社会)、織田信長封建制的な国家体制(独裁制)を目指していた(中近世の権力集中型社会)という意味でイデオロギーの対立の戦いでもありました。(第2部第2巻第2段の⑤へ続く) 

f:id:bravi:20190701212555j:plain 【名称】本庄城跡
【住所】大阪府大阪市北区本庄
【備考】石山本願寺の51支城の1つで淀川(中津川)及び大川(木津川口)を抑える拠点・本庄城を打越藤左衛門(本家Ⅱ)が守備して軍功をあげます。
f:id:bravi:20190824091318j:plain 【名称】石山本願寺
【住所】大阪府大阪市中央区大阪城2−2
【備考】大阪城の城内に石山本願寺跡があります。顕如上人は、織田信長と和議を締結して鷺森別院(雑賀御坊)に移ります。

 

石山本願寺合戦(鷺森城の戦い)

 (第2部第2巻第5段の②から続く)1580年(天正八年)、本願寺法主顕如上人は朝廷からの和議斡旋を受け入れて織田信長との和議に応じ、石山本願寺(大阪)から退去して鷺森別院(雑賀御坊)に移りますが(鷺森別院は打越氏(本家Ⅱ)の発祥地である海部郡雑賀荘にあり、かつてこの地に梛(なぎ)の大木に白鷺が棲んでいたという伝承に由来して鷺森と名付けられます。)、この際、顕如上人から出羽国の打越正義(分家Ⅰ)に援軍要請があり、その名代として弟・打越三郎左衛門を鷺森別院(雑賀御坊)へ派遣し、楠木正意らと共に鷺森別院(雑賀御坊)を守備しています。なお、顕如上人は、長男・教如(強硬派)が石山本願寺に籠城して抵抗を続けたので、一時、教如を義絶しますが、本能寺の変の後、教如の義絶を赦免します。1592年(文禄元年)、顕如上人が入滅すると教如本願寺法主の座を承継しますが、1593年(文禄2年)、豊臣秀吉教如に隠退を命じ、その弟・准如(穏健派)に本願寺法主の座を譲らせます。1593年(慶長3年)に豊臣秀吉が逝去すると、教如徳川家康から寺領を寄進されて東本願寺真宗大谷派)を分立し、准如西本願寺本願寺派)と2派に分かれます(徳川家康が支援する教如東本願寺真宗大谷派)と、豊臣秀吉が支援する准如西本願寺本願寺派))。なお、楠木正意は顕如上人が入滅すると出羽国由利郡打越郷へ遁れます(参3)。 

f:id:bravi:20181231093308j:plain 【名称】本願寺鷺森別院(雑賀御坊)
【住所】和歌山県和歌山市鷺ノ森1
【備考】石山本願寺合戦で織田信長と和睦した顕如上人が打越氏(本家Ⅱ)の発祥地に移ります。なお、楠木正意と打越三郎左衛門(分家Ⅰ)が鷺森別院を守備します(参3、11)。

 

(注61)雑賀衆の活躍を扱った映画、アニメ

 毎年、鷺森御坊(雑賀御坊)で「孫市まつり」が開催されています。また、雑賀衆の頭領・雑賀(鈴木)孫市を主人公とした映画「尻啖え孫市」予告編)は有名ですが、現在、資金不足で本編の撮影は行われていませんが、映画「SAIKA~信長を震撼させた男たち~」パイロット版予告編)がインターネットで公開されています。さらに、雑賀衆を扱ったアニメ「天下統一恋の乱~出陣!雑賀4人衆~」がインターネットで配信されています(第一話無料配信中)。

  

紀州征伐(岸和田合戦等)

 1583年(天正11年)、豊臣秀吉紀州を攻略するために中村一氏岸和田城に入れ、本願寺顕如上人に鷺森御坊(紀伊国雑賀荘)から貝塚御坊(和泉国南郡)への移転を命じます(参226)。これに対して雑賀衆及び根来衆は畠山貞政を旗頭として近木川沿いに千石堀城、積善寺城、沢城等の付城を築き、湯川氏と軍事同盟を結んで対抗します。これに土橋氏や佐武氏等と共に打越氏が参陣します(参190、225)。1584年(天正12年)、豊臣秀吉は、小牧・長久手の戦いに出陣しますが、この機に乗じて雑賀衆及び根来衆は約5千の手勢で岸和田城を攻撃すると共に、別動隊を堺に派遣して占領し、その勢いで生駒親正らが守備する築城中の大阪城を急襲します。このため、小牧・長久手の戦いに出陣した豊臣秀吉は途中で大阪に戻っており、気勢を制せられています。1585年(天正13年)、豊臣秀吉は、雑賀衆及び根来衆に対して和睦を申し入れますが、その交渉が決裂したことから約10万の軍勢で千石堀城、積善寺城、沢城等の付城を攻撃します。雑賀衆及び根来衆は城内から鉄砲を一斉に撃ち掛けて敵に大損害を与える奮戦振りを見せ、千石堀城の戦いでは僅か約1時間の戦闘で豊臣秀次の軍勢に約1000人の死傷者が出たと言われています。しかし、衆寡敵せず、千石堀城及び沢城等は落城し、貝塚御坊の仲介で積善寺城が開城降伏します。その後、豊臣秀吉は、岸和田城を出陣し、根来寺及び粉河寺を焼き討ちします。雑賀衆は、岡氏の寝返りによって総崩れとなり、船で阿波、山陰地方や長宗我部元親を頼って土佐等へ逃亡する者が後を絶ちませんでしたが(参234)、佐武氏らは雑賀城に籠城して抗戦を続けます。また、その他の雑賀衆の残党は太田城に籠城して徹底抗戦しますが、豊臣秀吉による水攻めにより太田城は落城します(高松城及び忍城と並んで、日本三大水攻めの1つと言われています)。その後、畠山貞政は岩室城が落城して敗走しますが、湯川直春はゲリラ戦を展開して抵抗を続け、これに手を焼いた豊臣秀吉は湯川直春と和睦します。その後、1586年(天正14年)、湯川直春は大和郡山城で豊臣秀長に拝謁した直後に急死します(豊臣秀吉による毒殺説)(第1部第1巻第4段を参照)。 

f:id:bravi:20210326115443j:plain 【名称】岸和田城
【住所】大阪府岸和田市岸城町9-1
【備考】楠木氏の一族・和田高家が築城した城。豊臣秀吉紀州征伐の拠点とするために中村一氏を入城させて雑賀衆及び根来衆に対抗します。
f:id:bravi:20210326115545j:plain 【名称】大野城
【住所】和歌山県西牟婁郡白浜町大古
【備考】安宅安定の重臣大野城主・大野相模守が家督を返還しない安宅定俊の居城である八幡山城を攻めますが、その守りが固く撤退します。
f:id:bravi:20210326115709j:plain 【名称】高井城跡
【住所】大阪府貝塚市名越714
【備考】雑賀衆及び根来衆は、中村一氏岸和田城に入ると、近木川沿いに複数の付城を築いて対抗します。
f:id:bravi:20210522165627j:plain 【名称】太田城水攻め堤防跡
【住所】和歌山県和歌山市出水64−3
【備考】高松城忍城と並んで日本三大水攻めの1つ、太田城和歌山県歌山市太田2−3−7)の水攻めのための堤防跡。
f:id:bravi:20210522150009j:plain 【名称】岩室城跡
【住所】和歌山県有田市宮原町
【備考】畠山政貞は、岩室城に籠城して抵抗を続けますが、その後、落城して敗走します。
f:id:bravi:20210522152221j:plain 【名称】龍松山城
【住所】和歌山県西牟婁郡上富田町市ノ瀬1957
【備考】湯川直春は亀山城、泊城、龍松山城と退却しながら神出鬼没のゲリラ戦を展開して豊臣軍を籠絡します。

 

⑤大阪の陣

1615年(慶長19年)、大阪夏の陣で東軍の浅野氏が出陣している隙を狙って、西軍に味方する吉野、北山及び紀伊の百姓等が北山一揆を起こし、浅野氏の家臣・戸田勝直が守備する新宮城に迫ったことから、湯川五兵衛が紀伊国木本村の土豪・打越左衛門尉(打越左介)に援軍を要請する書状を発します。打越左衛門尉(打越左介)は戸田勝直に加勢して一揆の撃退に成功し、褒美を受けます(参191、192)。

f:id:bravi:20210522151608j:plain 【名称】新宮城
【住所】和歌山県新宮市新宮7691−1
【備考】関ケ原の戦いにより浅野長政の弟・浅野幸長紀伊国へ加増国替えとなり、その叔父・浅野忠良が新宮へ派遣され、熊野川沿岸に新宮城を築城します。

 

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第3部第1巻 打越瀬左衛門の日記(1689年)

     
 
【現代語訳(意訳)】
 
 元禄2年(1689年己巳)1月27日 一日中、小雨が降っている。丸山重平から助三郎という者が書き写した江戸但馬守重通の書状を出版する予定だが、その所持者として水戸藩士、打越瀬左衛門の名前を併記したいと考えているが可能かという照会があったので、その返事を書いた。
 
貴殿へ与えられる約束であった恩賞が未だに与えられていないが、以前から申し上げているとおり恩賞が与えられる約束に変更はない。但し、私の考えでは、新たに恩賞として与えられる谷原(地名)について、いまそのことを公表してしまうと(佐竹氏から)お咎を受けるかもしれないので、これまでとおり対応するのが良いであろう。
 

天正17年(1589年己丑)6月21日

通長判

打越豊後守殿

 
 このような書状が残っているが、この書状は助三郎が原本を見ていると記憶している。
 
この豊後守は打越刑部少輔の父である。徒士を統率していたとのことである。佐竹氏の家臣に河合甲斐守という侍大将がいて、上筋の放火で消火に出動するまでは三多田村赤坂という所に留まっていたと伝え聞く。
 
 このような証文も残っているが日付もないため、本物であるか分からない。
 
この度、額田城攻めに参陣し、大いに活躍されたので、いずれ(佐竹氏から)恩賞が与えられるであろう。
 

天正17年(1589年己丑)5月11日

重通判

打越刑部少輔殿

 
 この書状は助三郎が原本を見て書き写したものであり、その大意を書き写したものと聞いている。なお、打越刑部少輔は助七郎と言って12歳から北条氏へ(人質として)送られ、額田城攻めが初陣であった。打越刑部少輔の妻は江戸重通の姪であり、江戸宮内大輔の娘である。
 
 今般、江戸重通の書状を出版するにあたって、他に江戸重通の書状等を所持していないかという照会を受けたが、最初は協力するつもりがなかったので捨て置いた。しかし、将軍徳川綱吉様が天保の改革で江戸氏を再評価され、江戸氏及びその旧臣の名声が後世まで伝えられることになったので、このうえない喜びである。これらの書状を書き写した助三郎及び関係者のお蔭でもあると思うので、やはり協力することにして、その旨を丸山重平へ返事する。
 
(注73)打越瀬左衛門日記の意義
 これらの書状は、常陸江戸氏が佐竹氏から一家同位の扱いを受けていたにも拘わらず、その一方で、佐竹氏の顔色を窺って自らの家臣への恩賞も侭ならない微妙な立場に置かれていた状況が垣間見られるもので興味深いです。常陸江戸氏は、このような微妙な立場に置かれていたことから、主家である佐竹氏と対立していた北条氏とも接近してマルチ外交を展開せざるを得なかったのではないかと思われます。将軍綱吉から天保の改革常陸江戸氏がどのように再評価されたのか仔細は不明ですし、助三郎なる者が書き写した書状が常陸江戸氏の再評価につながったとも考え難いですが、この日記からは常陸江戸氏の旧臣を祖先に持つ打越瀬左衛門の興奮振りが伝わってくるようで、誠に愛すべき御仁です。 
 

第3部第2巻 打越専三郎の日記(1863年)

 
 2018年は明治維新150年目の節目にあたりますが、打越専三郎の書留には幕末勤王の志士達に影響を与えて明治維新の原動力となった水戸学の思想や時代の空気感が比喩的に語られており興味尽きせぬものがあります。
 
【現代語訳(意訳)】
 
▽「忠義」に関する書留(写真中央)
 この掛け軸は大忠院様からのご寄付で、「忠義」の二文字は水戸黄文光綱公の直筆であり名筆です。表装を見ると、別天地は大和錦で、一文字風袋(用紙の上部に置かれた細い布)は御所裂、両縁は筑波染め、軸は古木の楠です。布は花地の紋で十六菊に三つ葵の紋様です。本当に名高い掛け軸です。また大切な箇所に矢の紋様入りとなっています。
 
(注74)打越専三郎日記の意義①
 この掛軸(メタファー)は「大忠院」(=偽名、徳川斉昭のこと)からの寄付で、これに標されている「忠義」の2文字は「光經公」(=偽名、徳川光圀のこと ※經とは、教えのこと)の名筆であると由来を語り、この掛軸の上部には「御所裂」(=天皇)、両側には「筑波染め」(=水戸藩尊王攘夷派)、軸には「古木の楠」(=楠木正成)、布には「十六菊」(=皇室の家紋)と「三つ葵」(=徳川氏の家紋)があしらわれ、大切な個所には「」(=命を惜しまない忠義)が加えられていると解説を加えています。これは楠木正成による忠義の本分を引き合いに出しながら徳川光圀徳川斉昭が説いた「尊王幕」の考え方を比喩的に表現したものと解されますが、やがてこの考え方が時代の潮流に乗って「尊王幕」(明治維新)へと傾斜して行くことになります。なお、徳川斉昭(烈公)は、その子の徳川慶喜に対して、徳川光圀(義公)以来の水戸家の家訓として「水戸家が将軍家を助けることは当然だが、万一、朝廷と将軍家との間に争いが生じることになった場合でも、水戸家が朝廷と敵対することがあってはならない。」(徳川慶喜公伝より烈公の遺訓)と忠義の本分を諭していますが、これが幕末日本を壊滅的な内乱状態に陥らせずに江戸無血開城へと導くことになります。 
 
 ▽「輿」に関する書留(写真右)
 この輿は、西国で名高い「別け片端の輿」というものです。昔、この国の大将が異国と交流することについて議論しましたが、皆の意見が一致しないので大将は憤慨し、馬に繋がれていた輿を引き裂いて投げ捨てました。すると不思議なことに、この輿の半分は異国へ飛んで行き、残りの半分は皇国(日本)に残りました。現在、この輿を使用する際は、輿の片方だけでは大変に不都合なので、もう片方の輿に太い綱をつけて引いているそうです。
 
(注75)打越専三郎日記の意義②
 古来、輿は「」(=天皇)の乗り物とされていますが、この「西国の輿」(輿の片方)の車輪には「薩摩藩の家紋」らしき挿絵があしらわれています。この国の外交政策が国民的な議論(=佐幕開国派と尊王攘夷派の対立)に発展して紛糾していたところ、この国の大将(=井伊大老)は業を煮やして国論(輿)を分断し、この国の重心を外国の力に頼って生き延びる政策へとシフトしましたが、この国の重心を「皇国」(天皇による統治)に置いて国力を蓄えながら外国と対等な関係を構築する政策を支持する者も多く、このままでは国(車輪)が上手く回らないので、佐幕開国派(輿のもう片方)に綱をつけて何とかこの国(輿)を牽引して行こうとしている苦衷が昔話風に吐露されています。この記述を見ると、幕末の志士達が何とか議論を重ねて国論を統一しようとしていたところに(民主的プロセス)、大老井伊直弼が国論の統一又は十分な議論の成熟を見ないままに外圧に押されて独断で事を進めたので(独裁的プロセス)、それが「尊王幕」から「尊王幕」へと時代を加速させていった状況が読み取れます。その意味では、開国か攘夷かという外交政策上の問題もさることながら、この国の統治の仕組みに係る根本的な問題に及ぶ書留になっており、近世的な価値観と近代的な価値観の鬩ぎ合いが感じられる非常に興味深い内容です。 
 

第4部第1巻 甲斐源氏にゆかりの場所(前史)

清和天皇陵(京都府京都市右京区嵯峨水尾北垣内町11
清和天皇社(京都府京都市右京区嵯峨水尾宮ノ脇町58
六孫王神社京都府京都市南区八条町509
清和天皇第56代・清和天皇の第6皇子の子が臣籍降下して源氏を称します。 清和天皇清和天皇を祭神として祀る清和天皇社。その横には清和天皇崩御された円覚寺があり、また、清和天皇の第6皇子・貞純親王の供養塔(宝篋印塔)も安置されています。 六孫王神社清和源氏発祥の地)/清和天皇の第6皇子・貞純親王の子、経基王(六孫王)が臣籍降下して源経基を名乗ったことが清和源氏の発祥となります。 六孫王神社清和源氏発祥の地)源経基六孫王神社がある場所に館を構えています。 六孫王神社清和源氏発祥の地)源経基の遺骸は、その子・源満仲六孫王神社の本殿の裏手にある石積の神廟に埋葬されています。
多田神社兵庫県川西市多田院多田所町1-1
多田神社源経基の子で多田源氏の祖・源満仲を祀っています。 多田神社平忠常の乱を平定した源満仲の子・源頼信の孫・源義家及び源義光甲斐源氏の祖)は前九年・後三年の役で奥羽を平定し、1092年(寛治6年)に凱旋して源満仲の祠を建立。 徳川光圀公手植銀杏/徳川氏は多田源氏河内源氏の棟梁・新田氏の庶流・得川氏(得川→徳川)の末裔を称しています。 三ツ矢サイダー発祥の地/三ツ矢伝説(源満仲が三つ矢羽根の矢が落ちた多田に館を構えた)の地から炭酸ガスを含む良質の鉱泉が湧くので炭酸飲料が製造されるようになり、「三ツ矢タンサン」と命名  
①壷井八幡宮大阪府羽曳野市壷井605
②通法寺跡(大阪府羽曳野市通法寺御廟谷38
新羅善神堂(滋賀県大津市山上町11-34
壺井八幡宮河内源氏発祥の地)/1020年(寛仁4年)、源満仲の子・源頼信が館を構え、1031年(長元4年)に平忠常の乱を平定して源氏による東国支配の基盤を作ります。 壺井八幡宮河内源氏発祥の地)/境内には樹齢1000年になる楠があります。なお、河内源氏と楠木氏との間には歴史的な地縁関係があり、それが打越氏の発祥に大きく作用しています。【河内国石川郡】:河内源氏の発祥地と楠木氏の支配地⇒【常陸国那珂郡】:河内(甲斐)源氏の発祥地と楠木正家(常陸楠木氏)の支配地⇒【出羽国由利郡】:河内(甲斐)源氏小笠原(大井)氏の支配地と打越氏(楠木正家後裔)の発祥地 壺井の井戸/1057年(天喜5年)、源頼義前九年の役旱魃に苦しめられますが、岸壁に弓矢を放ったところ清水が沸いて難を逃れました。その清水を壺に入れて持ち帰り館内に井戸を掘って埋め壺井水と名付けました。 源頼信の墓源満仲の三男で、河内源氏の祖。1031年(長元4年)、平忠常の乱を平定し、河内源氏の東国進出を果たす。 源頼義の墓源頼義の子で、鎌倉を本拠として鶴岡八幡宮を建立しています。その後、鎮守府将軍として多賀城へ入り、前9年の役を戦っています。
源義家の墓源頼義の長男で、陸奥守として後三年の役を戦い、出羽国の金沢柵で清原武衡清原家衡を破っています。この際、馬の背に藁に包んだ大豆を乗せていたところ馬の体温で発酵したのが納豆の発祥になっています。
新羅善神堂源頼義の三男・源義光甲斐源氏の祖)が円城寺(三井寺)の新羅大明神の前で元服したことから「新羅三郎義光」と呼ばれました(清和源氏河内源氏甲斐源氏)。1339年(暦応3年)に足利尊氏が再建。 源義光の墓源義光後三年の役の軍功で常陸介に任じられ、その嫡男・源義業常陸国の平清幹の娘との間で婚姻関係を結んで常陸国久慈郡佐竹郷を支配し、佐竹氏を名乗ります(佐竹氏の祖)。    
湫尾神社(茨城県ひたちなか市武田584
湫尾神社(甲斐源氏武田氏発祥の地)源義光は平清幹から常陸国那珂郡武田郷を譲り受け、その三男・源義清に与え、源義清は武田冠者を名乗ります(武田氏の祖、その庶流が小笠原氏、南部氏、於曾氏に分派)。 武田氏館那珂川を見下ろす武田台地の突端部に武田氏館が構えられました 武田氏館源義清とその子・源清光は勢力拡大のために在地勢力と張り合っていましたが、土地の境界争いから暴行沙汰に発展し(「長秋記」より)、吉田清幹から朝廷に告発され、1131年(天承元年)に甲斐国市河荘へ配流になっています。 武田氏館/武田菱のある鞍。主屋内には甲冑や刀等の出土遺跡が展示されています。  
①義清館跡(山梨県市川三郷町市川大門5154
②義清神社(山梨県甲府市中巨摩郡昭和町四条4265
③義清塚(山梨県甲府市中巨摩郡昭和町四条4256
①義清館跡甲斐国市河荘へ配流になった源義清は平塩寺・源行房(市川別当)を頼って館を構えました(甲斐源氏発祥の地)。敷地内には三条実美の揮毫である甲斐源氏旧跡碑が建っています。 歌舞伎文化公園(市川團十郎発祥の地)/この地に領地を持ち武田信玄の能の師匠・堀越十郎家宣は武田氏滅亡後に下総国成田(市川團十郎先祖居住の碑千葉県成田市幡谷1045)へ移住。その孫・堀越重蔵が江戸に出て蝦蔵と名乗り初舞台を踏み、荒事が好評を博して市川團十郎に改めるが、江島生島事件の生島新五郎の弟子・生島新六に刺殺される。 山村座跡/1714年(正徳4年)、江島生島事件の舞台となった山村座跡(銀座東武ホテル/東京都中央区銀座6-14-10)。遠島となった生島新五郎は初代・市川團十郎を刺殺した生島半六と二代目・市川團十郎の師匠。大奥御年寄・江島は信濃高遠へ流罪。この時期は打越光高が御留守居番として江戸城(大奥等)の警護の任務にあたっています。 義清神社源義清が隠居後1145年(久安元年)に没するまで暮らした館跡。 義清塚源義清の墳墓。
谷戸城跡(山梨県北杜市大泉町谷戸2605
②清光寺(山梨県北杜市長坂町大八田6600
谷戸城跡源清光甲斐国巨摩郡逸見荘へ進出して逸見氏を名乗り、谷戸城を築城します。 谷戸城跡/本丸跡。 清光寺/1151年(仁平元年)、源清光が開基しました。 源清光の墓源清光の墓で、長男・源光長は逸見氏、次男・源信義は武田氏、三男・源遠光は加賀美氏(小笠原氏、南部氏、於曾氏の祖)を名乗ります。  
①法善護国寺山梨県南アルプス市加賀美3509
②加賀美次郎遠光公廟所(山梨県南アルプス市加賀美793
③遠光寺(山梨県甲府市伊勢2-2-3
法善護国寺/源遠光が開国巨摩郡加賀美荘へ進出して加賀美氏を名乗り、法善護国寺がある場所に加賀美屋敷を築きます。 法善良護国寺/加賀美(源)遠光の長男・源朝光は秋山氏の祖、次男・源長清は小笠原氏の祖(打越氏の祖)、三男・源光行は南部氏の祖、五男・源光俊(経光)は於曾氏の祖(打越氏の祖)となり、四男・源光経は加賀美氏を継ぎます。なお、娘の大弐局は源頼朝の子・頼家、実朝の養育係を勤め、その恩賞として出羽国由利郡を下賜され、小笠原長清の七男で養子の大井朝光に相続させます。 加賀美次郎遠光公廟所/加賀美遠光の供養塔(通称、遠光大明神)。 遠光寺/1214年(建暦元年)、加賀美遠光が自らの菩提寺として建立し、1854年(安政元年)盛岡藩主・南部氏により再建。 加賀美遠光の墓/遠光寺にある加賀美遠光の墓。平和通沿いの壁際にあり、ラーメン屋の看板が目印。
小笠原長清館跡(山梨県南アルプス市小笠原441
小笠原長清公祠堂(山梨県南アルプス市下宮地484-2
③長清寺(山梨県北杜市明野町小笠原1205
小笠原長清館跡/源長清は加賀美遠光から甲斐国巨摩郡小笠原郷を相続し、小笠原氏を名乗ります(小笠原氏発祥の地)。 小笠原長清公祠堂小笠原長清の墳墓と伝承され、その後の発掘調査で石棺が出土したことから祠を建立。 長清寺/1221年(承久3年)、承久の乱の軍功により阿波国守護に任じられ(三好氏の祖)、その末裔に三菱財閥の創業者・岩崎弥太郎がいます。 小笠原長清の供養塔/小笠原氏発祥の地として、山梨県南アルプス市小笠原山梨県北杜市明野町小笠原の2説が存在しています。  
大井城跡(長野県佐久市岩村田496
大井城跡(王城公園)/1221年(承久3年)、小笠原長清の七男・大井朝光は承久の乱の軍功により信濃国佐久郡大井郷を下賜り、大井城を構築して大井氏を名乗ります(大井氏発祥の地)。大井朝光は叔母・大弐局の養子となり、出羽国由利郡を相続しています。 大井城跡(王城公園)/大井城は、石並城、王城、黒岩城の3城から構成されています。  大井城跡(王城公園)/大ケヤキ(長野県天然記念物)    
①安養寺(長野県佐久市安原1687
②玄江院(長野県小諸市耳取1922
安養寺(信州味噌発祥の地)/大井氏の菩提寺鎌倉時代に中国から味噌や醤油の製法を持ち帰った僧・覚心の遺志で建立された寺で、信州味噌(安養寺味噌)の発祥の地と言われています。 安養寺ラーメン/安養寺は信州味噌発祥の地としても知られていますが、本場の信州味噌で作った安養寺ラーメン(麺匠文蔵臼田店)が名物で、全国からラーメンファンが後を絶ちません。 玄江院/1466年(文政元年)、大井朝光-大井光長-大井時光(二男)の嫡流にあたる大井貞隆及び大井貞親が開基(仁賀保氏は大井時光の庶流の系流)。 玄江院経蔵内宮殿/松皮菱の格子。 大井氏累代の墓/大井時光(二男)の系流の大井氏累代の墓。
①龍雲寺(長野県佐久市岩村田住吉町415
②城光院(長野県佐久市望月1432
③打越城(真田古城)(長野県上田市真田町長8100
④打越城(滋賀県甲賀市甲賀町隠岐36
大井氏の菩提寺/1312年(正和元年)、大井玄慶が開基。 城光寺/1475年(文明7年)、望月城主・望月光恒が開基し、望月氏菩提寺。望月氏は根津氏及び海野氏と共に滋野三家に数えられ、望月三郎兼家が940年(天慶3年)に平将門の乱の軍功により甲賀十六ケ村を下賜されて甲賀・望月氏を発祥。なお、1331年(元徳3年)に出羽国由利郡の鳥海山元宮に奉納された銅棟札には小笠原(大井)正光と共に滋野行家の名前が記されています。 城光寺望月氏の墓と共に、真田氏の墓が安置されています。望月氏は、南北朝の動乱南朝に与し、戦国時代には真田幸隆の仲介で望月幸忠が武田氏へ臣従。真田十勇士の1人である望月六郎は望月幸忠の子で真田幸村の小姓、また、由利鎌之助出羽国由利郡出身の由利基幸(1573年~1615年)のことで真田昌幸真田幸村に仕えています。なお、真田幸村の娘・お田の方は出羽国由利郡に妙慶寺を建立し、真田幸村家を再興しています。 打越城跡(真田古城)砥石城の戦い村上義清を破った真田幸隆(武田氏の重臣)が居城とした打越城は、信綱寺となり長篠の戦いで討死した真田昌幸の兄・真田信綱、真田昌輝の墓が安置されています。 甲賀・打越城跡甲賀・望月氏の本家旧邸(甲賀流忍術屋敷)滋賀県甲賀市甲南町竜法師2331)の近くに打越城跡があります。
於曾屋敷(山梨県甲州市塩山下於曾539-2
於曾屋敷/於曾光経の屋敷で、その後、於曾光経は同族の加賀美氏を継いでいます。 於曾光俊の墓/於曾屋敷内にある於曾光俊の墓(打越氏の祖)。墓石に刻まれている「経光」とは光俊の別称です(山梨県史 資料編6」より)。 於曾氏社/於曽屋敷内にある於曽氏を祀る社。 板垣権兵衛切腹/武田家滅亡の際に於曽氏家臣・板垣権兵衛が切腹する際に腰掛けた石。於曾信安は板垣信方武田信玄の養育係)の娘婿で、武田信玄の命により板垣氏を再興し、その末裔に板垣退助がいます。 於曾光俊の屋敷跡(塩山駅)塩山駅にある武田信玄像

第4部第2巻 楠木氏にゆかりの場所(第1段)

楠木正成生誕地(大阪府南河内郡千早赤阪村水分266
②楠(楠木)氏発祥の地(静岡県静岡市清水区楠
楠公生誕地/楠木氏の屋敷跡で、この地で楠木正成が生まれました。なお、楠公出世地の裏手(下赤坂常の眼下)に建武以降の楠木邸伝説地があります。 楠公産湯の井戸楠木正成が生まれたときに産湯として使用した井戸。 菊水紋の兜千早赤阪村で出土した菊水紋の兜。 千早赤阪村/「一冊の絵本のような村」と言われるとおり美しい景観が広がります。 楠(楠木)氏発祥の地/楠(楠木)氏の出自には諸説あり確かなことは分かりませんが、駿河国入江荘長崎郷楠村を支配して楠氏を名乗ったという説があります(「神道学128号」より)。
楠木氏の出自には諸説あり確かなことは分かりませんが、駿河国入江荘長崎郷楠村(鎌倉幕府内管領・長崎氏の領地内)を支配して楠(楠木)氏を名乗ったという説が有力です(「神道学128号」「静岡県史通史編第2巻」「鶴岡八幡宮年表」より)。上述のとおり、武家の名字は天皇(又は天皇が土地の分配権を委嘱した幕府)から与えられた土地の支配権を示すためにその地名(名田の字)を名乗るのが通例で、その発祥地には武家の名字の由来となった同一の地名が存在します(これとは逆にその土地を支配する武家の名字と同一の地名に変更された例もあります)。1285年(弘安8年)の霜月騒動を契機として楠木氏が河内国観心寺荘へ入部した可能性があり、楠木氏は河内和田氏(河内和田氏の祖である熊野国造系和田氏は橘氏との間で姻戚関係を重ねており本姓は橘氏)から娘婿を迎えて楠木氏の家督を承継させ、その子孫に楠木正成が誕生したという説があり(「姓氏家系大辞典」より)、1322年(元享2年)に楠木正成が北条時高から命じられて鎌倉幕府御家人として湯浅氏を討伐していることからその時までには楠木正成が楠木氏の家督を相続してたと考えられます(「大日本佛教全書第131巻」の「高野春秋編年輯録」より)。このためか楠木氏の家督を承継した嫡流楠木正成以外の一族はそのまま和田を名乗っていた者が多かった形跡があり、楠木正成の弟・楠木正季の墓(寶國寺)に和田と刻まれ、また、楠木正季の子(楠木正成の甥)・和田賢秀が和田を名乗っています(「園太暦」より)。なお、公家・二条道平の日記「後光明照院関白記」に「楠の木の 根は鎌倉に 成ものを 枝を切りにと 何の出るらん」という落首が記録されていることや「吾妻鑑」の1190年(建久元年)11月7日の日記に源頼朝に従って上京した兵のうち殿隊42番として楠木四郎の名前が記録されていることなどから、もともと楠木氏は鎌倉幕府御家人であった可能性が高く、上述のとおり1285年頃に楠木氏が河内国へ入部してから同地に勢力のあった河内和田氏と姻戚関係を結び、紀伊半島に築かれていた河内和田氏の人的ネットワークをフルに活用していたのではないかと推測されます。因みに、上記の殿隊第42番(3人1組)には楠木四郎のほかに武蔵七党の忍三郎及び忍五郎の名前が記録されていますが、映画「のぼうの城」佐藤浩二さんが演じた忍城石田堤から見る忍城)を守備した正木丹波守利英(高源寺にある慰霊碑には菊水紋)は楠木氏の末裔と言われていることから、楠木氏と忍氏との間で姻戚関係が結ばれた可能性が高いのではないかと考えられます(その後、忍氏は成田氏に滅ぼされており、その末裔が正木氏を名乗って成田氏に仕えたのではないかと推測されます)。なお、小田原征伐で北国軍(大将:前田利家、副将:上杉景勝真田昌幸)の信濃衆に編成された打越光重は、八王子城を陥落した後に忍城責めにも参加していた可能性があり、同じ楠木の血を引く正木氏と打越氏が敵味方に別れて戦ったと推測されます。
①下赤坂城跡(大阪府南河内郡千早赤阪村東阪25
②上赤阪城(大阪府千早赤阪村桐山258
②寄手塚・味方塚(大阪府南河内郡千早赤坂村森屋942
下赤阪城/1331年(元弘元年)、鎌倉幕府討幕のために後醍醐天皇と共に楠木正成が挙兵(元弘の乱)。楠木正成は下赤坂城に立て籠もり数十万の幕府軍を翻弄しますが、楠木正成は態勢を立て直すために自害を装って伊賀方面へ逃れ、護良親王は十津川から熊野方面へと逃れます。打越氏(本家Ⅲ)の発祥地である紀伊国牟婁郡和田邑は護良親王(大塔宮)が落ち延びたことから大塔村(現在、和歌山県田辺市大塔地区)と名付けられています。 下赤阪の棚田農水省が認定する「日本の棚田百選」の1つに数えられる下赤坂城跡の棚田。 上赤阪城/1332年(元弘2年)、楠木正成は再挙兵して下赤坂城を奪還すると、上赤坂城、千早城を築城して幕府軍と対戦し、上赤坂城は落城しますが、千早城に立て籠もって善戦し、後醍醐天皇を勝利に導きます。登山口から約20分。 寄手塚楠木正成が千早赤坂城の戦いで戦死した者の霊を弔うために建てたと伝わる五輪塔。寄手塚は幕府軍戦没者を弔うための塚で、総高182cmと味方塚よりも大きめに造っています。 味方塚楠木正成が千早赤坂城の戦いで戦死した者の霊を弔うために建てたと伝わる五輪塔。味方塚は朝廷軍の戦没者を弔うための塚で、総高137cmと寄手塚よりも小さめに造っています。なお、打越氏の氏祖・楠木正家の三男・楠木正宣の墓(恵林寺)は、味方塚と全く同じ形状(石像五輪塔)をしています。
千早城跡(大阪府南河内郡千早赤坂村千早1063-1
千早城/1333年(元弘3年)、赤坂城及び金峰山寺が陥落すると、楠木正季及び護良親王千早城へ引いて抗戦します。 千早城(四の丸)幕府軍千早城の水の手を絶つ作戦に出たが、水辺に陣を構えて警戒していた北条(名越)時見は楠木正成の老練な駆引きに翻弄されて壊滅させられます。 千早城(三の丸)楠木正成は夜陰に紛れて城外にわら人形を並べて鬨の声を挙げ、幕府軍を城壁の間近まで誘き寄せて、城の上から大石を落とし、矢を浴びせて幕府軍に大損害を与えます。 千早城(二の丸~本丸)幕府軍空堀に梯子を架けて城内に乱入しようとしますが、楠木正成は油を入れた水鉄砲を梯子にかけて火をつけ、幕府軍は大混乱に陥ります。幕府軍千早城攻めに手間取っているうちに足利高氏六波羅探題を陥落して幕府軍千早城から撤退しますが、その12日後、新田義貞が鎌倉を陥落して幕府は滅亡します。 楠木正儀の墓楠木正成後醍醐天皇足利尊氏との君臣和睦を説いて退けられ、湊川の戦いに赴きますが、楠木正儀北朝から京都を4度も奪還する戦功を上げながらも、楠木正成の遺志を継いで常に君臣和睦の道を模索し続けました。
後醍醐天皇御駐蹕之處(福厳寺)(兵庫県神戸市兵庫区門口町2
豊島河原の戦い箕面川)(大阪府箕面市瀬川2丁目
楠公戦跡(打出浜古戦場)(兵庫県芦屋市楠町14-23
楠公供養石(阿弥陀寺)(兵庫県神戸市兵庫区中之島2-3-1
後醍醐天皇御駐蹕之處(福厳寺)/1333年(元弘3年)、隠岐から還御する後醍醐天皇楠木正成らが出迎えを受けた寺。 豊島河原の戦い箕面川)/京都を包囲する足利尊氏を三条河原(糺河原)の合戦で破った北畠顕家新田義貞と共に豊島河原(瀬川河原)で足方尊氏と再び抗戦しますが(右岸:北畠・新田軍、左岸:足利軍)、膠着状態となります。 楠公戦跡(打出浜古戦場)楠木正成が足利軍の背後に回り込んで撃退しています。これに敗れた足利尊氏は九州へ落ち延び、その3ケ月後に西国勢を従えて再上洛します。 楠公供養石(阿弥陀寺足利尊氏が須佐の入江の奥にあった魚堂で、楠木正成の首改めをした礎石です。  
①桜井駅跡(大阪府三島郡島本町桜井1-3
②会下山公園(兵庫県神戸市兵庫区会下山町2-19
湊川公園兵庫県神戸市兵庫区荒田町1-20
桜井駅跡湊川の戦いに向かう楠木正成が未だ少年期であった子・楠木正行に別れを告げた場所(桜井の別れ)。桜井の別れは、能「楠露」(曲名は松尾芭蕉の俳句から引用)の題材にもなっています。 父子別れの石像/「義を紀信が忠に比すべし」(太平記)※紀信は主君の身代わりになって窮地を救った忠臣。楠公父子訣別の所碑(乃木希典揮毫)があります。 明治天皇の歌碑明治天皇は桜井の別れに涙し、「子わかれの 松のしづくに 袖ぬれて 昔をしのぶ さくらゐのさと」と詠んでいます。楠木父子が別れを告げた場所にあった旗立松の木端が残されています。 絵下山公園楠木正成湊川の戦いで本陣を置いた場所。東郷平八郎の書「大楠公湊川陣之遺跡」の碑が建立されています。 湊川公園/大楠公像(兵庫区役所の新庁舎建設工事に伴って大楠公像は移設されますが、現在、移設先は未定。)
湊川神社兵庫県神戸市中央区多聞通3-1-1
湊川神社明治天皇の命により明治5年に創建された楠木正成を祭神とする神社 湊川神社/本殿は三座に分かれ、中央が主神の楠木正成、向かって右側は楠木正成夫人、向かって左側は楠木正行楠木正季及びその他楠木一族、菊池武吉が祀られています。 楠木正成公殉節地/1336年(延元元年)5月25日、楠木正成らが「七生滅賊」を誓って殉節した場所 楠木正成墓碑/1692年(元禄5年)、徳川光圀は彰考館総裁・佐々(介三郎)宗淳(TVドラマ「水戸黄門」の助さんのモデル)に命じて、徳川光圀の書「嗚呼忠臣楠子之墓」を刻ませた墓碑を建立させました。因みに、打越(樸斎)直正が彰考館総裁に就任するのは1727年(享保12年)のことですが、打越(樸斎)直正の同期(先輩)に彰考館総裁・安積(覚兵衛)澹泊(TVドラマ「水戸黄門」の格さんのモデル)がいます。 徳川光圀銅像徳川光圀公の死後、打越(樸斎)直正が彰考館総裁を務めていた1737年(元文2年)に大日本史の初版(元文検閲本)が完成しました。北畠親房の「神皇正統記」の影響を受けて徳川光圀及び彰考館総裁・打越(樸斎)直正は大日本史南朝正当論を唱え、その大日本史の記述等を根拠として1911年(明治11年)に明治天皇南朝が正当であるという勅裁を下し、南朝復権が果たされました。
観心寺大阪府河内長野市寺元475
楠公通学橋(大阪府河内長野市三日市町56-16
③大江時親邸跡(大阪府河内長野市加賀田1639
楠公手植えの楠(石清水八幡宮)(京都府八幡市八幡高坊30
観心寺/楠木氏の菩提寺楠木正成は8~15歳まで観心寺で僧・龍覚に学問を学ぶ一方、観心寺から約8km離れた大江広元の曾孫・大江時親(毛利氏の祖)の邸宅まで通って兵法を学んだと言われています。因みに、打越氏(本家Ⅰ)は大江広元の嫡男・大江(寒河江)親広又は次男・大江(長井)時広の系流と姻戚関係にある可能性があります。 観心寺金堂/1334年(建武年)、後醍醐天皇楠木正成を奉行として金堂造営の勅を出して現在の近藤が造営されました。 楠木正成首塚/1336年(延元元年)、湊川の戦いで殉節した楠木正成の首級が観心寺に送り届けられ、首塚として祀られています。 後村上天皇後村上天皇は吉野から賀名生へ行宮した後、観応の擾乱に乗じて京を奪還しますが、再び、足利氏に京を奪い返されます。その後も京の奪還を試みますが、1368年(正平23年)に崩御しています。 中院楠木正成は8~15歳まで住職の滝覚坊を師と仰いで学問を修得したと言われています。
楠公通学橋/多聞丸(楠木正成)が大江時親に兵法を学ぶために観心寺から大江時親邸までの約8kmを通う途中にあった楠公通学橋。 多聞丸(楠木正成)大江時親に兵法を学ぶ像/多聞丸(楠木正成)は毛利氏の祖・毛利(大江)時親に兵法を学んでいます。なお、毛利(大江)時親の祖父・毛利(大江)経光はその父・大江広元から相模国愛甲郡毛利荘神奈川県厚木市下古沢659)の領地を相続して毛利氏を名乗りますが、1247年(宝治元年)の宝治合戦相模国愛甲郡毛利荘を失うと、出羽国長井荘を支配していた大江広元の次男・長井(大江)氏のとりなしで安芸国吉田荘の領地を与えられ、六波羅評定衆河内国加賀田郷の地頭職等を務めて河内国加賀田郷に邸宅を構えます。因みに、打越氏(本紋:三階菱、菊水紋、替紋:一文字三ツ星紋)は出羽国寒河江荘を支配していた大江広元の長男・大江(寒河江)氏又は長井(大江氏)氏と姻戚関係を結んで一文字三ツ星紋を譲与されたと考えられます(注4-1)(注34)。 大江時親碑/毛利(大江)時親の邸宅があった場所に大江時親の碑が建立され、祀られています。毛利(大江)時親は曾孫・毛利(大江)元春に安芸国吉田荘を相続させていますが、その末裔に毛利(大江)元就が登場します。 大江時親邸宅跡/大江氏は代々学者の家柄で、毛利(大江)時親の祖先である大江匡房は源(八幡太郎)義家の師であったと言われています。 楠公手植えの楠(石清水八幡宮/1334年(建武元年)、楠木正成は戦勝を祈願して植樹奉納しています(樹齢約700年)。境内にはもう1本、楠公手植えの楠が植樹奉納されており、その根元には尺八都山流の祖・中尾都山頌徳碑があります。
①和田(楠木)正遠の墓(奈良県御所市西佐味621
②楠木(和田)正季の墓(大阪府和泉市府中町6-9−35
常福寺金剛山の麓にある和田(楠木)正遠の菩提寺 和田(楠木)正遠の墓/右から3基目の五輪塔が和田(楠木)正遠の墓。和田(楠木)正遠の子孫の墓と一緒に並んでいます。 寶國寺/浄土宗。楠木正季の墓が安置されています。 楠木正季の墓/寶國寺にある楠木正季の墓。向かって右の墓碑の礎石に「和田墓」と刻まれています。 楠木正季の墓/寶國寺にある楠木正季の墓。向かって左の墓碑の裏面に「楠木正成弟和田二郎正季 嫡子和田和泉守重次 墓碑  大正二年一月修保 累代和田要人」と刻まれています。楠木氏は河内和田氏(河内和田氏の祖である熊野国造系和田氏の本姓は橘氏で橘紋を使用)から娘婿を迎えて楠木氏の家督を承継させたという説がありますが、このためか楠木氏の家督を承継した嫡流楠木正成以外の一族はそのまま和田を名乗ってい者が多かった形跡があり、楠木正季やその他の庶流の末裔は和田氏へ復姓した者も多いとも言われています。
①瓜連城(茨城県那珂市瓜連1222
②金砂山城(茨城県常陸太田市上宮河内町1911
③那珂道辰の墓(茨城県常陸太田市増井町1529-2
瓜連城(常福寺/1335年(建武2年)12月、南朝方の北畠顕家軍は甕の原合戦で北朝方の佐竹貞義軍に苦戦しますが、那珂道辰の加勢により佐竹貞義軍を退けて上洛を果たします。1336年(建武3年)1月、後醍醐天皇から楠木正成に与えられた常陸国那珂郡にその代官として楠木正家が派遣され、楠木正家は瓜倉城を構築して北朝勢力の征討にあたります。 瓜連城(常福寺/1336年(建武3年)2月、楠木正家は佐竹貞義の子・佐竹義直及び佐竹義冬と戦って佐竹義冬を討ち取り、西国でも北畠顕家新田義貞及び楠木正成足利尊氏を破り南朝方の有利に戦況が展開します。 瓜連城(土塁跡)/1336年(建武3年)5月、九州で再起した足利尊氏湊川の戦い新田義貞及び楠木正成を破って高師冬らの大軍を常陸国へ派遣すると楠木正家は劣勢となり、1336年(建武3年)12月、武生城茨城県常陸太田市下高倉町2153−39)から南下する佐竹義篤に責められて瓜連城は落城します。 金砂城/1336年(建武3年)12月、金砂城から南下する佐竹貞義を迎撃していた那珂道辰は瓜連城の落城によって孤立し、那珂道辰ら一族34人と自刃します。 那珂道辰の墓/1336年(建武3年)12月、瓜連城の落城によって孤立した那珂道辰ら一族34人は勝楽寺の裏山で自刃します。このとき那珂通泰は落ち延びて御家を再興し、その後、打越伊賀守(分家Ⅱ)が仕官した常陸江戸氏の祖となっています。
①那珂西城(茨城県東茨城郡城里町大字那珂西1958
江戸城茨城県那珂市下江戸
③小田城(茨城県つくば市小田2377
北畠親房の墓(奈良県五條市西吉野町賀名生5
那珂西城/那珂道辰の居城。1335年(建武2年)12月、那珂道辰は、多賀の甕の原で北朝方の佐竹貞義に苦戦する北畠顕家に加勢し、佐竹貞義の背後を急襲して敗走させます。その後、那珂道辰は北畠顕家に従って上洛し、後醍醐天皇から十六菊に一文字紋を下賜されます。 江戸城/金砂城の戦いで北朝方の佐竹貞義に敗れて自刃した那珂道辰の子・那珂通泰は佐竹貞義と和睦して常陸国那珂郡江戸郷を与えられ、 その子・那珂道高は佐竹義篤の娘を娶ってて江戸氏を名乗ります。その後、1460年頃に出羽国由利郡から打越伊賀守(分家Ⅱ)が江戸氏に仕え、その子孫は水戸徳川家に召し抱えられます。 小田城北畠親房は、その子・北畠顕家及び新田義貞が討死すると、関東の南朝勢力を拡大するために常陸国へ下向し、南朝方の小田治久の居城である小田城へ入ります。 神皇正統記起稿之地碑北畠親房は小田城で南朝の正統性を述べた歴史書である神皇正統記を執筆し、その後、徳川光圀大日本史編纂で神皇正統記を高く評価しますが、それは徳川光圀や彰考館総裁・打越(樸斎)直正が唱えた南朝正当論へと受け継がれ、やがて水戸学と結び付いて日本人の歴史観(1つの王朝(万世一系天皇)によって途切れることなく受け継がれてきたという日本の伝統)に影響を与えます。この途切れることなく受け継がれてきた日本の伝統を守ることが日本人の精神的な支柱となり、それが良くも悪くも作用して日本の歴史を形成してきました。光が強ければ陰を濃くするのと同様に、必ず、物事には二面性があり、人生はその選択の連続です。 北畠親房の墓楠木正行、楠木正家、和田賢秀らが四条畷の戦いに敗れると、後村上天皇高師直に吉野を攻められて賀名生行宮します(河内長野~十津川~熊野へ至る街道沿いで、打越氏も多く分布)。その後、一時、観応の擾乱に乗じて京を奪還しますが、再び、足利氏に京を奪い返されます。その後も京の奪還を試みますが、1359年(正平9年)に賀名生で北畠親房が亡くなります。
笠置寺後醍醐天皇御在所)(京都府相楽郡笠置町大字笠置小字笠置山29
後醍醐天皇御腰掛けの岩(元弘帝御着船所)(鳥取県西伯郡大山町御来屋1016
隠岐の神塚(後醍醐天皇御着船地)(鳥取県西伯郡大山町岡511
笠置寺後醍醐天皇御在所)/1331(元弘元年)に討幕計画が北条方に露見して日野俊基藤原師賢らが捕らえられ、後醍醐天皇笠置寺に逃れました。 笠置寺後醍醐天皇御在所)笠置寺に籠城する後醍醐天皇方2,500名は、北条方75,000名に責められて落城し、後醍醐天皇隠岐流罪になりました。 笠置寺後醍醐天皇御在所)後醍醐天皇が籠城した笠置山(写真中央)は、柳生新陰流の創始者・柳生氏の発祥地である柳生の里に隣接していますが、柳生氏は元弘の乱鎌倉幕府(北条)軍と戦い、後醍醐天皇から大和国添上郡柳生郷を下賜されています。 御腰掛けの岩(元弘帝御着船所)/133年(元弘3年)に隠岐を脱出した後醍醐天応が名和の湊(御来屋港)に辿り着き、この岩に腰掛けたと言われています。元弘帝御着船所名和氏の館から最寄りの湊ですが、隠岐から脱出した後醍醐天皇が最初に上陸した地と思われます。 隠岐の神塚(後醍醐天皇御着船地)名和長年後醍醐天皇を奉じて挙兵し、船上山の戦いで北条方を撃退して船上山に行宮を設置します。大坂の湊は船上山の最寄りの湊ですが、名和の湊から大坂の湊へ移動した後醍醐天皇が2度目に上陸した地と思われます。
金峯山寺(吉野朝宮跡)(奈良県吉野郡吉野町吉野山2498
護良親王の墓(神奈川県鎌倉市二階堂748
善名称院(真田庵)(和歌山県伊都郡九度山町九度山1413
金峰山寺/国宝・仁王堂は北畠顕家が石津の戦いで討死した1338年(延元3年)の再建。国宝・蔵王堂文禄・慶長の役が開始された1592年(天正20年)の再建。 金峰山寺(大塔宮御陣地)/1332年(元弘2年)、赤坂城が落城して十津川から熊野方面へと逃れていた護良親王(大塔宮)は再び挙兵して大海人皇子壬申の乱で挙兵した吉野にある金峰山寺に本陣を敷きます。1333年(元弘3年)、金峰山寺幕府軍に包囲されますが、村上義光が護良親王に扮して身代わりとなり、護良親王は落ち延びて千早城へ入ります。なお、672年(天武天皇元年)、大海人皇子が不破の地に布陣して名産の桃を全兵士へ配って大友皇子を破ったことから不破の地は桃配山と呼ばれるようになりますが、それから約千年後の1600年(慶長5年)に徳川家康関ケ原の戦いで桃配山に布陣して勝利しています。 吉野朝宮跡/最初に南朝(吉野朝)が置かれた金峰山寺の境内。王朝文化の雅(菊と刀のうち菊=文雅の要素)を象徴する歌碑が建っています。 護良親王の墓足利尊氏の暗殺計画に失敗した護良親王護良親王を祀る鎌倉宮神奈川県鎌倉市二階堂154)の土牢に9ケ月間に亘って幽閉されていましたが、1335年(建武2年)、中先代の乱北条時行及び諏訪頼重護良親王を擁立されることを恐れた足利直義によって暗殺され(護良親王の御首が置かれた御構廟(御首塚))、理智光寺の住職が葬っています。因みに、元弘の変で討幕計画が発覚して処刑された日野俊基の墓鶴岡八幡宮を挟んで鎌倉宮と向かい合うように建つ日野俊基を祀る葛原岡神社神奈川県鎌倉市梶原5-9-1)の境内にあります。なお、日野俊基日野有信の末裔で本願寺を創建した親鸞上人や日野富子とは同族関係にありますが、日野家の家紋・鶴丸紋を使用していますが、この鶴丸紋は日本航空のマークにも採用されています。 善名称院(真田庵)/楠木氏や南朝には関係がありませんが、河内長野から吉野や十津川に通じる九度山には真田昌行・真田幸村が配流になった善名称院(真田庵)があり、真田昌行の墓真田の抜け穴真田幸村が大阪夏の陣で使用した槍先などが残されています。なお、典厩寺には、川中島の戦いで討死した武田信繁の墓(写真中央、武田信繁の兜)と並んで真田信繁(幸村)の墓(写真中央から左へ2つ目の小さい五輪塔)が安置されています。
①如意輪寺(奈良県吉野郡吉野山1024
吉野神宮奈良県吉野郡吉野町大字吉野山3226
如意輪寺後醍醐天皇が吉野に行宮を定めた際に勅願所と定められた寺。 如意輪寺後醍醐天皇腰掛石と楠木正行手植えの木斛 如意輪寺(後醍醐天皇御陵)/2018年は後醍醐天皇即位700周年 如意輪寺(埋髻の墳)楠木正行と143名が四条畷への出陣に先立って如意輪堂へ奉納した髻を埋めた場所です。 如意輪寺(小楠公髻塚の碑)/1865年(慶応元年)、津田正臣により建立。津田正臣は根来・雑賀へ鉄砲を伝えた津田正信の末裔です。
楠木正行辞世の句四条畷の戦いに向かう楠木正行後村上天皇に拝謁し如意輪堂の扉に鏃で辞世の句(かえらじと かねておもへば梓弓 なき数に入る 名をぞとどむる)を刻んでいます。 如意輪寺の過去帳楠木正行らは四条畷の戦いに向かうにあたり如意輪寺の過去帳に名前を記しています。 如意輪寺楠木正行の兜。 如意輪寺四条畷の戦いで楠木正行、楠木正家らと共に討死した和田賢秀の鎧です。 吉野神宮明治維新の根源建武中興と吉野朝にあると言われており、明治時代に後醍醐天皇建武中興の忠臣を祀る建武中興十五社が建立されています。
大和国を治めていた天津神(いわば全国の統治者)・神武天皇は、出雲国を治めていた国津神(いわば地方の統治者)・大国主大神を屈服(国譲り)させて、日本で最初に天下を統一して日本国を建国します。爾来、歴代の天皇が日本国を治めてきましたが、その後、源頼朝武家政権鎌倉幕府)→後醍醐天皇天皇政権)→足利尊氏武家政権室町幕府)→豊臣秀吉天皇から大政を委任できるのは天皇又は皇子の子孫である皇別氏族のうち源氏に限られており源氏でなければ征夷大将軍として幕府を開けなかったので、豊臣秀吉征夷大将軍として大政委任される代りに天皇の政務を補佐する最高官職である関白・太政大臣に就任することで国を支配したので、実質上は武家政権として機能していたとしても形式上は天皇政権であったと言えます。)→徳川家康武家政権江戸幕府)→明治天皇天皇政権)→国民へと天下(≒土地の支配権)が移っています。なお、織田信長は自らを神格化しようと考えていたようですが、日本は国を治める者を神としてきた歴史的な伝統があり、天皇の臣下としての征夷大将軍統治機構の二重構造)ではなく天皇(神)に代わる別の神(日本国を治める者)として君臨しようとしていたことが伺えます。この点、多神教の国では人(とりわけ権力者)が神の名を語って人々の思考を停止させることで自らを絶対的に正当化し、無批判に受け入れるようにしてきた負の歴史がありますが、一神教の国(とりわけプロテスタンティズム)では神を唯一の存在と捉えることで人(とりわけ権力者)が神の名を語れないようにして人(とりわけ権力者)と神を分離する知恵(政教分離の思想)を働かせてきたと言えるかもしれません(尤も、それでもなお神の名を語る人はなくなりませんが...)。日本が第二次世界大戦に敗戦して国を治める者としての神の存在(≒ 日本における国の治め方の伝統)を否定されたのは、このような文脈によるものだと思われます。因みに、橿原神宮の鳥居から国見山の山頂が顔を覗かせていますが、神武天皇がこの山の山頂から奈良盆地(大和平野、大和国)を一望したことから「国見山」と命名されたそうです。なお、打越氏の源流は物部氏流熊野国造系和田氏(河内和田氏及び楠木氏)になりますが、神武東征の遠征軍として活躍した物部氏は日本書記において伊勢神宮と共に日本最古の神社として記録されている石上神宮(神武東征において神武天皇が熊野で苦戦した際に使用した剣が御祭神)を創建しています。
①竹之坊墓地(光明寺跡、井泉寺跡)(和歌山県田辺市本宮町本宮624
②平野墓地(和歌山県田辺市本宮町本宮630
③楠藪(徐福公演)(和歌山県新宮市徐福1-4
竹之坊墓地/熊野連正全の墓。物部氏の始祖・饒速日命ニギハヤヒ)の後裔が成務天皇から熊野国造に任命され、熊野連の姓を下賜っており、代々、紀伊国牟婁郡の大領(郡司)や熊野本宮大社禰宜神職)を務めています。 竹之坊墓地熊野本宮大社の社家を務めた熊野国造の後裔・楠木氏の館があった場所(光明寺跡、井泉寺跡)にある楠木氏の墓。なお、墓地内には嶋(島)津氏の墓もありますが、その由緒は不明です。志摩国を支配した島津国造の末裔の可能性もありますが、家紋は薩摩藩島津氏のものなので、1242年(仁治3年)に和泉国和田郷の地頭職に任命された島津忠時(「島津家文書」や「鎌倉遺文」には島津忠時のことを嶋津三郎兵衛尉忠義と記載)の末裔の可能性もあります。 平野墓地熊野別当・和田(内膳)良賢の墓。 平野墓地 楠藪/楠木正定が居を構えていた場 所で、その娘が橘盛仲に嫁い で楠木正遠を生み、楠木正遠 の次男に楠木正成が生まれ、 その娘の一人は和田正家に嫁 いでいるという説もあります (「新宮市誌」より)。
熊野本宮大社和歌山県田辺市本宮町本宮1110
熊野本宮牟婁郡大領・橘広方の曾孫・橘良冬が和田良冬に改称として和田庄司(庄司とは貴族や寺社の領地を管理する職)を称し、代々、熊野本宮の禰宜神職)を努めています。また、その子孫は土豪化して紀伊国河内国等に勢力を持ち、河内和田氏の祖となります(「姓氏家系大辞典第2巻」より)。熊野本宮から小辺路高野山)や峯奥駈道’(吉野山)に至ると楠木氏の領地である千早赤阪へ通じていますので、蟻の熊野詣と言われるように人々の往来が盛んであったと思われます。 熊野本宮/プロサッカー選手の元祖・藤原成道は蹴鞠上達祈願のために50回以上も熊野詣をし、熊野本宮でうしろ鞠の名技を奉納しています(「古今著聞集」より)。サッカー日本代表のエンブレムは熊野本宮の寺紋である八咫烏です。 熊野本宮(本殿)熊野古道小辺路高野山から熊野本宮)、中辺路(田辺から熊野本宮)及び大辺路(田辺から那智大社、速水大社)の3つの参詣道が世界遺産に登録されています。これ以外にも峯奥駈道(金峯山寺~熊野本宮)や伊勢路伊勢神宮~速水大社、那智大社)があります。そして、川の参詣道として熊野川舟下り(熊野本宮~速水神社)があり、打越保さん(90)が最高齢の船頭として活躍されています。 八咫烏ポスト/ハガキの元祖・多羅葉のご神木の下に八咫烏ポストがあり(戦国時代には多羅葉に枝で文字を書き込んで密書にしていました)、2018年12月31日までに投函すると八咫烏の消印が押印されます。ハガキ(葉書)の名前は多羅葉に書くから由来。 大斎原の大鳥居/熊野本宮は熊野川、音無川及び岩田川の合流点にある中洲「大斎原」にありましたが、1889年(明治22年)の大水害で社殿が流され、現在の場所に遷座されています。
熊野速玉大社(和歌山県新宮市新宮1
熊野速玉大社/熊野本宮は熊野川、熊野速玉大社はことびき岩、熊野那智大社那智の滝御神体(神の依り代)としています。新宮市には、武蔵坊弁慶産家楠跡、源義盛(新宮十郎行家)屋敷跡(源頼朝源義経の叔父)、平忠度生誕地(平清盛の異母兄弟)が残されており、中世武家社会のダイナミズムが感じられる歴史の深い土地。 熊野速玉大社/熊野速玉大社の禰宜を努めていた穂積氏流鈴木氏は穂積国興の子・鈴木基行が鈴木を名乗ったことが始まりと言われています。本紋は穂積姓に由来する「抱き稲」(イネのホ→ススキ(イネのホに酷似)→スズキ)、替紋は熊野別当藤原氏に由来する「下り藤」です(熊野に分布している打越氏にも「下り藤」を使用している家があり同様の由緒ではないかと推測されます)。その子孫が熊野から藤白に移住して藤白神社和歌山県海南市藤白448)の神職も努め、境内には鈴木屋敷が現存しています(鈴木屋敷復元プロジェクトクラウドファンディングに挑戦中)。その子・鈴木良氏と河内和田氏の祖・橘博方の娘の間で生まれた鈴木重氏は源義経に従って武蔵坊弁慶らと共に衣川館で討死しています。また、その次男・鈴木重次雑賀衆鈴木氏の祖となります。 熊野川熊野川は「熊野川 瀬切に渡す 杉舟の 辺波に袖の 濡れにけるかな」(後嵯峨上皇)と和歌に詠まれているとおり川の参詣道と言われ、現代に川舟下りの文化が受け継がれてており、世界遺産にも登録されています。最高齢の船頭として打越保さん(90)が川舟下りの文化を次世代に受け継ぐために頑張っておられ、同じ一門として非常に誇らしく感じています。 熊野牛王符/熊野牛王符に認めたことは熊野権現に対して誓ったということ(神様との約束)になり、これを破ると神罰が下る(血を吐いて地獄に落ちる)と信じられていましたので、戦国時代には国主が家臣に忠誠を誓わせるために提出させる起請文や合戦時の和睦などに使用されていました。熊雄牛王符には熊野大社で88羽、那智大社で72羽、速玉大社で48羽の烏がデザインされています。契約書は国家がその実現を保証するというものですが、熊野牛王符は神様がその実現を保証するというものなので、当事者の心理的強制力は相当に強いものでした。  御神木「梛」(ナギ)/境内にある梛(ナギ)の大樹は樹齢千年を超え、昔からの葉を懐中に納めてお参りすると道中の案園が守られると言われTきました。「千早ふる 熊野の宮の なぎの葉を 変わらぬ千代の ためしにぞ折る」(藤原定家)  
神倉神社(和歌山県新宮市神倉1-13−8
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神倉神社/熊野速玉大社の摂社である神倉神社の山麓の鳥居。拝殿に続く石段は、源頼朝が寄進したと伝えられる急勾配の鎌倉積み石段で538段あります。雨上りの日は滑り易いので避けることをお勧めします。 神倉神社御神体であることびき岩。ことびきとは新宮の方言で、ヒキガエルのこと。熊野三山に祀られる熊野権現が初めて地上に降臨した伝承をもつ古社で、その創建は神話時代の128年頃と言われています。 神倉神社/神倉神社は天ノ磐盾(あまのいわだて)という険しい崖の上にありますが、黄昏色に染まる新宮市街と熊野灘、黄昏月を一望できる眺望です。    
熊野那智大社和歌山県東牟婁郡那智勝浦町那智山1
熊野那智大社の二の鳥居/社殿は、317年に仁徳天皇が創建し、平重盛が改装し、織田信長による焼討にあった後に豊臣秀吉が再興しています。 熊野那智大社/2107年に創建1700年を迎えた記念事業として社殿の修補等が進められており、既に拝殿(写真)の修補を終え、年内には全ての施設の修補等が完了する予定です。現在、熊野那智大社では創建1700年事業の奉賛を受け付けられています。 御懸彦社と八咫烏八咫烏(ヤタガラス)のヤタとは「大きい」という意味を持っており、古から神の使いとされてきました。 那智の大滝/高さ133mで一段の滝として日本一の長さです。 クスノキ胎内くぐり平重盛が手植えした樹齢約850年の大楠。神社は生者のための場所、寺社は死者のための場所ですが、神社は鳥居(女性器)を潜って、参道(産道)を通り、本宮(子宮)に至って、心の穢れを払い、もう一度生まれ直して鳥居(女性器)から出てくる神聖な場所(命を育めるのは神様のみ)です。お宮参り、七五三、結婚式など人生の節目に神社を参詣するのは、もう一度生まれ直して新たな気持ちで人生を歩むための大変に有難い儀式です。
四条畷神社(大阪府四条畷市南野2-18-1
②小楠公墓所大阪府四條畷市雁屋南町27-5
楠木正行首塚(宝筐院)(京都府京都市右京区嵯峨釈迦堂門前南中院町9-1
④和田賢秀の墓(大阪府四條畷市南野4-15-6
⑤往生院六萬寺(大阪府東大阪市六万寺町1-22−36
四条畷の戦い(南朝軍本陣地)(大阪府大東市中垣内950
四条畷の戦い(北朝軍本陣地)(大阪府大東市野崎2-6-8
四条畷の戦い(激戦地)(大阪府大東市北条6-5-1
楠木正行像(飯盛城跡)(大阪府大東市北条2377-11
四条畷神社/1348年(正平3年)、南朝方の楠木正行、楠木正家、和田賢秀らと北朝方の高師直高師泰らとの間で合戦。楠木正行主祭神とし、楠木正家、和田賢秀を配祀。なお、打越(内越)氏の始祖・楠木正家公の御傍近くに小職の名前を留めたいと念願していましたが、平成30年台風21号の被害で倒壊した手水舎再建の寄付者として小職の名前を留めることが叶いました。光栄です。 楠公墓所楠木正行四条畷の戦いで戦死した地。 楠公墓所/贈従三位楠正行朝臣之墓。小楠公に寄り添うように建つ樹齢600年のクスノキの巨木(大楠公) 楠木正行首塚(宝筐院)室町幕府第2代将軍・足利義詮は「自分の逝去後、かねており敬慕していた観林寺(宝筐院)楠木正行の墓の傍らで眠らせ給え」と遺言し、楠木正行の墓(写真右)の隣に足利義詮の墓(写真左)を建立したと言われています。 和田賢秀の墓楠木正行の従兄弟の和田賢秀は敵の首に噛み付き睨んで離さず敵はそれが因で死んだと言われており歯噛神様として祀っています。打越氏(本家Ⅱ)の発祥地である紀伊国海部郡宇須邑字打越には和田賢秀が開基した真光寺があり、打越氏の菩提寺となっています。
往生院六萬寺/当初、楠木正行を総大将とする南朝軍が本陣を置いていた場所で、その後、東高野街道を北上します。 四条畷の戦い(南朝軍本陣地)東高野街道生駒山地と深野池に挟まれた縄手(畷)状の狭い街道で、楠木正行は大軍の移動には不利な地形を利用し、僅か3千の兵で6万の北朝軍を3kmも押し戻す奮戦を見せます。 四条畷の戦い(北朝軍本陣地)/先に戦場に着陣していた北朝軍は、本隊が慈眼寺(野崎観音)、別動隊が飯盛山中腹と有利な場所に布陣し、東高野街道を北上してくる南朝軍を挟撃します。 四条畷の戦い(激戦地)南朝軍は野崎から北条まで北朝軍を押し戻す奮戦を見せますが、現在でも、激戦地となった場所には「古戦田」(大阪府大東市北条2-14−2)、楠木正行が自刃した場合には「ハラキリ」(大阪府大東市錦町17−58)という字(地名)が残されています。 楠木正行像(飯盛城跡)四条畷神社の裏手にある飯盛城跡には楠木正行像が建立されています。飯盛城跡からは大阪市と淡路島を一望できますが、後世、三好長慶が飯盛城を居城としています。なお、飯盛山には四条畷の戦いの戦死者の菩提を弔うために楠公寺が建立されています。
①定専坊(大阪府大阪市東淀川区豊里6-14-25
②楠木正勝の墓(奈良県吉野郡十津川村武蔵530
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定専坊楠木正儀の嫡子・楠木正勝が開基し、その孫の楠木掃部助が本願寺蓮如上人の教えに帰依して真言宗から浄土真宗本願寺派に改宗し、楠木正具が伊勢から移住して法灯を継いだと言われています。 楠木正勝、楠木正盛、楠木信盛、楠木正具の墓石山本願寺合戦の終結後に石山本願寺織田信長によって焼き払われますが、定専坊の境内には、その際に本願寺から持ち出された梵鐘が残されています。 楠木正勝の墓河内長野から熊野新宮へ抜ける街道の中間地点に位置していますが、護良親王は赤阪城の戦いで幕府軍に敗れ、熊野衆徒を味方につけて熊野詣を装いながら十津川へ逃れ、その後、吉野で再起しています。楠木正勝は普化宗の僧として虚無という法名を名乗り尺八を吹きながら全国を行脚したと言われていますが、それが虚無僧の元祖と言われています。なお、十津川村には打越氏が分布しています。 佐久間信盛の墓/1580年(天正8年)、織田氏を追放された佐久間信盛高野山から熊野方面へ落ち延びたと言われていますが、丁度、その中間に位置しているのが十津川村になります。  
①定願寺(大阪府大阪市生野区巽南1-10-10
②正善寺(大阪府東大阪市友井2-33-26
定願寺楠木正儀の三男・楠木正長は本願寺巧如上人の教えに帰依して浄土真宗大谷派の定願寺を開基。 定願寺/楠木正長旧跡碑。 定願寺/楠木正長の案内板。 正善寺楠木正儀五代嫡流・楠木正明は本願寺蓮如上人の教えに帰依して浄土真宗本願寺派の正善寺を開基。 正善寺/楠木正明の案内板。
本願寺鷺ノ森別院(雑賀御坊)(和歌山県和歌山市鷺ノ森1
本願寺鷺ノ森別院(雑賀御坊)石山本願寺合戦で顕如上人は織田信長と和睦して本願寺鷺ノ森別院(雑賀御坊)に移住しますが、その子・教如上人が織田信長に対する抵抗を続けます。 本願寺鷺ノ森別院(雑賀御坊)/楠木正意は本願寺鷺ノ森別院(雑賀御坊)を守備しますが、本願寺門主顕如上人が入滅し、豊臣秀吉が長男・教如上人を隠居させると出羽国由利郡打越郷へ遁れています(「西摂大観上巻」より)。また、顕如上人から出羽国由利郡の打越正義に援軍要請の書状がありその名代として弟・打越三郎左衛門が本願寺鷺ノ森別院(雑賀御坊)を守備しています。その後、打越三郎左衛門は慶長出羽合戦(北の関ケ原の戦い)に参戦しています。      
観阿弥ふるさと公園(観阿弥創座の地)(三重県名張市上小波田181
観阿弥像(三重県名張市平尾3225−10
世阿弥公園(世阿弥の母像)(三重県伊賀市守田町1720
④杉谷神社(三重県名張市大屋戸62
⑤観世発祥の地(奈良県磯城郡川西町結崎1890-2
観阿弥ふるさと公園(観阿弥創座の地)観阿弥伊賀上野楠木正成の妹と服部元就(服部半蔵の先祖)との間に生まれ、妻の出身地である伊賀小波田で創座したと言われています(大河ドラマ「太平記」(第48作)では服部元就と楠木正成の妹・卯木(12:40~)と観阿弥清次(14:20~)が登場)。その場所は河内長野に通じる初瀬街道沿いにあって観阿弥ふるさと公園として整備され、能楽堂が設置されています。なお、楠木正成は芸能集団を抱えて興行の名目で全国へ派遣し(芸能プロダクション)、その傍ら各国の情勢も収集させていたと言われています。 観阿弥名張駅西口に翁面を手に持った観阿弥像が設置され、観阿弥の業績が憲章されています。また、名張市役所の前庭(三重県名張市鴻之台1-1)にも翁面を被った観阿弥像が設置されています。 世阿弥公園(世阿弥の母像)観阿弥の妻は伊賀小波田の出身ですが、観阿弥及び世阿弥と同祖同根の間柄にある鹿島建設の元会長・故鹿島守之助さん観阿弥の出身地である伊賀上野世阿弥の母像を設置されています。また、故鹿島守之助さんは映画「世阿弥」という作品を製作され、女性で初めて能舞台に立った白洲正子さんが原作を務められています。なお、観阿弥は、1333年(元弘3年)に伊賀国阿蘇田を支配していた服部元成の三男に生まれますが(本名:・服部三郎清次)、世阿弥公園の周辺になります。なお、大河ドラマ「太平記」(第36話)(27:25~)で服部元就と楠木正成の妹・卯木(樋口可南子さんが演じる花夜叉、楠木正成の妹という設定で登場しますが、名前はフィクション)が登場します。 杉谷神社/大江貞基が伊賀国名賀郡に開基し、観阿弥が北野天神縁起絵巻(重文)を寄進しています。 観世発祥の地/伊賀小波田で創座した観阿弥は、その後、金剛山と指呼の距離にある伊賀上野に通じる大和街道沿いの大和結城に移って結城座を構えて観世発祥の地となります。なお、観阿弥及び世阿弥の墓は大徳寺真珠庵にあるそうですが一般公開されていません。また、打越氏(分家Ⅴ)が仕官していた大和郡山城城内に観阿弥の供養塔があります。
①千賀地城(三重県伊賀市予野8809
服部半蔵の墓(西念寺)(東京都新宿区若葉2-9
松尾芭蕉生誕の地(三重県伊賀市上野赤坂町304
千賀地城服部半蔵の生誕地。なお、東海道関宿にある銘菓関の戸「深川屋」三重県亀山市関町中町387)に服部家の子孫の方が営業されています。京都御所の御用菓子となり、銘菓関の戸を納めるときに使用した荷担箱が店内に置かれています。 服部(半蔵)正成の墓/徳川家の家臣で伊賀忍者の頭領・服部(半蔵)正成が開基した西念寺に服部(半蔵)正成の墓が安置されています。因みに、西念寺の正面は、打越左大夫の拝領屋敷があった場所です。 松尾芭蕉の生誕地服部川を隔てた伊賀上野城の東側の指呼の距離に松尾芭蕉の生誕地があり、このことからも松尾芭蕉江戸幕府の隠密であったのではないかと言われています。    
①岩室城(和歌山県有田市宮原町
②来見屋城(和歌山県有田郡有田川町小川
岩室城鎌倉幕府に抵抗を続けていた安(保)田庄司・湯浅氏の居城で、1322年(元享2年)、楠木正成北条高時の命により討伐します。 来見屋城/1322年(元享2年)、楠木正成北条高時の命により鎌倉幕府に抵抗を続けていた安(保)田庄司・湯浅氏を討伐する際に来見屋城を築城します(参223)。      
 

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第4部第2巻 行宮・南朝忠臣にゆかりの場所(第2段)

第2段 行宮・南朝忠臣・楠木八臣にゆかりの場所
 打越氏のようなマイナーの氏族に関する古文書等の記録(ジグソーパズルのピース)は僅かしか残されておらず、打越氏の事績を紐解くにあたっては時代全体の相関関係(ジグソーパズルの全体図)を俯瞰しながら多少の推理を交えて歴史の闇に埋もれている行間(欠けているピース)を補って行く作業が重要になります。この点、南朝忠臣の歴史を紐解くと不思議と打越氏の事績と結び付く点が多く、その土地、人物や史実を手掛りとして打越氏の事績を紐解くうえでの有用な素材を得られると思います。
 
第1節 行宮にゆかりの地
笠置行宮/1331(元弘元年)に討幕計画が北条方に露見して日野俊基藤原師賢らが捕らえられ、後醍醐天皇笠置寺に遁れました。笠置寺に籠城する後醍醐天皇方2,500名は、北条方75,000名に責められて落城し、後醍醐天皇隠岐流罪になりました。 船上山行宮/1333年(元弘3年)に隠岐を脱出した後醍醐天応が名和の湊(御来屋港)に辿り着き、名和長年後醍醐天皇を奉じて挙兵し、船上山の戦いで北条方を撃退して船上山に行宮を設置します。 八瀬天満宮比叡山八瀬口)楠木正成湊川の戦い足利尊氏に敗れると、後醍醐天皇比叡山に逃れますが、八瀬天満宮の裏にある比叡山八瀬口から比叡山に入ったと言われています。この際、後醍醐天皇を遁すために、京都を守備していた名和長年や於曾貞光(打越氏(内越氏)の祖)が討死しています。 吉野行宮(金峰山寺南朝(吉野朝)が置かれた金峰山寺です。王朝文化の雅(菊と刀のうち菊=文雅の要素)を象徴する歌碑が建っています。 賀名生行宮楠木正行、楠木正家、和田賢秀らが四条畷の戦いで北朝勢力の高師直らに敗れ、その後、北朝勢力によって吉野行宮が攻撃されると、後村上天皇北畠親房らは賀名生へ行宮を移します。
 
第2節 北畠氏(浪岡北畠氏、多気北畠氏)にゆかりの場所
多賀城跡(宮城県多賀城市市川大畑13
北畠顕家の墓(大阪府大阪市阿倍野区王子町3-8
北畠顕家・南部師行の供養塔(大阪府堺市西区浜寺石津町中5-3-30
阿部野神社大阪府大阪市阿倍野区北畠3-7−20
多賀城陸奥鎮守府が置かれた多賀城跡。陸奥守(後に陸奥鎮守府大将軍)の北畠顕家後醍醐天皇の子・義良親王(後の後村上天皇)を奉じて下向。なお、1337年(延元2年)に北畠顕家南朝方の伊達氏及び結城氏らと連携して多賀城(平城)から霊山城(山城)に陸奥鎮守府を移していますが、その跡地にある霊山神社福島県伊達市霊山町大石古屋舘1)には北畠親房及び北畠顕家が祀られています。 多賀神社多賀城跡にある後村上天皇の御霊を祀る神社。北畠顕家の死後、その弟・北畠顕信鎮守府将軍に任命され、1351年(正平6年)に観応の擾乱室町幕府の内乱)を奇貨として北朝方に奪われていた多賀城及び宇津峰城の奪回に成功しますが、1353年(正平8年)までに多賀城及び宇津峰城が次々と落城し、北畠顕信出羽国由利郡へ潜伏して再起を図ります(このとき北畠顕信が鳥海山大物忌神社に納めた南朝復興と出羽国静謐を祈願する寄進状が残されています)。なお、宇津峰城の石垣護良親王を祀る鎌倉宮神奈川県鎌倉市二階堂154)に奉納されています。 北畠顕家の墓太平記には北畠顕家は北畠公園がある場所(摂津阿倍野)で討死したと記されています。近くには、北畠顕家を祀る阿倍野神社があります。大河ドラマ「太平記」(第39話)の北畠親房と北畠顕家の父子の厳しいなかにも強い情愛が感じられる場面(21:47~)及び(33:05~)での近藤正臣さんの名演技が心に染みます。 北畠顕家・南部師行の供養塔北畠顕家が討死したと言われている石津合戦の古戦場には北畠顕家と小笠原氏流・南部師行(根城南部家)の供養塔が建立されています。 阿部野神社北畠親房及び北畠顕家を祀る神社。参道に北畠顕家の像
①田丸城(三重県玉城町田丸114−1
②大湊(三重県伊勢市大湊町1118-194
③胆沢城(岩手県奥州市水沢佐倉河字四月23-1
④水沢城(岩手県奥州市水沢大手町1-1
田丸城跡/1336年(延元元年)、北畠親房及び北畠顕信初瀬街道(伊賀-宇陀-河内)と熊野街道が合流する場所に田丸城を築城しますが、1342年(康永元年)、足利尊氏によって攻め落とされています。田丸城の天守閣から正面が大湊、右側が伊勢神宮になります。 大湊/1338年(延元3年)、北畠親房は、義良親王を奉じて、北畠顕家の後任として鎮守府将軍に就任した北畠顕信、結城宗広、伊達行朝らと共に大船53艘で大湊から陸奥へ向けて出港しますが、途中、暴風雨に遭遇して北畠親房常陸国東条浦に漂着しています(第8節を参照)。なお、結城宗広は、伊勢国篠島に漂着しますが、その後、病没しています。 胆沢城跡坂上田村麻呂が政庁舎として築いた旧陸奥鎮守府 鎮守府八幡宮坂上田村麻呂が東奥鎮撫のために勧進し、源義家奥州藤原氏、伊達氏、豊臣秀吉も崇敬。 水沢城跡/1408年(応永15年)、将軍・足利義持に仕えていた北朝勢力の佐々木(将監)繁綱佐々木源氏発祥地:沙沙貴神社)は足利義持の死後に葛西氏を頼り陸奥へ下向して胆沢郡を知行されますが、1590年(天正18年)、豊臣秀吉の奥州仕置で葛西氏が滅亡すると、それに伴って佐々木氏も没落して帰農します。この地方に分布する佐々木氏はその末裔です。
蝦夷奥州勢)を征討するために桓武天皇が派遣した最初の征夷大将軍(天皇が任命する蝦討する軍勢の指揮官の称号)・坂上田村麻呂西国勢)が政庁府として築城しますが、時代は下って源頼朝奥州藤原氏奥州勢)を滅ぼしたことで征夷大将軍に任じられて武士の統領となります。本来、武士は天皇の家人として天皇による土地(=農作物や鉱物)の支配を武力的に支え、その代りに天皇が支配する土地の一部を分配されて、その証として天皇から土地の名前をとして与えられるという国家統治の仕組みが確立します。南北朝の動乱天皇による土地の分配に不満を抱く「武士足利尊氏が率いる西国勢)と「天皇」(陸奥鎮守府大将軍・北畠顕家が率いる奥州勢)の政権(土地の分配権)争いに「武士」(西国勢)が勝利しましたが、明治維新天皇による土地の支配を脅かす欧米列強への対処方針(天皇による土地支配を守るために攘するか又は開国するか)で対立する「天皇」(西郷隆盛が率いる西国勢)と「武士」(徳川慶喜が率いる奥州勢)の政権争いに「天皇」(西国勢)が勝利します。日本に限らず、人類の歴史は常に「西」が「東」を支配する歴史であったと言えるかもしれません。
①宇津峯城(福島県須賀川市塩田金山
鳥海山大物忌神社山形県飽海郡遊佐町吹浦布倉10
③椿館(福島県福島市小倉寺椿舘7−6
宇津峰城北畠顕家が石津の戦いで討死すると弟・北畠顕信鎮守府将軍に任命され、陸奥国へ下向します。その後、北朝方の攻撃によって霊山城、多賀城が落城すると、南朝方の伊達氏らと共に南朝方の田村氏(坂上田村麻呂の子孫)の勢力圏内に宇津峰城を築城して抗戦します。 宇津峰城/宇津峰城が落城すると、北畠顕信は未だ南朝方が優勢であった出羽国由利郡へ潜伏して再起を図ります。 鳥海山大物忌神社鳥海山信仰を司る出羽国一之宮です。本社は鳥海山山頂にあり、薬師十二神将薬師如来の十二の大願に応じて十二の時、十二の月、または十二の方角を守る神将)が祀られていますが、これが打越氏を含む由利十二頭の名前の由来にもなっています。 鳥海山大物忌神社北畠顕信出羽国由利郡へ潜伏していた時期に鳥海山大物忌神社南朝復興と出羽国静謐を祈願する寄進状を奉納し、出羽国由利郡乙友邑の土地(もとは由利孫五郎維方の領地で小早川定平(後に毛利元就の三男・隆景が小早川家の家督を承継し、毛利両川と言われる家)に与えられていた土地)を寄進しています。その後、北畠顕信の消息は定かではありませんが、陸奥国津軽郡浪岡村に遁れ又はその子・北畠守親に後事を託して天野行宮がある河内国金剛寺へ帰ったとも言われています。 椿館/北畠(春日侍従)顕国は、北畠顕家と共に陸奥国へ下向し、伊達氏の居城や霊山城に近い阿武隈川沿いの椿館を守備します。1335年(建武2年)には多田貞綱と共に小山氏を攻撃し、1336年(延元元年)には楠木正家と共に佐竹義春と戦います。その後、1343年(興国4年)に北畠親房が籠城する関城・大宝城が落城して北畠親房が吉野に帰還した後も、北畠顕国は常陸国へ留まって北朝勢力に抵抗しますが、1344年(興国5年)、北朝勢力に捕らえられて斬首されます。
①天童城(山形県天童市天童4146
②北畠神社(山形県天童市荒谷421
天童城(天童城主郭跡)北畠顕家・顕信の子孫・北畠天童丸は南朝方の寒河江氏の勢力圏であり、かつ、この近傍にある立石寺南朝方であったことから舞鶴山に天童城を築城して北朝方と抗戦します。その天童城主郭跡には愛宕神社が建立されています。 天童城/1368年(応安元年)に漆川の戦いで寒河江氏が斯波兼頼に大敗すると、文中年間(1372~1374年)に斯波兼頼の攻撃により天童城も落城し、北畠天童丸は陸奥国津軽郡鰺ケ沢村へと落ち延びます。 天童城(天童神社)/天童城内に北畠天童丸を祀る天童神社が建立されています。なお、1576年(天正4年)に織田信長の長男・織田信雄によって北畠具教が殺害されたことにより伊勢北畠氏は滅亡していますが(映画「忍びの国」)、本能寺の変後、織田信雄の子孫・織田信美が天童織田藩主としてこの地を治めて天童城内に織田信長を祀る建勲神社を建立しています。 天童城(王将の碑)/将棋の駒の生産で有名な山形県天童市に因んで舞鶴山には「王」字をあしらった階段の上に王将の碑が設置されています。因みに、打越氏の祖である小笠原氏は御醍醐天皇から「王子紋」を下賜されており、打越氏(本家Ⅰ)も「王子紋」を使用しています。 北畠神社/1351年(正平6年)に北畠顕信がこの地で北朝方の吉良氏を敗走させたことを祈念して神社が建立されています。
①天童山館(青森県西津軽郡鰺ヶ沢町舞戸町小夜670-14
②浪岡城(青森県青森市浪岡岡田10-15
③北畠神社(青森県青森市浪岡北中野上沢田109−15
天童山館/北畠天童丸は天童城(出羽国)の落城によって陸奥国津軽郡鰺ケ沢村へと落ち延び、鰺ケ沢港を一望する天童山に館を構えます。 天童山館/第2代津軽藩主・津軽信枚の弟・津軽信隆がこの場所に館を築いています。 浪岡城/根城南部氏の庇護のもと北畠顕家の子・北畠顕成が陸奥国津軽郡浪岡村へ移住し(浪岡北畠氏の祖)、その娘は南朝方の安東貞季に嫁いでいます。1578年(天正6年)に津軽為信津軽氏の祖)に攻められて浪岡城が落城し、北畠顕村が自刃して浪岡北畠氏は滅亡しています。その後、浪岡北畠氏の子孫は秋田氏、津軽氏、南部氏の家臣として存続しています。 浪岡城JA青森浪岡東部りんごセンター青森県青森市浪岡大字北中野五倫54)の近隣には浪岡北畠氏累代の墓北畠顕信の子・北畠守親の墓が安置されています。 北畠神社/浪岡北畠氏が浪岡城へ移る前に本拠地とした源常館には北畠神社が建立され、浪岡北畠家累代の墓も併設されています。源常館の遺構が残されています。約800年前に植樹された大銀杏の木津軽山唄の碑があります。大浦氏(南部氏→大浦氏→津軽氏)が浪岡城を落城させて堀越城で祝宴をあげますが、その時、家臣が「浪岡の源常林の銀杏の木は、枝は浪岡、葉は黒石、花は弘前の城で咲く」と唄われ、これが木こりの仕事歌である津軽山唄になったと言われています。
北畠神社(三重県津市美杉町上多気1148
青野ヶ原一里塚(青野ヶ原の戦い)(岐阜県大垣市青野町239−1
北畠神社伊勢国司を任命された多気北畠氏の館があった場所。 北畠神社北畠親房の長男で陸奥鎮守府将軍北畠顕家の死後、その後を次男・北畠顕信が次ぎますが(浪岡北畠氏の祖)、三男・北畠顕能伊勢国司に任じられ、多気北畠氏を継いでいます。 北畠神社/北畠庭園。北畠神社には日本最後の石垣も残されています。 青野ヶ原一里塚(青野ヶ原の戦い)/延元2年(1337年)8月、鎮守府将軍北畠顕家は奥州勢を率いて2度目の上洛に向かいますが、利根川の戦い、杉本寺の戦いなどで北朝勢力を破って12月に鎌倉を攻略。翌年1月2日、北畠顕家は鎌倉を出発し、北朝勢力と転戦しながら東海道を西上、1月20日には美濃国に達し、京へ向かうために美濃路から東山道へ転進し、1月29日に青野ケ原の戦いで土岐頼遠北朝勢力8万に勝利。北畠顕家は兵の疲弊が激しいことから、そのまま京都へ進軍せず、一旦、北畠氏の本拠地である伊勢で態勢を立て直します。なお、青野ヶ原(江戸時代には垂井宿として繁栄)には1353年(文和2年)に南朝軍が京を奪還した際に後光厳天皇が行宮を置いた長屋氏屋敷跡があります。  
北畠親房による常陸合戦は第8節へ。
 
第3節 千種氏にゆかりの場所
千種忠顕卿戦死之地跡(京都府京都市左京区修学院丸子青良ケ谷 
禅林寺城跡(禅林寺)(三重県三重郡菰野町下村191

③千種城(三重県三重郡菰野町大字千草851
千種忠顕卿戦死之地碑/1336年5月25日、湊川の戦い楠木正成足利尊氏に敗れると後醍醐天皇比叡山へ籠りますが、その際、京都を守備していた名和長利や於曾貞光(打越氏の祖)が討死します。足利尊氏は東寺に本陣を移し、足利直義比叡山を攻めます。1336年6月7日、千種忠顕比叡山の中腹(山頂に向かってケーブル比叡駅の右手に下り階段があるので、その階段を15分ほど下った右手側に碑があります。)で討死しています。 千種忠顕卿戦死之地碑ケーブル比叡駅から京都を一望できますが、丁度、この下方に千種忠顕卿が戦死した場所があります。攻め寄せる足利軍を一望できる眺望です。 禅林寺城跡(禅林寺千種忠顕禅林寺城を構えましたが、その子・千種顕経が千種城に移ると千種氏の菩提寺として禅林寺を建立しています。境内には、千種忠顕卿追悼碑が建立されています。 千種城/千種顕経が築城しています。小高い丘陵に立地する城なので、戦闘用の詰め城ではありません。  
 
第4節 新田氏にゆかりの場所
新田義貞の墓(福井県坂井市丸岡町長崎19-17
②新田塚(福井県福井市新田塚町605
称念寺新田義貞と親交があった称念寺の住職が新田義貞の遺骸を手厚く葬りました。 称念寺新田義貞の墓)五輪塔は1837年(天保8年)に福井藩主・松平宗矩が建立したもの。 新田塚/1338年(延元3年)、藤島の戦いで新田義貞が戦死し、福井藩主・松平光通は新田義貞の兜が発見された場所に新田塚を建立しました。 新田塚/新田塚の案内板。  
藤島神社福井県福井市毛矢3-8-21
新田義貞首塚神奈川県小田原市東町4-5-6
日野俊基の墓(葛原岡神社)(神奈川県鎌倉市梶原5-9-1
藤島神社新田義貞主祭神とし、新田義顕脇屋義助らを配祀しています。 藤島神社/新田氏の末裔の玉垣が建立されています。 藤島神社/新田塚で発見された新田義貞の兜のレプリカが奉納されています。 新田義貞首塚新田義貞の家臣・宇都宮泰藤(大久保氏の祖)は、晒し首になっていた新田義貞の首級を奪い返し、酒匂川の畔に埋葬したと言われています。その子孫・大久保長安の祖父は金春流能楽師、父は大蔵流の開祖。 日野俊基の墓(葛原岡神社)/1331年(元弘元年)に元弘の乱で捕らえられた日野俊基が葛原ヶ岡で斬首され、その場所(源氏山公園)に日野俊基を祭る葛原岡神社と墓碑が建立されています。なお、1333年(元弘3年)、鎌倉討幕のために挙兵した新田義貞はこの葛原ヶ岡にある化粧坂切通しから鎌倉へ攻め入ろうとしますが突破できず、稲村ケ崎に回って鎌倉へ攻め入っています。
①世良田東照宮得川氏発祥の地)(群馬県太田市世良田町3119−1
②長楽寺(得川義季の墓)(群馬県太田市世良田町3119−6
③徳川東照宮得川義季の館)(群馬県太田市徳川町387
④反町館跡(新田義貞の館)(群馬県太田市新田反町町896
生品神社新田義貞旗揚げの地)(群馬県太田市新田市野井町645
世良田東照宮得川氏発祥の地)/新田氏の祖・源義重の四男・新田義季は、上野国新田郡得川郷及び世良田郷を与えられて得川義季又は世良田義季を名乗ります(得川氏の祖)。 長楽寺(得川義季の墓)/長楽寺には得川義季の墓が安置されています。 徳川東照宮得川義季の館)/徳川東照宮には得川義季の館がありました。徳川家康松平氏の祖・松平親氏徳阿弥と号していたことに肖って、損得の「得川」(えがわ)ではなく人徳の「徳川」(とくがわ)へと改名しています。 反町館跡(新田義貞の館)新田義貞が館を構えていた場所で、土塁や堀などの遺構が残されています。 生品神社新田義貞旗揚げの地)新田義貞鎌倉幕府討幕のために挙兵した場所で、新田義貞像があります。
小手指ヶ原古戦場(埼玉県所沢市北野2-12
②久米川古戦場跡記念碑(東京都東村山市諏訪町2ー20-1
分倍河原古戦場碑(東京都府中市分梅町2-36−5
化粧坂切通し(神奈川県鎌倉市扇ガ谷4-14−7
稲村ケ崎神奈川県鎌倉市稲村ガ崎1-19
小手指ヶ原古戦場/1333年(元弘3年)5月8日、新田義貞生品神社で挙兵しますが、11日には入間川を渡って小手指原に達したところで鎌倉幕府軍と遭遇戦に突入します。新田義貞鎌倉幕府に不満を抱く武蔵の御家人の加勢を得て合戦を有利に展開。鎌倉幕府軍は態勢を立て直すために久米川まで撤退します。新田義貞が源氏の旗を立てた白旗塚と、討幕の誓いを立てた誓詞橋があります。なお、新田軍による鎌倉幕府の攻撃には小笠原貞宗が参陣しており(これにより小笠原貞宗後醍醐天皇から信濃守護に任命され、王子紋を下賜されています。)、打越氏(内越氏)の祖である於曽氏も参陣し、その後、(小笠原貞宗足利尊氏に味方して北朝勢力として活動したのに対して)於曽貞光及び於曽時高は新田義貞と共に後醍醐天皇に味方して南朝勢力として活動していたものと考えられます。なお、打越氏(内越氏)の祖である小笠原(大井)氏は、1335年(建武2年)、謀反を起こした足利尊氏を征伐するために、鎮守府将軍北畠顕家の要請に応じて小笠原(大井)行光(但し、出羽国由利郡へ下向していた庶流と思われる)が上洛軍に参加したという記録がありますので(「蕗原拾葉 高遠進徳本」の「打越家系」より)、小笠原貞光と行動を共にしていなかった可能性があります。 久米川古戦場跡記念碑/1333年(元弘3年)5月12日、新田義貞が久米川に布陣する鎌倉幕府軍に奇襲を仕掛け、手薄になった鎌倉幕府軍の本陣を撃破したことから、鎌倉幕府軍は分倍河原まで撤退します。写真の背後に映る山は新田義貞が本陣を置いた将軍塚です。 分倍河原古戦場碑/1333年(元弘3年)5月15~16日、鎌倉幕府軍は増援を得て巻き返しを図りますが、新田義貞は忍びを使って更に増援が来るという嘘の噂を流して鎌倉幕府軍を油断させたうえで、奇襲攻撃を掛けて鎌倉幕府軍を破ります。なお、京王線分倍河原駅前には新田義貞公之像が建てられ、その功績が顕彰されています。 化粧坂切通新田義貞新田義貞鎌倉街道を南進し、極楽寺切通し、巨福呂坂切通し、化粧坂切通しの三方向から鎌倉を攻めます。 稲村ケ崎化粧坂切通しで攻めあぐねた新田義貞は、干潮を利用して稲村ケ崎から鎌倉へ侵入し、北条高時北条氏の菩提寺・東慶寺切腹して鎌倉幕府が滅亡します。
①矢作神社(うなり石)(愛知県岡崎市矢作町宝珠庵1
②手越河原合戦碑(静岡県静岡市駿河区みずほ5-9-15
③竹之下古戦場碑(静岡県駿東郡小山町竹之下227
④箱根峠(静岡県田方郡函南町桑原1364−50
矢作神社(うなり石)後醍醐天皇は謀反した足利尊氏の討伐を新田義貞に命じますが、新田義貞三河矢作川(写真の向こう岸が岡崎)で足利直義と交戦し、これを撃退します。この際、矢作神社を参詣して戦勝を祈願したところ境内の石がうなりだし、そのご加護で勝利したと伝えられています。 手越河原合戦碑/矢作の戦いで勝利した新田義貞は、駿河の手越河原で12時から20時まで8時間に亘って足利直義と17回の激戦を繰り広げ、これを撃退しています。 竹之下古戦場碑/矢作の戦い及び手越河原の戦いに連勝した新田義貞伊豆国府を占領した後、伊豆三島で軍勢を2手に分けて、1335年(建武2年)12月11日、脇屋義助足利尊氏が守る足柄峠足柄城跡から見える竹之下古戦場方面と富士山後三年の役に向かう源義光が笙を吹いたと伝わる源義光吹笙之石)、新田義貞足利直義が守る箱根峠を攻撃を開始します。しかし、12日、脇屋義助の軍から裏切者が出て総崩れとなり敗走します。南朝勢力が本陣を置いた興雲寺には竹之下合戦供養塔が建立されていますが、足柄峠写真の奥の一番高い山)から攻め下ってきた足利軍と鮎沢川を挟んで激戦となり、やがて劣勢となると興雲寺から鮎沢川沿いを撤退し、藤原為冬(二条中将)は尊良親王を落ち延びさせると白幡神社で討死します。 箱根峠新田義貞は箱根峠を守る足利直義に大勝します。しかし、脇屋義助の軍が総崩れになったという報告を受け、足利尊氏に背後に回られて足利直義と挟撃されることを恐れた新田義貞は、一旦、伊豆三島まで撤退しますが、こにより新田義貞の軍からも裏切者が出て劣勢となり、1336年(建武3年)、足利尊氏により京都が包囲されます。なお、箱根峠には、大石内蔵助赤穂浪士討入り、荒木又右衛門の伊賀越え仇討と並んで日本三大仇討の1つに数えられる父親の仇である工藤祐経を討った曽我兄弟の墓が安置されており、また、大石内蔵助が江戸入りの際に参詣し、赤穂浪士討入りの成功を祈願した曽我神社箱根神社境内)があります。  
①松平東照宮愛知県豊田市松平町赤原13
②松平城(愛知県豊田市松平町三斗蒔15
③高月院(松平親氏の墓)(愛知県豊田市松平町寒ケ入44
天下茶屋愛知県豊田市松平町赤原34-5
大樹寺松平氏9代の墓)(愛知県岡崎市鴨田町広元5−1
松平東照宮松平氏発祥の地には、徳川家康の産湯を汲んだ産湯井戸松平氏の祖・松平親氏像があります。 松平城上野国新田郡得川郷を支配していた清和源氏新田氏流・新田(得川)義季の末裔・得川親氏は北朝方に敗れて清浄光寺(現、神奈川県藤沢市遊行寺)で出家し、徳阿弥と称します。徳阿弥は諸国を流浪して三河国加茂郡松平郷(現、愛知県豊田市)へ至り、阿保親王の血を引く在原氏の末裔で同地を支配していた松平信重に身を寄せます。松平信重徳阿弥を還俗させて婿養子に迎え、松平親氏と名を改めさせます。 高月院(松平親氏の墓)/境内には松平親氏の墓在原氏の墓が安置されています。 天下茶屋/高月院の近くにある天下茶屋では徳川家康が食していた麦飯とろろ(写真左)と「織田がつき 羽柴がこねし 天下餅 座して喰らふは 徳の川という江戸時代(天保8年)の落首に肖った天下餅(写真右)が好評です(「近代日本漫画百選」「筆禍史」の42コマ目「御代の若餅」に解説と浮世絵あり)。 大樹寺松平氏9代の墓)/境内には松平氏9代の墓(手前から初代・松平親氏~第9代・松平(徳川)家康まで)が安置されています。大樹寺の三門から一直線に岡崎城が臨める伽藍配置になっています。徳川家康は、松平氏嫡流のみを徳川氏(但し、損得の「得川」ではなく人徳の「徳川」へ)に復姓し、松平氏の庶流を同格の「氏族」ではなく一段低い「家臣」と位置付けました。映画「引っ越し大名」松平氏9代・松平元康(徳川家康)の二男・松平秀康(結城秀康)を家祖とする越前松平氏を題材としています。
 
第5節 大江氏(寒河江氏)にゆかりの場所
寒河江城(山形県寒河江市丸内1-3-11
②澄江寺(山形県寒河江市本町3-12-3
③大江稲荷社(神奈川県鎌倉市十二所114
寒河江大江広元源頼朝から奥州合戦の恩賞として出羽国寒河江荘及び長井荘を賜り、寒河江荘を長男・大江親広、長井荘を次男・大江時広に承継させており、大江親広の祖父で出羽国寒河江荘の地頭代として赴任していた摂津源氏多田氏流多田仁綱になります。由利氏の祖も摂津源氏多田氏流であり、寒河江氏と由利氏との間で婚姻関係が結ばれた可能性があります。 澄江寺/大江(寒河江)知広が開山した曹洞宗の寺院(澄江寺の由緒書き)。大江広元の四男・大江季光が毛利氏の祖で、また、楠木正成大江季光の子・大江時親に兵法を学んでいます。源(新羅三郎)義光の兄・源(八幡太郎)義家は大江匡房に兵法を学んでいます。 澄江寺/寺紋は大江氏の家紋と同じ一文字三ツ星紋。 澄江寺/境内には大江(寒河江)知広と夫人の墓が安置されています  大江稲荷社鎌倉幕府の政所初代別当として活躍した大江氏中興の祖・大江広元を祀る神社。この近所には大江広元邸宅跡神奈川県鎌倉市十二所921-3)があり、また、源頼朝の墓がある法華堂神奈川県鎌倉市西御門2-1-24)には忠臣として死後も源頼朝を守るために政所初代別当・大江広元の墓及びその子で長州藩毛利氏の祖・大江(毛利)季光(楠木正成に兵法を教えた大江(毛利)時親の祖父)の墓薩摩藩島津氏の祖・島津忠久の墓が安置されています。なお、「源氏」とは皇族が臣籍降下する際に天皇から与えられたもので「天皇とみなもと(源)を同じくする」という意味があります。因みに、平氏は当時の都であった平安京から一字がとられています。
阿保親王墓(兵庫県芦屋市翠ケ丘町9-15
親王寺(兵庫県芦屋市打出町3-21
③阿保天神社(兵庫県芦屋市上宮川町7-11
④金津山古墳(兵庫県芦屋市春日町2-13
⑤阿保神社(大阪府松原市阿保5-4-19
阿保親王平城天皇の第一皇子・阿保親王薬子の変連座して九州大宰府へ左遷される際に、大枝本主は阿保親王の息子を養子に迎え、その子が大枝を大江に改めて大江音人と名乗ります。なお、大塚山古墳(大阪府大阪市阿倍野区北畠3-7−20)が阿保親王の墓である説もあります。 親王阿保親王は「一品親王」と呼ばれていましたので、この「一品」を象って一文字三ツ星紋を使用し始めたので、その末裔である大江氏(寒河江氏、長井氏、毛利氏等)も一文字三ツ星紋を使用しています。因みに、親王寺の寺紋も一文字三ツ星紋になっています。 阿保天神社阿保親王を祀る阿保天神社。なお、阿保親王の末裔である大江匡房河内源氏源義家八幡太郎)に兵法を教え、また、大江(毛利)時親は多聞丸(楠木正成)に兵法を教えたと言われています。 金津山古墳阿保親王が村人のために飢饉に備えて財宝を塚に埋めたという伝承がある古墳。 阿保神社阿保親王及びその子・在原業平が住んでいた住居跡に建つ神社。
①米沢城(山形県米沢市丸の内1-4
善光寺山形県米沢市万世町堂森375
舞鶴城(秋田県秋田市太平目長崎沼田217-5
米沢城/1238年(暦仁元年)に大江広元の次男・大江(長井)時広が築城し、現在は上杉謙信を祀る上杉神社が建立されています。 米沢城/1385年(元中2年)に長井広房が伊達宗遠によって滅ぼされ、その後裔である伊達政宗蒲生氏郷重臣・蒲生郷安→上杉景勝重臣直江兼続上杉景勝と城主が変遷しています。 米沢城/米沢城の近くには上杉家廟所があり、上杉謙信上杉景勝上杉鷹山などの歴代の上杉家当主の御霊が祀られています。また、上杉家廟所の前には上杉家の菩提寺である法音寺があります。上杉謙信を始めとした上杉家当主の御位牌をお参りすることも可能です。さらに、長尾家の菩提寺である林泉寺には直江兼続の墓碑や御位牌等があります。 善光寺/長井時広夫妻坐像が安置されています。また、前田慶次は晩年を善光寺で過ごして他界したことから、境内には前田慶次の墓が安置され、前田慶次が力試しに持ち上げた力石も置かれています。 舞鶴源頼朝から出羽国秋田郡太平邑を下賜された大江氏流長井氏の庶流・太平氏の居城(太平川に面する場所)で、秋田氏に仕えていました。奥羽慶長軍記では太平(左近将監)広治と矢島(五郎)満安を「一家」と記載していることなどから、由利十二頭の矢島氏、仁賀保氏及び打越氏が大江氏の家紋である一文字三ツ星紋と同紋であるのは、大江氏流太平氏、長井氏、寒河江氏と姻戚関係があったことを示しています。
 
第6節 那珂氏(常陸江戸氏)にゆかりの場所
①瓜連城(茨城県那珂市瓜連1222
②金砂山城(茨城県常陸太田市上宮河内町1911
③那珂道辰の墓(茨城県常陸太田市増井町1529-2
瓜連城(常福寺/1335年(建武2年)12月、南朝方の北畠顕家軍は甕の原合戦で北朝方の佐竹貞義軍に苦戦しますが、那珂道辰の加勢により佐竹貞義軍を退けて上洛を果たします。1336年(建武3年)1月、後醍醐天皇から楠木正成に与えられた常陸国那珂郡にその代官として楠木正家が派遣され、楠木正家は瓜倉城を構築して北朝勢力の征討にあたります。 瓜連城(常福寺/1336年(建武3年)2月、楠木正家は佐竹貞義の子・佐竹義直及び佐竹義冬と戦って佐竹義冬を討ち取り、西国でも北畠顕家新田義貞及び楠木正成足利尊氏を破り南朝方の有利に戦況が展開します。 瓜連城(土塁跡)/1336年(建武3年)5月、九州で再起した足利尊氏湊川の戦い新田義貞及び楠木正成を破って高師冬らの大軍を常陸国へ派遣すると楠木正家は劣勢となり、1336年(建武3年)12月、武生城茨城県常陸太田市下高倉町2153−39)から南下する佐竹義篤に責められて瓜連城は落城します。 金砂城/1336年(建武3年)12月、金砂城から南下する佐竹貞義を迎撃していた那珂道辰は瓜連城の落城によって孤立し、那珂道辰ら一族34人と自刃します。 那珂道辰の墓/1336年(建武3年)12月、瓜連城の落城によって孤立した那珂道辰ら一族34人は勝楽寺の裏山で自刃します。このとき那珂通泰は落ち延びて御家を再興し、その後、打越伊賀守(分家Ⅱ)が仕官した常陸江戸氏の祖となっています。
①那珂西城(茨城県東茨城郡城里町大字那珂西1958
江戸城茨城県那珂市下江戸
那珂西城/那珂道辰の居城。1335年(建武2年)12月、那珂道辰は、多賀の甕の原で北朝方の佐竹貞義に苦戦する北畠顕家に加勢し、佐竹貞義の背後を急襲して敗走させます。その後、那珂道辰は北畠顕家に従って上洛し、後醍醐天皇から十六菊に一文字紋を下賜されます。 江戸城/金砂城の戦いで北朝方の佐竹貞義に敗れて自刃した那珂道辰の子・那珂通泰は佐竹貞義と和睦して常陸国那珂郡江戸郷を与えられ、その子・那珂道高は佐竹義篤の娘を娶ってて江戸氏を名乗ります。その後、1460年頃に出羽国由利郡から打越伊賀守(分家Ⅱ)が江戸氏に仕え、その子孫は水戸徳川家に召し抱えられます。      
 
第7節 南部氏(根城南部氏)にゆかりの場所
①南部氏館跡(南部氏発祥の地)(山梨県南巨摩郡南部町南部8244
②南部氏累代の墓(浄光寺)(山梨県南巨摩郡南部町南部8843
新羅神社(山梨県南巨摩郡南部町南部8114
諏訪神社山梨県南巨摩郡南部町南部8909
南部光行・実長館跡(八幡神社)(山梨県南巨摩郡南部町本郷7956
南部氏館跡(南部氏発祥の地)/石津の戦いで北畠顕家と共に南部師行が討死していますが(大河ドラマ「太平記」でも北畠顕家と共に北畠親房に拝謁する南部師行が登場します。)、南部氏発祥の地。富士川を背にし、周囲を掘りで囲った平城。周囲の民家の鬼瓦には甲斐源氏の家紋である割菱(武田菱)があしらわれています。1189年(文治5年)、奥州合戦陸奥国糠部五郡を与えられ、その子孫が陸奥国三戸郡(後に盛岡南部氏)、陸奥国八戸郡(後に遠野(根城)南部氏)へ移住し、江戸時代になると遠野南部氏は盛岡南部氏の筆頭家臣となります。映画「壬生義士伝」の主人公・吉村貫一郎剣聖・塚原卜傳鹿島新当流の使い手)は盛岡南部藩を脱藩して新選組の隊士となった実在の人物です。 南部氏累代の墓と供養塔(浄光寺)/南部氏の菩提寺浄光寺には南部氏供養塔と共に南部氏累代の墓が安置されています。 新羅神社/南部氏の祖・南部光行甲斐源氏の祖・源(新羅三郎)義光を祀る新羅神社を創建。 諏訪神社/1095年(嘉保2年)甲斐源氏の祖・源(新羅三郎)義光がこの地に諏訪神社を創建し、1190年代(建久年間)に南部氏の祖・南部光行が再建した神社。 南部光行・実長館跡(八幡神社/南部氏館跡から北西3KMの山間部に南部光行・実長の山城(八幡神社)があります。南部氏館跡が平城であったので、敵からの攻撃を防ぐ詰城又は富士川の氾濫時に避難するためのものではないかと推測されます。現在は、南部茶の茶畑になっていますが、当時の井戸石垣の跡が残されています。やはり周囲の民家の鬼瓦には甲斐源氏の家紋である割菱(武田菱)があしらわれています。
①道の駅なんぶ(南部光行の像)(山梨県南巨摩郡南部町中野3034−1
②波木井氏館跡(山梨県南巨摩郡身延町梅平2780
③波木井城(山梨県南巨摩郡身延町波木井3034
④円実寺(南部(波木井)実長の像)(山梨県南巨摩郡身延町波木井1132
久遠寺(南部(波木井)実長の像)(山梨県南巨摩郡身延町身延3567
道の駅なんぶ(南部光行の像)名物の南部茶をテーマにしたグルメスポットとしてオープンし、南部氏の祖・南部光行銅像と南部氏に関する資料を展示している資料館が併設されています。 波木井氏館跡鏡圓坊には案内板があり、波木井氏館跡の場所と南部(波木井)実長の墓の場所が案内されています。南部(波木井)実長は、1274年(文永11年)に日蓮を招いて日蓮宗の総本山・久遠寺を建立寄進しており、波木井氏館跡は身延山の正面に位置しています。 波木井城/南部(波木井)実長が身延山東麓に築城した山城で、眼下に富士川が流れる天然の要害です。南部(波木井)実長の子・南部(波木井)実継は1331年(元弘元年)の元弘の乱護良親王らと共に赤坂城に籠城して斬首され、その子・南部(波木井)長継、その後を南部(波木井)長継の従兄弟である南部政行の子・南部(波木井)師行(北畠顕家に従って八戸に下向し、石津の戦いで北畠顕家と共に討死)が家督を相続して南朝方として奮戦し、1392年に南北朝合一を果たすまで南部(波木井)氏は甲斐国巨摩郡波木井郷及び陸奥国糠部郡八戸郷を根拠地としながら南朝方として活躍しています(根城南部氏、後に遠野南部氏)。 円実寺(南部(波木井)実長の像)/南部(波木井)実長は、円実寺、鏡圓坊及び久遠寺(御廟所)の3ケ所に分骨されて供養されており、円実寺には日蓮と共に南部(波木井)実長の像があります。円実寺の寺紋は「鶴丸紋」(JALのエンブレムは鶴丸紋をアレンジ)ですが、南部氏の「対い鶴紋」は1193年(建久3年)に南部光行源頼朝と狩りに出た際に飛来した2羽の鶴を殺さずに射落とし、それを源頼朝から称賛されたことから、「割菱紋(武田菱紋)」の替紋として使用し始めたと言われています。 久遠寺(南部(波木井)実長の像)/南部(波木井)実長が日蓮を招いて建立した久遠寺は、総門三門を抜けて菩提梯に向かう途中に、南部(波木井)実長の像があります。菩提梯を登って、左側に五十棟、右側に大鐘、正面に身延山を背にして本堂祖師堂が並んで建てられています。本堂に向かって右手に開基堂があり、南部(波木井)実長が祀られています。毎朝5時30分から朝勤が行われていますが、大太鼓のリズムに合わせて僧侶と信者が一斉に唱える読経の声が身延山に木霊して感動を禁じ得ませんので、少し早起きをしてこの時間帯に行かれることをお勧めします。
①根城(青森県八戸市根城東溝35-1
②櫛引八幡宮青森県八戸市八幡八幡丁3
大慈寺青森県八戸市松館古里38
根城/南部氏は1189年(文治5年)に源頼朝から奥州合戦の恩賞として陸奥国糠部五郡を与えられ、1191年(建久2年)に南部光行は三男・南部(波木井)実長を甲斐国巨摩郡に残して陸奥国糠部五郡へ入部しています。1331年(元弘元年)に元弘の変で斬首されると、その後、その子・南部(波木井)長継及びその甥・南部(波木井)師行が家督を相続して南部長継の遺志を継いで御醍醐天皇に忠節を尽くしています。 根城/1336年(延元元年)に北畠顕家に従って南部(波木井)師行が甲斐国巨摩郡波木井村から陸奥国多賀城へ下向し、陸奥国糠部郡の郡代に命じられて陸奥国八戸郡に根城を築城します。その後、1338年(延元3年)に南部師行は北畠顕家に従軍し、石津の戦いで討死しています。 櫛引八幡宮南部光行陸奥国へ入部した際に甲斐国巨摩郡南部村から八幡宮遷座し、南部師行が再興し、南部氏の祈願所となりました。 櫛引八幡宮/南部師行の曾孫・南部信光が後村上天皇から拝領した白糸威褄取鎧(国宝)。 大慈寺/根城(八戸)南部氏の菩提寺。根城(八戸)南部氏が陸奥国閉伊郡横田村(現、岩手県遠野市)へ移封になった際に大慈寺も移転していますが、その後、同地にも大慈寺を再興。なお、遠野南部氏の菩提寺である大慈寺岩手県遠野市大工町9-20)には打越氏(分家Ⅷ)の墓も安置されています。なお、大慈寺の近く八戸線「鮫駅」がある葦毛崎は、東山魁夷出世作「道」を描いた場所でもあります。
①南部神社(岩手県遠野市東舘町3−6
②鍋島城(岩手県遠野市東舘町3−6
南部神社南北朝時代に創建された神社で、1627年(寛永4年)に根城南部氏が陸奥国八戸郡から陸奥国閉伊郡横田村(現、岩手県遠野市)へ移封になって鍋倉城に入部し、この神社は根城南部氏の歴代当主を祀る南部神社となります。 南部神社/南部神社の境内には遠野南部氏の歴代当主が愛用した清水が現在も沸いています。 南部神社/南部神社に奉納されている遠野七福神寄付者芳名碑に打越氏(分家Ⅷ)の末裔の方と思われる名前が記されています。 鍋倉城/鍋倉城本丸跡。本丸の城郭を調査していたら、野生のニホンカモシカ(天然記念物)に遭遇しました。 鍋倉城/鍋倉城三の丸跡からは遠野駅のある遠野市街を見下ろすことができます。南朝忠臣・肥後国の菊池氏は根城南部氏を頼って海路で八戸港に上陸し、陸奥国出羽国常陸国に分布していますが、遠野市には旧菊池家の南部曲り家岩手県遠野市土淵町土淵6地割5-1)が現存しています。また、遠野物語でカッパが出没したという伝承地になっているカッパ淵岩手県遠野市土淵町土淵8地割799)があり(「かっぱ巻き」という名称はカッパの好物がきゅうりであることに由来)、そこは安倍氏(阿部氏)一族の屋敷があったと言われています。
①旧菊池家南部曲り家岩手県遠野市土淵町土淵6地割5-1
竜王寺(菊池刑部の墓)(青森県西津軽郡深浦町岩崎玉坂91
旧菊池家南部曲り家南朝忠臣・肥後国の菊池氏は根城南部氏を頼って海路で八戸港に上陸し、陸奥国出羽国常陸国に分布していますが、遠野市には旧菊池家の南部曲り家が現存しています。また、遠野物語でカッパが出没したという伝承地になっているカッパ淵岩手県遠野市土淵町土淵8地割799)があり、そこは安倍氏(阿部氏)一族の屋敷があったと言われています。 旧菊池家南部曲り家/曲り家はいつでも馬の世話ができるように母屋と馬屋がL字型で一体となり一つ屋根の下で人間と馬が共同生活を送る構造になっています。遠野物語では農家の娘が飼馬に恋をしてオシラサマになって天に昇ったという民間伝承がありますが、如何に馬が大切に世話されていたのかが分かります。因みに、オシラサマは蚕の神、農業の神、馬の神として信仰されていますが、映画「千と千尋の神隠し」でも大根の神として登場しています。 竜王寺(菊池刑部の墓)/菊地刑部は南朝忠臣の肥後菊池氏の一族で、長慶天皇を供奉して陸奥国へ下向し、この地に丸山城(菊池館)を築いたと言われています。その子孫は津軽為信津軽統一に協力して岩崎関所番役に任じられ、第11代目の子孫が深浦町奉行として赴任した際に先祖を顕彰するために建立したものと言われています。なお、長慶天皇陸奥国へ下向して食事に困られた際に、家臣・赤松助左衛門が近くの農家からそば粉と胡麻を手に入れて自分の鉄兜を鍋の代わりにして焼き上げたものを長慶天皇に食事として供したのが南部煎餅の始まりと言われています。南部煎餅に「三階松」と「菊水紋」の刻印があるのは、このときに長慶天皇から南朝忠臣である赤松氏の家紋「三階松」と楠木氏の家紋「菊水」を焼き型に使用することを許されたことに由来すると言われています。南朝忠臣の事績は銘菓「南部煎餅」となって現代に伝えられています。 竜王寺(菊池刑部の墓)竜王寺には、南部氏の末裔と思われる七戸氏の墓と共に菊地刑部の末裔と思われる遠野菊池氏の墓が安置されています。肥後菊池氏は並び鷹の羽紋(その分家である遠野菊池氏は違い鷹の羽紋)ですが、竜王子にある遠野菊池氏の家紋は小笠原氏の家紋と同じく松皮菱や三階菱なので、小笠原氏と遠野菊池氏との間で婚姻関係を結んだ際に小笠原氏の家紋が譲与された譲与紋である可能性が考えられます。因みに、打越氏(分家Ⅱ)も肥後菊池氏の末裔である常陸菊池氏と姻戚関係を結んでいます。  
 
第8節 小田氏・関氏・下妻氏・東条氏にゆかりの場所
①東条ケ浦(茨城県稲敷市飯出1706 
②神宮寺城跡(茨城県稲敷市神宮寺829
③阿波崎城跡(茨城県つくば市小田2377
④十三塚(茨城県稲敷市神宮寺2261
⑤小田城跡(茨城県つくば市小田2377
⑥関城跡(茨城県筑西市関舘57
⑦大宝城跡(茨城県下妻市大宝667
北畠親房の墓(奈良県五條市西吉野町賀名生5
⑨小田五郎挙兵難台城址追弔碑(茨城県笠間市上郷2899
東条ケ浦北畠親房は、1338年(延元2年)に石津の戦いで長男・北畠顕家が討死したことにより鎮守府将軍に任じられた次男・北畠顕信、親房、伊達行朝、結城宗広らと共に義良親王宗良親王を奉じて伊勢国大湊から50余艘の大船団で海路を陸奥国へ下向する途中、遠州灘で暴風に遭って四散し、1338年(延元2年)9月に北畠親房の舟は常陸国東条ケ浦に漂着します。現在、東条ケ浦という地名は残っていませんが、霞ヶ浦湖畔17.0kmポストから19.0kmポストのあたりに漂着したものと考えられます。この近くにある「東浄(条)寺」という寺号に東条ケ浦の地名の名残りがあり、また、「飯出」という意味深長な字名も残されており、北畠親房の漂着と何か関係があるかもしれません。 神宮寺城跡/東条ケ浦に漂着した北畠親房の手勢は、この地の地頭職であった東条氏の神宮寺城へ迎えられますが、1338年(延元2年)10月、北朝勢力であった佐竹義篤らに攻められて落城し、北畠親房は近隣の阿波崎城へ遁れます。神宮寺城跡には「北畠准后唱義之碑」が建てられています。 阿波崎城跡北畠親房は、南朝正当を信奉する近隣村々の名手達の協力により阿波崎城を築城し、北朝勢力に抗戦しますが、阿波崎城も落城して、北畠親房は小田城へと落ち延びます。後年、水戸藩主・徳川光圀、彰考館総裁・打越(樸斎)直正が大日本史編纂にあたって南朝正当論(水戸学)を唱え、その思想が明治維新へと引き継がれますが、もともと常陸国南朝色の強い土地柄であったと言えます。 十三塚/阿波崎城が落城した後、北畠親房に協力した近隣の村々の名主13名は佐竹義篤に斬首されますが、その13人の名主の供養塚が残されています。また、北畠親房に協力した名主の1名は斬首を逃れましたが、自ら進んで「ホーイ、ホーイ」と佐竹勢を呼び戻して斬首され、ホイホイ地蔵茨城県稲敷市信太古渡172)として祀られています。 小田城北畠親房は、阿波崎城が落城すると、南朝勢力の小田治久の居城である小田城へ入ります。
神皇正統記起稿之地碑北畠親房は小田城で南朝の正統性を述べた歴史書である神皇正統記を執筆し、その後、徳川光圀大日本史編纂で神皇正統記を高く評価しますが、それは徳川光圀や彰考館総裁・打越(樸斎)直正が唱えた南朝正当論へと受け継がれ、やがて水戸学と結び付いて日本人の歴史観(1つの王朝(万世一系天皇)によって途切れることなく受け継がれてきたという日本の伝統)に影響を与えます。この途切れることなく受け継がれてきた日本の伝統を守ることが日本人の精神的な支柱となり、それが良くも悪くも作用して日本の歴史を形成してきました。光が強ければ陰を濃くするのと同様に、必ず、物事には二面性があり、人生はその選択の連続です。 関城/小田城の落城により北畠親房は結城氏の一族である関宗祐が北畠親房を迎え、北畠親房は関城で神皇正統記を完成したと言われています。その後、関城は北朝方の攻撃により落城して関宗祐は討死しており、関城跡には関宗祐の墓碑が建立されています。関城の落城に伴って、北畠親房は吉野へ帰還しています。 大宝城/1341年(興国2年)、北畠(春日中将)顕国は興良親王を奉じて下妻政泰が守備する大宝城、北畠親房は関宗祐が守備する関城へ入り、伊達行朝が守備する伊佐城と共に北朝勢力に対抗しますが、1343年(興国4年)に大宝城、関城、伊佐城が落城して北畠親房は京都へ帰還しています。なお、北畠親房、北畠顕国及び北畠顕国は、薬王院茨城県水戸市元吉田町682)に吉田郷を寄進して天下静謐を祈願しています。 北畠親房の墓楠木正行、楠木正家、和田賢秀らが四条畷の戦いに敗れると、後村上天皇高師直に吉野を攻められて賀名生行宮します(河内長野~十津川~熊野へ至る街道沿いで、打越氏も多く分布)。その後、一時、観応の擾乱に乗じて京を奪還しますが、再び、足利氏に京を奪い返されます。その後も京の奪還を試みますが、1359年(正平9年)に賀名生で北畠親房が亡くなります。 小田五郎挙兵難台城址追討碑/1387年(元中4年)、南朝勢力の小田(五郎)藤綱は、小山若犬丸と共に挙兵し、北朝勢力の上杉朝奈と戦いますが、1388年(元中5年)、小田(五郎)藤綱は兵糧が底をついたことから城から打って出て討死しています。
 
第9節 結城氏(白川結城氏)にゆかりの場所
①白川城(搦手城)(福島県白河市八竜神143
②関川寺(福島県白川市愛宕町94
小峰城福島県白川市郭内1-168
白川城(搦手城)/1189年(文治5年)、結城朝光は奥州合戦の恩賞として陸奥国白河郡を与えられ、その孫・結城祐広が下総国結城郡から移住して白川城を本拠としています(白川結城氏の祖)。 白川城(搦手城)/結城祐広の子・結城宗広は鎌倉幕府の討幕に参加し、その後、南北朝の動乱では南朝方として活躍しました。
関川寺/白川結城氏の菩提寺。1338年(延元3年)に北畠顕家及び南部師行が石津の戦いで討死しますが、結城宗広は逃れて南朝再興に尽くします。義良親王後村上天皇)を奉じて伊勢国大湊から北畠親房・伊達行朝・中村経長らと共に海路から奥州へ向いますが、暴風で難破し間もなく病死します。このとき北畠親房は小田治久の小田城に身を寄せて神皇正統記を執筆しています。 関川寺/関川寺の境内にある結城宗広の像。 小峰城/1504~1520年(永正年間)に白川結城氏の本城が小峰城に移されています。
結城神社三重県津市藤方2341
結城神社/結城宗広は北畠親房・伊達行朝・中村経長らと共に義良親王を奉じて伊勢国大湊から海路で陸奥へ向かおうとしましたが、海上で遭難して伊勢国津へ流れ着きて病没しています。 結城神社/このとき、北畠親房は伊達行朝・中村経長らと共に常陸国へ漂着し、小田治久の小田城に身を寄せて神皇正統記を執筆しています。 結城神社/津藩主・藤堂高兌は徳川光圀楠木正成の墓碑を建立したことに倣って結城宗広の墓碑を建立しました。    
 
第10節 伊達氏にゆかりの場所
①伊佐城(観音寺)(茨城県筑西市中館456-2
②中村城(遍照寺)(栃木県真岡市中2402
伊佐城(観音寺)/伊達氏は四条流庖丁式創始者で知られる魚名流藤原山蔭の子孫で、藤原氏が統治していた常陸国伊佐郡下野国中村荘に住み、その子孫は伊佐氏や中村氏を名乗ります。中村氏の祖・中村実宗は1111年(天永2年)に常陸介に任命され、常陸国伊佐荘中村に移住して伊佐城を築きます。なお、四条流包丁式は映画「武士の献立」でも登場していますが、日本で唯一の料理の神様を祀る高家神社では年に二度四条流包丁式による奉納が行われます。因みに、高家神社ではヒゲタ醤油が神様に奉納されていますので、神様御用達のヒゲタ醤油宮内庁御用達のキッコウマン醤油となります。 伊佐城(観音寺)/伊佐城の裏を流れる利根川の支流・五行川から臨む筑波山。1335年(建武2年)に北畠顕家による足利尊氏討伐に従軍して上京、興国年間には南朝方として同族の伊佐氏や中村経長らとともに伊佐城を拠点として、北朝方の高師冬らと戦いますが、南朝方は破れて伊佐城は落城します。 中村城(遍照寺)/中村氏の祖・中村実宗の玄孫・中村朝宗(伊達氏の祖)は中村城を築きます。中村城(遍照寺)の敷地内には中村八幡宮が建立され、中村姓の人にとっての氏神様が祀られています。 中村城(遍照寺)/伊達(中村)朝宗が築城した中村城(遍照寺)には、伊達(中村)朝宗の子・伊達(中村)宗村が奥州合戦の軍功により伊達郡信夫郡を与えらて赴任する際に「宗村公奥州征伐の凱旋記念樹」として植樹した榧の木があります。この榧の木の苗が伊達氏発祥の地である高子岡城(鶴岡八幡宮)に移植されています。  
①高子岡城(亀岡八幡宮)(福島県伊達市保原町上保原高子6
②米沢城(山形県米沢市丸の内1-4
③館山城(山形県米沢市館山1688-10
④成島八幡宮山形県米沢市広幡町成島1057-2
高子岡城(亀岡八幡宮/中村氏の祖の中村実宗の玄孫・中村朝宗は、1189年(文治5年)の奥州合戦の軍功により源頼朝から陸奥国伊達郡及び信夫郡を下賜され、中村氏から伊達氏へ改称しました。なお、北畠顕家北朝方の攻勢に備えるために陸奥国府を多賀城から南朝方の伊達氏の所領にある霊山城に移しています(高子岡城から見る霊山城方面)。 高子岡城(亀岡八幡宮/伊達宗村が下野国中村郡から陸奥国伊達郡へ下向する際に中村城(遍照寺)に植樹した榧の木の苗が伊達氏発祥の地である高子岡城に移植されています。 米沢城/大江氏流・長井時広(同じ大江氏流でも寒河江氏は南朝、長井氏は北朝に分かれており、一文字三ツ星紋の永井氏は長井氏の支流)が築城した米沢城は、1377年(天授3年)~1385年(元中2年)に伊達宗遠及びその子・伊達政宗仙台藩主・伊達政宗の8代前で同性同名)の侵攻により奪われ、伊達氏の居城となります。その後、豊臣秀吉の命により上杉景勝の家臣・直江兼続が米沢城の城主となっています。 館山城/1548年(天文17年)、大江氏流・長井氏の滅亡後、伊達晴宗が米沢城に移住したと言われていますが、現在の米沢城ではなく館山城を居城としていたという説もありますが、現在の米沢城は本城、館山城は詰城として利用されていた可能性が考えられます。 成島八幡宮伊達政宗重臣片倉小十郎景綱は米沢八幡宮神職の次男と言われており、米沢八幡宮とは片倉小十郎景綱の母の家が神職を務めていた成島八幡宮のことであると言われています(諸説あり)。片倉氏は信濃国伊奈郡片倉村の発祥で、奥州探題職・斯波氏に従って奥州に入部しています。真田幸村は、大阪夏の陣で次男・真田大八と三女・阿梅姫を片倉景綱の子・片倉重長に託し、片倉重長は阿梅姫を継室に迎え、真田大八は仙台藩士・真田(片倉)守信として仙台真田氏を再興しています。阿梅姫と真田大八の墓は当信寺(宮城県白石市本町62)に安置されています。因みに、真田幸村の五女・御田姫は佐竹(岩城)宣隆の継室となり、三男・真田(三好)幸信は亀田藩士・として亀田真田氏を再興しています。御田姫と亀田真田氏の墓は妙慶寺(秋田県由利本荘市岩城亀田最上町104)に安置されています。
 
第11節 菊池氏にゆかりの場所
菊池神社熊本県菊池市隈府1257
②菊池征西府(雲上宮神社)(熊本県菊池市隈府1512−17
菊池武光像(熊本県菊池市隈府1298−1
④菊地武光墓(正観寺)(熊本県菊池市隈府1128
⑤菊池武重墓(熊本県菊池市亘264−15
菊池神社1870年(明治3年)、明治天皇が顕彰した忠臣・菊池一族を祭祀するために菊池氏居城跡に創建された神社で、第12代菊池武時、第13代菊池武重、第15代菊池武光主祭神としています。 征西府跡(雲上宮神社)/征西将軍・懐良親王の御在所。1336年(延元元年)、懐良親王熊野水軍等の援助を得て伊予国から薩摩国へ渡り、肥後国菊池武光らを味方につけて隈府城に入って征西府を開きます。1361年(康安元年)、観応の擾乱に乗じて一時は大宰府を制圧しますが、再び北朝大宰府を奪われています。 菊池武光/菊地武光像の後方に広がる森が菊地氏の本城である隈府城跡になります。隈府城には菊地十八支城と言われる支城が築かれいましたが、そのうちの1つに打越城( 熊本県菊池市七城町蘇崎335)があります。但し、打越氏の発祥とは直接の関係はありません。  菊地武光墓(正観寺)/菊地武光が創建した正観寺。境内には菊池一族の墓が安置されています。南北朝の動乱は朝廷が武家から政権の奪回を試みたことを端とする争いですが、菊池氏が南朝(朝廷)に味方して奮戦します。その後、時代は下って、明治維新では再び朝廷が武家から政権の奪回を試みて成就しますが、このときも菊池氏の末裔である西郷隆盛が活躍しています。 菊池武重墓/1335年(建武2年)、足利尊氏が謀反を起こすと、新田義貞の軍に加わって各地を転戦しています。菊池氏の一部は、海路から根城南部氏(北畠顕家に従軍した南部師行)が支配する青森県八戸市へ上陸し、岩手県遠野市へ分布しますが(遠野市には打越氏も分布しています)、その一部が常陸国へ進出し、南朝方で楠木正家と共に北朝方と戦った那珂氏の末裔である江戸氏に仕官し、同じく江戸氏に仕官していた打越氏と姻戚関係を結んでいます。
①八代宮(熊本県八代市松江城町7−34
懐良親王御墓(熊本県八代市妙見町2464
懐良親王高田御所跡(熊本県八代市奈良木町183
八代宮/征西将軍・懐良親王主祭神とし、その後、征西将軍職を継いだ良成親王を配祀。 八代宮鎌倉宮井伊谷宮、金崎宮と並ぶ官幣中社 懐良親王御墓/1341年(暦応4年)、南朝方の肝付兼重らが籠城する薩摩国東福寺城が北朝方の島津貞久によって攻め落とされますが、翌1342年(興国3年)、征西大将軍懐良親王熊野水軍らに守られて薩摩国の谷山城に入城し、島津貞久が苦戦を強いられています(「新宮市誌」より)。 懐良親王御墓/1347年(貞和3年)、島津貞久南朝方の熊野水軍らを撃退し、島津氏は日向国から薩摩国への進出を果たしています(「新宮市誌」より)。  懐良親王高田御所跡/1347年(正平2年)、懐良親王薩摩国の谷山城から肥後国の高田御所へ移り、その後、宇土を経て菊池から太宰府へ進出します。
 
第12節 名和氏にゆかりの地
名和神社鳥取県西伯郡大山町名和556
②名和氏館跡(鳥取県西伯郡大山町名和83-1
②長綱寺(鳥取県西伯郡大山町名和69-1
後醍醐天皇御腰掛けの岩(元弘帝御着船所)(鳥取県西伯郡大山町御来屋1016
隠岐の神塚(後醍醐天皇御着船地)(鳥取県西伯郡大山町岡511
名和神社村上源氏名和長年主祭神とし、名和氏一族42名を合祀。名和氏の家紋の帆懸船が社紋。境内にある銘板には名和氏の末裔の方々の御芳名。 名和氏館跡/御来屋港から内陸の高台を上ったところに名和氏の館跡。 長綱寺/名和氏菩提寺長綱寺には名和氏一族の墓が安置されています。境内の裏山からは名和氏の館跡と隠岐島方面を一望できます。 後醍醐天皇御腰掛けの岩(元弘帝御着船所)/133年(元弘3年)に隠岐を脱出した後醍醐天応が名和の湊(御来屋港)に辿り着き、この岩に腰掛けたと言われています。元弘帝御着船所名和氏の館から最寄りの湊ですが、隠岐から脱出した後醍醐天皇が最初に上陸した地と思われます。 隠岐の神塚(後醍醐天皇御着船地)名和長年後醍醐天皇を奉じて挙兵し、船上山の戦いで北条方を撃退して船上山に行宮を設置します。大坂の湊は船上山の最寄りの湊ですが、名和の湊から大坂の湊へ移動した後醍醐天皇が2度目に上陸した地と思われます。
名和長年戦没遺跡(一条院跡)(京都府京都市上京区梨木町192
宇土城(熊本県宇土市神馬町663
名和長年戦没遺跡(一条院跡)/1336年(建武3年)、足利尊氏湊川の戦い楠木正成を破ると京都へ進軍しますが、名和長利や於曾貞光(打越氏(内越氏)の祖)は後醍醐天皇比叡山に遁すために足利直義が率いる北朝勢力と京都御所及び比叡山の間に立ちはだかるように布陣して死守します。この後、足利尊氏は東寺に布陣し、足利直義比叡山を攻めさせますが、この際、比叡山の中腹で千種忠顕が討死しています。 宇土/元弘の変の軍功により、後醍醐天皇から肥後国八代郡を下賜され、名和長年の孫・名和顕興が名和氏一族を連れて下向しています。 宇土/1387年(元中7年)、征西大将軍・良成親王を迎えて、肥後国八代郡高田郷に御所を設けています。 宇土宇土城の南東に打越という字名の土地がありますが、打越氏との直接の関係は確認できていません。  
 
第13節 井伊氏にゆかりの地
井伊谷宮静岡県浜松市北区引佐町井伊谷1991-1
宗良親王御墓(静岡県浜松市北区引佐町井伊谷1991-1
②瓢箪寺(静岡県浜松市北区引佐町井伊谷1989
井伊共保出生井(静岡県浜松市北区引佐町井伊谷1881−9
⑤井伊氏館跡(静岡県浜松市北区引佐町井伊谷607
井伊谷宮/井伊道政及び井伊高顕は宗良親王及び尹良親王井伊谷城に迎えて南朝方として戦います。 宗良親王御墓井伊谷宮の裏手にある宗良親王の御墓。 瓢箪寺/井伊氏菩提寺瓢箪寺には、井伊直政井伊直虎ほか井伊氏一族の墓が安置されています。 井伊共保出生井/井伊氏の始祖・井伊共保が生まれたと伝わる井戸。 井伊氏館跡井伊氏館跡とその後方に見える山が井伊谷城跡。
 
第14節 肝付氏、指宿氏、愛洲氏、柳生氏にゆかりの地
東福寺城跡(鹿児島県鹿児島市清水町28-25
②谷山城(千々岩城)跡(鹿児島県鹿児島市下福元町1485
③高山城跡(鹿児島県肝属郡肝属町新富9110
④自(示)顕流発祥の地(鹿児島県肝属郡肝属町新富9110
⑤弓張城跡(鹿児島県肝属郡肝属町新富5595
⑥松尾(三俣)城跡(宮崎県都城市山之口町花木1630
⑦日和(高)城跡(宮崎県都城市高城町大井手2643
⑧松尾(指宿)城跡(鹿児島県指宿市西方6830
東福寺城跡/肝付氏は1340(興国元年)8月から8ケ月間に亘り籠城し、北朝勢力の島津氏と奮戦。 谷山城(千々岩城)跡東福寺城の落城後、征西大将軍懐良親王は、南朝勢力の挽回のために谷山城(鹿児島県鹿児島市)へ入城。 高山城南朝勢力の肝付氏の居城で、北朝勢力の島津氏に二度攻められていますが、いずれも島津氏を防いでいます。 自(示)顕流発祥の地/肝付氏の祖・大伴氏は近衛軍(物部氏は遠征軍)として八咫烏賀茂氏)と共に神武東征を先導したと言われていますが、肝付兼重は大伴氏の太刀流(勤皇の剣)をもって南朝勢力へ味方。その後、関ヶ原の戦い島津義弘と共に敵中突破した薬丸(肝付)兼成が野太刀流を基にして東郷重位示現流を融合し、野太刀自(示)現流を創始。勤王の剣として明治維新にも活躍した野太刀自(示)現流の技は警視庁に採用されます。 弓張城跡/肝付兼重と共に南朝勢力であった楡井頼仲(楡井氏は清和天皇信濃源氏信濃国高井郡楡井村の発祥)の居城。
   
松尾(三俣)城跡/肝付兼重により築城された日和(高)城の支城です。 日和(高)城跡南朝勢力の肝付兼重は、多々良浜の戦い足利尊氏が勝利すると日和城に籠城しますが、北朝勢力の畠山直顕から攻められ、高山城へ撤退します。 松尾(指宿)城跡南朝勢力の指宿氏(頴娃忠光が祖)は北朝勢力の島津氏と戦い、第8代代指宿忠合が島津元久に敗れて滅亡し、その後、南朝勢力の肝付氏が松尾(指宿)城を守備します。     
①五ケ所城跡(三重県度会郡南伊勢町五ケ所浦2366
愛洲移香斎久忠生誕の地碑(三重県度会郡南伊勢町五ヶ所浦2366

③愛洲一族の墓(三重県度会郡南伊勢町五ヶ所浦2598
④鵜戸神社(宮崎県日南市宮浦3232
⑤打越城跡(三重県度会郡南伊勢町伊勢路
⑥柳生古城跡(奈良県奈良市柳生下町170
⑦柳生一族の墓(芳徳寺)(奈良県奈良市柳生下町445
⑧十兵衛杉(奈良県奈良市柳生下町575
⑨一刀石(天乃石立神社)(奈良県奈良市柳生町786
五ケ所城跡伊勢国南朝勢力であった愛洲氏の居城。北畠氏の養子となった織田信雄により攻められて滅亡します。 愛洲移香斎久忠生誕の地碑陰流の祖・愛洲(移香斎)久忠の生誕地。愛洲(移香斎)久忠が創始した「陰流」は上泉信綱に受け継がれて新陰流となり、更に、柳生(石舟斎)宗厳に受け継がれて柳生新陰流へと発展します。 愛洲一族の墓南北朝時代から戦国時代に亘って南伊勢を支配した愛洲一族の墓所です。 鵜戸神社/1488年(長享2年)、愛洲(移香斎)久忠が鵜戸神社の岩窟に参籠して「陰流」を創始したと言われています。なお、1300年代後半、念阿弥慈恩鵜戸神宮の洞窟に籠って「念流」を創始したと言われています。
打越城跡/五ケ所城から2里(車で10分)の距離に打越城があります。京から五ケ所浦へ通じる伊勢路を守備する支城です。
柳生古城跡/1331年(元弘元年)、後醍醐天皇笠置寺鎌倉幕府を討幕するために挙兵しますが(元弘の乱)、笠置寺に隣接する場所を支配していた柳生播磨守永珍は柳生古城を築いて南朝勢力として戦います。 柳生一族の墓(芳徳寺)/柳生(石舟斎)宗厳、初代柳生藩主・柳生宗矩、柳生(十兵衛)三厳をはじめとした柳生一族の墓所 十兵衛杉/柳生(十兵衛)が江戸幕府からの内命により西国大名の動勢を探るために旅立つ際、先祖の墓地に杉の木を植えたもの。 一刃石/柳生(石舟斎)宗厳が修行中に天狗を一刀のもとに切り捨てたところ、2つに割れた巨石が残ったという伝説があります。   
 
第15節 その他(護良親王(大塔宮/鎌倉宮)、日野俊基藤原師賢、藤原藤房)
大塔宮護良親王御遺跡の碑(滋賀県大津市坂本本町4220
鎌倉宮神奈川県鎌倉市二階堂154
護良親王御墓(神奈川県鎌倉市二階堂748
④村上義光の墓(奈良県吉野郡吉野町吉野山16
大塔宮護良親王御遺跡の碑護良親王は6歳から比叡山で修行を積み、20歳で天台座主に就任しています。護良親王は法勝寺九重塔(大塔)周辺に門室を置いたことから「大塔宮」と呼ばれており、赤坂城の戦いで大塔宮・護良親王が打越氏(本家Ⅲ)の発祥地で打越城がある和歌山県西牟婁郡大塔村に落ち延びたことから大塔村と呼ばれるようになりました。 鎌倉宮護良親王(大塔宮)を祀る鎌倉宮。境内には、護良親王(大塔宮)の御首が置かれた御構廟(御首塚)が祀られています。 鎌倉宮(土牢跡)足利尊氏の暗殺計画に失敗した護良親王は土牢に9ケ月間に亘って幽閉されていましたが、1335年(建武2年)、中先代の乱北条時行及び諏訪頼重護良親王を擁立されることを恐れた足利直義によって暗殺されます。 護良親王御墓理智光寺の住職が護良親王の御首を葬っています。 村上義光の墓/1333年(元弘3年)、吉野で挙兵した護良親王(大塔宮)は北朝方に敗れますが、その際に護良親王(大塔宮)が落ち延びるための時間を稼ぐために村上義光(信濃国の村上氏で、その末裔に村上義清)が護良親王(大塔宮)の甲冑を着て身代わりとなって自害しています。護良親王(大塔宮)を祀る鎌倉宮には村上義光も祀られています。
①葛原岡神社(神奈川県鎌倉市梶原5-9-1
小御門神社千葉県成田市名古屋898
葛原岡神社/1331年(元弘元年)、元弘の変で日野俊基は討幕計画が北条方に発覚して捉えられ斬首されています。なお、日野俊基本願寺を創建した親鸞上人人や日野富子とは同族関係にあります。また、日野家の家紋の鶴丸紋は、日本航空ののマークにも採用されています。 葛原岡神社新田義貞が鎌倉攻めで苦戦した 化粧坂の切通しの山頂にある葛原岡で日野俊基は斬首されています。 葛原岡神社日野俊基が斬首された場所には葛原岡神社が建立され、祀られています。 小御門神社/1331年(元弘元年)、元弘の変で藤原師賢は討幕計画が北条方に発覚し、後醍醐天皇笠置寺に逃れるための時間をするために後醍醐天皇の身代りになって比叡山で挙兵。その後、北条方に捕えられて、下総国へ配流され、1332年(元弘2年)にこの地で病没しています。 小御門神社/本殿の裏に藤原師賢御墓と伝わる塚があります。
①藤原(万里小路)藤房遺跡(藤原城)(茨城県土浦市藤沢1797
②藤原(万里小路)藤房遺跡(藤塚古墳)(茨城県笠間市泉1996
③妙感寺(滋賀県湖南市三雲1758
④藤原(万里小路)藤房供養塔(秋田県秋田市山内田中157-5
藤原(万里小路)藤房遺跡(藤原城/1331年(元弘元年)、藤沢藤房は元弘の乱後醍醐天皇と共に笠置山へ立て籠もり、その後、鎌倉幕府に捕らえられ、常陸国へ配流となって小田氏へ預けとなりますが、この地で剃髪してその髪を埋めた場所に髪塔塚が建立されています。 藤原(万里小路)藤房遺跡(藤塚古墳)/この近くの寺(現在は廃寺)に藤原藤房の墓があったことから、この石碑が建てられました。 妙感寺/藤原(万里小路)藤房は出家して臨済宗妙心寺派・妙感寺を開基します。 藤原(万里小路)藤房供養塔(補陀寺)/藤原藤房は出家して僧侶となり全国を遍歴したと言われており、出羽国にある補陀寺の二世住職・無等良雄は藤原藤房と同一人物であるという伝承が残されていますが(「吉野拾遺物語」「勝地臨毫(菅江真澄)」より)、その真偽は不明です。  
①妙宣寺(千葉県東金市家之子1384
②姫島(八幡神社)(千葉県山武市姫島
妙宣寺/1335年(建武2年)、護良親王(大塔宮、鎌倉宮)が足利直義により斬首されると、その御息女・華蔵姫は上総国山辺郡に遁れ、父宮の冥福を祈るために草庵(尼御所)を結び、後に妙宣寺が開基されます(由緒書)。なお、仁王門仁王尊は、護良親王の守護神と言われ、華蔵姫も厚く信仰したと言われています 妙宣寺(華厳姫供養塔)/妙宣寺には華厳姫の供養塔が安置され、毎年7月1日に華厳姫供養会が催されます。また、華厳姫が洗髪のために利用したと伝わる「髪洗いの井戸」が残されています。妙宣寺の周辺の字名「家之子」は「宮家の子」に由来し、また、「姫島」「御所下」「鎌倉道」など華厳姫所縁の地名が残されています。 姫島(八幡神社/妙宣寺の向かいにある姫島には、華厳姫が勧請した八幡神社があり(八幡神社から臨む九十九里)、ここに華厳姫の墓所「姫塚」があります。妙宣寺には華蔵姫の守り刀と伝わる波平行安作の短刀が秘蔵され、妙宣寺の周囲には華厳姫の従者である岩崎氏高科氏佐藤氏中嶋氏の末裔が分布しています。    
 
第16節 楠木八臣にゆかりの地
①和田(楠木)正遠の墓(常福寺)(奈良県御所市西佐味621
②恩智(左近)満一の墓(大阪府八尾市恩智中町5丁目223
③恩智城跡(恩地公園)(大阪府八尾市恩智中町5丁目188
④八尾(別当)顕幸の墓(常光寺)(大阪府八尾市本町5-8-1
⑤八尾城跡(八尾神社)(大阪府八尾市本町7-7-27
⑥小山城跡(志貴右衛門朝氏)(大阪府藤井寺市津堂44
⑦赤土山城跡(神宮寺(太郎左衛門)正師)(大阪府南河内郡千早赤阪村水分27
⑧佐備神社(宇佐見(河内守)正高?)(大阪府高槻市安満北の町5-26
⑨浄誓寺(安満了願)(大阪府高槻市安満北の町5-26
阿瀬川城跡(湯浅(孫六入道)定仏)(和歌山県有田郡有田川町杉野原152
和田(楠木)正遠の墓(常福寺金剛山にある浄福寺には、和田(楠木)正遠の墓が安置されています(右から三基目の五輪塔楠木八臣の一人。 恩智(左近)満一の墓恩智神社の社家の出で、楠木八臣の一人。湊川の戦いには参加しておらず、湊川の戦いの後に、八尾顕幸らと共に楠木正行を助けますが、延元二年(1337年)に病死。 恩智城跡(恩智公園)/恩(左近)智満一の居城。なお、恩智氏は、代々、恩智神社大阪府八尾市恩智中町5丁目10)の社家を務めていました。創建は雄略天皇14年(470年)頃とも。 八尾(別当)顕幸の墓(常光寺)/八尾別当で、何度か楠木正成に戦さで負けていますが、その後、楠木八臣の一人。湊川の戦いには参加しておらず、湊川の戦いの後に、八尾顕幸らと共に楠木正行を助けますが、延元3年(1338年)に病死。なお、境内には河内音頭発祥の地碑があり、門前通りには河内音頭承継者・河内屋菊水丸のショップが商店街に彩りを添えています。 八尾城跡(八尾神社)八尾(別当)顕幸の築城と伝えられていますが、八尾顕幸が南朝勢力に味方した後に、北朝勢力によって攻め落とされています。
小山城跡(志貴右衛門朝氏)楠木八臣の一人・志貴右衛門朝氏が津堂城山古墳を利用して築城。 赤土山城跡(神宮寺(太郎左衛門)正師)/1332頃年に上赤坂城の支城砦の1つとして築城され、楠木八臣の一人・神宮寺正師が守備しました。 佐備神社(宇佐見(河内守)正高?)楠木八臣の一人・宇佐見(河内守)正高については詳しいことは分かっておらず、一般に、宇佐見氏は伊豆国出身の系流が知られていますが、佐備氏を祖とする説も有力です。 浄誓寺(安満了願)/楠木八臣の一人・安満了願(楠木正頼が出家)が開基した寺。 阿瀬川城跡(湯浅(孫六入道)定仏)/一時、後村上天皇が身を潜めていた阿瀬川城跡には三宝大荒神社が祀られており、その参道に楠木八臣の一人・湯浅(孫六入道)の墓が安置されています。

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第4部第3巻 打越(内越)氏にゆかりの場所(第1段)

第1段 打越氏(本家Ⅰ、分家Ⅰ~Ⅸ、その他)にゆかりの場所

 
第1節 打越氏(本家Ⅰ、分家Ⅰ)にゆかりの場所
金沢柵(秋田県横手市金沢中野(字)金洗沢
本丸跡/1336年(延元元年)に瓜連城の戦いに敗れて奥州へ落ち延びた楠木正家が再起を図るために籠城した金沢柵の本丸跡。 兜石/1087年(寛治元年)に後三年の役源義家清原氏の居城・金沢柵を陥落して自らの兜を土中に埋め、その目印として置いた大石。 兜杉清原氏の滅亡により奥州を支配した藤原清衡源義家を記念して兜石の横に植えた杉。奥州藤原氏源義家の曾孫に滅ぼされる。 菊水の地名/金沢柵の城下町に現代も「菊水」という字名として残る楠木正家の痕跡。城下町に軍記が掲げられていたのではないかと推測される。 納豆発祥の地碑後三年の役で金沢柵を包囲する源義家が農民から俵に詰めた煮豆を馬の背に乗せて供出させたところ、馬の体温で発酵して納豆が誕生。
①打越城跡(白坂館)(秋田県大仙市大沢郷寺(字)白坂館39
②岩倉館跡(秋田県由利本荘市福山(字)岩倉81
③黒瀬館跡(秋田県由利本荘市内黒瀬(字)坂の下
①打越城跡/楠木正家は瓜連城の戦いに敗れて陸奥国へ落ち延び、金沢城(柵)へ籠城した後に打越城(白坂館)を築いて再起を図ります。その後、四条畷の戦いに参加して討死します。 ①北出丸の稲荷神社/昔、大沢郷は打越郷と言い、そこから楠木正家の子・正安が打越と称するようになったと言われていますので、こちらが本当の打越氏の発祥地と言って良いかもしれません。 ①打越城の土塁/楠木正家が築いた打越城(白坂館)は雄物川の支流・大沢川に面し、在地勢力・由利氏と姻戚関係を結んで岩倉館へ移ります。小笠原氏流大井家との婚姻関係等により勢力基盤を確立。 ②岩倉館/楠木正家の孫・正宣が由利惟貴の孫娘・満姫を娶って入城した由利氏の居城・岩倉館跡(ハゲ山の上、日本海東北自動車道34.4キロポスト付近)。 ③黒瀬館/楠木正宣が岩倉館から移り住んだ館跡。
平岡館跡(寒風館)(秋田県由利本荘市内越(字)家ノ前326
平岡館(寒風館)/楠木正宣の子・打越正光が岩倉館から移り住んだ館跡。現在は、白山神社になっています。 平岡館(寒風館)/主郭にあたる部分に白山神社の主殿。
平岡館(寒風館)/西側は芋川を利用した天然の堀。
平岡館(寒風館)/南側、東側の備えである土塁跡。
 
①北館跡(秋田県由利本荘市内越(字)北館
②内越館跡(秋田県由利本荘市福山(字)長者屋敷
③阿久根館跡(秋田県由利本荘市赤田(字)阿久根
④古舘館跡(秋田県由利本荘市赤田(字)古舘
⑤後田館跡(秋田県由利本荘市赤田(字)後田
北館跡/平岡館の北側に位置し、現在は北館天満宮になっています。 内越館跡/内越館は狭小地で防戦に不向きであることから、平岡館に移住したと言われています。 阿久根館跡/奥羽慶長合戦(北の関ケ原の戦い)の軍功により常陸国行方郡新宮邑2000石に加増されて国替えとなった際、この国替えに応じなかった打越氏(分家Ⅰ)の一部が阿久根館に立て籠もり、最上氏との間で小競り合いになったと言われていますが、最上義光が楯岡光直に命じて打越氏(分家Ⅰ)は岩谷古舘に屋敷を与えられます(「由利郡中世考」より)。 古舘館跡/正確な場所は分かりませんが、打越氏(本家Ⅰ、分家Ⅰ)は芋川とその支流・赤田川の流域に幾つかの館を構えていたと言われています。 後田館跡/正確な場所は分かりませんが、阿久根館、古舘館と隣接する場所に館を構えています。
①新宮城跡(茨城県行方市新宮505
②元館跡(秋田県由利本荘市岩谷町八ケノ下80-2
新宮城跡/打越光隆が奥羽慶長合戦(北の関ケ原の戦い)で上杉氏を撃退した軍功により常陸国行方郡新宮村2000石に加増されて大身旗本とります。なお、1619年(元和5年)、打越光久は福島正則の蟄居改易にあたり駿河国志太郡の田中城の守備を命じられています。因みに、福島正則の孫・福島正勝が御家を再興し、代々、御書院番等を務めますので打越氏(本家Ⅰ)と親交があった可能性があります。 新宮城の土塁/新宮城は北浦湖畔に面し、背後を山に囲まれた平城で、現在、新宮城跡は民家と水田になっています。新宮城跡にある民家には往時を忍ばせる土塁が残されています。なお、新宮城は、佐竹義宣小田原征伐で北条方へ味方した大掾氏を滅亡させた南方三十三館の1つです(「麻生の文化9号」より)。「故城あり、打越光隆の居せし所といふ」(「行方郡郷土史」より)、「新宮故城行方郡にあり、打越光隆飛騨守と称す、新宮に居る」(「常陸国誌巻の八」より)。 淡路神社/新宮城の裏手にある神社で、正確な創建年は分かりませんが、打越光隆・打越光久がいた時代に開基されたもののようです。 北浦/北浦は白鳥の里と呼ばれ、毎年、沢山の白鳥が飛来する美しい湖です。マナーが良い人が多いためか人を怖がらないので、真近で野鳥観察ができます。 元館跡/打越氏は奥羽慶長合戦(北の関ケ原の戦い)の軍功により出羽国由利郡内越村1250石から常陸国行方郡新宮村2000石への加増国替えを命じられますが、打越氏の一部が常陸国行方郡への国替えに応じずに出羽国由利郡へ留まったので、出羽国由利郡を支配することになった最上義光から元館への居住を許されます(「親川楠家系図」より)。なお、元館は出羽国由利郡親川村と村境を接しており、岩谷から親川へ移住して打越から楠へ復姓したものと思われます。
八森城跡(秋田県由利本荘市矢嶋町(字)城内八森6
八森城跡/最上氏の国替えに伴って上杉氏の抑えとして出羽国由利郡矢島邑3000石に加増されて交代寄合旗本(大名待遇格)となります。 八森城跡/1635年(寛永12年)、打越光久が高田馬場で頓死し、その嗣子がなかったことから御家断絶となります。実際には妾の男子がいたようですが、御家騒動が勃発して取り潰されたのではないかと考えられます。 八森城跡/案内版には1623年(元和9年)に打越光隆が八森城に入ったとありますが、打越光隆の没年は1609年(慶長14年)であることから、これは打越光久の誤りではないかと考えられます。    
①高屋城跡(大阪府羽曳野市古市5-8-15
金ヶ崎城跡(福井県敦賀市金ヶ崎町1-1
高屋城跡/於曾尚光は明応の政変畠山義豊に加勢して紀伊国雑賀荘に隣接する河内国で討死。 高屋城跡畠山義豊の父で河内国及び紀伊国守護職畠山義就が築城。雑賀衆は畠山氏の要請に応じて各地を転戦しながら傭兵集団として成長し、いち早く鉄砲を導入して全国的に注目されるようになりました。 金ヶ崎城/1337年(延元2年)、打越氏(本家Ⅰ、分家Ⅰ)の祖である於曾時高が金ヶ崎で討死しています。延元の乱で足利尊氏が西国勢を従えて再起すると同族の小笠原氏は北朝方に寝返りますが、1336年5月に京都を守備していた於曾貞光は後醍醐天皇のために戦い、討死していますので、於曾時高も金ヶ崎の戦い南朝方として戦い、討死したものと考えられます。同族の南部氏も南朝方として戦い、石津の戦いで北畠顕家と共に南部師行が討死しています。 尊良親王御陵墓見込地碑新田義貞の子・新田義顕尊良親王金ヶ崎城を落ち延びることを勧めますが、尊良親王は臣下を見捨て逃げることを拒絶して自害しています。金崎宮尊良親王が祀られ、その横に建立されている絹掛神社には金ヶ崎城に籠城して尊良親王と共に自害した武将が祀られています。 金ヶ崎の退き口金ヶ崎の戦いから233年後に金ヶ崎城織田信長朝倉義景との間で行われた合戦の舞台となり、織田信長お市の方が夫・浅井長政の裏切りを両端を紐で縛った小豆袋(袋の小豆=袋の鼠)で知らせたという逸話で有名です。
江戸城東京都千代田区千代田1-1
②田中城跡(静岡県藤枝市田中1-7−20
江戸城(大手門)/打越氏(本家Ⅰ)は、代々、徳川将軍の身辺警護を勤める御書院番や、大奥や西の丸など江戸城の警備を勤める御留守居番を歴任。 江戸城(百人番所/昭和時代は皇居を見下ろす高さの高層ビルの建設は自粛されてきましたが、時代は移ろい、平成に入ると土地の高度利用が進み、丸の内の高層ビル群を背景にすると150年前と現代が共存しているようです。 松之大廊下跡/松之廊下刃傷事件の舞台となった場所。大石内蔵助祖父・大石良欽は常陸国笠間藩浅野家の家老で後に赤穂藩へ国替えとなっており、赤穂四十七士には常陸国笠間出身者も多いです。因みに、笠間は座頭市(実在)の生誕地でもあります。 田中城跡/1619年(元和5年)、打越光久は福島正則の蟄居改易にあたり、駿府城の西の守りとして老中・酒井忠利が城主を勤める田中城(駿河国志太郡)の守備を命じられています。 田中城跡/田中城があった西益焼小学校の校庭に造られた田中城のレプリカです。田中城に特徴的な三重の正円形の総構えの名残りが現代の街割りにも残されています。
打越光業の拝領屋敷
打越光高・打越金之助の拝領屋敷
打越光中・打越光広の拝領屋敷
打越左大夫の拝領屋敷
打越光業の拝領屋敷/御書院番(将軍警護)であった打越光業は1682年から東京千代田区隼町4(現在の最高裁判所国立劇場に跨る土地)に拝領屋敷を与えられています(「江戸城下変遷絵図集」より)。※旗本の知行地(自宅)は江戸城から離れた地方にあるので、江戸勤番の旗本には江戸城周辺の屋敷(社宅)が与えられていました。 打越光業の拝領屋敷/御書院番(将軍警護)であった打越光業は1710年から東京都千代田区九段北2-4-1(現在の靖国神社の境内とシャルトル聖パウロ修道女会に跨る土地)に拝領屋敷を与えられています(「江戸城下変遷絵図集」より)。 打越光高・打越金之助の拝領屋敷/御留守居番(大奥等の江戸城警護)であった打越光高は1724年から、また、御書院番(将軍警護)であった打越金之助(小普請組頭であった打越光広の嫡子)は1792年から、それぞれ東京都千代田区三番町3-9江戸城乾門前)に拝領屋敷を与えられています(「江戸城下変遷絵図集」より)。 打越光中・打越光広の拝領屋敷/小普請組頭(お目見以下の旗本・御家人の管理)であった打越光中は1756年から、また、同じく小普請組頭(お目見以下の旗本・御家人の管理)であった打越光広は1786年から、それぞれ東京都新宿区四谷本塩町15-12(現在の防衛省正門前近辺の土地)に拝領屋敷を与えられています(「江戸幕府旗本人名辞典第1巻」より)。 打越左大夫の拝領屋敷/御書院番(将軍警護)であった打越左大夫は1850年から東京都新宿区若葉1-13-32(現在の西念寺の正面の土地(490坪余)で、西念寺徳川家康の家臣で伊賀忍者の頭領・服部(半蔵)正成が開基し、服部(半蔵)正成の墓が安置されている寺)(「寛政譜以降旗本家百科辞典第1巻」「江戸城下変遷絵図集」より)
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①龍源寺(秋田県由利本荘市矢嶋町(字)城内田屋の下26
②長國寺(茨城県潮来市上戸166
龍源寺(曹洞宗/打越光久が常陸国行方郡新宮邑2000石から出羽国由利郡矢島郷3000石へ加増されて国替えになり開基した打越氏の菩提寺です(打越光隆が龍源寺を開基したと解説している本を見かけますが、一級資料である天下僧録牒(「道元思想のあゆみ3」より)には打越光久が開基檀越として記録が残されており、打越光隆は 1609年(慶長14年)5月18日に没している(「寛政重修諸家譜(巻二百五)」より)と考えるのが自然です。)。その後、生駒氏の菩提寺になっています。 龍源寺(本堂)/龍源寺の本堂は2004年に国の登録有形文化財に登録されています。 龍源寺(打越光隆像)/打越光隆(着座)、打越光久(立座)及び白峰廣椿和尚(指差し)の銅像です。打越光隆は常陸国行方郡新宮村を支配していた1609年(慶長14年)に他界していますので、龍源寺は打越光隆の菩提を弔うために打越光久が創建しています。 龍源寺(打越氏墓)/打越光隆、打越光久の墓です。1634年(寛永11年)に打越光久は高田馬場で頓死して龍源寺に葬られますが、嗣子なく、また、御家騒動も発生していたので御家断絶となります。 長國寺/龍源寺は打越光隆及び打越光久が常陸国行方郡新宮村を領地していた時代に親交があった長国寺(常陸国行方郡八代)の八世即殿分廣和尚の弟子・白峰廣椿和尚を招いて1623年(元和9年)に打越光隆の菩提を弔うために創建しています(「大日本地名辞書第5巻」より)。
①楠木正家の墓(秋田県由利本荘市岩谷町(字)日渡100
恵林寺秋田県由利本荘市内黒瀬(字)程岡37
楠木正家の墓/楠木正家の墓が岩谷にあるのは、打越氏が常陸国行方郡新宮邑2000国へ加増されて国替えになる際に、これに応じなかった打越氏(分家Ⅰ)に対し、最上義光が楯岡光直に命じて岩谷古舘に屋敷が与えられたと言われていますので(「由利郡中世考」より)、その関係で岩谷に墓があるのだろうと思われます。 楠木正家の墓の碑文/楠木正家が「贈正四位」を追贈されたのは1915年(大正4年)のことですが、碑文に「打越九代孫 再建」と記載されており、碑文にある「打越(孫二郎橘正朝)」が1662年(寛文2年)に没していることから、打越正朝の9代孫が官位の追贈を祈念して大正年間に墓碑を再建したということで概ね計算も合います。なお、近隣に藤原藤房の供養塔秋田県秋田市山内田中157-5)もあります。 親川楠家に伝わる甲冑(修身館所蔵)/中世の鎧にしては寸法(体格)が大きく感じられ、鎧のサイズから後世に造られたものである可能性があります。なお、打越氏(分家Ⅰ)は打越氏から楠氏へ復姓しています。 恵林寺/楠木正家の孫・楠木正宣が恵林寺を開基し、その子・打越正光が打越将監を名乗ります。なお、恵林寺の寺紋は菊水紋です。 楠木正宣の墓恵林寺の境内には、楠木正家の墓(五輪塔)が安置されています。楠木正成が千早赤坂の戦いで戦死した味方を弔うために建立した味方塚と同じ形状の石像五輪塔です。
①高建寺(秋田県由利本荘市矢島町立石(字)上野120
鳥海山国際禅堂(秋田県由利本荘市矢島町坂之下(字)上新田39
③耕雲寺(新潟県村上市門前143
高健寺/1427年(応永34年)、傑堂能勝禅師楠木正儀の子・楠木正能)が出家して開基したと伝わる耕雲寺の末寺。 高健寺/寺紋は菊水紋です。 鳥海山国際禅堂/高建寺の禅堂です。 耕雲寺南北朝合一の翌年1394年(応永元年)、傑堂能勝禅師楠木正儀の子・楠木正能)が開基したと伝わる寺。 耕雲寺/寺紋は菊水紋です。
長泉寺(東京都文京区本郷5-6-1
長泉寺(曹洞宗/打越氏(本家Ⅰ)の菩提寺。1635年(寛永16年)、小石川水戸藩邸敷地の拡張に伴って後楽園にあった長泉寺を本郷丸山に移築することになり、徳川光圀観音堂を建立した由緒あるお寺で、打越氏の菩提寺です。 長泉寺(曹洞宗森鴎外小説「伊沢欄軒」では主人公の伊沢欄軒(御殿医)が長泉寺を度々訪れており、その友人として打越古琴という人物が登場しています。 長泉寺(曹洞宗/打越氏(本家Ⅰ)の累代の墓。 長泉寺(曹洞宗/墓には丸に一文字三ツ星紋が刻まれています。  
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神明社秋田県由利本荘市内黒瀬(字)坂ノ下1-1
白山神社秋田県由利本荘市雪車町字白山前33
神明社/応永年間、黒瀬館があった山麓の麓に楠木正宣が開基した神社で、応仁年間、打越正淑が再建しています。 神明社/雪囲いのための鉄パイプが組まれています。 白山神社/岩倉館城主打越宮内少輔が加賀の白山妙理大権現分祀。打越氏(本家Ⅱ)が分布していた玉置神社奈良県吉野郡十津川村)は白山妙理大権現(白山比咩大神、菊理媛尊)を主祭神とし、また、石川県にも打越氏の末裔が数多く分布していますので、打越氏(本家Ⅰ、分家Ⅰ)と打越氏(本家Ⅱ)との関係性を物語るものと言えるかもしれません。 白山神社/社殿は雪囲いに覆われています。  
秋田県湯沢市松岡(字)打越
秋田県由利本荘市鳥海町下直根(字)打越
栃木県芳賀郡芳賀町打越新田
秋田県湯沢市松岡(字)打越菅江真澄が打越式部太夫、打越孫四郎の子孫・打越孫治郎及び内越民部少輔が住んでいると記載しています(菅江真澄全集第五巻)なお、湯沢は小野小町生誕の地 秋田県由利本荘市鳥海町下直根(字)打越/峠道なので打越という字名が付けられたものと推測され、打越氏の発祥とは直接の関係はないと思われますが、鳥海町慈恩寺(笹子)及び正重寺(中直根)は打越氏の菩提寺・龍源寺の末寺。 秋田県由利本荘市鳥海町下直根(字)打越/打越(字名)を見下ろすように丘陵の上に新田氏の末裔の墓があります。因みに、由利十二頭の羽川氏は新田氏の末裔です。 栃木県芳賀郡芳賀町打越新田/慶長年間、打越光行が下野国芳賀郡(現、栃木県芳賀郡芳賀村)に打越新田を開発し、その際に守本尊として虚空大菩薩を崇請して星宮神社を建立し、その末裔である黒崎隼人治郎左衛門が打越邑を開発(「栃木県史第3巻」、「栃木県史第15巻」より)。徳川将軍家へ仕官した打越氏(本家Ⅰ)の知行地(500石)があった下野国都賀郡等に隣接するが、それ以前の話し。 栃木県芳賀郡芳賀町打越新田/打越新田を開発した際に、鎮守として虚空蔵大菩薩を勧進して星宮(八坂)神社を建立し、その境内にある庚申塔には打越邑と刻まれています。一般には地名を氏とするのが一般的ですが、土地を開墾し又は支配した者の氏を地名にする例の1つと思われます。
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①山根館跡(仁賀保氏)(秋田県にかほ市小国(字)館平
禅林寺秋田県にかほ市院内(字)城前75
山根館跡/由利十二頭の旗頭となり、常に打越氏と軍事行動を共にしていた仁賀保氏の居城。 山根館跡/山根館の主郭。 山根館跡/大井友挙が信濃国から由利国へ下向するにあたって上陸した芹田方面。 禅林寺仁賀保氏の菩提寺。寺紋は丸に箱一文字三ツ星紋。 禅林寺/大井友挙と仁賀保挙誠の墓。
①稲荷神社(秋田県にかほ市芹田高磯63
②芹田館跡(秋田県にかほ市三森高田65-1
稲荷神社/1467年(応仁元年)に仁賀保氏の祖である小笠原(大井)友挙が出羽国由利郡へ下向し、芹田岬に着船しています。 稲荷神社/小笠原(大井)友挙が着船した場所には稲荷神社が建立され、仁賀保氏の祈願所となっています。 稲荷神社/稲荷神社の裏手から眺める芹田岬(白雪川河口)。 芹田館跡出羽国由利郡芹田村を支配していた大江氏流芹田氏の館跡。小笠原(大井)友挙の後裔である仁賀保兵庫頭の弟・挙実は芹田氏の家督を相続していますので、小笠原(大井)友挙が仁賀保荘(芹田村を含む)を支配するにあたり芹田氏との間で姻戚関係を結んだ可能性が考えられ、これにより箱一文字三ツ星紋を使用することになったのではないかと推測されます。  
①高城跡(赤尾津氏)(秋田県由利本荘市岩城下蛇田(字)高城
②岩谷館跡(岩谷氏)(秋田県由利本荘市岩谷麓水上162
③滝沢城跡(滝沢氏)(秋田県由利本荘市前郷(字)滝沢館132
高城跡/赤尾津氏(小介川氏)の居城。高城山の麓には佐竹義重の三男・岩城貞隆が藩主を勤めた亀田藩の亀田城もあります。 高城跡/高城から小笠原氏が上陸した松ケ崎方面を臨む。真田幸村の娘・顕性院殿(お田の方)が父を弔うために妙慶寺を建立し、実弟・真田幸信を岩城氏に仕官させて真田(幸村)家を再興します。 永傳寺/岩谷氏の居城・岩谷古館の跡地に岩谷氏の菩提寺である永傳寺が建立され、岩谷朝繁の菩提が弔われています。後年、常陸国行方郡新宮邑への国替えに抵抗した打越氏(分家Ⅰ)が最上義光より岩谷古舘への居住を許されていますが、永伝寺の裏山は親川へ通じています。なお、その末裔なのか、現在でも岩谷や石脇等には打越氏(分家Ⅰ)の系流である打矢氏の分布が確認できます。 滝沢城跡/滝沢城の本丸跡。一時、滝沢(由利)氏は矢島氏との争いに敗れて最上氏を頼って落ち延びていましたが、やがて由利十二頭により矢島氏が滅亡すると復活し、豊臣秀吉から姻戚関係にある打越氏と共に由利五人衆の1氏に選ばれています。関ケ原の戦いの後は最上氏の家老となり、江戸後期の読本作者の滝沢馬琴や幕末には由利公正を輩出しています。 滝沢城跡/滝沢館の近くには日本海から矢島への海上輸送路である子吉川前郷船着場跡秋田県由利本荘市前郷(字)西川町16-3)があります。矢島氏にとって滝沢氏との戦いは海上輸送路の確保という重要な戦略的意味もあったと言われています。
妙典寺(東京都大田区蒲田2-3-10
   
妙典寺日蓮宗触頭寺で、境内には武田氏の元家臣・嶋田氏の墓碑等が安置されています。 妙典寺関東管領上杉氏の菩提寺で、上杉六郎(池上本門寺5世日饒上人)が開基。 妙典寺/1852年(文政8年)7月に入滅した44世住職として打越権右衛門(法名:妙好院日進上人)がいます。(「大田区史史料編寺社2」より)    
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①築館跡(秋田県由利本荘市矢島町城内字築館63-1
②根城館跡(秋田県由利本荘市矢島町荒沢中荒沢80-5
③元弘寺跡(秋田県由利本荘市鳥海町下川内矢ノ本
④大井満安の墓(高健寺)(秋田県由利本荘市矢島町立石上野120
⑤根井館跡(秋田県由利本荘市矢島町元町新町73
⑥正重寺(秋田県由利本荘市鳥海町中直根前ノ沢108-1
⑦巴館跡(秋田県由利本荘市西沢上屋敷17-1
⑧小次郎館跡(牛越館)(秋田県由利本荘市鳥海町栗沢牛ケ首23
⑨紀之社(加賀国金津荘与知村)(石川県かほく市余地
築館跡鎌倉時代畠山重忠が築城し、応永年間、大江義久が築館に入り八森古城を築城したと言われています。 根城館跡/大井義久が築城した平山城。根城館は子吉川の支流・ 荒沢川(金沢橋から臨む根城館)と田沢川に挟まれた(字)矢越と呼ばれる一帯にあります。根城館旧道入口から根城館の本丸へ至ると八幡神社が建立されています。 元弘寺跡/楠木正家が南朝の菩提を弔うために建立したと言われています。矢島(大井五郎)満安の墓が安置され、その隣に矢島(大井五郎)満安の娘・鶴姫が庵を結んで矢島(大井五郎)満安の菩提を弔ったと言われており、その跡地に鶴姫の墓が建立されています。元弘寺のあった場所には八幡神社が建立され、そこから矢島(大井五郎)満安が籠城した荒倉館が見えます。 矢島(大井五郎)満安の墓(高健寺)/元弘寺が廃寺となり、傑堂能勝大和尚(楠木正能)が開基した高建寺に矢島(大井五郎)満安の墓が安置されています。信濃国佐久郡の滋野氏流望月氏の支流・矢島氏は南朝勢力でしたが、最上義光に味方した他の由利十二頭と袂を分かち、同じく南朝勢力の小野寺氏に味方して他の由利十二頭と対立しています。その出自は、滋野氏流望月氏の支流・矢島氏が大江(寒河江)氏と姻戚関係を結ぶなどして大江(矢島)義久となって出羽国由利郡津雲出郷(後の矢島郷)に入り、その後、大井光泰(光重)と姻戚関係を結ぶなどして大井義久に改称して出羽国由利郡矢島郷の勢力基盤を固めたと可能性も考えられます(注4-2) 根井館跡木曾義仲の滅亡後に、義仲四天王の1氏であった信濃国佐久郡の滋野氏流望月氏・根井氏が出羽国由利郡へ下向しており、矢島氏の重臣をつとめていました。なお、信濃国佐久郡にある根井正親の館跡は正法寺となっていますが、(どのような経緯があるのか分かりませんが)出羽国から信濃国へ移住したと思われる佐藤氏の墓が安置されています。
正重寺義仲四天王の1人であった根井正親の末裔・根井正重は、矢島(大井五郎)満安の弟・大井与兵衛と共に謀反を起こしますが、大井与兵衛は討ち取られ、根井正重は出家して正重寺を開基しています。 巴館跡木曽義仲の愛妾・巴御前の末裔・巴太郎頼勝が隠棲していたと伝わる巴館跡があります。巴御前は、木曾義仲の養父・中原兼遠の娘と言われており、中原氏の末裔と思われる者達も出羽国由利郡へ下向してきています。 小次郎館跡(牛越館)/楠木正家が築城し、その後、楠木(打越)小次郎が居城としました。楠木(打越)小次郎は、当初、元弘寺を居城としていましたが、後年、小次郎館(牛越館)へ移っています。 紀之社(加賀国金津荘与知村)/1491年(延徳2年)、京都上賀茂神社の荘園だった加賀国金津荘の与知村を支配していた土豪として打越新兵衛の名前があります(参74)。紀之社は、当時、金津荘の鎮守ために京都上賀茂神社から移築されたものです。この近傍に賀茂神社が祀られています。 紀之社(加賀国金津荘与知村)/打越新兵衛は、経済的又は人的関係を梃子にして金津荘以外の土地から入部し、金津荘の荘園経営には直接関与せず、専ら軍事的な面で一向宗徒(本願寺)と深い結び付きを持っていたようです。
白鳥神社長野県東御市本海野1204
②興善寺(長野県東御市和1557
③打越城跡(真田古城・信綱寺)(長野県上田市真田町長8064-1
上田城長野県上田市二の丸2
⑤望月城跡(長野県佐久市望月1730
⑥根井館跡(正法寺)(長野県佐久市根々井624
⑦矢島城跡(長野県佐久市矢島550-1
木曾義仲挙兵の地(長野県上田市御嶽堂145
白鳥神社海野宿にある白鳥神社は海野氏及び真田氏の氏神で、海野氏は木曾義仲に味方しています。木曾義仲挙兵の地(白鳥河原の勢揃) 興善寺/海野氏の菩提寺で、海野幸明の墓(“幸”は海野氏、真田氏の通字)が安置されています。六文銭は、もともと海野氏及び真田氏の家紋であったもので、武田信玄が三途の川の渡し賃として真田氏へ下賜した譲与紋ではありません。さしずめ武田信玄から六文銭の家紋の由来を訊ねられたことが、武田信玄から譲与紋を下賜されたという逸話になったのではないかと推測されます。 打越城跡(真田古城・信綱寺打越城(真田古城・信綱寺)は、真田氏が旧領を回復した後、真田本城を築くまで打越城(真田古城)を居城としましたが、その後、真田信綱が同地に寺を建立し、長篠の戦いで討死した真田信綱真田昌輝の墓が安置されています。これに伴って真田昌幸が真田氏の家督を相続します。打越城正面左側が真田本城、その右側が砥石城となります。 上田城真田昌幸が上杉氏への備えとして徳川家康に築城させた後に寝返って、2度の上田合戦で徳川軍を敗退させています。上田と海野の間には真田軍が川の堰を切り数多くの徳川軍を溺死させた神川合戦の古戦場があります。真田十勇士の1人・由利鎌之助 望月城跡/望月城の麓にある城光寺は望月氏菩提寺で、真田氏、依田氏などの墓を安置しています。
根井城跡(正法寺義仲四天王の1人・根井行親の館跡には正法寺が建立され、根井行親の供養塔が安置されています。(どのような経緯があるのか分かりませんが)出羽国から信濃国へ移住したと思われる佐藤氏の墓が安置されています。また、古越氏の墓も安置されていますが、滋野一族は「〇越」(打越、矢越、古越など)という屋号を使用する例が多くあります。 矢島城跡源平盛衰記や承久記に名前が登場する矢島(八島四郎)行忠が築城しています。 木曾義仲挙兵の地/1180年(治承4年)、以仁王平氏打倒を命じる令旨を発し、叔父・源(新宮十郎)行家が諸国の源氏に挙兵を呼びかけると、これに応じて家臣・依田実信の依田城で挙兵します。依田城の麓には木曾義仲館跡が残されています。なお、木曾義仲の滅亡後は、巴御前木曾義仲の菩提を弔うために依田城の麓に庵を構えた場所に、巴御前がお歯黒を落とした巴御前お歯黒の池が残されています。    
 
第2節 打越氏(分家Ⅱ)にゆかりの場所
①立(館)山城跡(茨城県ひたちなか市館山9015
②浄光寺(茨城県ひたちなか市館山9015
③河和田城(茨城県水戸市河和田町1019
立(館)山城跡/1460年頃、打越伊賀守が江戸(但馬守)道勝(道房)から永禄200貫(約2000石)を与えられて立(館)山城主となります。 立(館)山城跡/打越伊賀守は丸に一文字三ツ星紋を使用していることから、出羽国由利郡から下向したものと思われます。 立(館)山城跡/打越伊賀守は嫡男の打越豊後守に家督を相続し、次男を大戸村庄屋、三男を中根村庄屋として帰農させています。なお、1670年頃、打越氏が茨城県ひたちなか市中根の六ケ新田(500石超)を開発して領有しています(「角川日本地名大辞典8 茨城県」より)。 浄光寺浄土真宗本願寺派・浄光寺は親鸞の弟子・藤原(隼人佑)頼貞(薩摩梅原)が常陸枝川に開基し、1696年に現在の地に移転されています。 河和田城跡/1336年(延元元年)、楠木正家が守備していた瓜連城が落城すると南朝方の那珂通辰は北朝方の佐竹貞義に滅ぼされます。その子・那珂通泰は佐竹氏に仕えて常陸国那珂軍江戸郷を与えられたことから江戸氏を名乗るようになりました(第5部第2巻を参照)。1300年代後半に江戸道景は河和田城を本拠とし、1426(応永33年)に江戸道房が江戸城を攻め落として本拠を水戸城へ移しています。その後、打越伊賀守が江戸道房(道勝)に仕官しています。
①額田城跡(阿弥陀寺)(茨城県那珂市額田南郷258
②久慈浜の戦い(茨城県常陸太田市島町2317
額田城跡常陸江戸氏に仕官した打越伊賀守の子孫・打越刑部少輔は、1589年(天正17年)に常陸江戸家の重臣である神生右衛門大夫が起こした謀反(神生の乱)で、神生氏を匿った小野崎照通が守備する額田城を攻め(小野崎氏は結城へ敗走)、江戸重道から「額田において討敵の動比類なく候」という感状が発給されています。 額田城跡/額田城跡には浄土真宗大谷派阿弥陀寺が建立され、境内には徳川光圀のお手植えと伝われる枝垂れ桜があります。 額田城跡/打越刑部少輔の子孫・打越瀬左衛門の日記には、打越越刑部少輔が幼少期に北条氏へ人質にとられており額田城攻めが初陣であったことや、江戸重道の姪を妻に娶ったことなどが記されています。また、菊池隼人(南北朝の動乱南朝方として活躍した肥後国菊池氏の庶流で江戸但馬守から常陸国那珂郡三反田に700石を与えられて仕官)の娘を娶っていた打越彦三郎は額田城の戦いで討死しています。因みに、打越豊後守は菊池隼人の父である菊池内膳の姉妹を娶っています。 久慈浜久慈川湖畔から臨む梵天山と島村。1864年(元治元年)9月9日、大発勢に加わっていた水戸藩目付方同心組・打越(佐次郎)正只が常陸国久慈郡島村で討死。久慈浜の古戦場から西に約3kmに瓜連城南東に約3kmに額田城がありますので、打越氏の戦いを語るうえで欠かせない場所です。 久慈川水戸藩天狗党(改革過激派)と諸生党(保守派)の内乱を鎮圧するために水戸藩主・徳川義篤の名代として大発勢(改革慎重派)を指揮していた宍戸藩主・松平頼徳は和平交渉を装った幕府勢に謀殺され、大発勢に加わっていた打越貞助は佐倉藩・堀田(相模守)正倫の佐原陣屋にお預けとなります(その後の記録がありませんが、放免されたのではないかと思われます)。
水戸城茨城県水戸市三の丸3-10-1
偕楽園茨城県水戸市常磐町1-3
水戸城(大手橋)水戸城三の丸から水戸城二の丸へ向かう大手橋。水戸城三の丸小学校と弘道館があります。 水戸城(大手門跡)水戸市立第二中学校と彰考館跡茨城県立水戸第三高校があります。なお、現在、水戸城大手門及び二の丸角櫓の復元整備工事が行われていますが、二の丸角櫓に使用する瓦の寄付「一枚瓦城主」が募集されています。(水戸城二の丸は打越(樸斎)直正が第2代水戸藩主・徳川光圀の信任を受けて総裁を務めた彰考館があった場所でもあります。) 水戸城(本丸跡)/本丸と二の丸を隔てる空堀で、本丸跡には茨城県水戸第一高校があります。1590年(天正18年)、北条方に味方して小田原征伐に参陣しなかった江戸重道は佐竹義宣に討伐され、江戸氏の家臣として江戸城の守備にあたっていた打越左京亮は討死しています。 偕楽園好文亭から臨む偕楽園千波湖偕楽園とは孟子の「古の人は民と偕に楽しむ、故に能く楽しむなり」に由来し、「是れ余が衆と楽しみを同じくするの意なり」という愛民精神を表現したもので、それを体現するように武士だけではなく一般庶民も広く偕楽園への入園が許されていました。 日本初のエレベーター茨城県と言えば、日立製作所が創業された場所ですが、水戸藩主・徳川斉昭が日本初のエレベーターを発明しています。このほかにも徳川斉昭日本初の戦車日本初の潜水艦等も発明しています。つくば万博や筑波宇宙センター(JAXA)に象徴されるように茨城県イノベーションを育む風土があると言えるかもしれません。
彰考館(茨城県水戸市三の丸2-9-22
大日本史編纂之地水戸藩主・徳川光圀は修史事業として大日本史編纂を計画し、江戸小石川藩邸に彰考館を設置し、その後、水戸城二の丸(現、水戸市立第二中学校)へ移設します。北畠親房の「神皇正統記」の影響を受けた水戸藩主・徳川光圀や彰考館総裁・打越(僕斎)直正らが南朝正当論を唱えます。これを根拠として、1911年(明治44年)に明治天皇三種の神器を所持していた南朝が正当であるという勅裁を下されました。なお、1879年(明治12年)に和田勘恵(佐竹氏流・小沼義宣が婿養子に迎えた楠正継の末裔)は水戸学の影響を受けて、楠木正成の功績を称えて忠義心を養うための楠木神社茨城県鉾田市上太田525−3)を建立。鳥居横の遙拝壇の頂上にはご神木の樹齢120年の楠。 彰考館総裁/打越(樸斎)直正(贈縦五位)は大日本史の初版(享保本)を完成させ、最初に徳川将軍へ献呈したときの彰考館総裁で、後の尊王思想に大きな影響を与えています。 彰考館扁額徳川光圀揮毫による扁額で、彰考館とは「彰往考来」(往事を彰らかにし、来時を考察する)に由来して命名されています。水戸学の礎を築き、それが200年後に明治維新を起こす幕末志士達の思想的な支柱となります。 大日本史/将軍へ献呈された大日本史のBOXセット。木版印刷(凸版印刷)の技術を使って製本されています。 徳川光圀印籠徳川斉昭徳川光圀以来の水戸徳川家の家訓として「水戸家が将軍家を助けることは当然だが、万一、朝廷と将軍家との間に争いが生じることになった場合でも、水戸家が朝廷と敵対することがあってはならない。」という教えを徳川慶喜に諭していたので、徳川慶喜は朝廷に弓引くことなく江戸無血開城明治維新が成し遂げられました。稀代の名将と評せられる一方で君臣和睦に心を砕いた楠木正成楠木正儀の忠義の本分が大日本史編纂とそれにより育まれた水戸学を通して水戸徳川家にも息衝いていたことが感じられます。
①酒門共有墓地(茨城県水戸市酒門町330
②常盤共有墓地(茨城県水戸市松本町13−34
酒門共有墓地徳川光圀水戸藩士のための共有土地として酒門共有墓地と常盤共有墓地を建立しています。 酒門共有墓地/彰考館総裁・打越(樸斎)直正の墓のほか、水戸藩家老・戸田忠大夫、水戸藩家老・安島帯刀、水戸藩家老・岡田徳至などの墓が安置されています。 打越(樸斎)直正の墓/彰考館総裁・打越(樸斎)直正(贈従五位)とその子・打越直道の墓が安置されています。 善重寺/打越(樸斎)直正の墓は、現在、酒門共有墓地にありますが、もともとは酒門共有墓地と地続きになっている善重寺(浄土真宗大谷派)の墓地にあったものが酒門共有墓地に紛れ込んだものです。 常盤共同墓地/彰考館総裁・安積(澹泊)覚兵衛覚の墓があり、TVドラマ「水戸黄門」で格さんのモデルになっています(覚→格)。彰考館総裁の打越(撲斎)直正の先輩にあたり、大日本史編纂の方針につて安積澹泊に意見した記録「樸斎正義」が残されています。
常盤共有墓地水戸藩儒学者藤田幽谷(父)、藤田東湖(子)の墓です。彰考館総裁・打越(樸齋)直正は藤田幽谷から高い評価を得ています(「水戸史学先賢伝」「水戸光圀の遺猷」より)。 常盤共有墓地藤田東湖の息子・藤田小四郎は筑波山で蜂起し、明治維新の端緒となった元治甲子之変を主導しています。 常盤共有墓地桜田門外の変を指揮した水戸藩士・関鉄之介の墓です。映画「桜田門外ノ変」では、大沢たかおさんが演じる主人公です。    
①氷之沢鹿嶋神社(茨城県常陸大宮市氷之沢266
風車の弥七の住居跡(茨城県常陸大宮市松之草375
③正宗寺(茨城県常陸太田市増井町1514
氷之沢鹿嶋神社/1691年(元禄4年)、水戸藩郡奉行・林十衛門及び郡奉行代官・打越瀬左衛門は徳川光圀の命を受けて鹿島神宮から分祀した氷之沢鹿嶋神社を造営しています(「第84回ふるさと見て歩き」より)。 風車の弥七の住居跡/TVドラマ「水戸黄門」で風車の弥七と妻のお新のモデルになった小八兵衛とお新の住居跡(うっかり八兵衛は架空の人物で弥七の本名)。徳川光圀の下で忍び働きをしていましたが、氷之沢鹿嶋神社の普請に駆り出されていた可能性もあります。  正宗寺/正宗寺は佐竹氏の菩提寺で、TVドラマ「水戸黄門」で助さんのモデルになった彰考館総裁の佐々(介三郎)宗淳の墓(介→助)も安置されています。なお、佐々宗淳は徳川光圀の命により湊川神社楠木正成の墓(嗚呼忠臣楠子之墓)を建立しています。    
①打越(瀬左衛門)政徳の屋敷(茨城県常陸太田市町田町163-1
②西山御殿(茨城県常陸太田市新宿町590
打越(瀬左衛門)政徳の拝領屋敷/打越(瀬左衛門)政徳は水戸藩郡奉行代官武茂組を勤めていましたが、当時は在方陣屋制度(郡奉行土着制)が採られており、打越瀬左衛門の日記には水府の士人と記載されていることから、常陸国久慈郡水府邑に拝領屋敷を与えられていたと考えられます。 西山御殿(西山荘/1691年(元禄4年)から徳川光圀が隠居所として暮らしていました。 西山御殿(西山荘徳川光圀の書斎で、晩年はここで大日本史の筆削にあたっていたと思われます。 西山御殿(西山荘西山荘は佐竹氏の居城であった太田城と近く、打越(瀬左衛門)政徳の屋敷と隣接しています。  
水戸金工打越派の祖、打越(一乗斎)弘寿(東京都千代田区神田
福神図鍔/水戸金工打越派の祖・打越(一乗斎)弘寿の作(作風記事)。水戸金工は矢田部通寿が基礎を築き、その門人に写実風の高彫りを得意とする打越(一乗斎)弘寿等が現れて江戸神田で活躍して評判となります。細かい細工に優れた物が多く明治金工の礎となり、その技術は皇居外苑楠木正成公の銅像製作等にも生かされます。 魚尽図鐔/打越(一乗斎)弘寿の作。クインシー・A.ショー氏が東京国立博物館に寄贈し、その後、光村利藻のコレクションに加えられて根津美術館が所蔵しています。 仙遊寺図小塚/画題となった白楽天長恨歌「林間煖酒焼紅葉 石上題詩拂緑苔」(意訳:森林で紅葉の落ち葉を焚いて酒を煖め、緑に苔むした石の上に詩を刻んだものだ。)と記されています。なお、打越(一乗斎)弘寿は本阿弥家とも親交があったと言われています。 三番叟図小柄/打越(一乗斎)弘寿の門人・桃寿の作。  
 
第3節 打越氏(分家Ⅲ)にゆかりの場所
①大寶寺(佐竹屋敷跡)(神奈川県鎌倉市大町3-6-22
②馬坂城跡(茨城県常陸太田市天神林町3247
太田城茨城県常陸太田市中城町151
④秋田城(秋田県秋田市寺内大畑3
⑤大館城(秋田県大館市中城20
大寶寺(佐竹屋敷跡)/源(新羅三郎)義光が屋敷を構え、その後、佐竹義盛が出家して多福寺(現、大寶寺)を開山しています。なお、境内には源(新羅三郎)義光の墓が安置され、また、多福稲荷(写真右)は源(新羅三郎)義光が建立したものです。 馬坂城跡/源(新羅三郎)義光の孫・佐竹昌義は常陸国久慈郡佐竹郷の居城1106年(嘉承元年)、源(新羅三郎)義光及び源義業常陸合戦で従父・源義国(新田氏、足利氏の祖)と戦って常陸への侵攻を防ぎ、源義業はその子・源(佐竹)昌義へ常陸国久慈郡佐竹郷を与え(佐竹氏の祖)、佐竹昌義は馬坂城を築城します。 太田城/佐竹昌義の子・佐竹隆義は馬坂城から太田城へ移り、その後、1590年(天正18年)、佐竹義重小田原征伐に参陣しなかった江戸重通を滅ぼして水戸城に居城を移すまで、佐竹氏の本城となります。 秋田城関ケ原の戦いに参陣しなかった佐竹義重の子・佐竹義宣常陸国から出羽国へ減封国替えとなりました。 大館城/1678年(延宝六年)、打越角右衛門は久保田藩大館城代を務めていた佐竹西家の佐竹義房に禄高30石として仕えています。なお、1698年(元禄11年)、打越光政が久保田藩に提出した系図にはその名前が見当たらないので、佐竹氏に仕官した打越氏がもう複数家あった可能性があります。
①佐竹寺(茨城県常陸太田市天神林町2404
②正宗寺(茨城県常陸太田市増井町1514
③天徳寺(秋田県秋田市泉三嶽根10-1
佐竹寺/佐竹昌義が寺領を寄進して祈願所とし、1546年(天文15年)に佐竹義昭が兵火により消失した本堂を現在地に再建し、馬坂城の鬼門除けとしています。 佐竹寺/現在、茅葺屋根の葺替えを計画されており、平成34年3月まで佐竹寺社務所で一口3000円からの募金を募られています。 正宗寺/佐竹氏の菩提寺。境内にはTVドラマ「水戸黄門」で助さんのモデルになった彰考館総裁・佐々(介三郎)宗淳の墓(介→助)も安置されています。 正宗寺/佐竹氏の菩提寺に安置されている佐竹氏の墓。 天徳寺/佐竹氏が常陸国から出羽国へ減封国替えと共に移設された佐竹氏の菩提寺で、境内には佐竹氏累代の廟所があります。また、闐信寺(秋田県秋田市手形蛇野89)には佐竹義重の墓が安置されています。
①五林平八幡宮青森県北津軽郡板柳町五林平細田90
       
五林平八幡宮/五林平村を知行された津軽藩士・打越(常左衛門)勝由及びその子・打越(源五郎)勝村が建立し、棟札を奉納しています。鳥居には、津軽名物の「鳥居の鬼コ」が鎮座。        
 
第4節 打越氏(分家Ⅳ)にゆかりの場所
①種里城(青森県西津軽郡鰺ケ沢町種里町90
②堀越城(青森県弘前市堀越柏田243
弘前城青森県弘前市下白銀町1-13
種里城/1491年(延徳3年)に南部光行の四男・七戸朝清の庶流である南部(久慈)光信(大浦氏の祖)が十三安東氏の抑えとして種里城に入り、1502年(文亀2年)に大浦城を築城してその子・大浦盛信に守備させます。なお、種里城跡には、南部(久慈)光信の廟所津軽氏子孫の方々による植樹歴史資料館「光信公の館」があります。 堀越城/大浦盛信の孫・大浦為則は堀越城主・武田重信を降伏させると弟・大浦守信を武田重信の娘・阿保良(戌姫)の婿養子として送り込み、大浦守信は大浦城から堀越城へ入ります。 津軽藩祖・津軽為信の像/1571年(元亀2年)に大浦守信の子・大浦為信は南部宗家の御家騒動を奇貨として石川城郡代南部高信を滅亡させて津軽攻略に乗り出し、1578年(天正6年)には浪岡城を落城させて北畠顕村を自害させて(浪岡北畠氏の滅亡。この2年前に北畠具教が織田信長織田信雄の計略により殺害されて伊勢北畠氏の滅亡。)、津軽統一を果たします。1591年(天正19年)に大浦為信は豊臣秀吉から津軽三郡(平賀郡、鼻和郡、田舎郡)及び合浦一円の領地を安堵されて南部氏からの完全な独立を果たします(津軽氏の祖)。 弘前城(二の丸東門)/国指定重要文化財。1611年(慶長11年)に大浦(津軽)為信(津軽氏の祖)の子・津軽信枚が堀越城から弘前城へ移ります。 弘前城(本丸)/本丸石垣を改修中ですが、天守曳家によって天守の位置が約70m北西へ移動(写真手前のネットが張ってある場所から天守が移っている場所まで移動)しています。晴れていれば天守の後ろに岩木山が望めます。
①革秀寺(青森県弘前市藤代1-4-1
長勝寺青森県弘前市西茂森1-23-8
恵林寺青森県弘前市西茂森1-6-1
革秀寺津軽為信によって造営され、その子・津軽信枚が境内に津軽為信の霊屋を建立すると共に、藩士による境内への立ち入りを制限することで津軽為信の霊威を高めることに利用しています。 長勝寺津軽氏の菩提寺。大浦盛信が大浦(南部)光信の菩提を弔うために創建。境内には津軽氏の歴代当主の墓碑が安置されています。長勝寺の境内からは津軽富士の異名を持つ岩木山が臨めます。 恵林寺曹洞宗弘前城を築城した津軽信枚は津軽氏の菩提寺を含む禅院33ケ寺を1ケ所に集めますが、その1寺として打越氏(分家Ⅳ)の菩提寺恵林寺が含まれています。楠木正宣が出羽国由利郡に恵林寺曹洞宗)を開山していますが、その関係は不明です。 恵林寺曹洞宗/打越光久に嗣子がなく御家が断絶しますが、次男・打越光種は徳川将軍家へ仕官し、四男・打越光春及び五男・打越光豊(後に、その子孫が柳沢氏へ仕官)は津軽氏へ仕官しています。また、長女・千は津軽為信の養女となっています。なお、三男・光清は南部藩秋田氏へ養子に出ています。 恵林寺曹洞宗/打越氏(分家Ⅳ)が仕官した津軽氏は小笠原氏流南部氏の庶流、打越氏(分家Ⅴ)が仕官した柳沢氏は甲斐源氏武田氏の庶流ですが、御家断絶にあたって甲斐源氏の縁故を頼って仕官先を模索したようです。
①小湊(浅所海岸)(青森県弘前市藤代1-4-1
②平内町歴史民俗資料館(青森県弘前市西茂森1-23-8
小湊(浅所海岸)津軽藩御家騒動船橋騒動)の後に出羽国で浪人していた打越光忠出羽国由利郡小砂川村に打越光隆が浪人していたという記録がありますが、これは打越光忠の誤りである可能性)は、津軽越中守)信枚の叔父・津軽十郎左衛門の取り計らいにより陸奥国津軽郡小湊郷に居を構えています。昔、打越屋敷があった場所に石碑が建っていたそうですが、その場所は不明です。なお、小湊は日本で唯一の国指定特別天然記念物「小湊のハクチョウおよびその渡来地」になっている景勝地です。 平内町歴史民俗資料館津軽三味線の名人・高橋竹山青森県平内町小湊の出身で、平内町歴史民俗資料館には高橋竹山顕彰碑が建立されています。現在、高橋竹山の半生を描いた映画「津軽のカマリ」が公開されていますが、その音楽(演奏)の“凄さ”に圧倒されます。 平内町歴史民俗資料館/現在、民族資料館では「初代高橋竹山資料展示」が行われ、実際に高橋竹山が使用されていた三味線や尺八等が展示されています。現在、残されている録音や録画に触れる度に、同時代人であったにも拘らず、その生演奏に触れる機会に恵まれなかったことが悔やまれてなりません。歴史に名を残すような偉人・賢人は生前にはなかなか気付かないものです。    
津軽三味線会館(青森県五所川原市金木町朝日山189-3
②三味線塚(青森県五所川原市金木町川倉七夕野426−1
津軽三味線発祥之地碑(青森県五所川原市金木町芦野234−219
④仁太坊の郷碑(青森県五所川原市金木町神原桜元29
⑤仁太坊生誕150周年祈念碑(青森県五所川原市金木町神原小泉126ー77
津軽三味線会館津軽三味線の祖・仁太坊は越後瞽女に影響を受けて津軽三味線を創始したといわれています。 三味線塚津軽三味線の祖・仁太坊を顕彰した碑です。現在、津軽三味線の名人・高橋竹山の半生を描いた映画「津軽のマガリ」が上映されています。 津軽三味線発祥之地碑文豪・太宰治青森県五所川原市金木町の出身で、津軽三味線発祥之地碑がある芦野公園には太宰治の銅像もあります。 仁太坊の郷碑津軽三味線の祖・仁太坊(本名、秋元仁太郎・1857年(安政4年)~1928年(昭和3年)も青森県五所川原市金木町出身です。
仁太坊生誕150周年記念碑津軽三味線の祖・仁太坊は越後瞽女に影響を受けながら津軽三味線に特徴である「叩き奏法」を編み出します。
 
第5節 打越氏(分家Ⅴ)にゆかりの場所
佐貫城(千葉県富津市佐貫582
佐貫城/1688年(元禄元年)、津軽藩士であった打越光豊の子・打越光忠の二男・打越光長は徳川綱吉側用人となった柳沢吉保(武田家旧臣で、当時は上総国佐貫藩主)に拝謁し、同じ新羅三郎義光の血をひく甲斐源氏の誼から召し抱えられています。 佐貫城/佐貫藩主・柳沢吉保は、1690年(元禄3年)に2万石が加増されて三男・打越光登を召し抱え、1692年(元禄5年)に3万石が加増されて長男・打越光永、四男・打越光棟を相次いで召し抱えています。 佐貫城/本丸から臨む東京湾柳沢吉保上野国館林藩上総国佐貫藩(1688年(元禄元年))→武蔵国川越藩(1694年(元禄7年))→甲斐国甲府藩(1704年(宝永元年))と加増国替えになり、その子・柳沢吉里は大和郡山藩(1724年(享保9年))に転封になっていますが、唯一、上総国佐貫藩が海を持つ領地でした。 タマサ醤油(宮醤油)/1834年(天保5年)に佐貫城の城下町で創業したタマサ醤油(宮醤油)で、建物が登録有形文化財に指定されています。 タマサ醤油(宮醤油)/日本で唯一の料理の神様を祀る高家神社(境内には包丁塚があり、毎年、映画「武士の献立」でも登場した四条流包丁式が奉納されています)がある千葉県は醤油生産量が全国1位(約1/3)の醤油の名産地ですが、そのなかでもタマサ醤油は全国醤油品評会で十数回も優秀賞等を受賞しており全国からの購入者が後を絶ちません。タマサ醤油は、すっきりとした香味と色味が特徴的で、バランスが良い風味豊かな正統派の醤油です。
川越城埼玉県川越市郭町2-13-1
川越城/1694年(元禄7年)、徳川綱吉側用人から老中へ昇格した柳沢吉保は佐貫藩主から川越藩主へ加増国替えとなります。川越城は、北条氏康が扇谷上杉氏を滅ぼして戦国大名として頭角を現すことになった河越夜戦の舞台となった歴史の深い場所でもあります。 川越城/川越大師喜多院には江戸城から移築された徳川家光公誕生の間春日局化粧の間などがあり、また、小江戸と言われる川越城城下町も昔風情を湛えており、大人も遊べる魅力的な街です。 童唄「とおりゃんせ」発祥の地川越城の城郭内に三芳野神社があり、童唄「とおりゃんせ」発祥の地と言われています。 童唄「とおりゃんせ」発祥の地三芳野神社は菅原道真公を主祭神とし、歌詞にある「天神様」が祀られています。 童唄「とおりゃんせ」発祥の地三芳野神社の参道が歌詞にある「天神様の細道」です。三芳野神社が川越城の城郭内にあったことから城内への不審者の侵入を防ぐために門番に出入りを厳しく監視されていたと言われていますので(御用のないもの通しゃせぬ♪)、決して神隠し(人さらい)の歌ではなく、密偵等に疑われて戻って来ない人がいたということかもしれません。
甲府城山梨県甲府市丸の内1-5-4
恵林寺山梨県甲州市塩山小屋敷2280
甲府城柳沢吉保徳川綱吉側用人であった柳沢吉保(武田氏の旧臣)は甲府藩主に加増国替え。 武田神社/武田氏の本拠である躑躅ヶ崎館があった場所。織田信長による甲州征伐で、家臣の裏切りが相次いで万策が尽きた武田勝頼(享年38歳)が腰掛けて途方に暮れたという思案石があります。撲にとっても人生の思案石というべきもので、ここに生ては来し方行く末に思いを巡らす大切な場所になっています。 恵林寺/甲斐武田家の菩提寺甲州征伐では、恵林寺に逃げ込んだ六角義定(六角氏の末裔・佐々木次郎)の織田軍への引き渡しを拒んで焼き討ちされます。快川紹喜が火の中で「心頭を滅却すれば火も自ら涼し」と言った言葉は有名です。 恵林寺柳沢吉保の墓)/柳沢氏は甲斐源氏武田氏流一条氏の末裔で、甲斐武田氏の遺臣と言われています。 恵林寺武田信玄の墓)柳沢吉保甲府藩主となり、武田信玄の第133回忌法要を執り行っています。
大和郡山城(奈良県大和郡山氏城内町2-1
追手向櫓徳川綱吉側用人であった柳沢吉保(武田氏の旧臣)の子・柳沢吉里が加増国替え。 東大寺興福寺大和郡山城の東側には東大寺興福寺方面。興福寺薪能発祥の地です。 柳沢文庫大和郡山藩主であった柳沢伯爵の本邸を移築したもので、写真は車寄せと応接室。 打越織次郎の拝領屋敷大和郡山城の天守台から北側には打越織次郎の拝領屋敷(正面の立派な入母屋造の屋根の建物の周囲)が見えます。 観阿弥の供養塔大和郡山城内に安置されている観阿弥の供養塔。観阿弥楠木正成の姉と服部家の祖・服部元就の間に生まれた子で、大和郡山城の天守台から南西側には金剛山(楠木正成が籠城した千早赤坂城)が見えます。
 
第6節 打越氏(分家Ⅵ・Ⅶ)にゆかりの場所
三春城舞鶴城)(福島県田村郡三春町大町164
三春滝桜福島県田村郡三春町大字滝桜久保115
磐城平城福島県いわき市平旧城跡7
④湯長谷城(福島県いわき市常磐下湯長谷町古館78
三春城舞鶴城)秋田実季は関ケ原の戦いの後に出羽国秋田郡から常陸国宍戸郡へ国替えとなり、その後、陸奥国田村郡三春邑へ国替えとなっています。1659年(万治2年)、その孫・秋田盛季の代に打越六兵衛(分家Ⅵ)が破損手代(建造物の営繕、材木の管理を掌った役職)として仕えています。 三春滝桜/推定樹齢千年超の日本5大桜の1つで、三春藩主の御用木とされてきました。(写真は桜が散った後ですが、その枝振りだけでも見事です。そのうち撮り直しに行く予定です。) 磐城平城/1662年(元和8年)、内藤政長が上総佐貫から磐城平へ入部し、その孫・内藤義概の代に打越新兵衛(分家Ⅶ)が磐城平藩大納戸衆として仕えています。 湯長谷城/内藤義概の弟・内藤政亮に1万石が分与されて磐城平藩支藩として湯長谷藩を立藩しています。映画「超高速!参勤交代」は第4代湯長谷藩主・内藤政醇を主人公としており、第6代磐城平藩主・内藤政樹が大名行列を貸すシーンで登場しています。  
 
第7節 打越氏(分家ⅩⅣ)にゆかりの場所
岡崎城愛知県岡崎市康生町561−1
唐津城佐賀県唐津市東城内8
岡崎城/1730年(享保15年)頃、岡崎藩主・水野忠輝に藩医(外科)として打越(宗三)世衡が仕官。なお、祖先・水野忠政は徳川家康の生母・於大の方(伝通院)の父(徳川家康の外祖父)にあたります。 唐津城/1762年(宝暦12年)、水野忠任は岡崎藩から唐津藩へ国替えになりますが、藩医(外科)・打越世衡も一緒に下向しています。なお、どのような経緯で水野氏へ仕官し、また、その末裔がどうなったのかなどの仔細は分かっていません。      
 
第8節 打越氏(美濃源氏)にゆかりの場所
①城ケ峰(打越本郷交差点)(岐阜県岐阜市打越
②源満政の墓(大阪府大阪市豊能郡能勢町神山310
③木田小学校(岐阜県岐阜市木田2-173
若宮八幡宮岐阜県岐阜市彦坂84
⑤立政寺(岐阜県岐阜市西荘3丁目7−11
城ケ峰(打越本郷交差点)長良川河口に「羽(八)島郷」があり、長良川支流の伊自良川沿いに上流から「彦坂村」「打越村」「則武村」「木田村」「改(開)田村」があります。なお、「打越」という地名は「打ち越す」という動詞が語源となっており、山、峠や川の周辺に多い地名です(注34)。 源満政の墓/源満政は、美濃国方県郡八島郷を支配し、源(八島大夫)満政を名乗ります。 木田小学校/源満政の玄孫・源重長美濃国方県郡木田郷を支配して木田氏を名乗ります。 若宮八幡宮(楠氏の墓)/1221年(承久3年)、後鳥羽上皇に味方した木田重知が討死すると、同じく美濃源氏八島氏流・彦坂氏から婿養子を迎え、その孫・木田(左近大夫)頼氏が美濃国方県郡打越村の地頭職に任じられ、打越氏を名乗ります。美濃源氏打越氏の祖。  立政寺/立政寺は、明智光秀細川藤孝の仲介により、織田信長公が足利義昭を迎えた場所です。また、関ケ原の戦いに向かう徳川家康も立ち寄っています。
 

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第4部第3巻 打越(内越)氏にゆかりの場所(第2段)

第2段 打越氏(本家Ⅱ・Ⅲ、分家Ⅻ・XⅢ)ゆかりの場所
 
第1節 打越氏(本家Ⅱ)にゆかりの場所
①真光寺(和歌山県和歌山市打越町1−38
②千光寺(和歌山県田辺市上秋津4514
真光寺浄土真宗本願寺派楠木正成の子、楠木正行と共に四条畷の戦いで討死した和田賢秀が開山した寺です。打越氏の菩提寺となっています。 真光寺/真光寺は打越氏(本家Ⅱ)の発祥の地である紀伊国海部郡宇須邑字打越の地にあり、打越氏の菩提寺となっています。 真光寺/河内和田氏の家紋である丸に木瓜紋(「苗字から引く家紋の事典」より)を使用しています。 千光寺臨済宗妙心寺派紀州藩士の打越十左衛門の弟とその子が出家した寺で、打越氏の末裔の墓と共に常陸源氏佐竹氏流の佐武氏の墓紀州武田氏流の愛洲家の墓橘氏の墓等もあります。 千光寺/佐武氏の家紋である丸に五本骨扇紋を使用しています。
※プライバシーの配慮に欠ける点がございましたら、何卒、ご容赦下さい。ご一報を頂ければ、写真を削除します。
①雑賀城(和歌山県和歌山市和歌浦中3-1-31
根来寺和歌山県岩出市根来2286
③本庄城(大阪府大阪市北区本庄東3-10-6
本願寺鷺森別院(雑賀御坊)(和歌山県和歌山市鷺ノ森1
雑賀城石山本願寺合戦で顕如上人は雑賀衆に援軍を要請するために本願寺鷺森別院(雑賀御坊)に入りますが、これを受けて織田信長は第一次紀州征伐を行います。このとき雑賀衆の党首である雑賀孫一雑賀城に立て籠もって応戦し、その出城である弥勒寺山城顕如上人を匿います。因みに、打越氏(本家Ⅱ)の発祥地である紀伊国海部郡宇須邑字打越にある東禅寺山城も雑賀城の出城として築城されています。(この3つの城は約2k圏内に密集しています。) 根来寺真言宗浄土真宗本願寺)の雑賀衆真言宗根来寺)の根来衆は共に鉄砲の専門集団で相互に交流があり、佐武義昌は根来寺で鉄砲を調練 本庄城跡/打越藤左衛門(本家Ⅱ)は第一次木津川合戦で石山本願寺の支城である本庄城を守備しており、敵味方を問わず「鳴世」(名声を博する)と評せられています。本庄城は木津川(現、淀川)から上陸する敵を措置する役割を担っていましたが、写真前方が淀川、写真後方が石山本願寺(大阪城がある場所)となります。 本庄城跡織田信長は第一次木津川合戦では雑賀衆の鉄砲と毛利水軍焙烙火矢に大敗を喫しています。 本願寺鷺森別院(雑賀御坊)顕如上人から打越正義(分家Ⅰ)に援軍要請がありその名代として弟・打越三郎左衛門が派遣されて本願寺鷺森別院(雑賀御坊)を守備しています。このとき楠木正意も本願寺鷺森別院(雑賀御坊)を守備しており、その後、楠木正意が出羽国由利郡打越郷へ遁れたという記録が残されています(「西摂大観上巻」より) 
和歌山城和歌山県和歌山市1-3
②安養寺(和歌山県和歌山市祢宜198
和歌山城浅野長政の子・浅野幸長が連立式天守。浅野氏の時代は黒板張の天守でしたが、その後、徳川氏の時代に白壁の天守となりました。 和歌山城(御橋廊下)/藩主の趣味の部屋(西の丸)と生活の部屋(二の丸大奥)をつなぐ廊下橋。西の丸には庭園や茶室、能舞台等があります。 安養寺/浄土宗。 安養寺/打越安左衛門が紀州徳川家に提出した家系図には、源姓打越氏として丸に橘紋を家紋とすると記されており、打越氏(本家Ⅱ)の末裔の墓所と思われます。なお、和歌山県に分布している打越氏の家紋は、丸に日の丸扇紋又は丸に五本骨扇紋が圧倒的に多く、雑賀衆佐武氏(甲斐源氏佐竹氏流)との姻戚関係が考えられます。  
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熊野本宮大社和歌山県田辺市本宮町本宮1110
熊野本宮牟婁郡大領・橘広方の曾孫・橘良冬が和田良冬に改称として和田庄司(庄司とは貴族や寺社の領地を管理する職)を称し、代々、熊野本宮の禰宜神職)を努めています。また、その子孫は土豪化して紀伊国河内国等に勢力を持ち、河内和田氏の祖となります(「姓氏家系大辞典第2巻」より)。熊野本宮から小辺路高野山)や峯奥駈道’(吉野山)に至ると楠木氏の領地である千早赤阪へ通じていますので、蟻の熊野詣と言われるように人々の往来が盛んであったと思われます。 熊野本宮/プロサッカー選手の元祖・藤原成道は蹴鞠上達祈願のために50回以上も熊野詣をし、熊野本宮でうしろ鞠の名技を奉納しています(「古今著聞集」より)。サッカー日本代表のエンブレムは熊野本宮の寺紋である八咫烏です。 熊野本宮(本殿)熊野古道小辺路高野山から熊野本宮)、中辺路(田辺から熊野本宮)及び大辺路(田辺から那智大社、速水大社)の3つの参詣道が世界遺産に登録されています。これ以外にも峯奥駈道(金峯山寺~熊野本宮)や伊勢路伊勢神宮~速水大社、那智大社)があります。そして、川の参詣道として熊野川舟下り(熊野本宮~速水神社)があり、打越保さん(90)が最高齢の船頭として活躍されています。 八咫烏ポスト/ハガキの元祖・多羅葉のご神木の下に八咫烏ポストがあり(戦国時代には多羅葉に枝で文字を書き込んで密書にしていました)、2018年12月31日までに投函すると八咫烏の消印が押印されます。ハガキ(葉書)の名前は多羅葉に書くから由来。 大斎原の大鳥居/熊野本宮は熊野川、音無川及び岩田川の合流点にある中洲「大斎原」にありましたが、1889年(明治22年)の大水害で社殿が流され、現在の場所に遷座されています。
熊野速玉大社(和歌山県新宮市新宮1
熊野速玉大社/熊野本宮は熊野川、熊野速玉大社はことびき岩、熊野那智大社那智の滝御神体(神の依り代)としています。新宮市には、武蔵坊弁慶産家楠跡、源義盛(新宮十郎行家)屋敷跡(源頼朝源義経の叔父)、平忠度生誕地(平清盛の異母兄弟)が残されており、中世武家社会のダイナミズムが感じられる歴史の深い土地。 熊野速玉大社/熊野速玉大社の禰宜を努めていた穂積氏流鈴木氏は穂積国興の子・鈴木基行が鈴木を名乗ったことが始まりと言われています。本紋は穂積姓に由来する「抱き稲」(イネのホ→ススキ(イネのホに酷似)→スズキ)、替紋は熊野別当藤原氏に由来する「下り藤」です(熊野に分布している打越氏にも「下り藤」を使用している家があり同様の由緒ではないかと推測されます)。その子孫が熊野から藤白に移住して藤白神社和歌山県海南市藤白448)の神職も努め、境内には鈴木屋敷が現存しています(鈴木屋敷復元プロジェクトクラウドファンディングに挑戦中)。その子・鈴木良氏と河内和田氏の祖・橘博方の娘の間で生まれた鈴木重氏は源義経に従って武蔵坊弁慶らと共に衣川館で討死しています。また、その次男・鈴木重次雑賀衆鈴木氏の祖となります。 熊野川熊野川は「熊野川 瀬切に渡す 杉舟の 辺波に袖の 濡れにけるかな」(後嵯峨上皇)と和歌に詠まれているとおり川の参詣道と言われ、現代に川舟下りの文化が受け継がれてており、世界遺産にも登録されています。最高齢の船頭として打越保さん(90)が川舟下りの文化を次世代に受け継ぐために頑張っておられ、同じ一門として非常に誇らしく感じています。 熊野牛王符/熊野牛王符に認めたことは熊野権現に対して誓ったということ(神様との約束)になり、これを破ると神罰が下る(血を吐いて地獄に落ちる)と信じられていましたので、戦国時代には国主が家臣に忠誠を誓わせるために提出させる起請文や合戦時の和睦などに使用されていました。熊雄牛王符には熊野大社で88羽、那智大社で72羽、速玉大社で48羽の烏がデザインされています。契約書は国家がその実現を保証するというものですが、熊野牛王符は神様がその実現を保証するというものなので、当事者の心理的強制力は相当に強いものでした。  御神木「梛」(ナギ)/境内にある梛(ナギ)の大樹は樹齢千年を超え、昔からの葉を懐中に納めてお参りすると道中の案園が守られると言われTきました。「千早ふる 熊野の宮の なぎの葉を 変わらぬ千代の ためしにぞ折る」(藤原定家)  
神倉神社(和歌山県新宮市神倉1-13−8
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神倉神社/熊野速玉大社の摂社である神倉神社の山麓の鳥居。拝殿に続く石段は、源頼朝が寄進したと伝えられる急勾配の鎌倉積み石段で538段あります。雨上りの日は滑り易いので避けることをお勧めします。 神倉神社御神体であることびき岩。ことびきとは新宮の方言で、ヒキガエルのこと。熊野三山に祀られる熊野権現が初めて地上に降臨した伝承をもつ古社で、その創建は神話時代の128年頃と言われています。 高倉神社/高倉神社は天ノ磐盾(あまのいわだて)という険しい崖の上にありますが、黄昏色に染まる新宮市街と熊野灘、黄昏月を一望できる眺望です。    
熊野那智大社和歌山県東牟婁郡那智勝浦町那智山1
熊野那智大社の二の鳥居/社殿は、317年に仁徳天皇が創建し、平重盛が改装し、織田信長による焼討にあった後に豊臣秀吉が再興しています。 熊野那智大社/2107年に創建1700年を迎えた記念事業として社殿の修補等が進められており、既に拝殿(写真)の修補を終え、年内には全ての施設の修補等が完了する予定です。現在、熊野那智大社では創建1700年事業の奉賛を受け付けられています。 御懸彦社と八咫烏八咫烏(ヤタガラス)のヤタとは「大きい」という意味を持っており、古から神の使いとされてきました。 那智の大滝/高さ133mで一段の滝として日本一の長さです。 クスノキ胎内くぐり平重盛が手植えした樹齢約850年の大楠。神社は生者のための場所、寺社は死者のための場所ですが、神社は鳥居(女性器)を潜って、参道(産道)を通り、本宮(子宮)に至って、心の穢れを払い、もう一度生まれ直して鳥居(女性器)から出てくる神聖な場所(命を育めるのは神様のみ)です。お宮参り、七五三、結婚式など人生の節目に神社を参詣するのは、もう一度生まれ直して新たな気持ちで人生を歩むための大変に有難い儀式です。
①竹之坊墓地(光明寺跡、井泉寺跡)(和歌山県田辺市本宮町本宮624
②平野墓地(和歌山県田辺市本宮町本宮630
竹之坊墓地/熊野連正全の墓。物部氏の始祖・饒速日命ニギハヤヒ)の後裔が成務天皇から熊野国造を任命され、熊野連の姓を下賜っており、代々、紀伊国牟婁郡の大領(郡司)や熊野本宮大社禰宜神職)を務めています。 竹之坊墓地熊野本宮大社の社家を務めた熊野国造の後裔・楠木氏の館があった場所(光明寺跡、井泉寺跡)にある楠木氏の墓。なお、墓地内には嶋(島)津氏の墓もありますが、その由緒は不明です。 志摩国を支配した島津国造の末裔の可能性もありますが、家紋が薩摩藩島津氏のものです。 平野墓地熊野別当・和田(内膳)良賢の墓。 平野墓地/楠(嘉兵衛)良清の墓もあるそうですが、どの墓なのか特定ができません。  
熊野川川舟センター(和歌山県新宮市熊野川町田長47
新宮十郎行家(源義盛)屋敷跡(和歌山県新宮市熊野地2-1−11
平忠度生誕の地(和歌山県新宮市熊野川町宮井
南方熊楠の生家跡(和歌山県田辺市中屋敷町36
熊野川川舟センター川の参詣道として熊野川舟下り(熊野本宮~速水神社)があり、打越保さん(90)が最高齢の船頭として活躍されています。「熊野川 瀬切に渡す 杉舟の 辺波に袖の 濡れにけるかな」(後嵯峨上皇)と歌に詠まれていますが、遥か千年以上の昔から熊野川の悠久の流れに乗せて人々の祈りを運び続ける川舟下りの文化を担っておられる方の中に、同じ一門の方が携わっておられることを大変に誇りに感じます。 熊野川熊野本宮大社と熊野速玉大社の間を結ぶ川の参詣道で、十津川から熊野灘に注ぐ川。 新宮十郎家行(源義盛)屋敷跡源為義と熊野速玉大社の禰宜・鈴木重忠の娘との間に生まれ、源義経と行動を共にして1186年(文治2年)に源頼朝に捉えられます。 平忠度生誕の地熊野別当湛増の妹(武蔵坊弁慶の兄妹)を妻に娶り、湛増平治の乱で平家方に味方しますが、源平合戦では熊野水軍を率いて源氏方に味方しています。因みに、打越光種は熊野別当の湛慶(弁慶の父)の兄で熊野別当・長範の末裔・鵜殿長種の四男を娘の婿養子として迎えて打越光業と名乗らせ、打越氏(本家Ⅰ)の家督を相続させています。 南方熊楠の生家跡/南方家は、鈴木氏が神職を勤めた藤白神社を信仰し、藤白の「藤」、熊野の「熊」、引作の大楠の「楠」の3文字から名前をとると健康で長寿を授かるという家伝があり、南方熊楠は「熊」と「楠」の2文字を名前を授かったと言われています。なお、近くには南方熊楠珍種の藻発見の池跡(和歌山県田辺市神子浜2丁目16−9)があります。
弁慶産家楠跡石碑(三重県南牟婁郡紀宝町鮒田1183
②弁慶生誕地の碑(和歌山県田辺市湊27−1054
③弁慶松・弁慶産湯の井戸(和歌山県田辺市新屋敷町1-6
熊野水軍出陣之地(和歌山県田辺市扇ケ浜3
弁慶産屋楠跡石碑武蔵坊弁慶の父と言われている熊野別当湛増は、母が源為義の娘であり、妹が平忠度の妻となっており、平治の乱では平氏源平合戦では熊野水軍を率いて源氏に味方しています。 弁慶産屋楠跡石碑武蔵坊弁慶熊野別当湛増の子として生まれ(義経記)、鮒田村で生まれたと言われています(紀伊風土記)。因みに、湛慶の兄で熊野別当・長範の末裔・鵜殿長種の四男を娘の婿養子として迎えて打越光業と名乗らせ、打越氏(本家Ⅰ)の家督を相続させています。 弁慶生誕地の碑武蔵坊弁慶の父である熊野別当湛増の子孫と名乗る大福院。鮒田で生まれた武蔵坊弁慶は(紀伊風土記)、その後、田辺で成長したものと思われます。なお、大福院の隣には鶏合壇浦合戦(平家物語)の舞台となった世界遺産闘鶏神社があり、源義経が奉納した横笛や弁慶産湯の釜等が展示されています。 弁慶松・弁慶産湯の井戸/弁慶産湯の井戸は田辺第一小学校にあった弁慶の産湯の水を汲んだと言われている井戸と、弁慶の死を悼んだ人々が産湯の井戸の傍らに植えた松(現在は6代目)を田辺市役所の敷地内に復元しています。 熊野水軍出陣之地/1185年(元暦2年)、源義経によって平氏追討使に任命された熊野別当湛増熊野水軍200余艘(2000人)を率いて三浦水軍・河野水軍らと共に壇ノ浦の戦い平氏と戦って勝利しています。
長谷寺和歌山県新宮市熊野地2-1−11

仁王堂重要文化財。河内~伊賀を結ぶ初瀬街道を見下ろす初瀬山にある長谷寺で、大額の文字は後陽成天皇の宸筆と言われています。 登廊(下登廊)重要文化財。仁王門から本堂まで続く登廊は399段の石段が並び、長谷式と呼ばれる丸燈籠がつるされています。長谷寺は花の御寺という異名を持っているように登廊の両側には四季折々の花々が咲き、その風興に心を遊ばせながら本堂へと心を整えていきます。 本堂(礼堂)/国宝。1650年(慶安3年)、徳川光家によって建て替えられています。1585年(天正13年)、豊臣秀吉による焼き討ちで焼失した根来寺の住職が長谷寺に入山しており、それ以後、根来寺の法灯を受け継ぐ真言宗の地委員となりました。 二本(ふたもと)の杉源氏物語の玉鬘の巻に登場する二本(ふたもと)の杉です。また、境内には藤原俊成(父)・藤原定家(子)の塚があり、藤原定家は「年も経ぬ 祈る契は 初瀬山 尾上の鐘の よその夕暮れ」(新古今和歌集)と詠んでいます。 玉鬘の大銀杏長谷寺と初瀬川を挟んだ素盞雄神社には玉鬘が滞在した宿坊があったと言われる場所で、晩年、玉鬘が隠棲した玉鬘庵があったところです。
 
第2節 打越氏(本家Ⅲ)にゆかりの場所
打越城(和歌山県田辺市下川下826-1
打越城/打越氏(本家Ⅲ)の発祥の地(紀伊国西牟婁郡和田邑字打越)にある打越城跡です。梵光寺と打越屋敷を背後に控えて日置川とその支流の安川に挟まれた天然の要害に建てられた城です。 打越城/打越城の北西を流れる日置川。日置川沿いを北上すると熊野古道・中辺路(花王院がカヤの枝を折って箸にし、有名な牛馬童子像がある場所)に通じています。 打越城/打越城の南東を流れて日置川に合流する安川。安川沿いを北上すると熊野本宮に通じています。 打越城/打越城の西側を走る切通。打越城のある紀伊国西牟婁郡和田邑は河内和田氏の祖で熊野本宮禰宜・和田氏(家紋:丸に橘紋)の領地であった場所です。 打越城/打越氏(本家Ⅲ)の発祥の地(紀伊国西牟婁郡和田邑字打越)です。和歌山県西牟婁郡大塔村護良親王(大塔宮)が都から落ちのびる際に立ち寄ったことに由来して命名されましたが、このとき和田村ほか数村が併合して大塔村となっています。
梵光寺(和歌山県田辺市和田148
梵光寺(曹洞宗紀州武田氏の末裔である湯川直春の四男が河内和田氏の祖・熊野本宮禰宜・和田氏(家紋:丸に橘紋)の領地に身を寄せて出家し「打越」を名乗ります(本家Ⅲ)。なお、打越氏(本家Ⅱ)の発祥地である紀伊国海部郡宇須邑字打越には楠木正成の甥・和田賢秀が開山した浄土真宗本願寺派真光寺があり、和田氏と同じく丸に橘紋や丸に木瓜紋を使用しています。 梵光寺(曹洞宗/打越氏の累代の墓。 打越屋敷/梵光寺の墓地を見下ろす台地上に打越忠蔵が居を構えた打越屋敷の跡地が見えます。    
①泊城(和歌山県田辺市芳養町848
②小松原館(湯川子安神社)(和歌山県御坊市湯川町小松原50
亀山城和歌山県御坊市湯川町丸山599
④法林寺(和歌山県御坊市湯川町小松原176
⑤龍松山城和歌山県西牟婁郡上富田町市ノ瀬1957
泊城/武田忠長が甲斐から熊野へ移住し、湯川庄司の娘養子となって湯川氏の家督を承継して湯川忠長と称し泊城へ入りました。紀州武田氏流湯川氏発祥の地。 小松原館(湯川子安神社)/湯川氏は本拠地を泊城から亀山城へ移し、小松原館を中心として勢力を拡大します。 亀山城/1585年、豊臣秀吉の第二次紀州征伐で第12代・湯川直春は亀山城に籠城しますが、小松原館を焼いて叔父・湯川教春が守備する泊城に逃れます。 法林寺/写真の右側の石碑が湯川直光の宝篋印塔となります。境内には湯川氏(割菱紋)玉置氏(洲浜紋)湯川直春の娘と姻戚関係を結んだ玉置直和(花菱紋)の末裔の墓碑が安置されています。なお、玉置氏の花菱紋は湯川氏と姻戚関係を結ぶにあたって湯川氏から玉置氏へ譲与されたものと思われます(家名を残し、家紋を譲与するパターン)。なお、打越氏は湯川氏及び玉置氏と軍事同盟の関係にありました。 松山城/湯川直春は泊城から龍松山城まで退却して神出鬼没のゲリラ戦を展開して豊臣軍を籠絡します。豊臣秀吉は湯川直春に手を焼いて和睦することにしますが、1586年に羽柴秀長大和郡山城主になり、挨拶に行った帰りに藤堂高虎の屋敷で毒殺されます。これを受けて湯川直春の四男・忠蔵は紀伊国西室郡和田邑字打越で入道し、打越忠蔵と名前を改めます。龍松山城から国道219号線(下川上牟婁線)を東へ進むと打越城及び打越屋敷があり、国道216号線(温川田辺線)を西へ進むと打越氏(本家Ⅱ、本家Ⅲ又は分家Ⅺ)が集中的に分布する集落があります。
 
第3節 打越氏(分家Ⅻ・XⅢ)にゆかりの場所
①肝付氏歴代の墓(盛光寺跡)(鹿児島県肝属郡肝付町前田743-7
②肝付(野崎)氏歴代の墓(宝泉庵跡)(鹿児島県肝属郡肝付町野崎2300
③肝付兼弘の供養塔(鹿児島県肝属郡肝付町野崎2300
④恒吉城(鹿児島県曽於市大隅町恒吉599
③末吉城(鹿児島県曽於市末吉町諏訪方8653−7
肝付氏歴代の墓(盛光寺跡)/肝付氏は大伴氏(後に伴氏)を祖とし、伴兼俊が薩摩掾に任命されて下向し、その曽孫・伴兼俊大隅国肝属郡の弁済使となって肝付氏を名乗るようになっています。1341年(暦応4年)、南朝方の肝付兼重が籠城する東福寺城が島津貞久によって攻め落とされますが、1343年(興国3年)、征西大将軍懐良親王熊野水軍らに守られて薩摩国の谷山城に入城し、島津貞久は一時苦戦を強いられています(「新宮市誌」より)。紀伊国熊野水軍(打越氏の源流は物部氏流熊野国造)が南朝方を支援するために薩摩国大隅国へ遠征していました。
肝付(野崎)氏歴代の墓(宝泉庵跡)/肝付兼弘が大隅国肝属郡野崎郷を支配し、野崎氏を名乗ります。南九州では田を守る神として田の神(たのかんさぁ)が祀られていますが、肝付(野崎)氏歴代の墓(宝泉庵跡)にも塚崎の田の神が祀られています。 肝付兼弘の供養塔/肝付兼弘の供養塔。この近くに樹齢1300年を超える塚崎の大楠があります。 恒吉城/1599年(慶長4年)、庄内の乱(関ケ原の戦いで島津氏が数百の軍勢しか派兵できない原因となった御家騒動)を起こした伊集院忠眞(禰寝(根占)家の家臣・打越(用右衛門)房勝の娘が嫁いだ伊集院忠真は同姓同名の別人)の弟・伊集院小次郎が籠城していた末吉城を攻略するために、島津氏の重臣・肝付(肝属)家の家臣である打越十兵衛が大隅国恒吉郷(現、鹿児島県曽於市大隅町)から(末吉城落城後に)島津氏の直轄地に組み込まれる大隅国末吉郷(現、鹿児島県曽於市末吉町)への移動(衆中召移し)を命じられています。(「藩社会の研究」より)。 末吉城/伊集院小次郎が籠城していた末吉城空堀の遺構などが残されています。
①禰寝氏歴代の墓(極楽寺跡)(鹿児島県肝属郡南大隅町佐多郡1591
②禰寝氏歴代の墓(園林寺跡(根占))(鹿児島県肝属郡南大隅町根占川南4877
③富田城(鹿児島県肝属郡南大隅町根占川南5463
④禰寝氏歴代の墓(園林寺跡(日置))(鹿児島県日置市日吉町吉利4998
小松帯刀仮屋跡(鹿児島県日置市日吉町吉利3067−1
禰寝氏歴代の墓(極楽寺跡)大宰府の在庁官人であった建部氏を始祖とし、建部清重が大隅国禰寝院の地頭職に任命され、禰寝氏を称するようになりました。子孫には小松帯刀(維新十傑)のほか、加山雄三(俳優)、武豊(騎手)やねじめ正一(作家)などがいます。 禰寝氏歴代の墓(園林寺跡(根占))/禰寝氏は太閤検地により豊臣秀吉から領地替えを命じられていますが、園林寺鬼丸神社は、禰寝氏の旧領である根占と禰寝氏の新領である日置の双方に創建されています。 富田城/当初、禰寝氏は佐多の高木城を居城としていましたが、第5代・禰寝清治が根占に富田城を築城して居城としました。現在は私有地(畑)になっていますが、写真正面が本丸跡と言われています。 禰寝氏歴代の墓(園林寺跡(日置))/明治時代の廃仏毀釈で廃寺となっていますが、禰寝氏(小松氏)歴代の墓が安置され、肝付氏から禰寝氏に婿養子に入った小松帯刀の墓もあります。建部氏を祖とする禰寝氏平重盛と姻戚関係を結んでいることから、平重盛の愛称である小松氏も名乗っています。 小松帯刀仮屋跡小松帯刀仮屋跡は、現在、吉利小学校になっていますが、敷地内のあちらこちらに卒業記念碑が建立されており、打越氏の子孫と共に、打越氏とも姻戚関係を結んでいる伊集院氏の子孫や禰寝氏の流れを汲む武氏の子孫と思しき名前が発見できます。打越(用右衛門)房勝の娘が伊集院忠眞(薩摩藩第二代藩主・島津忠時の血流で、庄内の乱を起こした伊集院忠真とは別人)に嫁いで長女を出産しています(「鹿児島県史料旧記雑錄拾遺 諸氏系譜 第1巻」より)。また、禰寝清雄が農業の方法を定めた「農業方之条書」を基に郡奉行・汾陽盛常が編纂した「農業法」を写本したものに、吉利奉行所の打越八右衛門及び禰寝越右衛門が連署したものが残されています。(「日本農業全書第34巻」より)
①小松寺(茨城県東茨城郡城里町大字上入野3912
大宰府跡(福岡県太宰府市観世音寺4-6-1
大宰府天満宮福岡県太宰府市宰府4-7-1
④祝吉御所跡(島津氏発祥の地)(宮崎県都城市郡元町3420
小松寺平清盛の嫡男・平重盛の家臣・平貞能平氏滅亡後に高野山から平重盛の遺骨を持ち出して常陸平氏大掾氏を頼って落ち延び、小松寺に平重盛を埋葬して菩提を弔います。因みに、薩摩藩島津氏の重臣・禰寝(根占)家は平重盛の血を引いており、平重盛京都六波羅の小松谷へ抜ける場所に館(小松第)を構えて小松殿、小松内大臣と呼ばれていたことから小松姓を別称としていました。維新の十傑の一人である薩摩藩島津氏の家老・小松帯刀(旧名・肝付兼戈、兄は肝付兼両で、薩摩藩島津氏の重臣・肝付家から禰寝(根占)家の婿養子に入っています。)は小松姓を名乗っています。 小松寺3基の墓碑のうち、一番高い場所にある宝篋印塔が平重盛の墓、その一段低い左にある宝篋印塔が平貞能の墓、その横にある無縫塔が平重盛夫人得律禅尼の墓です。 大宰府大宰府の在庁官人(役人)を養成するために、日本で初めて設立された学校大宰府学校院跡です。 大宰府天満宮/「東風吹かば、匂ひおこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ」の和歌で有名な菅原道真は、大宰府に左遷されると京都の旧邸に植えてあった愛梅が飛んできたという飛梅伝説が知られています。実際は伊勢神宮の神官が京都の旧邸にあった紅梅を根分けして移植したようです。その飛梅の原木(福岡県太宰府市通古賀5-7−20)が残されており、すぐ近くには菅原道真が晩年を過ごした館跡福岡県太宰府市朱雀6-18−1))があります。また、更に、その飛梅の原木から根分けして移植されたのが大宰府天満宮の境内にある飛梅です。大宰府境内には黒田如水が使用した如水の井戸があり、安倍晴明がひらいた晴明の井福岡県太宰府市朱雀4-18−55)もあります。人々の想いが募る梅や井戸には不思議な妖力が宿ると考えられていたのかもしれません。 祝吉御所跡(島津氏発祥の地)大江広元と共に源頼朝重臣であった惟宗忠久は、源頼朝から日向国島津荘(宮崎県都城市)に領地を与えられて島津氏を名乗ります。近くには宮城島津邸(宮崎県都城市早鈴町18街区5号)があり、歴史史料館になっています。なお、源頼朝の墓神奈川県鎌倉市西御門2-5)の近くにある法華堂跡には、江戸後期に薩摩藩及び長州藩によって整備された大江広元毛利氏の祖・大江(毛利)季光島津氏の祖・惟宗(島津)忠久の墓が安置されています。

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第4部第3巻 打越(内越)氏にゆかりの場所(第3段)

第3段 その他(打越(内越)氏の墓碑等)
打越氏が集中的に分布している以下の地域を中心として、打越氏の墓碑(家紋)を調査(墓参り)しています。
 
東国における南朝勢力の拠点:茨城県(1位)
中央における南朝勢力の拠点:兵庫県(2位)大阪府(4位)和歌山県(7位)
西国における南朝勢力の拠点:鹿児島県(6位)福岡県(9位)熊本県(13位)
 
但し、上記のうち「大阪府(4位)」「福岡県(9位)」及び「東京都(3位)・神奈川県(8位)・千葉県(11位)・埼玉県(12位)」については、経済の中心地として全国から人口が集中しているという現代的な要因により打越氏の分布が多いものと考えられ、この地域の打越氏の墓碑(家紋)を調査しても土地の歴史を紐解くヒントにならないと考えられることからフィールドワークの対象から外しています(注3)(注35)(注39)。また、「北海道(5位)」については、主に北方警備を開始した幕末から蝦夷地開拓を本格化した明治維新以後の歴史となりますので、どこから入植した可能性があるのかを中心に調査しています。
 
第1節 その他(東国にある打越氏の墓碑)
大乗寺北海道上磯郡知内町元町282
②知内公園(北海道上磯郡知内町元町128
打越氏(分家?)の墓碑(木瓜紋知内町松前藩の領地ですが、若狭武田氏が青森県むつ市に移住して南朝勢力であった南部師行の家臣となり、その後、松前藩を立藩して独立しています。 打越氏(分家?)の墓碑(木瓜紋木瓜紋は打越氏(本家Ⅱ、分家Ⅹ、分家Ⅺ、分家Ⅻ、分家ⅩⅢ)の系流が使用していますが、いずれの系流に属するのか不明です。関西圏から入植している可能性があります。 打越氏(分家?)の墓碑(木瓜紋/知内公園には木瓜紋を使用する河内和田氏の末裔と思われる墓も散見されます。 打越氏(分家?)の墓碑(木瓜紋/知内公園には菊水紋を使用する墓がありますが、もともとは和泉国和田を発祥()とする氏族と思われます。  
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真宗大谷派江差別院(北海道檜山郡江差町中歌町169
江差追分会館(北海道檜山郡江差町中歌町193-3
③海の駅開陽丸(北海道檜山郡江差町姥神町1-10
打越氏(分家?)の墓碑(蔦紋)/後述する高島墓地(小樽市)には石川県に分布する打越氏(分家Ⅳ)の墓(揚羽蝶紋)があり、同じく蔦紋を使用する打越氏が石川県に分布していることから、石川県(1491年(延徳2年)に打越新兵衛が加賀国金津荘の与知村(現、石川県かほく市余地)の土地(童子丸名)に他国から入部して加賀一向宗徒を支援していますが、打越氏(本家Ⅰ、分家Ⅰ)の庶流が浪人し又は石山本願寺に味方した雑賀衆・打越氏(本家Ⅱ)が加賀一向宗徒を軍事支援するために加賀国へ入部している可能性が考えられます。)から入植している可能性があります。 打越氏(分家?)の墓碑(蔦紋)真宗大谷派江差別院には、土方歳三の末裔と思しき墓があります。 江差追分会館鈴鹿峠を超える際に唄われた馬子唄が信濃追分になり、それが瞽女や座頭、北前船によって信濃から日本海に沿って北陸、東北、北海道へと伝えられて江差追分が誕生してしています。姥神町という地名にもなっている「にしん伝説」が残る「にしえ街道」は昔風情が残り、にしん蕎麦が名物になっています。 海の駅開陽丸/開陽丸に乗った榎本武明や土方歳三五稜郭を占拠すると江差に上陸しますが、荒波によって開陽丸は座礁沈没します。海の駅開陽丸には、復元された原寸大の開陽丸が展示されています。  
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①禅源寺(北海道古平郡古平町浜町368
羊蹄山北海道虻田郡ニセコ町
③ウポポイ(民族共生象徴空間)(北海道白老郡白老町若草町2丁目3
打越氏(分家?)の墓碑(三つ柏紋)/前源寺は曹洞宗ですが、三つ柏紋は雑賀氏と姻戚関係を結んだ打越氏(分家Ⅹ)の系流が使用していますので、関西圏から入植している可能性があります。 打越氏(分家?)の墓碑(三つ柏紋) 打越氏(分家?)の墓碑(三つ柏紋) 羊蹄山(えぞ富士)/外国人観光客に人気の観光地・ニセコ(羊蹄街道)から臨む羊蹄山(えぞ富士)。 ウポポイ(民族共生象徴空間)/千歳空港から近隣にアイヌ文化を紹介するウポポイ(民族共生象徴空間)が近く開館される予定です。また、千歳空港からほど近い北海道沙流郡平取町二谷風や少し遠方にはなりますが北海道釧路市阿寒町阿寒温泉には、実際にアイヌの集落があった場所が残されており、アイヌの自然に触れ、アイヌの文化を体感し、アイヌの料理を食べられるなどお勧めの観光スポットがありアイヌ文化を広げるために精力的に活動している若者もいて非常に面白い場所です。さらに、千歳空港に出店しているアイヌモシリ三光では、アイヌの民芸品(アイヌ文様が施された小物、アイヌの伝統楽器やアイヌの民芸品など、ここでしか手に入れられないユニークなものが販売されていますので立ち寄られることをお勧めします。
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①高島墓地(北海道小樽市祝津2-382
①祝津パノラマ展望台(北海道小樽市祝津3-282
③篠路兵村(北海道札幌市北区屯田8条10丁目9
秋田藩元陣屋第二台場跡(北海道増毛郡増毛町別苅1
打越氏(分家?)の墓碑(揚羽蝶紋)/石川県に分布する打越氏(分家Ⅳ)の墓(揚羽蝶紋)と同紋でありがあり、石川県から入植している可能性があります。なお、真宗大谷派江差別院には石川県に分布する打越氏の同じ蔦紋を使用する墓も安置されています。 打越氏(分家?)の墓碑(揚羽蝶紋) 祝津パノラマ展望台/高島墓地は石狩湾を一望できる高所に位置しています。津軽三味線名人・高橋竹山の生涯を歌った北島三郎の風雪ながれ旅で歌われている留萌方面や、積丹半島も一望できます。 篠路兵村紀州徳川家に仕官していた打越留吉(本家Ⅱ)が篠路屯田兵として入植し、屯田4番通沿いにあるホクレンショップ屯田8条店ある区画の隣りの区画(屯田8条10丁目9)を開拓しています。 秋田藩元陣屋第二台場甲斐源氏の系流である津軽藩(南部氏流津軽家)や秋田藩(佐竹氏)は松前藩(若狭武田氏流松前家)と共に北方警備を任されており、ロシア等の外国船を警戒するために、増毛町秋田藩元陣屋跡秋田藩元陣屋第一台場普伝寺跡津軽藩陣屋跡水戸藩主宿営地)、稚内町、斜里町等に出兵しています。普伝寺跡には、この地で殉死した秋田藩士・打越角左衛門の墓があったと言われています。
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恵林寺青森県弘前市西茂森1-6-1
恵林寺曹洞宗秋田県由利本荘市の惠林寺とどのような関係にあるのか分かりません。打越氏の家臣に今泉光家という人物がいましたが、境内にはその末裔と思われる墓碑(丸に中陰橘紋)もあります。 打越氏(分家Ⅳ)の墓碑(三階菱紋)/他氏ですが三つ引両紋から松皮菱紋への替紋(譲与紋)の例 打越氏(分家Ⅳ)の墓碑(三階菱紋)青森県に分布している打越氏は発祥当時の名残りから「ウテツ」と発音しているようです。    
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善導寺青森県北津軽郡中迫町深郷田富森109
善導寺(浄土宗) 打越氏(分家Ⅳ)の墓碑(丸に隅田て四ツ目結紋) 打越氏(分家Ⅳ)の墓碑(丸に隅田て四ツ目結紋) 金木武田氏の末裔と思しき墓碑(割菱紋)善導寺に隣接する雲祥寺金木武田氏の菩提寺です。大浦為則の弟・大浦守信が堀越城主・武田重信の娘の婿養子に入って大浦城から堀越城へ移り、その後、南部久慈氏流の津軽為信を養子として迎えています(津軽氏の祖)。 金木武田氏の末裔と思しき墓碑(丸に隅田て四ツ目結紋)/第4代藩主・津軽信政の時代に金田新田の開拓や治水等に従事した武田源左衛門(櫛引源左衛門)の末裔の方である可能性も考えられます。
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大慈寺岩手県遠野市大工町9-20
大慈寺曹洞宗南北朝の動乱南朝方に与した甲斐源氏小笠原氏流・南部家の分家である根城南部家(通称、八戸家)の菩提寺で、南部師行は石津の戦いで北畠顕家と共に討死しています。大慈寺の近くに遠野物語を執筆するために柳田国男が逗留した高善旅館跡があります。 打越氏(系流不詳)の墓碑(丸に蔦紋)/両隣に小笠原氏(松皮菱紋)と菊池氏(左違い鷹羽紋)の墓碑があります。  小笠原氏の墓碑(三階菱紋)/加賀美遠光の二男が小笠原長清、三男が南部光行で、小笠原氏の墓碑も数多く安置されています。 菊池氏の墓碑(左違い鷹羽紋)南朝方であった菊池氏は肥後国から陸奥国青森県八戸市)へ上陸し、同じく南朝方であった根城南部家を頼って岩手県遠野市に分布しています。その関係で遠野市菊池市は友好都市となっています。  
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①浄光寺(茨城県ひたちなか市館山9015
②聴法寺(茨城県ひたちなか市平磯町550
浄光寺(浄土真宗本願寺派/打越伊賀守が城主を務めた立(館)山城跡にあります。 打越氏(分家Ⅱ)の墓碑(丸に一文字三ツ星紋)茨城県には永井氏(丸に一文字三ツ星紋)が分布していますが、出羽国置賜郡長井荘を支配した大江氏流長井氏の庶流なので、打越氏とは遠戚関係になります。 聴法寺(浄土真宗大谷派 打越氏(分家Ⅱ)の墓碑(丸に一文字三ツ星紋) 打越氏(分家Ⅱ)の墓碑(丸に一文字三ツ星紋)
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常教寺(茨城県ひたちなか市館山9011
常教寺(浄土真宗本願寺派/打越伊賀守が城主を務めた立(館)山城跡(浄光寺の向かい)。佐竹氏の末裔伊達氏の末裔の墓碑もあります。 打越氏(分家Ⅱ)の墓碑(丸に一文字三ツ星紋) 打越氏(分家Ⅱ)の墓碑(丸に一文字三ツ星紋) 梅原氏の墓碑(家紋不詳茨城県ひたちなか市釈迦町(旧住所、那珂湊町字打越前)にいた打越清左衛門の別家として梅原(打越)覚兵衛がいました(「那珂港名所圖画全」より)。梅原氏は、出羽国仙北郡梅原郷を領有していた藤原頼忠の曾孫・元勝が梅原を名乗ったことが発祥という説と、浄光寺を開山した藤原(隼人佑)頼貞が薩摩国梅原郷に居を構えていたことから梅原を名乗るようになり、そこから常陸国笠間郡稲田郷へ移住(その後、常陸国那珂郡枝川郷へ転居)したことが発祥という説(「那珂湊市史料第4集」より)の2説があります。梅原氏の本紋は梅鉢紋ですが、現在は替紋の抱き茗荷紋を使用している家が多いようです。  
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正安寺(茨城県ひたちなか市中根3542
正安寺(浄土真宗大谷派/1860年(万延元年)に常陸府中藩主・松平(播磨守)頼策から八角葵紋の五条袈裟を拝領し、それを寺紋とします。境内には徳川氏の墓碑武田氏の墓碑があります。 打越氏(分家Ⅱ)の墓碑(丸に一文字三ツ星紋) 打越氏(分家Ⅱ)の墓碑(丸に一文字三ツ星紋) 打越氏(分家Ⅱ)の墓碑(丸に一文字三ツ星紋) 打越氏(分家Ⅱ)の墓碑(丸に一文字三ツ星紋) 
打越氏(分家Ⅱ)の墓碑(丸に一文字三ツ星紋) 打越氏(分家Ⅱ)の墓碑(丸に一文字三ツ星紋) 打越氏(分家Ⅱ)の墓碑(丸に一文字三ツ星紋) 打越氏(分家Ⅱ)と他氏の共同墓碑(家紋不詳)/ 選択的夫婦別氏の墓碑なのでしょうか?核家族化が進むなかで、夫婦で双方の親の菩提を弔うための新しい墓碑の形と言えるかもしれません。  
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普岸寺(茨城県東茨城郡茨城町大戸1867
普岸寺(天台宗/現在、普岸寺は廃寺となり、如意輪寺(天台宗)茨城県東茨城郡茨城町小鶴1771)が菩提寺となっていると思われます。なお、この近隣には同じ一文字三ツ星紋の永井氏の墓の分布も確認できますが、出羽国置賜郡長井荘を支配していた大江氏流長井氏の末裔と思われます。打越氏は出羽国村山郡寒河江荘を支配していた大江氏流寒河江氏との間で姻戚関係を結んだ際に一文字三ツ星紋を譲与された可能性がありますので、永井氏と打越氏は遠戚関係にあると考えられます。 打越氏(分家Ⅱ)の墓碑(丸に一文字三ツ星紋)/この墓地の一番奥に「本家」の墓碑があります。なおこの墓地には越藤氏の墓碑(三階菱紋)が何基かありますが、越藤氏は茨城県(及び茨城県から移住した広島県)以外に分布がないことから、打越氏(分家Ⅱ)の別家と思われます。 打越氏(分家Ⅱ)の墓碑(丸に一文字三ツ星紋) 打越氏(分家Ⅱ)の墓碑(丸に一文字三ツ星紋) 打越氏(分家Ⅱ)の墓碑(丸に一文字三ツ星紋)
打越氏(分家Ⅱ)の墓碑(丸に一文字三ツ星紋) 打越氏(分家Ⅱ)の墓碑(丸に一文字三ツ星紋) 打越氏(分家Ⅱ)の墓碑(丸に隅立て四ツ目結紋)/この墓地の一番奥に「本家」の墓碑があり丸に一文字三ツ星紋であることから、打越氏(分家Ⅱ)の分家だと思われます。(小笠原氏と佐々木氏との間で姻戚関係を結んだ際に小笠原氏の家紋が譲与されたものと思われる墓碑岩手県盛岡市大慈寺町の祇陀寺)、男子を婿養子に入れる際に家紋を譲与するパターン) 打越氏(分家Ⅱ)の墓碑(丸に隅立て四ツ目結紋) 打越氏(分家Ⅱ)の墓碑(丸に隅立て四ツ目結紋)
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①教住寺(茨城県笠間市住吉1183
②龍隠院(茨城県笠間市平町253
教住寺(時宗信州善光寺会)/初代の常陸国守護職であった八田知家(小田氏の祖)の菩提寺  打越氏(系流不明)の墓碑(丸に梅鉢紋)/境内には武田氏の墓碑小笠原氏の墓碑もあります。 龍穏院(曹洞宗出羽国から常陸国に国替えになった秋田実季が建立。 打越氏(系流不明)の墓碑(丸に梅鉢紋)  
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堂山共同墓地(茨城県ひたちなか市中根字堂山1439
堂山共同墓地/堂山共同墓地は、出羽国由利郡から(かつて打越氏の祖・楠木正家が楠木正成の地頭代として守備した)常陸国那珂郡へ移り住み、江戸(但馬守)道勝に仕官した館(立)山城主・打越伊賀守の三男の末裔と思われる墓が安置されています。 堂山共同墓地/堂山共同墓地には、1864年(元治元年)の元治甲子の変で幕府軍・諸生党(保守派)の援軍・福島藩士の墓が安置されています。 堂山共同墓地 堂山共同墓地 堂山共同墓地 
堂山共同墓地 堂山共同墓地 堂山共同墓地 堂山共同墓地 堂山共同墓地
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華蔵院茨城県ひたちなか市栄町1-1-33
薬王院茨城県水戸市元吉田町682
華蔵院/全国で色々な打越氏の墓を見てきましたが、打越氏一門で最大級の墓華蔵院は、応永年間(1394~1428)に開基された真言宗智山派名刹で、境内からは那珂川の河口・那珂湊を一望 華蔵院 華蔵院 華蔵院 華蔵院
華蔵院 華蔵院/墓じまい? 華蔵院梵鐘/楠木正家が北朝方に敗れた瓜連城の戦いがあった3年後の1339年(延元3年)に制作された梵鐘で、鐘の銘文に源(佐竹)義長の名前が彫られています。なお、華蔵院には化け猫伝承があり、山門には猫瓦があります。 薬王院仁王門薬王院本堂は、1529年(享禄2年)に江戸(但馬守)通泰が建立。

薬王院
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祇園寺(茨城県水戸市八幡町11−69
祇園寺(曹洞宗徳川光圀が中国から心越禅師を招いて建立。境内には武田氏の墓碑小笠原氏の墓碑鈴木氏の墓碑雑賀衆鈴木氏)や菊池氏の墓碑(姻戚関係があります。)があります。 打越氏(分家Ⅱ)の墓碑(丸に一文字三ツ星紋) 打越氏(系流不詳)の墓碑(丸に剣梅鉢紋) 諸生党慰霊碑/元治甲子之変で佐幕派として戦った諸生党の慰霊碑で、境内には諸生党の代表者である市川三左衛門の墓碑もあります。  
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常盤共有墓地(茨城県水戸市松本町13−34
常盤共有墓地徳川光圀水戸藩士のために常盤共有墓地と酒門共有墓地(彰考館総裁・打越(樸齋)直正の墓がある)を解説しています。 常盤共有墓地/彰考館総裁・安積(澹泊)覚兵衛覚の墓で、水戸黄門の格さんのモデルになっています。なお、彰考館総裁・打越(樸齋)直正の同僚(先輩)です。 常盤共有墓地水戸藩儒学者藤田幽谷(父)、藤田東湖(子)の墓です。彰考館総裁・打越(樸齋)直正は藤田幽谷から高い評価を得ています。 常盤共有墓地藤田東湖の息子・藤田小四郎は筑波山で蜂起し、明治維新の端緒となった元治甲子之変を主導しています。 常盤共有墓地桜田門外の変を指揮した水戸藩士・関鉄之介の墓です。映画「桜田門外ノ変」では、大沢たかおさんが演じる主人公です。
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宗吾霊堂墓苑(千葉県成田市宗吾1-523-2
       
宗吾霊堂墓苑/丸に右違い鷹の羽紋。歌舞伎の人気演目「佐倉義民伝」の主人公・佐倉惣五郎(本名:木内宗吾)を祀る宗吾霊堂がある東勝寺墓地に安置されています。谷田部氏常陸国那珂郡三反田郷の隣接地を支配していた武家であり、何らかの関係がありそうなので打越氏(内越氏)(分家Ⅱ)の末裔ではないかと思われます。        
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第2節 その他(中央にある打越氏の墓碑)
真光寺(和歌山県和歌山市打越町1−38
真光寺(浄土真宗本願寺派楠木正成の甥で楠木正行や楠木正家らと共に四条畷の戦いで討死した和田賢秀が1336年(延元元年)に和泉国日野郡に開基し、後醍醐天皇の勅願所となった由緒ある真言宗「嘉祥寺」を移設、再興して、その後に浄土真宗に改宗して1464年(寛正5年)に蓮如上人によって寺号を「真光寺」と改められています。 真光寺(浄土真宗本願寺派/打越氏(本家Ⅱ)の発祥地である紀伊国海部郡宇須邑字打越にあります。 打越氏(本家Ⅱ)の墓碑(丸に木瓜紋/楠木氏と同族の河内和田氏の替紋と同紋。 打越氏(本家Ⅱ)の墓碑(丸に木瓜紋/楠木氏と同族の河内和田氏の替紋と同紋。 打越氏(分家Ⅹ)の墓碑(丸に中陰蔦紋)/打越氏と雑賀氏は姻戚関係を結んでいますが、雑賀氏の家紋「丸に蔦紋」の譲与紋と思われる「丸に中陰蔦紋」です。 
千光寺(和歌山県田辺市上秋津4514
千光寺(臨済宗妙心寺派紀州藩士・打越十左衛門の弟とその子が出家した寺。 打越氏(分家Ⅺ)の墓碑(丸に五本骨扇紋) 打越氏(分家Ⅺ)の墓碑(丸に五本骨扇紋)  佐武氏の墓碑(丸に五本骨扇紋)/打越氏(分家Ⅺ)と姻戚関係にあると思われる常陸源氏佐竹氏流佐武氏の墓碑。 楠木氏の墓碑(丸に五三桐紋)/境内には橘氏の墓碑(橘紋)や愛洲氏の墓碑(橘紋)が安置されています。
下菟野墓地(和歌山県田辺市伏菟野110
下兎野墓地(寺名・宗派は不明)雑賀衆・佐武(伊賀守)義昌(常陸国佐竹氏8代当主の佐竹貞義の庶子、佐竹師義が足利将軍家に仕えて栄えた庶流で、1570年(元亀元年)に軍功を挙げて足利義昭から「佐武」の姓を賜り佐竹から佐武へ改称)と姻戚関係を結んで佐武氏の「丸に日の丸扇紋」又は「丸に五本骨扇紋」を使用したと思われます。 打越氏(分家Ⅹ)の墓碑(丸に日の丸扇紋) 打越氏(分家Ⅹ)の墓碑(丸に日の丸扇紋) 打越氏(分家Ⅹ)の墓碑(丸に日の丸扇紋) 打越氏(分家Ⅹ)の墓碑(丸に五本骨扇紋)  
安楽寺和歌山県和歌山市磯の浦27
②安養寺(浄土宗和歌山県和歌山市禰宜198
安楽寺浄土真宗 打越氏(分家Ⅺ)の墓碑(丸に五本骨扇紋) 打越氏(分家Ⅺ)の墓碑(丸に五本骨扇紋) 安養寺(浄土宗) 打越氏(本家Ⅱ)の墓碑(橘紋)
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①聞光寺(和歌山県和歌山市禰宜198
②光恩寺(和歌山県和歌山市大垣内663
聞光寺(浄土宗) 打越氏(系流不明)の墓碑(丸に三つ柏紋)/打越氏と姻戚関係にあった雑賀衆及び根来寺と同紋。 光恩寺(浄土宗)根来衆雑賀衆へ初めて鉄砲を伝えた津田監物の子・津田算正が開基した寺。境内には徳川家康の三女・振姫の墓碑があります。 湯川氏の墓碑(割菱紋)甲斐源氏紀州武田氏湯川氏の菩提寺。打越氏が紀州藩に提出した系譜には光恩寺のある大垣内の堤防が紀の川の氾濫で決壊して4種類の系譜が流されたとあり、打越氏(本家Ⅱ)の居住地も大垣内にあった可能性があります。 津田氏の墓碑(五木瓜紋/津田算正は楠木正儀の末裔。
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①清蔵寺(和歌山県新宮市熊野川町西137
②椋井墓地(和歌山県新宮市熊野川町椋井65
③相賀墓地(和歌山県新宮市相賀436
清蔵寺(臨済宗妙心寺派 打越氏(分家Ⅺ)の墓碑(丸に五本骨扇紋) 打越氏(系流不明)の墓碑(五三桐紋)/皇室は菊紋と五七桐紋を伝統的に使用してきましたが、武家政権へ大政委任するにあたって五三桐紋を武家に下賜されることがありました。因みに、熊野速玉大社は神紋として皇室と同じく五七桐紋を使用しています。 打越氏(系流不明)の墓碑(五三桐紋) 打越氏(系流不明)の墓碑(下り藤紋)/初代熊野別当藤原氏と同紋。相賀の荒ぶる山の神(山崩れ)に自然信仰の原点が伺えます。
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西明寺兵庫県淡路市生穂2383
西明寺真言宗西明寺の隣には八咫烏を神紋とする賀茂神社があり、打越氏(系流不明)氏神になっています。 打越氏(系流不明)の墓碑(丸に梅鉢紋)雑賀衆は水軍を持ち、頻繁に阿波や淡路を往来していたので、雑賀衆・打越氏の庶流である可能性があります。 打越氏(系流不明)の墓碑(丸に梅鉢紋)  打越氏(系流不明)の墓碑(丸に梅鉢紋)  打越氏(系流不明)の墓碑(丸に片喰紋 
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正久寺(兵庫県淡路市佐野1322-3
正久寺(真言宗 打越氏(系流不明)の墓碑(丸に梅鉢紋)/境内には茨城県にも分布していた梅原氏(丸に抱き茗荷紋)の墓があります。なお、茨城県ひたちなか市釈迦町にいた打越清左衛門の別家として梅原(打越)覚兵衛がいました(「那珂港名所圖画全」より)。      
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西方寺(奈良県宇陀市榛原山辺三496
 
西方寺(融通念仏宗派)/西方寺がある大和国宇陀郡は宇陀三将と呼ばれる南朝方の武将・秋山氏、沢氏及び芳野氏が支配した土地で、楠木正成の本領である河内国楠木正成の妹を嫁がせた服部家がある伊賀国を結ぶ初瀬街道の中間に位置。境内には小笠原氏の墓碑もあります。 打越氏(系流不明)の墓碑(丸に上がり藤に左違い鷹羽紋)/本紋は丸に左違い鷹羽紋で、上がり藤は他氏との婚姻関係による替紋と思われます。 打越氏(系流不明)の墓碑(丸に上がり藤に左違い鷹羽紋) 打越氏(系流不明)の墓碑(丸に左違い鷹羽紋  打越氏(系流不明)の墓碑(丸に左違い鷹羽紋 
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①立政寺(岐阜県岐阜市西荘3丁目7−11
②東鏡島霊園(岐阜県岐阜市鏡島中1-10−52
③西鏡島霊園(岐阜県岐阜市鏡島西1-13−9
④安祥院(岐阜県岐阜市西荘3丁目7−11
打越氏(系流不明)の墓碑(五七桐紋)美濃源氏打越氏の家紋は剣片喰、丸に右三つ巴、三連銭などなので、美濃源氏の末裔の方なのかは不明です。 楠氏の墓(菊水紋)/立政寺の周辺には楠氏の末裔の方と思しき墓も安置されています。 名和氏の墓(帆掛船紋)/立政寺の周辺には名和氏の末裔の方と思しき墓も安置されています。 長井氏の墓(一文字三ツ星紋)出羽国置賜郡長井荘を発祥とする大江氏流長井氏の後裔で、美濃守護代斎藤氏に仕えます。  
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大島町墓地(石川県小松市大島町ラ178
②勝光寺(打越勝光城跡)(石川県加賀市打越町ト21
打越氏(美濃源氏流打越氏?)の墓碑(丸に蔦紋)大島町墓地には、複数の打越氏の墓(丸に蔦紋)と共に、複数の木田氏の墓(丸に桔梗紋)が安置されています。この点、丸に蔦紋は木田氏の替紋でもあることから、この地域に分布している打越氏(丸に蔦紋)は美濃源氏流打越氏の後裔である可能性があります。 打越氏(美濃源氏流打越氏?)の墓碑(丸に蔦紋) 打越氏(美濃源氏流打越氏?)の墓碑(丸に蔦紋) 木田氏の墓大島町墓地には、複数の打越氏の墓(丸に蔦紋)と共に、複数の木田氏の墓(丸に桔梗紋)が安置されています。 勝光寺(打越勝光城跡)/越前一向宗の拠点であったところですが、この近隣にある菅原神社由緒書きには1548年(天文17年)の天文日記に初めて打越の地名が登場しているとのことであり、既にこの地域には1491年(延徳2年)、加賀国金津荘与知村を支配していた土豪として打越新兵衛の名前がありますので、この地は打越氏の発祥とは関係ありません。
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弘願寺(石川県鹿島郡中能登町羽坂4-24乙
弘願寺(浄土真宗本願寺派)/能登国鹿島郡の半分(3万3000石)を支配する加賀藩重臣(半大名的な身分)の長氏が1666年(寛文6年)に実施した検地担当者として打越半右衛門の名前が残されており長氏の家臣。 打越氏(系流不詳)の墓碑(丸に蔦紋) 打越氏(系流不詳)の墓碑(丸に蔦紋) 打越氏(系流不詳)の墓碑(丸に蔦紋) 打越氏(系流不詳)の墓碑(丸に蔦紋)
打越氏(系流不詳)の墓碑(丸に蔦紋) 打越氏(系流不詳)の墓碑(丸に蔦紋) 打越氏(系流不詳)の墓碑(丸に蔦紋) 打越氏(系流不詳)の墓碑(丸に蔦紋) 打越氏(系流不詳)の墓碑(丸に蔦紋)
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①超専寺(広島県広島市中区寺町6−11
原爆ドーム広島県広島市中区大手町1−10
郡山城跡(広島県安芸高田市吉田町吉田郡山
超専寺/丸に橘紋。映画「仁義なき戦い」の登場人物のモデルになった人の墓です。劇映画として面白くするために、かなりデフォルメした描き方がされていますので実像とは乖離しています。1967年に引退し、実業家として成功しています。墓碑銘は、当時の大蔵大臣・佐藤栄作の揮毫です。 超専寺/丸に橘紋。社交的でビジネスセンスのある人だったそうで、紙屋町タクシー(広島県広島市中区本通)という会社を経営されていたそうです。中央政界とのパイプも太く、広島カープの後援会(鯉城後援会)を作った人としても知られています。 超専寺/丸に橘紋。どの系流なのかは不明ですが、紀州征伐で雑賀衆が淡路、土佐、中国地方や九州地方へ遁れたと言われていますので、その末裔である可能性があります。 原爆ドーム/戦後日本は統治機構がマヒしていたことから、ヤクザが社会秩序の維持に一定の役割を果たしていたと言われています。やがて戦後復興で経済が成長し、統治機能が回復すると、徐々にヤクザは社会から排除されるようになります。 郡山城毛利元就が居城とした郡山城跡です。毛利元就毛利隆元ほか、毛利一族の墓が安置されています。なお、境内には、毛利元就吉田郡山城を拡張する際に人柱の代わりに使用した石碑に書かれた言葉「百万一心」の碑があります。
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第3節 その他(西国にある打越氏の墓碑)
唐津墓地(佐賀県唐津市鎮西町名護屋4751
水窪墓地公園(鹿児島県曽於市末吉町南之郷250-3
③唐湊市営墓地(鹿児島県鹿児島市唐湊1-35
④市営郡元墓地(鹿児島県鹿児島市唐湊1-35
打越氏(系流不明)の墓碑(丸に剣片喰紋/同じ墓地内に酒井氏の墓碑(片喰紋)があり、酒井氏からの譲与紋である可能性があります。なお、肥前に分布している酒井氏は清和源氏新田氏流得川(松平)親氏を祖とし(徳川(松平)氏とは同祖同根)(都道府県別姓氏家紋大辞典西日本編)、1359年(延文4年)に南朝方の菊池武光を頼って下向した新田氏流が酒井宿禰の後裔と姻戚関係を結んで生まれた系流があります(「姓氏家系大辞典」より)。また、同じく清和源氏新田氏流得川(松平)親氏を祖とし、徳川将軍家の御書院番として仕えた酒井重政(剣片喰紋)は同じく御書院番・打越光業の五男を娘の婿養子に迎えて姻戚関係を結んでいます(「新訂寛政重修諸家譜第2巻第69」より)。因みに、文禄の役肥前名護屋に出陣した真田昌幸の陣屋跡に真田幸村の供養塔のほか誰のものか分からない墓標(五輪塔)が数基と盛土が安置されています。場合によると、そのうち1つは小田原城攻めで真田昌幸と同陣し肥前名護屋で病没した打越光重の墓標である可能性があります。
打越氏(系流不明)の墓碑(丸に四方木瓜紋/熊野国造和田氏を先祖とする河内和田氏と同紋。 打越氏(系流不明)の墓碑(丸に木瓜紋/熊野国造和田氏を先祖とする河内和田氏と同紋。 楠木氏の墓碑(丸に橘紋)/関西(河内国紀伊国伊勢国等)から薩摩国へ入部してきた可能性も考えられます。 和田氏の墓碑(菊水紋)/関西(河内国紀伊国等)から薩摩国へ入部してきた可能性も考えられます。
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①浜田町墓地(鹿児島県鹿屋市浜田町24
②吉利墓地(鹿児島県日置市日吉町吉利3000
③漆墓地(鹿児島県姶良市蒲生町漆1673
打越氏(系流不明)の墓碑(丸に四方花菱紋 打越氏(系流不明)の墓碑(丸に四方剣花菱紋 打越氏(系流不明)の墓碑(丸に四方剣花菱紋 打越氏(系流不明)の墓碑(丸に橘紋)/初代・吉利村長を務められていますので、薩摩国吉利郷を領有していた薩摩藩島津家の重臣・禰寝(根占)家(別称・小松家で、薩摩藩家老・小松帯刀を輩出)の家臣(分家Ⅻ)であった家ではないかと思われます。なお、打越氏(本家Ⅱ)と同紋ですが、薩摩商いで紀州国から薩摩国へ入部してきた可能性も考えられます。 打越氏(系流不明)の墓碑(丸に橘紋)/同左。なお、打越氏(本家Ⅱ)と同紋ですが、薩摩商いで紀州国から薩摩国へ入部してきた可能性も考えられます。
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①坂元墓地(鹿児島県鹿児島市坂元町19
②根占墓地(鹿児島県南大隅町根占横別府2678
打越氏の墓碑(下がり藤紋)紀伊国熊野別当藤原氏と同紋の下がり藤紋を使用する打越氏が分布しており、紀伊国から薩摩国へ入部してきた可能性も考えられます。 和田氏の墓碑(丸に橘紋)/熊野国造和田氏を先祖とする河内和田氏の末裔か。 橘氏の墓碑(丸に橘紋)醍醐天皇の御代に牟婁郡大領(従五位下右衛門尉)熊野広方(橘広方)が橘姓に改姓し、その曾孫・橘良冬(和田良冬)が和田庄司を称して熊野国造和田氏の祖となっています。 紀氏の墓碑(八重菊紋)/第二次紀州征伐では紀氏は雑賀衆及び根来衆と共に共闘していますが、その後、紀伊国から薩摩国へ入部してきた可能性が考えられます。 打越氏(系流不明)の墓碑(丸に桔梗紋)/近隣の浄光寺(浄土真宗東本願寺派)鹿児島県南大隅町根占川南3674)の檀家として複数名の打越氏の名前があります。浄土真宗一向宗)を中心に構成されていた雑賀衆紀伊国から薩摩国へ入部した痕跡があり(熊野(雑賀)水軍による薩摩商いは山川湊を拠点としており)、その末裔の可能性も考えられます。
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①小田墓地公苑(鹿児島県指宿市十二町2630
②鯛名墓地(宮崎県延岡市鯛名町242-1
打越氏の墓碑(丸に左違い鷹羽紋)紀州徳川家に仕官していた打越氏(本家Ⅱ)の庶流が千光寺に出家しており、その寺紋が丸に左違い鷹の羽紋です。 根来氏の墓碑/鹿児島県指宿市種子島と隣接しており、また、雑賀衆が大陸との交易を行う薩摩商いの拠点でもあったことから、雑賀衆根来衆が最新式の鉄砲の調達と大陸交易のために薩摩国へ入部していたことと考えられます(例えば、薩摩藩島津家の分家・伊集院忠真の客将で根来寺の僧・白石永仙が有名)。 開聞岳/指宿は佐賀の乱後藤新平が逗留中の西郷隆盛を訪ねた鰻温泉、天璋院篤姫の出身地や竜宮伝説の舞台になった竜宮神社をはじめとした風光明媚な観光名所です。 内越氏(系流不明)の墓碑(丸に三引両紋) 甲斐氏の墓碑(左違い鷹羽紋)肥後国菊池氏の庶流
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①高須墓園(鹿児島県鹿屋市高須町1250
②桂霊園(鹿児島県曽於市大隅町中之内4595
打越氏の墓碑(姻戚関係を契機した替紋)/この墓の墓誌を見ると、打越氏と他氏が姻戚関係を結ぶにあたり、他氏の家紋である「丸に蔦紋」が譲与されたものと思われます(譲与紋)。姻戚関係の1類型:A家(A家名、A家紋)+B家(B家名、B家紋)=A家(A家名+B家紋)。 打越氏の墓碑(姻戚関係を契機した替紋)/この墓の墓誌を見ると、打越氏と他氏(鉄山師として製鉄技術を持ち種子島で鉄砲製造を指導したことがある薩摩藩家臣の系流)が姻戚関係を結ぶにあたり、他氏の家紋である「丸に梅花紋」が譲与され、その譲与紋と打越氏の本紋である「松皮菱紋」を合せた「隅立て八角に梅花紋」(更に、その分家が本家の替紋「組み合わせ角に星梅鉢紋」)が作られたものと思われます。和歌山県の真光寺にも打越氏と他氏が姻戚関係に結ぶにあたり、他氏の譲与紋から替紋が作られたものと思われる例があります。 日本一大きい西郷隆盛像(鹿児島空港前)西郷隆盛南朝の忠臣、肥後国を中心に九州で勢力を持っていた菊池氏の末裔ですが、北朝が優勢になると菊池氏は東国へ落ち延びます。打越氏(分家Ⅱ)は、南朝の忠臣、那珂氏の末裔である常陸江戸氏に仕官していた菊地氏の末裔と姻戚関係を結んでいます。鹿児島には薩摩藩の居城・鶴丸城、私学校の西南戦争銃弾跡西郷隆盛西南戦争で立て籠もった城山洞窟、城山洞窟から私学校へ下る途中にある西郷隆盛終焉の地南洲神社にある西郷隆盛の墓西郷隆盛生誕地(近所には東郷平八郎生誕地等もあり)や白洲正子さんの祖父・樺山資紀邸跡キリスト教を伝来したフランシスコザビエル上陸地、鉄砲が伝来した種子島など日本史上の重要な出来事に関係する場所が数多くあります。 桜島(鹿児島名物の火山灰)/桜島という名称は、968年(安和元年)に大隅守に就任した桜島(櫻嶋)忠信の名前に由来し、その娘が大江広元の先祖である大江惟時の子に嫁いでいます。因みに、源頼朝の墓には彼の側近であった大江広元の墓と島津忠久の墓が安置されています。島津氏は薩摩国及び大隅国の守護に任じられ、その後、蒙古襲来を契機として九州に土着し、明治維新まで同地を支配することになります。 坂本龍馬とお龍の新婚旅行碑/1866年に寺田屋事件で負傷した坂本龍馬西郷隆盛らの勧めによって鹿児島空港の近くにある塩浸温泉で湯治を進められたことから、坂本龍馬が新婚のお龍を伴って訪れており、これが日本最初の新婚旅行と言われています。坂本龍馬が実際に浸かった湯舟坂本龍馬が愛用したブーツ拳銃を充実に再現したレプリカ等が展示されています。
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あとがき

  打越氏(内越氏)の家譜を調査することは生涯に一度は取り組みたいと考えていた人生のミッションであり、死の床にあって後悔しないだけのことは尽くしておきたいという気持ちで取り組んできました。しかし、打越氏(内越氏)のようなマイナーな氏族に関する古文書等はごく僅か断片的にしか残されておらず、調査するほど「良く分からない」ということが分かってくるだけで、歴史ロマンを逞しくしなければ家譜と呼べるようなものをまとめることは至難であり、ましてや専門家の批判に耐えるような完成度の高いものを執筆することは望むべくもありません。だからこそ、打越氏(内越氏)に関する古文書や歴史的な事跡などが散逸し歴史の闇に葬られてしまう前に可能な限りこのWEBにまとめると共に、このWEBの内容を書籍にして国立国会図書館、打越氏(内越氏)と所縁のある地方自治体や大学の図書館等に献本することで、打越氏(内越氏)の事績を半永久的に保存し、顕彰したいと考えています。
 今後も、時間と気力が許す限り打越氏(内越氏)の家譜に関する調査を続けて行くつもりですが、著者一人の力では歴史の真実に迫ることが困難な問題も多く、また、調査の過程やそれに基づく推論等に致命的な誤りが含まれていることも十分に考えられますので、可能な限り出典根拠を示して批判可能性を担保し、後日の検証が容易となるように努めました。打越氏(内越氏)の祖先に関する情報は未だ人知れず埋もれている手応えもありますので、将来、このWEBが打越氏(内越氏)の家譜に興味を持ち調査してみたいと考えた打越氏の末裔や好事家の皆様の多少の手掛り(但し、諸兄姉に誤った先入観を与えてミスリードを誘発するものではなく、賢明な諸兄姉による歴史の真実に迫る批判的な態度に基づく検証の叩き台となり得るもの)になれば、著者にとって望外の喜びです。
 日本人は祖先信仰等を通じて社会のモラルシステムを構築してきましたが、今回、打越氏(内越氏)の家譜を調査してみて、打越氏(内越氏)の祖先がそれぞれの時代にそれぞれの立場で歴史の大きな事件に関係し、その荒波に揉まれながら幾多の困難を乗り越えて営々と受け継がれてきた血脈の上に自分が存在していることの重みを痛感すると共に、打越氏(内越氏)の祖先がそれぞれの人生の転換点で信念を貫いて誇り高く生き抜いてきたその生き様に触れるにつけて、果たして、自分はそれらの祖先に恥じない生き方ができているのだろうかと背筋を正される思いがします。今回の調査で打越氏(内越氏)の末裔の皆様が熊野川舟下りの船頭、力士、空手家、ボクサー、プロ野球選手、陸上選手、サッカー選手、演出家、女優、モデル、歌手、ダンサー、アナウンサー、声楽家、指揮者、三味線職人、陶芸家、書道家、作家、蒐書家、競艇選手、競走馬の調教師、大学教授、教師、研究者、神職、政治家、医師、看護師、農家、自営業者、実業家など実に多方面で活躍されている姿に接することができました。高齢化社会とそれに伴う人口減少を迎えて衰退して行く氏族が多いなかで、今後も打越氏(内越氏)の誇り高い血脈が絶えることなくその子孫が益々繁栄するように打越氏(内越氏)の若い世代の活躍に期待したいですし、陰ながらエールを送りたいという思いを強くしています。
 最後に、全ての打越氏(内越氏)の祖先を偲び、その事績を讃えるためにこのWEBを公開し、打越氏(内越氏)の祖先及びその末裔の皆様に対して心からの感謝と敬意を込めてこのWEBを捧げます。なお、このWEBは、電子書籍BOOK☆WALKERGoogle Play ブックス)でも頒布しておりますので、ご利用下さい。
 

2018年10月2日

後醍醐天皇即位700年、北畠顕家生誕700年、明治維新150年、そして小職生誕50年を記念して

打越 武志(楠木同族会会員

 
【補遺】このWEBは、小職が個人的な歴史認識に基づいて執筆したものであり、その全部又は一部が楠木同族会としての見解を示すものではなく、楠木同族会とは一切の関係がないことをお断りさせて頂きます。 
 

巻末 家系図

図表7:小笠原氏流打越氏(内越氏)本家Ⅰの家系図

 

付録 図表7-①
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付録 図表7-②
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付録 図表7-③
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付録 図表7-④
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図表8:於曾氏流打越氏(内越氏)本家Ⅰの家系図

 

付録 図表8
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図表9:楠木氏流打越氏(内越氏)分家Ⅰの家系図

 

付録 図表9-①
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付録 図表9-②
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付録 図表9-③
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図表10:源姓・打越氏 分家Ⅲの家系図

 

付録 図表10
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図表11:源姓・打越氏 本家Ⅱの家系図

 

付録 図表11
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図表12:美濃源氏流・打越氏の家系図

 

付録 図表12-①
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付録 図表12-②
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